反日デモに内在する中国共産党の危機:共産主義は何故、挫折せざるを得ないか。


中国や韓国で連日繰り広げられた反日デモの原因には、中国の共産党独裁体制に対する人民の不満や反発の鬱積、日本の国連安全保障理事国加入への反対、中国側の内政的観点による人民のガス抜きなど幾つかの要因を考える事が出来る。
中国政府の見解では、日本との歴史認識の差異が中国人民の反日感情を高揚させ、反日デモを過激化させたのであり、中国当局には一切の責任はないという事である。
しかし、中国政府が、日本の歴史認識に対する人民の愛国心に基づく怒りを思い知らせる為に、この反日デモを警察権力で強制的に鎮静化しなかったというよりは、沈静化できなかったという方が正しいように思う。

この反日デモを中国政府が主導したという見方は全く正しくないし、反日デモで暴徒化した民衆の破壊行動は、民衆が潜在的に孕んでいる政権転覆のエネルギーの片鱗を窺わせるものでもあり、現支配階級である共産党上層部の無意識的な不安や疑念を喚起するものだからである。
絶対的な政治権力は必然的に腐敗するし、既得権益の階層の新陳代謝がなければ権益から排除されている階層の不満や反発は抑圧され蓄積されていく。
中国共産党の現状は非常にアイロニカルなものであり、彼らが党名に掲げている共産主義の理念が表層的な欺瞞的理想に過ぎないことを歴史過程において自己証明する事になる予感を感じる。

そもそも、情報技術が発達してインターネットで世界の個別の情報がリンクされる現代において、政治的な独裁体制と経済的な自由化の相性は、非常に悪いものである。
現代の情報産業社会の中で経済を自由化すれば、市場やネットを通して無数の情報資源が飛び交うこととなり、国内の一党独裁体制維持の為の情報統制やイデオロギー統一は事実上不可能になる。
市場経済が近代化して、中国人民の生活水準が向上してくれば、必然的に浮かび上がってくるのは、先進民主主義国の市民社会をモデルとした市民意識である。
共産党の従属者としての人民から国家の主権者としての市民にアイデンティティの意識がシフトする転換期において、反日デモで表出した抑圧されたエネルギーが民主化の熱狂と欲望として中国共産党に叩きつけられることになるだろう。

日本とアジア諸国歴史認識の食い違いに基づく対立と歴史学の持つ本来的な性格について書こうと思ったが、中国共産党からの連想で共産主義が何故、挫折せざるを得ないのかについて略述しようと思う。

共産主義とは、プロレタリア革命によって実現の第一歩を踏み出すとされた政治的理想主義であり、本来、資本主義階級(支配者階級)に対する労働者階級(被支配者階級)の鬱積したルサンチマンを、暴力的な革命の原資として燃え上がらせ、既得権益階層を暴力で粛清あるいは放逐して、財や資本の分配をコペルニクス的に転換させるものである。
つまり、共産主義の理念は、原義に基づけば既得権益や独裁体制を破壊し、庶民や民衆の自治的な主権体制を構築し直し、自分自身の身体を使って疲労という苦役を得る労働者が主役となる社会を作ることにあった。
しかし、共産主義の理想と現実の落差から生まれた歴史的陥穽は、社会主義の実験的国家ソビエト連邦成立から日を待たずして明らかになった。

共産主義思想を構築したマルクスエンゲルスの致命的な誤謬は、人間の本性である利己主義や支配欲求を完全に見失っていたことだった、即ち、人間は本来的に完全平等な世界を願望しておらず、共産主義を信奉し革命に協力した民衆の大部分は、現在の貧困や支配から逃避する為にあるいは今まで自らを虐げ抑圧してきた階級を嫉妬や憎悪を元に抹殺する為に暴力と破壊による転換点を欲していただけだったのだ。
理念としての平等や支配者階級の廃絶は、現在の自らの社会的地位を向上させる為の方便に過ぎなかった、その証左として革命を遂行した指導者の多くは自らを神格化しあるいは絶対権力者としての地位や名誉を当然の報酬として受け取った。
レーニン毛沢東スターリン金日成カストロ、有名な共産主義を掲げたリーダーを思い浮かべるだけでも、特別な政治権力を自らに付与した指導者ばかりであり、労働者と全く同等の地位という建前を持っていても、実際には絶対的な権力と軍隊を掌握していたし、質素な庶民的生活水準に甘んじた人物は一人としていない。
そもそも、自らが支配的権力者でない事を役職名の改変によって欺瞞しようとする姿勢が、総書記、書記局長、国家主席といった肩書きを生むきっかけになっている。

