蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-05-14

人工知能ブームに乗った漫画から考えた

最近になって人工知能を扱った漫画は増えているが、この前はキンドルで「バディドッグ」が無料で試し読みできたので読んでみた。(残念ながら?)人工知能を扱った漫画の多くは現実の人工知能の進展とは無関係な純粋なSF的設定であることが多く、単なるフィクション(虚構)以上でも以下でもなく、認知科学オタクの私が述べるべきことは何もない。そんな中でもロボット開発を扱った漫画「アイアンバディ(1) (モーニング KC)」は有名な科学技術ジャーナリストが監修に関わっていたせいか、第一巻を読んだときはロボット(人工知能)についての設定がリアルなせいもあって夢中になり、ケチな私には珍しくその第二巻を有料で手に入れた。しかし、第二巻の半ば辺りから人工知能に関しての設定のリアリティーが失われてしまって(人工知能の能力が過剰になっていて)がっかりした覚えがある。それに対して漫画「バディドッグ 1 (ビッグコミックス)」はストーリー上の設定は、幾多もの人工知能を安易に使った漫画と違ってよく考えられてはいるが、それでもツッコミどころも多くフィクションとしての要素が強い(ストーリー上のリアリティーでは「アイアンバディ」第一巻には所詮およばない)。ただ私が驚いたのは、その漫画に描かれている人工知能についての知識が正確で現実的だったことだ。特にクラウドと結びつけた話はなかなか出てこない話題なので感心してしまった。その人工知能に関する知識が正確な「バディドッグ」の中でも人工知能の強いと汎用が同じに扱われているのだが、これは作者の責任ではなく日本で人工知能について語る論者の知識が微妙に怪しいせいなので仕方ない所はある。

この辺りの話題については前回の記事を出した後も考えるのだが、(残念ながら学者も含めて)知識の怪しい論者が堂々とそれについて語る日本の問題は脇に置いても、前回に述べた理由の他にも人工知能について強い/弱いの対と広い/狭いの対がごっちゃになっているせいではないかと思われる。人工知能について汎用/特化の対は広い/狭いの対とはかなり一致するのだが、強い/弱いの対とはあまり一致しない。能力の汎用性の範囲が(程度の差はあれ)人間並みか人間を超えるのかの違いは端に寄せておくにして、まず汎用人工知能が可能であったと仮定して、その汎用人工知能が心を持っているかはそれ自体が議論の余地がある。つまり汎用人工知能であるにも関わらずそれが弱い人工知能である(心を持っていない)という想定は可能だ。もっとあっさり言い切ってしまうと、人工知能において強い/弱いの対は哲学的な問なのに対して、広い/狭い(汎用/特化)の対は工学的な問と関わりを持っている。更に言い切ってしまうと、強い/弱いの対は1980年代辺りの昔の人工知能ブームでの話題であって、最近の人工知能ブームではあまり中心的な位置にはない。

人工知能については日本では意識や自我もよく話題に上がっているが、意識についても行動主義のようにそもそも意識の存在を認めない立場もある(根本的に反駁されたわけではない)し、自我に至ってはどう定義すればいいのか私にはよく分からないしそもそも(認知科学オタクの私でさえ)そういう議論を見たことがない。日本での人工知能の話は安易に人とのメタファーに頼りすぎではないだろうか?

2018-05-09

人工知能ブームのとばっちり

いつものようにネットで調べものをしていたら、あるサイト(AIの真の可能能を見極めよ)で人工知能について私の知っていることとは違うことが語られていた。やっぱり自分が口出さないといけないのかな〜、でも正しいサイトがあればそれでいいや!と思って他のサイトも調べてみた。さっそく検索上位をいくつか見たのだけれど、該当の点については正しいのだけれど別の点が間違っていた。しかし別のサイトでは逆だったりと、堂々と紹介できるサイトがない。最近は自分は論文を読むことが多いのだけれど、そっちでもいい感じの文献が見つからない。ネットはたしか便利だけれど、案外必要な情報は(内容が間違っていたりもして)うまく手に入らない。

疑問に感じたのは強い人工知能のついてなのだが、上に挙げたのも含めて人工知能が意識や自我を持つことだと説明していることが多い。強い人工知能の源は哲学者サールだけれど、そこまでは指摘しているのに説明は同じだったりする。「マインズ・アイ」なら手許に持っているので、一応そこに収録されているサール「心・脳・プログラム」を改めて見なおしたけれど、やっぱり自分の方が正しいと確信した。強い人工知能ってのは人工知能が文字通りに心を持つと言えるか?の問題であって、そうでなければサールの提出した中国語の部屋を理解できない*1。ちなみに、同じような誤解は汎用人工知能についてもあって、正しい定義は論文汎用人工知能概観」を見てください。汎用人工知能は特化型人工知能ではない…というネガティヴな定義をしておくのが穏当だ(汎用性の幅の定義は今のところ人によってバラバラで困難)。強い人工知能を信じている人は汎用人工知能を目指しがちかもしれないが、結びつきが必然的な訳でもない。

こんな勘違いが起こったのは、そもそも書き手が文献をまともに参照してないせいもあるが、それ以外にも人工知能に触れた最近のサイトが話題のシンギュラリティーに触発されたものが多く、そこからの偏見が働いているせいだろう。シンギュラリティーについては初めに聞いた時から馬鹿にしていて、まともに人工知能知識を持っていれば素朴には受け取れないことだけは確かだ。これはシンギュラリティー(人工知能の知性が人を超える)が可能か不可能かの問題ではなく、そんなことを真面目に議論するほどの段階になどさっぱり達していないからにすぎない。これについてはいい記事があるのでそれを参照してください→AI - その革命はまだ起きていない、そして起きそうもない*2

