人は一人では生きていけないという話

GWも終盤にさしかかり、気分をリフレッシュさせる意味でも朝から区民プールで泳いできた。泳ぎながら、楽しかったこの5日間くらいに思いを巡らせていると、いろいろと思うところがあって数年ぶりにブログを書くことにする。水辺はアイデアが浮かびやすいというが、どうやら本当のことらしい。

このGWは、妻のお母さんの還暦祝いということで青森への3泊4日の旅行をプレゼント。自分の両親にすらまだ旅行をプレゼントしたことがないのに……という思いがなくもなかったが、節目の還暦だし、妻の母は僕の母でもあるので快くOKした。

しかし青森は良かった。かわいい方言あり、質の良い温泉あり、雄大な自然あり、美味しいご飯あり、名所あり、ステキなローカル線あり、あとかわいい方言もあったな。ホストの立場でありながら自分自身目一杯楽しんだ自信がある。ありがとう青森。(写真は津軽鉄道走れメロス」号)

いろんな魅力が詰まった青森だけど、この旅の大目的は『走れメロス』や『人間失格』などで有名な日本を代表する文学作家・太宰治の生家、斜陽館に行きたいというお母さんの希望を叶えることである。お母さんは国語の先生をしていることもあり、日本史や文学が大好きだ。太宰に導かれるように、『津軽』を案内書代わりに僕たちは青森に向かった。

津軽 (新潮文庫)

津軽 (新潮文庫)

五所川原、金木、芦野公園、竜飛岬、鰺ヶ沢……。「ここは本州の袋小路だ」と『津軽』に書かれた竜飛岬には、小説に度々登場したN君とともに太宰が宿泊した旅館があり、今では観光案内所になっていた。こんな風に、青森のそこかしこに太宰治の遺した言葉が今もなお刻まれている。ピース又吉さんのサインもいたるところでお目にかかり、本当に太宰が好きなんだなぁと感心した。(写真は本州の袋小路、龍飛崎にて)

今回の旅は、お母さんの要望を聞きつつ妻が旅のプランを立ててくれた。プロデュースドバイ母、プランデッドバイ妻、である。まるで太宰の足跡を辿るように、各地でお母さんの太宰解説が入った。妻にいたっては、宿の手配、訪れる場所のリサーチ、現地での電車の乗り継ぎ、タイムスケジュール、予算の算出など、事前準備の周到さには僕の中で定評がある。気がついたら、旅程はエクセルシートに綺麗にまとめられていた。僕はというと、コスト管理係であり、荷物持ちであり、レンタカーのドライバーである。

計画もそこそこに、成り行きで一人旅をするのが大好きな僕。今回の旅のように、大抵のことを人に委ねる旅は本来あまり好きではなかった。そこに自分の意志がないように思えたからだ。宮古島も、ペルーも、ジャマイカも、ニューヨークも、思うままに一人で旅をしてきた。しかし、今回の旅を通じてそれは間違いかもしれないと思うようになった。一人旅も、人と旅をするのも、「人に流される」という意味では本質的には同じだと感じたからだ。

よくよく考えると一人旅の道中でも「自分の意志でゼロから何かを組み立てることはしていない。現地の人と会い、その人から情報を仕入れ、次の目的地を目指す。自分が目指すべきところは、いつも人が導いてくれた。

今回の旅もそうだ。正直に言うと僕はこれまで純文学をそんなに読んでこなかったし、太宰にしても恥ずかしながら「すごくネガティブな有名人」というくらいにしか思っていなかった。太宰が好きなお母さんがいて、綿密な下調べのもとで旅行のプランを練ってくれる妻がいてくれたから、僕は今、太宰の『斜陽』を手に取っている。

斜陽

斜陽

人生という旅においても、そんなものかもしれない。自分一人では、何も決められない。31年生きてきたけど、確かにそうだ。僕にできることとしたら、出会った人や経験したことに対して何かを感じ取り、自分なりに解釈をすること。そしてその解釈に基づいて行動を起こすこと。これがなければ、僕が僕でなくなってしまう。

このブログも、僕の中で「今、最もアツい男」である望月さんに触発されて書き始めた。いろんな人からの刺激を受けながら、明日の仕事にそなえて今日の午後を楽しもうと思う。

お母さん、還暦おめでとうございます。(写真は旧渋沢栄一邸で、渋沢家とお母さん)

エンジニアtypeを卒業します。

僕が勝手にすごいなぁと思っている人が「IT業界の転職エントリー気持ち悪い」と書かれていて、まさに昨日の夜中書いていたのでうっかり消してしまおうかと思ってしまった。

