板前修業 その4
中学 高校の部活 一年生奴隷話みたいなことはTVでも、皆さんの酒飲み話でもよく話題になるかと思います。
三年生が神なのに対して、一年生がどれほど虐げられるか。話題は大概「俺たちがんばった」で帰結するのだと思います。
面白いのは、後になって思い出話になるのは、一年生の奴隷の話ばかりで、三年の神になってどれほど楽しい思いをしたかではありません。
同じ一年間でなのにね。
大変であったのは確かなのですが、長い人の一生のうちで一年というのはあっという間です。
同様に板前修業でも本当に下働きで辛い思いをするのは1−3年くらいで、4年目5年目に入れば、辛い思いからも抜け出せるのです。
とはいえ、1−3年の短い時間でも、同期のあいつよりも少しでも前に出たい、少しでも認められたいという気持ちでパンパンになってしまうのも、修業時代独特の思いなのです。
それはきっと会社勤めでも全く同じなんでしょうね。
良く言えば切磋琢磨、悪く言うと嫉妬と妬みが心に渦巻いてしまいます。
10年もして振り返ると、1−3年くらいの出世の差なんてものの数ではなくて、10年目20年目で差が出るのは、小さな努力をどこまで飽きずに続けられるかにかかってくるのですが、技術も知識も何も持っていない下積み時代ではそんな俯瞰で眺められるようなゆとりなど微塵もないのです。
料理人がどこまで成長できるのか?どこまでお客様に満足を与えられるようになるのか?は40年もやっているのに未だに未知数です。
少しだけわかったことと言えば、修業時代を真面目に過ごし、その後も努力を努力と感じない位に日常のものにした料理人は、必ずある程度のラインまでは到達できるのですが、そこから先の世界が見られるのは、神から与えられた感性を持った人間だけなのかもしれないということ。
どれほど真面目でもそこまで到達できるのはごくごく一握りの料理人だけなんですね。
板前修業 その3
どんな名人にだって初心者という期間が必ずあります。
ある程度の技術を身につけてしまってからの方が長いものですから、後に初心者の時期を振り返ると短いものだったと思えるのですが、真っ只中にいるときにはそれはもう、焦り、苦しみ、イライラして、未来の兆しが見えない日々に打ちのめされるのです。
そんなとき、「誰だって同じような時を過ごすもんだよ。10年もして振り返るとあっという間だったと思えるから焦らないで」
などと声をかけてくれる先輩 指導者がいれば心も安らぐというものですが、板前の世界では皆無でした。
「あほっ!」「ぼけっ!」「かすっ!」「できそこない!」と怒鳴られる日々が続くのです。
私など、それはもう、鈍くさくて手際は悪いし、手先は不器用、覚えは悪い、なのにプライドだけは高いというどうしようもない見習いでした。
関西では最初の見習いを「ぼんちゃん」と呼びます。
16歳 18歳くらいでしたらぼんちゃんも呼びやすいのですが、すでに22歳。
ひねたぼんちゃんは「大学出ていてこんなこともしらないのか!」と年下に怒られるのです。
仕事ができなくて怒られるのが癪に障るものですから、本で理論武装なんかして、反論しようものならさらに怒られるわけで、、、そんなこんなの理不尽な日々が一年を過ぎて、後輩が入ってくる頃になると調理場内の立ち回り方も身について、仕事は未だよたよたでもなんとかやっていけそうな気がしてきます。
本当に不思議なものです。
一年経つと自然と仕事がほんのちょっと身につき、二年目には調理場全体が見渡せるようになり、段取りを覚えます。
仕事ができなくても段取りがわかるようになると、少なくとも足手まといにはならなくなり、三年目に入れば任される仕事も出てきて自信が芽生えてきます。
しかし、これがくせ者で、三年目に必ず手痛い失敗をして伸びた鼻っ柱を折られるのです。
そして五年目くらいに職人の入り口に立てたような気がしました。あくまでそれが入り口です。