今回の人工知能ブームといいその前までの脳科学ブームといい、ブーム時には生半可な知識で適当なことを言う奴が目立ってきて困る。その中には学者もそれなりに含まれているのが頭が痛い。本当は今回の調べものはIA(知能増幅)についてであって、スマホタブレットはIA構想の実現ではあるけれどインターネットとの結びつきはIA論者の想定ではなかったはず…という話を考えていたのだが、その話題の中心である知識の問題(IAの想定していた知識インターネット媒介の不確実な知識すとは異なる)がその調べ物中に立ちはだかった。これまた別に考えていた、現代の教養は知識ではなくて*3(メディア)リテラシーなんだと改めて確信した。

*1:心の有無と意識の有無は別に分けるべき問題

*2:ちなみに、この記事中の翻訳エッセイに「現在AIとよばれるものは、工学関連の分野での低レベルのパターン認識やモーション・コントロールに関するものか、」とある低レベルとは、高次認知(思考や言語)と低次認知(知覚や運動)の対照における低レベルのことだ。もちろんモーションは運動のことだし、パターン認識は知覚で起きることだ。質が低いとか基礎的という意味ではない

*3:教養となる知識は論者によってバラバラ(歴史とか経済とか古典とか)でさっぱり一致しない。要するにその論者にとって都合のいい知識が教養と称されているだけだ

2018-03-24

フリス「心をつくる」によってpredictive codingについてのモヤモヤをなくす

前回紹介した「心をつくる―脳が生みだす心の世界」は本当に今になって読んでよかったと思っている。これを読んでpredictive codingに関して感じていたモヤモヤがなくなってきた。それをいくつか挙げよう。

前々回に紹介した「予測的符号化・内受容感覚・感情」は良い論文だが、どうしても違和感があったところがあった。それはpredictive codingを説明するところでヘルムホルツの無意識的推論について言及しているところだが、これはなんか違うと思っていた。これはこの本を読んだらスッキリと解消されて、ヘルムホルツの無意識的推論は前半の二重過程説で扱われていて、後半の予測脳の話では同じヘルムホルツでも不安定網膜像にも関わらず安定した世界を知覚できるのはなぜか?という疑問の方が取り上げられていた。私もこれが妥当な扱いだと思う。実は私が違和感を感じた理由はヘルムホルツの無意識的推論というとリチャード・グレゴリーのインテリジェント・アイを思い出すからだが、著者のフリスは若い頃にリチャード・グレゴリの授業を受けたことあるようだ。

哲学者アンディ・クラークは私がpredictive codingを知るきっかけを与えてくれた点では感謝するが、彼のpredictive codingの扱いはその理解にむしろ障害をなってしまう。その理由はアンディ・クラークがpredictive codingを身体化論を結びつけているせいだが、ここには違和感しか感じない。上で取り上げたヘルムホルツの謎を見れば分かるように、predictive codingには網膜像(二次元)から世界(三次元)を推測するという考え方がある。身体化論の源の一人である心理学者ギブソンはこうした間接的な知覚理論を批判して直接知覚説を主張した。アンディ・クラークがpredictive codingを取り上げて有名になった論文「Whatever next? predictive brain, situaed agents, the future of cognitive science」にクリス・フリスは連名でコメントを書いているが、そこでフリスはこの本「心をつくる」を挙げて、predictive codingの非直接的な知覚理論はクラークの身体化論的な直接説と矛盾するのでは?と指摘している。私もそう思うし、それどころか身体化論はpredictive codingの理解を妨げる可能性さえ高い(少なくとも自分は困った)。

アンディ・クラークのこの論文障害になるもう一つの面は、彼がpredictive codingを心についての統一理論(普遍理論)だと称しているところだ。そこまで言い切られているところも私がpredictive codingに関心をもった原因でもあるので皮肉なのだが、これも私のpredictive codingへの理解を明らかに妨げた。アンディ・クラークのpredictive coding論文が出たのと同じ年に同じ雑誌で言語の産出と理解をpredictive codingから統一的に理解しようとした「An integrated theory of language production and comprehension」という論文が出たのだが、ここにGregory Hichokによるこの論文へのコメントが載っている。ここでpredictive codingの源を探ってこれは元々感覚運動の理論であることを指摘して、それを言語に安易に応用する事を批判している。アンディ・クラークは言語については特に触れていないが、この指摘は核心を突いている。フリスの本「心をつくる」を読んでも出てくる例は感覚運動の例を超えていない。この本では社会性についても論じてはいるが、それは示唆にとどまっている。フリスの本に取り上げられていない例を挙げるにしても、Gregory Hichokが挙げるのはプライミングやトップダウン効果(または文脈効果)であるが、これだけでは言語にはたどり着いていない(プライミングは記憶理論なので一見すると例外に見えるが知覚からの想起に関わるので一概にそうは言えない)。私の見解では、predictive codingは射程の広い理論かもしれないが、心についての統一理論だの普遍理論だの称するのは昔のコネクショニズム・ブームの二の舞にしかならないと思っている。堅実に様々な経験的研究と関連付けることでその射程を広げることはできると思うが、それ以上の過剰な(思弁的)期待は益するところが少ない気がする。むしろ大風呂敷を広げすぎない方がベイジアンとの関係も見えやすくなるので、その側面からも利点がある。

私の印象では、predictive codingは心についての統一理論(普遍理論)そのものというよりも、心についての統一理論(普遍理論)へと向かうための重要な段階だと思う。階段を一気に上がれるかもしれないという思弁的な妄想に浸るよりも、確実に階段を上がっていくための経験的な道を歩むほうが私には好ましく見える。