でも、思い返すと「ブログを書く行為」自体が気持ち悪いことであり、それでも内から溢れ出る何かを表現したいがためにWebという大海原を冒険するのがわれわれ人間なんだ。もともとが気持ち悪いんだから仕方ない。つまり、自己満って大事ですよねと自分に言い聞かせている次第でございます。といっても、何から話せばいいのかよく分からず長くなってしまいそうな予感がプンプンしている。

7月31日付けを持ちまして、キャリアデザインセンターを退職させていただき、エンジニアtypeを卒業いたしました。そして今日、会社の皆さんに送別会を行なっていただき、「あぁ、本当に退職したんやなぁ」と実感し始めています。東証一部上場おめでとうございます。

ちなみに7月31日には、同期のみんなが派手に送ってくれました。君等がいたから僕もここまで頑張れたのは、言わずもがなです。

ということで、これまでかかわってくださった皆さまに感謝の気持ちを込めて、Web業界らしく「退職エントリ」を、備忘録的につらつらと書き連ねてみたいと思います。

コンプレックスしかなかった

僕のこれまでの社会人生を振り返ると、これに尽きます。「コピーライターになりたい」と強く思っていた学生の僕は、友人の影響でキャリアデザインセンターに入社しました。マス広告に未練のあった僕は新卒で契約社員。同期の皆がハイスピードで成長する中、志していた業界とのギャップを感じる僕はくすぶっていました。

でも、求人広告を作っていた当時は、自分に甘く努力はあまりしなかった。環境のせいにするのは簡単だけれども、「オレはまだ本気を出してないだけ」状態で、会社に言いたいことは言うものの、仕事の面で自分が胸を張って言えるくらいの努力はしてきませんでした。周りに対するコンプレックスだけでなく、そんな弱い自分に対するコンプレックスも強かったなぁと、今振り返ると思います。

「もう次の会社に行こうかなぁ」

僕の仕事人生を180度変えたのは、そんなことを思っていた矢先の、突然の異動でした。

死にたいと、少しだけ思ったエンジニアtype1年目


IT業界のめまぐるしい変化と発展を受けて、ソフト・ハードを問わずエンジニアのキャリアを考えるWebメディア『エンジニアtype』が創刊した2011年4月。ちょうど同じ時期に、僕はエンジニアtype編集部へ異動したのでした。自分の編集者のキャリアは、エンジニアtypeの成長とともにあると言っても過言ではありません。

しかし、正直ネットのことに興味も関心もなく、むしろアナログ人間だった僕は、本当に苦しみました。中にはご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、自分で初めて担当させていただいた特集記事のコラムで大炎上し、無知すぎて渋谷道玄坂に居を構える某Web企業のCTO取材で怒られたり、当時中学2年生だったスーパープログラマーからメールでありがたい言葉を頂戴し、さらには媒体存続の危機になりかねない事件まで巻き起こし…。波に乗りかけていたエンジニアtypeに水を差すかのように、ことごとく失敗しました。

一時期、WebとかITとかが真剣に嫌いになりました。クビになっててもおかしくないし、自分にはもう後がない。そんな思いで迎えた2年目は、自分で言うのもおこがましいけれど、ものすごく成長しました。何というか、悔しさをバネに、「今までクズやった自分を見返して、エンジニアtypeを誇れるメディアにしよう」と必死になったのです。

人間、追い詰められるとやるしかないと思えるらしく、それはもう、本当に頑張りました。いろいろなことも重なって、2011年4月の創刊から翌年3月までずっと目標達成できなかったエンジニアtypeが、2012年4月のリニューアルを機に、毎月目標を達成し続け始めました(今も続いています)。

達成が続くと、自分のやってきたことに対して自信がつき始めます。自信がつき始めると、自分とともに育ってきた媒体に対しても誇りや愛情が芽生えます。僕の社会人人生におけるコンプレックスが、昇華した瞬間でした。

感謝を述べようとしたら、涙が止まらない病気を何とかしたい

編集部でどんだけヘマをしても使い続けてくれた福井さん。後から立ち上がった姉妹サイトWomantypeを苦しみながらも大きくしていった岩河内さんと根本さん。メディアの成長とともに裏側で環境の整備をしてくださった鶴田さん。僕の退職にともなって移動してきた佐藤健太くん。同期のくせに兄貴ヅラしてた桜井。色んな人にささえられて、僕の今があります。本当に感謝しかありません。

