衣笠城址 3 大善寺ルート

二回目の衣笠城址訪問は、猛暑の夏の大善寺側のルートからでした。

横浜横須賀道路の衣笠ICを出ると、『衣笠城址』の交差点があります。
城址のヒントはそれだけのように思えます。
どう行ったらいいのだろう。

手持ちの地図で、大善寺のあるほうを目指します。

ここ数年で、いろいろ道路が開けたりで、古い地図は微妙に違っていたりするようです。
住宅地の中のきつい坂を上ります。

この坂は本当にきつく、ダイエット中のワタシは数回休みました。
畑があったりしたのですが、猛暑のせいか、景色の記憶はほとんど残りませんでした。
前回の裏側ルートのほうが楽だったかも・・。

案内板
大善寺と不動井戸
 この寺は、曹洞宗に属し、「金峯山不動院大善寺」と称します。
 天平元年(七二八)、諸国行脚中の僧行基が、この山に金峯蔵王権現と、自ら彫刻した不動明王を祭り、その別当として建てられたのが大善寺であるといわれています。そのときおはらいをする水に困った行基が、杖で岩を打つと清水がわき出ました。その場所が、このコンクリートで囲まれた井戸の辺りであると伝えられています。
 康平六年(一〇六三)、前九年の役の戦功により、三浦の地を与えられた平大夫為通は、三浦の姓を名のり、この山のほぼ全域を城としました。それが衣笠城です。衣笠城は第七代泰村が、北条時頼との勢力争いに破れ、一族五百余人と鎌倉の法華堂で宝治元年(一二四七)に討ち死にするまでの約百八十四年間、三浦一族の本城でした。
 大善寺蔵王権現、不動堂は、衣笠城の中にあって、三浦一族の学問や仏教信仰の中心的な役割を果たしました。とくに不動尊は、第二代為継が後三年の役に出陣したとき、戦場に現れ、敵の射かける矢を打ち払って、為継を守ったと伝えられています。「矢取不動」の名称は、その伝説によります。また、行基によって開かれた泉は衣笠城の重要な生活用水でした。いつの頃からか、「不動尊御手洗池」通称、「不動井戸」と呼ばれるようになりました。
 現在、蔵王権現社も不動堂も残っていませんが、不動明王像は、大善寺に本尊として祭られています。今ある大善寺は、明治二十九年に全焼した堂宇を昭和十年に再建したものです。

横須賀市


なんとか大善寺にたどりつくと、石段が待っていました。
ここもなんとかクリアーし、本堂の前にたどり着きました。

本堂に向かって左側に、城址に向かう坂道がありました。

ここは木が茂っていて、直射日光の攻撃は避けられます。
なんとか上りきると、衣笠城址と書いてある木柱があります。

さて、衣笠城址となっている広場ですが、思っていたよりは広くありません。
どんなつくりのお城だったかわかりませんが、この広場だけがお城ではなく、
山全体がお城だったのでしょう。

築いたのは三浦為通
前九年の役での軍功から、源頼義から三浦の地を与えられ、康平年間(1058〜65年)に築いたとか。
彼が三浦一族の初代になるそうです。
この地で生まれ、この合戦で死んでいった三浦義明は四代目になります。
そして、この城は、義澄、義村、泰村と引き継がれていきます。
宝治合戦(1247年)で、三浦一族主流が滅亡して、廃城になったそうです。
200年弱の期間、この地を守ったことになります。