2018-03-22

[]クリス・フリス「心をつくる」

心をつくる―脳が生みだす心の世界

脳イメージ研究の大御所が一〇年以上前に予測脳について書いていた先駆的な心の科学入門の書

近年、心の科学(認知科学)界隈で予測脳(予測的符号化)がよく話題になっているのだが、その関連でこの本の原著の存在を知った。その後で翻訳の存在を知って手に入れて読み始めた。翻訳書の発売当時にも書店の新刊棚で見かけた覚えがあるはずなのだが、その頃はよく出てた心の科学入門のひとつ程度にしか思っていなくて、きちんとは目を通してはなかった。その判断は半ばは間違っていなかったのだが、もう半面の興味深さは今になってやっと理解できるようになった。確かにこの本の前半は二重過程説に則った心の科学入門であり、そんな本は既に山のように出版されている。しかし、後半の予測脳についての分かりやすい解説は今もって他に代替品のない貴重なものとなっている。一〇年以上前に出た本なのに、長らくの認知科学マニアである私のようなすれっからしでも面白く読めることに驚いた。(今この本の価値を正しく評価できる人がいるとはとても思えないが故に)こんなに強くお勧めしたいと思った科学書は私としては珍しい。

著者のフリス・クリスは初期の頃から脳イメージ研究に関わっていた心の科学における大御所だが、この著作一般向けに書かれた心の科学についての入門書だ。文章も読みやすく本当の素人でも分かりやすく書かれている。その時点で心の科学入門としては良書だし、日本での評価はそんな感じであり自分もそう思っていた。特に第一部は二重過程説に則った心の科学についての解説であり、よく書けている方ではあるがそうしたテーマの本は日本でもたくさん出ていて珍しいものではない(おそらくその中で最も有名なのはカーネマンの行動経済学の本だろう)。私のこの本への当初の評価もこの辺りに沿っていたのだろうけれど、実はこれは後半の解説の準備でしかなかったのに気づくのはつい最近になってからだ。

この本の第二部は予測脳(予測的符号化)についての解説になっている。こここそが今もって持っているこの本の価値であり、(最近になって関連本が少しは出始めたが)ここまで分かりやすい解説は今でも代わりとなるものはないに等しい。強化学習(条件付け)、自己、ベイジアン、といったことを話題にしながらいかに脳が予測を用いているかが分かりやすく解説されている。ただし予測と言っても意識的にする予測ではなく、脳が無意識にする予測のことであり、それによって私達は日常生活をスムーズに営むことができるようになっているのだ。そう、前半の二重過程説の話は、後半の脳は無意識で予測を行なっているという予測脳の話をするための準備だったのだ。しかも、これまで関連論文をいくら読んでもあまりピンと来なかった予測脳関連の用語がスッキリと説明されていて、この本を読んで本当に助かったと思った。この本の説明はあまりに分かりやすくて素人はあっさりと読み進めてしまうだろうが、私のような認知科学オタクはあっさりとされてる説明が実は奥深いのに気づいてしまうので、ただただ感嘆するしかない。本物ほど知識をひけらかしたりはしないものなのだ。

第三部とエピローグは第二部でした予測脳を社会性に応用した話だが、さすがにこの辺りは今読むと物足りない。しかし、これは利他性研究や(特に無意識の偏見を扱った)社会的認知研究が本格的に注目されるようになったのがこの本の原著が出版された後なので仕方ない。むしろこの段階でこうした社会性のテーマに触れている事自体が先見の明だとも言える。十年以上前に出た本なので今となっては足りない所があってもむしろ当然だが、逆に言えばにも関わらず今でも読む価値のある本である事自体が奇跡的なことだ。

心をつくる―脳が生みだす心の世界

心をつくる―脳が生みだす心の世界

2018-03-09

predictive codingに関連したいくつかの疑問

ここ近年はpredictive codingについて調べることが多い。これはアンディ・クラーク経由で知ったのだが、科学者であれ哲学者であれ話題にする人は増えてきている印象がある。日本語の文献についてはいいものがなくて長らく困っていたのだが、やっと「予測的符号化・内受容感覚・感情」を見つけたので、詳しい説明はこちらをお勧めします。とはいえ、より理解を求めて勉強するには英語の文献を読むしかなく、理解の浅いテーマを外国語で読むのはきつくて苦労している。中には話題の流行に乗っている感の強い学者もよく見かけ、一時的な流行なのか本物の普遍理論なのか判断しかねるところもまだある。まだこの辺りは学習中で間違いや勘違いもあるかもしれないが、勉強と備忘録を兼ねて、ここではpredictive codingについて疑問に感じたことをいくつか挙げてみたい。

predictive codingにベイジアンは必須なのか

ベイジアンについてネットで調べているとpredictive codingに触れているのを見かけることは多い。今現在の私はベイジアンは勉強中だが、predictive codingのベイジアンとの関係にはピンとこないところがある。表面的には、冒頭で上げた日本語論文にあるように、事前確率と予測モデル、尤度と現実からのデータ、事後確率と結果としての心的状態という関係は分かる。しかし、私が最初にベイジアンモデルを評価するようになったGriffiths&Tenenbaumの研究がベイジアンを認知モデルに直接に利用しているのに比べると、predictive codingとベイジアンの関係はアナロジーでしかないような気がしてならない。せいぜい感覚運動(sensorimotor)の数理モデルになら直接適用できるかもしれないが、普遍理論として提出されているpredictive codingに対してはベイジアンが比喩の域を超えていない気がしてならない。