そして最後に、健吾さん。編集者としてクソミソにもなり得なかった新人時代から、辛抱強く育ててくださいました。自分で考えた年末特集企画を、自分のせいで進捗が遅れていたにもかかわらず徹夜してくださって、しかも当の本人が先に寝てしまうという失態を犯しながらもまったく怒りませんでした。どんだけ生意気なことを言おうが、怒ることはありませんでした。マザーテレサですかあなたは。お陰で今、ふてぶてしくも素直に成長した僕がいます。ありがとうございます。

本来であれば、みなさんの目の前で直接お礼を言いたいのですが、感謝を伝えようとすると自動的に涙腺が緩んじゃうんですよね。くそ、ポンコツめ。だから、恐縮ながらもブログでお伝えいたします。

組織の人間というより、個人名で勝負したい

今は、縁あってコルクという、作家さんやマンガ家さんの編集エージェント会社さんに自ら志願してインターンをさせてもらっているのですが、無茶苦茶楽しくやっています。色々と、喜んで雑用をやりながらも、マンガ家さんとの打ち合わせに同席させていただいたり、取材にちょこんと居座らせていただいたりしていますが、大抵のことにはビビりません。雑務は以上に緊張するんですけどね。それもこれも、エンジニアtypeで場数を踏ませてもらったからだと思います。

そして、9月からはスクーというオンライン生放送Webベンチャー企業にて、コンテンツの企画・編集の仕事に就かせていただくことになりました。まったく興味なかったWeb業界で、しかもベンチャー。何を間違えてこんなトコロにいるんだと、時々思いますが、それも人生かな。色んなうねりの中に飛び込んだほうがおもしろいんじゃないかと思えるようになったのも、エンジニアtypeのおかげです。

仕事の内容が、「記事を書く」から「動画を編集する」に変わりますが、「誰にどんなことを話してもらうか」というような、根本の部分はほとんど変わらないと思っています。これまでの経験を存分に活かして、暴れ回りたいと思います。Get Successやで。

「やりたいことができなかったら辞めたら?」とか、「失敗したら逃げればいい」とか、最近では選択肢の幅が本当に広がりました。でも、目の前のことに対して悩みながらもやり続ける、食らいつくことも、やっぱり大切なんじゃないかなぁと、5年4カ月の短い社会人生活で感じています。

道を拓くのは、常に自分の意志と選択で。

エンジニアtypeで取材させていただいた多くのトッププレーヤーから、僕が学んだ一番の考え方です。本当に尊敬する人たちばかりでしたが、ほとんどの人たちが、どんなに苦境に立たされても、自分の意志で、自分の選択で道を切り拓いていました。これからは、組織はもちろんのこと、「小禄卓也」という人間としても、色んな世界で勝負できるように、ふんどしを締め直そうと思います。

改めて、今までかかわってくださった皆さまには、クソお世話になりました。長くなりましたが、今後とも、まだまだ未熟な小禄卓也と、エンジニアtype、Womantype、コルク、スクーをどうぞ宜しくお願いいたします。

卒業祝いはこちら→http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/275Q5FLFIH5KD

「目線は未来の自分を決める」という話。

もう10年近くも前になるのか。
初めてスノーボードをやった時の兄からの言葉を思い出す。

「自分が行きたい方向に目線を持っていけば、後は身体が勝手についてくる」

左に曲がりたいと思ったら、曲がる前から左側に目をやる。
そしたら、身体も自然と左方向に向くようになり、
キレイなシュプールを描きながらターンができるようになる、と。

何のことはない、誰でもできるような、シンプルな仕組みやった。

それが今になって、とても大切なことなんやなぁとしみじみ思う。

目線=ヴィジョン。

例えば僕が起業して社長になったとして、
その会社は僕の目線よりも高みに行くことなんて、そうそうない。
会社は社長の器で決まるというのは、よく聞くこと。
例えば僕が上司から「この企画担当して」と支持されたとして、
僕の目線が「指示通りやる」という意識なら、それ以上のモノはできない。

案外、そんなもんやなぁと。
何をするにしても、自分の目線以上の成果を得ることは難しい。

そんな単純なことに気付いたのは、
恥ずかしながらここ1年くらいのこと。
幸いなことに、仕事がら、Web・IT業界の中でも突出した才能を持つ
人たちと出会うことが多かったからやと思う。

それからは、仕事に対する目線はできるだけ高く持つようにしてきた。
やらされ仕事だけはしないようにしようという気持ちでいた。
「その企画の中で、自分ならどうするか、どうしたいか」ばっかり考えた。