共産主義マルクスエンゲルスが夢想した地上の楽園を生むイデオロギーから遠ざかり、既得権益を廃絶して平等な資源の分配を実現するはずの共産党自体が既得権益の集積場となり、新たな身分制を生み出し、階層的な支配構造を固定的なものとした。
マルクスの理想は、政治権力(国民国家)や経済制度(貨幣システム)からの人間の解放と自由の享受であったはずなのに、マルクスの信奉者達が起こした革命は、ソルジェニーツィンが述懐したように地上の楽園ではなく地上の監獄列島を創造したに過ぎなかった。
現在よりも豊かな生活水準をあらゆる人々が隈なく享受できる平等な社会、抑圧と支配のない完全な自由が保障された理想社会を作ろうという思想は、言論・思想・表現の自由がない暗黒の領土、現在の政治体制のイデオロギーに逆らうものを粛清する恐怖の監獄を地上に拡散するという皮肉な結果に至ったのである。

人間の利己的な本性は、一度、獲得した権力や財力をなかなか手放そうとしない事にあり、幾ら既得権益の階級を排除しても、その排除を主導した指導者層とそれを取り巻く周縁のグループが新たな既得権益を貪りあって新しい権力と財力の階層構造を構築してしまう。
また、マルクスの人間解放の思想と貨幣廃絶の思想が見失っていたのは、人間の労働のモチベーションであり、マルクスの夢想した世界では、人間は自分の為ではなく他人の為に働くバカ正直といってもよい善人であり、社会改善の為には自分の権利も利益も無償で奉仕して惜しまない人物なのである。

『能力に応じて社会の為に働き、必要に応じて自己の為に受け取る』という人間観が現実的なものであれば、共産主義思想の実現に可能性の光明が差し込むかもしれないが、現実的な人間の大部分は『能力や成果に応じた報酬を当然のものとして要求し、必要以上に蓄積し独占する』のであって、他人よりも自分と自分の家族の幸福や繁栄を願う近しい者への愛の精神は、倫理的にも簡単には否定できないものである。
『私は、利己的な人間ではなく、社会や他人の為に滅私奉公できる人間である』と語る利他主義を根底におく倫理を実践する人物も社会には確かに存在するが、そういった人物が社会の多数派になることは未来永劫望むことが出来ない。

人間も生物の一種である以上、自己保存欲求や利己的な遺伝子が要請してくる遺伝子の保存欲求を完全に否定し切ることは不可能であり、市場経済が浸透した先進国に生きる人間は『自分の経済状況は、自分の行動が招いた自己責任の範疇に収まるものである』という経済に対する自己責任感が非常に強い。
だから、仕事をせずに路上生活をするホームレスに一日の給料の半分を上げようという博愛主義的な人は滅多にいないし、相当にお金に余裕があっても自分の自尊心を満足させる高額消費にお金を使うか、残りは貯金や投資に回してしまう。
また、自分の生活水準や経済状況には、自分の行動の選択による自己責任を負うという資本主義の原則を完全に否定して、政治権力が社会に存在する資源を全て回収して平等に分配するようにすると、他人からの寄付や施しによって自分は何もせずに生活をしようとする層が増大するだけでなく、真面目に労働する層が働けば働くだけ損をするという不公正な社会構造が生まれ、結局、誰も働かなくなり経済社会は機能不全に陥るだろう。

現実の国家体制である国民国家の枠組み、現実の経済体制である資本主義市場経済の枠組み、現実の人間観である自己保存欲求(自己の幸福の為に働く欲求)に規定される大部分の人間、これらは近代主義の強靭極まりないフレームワークであって、この枠組みは尋常な社会変動や技術革新では破壊されることはないし、現段階で考え得る最善の政治体制であり経済体制でもある。
『人間は基本的に自分を犠牲にしてまで他人の為に恒常的には働かない』……この厳然たる事実を覆す事はおそらくイデオロギーや政治制度では不可能ではないだろうか。
また、現状でこの自己責任にもつながる事実を覆す意味も価値も見出せない。
故に、現代社会において共産主義の理想は必然的に挫折せざるを得ない。また、暴力的革命への熱狂は、ニーチェの説く弱者の強者に対する怨恨であるルサンチマンが暴力の形態をとって憂さ晴らししているに過ぎないという事になるだろう。

ただ、マルクスの語った経済学の言説に面白いものが一つあり、そこから未来の想像を拡大することが出来ないでもない。

『下部構造(物質的基盤)が上部構造(精神的な形成物)を規定する』

即ち、経済的な生産状況と豊かさとしての下部構造が、法・政治・倫理・思想・哲学・芸術といった精神の創造物を規定していくという考えである。
そこから展開される夢想とは、遥か遠い将来において人間が自らの身体と頭脳による労働を義務としてではなく娯楽として楽しめるようになる時、つまり、ロボット工学や都市建設技術の進歩等により生活の為の労働から人間が切り離される時、労働にまつわる公正感や金銭にまつわる執着心が無意味なものとなり共産主義的な世界が実現できる可能性はあるかもしれない。
しかし、その安楽と倦怠が支配する世界に、現代の私達が希望する豊かさがあるかは分からないし、虚無を超克する生きる意味や価値がその世界に内在しているかも定かではない。