ちなみに、あるアンディ・クラークフォロワー学者がベイジアンについてGriffiths&Tenenbaumの研究とpredictive codingを比較して前者をけなしている不勉強な中身のない論文を読んだが、アンディ・クラークの目ざとさ(先見性)には感心するが、アンディ・クラークフォロワーにはろくなのがいないなぁ〜と改めて思ってしまった。

predictive codingに身体化論は必要か

アンディ・クラークはもともと身体化論の代表的な論者として有名だが、predictive codingの話をする上でも身体化論と結びつけることが多い。クラークフォロワーは喜んでそれを受け入れて取り上げるのだが、自分はどうもモヤモヤする。predictive codingを身体化論を結びつけるのは話としては興味深い面白いものだと思うのだが、その結びつきは必然的なものではない気がする。

predictive codingというのは元をたどると歴史が案外深く、よく参照されるFristonやRao&Ballardどころではなく、predictive codingの源である小脳の内部モデルはそれ以前からすでにあったのだが、もちろん元々身体化論との結びつきがあったわけではない。身体化論が結びつくのはpredictive codingが得意とする感覚運動(sensorimotor)との関連があるからだが、普遍理論としてのpredictive codingと身体化論がどう結びつくのかは(エントロピー論を超える具体的な計算論的モデルが大して目につくわけでもなく)曖昧なところも多い。それどころか、知覚とは外界からの直接知覚(ギブソン!)ではなく、心にある世界についてのモデルからの帰結だと考えると、むしろ観念論だと捉えるほうが自然な気がしてくる。

ここまではクラークフォロワーへの文句ばかりになってしまったが、次は方向性が違う。

predictive codingはカントと結びつくのか

The Predictive Processing Paradigm Has Roots in Kant」なる論文を見つけて読んでいたのだが、哲学史知識のある自分には違和感だらけで途中で読むのやめてしまった。その最たる論点カントが知覚のトップダウンの源だという話だ。これは浅い知識だと一見して正しそうに思えるが、やはりおかしい。(なぜだかこの著者は参照していない)セラーズによって知られるようになったカントの思想「概念なき直観は盲目である」は確かにトップダウンのように見える。しかし、トップダウンボトムアップと対になっており、そうでなければ特定の現象トップダウン効果とわざわざ呼ぶ必然性はない。しかし。カントの言葉からは(少なくとも認識論的には)そもそも純粋なボトムアップ(つまりセンスデータ)だけでは意義がないことを言っているのだから、(ただのトップダウン効果よりも)その適用範囲はもっと広い。カントトップダウン効果を結びつけるのはただの連想ゲームであって、実際の哲学史には沿っていない。

この論文への悪口は言っていると切りがないのだが、ここは決定的な批判となる有名な現象学者ザハディがこの論文を取り上げての批判を挙げて終わりにする。個人的には、カントは心の科学の可能性を根本から否定したというエドワード・リードの指摘も思い出す。

Swanson further argues that predictive coding theory can be “seen as a major step in the evolution of Kant’s transcendental psychology” (2016: 10)…(中略)…One might wonder, though,whether the naturalism of predictive coding theory is not ultimately incompatible with Kant’s transcendental framework.

引用部分後半の翻訳→「predictive coding説の自然主義カントの超越論の枠組みとは究極的には両立しないのではないか?と勘ぐる人もいるだろう。」

2018-02-23

[]松原望ベイズ統計

ベイズ統計学 (やさしく知りたい先端科学シリーズ1)

統計学入門でも人工知能入門でもある、数式よりも考え方を重視したベイズ統計入門書

数式が少ない考え方を伝えることに重点をおいたベイズ統計学入門書。これまでのベイズ統計入門によくあった数式ばかりの専門書でもビジネス利用や学術利用を目指した実用書でもなく、(ベイズに限らない)統計の初歩から人工知能GPSと結びつけながら統計的思考法を身につけさせることを目的とした啓蒙的な本。ベイズ統計入門書としては変わった構成だが、内容は分かりやすく扱われている範囲も広め。本当の初心者でも読めば(全ては理解できなくとも)イメージはつかめるし、他のベイズ入門書を読んでいても残っていたモヤモヤも解消されるかもしれない。

21世紀になってからベイズ統計学への注目がますます高まってきている。それに呼応するように、ベイズ統計についての日本語の書籍も多く出版されている。しかし、これまでの正統派であった頻度主義と呼ばれる統計学に比べると、注目されてからの歴史が浅いせいか分かりやすい本が多いとは言いがたい。定評の入門書もいくつかあったが、それもある程度の統計的な素養がないと読み進められないものばかりだった。本当の初心者向けでもベイズの定理の基礎で話が終わりで知りたいことにたどり着けないこともあったし、基礎を超えていても学者でない人が書いた本でこの辺りはどうも怪しい?というのも見た。しかしとうとう、本物の統計専門家が書いたベイズ統計の考え方を伝える入門書が現れた。

著者は有名な統計専門家で、既に世評の高いベイズ入門書も出している。その入門書が数式もそれなりに出てくる教科書だとしたら、今回の入門書は普通の読み物としても読める一般書に近くなっている。だからといってレベルが低いわけではなく、内容は統計の基礎から始まってより高度な話題である階層ベイズベイジアンネットワークにまで及んでいる。それどころか、ベイズ入門書としては珍しくニューラルネットワーク(人工知能)やカルマンフィルター(GPS)にも触れられており、その扱われるテーマの広さに驚かされる(目ぼしいもので触れられてないのはベイズファクターぐらいか?)。

この本の特色は扱われるテーマに広さだけではない。そのベイズ統計への導入の仕方が他の書籍とは違っていてとても分かりやすい。他の一般的な入門書だと(一般的な統計への入門の後)いきなりベイズの定理に触れてしまう。この本では一般的な統計の入門(確率論)がいつの間にかベイズ統計入門になっていて分かりやすい。その分かりやすさを示す特徴は、(他の入門書ではありえないが)ベイズの定理の数式に直接にはほとんど触れない点にある。確率計算からベイズの世界に自然に入り込めるようになっていて、本当の初心者にもやさしい。ベイズの定理の数式を印籠としてすぐ出してしまう本が多い中で、いかにしてこの本が統計的思考法を伝えることに尽力しているかがうかがえる。