そんなことを続けていると、
自分のキャリアについても真剣に考えるようになった。

これから30年以上も続く仕事人生の中で、
どうなりたいのか。どこに目線を置くか。
そして、目指すべき場所の景色を見るためには、
何をすべきなのかが見えてくる。

答えはまだ見えないけれど、1つだけ言えることがある。
30年後、自分の仕事人生を振り返ってみた時、
そのシュプールはキレイでなくてもいいねん。
いろいろ悩みながら、考えながらも、
自分の描く目線に正直に進んできたと胸を張れればそれでいい。

AR三兄弟の三男・小笠原雄さん脱退で感じた、「怪物を野に放つ」ということへの期待と不安

本日、ひな祭りである。

本来であれば、下北沢じゅうの女の子にひなあられを配って回りたかったのですが、残念ながら、本日は僕の大好きなAR三兄弟の三男・小笠原雄さんの離縁イベントがあったため、仕方なく家でパンケーキを食べたあとに、下北沢モナレコードさんに向かいました。


とはいっても、AR三兄弟歴がそれほど長くない私。イベントで三兄弟の歴史を拝見して、三男の才能に畏怖の念を感じました。普段は、仕事でも長男の十夢さんと絡むことばかりなので、また、メディアやイベントでも長男の十夢さんがトークすることが多いので、三兄弟の作品を通してしか、三男・小笠原さんの活動は目に見えなかったんです。

だからこそ、今日、小笠原さんの個人としてのこれまでの作品(「オガラップ」や「オガラーメン」、音楽活動、「ももたろう」など)を見て、ただものではない感に恐れおののいたのです。

亀田三兄弟の長男・興毅が「三男の和毅がいっちゃん強い」と言ったように、末っ子最強論が僕の中によぎりました。長男の十夢さんは、もちろんスゴい。次男の高木さんも、ちょっとイッた感じの映像に、秘めたものを感じる。そんなAR三兄弟の三男が、スゴくないわけがない。今まで力を抜いていたわけではないが、先に話したように、十夢さんがAR三兄弟のフロントマンとして立っていたから目立たなかっただけなのかもしれない。そんなことを感じました。

これはイベント時にお話されていたからもう言ってもいいんだと思うけれど、小笠原さんは、AR三兄弟を離縁し、作家、ストーリーテラーとして、文章を書くことに専念するといいます。イベントでいただいた作品「カリン」の朗読も、小笠原さんが作曲した音楽が良い感じに世界観を創り出して、“ただ者ではない”感を一層際立たせていました。

「これからどんな作品を生み出してくれるんやろか」そんな風に、小笠原さんの未来にワクワク感や期待感を抱きながらも、一方でちょっとした不安があったのも事実です。

どんなにすごい人でも、その能力を最大限に活かすのは難しい。かつてドラゴンボールで、トランクスが「父さんを超えてしまった」として筋肉ムッキムキのスーパーサイヤ人になったものの、スピードが落ちてしまいセルにボッコボコにやられてしまったというエピソードがあります。その後トランクスは「まさか、父さんはこうなることを知ってて…」と、自分の未熟さを思い知らされていました。

小笠原さんも、AR三兄弟というユニットがあったからこそ、そのモンスター級のセンスを遺憾なく発揮できたのではないだろうか。長男の十夢さんというブレーンがあったからこそ、その能力が最大限に活かされていたのではないだろうか。

いや、そんなことはないはず。少なくとも僕はそう思いたい。

むしろ、十夢さんというリミッターを外した時の小笠原さんがどんなものなのか。それが楽しみで仕方がないんです。

僕は一部しか参加できなかったのですが、一部の最後に小笠原さんがおっしゃっていた言葉が印象的でした。

「気持ちの問題です。AR三兄弟を続けながら物書きをしても、それなりの物しかできない。だったら、抜けるしかない」

何か、スゴく感銘を受けました。その言葉から、小笠原さんの不器用さや純粋さが伝わるような気がして。多分同年代の僕も頑張らないとな、と。

冒頭でも話しましたが、AR三兄弟歴が浅くて、この考察が正しいかどうかは分かりません。けど、正しかろうが正しくなかろうが、こうして約1年ぶりに僕にブログを書かせ、かつ「今に見とけよ」魂に燃料投下してくれたことは事実です。だから、頑張って欲しいし、自分も頑張りたいなと思いました。