それから5年、10年目でやっと一通りの仕事ができるようになるのが日本料理の職人の通り道でした。
私はというとそれから10年後 20年経ってやっと「この道でやっていけるかも。。。」と思えたほどのろまでしたが、ある時期からは「能力のない人間は、ほんのちょっとした積み重ねを日々繰り返すことでしか成功は得られない」ということだけは理解していましたので、時間がかかることに焦りはありませんでした。
大阪でのぼんちゃんの時代に得たものと言えば、仕事のいろは。。。よりは掃除の仕方であったり、人との付き合い方であったり、段取りの組み方であったりという職人の下地を作ってもらった気がします。
振り返ると長い職人人生の内のほんの一瞬であったわけですし、その後にも山も谷もあったのですから、一番大変であったわけではないのに、やっぱりあの時期を経なければ今はないなと確信できるのですね。
修業時代のお話 その2
父と共に訪ねたのは、西宮甲陽園「播半」の調理長 久保のおやっさんです。
当時の播半は吉兆よりもさらに格式の高い関西屈指の名料亭でした。
古色蒼然とした調理場には40−50代の職人さんが半分以上、「この調理場には行ったら5年追い回しでもおかしくないかも」と思うほどベテランがそろっています。
が、幸いにしてと言うべきか、不幸にしてというべきか久保のおやっさん曰く「今、私ン処は手一杯なんですわぁ。兄弟弟子筋の店を紹介します」
と連れられたのは半年ほど前に他界された兄弟のように歩んだ西岡のおやっさんの一番弟子が調理長を務める店でした。関西料理人のビッグ2の直系を紹介していただくのですから、イヤも応もありません。
20人ほどが忙しそうに立ち回る調理場から私の職人人生の第一歩が始まりました。
仕事の前に身の回り品を置くために寮に連れて行かれました。
阪急東商店街を抜けた処にある倉庫のような建物、さらにその奥の二階に上がると6畳ほどの部屋が3つほどあり、二段ベッドがふたつづつ。
ベニア張りの部屋に窓は一つもなく真っ暗、個人のスペースは一畳ほどのベッドだけです。
私が幼い頃には、板前見習は住み込みが当たり前で、お客様がお帰りになった座敷に布団を引いて寝るのが普通であるくらいの職場がざらでしたから、ベッド一つでも恵まれていると思ってもおかしくはない世界です。
そのベッドと調理場を行き来するだけの生活が始まりました。
朝の出勤時間は9時半でしたが、何もできないぼんくらなのだから、せめて準備だけでもと、その調理場にいた四年間は人よりも30分一時間は早くでて先に段取りを整える毎日でした。
ランチ後に二時間ほどの休憩を挟んで夜は11時まで、急いで終わり間際の銭湯に駆け込み、バタリと寝るだけ。
これだけ働けば、他でもやっていけるはず。。。などと考えるほど仕事に追われる日々であったのですが、浜松に戻り、父が亡くなった後では、朝は7時半には仕入れ、夜は11時〜12時がすでに二十年以上なのですから、二十代よりも働いているというどうかしている仕事っぷりです。
カラダが慣れてしまっているとは言え、これくらい働かないと店を維持できないこの業界の体質を変えなくてはいけないんでしょうねぇ。。。
修業時代のお話 その1
これまで断片的に修業時代のお話をしたことはありますが、まとまったお話はなかったと思います。
老人が「昔はなぁぁ。。。」と始める自己肯定満載の問わず語りに面白いものは全くないわけですが、職人人生にいつピリオドを打ってもおかしくない歳になると、まとめて書いておかないと忘れてしまいそうなこともいっぱいあります。面白がってくださる方だけに読んでいただければよしとして書いてみようかと思います。
私が生まれた実家は祖父が大正末期に始めた料理屋です。
祖父は小学校に通いながら働き始めた料亭で修行し、20代前半にはすでに当時では珍しかった東京修業を経て仕出し料理店を始めました。父はというと、次男に産まれたにも関わらず、戦争で長男が戦死、継ぐつもりのなかった料理店を継がされ、山あり谷ありはありつつも店は続いたのです。