他のベイズ本と比較してのこの本の特色は多くて紹介しきれない。頻度主義ベイズ主義との対立を前提にしないがゆえに統計に無知でも入りやすい。(他の本ではごまかされがちな)尤度や階層といった基礎用語も分かりやすく説明してくれる上に、(謎に見えがちな)ベイズの定理の分母について確率の合計を1にするためといった説明がさらりとされていて目を開かされた。マルコフ連鎖モンテカルロ法にも触れられているがその冷めた扱いには溜飲を下げた。だが、何より大きな特徴は人工知能と関連付けてのベイズ統計についての説明だろう。特にニューラルネットワークにおける非線形関数との関連については感心した。

この本の長所も特色もたしかに多いのだが、だからといって完璧なわけではない。本当の統計の初心者には、最初の二章までは分かりやすいが、それ以降は多少は統計の素養がないとちょっと読みづらい。この本の特色である人工知能の話題についても、唐突に説明されるので人工知能知識が全くない人には訳が分からないかもしれない。しかし、このタイプの本で本当の無知な初心者に理解できるようにするのは困難なので、(この本ならでは長所と特色を考慮すると)必ずしも欠点とは言いがたい。

学術書とも実用書とも異なるあくまで思考法を伝えることを目的とした一般向けベイズ入門として優れており、他の入門書にはない特色も多く随一の入門書に仕上がっている。ベイズ統計に興味があるなら、最初の一冊としても他の入門書を読んでからでもお勧めです。

2018-02-10

新たに(認知科学的な)言語理論の解説記事について書けたらいいなぁ〜という願望

ここ最近ずっと(未だに)このブログの人気記事が生成文法認知言語学の解説記事であることには正直戸惑っている。あれは結構前に人目につかないことを前提に書いた記事*1で、一部のこのブログのマニアだけが気づけばいい程度に思っていたので、こんなに読まれるとは思っていなかった。そのことの弊害というのはあって、コメント欄でも触れているが記事の書き方が多少乱暴になっているのだが、こんなに人目に触れるのは心外だということだ。同じようなことはウィキペディアでリンクされた心の哲学についての解説記事でもあったが、ネットでのリンクは自由だとは思っているがやっぱり戸惑う。

近況としては、なぜか言語学論文を読むことが多くなっている。例えばピダハン論争や言語進化などといった生成文法関連の傑作論文をネットで見つけたので、それを楽しく読んでいる。それについて記事にしようかとも思ったが、それらの論文の内容を超えそうにないので手はつける気がしない。他にも近年になって構文化の研究が進んだと知って、構文文法や文法化について調べて勉強したりもしている。さらにジャッケンドフ経由でHPSGのような語彙主義の理論の存在をつい最近になって知ったところで、以前書いた生成文法認知言語学の解説記事を改定した新たな記事を書くのもありかもしれないと思った。特に以前書いた解説記事では、認知言語学について認知意味論寄りに説明したので、もっと全体的に文法中心に揃えて説明したほうがいいかもしれないと感じ始めた。ちょうど(制約に基づく理論を伴う)語彙主義の存在も知ったことで、(解説記事のコメント欄でも軽く触れた)ジャッケンドフ的な理論についても何とか位置づけできるかもしれないという展望が生まれた。

…と思ってはいるが、日本語の例は必ず出すと言う部分は(以前の解説記事に引き続き)守りたいのだが、所詮は素人の私にはちょっと難しい。認知言語学や語彙主義との比較を考えると、生成文法については以前の記事では触れなかった移動(内的併合)にも触れた方がいいとは思うが、この辺りは複雑なので私の手には余る。しかしそこに触れないと、そもそ移動を理論の中に含まない制約に基づく理論(に基づく語彙主義)を説明できないとか、困ることが多い。語彙主義については最近知ったばかりで知識が足りないがそれは脇に置くとしても、認知言語学については文法寄りの説明を日本語の例を挙げてするのが難しいのが困る。前回の記事では前面に出ていたメタファーの説明を今度は背景に持っていけばいいのは既に決まっているが、この先が難しい。認知言語学についての文法的な日本語の例だと、第一に思いつくのは(私が最初に感激した分析である)結果構文か、後は(昔に英語の論文で読んで感心した)タルミーの移動経路の分析ならもしかして何とかなるかもしれない(が駄目かもしれない)。なんにせよ認知言語学についての文法的な日本語の例については、日本語の論文が当てにならないので本当に困った。

困難は多いが、以前の記事では生成文法統語論認知言語学は意味論と領域が別れてしまったので、テーマを文法に揃えた記事はあった方がいいとは思うんだよなぁ〜

*1:記事の日付から通常更新の記事でないことは分かるはず

2018-01-20

キンドルで読めなかった日本語PDFを読めるようにする方法(Linux版)

幾らか前にKindleを手に入れてから、PDF論文を読むのがとても楽になって助かっている。しかし、キンドルを使ってPDFで日本語の論文を読もうとすると困ったことになることがある。それは、キンドルで日本語が表示されないPDFがたまにあることだ。仕方ないのでパソコンでそのPDFは読むのだが、やはりキンドルの快適さには及ばない。