AR三兄弟にも新メンバー・セツコデラックスが加入して、ますます活躍してくれるだろうことはもう言わずもがなです。

終始賑やかに、でもどこか哀しみがただようこのイベントに参加できてよかった。改めまして、小笠原さん、お疲れ様でした。これからも頑張ってくださいませ。

編集者になって1年が経ちました。

前々から始めたいと思っていた、はてなダイアリーを始めます。

せっかく4月1日やし、新年度始まるし、筆不精の僕はこういうタイミングで書かなかったら一生筆不精のままやろうと思い、えいや、と文章を打ち始めています。まぁ、つれづれなるままに書いていこうと思うので、興味がある方は読んでください。興味がない方も、たまにはのぞいてください。

さて、前置きもそこそこに、本題に入ります。

僕は現在、『エンジニアtype』というWebマガジンの編集者をやっています。昨年4月、『エンジニアtype』がWebで始まるタイミングで異動してきたわけですが、元々編集の仕事なんかに興味はありませんでした。

編集部の仕事は、特集記事の企画を考えたり、取材先を選定したり、取材したり、原稿書いたり、ライターさんやカメラマンさんに仕事の依頼をしたり、慣れないHTMLのコードを見ながら入稿したり、情報収集したり……。まぁそんな感じです。

最初の3カ月は文章の書き方に苦しめられ、次の3カ月で「炎上」で心が折れかけ、その次の3カ月は「特集記事」に悩まされ、今年に入ってからの3カ月は色んな調整の壁にぶちあたり、今に至ります。

しかしまぁ、エンジニア向けWebメディアとして編集をやらせてもらっていることもあって、IT業界のトップを走るエンジニアさんや同世代のスタートアップベンチャーさんのお話を聞く機会も多く、毎日刺激をたっぷり受けています。

「自分は何て平凡なんだろう」

そんなことを強く印象づけさせてくれる意味でも、取材はとっても有意義です。みんなすごすぎるんですもの。というより、お会いするエンジニアさんたちが、勉強欲高いんでしょうね。日々、焦るばかりです。

編集の仕事は、とても楽しい。ITの世界が期待に溢れていて、世界を変えられると本気で思っている人たちが集まっていて、でもそんな期待に満ち溢れている人たちってほんの一握りしかいなくて、これほどまでにカオスなところだとは思いもしませんでした。歌手や俳優に憧れてハリウッドを目指す若者が、今はハッカーとなってシリコンバレーを目指す、そんな世界に変わりつつあるところ、とても楽しいです。

「1日インターネットから離れるだけで、ちょっと焦る」ほどにネットホリックになったのも、編集者になったおかげですね。

そんな刺激的な日々を過ごしていると、色々考え方も変わってくるようで。色んな人の色んな話を聞いていると、「自分が本当に何をやりたくて、人生の中で何を残したいのか」についてよく考えるようになりました。よく考えれば考えるほど、よく分からなくなるんですけど。

それでも、少しずつ自分の進みたい道みたいなものが漠然と見えてきました。正確には、前からあった気持ちが、一旦カオス状態になって、再構築してみたら結局おんなじようなものだった、ということです。

僕は日本が好きで、さらに言えば日本の文化が好きで、伝統芸・伝統工芸なんかも、後世に残したいなぁと結構本気で思っています。多分、それらを残す一助となるようなお仕事がしたいんです。直接職人になりたいものだとも思いますが、多分それはできなくて。もっと広い視点で、日本の職人さんたちが笑って過ごせるような環境をつくる方が、自分には向いているような気がしていて。

それがどんな仕事なのか、今は見えていません。が、これが、自分が仕事をする上での軸になっていくのだろうと思います。

糸井重里に憧れ、何が何でも「コピーライターになりたい」と執着していた少年が、「コピーライターという職業」に抱いていた漠然としたあこがれは、もうあんまりありません。さっき言ったみたいな仕事をするための手段としてコピーを書くのも良いだろうし、編集者でも良いだろうし、そんな感じです。

こんな気持ちになれたのも、社会人4年目になって、編集部に異動して、さらにIT関係のWebメディア運用に立ち会えたからだと思っています。この1年で大きく環境が変わり、自分の気持ちにもちょっとした渦が巻いて、何か変わろうとしている。

『エンジニアtype』が2年目を迎え、僕自身も編集者として2年生になる。むちゃくちゃ面白いこの環境を離れることは当分ないだろうけど、吸収できるものはすべて吸収して、お世話になった人に、そして世の中に還元できるようにもっと頑張っていきたいと思います。

というわけで、『エンジニアtype』ともども、これからもよろしくおねがいします。

ノシ