父は私に「長男は店を継ぐのが当たり前、かまどの灰までおまえのものもんだ」・・・などとは一言も言わなかったのですが、組織では働くことがとても無理そうだとすでに高校時代には観念して店を継ぐつもりでいました。
とは、かっこよく言い過ぎているかも。祖父 父が築いてくれた物質的精神的遺産な数々は、人生にとって大きなアドバンテージ、これを生かさない手はないな、と打算的に考えたというのが本音です。
たまたま勉強も死ぬほど嫌いではなかったものですから、大学まで行かせてもらい、卒業後修業に出ました。
父は戦後の混乱期が修業時代でしたので、祖父に教わるという形でしか学ぶ機会がなかったこともあり、さらに、同業者の後継者の様子も見つつ「他人の飯を食う」ことは絶対に必要だと考えたようです。
ただ、修業という名前の通り、同業 おぼっちゃん育ちの後継者達には、半年で逃げてきたとか、一年持たなかったなどという逸話がいくつもあり、おぼっちゃんの典型のような私に果たして務まるのか?父は母はハラハラしていたはずです。
当時は調理師学校に入学して就職先を選んでもらう道はまだなく、情報も限られていた上、考えていた関西方面に大きなコネクションもありませんでしたので、祖父の兄弟子(立派な料亭を営んでいました)に紹介してもらうという方法で修業先が決まりました。
とはいっても、事前に「修業先はこちら」「持って行くものは○○と○○」と事前に言われてはいませんでした。
どうやら紹介してくれるのは関西の偉い職人さんらしいということだけはわかっていたのですが、どこで修業するかは行ってみるまでわからない。とりあえずの身の回りのものをバッグに詰めて「さて、私はどこへ行くの?」と不安いっぱいで大阪行きの新幹線に乗ったのです。
ゼミ同級生は30人中29人が一部上場企業の研修が始まったいた頃、私は人買いに連れられていかれるような気分で大阪に向かいました。
マイナーを知れ
映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を観てきました。
素晴らしい映画です。
- Manchester by the Sea2016年|アメリカ|カラー|137分|画面比:1.85:1|映倫:G|MPAA: Rスタッフ脚本&監督:ケネス・ロナーガン製作:キンバリー・スチュワード、マット・デイモン、クリス・ムーア、ローレン・ベック、ケヴィン・J・ウォルシュ製作総指.. 続きを読む
- マンチェスター・バイ・ザ・シー www.manchesterbythesea.jp
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このアカデミー賞 主演男優賞 脚本賞の主要部門をダブル受賞した名作でも、田舎町では近隣三つあるシネコンのどこにもかからず、良作だけを扱う小劇場で上映されました。
この十年以上、シネコンでアカデミー賞受賞作品が上映されないのは普通のことになりました。
シネコンにかかるのはアイドル恋愛モノ 漫画原作モノ 不治の病お涙頂戴モノの日本映画。洋画はマーベル作品 マイケル・ベイ作品 なんて傾向が変わりません。
つまりお金を稼げる映画以外は見事に相手にされない傾向に拍車がかかっています。
実際「マンチェスター・バイ・ザ・シー」がアカデミー賞受賞作だとはいえ、小劇場に日曜日に集まっているのは40−50人な訳で、シネコンの良心にうったえても資本主義原理に立ち向かうのは無理であることが現実なのです。
話は変わります。(が、関連も少し)
前回の板前日記で 日本酒の紙パック市場の占有率は思った以上にすごいということを書きました。
日本酒の歴史を考えれば大手メーカーの役割は大きかったこと、実際の底力が凄いことなど、決して大手ブランドに批判的なことは書いてこなかったつもりでいました。
が、
実は紙パック酒の売れ筋を飲んだことがありませんでした。というか、大手のお酒を飲んだのはもう35年前のこと。知らなかったのです。