これについてはネットで調べてもみた。原因はPDFに日本語フォントが埋め込まれていないことである。どうにか読めるようにする方法もネットで探してみたが、Macでなら何とかなる方法が見つかるがそれ以外だと見つからない。私はMacは持ってない上にそもそもLinux使いなので、困ったなぁと思っていた。一応自分でも色々試してみたのだが、長い間良い方法が見つからなかった。PDFの中にはテキスト化できるものもあったので、一度テキスト化してからワープロソフトPDF化したことはある。しかし、この方法だとテキスト化すると変な改行が入ったりしてレイアウトが崩れることが多い上に、そもそも図は反映できない。諦めていた頃に、さり気なく使ったソフトが打開策を切り開いてくれた。

それは「Xournal」というPDFに書き込みができるソフトで、なぜこれを使ったかというとPDFを右クリックしたら表示されたからでしかない。何の気無しに行なった気まぐれ行為が長い間の悩みを解決してくれたのだから、何があるか分からない。以下、フォントの埋め込まれていない日本語PDFキンドルで読めるようにする手順を示すが、その前に「Xournal」というソフトがない人は、ソフトウェアセンターで検索してインストールしておいてください*1

  1. 「Xournal」というソフトで対象のPDFを開く
  2. そのソフトでPDFが表示されたら、ファイルから印刷を選ぶ
  3. プリンタから「ファイルに出力」を選び、出力の形式は「PDF」にする
  4. 印刷するを選ぶと、該当の場所に目的のファイルが制作される

ちなみに印刷には「PDFにエキスポート」の項目もあって、自分も最初はこっちを選んだが、残念ながらたまに変換がうまくいかない。お勧めは示した手順の方で、少なくとも自分が試したPDFはすべてキンドルで日本語表示されるようになった。ただし、注意すべき点は埋め込まれるフォントが元のPDFとは変わってしまうことだ。さらに、そこそこの確率で日本語が読めるようになった代わりにアルファベットが読めなくなったPDFもあった。必ずしも万能な方法ではないけれど、全く読めなかった日本語PDFKindleで読めるようになったのだから、十分にありがたいことです。

*1:ちなみに Linuxなんて使ってないという人は,LiveCD/DVDインストールせずにOSを立ち上げることもできるのでお試しあれ。ネットでisoファイルをダウンロードしてCD/DVDに焼いて起動させるだけなので簡単です。少なくともLinuxbeanなら目的のソフトは入っているはずです。

2018-01-10

そのモデルにとってベイジアンは道具なのか部品なのか?(前回の記事への補足)

やっぱりベイジアンは本で勉強した方がいいのかな?と思って、本屋に棚を改めて物色しに行った。そしたら、この前には見かけなかった書籍も見かけたりして収穫はあったのだが、同時にここで説明しておいた方がいいかなかな?という事も頭に浮かんできた。去年になって心理学認知科学におけるベイズモデリングを紹介した書籍が続けて出版されていて、自分も期待して中身を覗いてみた。それらは特に具体的な研究の実例がいくつも紹介されていてとても有用な本だと感心した。ただ、それらの本で扱われているベイズモデリングと、前回の記事でも触れた私が興味を持っている認知(のベイジアン)モデルは、似ているようでいて違うことは説明しておかないといけないな〜と思った。

その書籍で扱われていたベイズモデリングは、要因の因果モデルを考えてデータで解析するタイプの研究であり、その適用は別に心理学認知科学に限定されるものではなく様々な科学領域に応用可能なものである。実際にベイズモデリングとしては、去年に心理学認知科学向けの書籍が出るまでは、生態学者の書いた本が長らく名著として有名だった。つまり、ここでいうベイズモデリングとはベイジアンを手段としてモデルを作ったり選んだりするものであり、多変量解析のベイジアン・オリジナル版とも言える(ちなみに多変量解析と同じ分析法[例えば共分散構造分析]のベイジアン版もある)。それに対して、私が興味を持っているのはベイジアンを直接にモデルに組み込んだ認知や脳のモデルである。つまり、ベイジアンがモデルづくりのための道具として使われているモデルとベイジアンの関係が間接的なタイプと、ベイジアンをモデルの中に組み込んだモデルとベイジアンの関係が直接的なタイプとがあり、同じくモデルを対象としていても異なる。

ベイズモデリングは統計的検定や機械学習と並んでベイジアンの一般的な用途として代表的なもので、日本語の文献もいくつか出ている。対して、ベイジアンの認知(脳)モデルは他領域への応用がそうそうにできるものではなく、日本語の書籍は私の知る限りはないし、日本語の論文も多いとは言いがたい。しかし、脳(心)の主要な機能を予測とする見方はある程度広まってきているので、その重要性は侮りがたい。つい最近出た日経サイエンスでも心理学者ゴプニックがボトムアップニューラルネットワークと並べてトップダウンベイジアンモデル*1を取り上げている。脳への学習と予測の装置観(総合すると最適化装置観)に関しては、構成論的アプローチと関連付けて語ることも可能そうだが、そのための準備は私にはまだ整っていない。

*1ベイジアンモデルを単にトップダウンとするが妥当か?はここでは取り上げない。別の研究者ベイジアンモデルを生得/経験の対立止揚するものとして説明している

2018-01-06

[]認知のベイジアンモデルについて(フライング気味で)考えてみる

認知科学ベイジアンモデルはただいま勉強中で、直接に解説できるほどの理解には達していない。とはいえ、以前に比べればベイジアン・アプローチについて何となくのイメージは掴めるようになったので、地道ながら進歩はしていると思う。ただ、私がベイジアンについて勉強するにはその道がちょっと険しいので苦労している。

ベイジアン(ベイズ主義)とは、これまで長い間主流であった頻度主義とは対照的な統計学の考え方である。私が学生時代に授業で習った心理統計はもちろん頻度主義統計だったが、21世紀に入ってから統計ベイズ主義が台頭してきて隆盛を極めつつある。個人的にベイジアンには興味があったので勉強するのは構わないのだが、私のような認知モデルに興味がある人間にはその道は案外険しい。