で
飲んでみました。
ひとつは最大手の一番の稼ぎ頭 「白鶴 まる」
もうひとつは「菊正宗 ピン」
驚いたのは菊正宗のピンは日本酒通の槍玉に挙げられる糖類 調味料の類いの添加はなく、米 米麹 醸造用アルコールだけで作られていることです。
精米歩合やアルコール添加の数値の記載はなく、本醸造と呼べる内容ではないのでしょうが、パック酒の実際を知る意味では大きな事柄です。
さらに味わいはというと、白鶴まるのほうはあくまで淡麗、酸が綺麗で飲み飽きしないタイプです。ぬる燗につけると少々感じた雑味も消え、食中に飽きずに飲み続けるお酒に仕上がっています。
菊正宗のピンは、アミノ酸度がより高く舌を引き締めてくれるような糀の香りとうま味があって、一般的にいわれる「辛口」というのはまさにこれ、というお酒です。
つまり2本ともちゃんと飲めるお酒なのです。
40年前にいやいや飲んだ燗酒とはまったくレベルが違います。しかも値段が恐ろしく安い。
あえてうがった見方をすれば、ブラインドで同レベルの価格帯の日本酒を並べれば、飲食店ランキングの投稿者が大好きなコスパの分野では「まる」などはぶっちぎりの一位になるでしょうし、辛口命の昭和系日本酒ファンは菊正宗ピンを一番にあげるのではないかと思うような味わいなのです。
少なくとも、「まる」が糖類 調味料を添加していることを味だけで見破れる素人はなかなかいないのではないかと思うほど上手にできているのです。
日常的に毎日心地よく酔うために日本酒がほしい消費者にとって、このコストと味のバランスは良くできていると言わざるをえません。
日本酒通はこれを聞いたら「なんたる暴言。プロがまがい物を認めるのか」と批判するでしょうが、日本酒を毎日飲む方の全員が「純米でなくてはならない」とか「糖類 調味料の入っている日本酒なんてゆるさん」と思っているわけではないのです。
私の周りにはナショナルブランド信奉者は皆無ですので、そのメンタリティーははっきりとはわかりませんが、毎日晩酌に飲むビールは発泡酒や第三のビールでも問題なしと思っている方がたくさんいるから売れているわけですし、ワインをポリフェノールのために飲んでいる方や、1000円前後のチリワインだって十分美味しい(たくさんいます)と思っている方がたくさんいる現実を踏まえれば、現在の大手紙パック酒の需要が料理酒だけではなく、台所に切らさずにおいてあって、レンジでチンして晩酌が日常的な方が一定数いることに何の疑問も感じないことが味を見ただけでわかりました。
つまり大手ナショナルブランドは庶民のニーズをしっかりとらえ、寄り添う値段と味を実現しているのだと思うのです。
だからこそ需要があり、事実売れているのです。
しかしながら、料理店の店主としてこの紙パック日本酒を使いたいかと問われれば、まっぴらごめんと言わざるを得ません。
料理店はハレの場所。ひとランクもふたランクも違うレベルのお酒を味わっていただく場所で、淡麗とか辛口だけがメインになる日本酒ではなくて、豊かな香り、味わいの奥行き、淡麗の後にある余韻、アミノ酸が行き渡った旨味の凝縮感 それらの豊かな個性が表れた極上でなければお客様にお出しできないのです。これらの個性までは残念ながら紙パック酒に全く感じませんでした。
翻って思いを巡らせてみました。
来店されるお客様、とくに50代以上の日本酒ファンの中に、「辛口ください」と言われて、店の中で一番淡麗であったり 逆に凝縮感があっても辛さを感じるお酒を出しても「甘い!こういうのじゃぁなくてもっと辛いの」という方がいます。かなりの確率で。
こういう「辛口辛口」を連呼する方の舌は、以前は新潟酒の淡麗に引き込まれてその舌ができあがっているのだと思っていたのですが、この辛口の舌は実はある時期からのナショナルブランドの辛口を飲み続けたことでできあがった舌なのではないかと、今回はっきり思ったのでした。事実、「辛口辛口」とおっしゃる方に八海山や〆張鶴をお出ししても8割の確率で「こういう甘いヤツじゃ、ダメ」と言われてきたのです。