ベイジアンといっても、その用途は統計的検定、機械学習モデリングと幅広い。それぞれに用途に合ったベイジアン解説書はいろいろあるのだが、私が興味を持っている認知モデルを扱った日本語の文献は極端に少ない。どの用途でもベイジアンの基本であるベイズファクター、ベイジアンネットワーク、階層ベイズといった部分は共通だが、その用い方にはやはり違いがある。こういうのは興味に合わせて勉強しないときついので、仕方ないのでネットで文献を検索してみた。すると、ベイジアンを用いた認知科学的な研究では代表的な研究者であるJoshua B.TenenbaumやThomas L.Griffithsrらの研究グループによる入門的な論文が優れていて、とても勉強になっている。ベイジアンモデルについてはまだ勉強中なので詳しい中身には触れないとして、更に調べてみると面白い論文に出会った。Matt Jones&Bradley C. Love"Bayesian Fundamentalism or Enlightenment?On the explanatory status and theoretical contributions of Bayesian models of cognition"というベイジアン認知科学への批判論文だ。

Jones&Loveの論文ベイジアン原理主義啓蒙主義

この論文では認知科学へのベイジアン・アプローチを原理主義啓蒙主義に分けて批判的に検討している。正確には、私はこの論文のすべてを面白いとは思ってはいない。ベイジアン・アプローチについての説明も紙面は割かれているが、これは他にもっと優れたものがあるのでそこは脇に置いても問題はある。この論文の全体の流れとしては、ベイジアン・アプローチをマーの三つのレベルの中に位置づけてから、基本をさらっと紹介した後で、ベイジアン・アプローチを行動主義進化心理学と比較し、最後はベイジアン・アプローチの原理主義批判啓蒙主義を薦めて終わっている。この中では行動主義との比較が断トツに面白くて、残りは議論に問題があったりしてそこまでは興味深いものではない。

例えば進化心理学との比較については、旧態依然とした適応万能主義への批判が述べられていて、(言いたい事は分からなくもないが)正直読んでいてうんざりしてしまった。しかし何と言っても、この論文にはJoshua B.TenenbaumやThomas L.Griffithsrらの研究グループによるコメントがついていて、その批判がいちいちもっともだったりする。まずベイジアン・アプローチはマーの言う計算論レベルしか扱っていないとされているがそれはおかしいと指摘している。そもそもベイジアン原理主義なるものが存在するのかどうか自体が怪しいと批判している。この辺りの批判はいちいちもっともで、ベイジアン原理主義批判する最後の章は具体的な研究への言及が少なく話がどことなく抽象的で、読んでいて得られる物があるのかないのかよく分からない。もっとも啓発的な議論ベイジアン・アプローチを行動主義と比較した章で、この論点を中心に話を広げればもっと面白い論文になるのに…と惜しくてならない。少なくとも私はこの章を読んで何となく感じていたモヤモヤから目を開かされた。

私自身は認知科学ベイジアン・アプローチについては、帰納推論や因果推論についての研究を紹介した日本語の論文を読んで、ベイジアン・アプローチの可能性に気付かされた。しかし、ベイジアンについて勉強している内にこれらは認知モデルとしてかなり分かりやすい例であって、他のものはどうにも分かりにくくてしっくりこない。これは私の勉強不足もあるだろうが、何となくモヤモヤとしたままだった。そこでこのベイジアン・アプローチを行動主義と比較をした章を読んで、もしかしたら…と思うようになった。

(心理学的な)行動主義(特にスキナーの)についてはここでは詳しく説明しないが、基本的に条件付けを中心にした理論で観察可能な行動だけを説明に用いるのでもちろんモデルなんて関係がない。そんなものはベイジアン・アプローチとどう関係あるのかというと、(新)行動主義は実験で観察される行動データと一致した理論を提示しているが、ベイジアン・アプローチも表面的にデータと一致しているだけという点では行動主義の理論と違いがないのではないかと言うのだ*1。ただし、この議論ベイジアン・アプローチがメカニズムを扱っていないという指摘を前提にしているので、Tenenbaumらの批判的コメントからするとそのまま受け入れるのは問題がある。しかし、提示されるベイジアンモデルが複雑なものになればなるほど、本当にこれは認知モデルとして相応しいのか?、こんな複雑な計算を脳がしていると考えるのが妥当なのか?、私には怪しく思えてくる。

私が最初に感銘を受けたベイジアン・アプローチの帰納推論(「認知科学におけるベイズ的アプローチに関する文献の紹介PDF)では、同じデータでも事前確率によって推論される確率が変化してしまう。これが友人による超能力実験のデータとされるとそれはめったに起こらないと前提されるので事後確率はそれほど上がらない(サイコロの目を当てたのはただの偶然!)。これが新しく開発された薬品の実験とされると同じデータでも超能力者条件の場合よりも偶然だと判定される率が低くなる。この研究の場合は解釈が比較的に容易なので、これを認知モデルとして考えるのは不自然さがあまりない。しかし、これが例えば階層ベイズを用いた複雑なモデルとなると、それが認知モデルとして相応しいのか私はさっぱり分からない。マルコフ連鎖モンテカルロ法が脳の中でなされていると考えるのが妥当なのか私にはうまく想像できない。これは単に私の理解不足のせいかとも心配していたが、少なくとも似たような不安を持っている人が世の中に入るのだと分かったら、(それが本当に正しいかどうかは別にして)ちょっとホッとした。