こういう日本酒辛口ファンにはお米の旨味の凝縮感は舌に甘く感じるのでしょうね。
「マンチェスター・バイ・ザ・シー」がシネコンでかからないことを嘆く自称映画ファンと、大手ナショナルブランドが日本酒をだめにした。純米だけを作る蔵、吟醸大吟醸に意欲的な蔵だけを飲むべきと思う日本酒通ってある意味同じメンタリティなのではないかと思うのです。
同じ値段を出すなら国産軽自動車よりも中古の欧州車を選ぶ車ファン
革靴は国産のメーカーではなくて、少し高くても英国ブランド イタリアブランを長く履きたいと思うファッション好き
試供品でもらったボールペンで十分とおもう人と、書く道具としてのペンは選びたいと思う文具ファン
いいものを知ってしまい、その魅力にひきこまれて応援する分野を持つ方と、日常的に身の回りにあるモノはそれなりによければ十分と思う方。
各分野にどちらがマジョリティでどちらがマイノリティなのかは定かではありませんが、自分の好きなものがマジョリティであると信じ込みすぎない方がいいのではないか。。。なんて思ったりした紙パック酒試飲でした。
紙パック酒
紙パック2L 3Lのお酒の出荷率はどれくらいか、ご存じでしょうか?
2010年の調べでは市場全体の36%が紙パック酒なのだそうです。
「大手が日本酒をダメにした」「戦前は純米酒だけだったのに三増酒のおかげで日本酒が堕落した」とお嘆きの諸兄が聞いたら憤然となさるかもしれません。
36%もの紙パックのお酒は、日本人を舌をだまして儲けのために造られているわけではありません。
市場が欲しているから造られるのです。
ビールは麦とホップだけで造られるべきである!とどれだけ主張しても、実際に売れているのは発泡酒であり第三のビールであるように、「ホンモノを飲め!」と言われても、「俺たちこれでいいもん」という方々もたくさんいらっしゃるのです。
業界のど真ん中にいて、極上のお酒を飲まれる方々に日々接していると、36%という数字は私にも信じられませんが、理想と現実の差はこれなのです。
では、
本醸造 純米酒 吟醸酒 大吟醸酒 と区別される特定名称酒(大まかに言えば今人気の。。。と思われている上質なお酒)は清酒全体の何%くらい生産されていると思われるでしょう?
実はこれもおおよそ36%くらいと言われています。
つまり日本酒の6割から7割はいまだに普通酒(という区分は今はないのですが)なのです。
日本酒通が「ダメなお酒」と特定するお酒がこれだけ流通しています。というか、欲しがられているのです。
つい最近の米国の世論調査ではトランプ大統領の支持率は36%だとか、「あのトランプが!」と未だに信じられないような選択をした米国民は、半年経っても36%の国民が「トランプを応援しよう」と言っているわけです。36%あれば再選も可能なのだとか、私にしてみれば悪夢としか言いようがありませんが、国民の選択なのです。
全く同じパーセンテージで「あんなまずい酒を飲むなんて信じられない」と日本酒通が思うおうが支持はされている事実を直視しなければなりません。
反面、世の中には選んだいいお酒だけを扱っている酒販店も、特定銘柄酒だけを造っている蔵もたくさん存在しています。因みに静岡県ではほとんどの蔵が特定銘柄酒のみを生産しているのだとか(ちょっと誇り)
そして、世紀始まって以来今ほど上質な日本酒が造られている時代もありません。
本当に上質な日本酒を望んでいる方々は、他者を批判の目で見るよりも、いいお酒を造る蔵と、それを扱う酒販店 料理屋をたっぷりと応援することだけをしていきましょう。
人はいつもごく狭い自分の周りだけで世の中を理解し、狭い世界がすべてであるように錯覚してしまいます。
目を広げて隣を見ながらも、批判するよりは自分の幸せな部分をより広げる小さな努力をすべきなのかもしれませんね。