認知のベイジアンモデルの問題を考える

なぜデータと一致しているだけの複雑な理論に問題があるかというのは、天動説地動説対立を考えると分かりやすい。天動説に疑いが生じた原因の一つに、観測される天体の動きのデータを一致しない(例えば逆向)ことがある。だが、天動説に複雑な修正を加えて観測される天体の動きのデータと一致させた理論が提出されたことがある。単にデータと一致している点では複雑に修正された天動説地動説とで違いはない。しかし結局は地動説が受け入れられるようになることは周知のとおりだ。データと一致させるために理論をいくらでも複雑にしてもいいなら切りがない*2。科学にとって経験的データとの一致は重要だがそれが全てではない。

認知モデルとしてのベイジアンモデルには、他の用途のベイジアンとは異なる問題もある。それはベイジアンの他の一般的用途(統計的検定や機械学習や科学モデル作り)では、基本的にベイジアンはあくまで手段として用いられているので、最適値(方程式の近似値)を見つけさえすればよいのであって、解を見つけるその過程は問題にならない。しかし、ベイジアンが組み込まれた認知モデルの場合は、脳が最適値を見つけていると仮定するとしても、その見つけ方によってはそれが認知モデルとして相応しいかは場合によっては怪しくなってくる。帰納推論や因果推論のようなシンプルなモデルなら受け入れられるが、もっと複雑になると私にはもう判断できない。

たとえベイジアン・アプローチがメカニズムを提示していたのだとしても、それが本当に認知モデルとして相応しいかは別の話だ。それを理解できるようになるためにも、ベイジアンはもっと勉強しとかないとなぁ〜

*1:これは行動主義の理論への批判にはなっていないことに注意。適切な適用範囲でありさえすれば行動主義の理論には問題はないが、ベイジアン・アプローチの場合は万能気味でマズイ

*2機械学習における過学習(overfitting)と一見似ているが、やはり違う。工学の場合は中身の機構がどんなに複雑になっても、それでうまくいっているなら問題はない。科学の場合はそうはいかない。ここに科学と工学の違いがある。今日では科学と工学が密接に接近していっている(リバースエンジニアリングとしての科学)だけに、その違いに注目する必要もある

2017-12-13

強化学習教師あり学習/教師なし学習の対と同等の機械学習の分類なのか?

ネットで強化学習について調べていて、(私に判断できない技術的な説明は脇に置くと)いくつかのサイトにあった強化学習そのものについての説明を読んで違和感を感じてしまった。

強化学習そのものについての知識は、認知科学について勉強してコネクショニズム自律的ロボティクスについて既に知っていたので問題ないのだが、最近読んだ認知科学関連の論文でモデルフリーやモデルベースと言う用語が出てきたので、それらの勉強ついでに強化学習についても調べてみた。モデルフリー/モデルベースについては記事を書くアイデアがない訳ではないが、ベイジアンモデルについてもっとちゃんと勉強してからがいいか迷っているのでそれは脇に置く。そこでもうちょっと気楽に書ける強化学習そのものについての説明に焦点を当てた記事を書くことにした。

強化学習教師あり学習と教師なし学習は同等か?

私が違和感を感じたのは検索上位に出た強化学習の記事「強化学習入門」と「これさえ読めばすぐに理解できる強化学習の導入と実践」だ。これらには海外の学者の講義を参照した図が載っていて、その図では機械学習教師あり学習と教師なし学習と強化学習へと三つに分類できると同等の立場で説明されている。これは私の理解からするとどことなく違和感がある。一見海外の学者の講義を参照していて信用できそうに思えるが、記事にある説明の該当部分を読んでいると(私は元の講義は確認していないが)これらの記事を書いている人自身がよく理解しないままに表面的に説明している匂いがする。私の理解では教師あり学習/教師なし学習の対が基本にあり、強化学習はそれとは別という感じがする。

教師あり学習によって強化学習を説明する

実際に別のサイトでは、例えば

強化学習とは,試行錯誤を通じて環境に適応する学習制御の枠組である.教師付き学習(Supervised learning)とは異なり,状態入力に対する正しい行動 出力を明示的に示す教師が存在しない.

とあり、強化学習そのものを教師あり学習によって説明している。私が最も優れた説明だと思ったサイトがあって、そこでは

強化学習教師あり学習に似ていますが、(教師による)明確な「答え」は提示されません。では何が提示されるかというと、「行動の選択肢」と「報酬」になります。

これだと答え=報酬と考えれば同じじゃないか(行動A=10pt、のような)、と感じると思いますが、一つ大きな違いがあります。それは強化学習においての報酬は「各行動」に対してではなく、「連続した行動の結果」に対して与えられるという点です。

ここでも強化学習教師あり学習を引き合いに出して説明しているが、特に報酬が与えられる対象の違い(「各行動」か「連続した行動の結果」か)で説明するところがうまい。これだと強化学習を用いている自律的(構成的)ロボティクスとも強化学習の源でもある学習心理学とも調和していて見事だ。このサイトの説明の正しさを裏付けるものとしてある論文からの引用もしておこう

このような表面的な特徴をみると、「教師あり学習」と「教師なし学習」の中間に位置する手法と考えてしまうことも多いが、これらと強化学習の間には、ひとつの重要な違いがある。それは「教師あり学習」「教師なし学習」は、環境との相互作用がなく、既にあるデータ、あるいはこれからどんどん入ってくることが分かっているデータに対する分析手法であるのに対し、「強化学習」は、まだデータがない場合に、どのようにデータを集めるか、という方針も含めて決定する手法であるという点である。

ていうか、あまりに説明が素晴らしすぎて、すべての強化学習の説明サイトはこの論文を引用するのが一番じゃないかとさえ思えてくる。

学習心理学経由の強化学習も少しだけ

ちなみに、(ここではこれ以上詳しくは触れないが)学習心理学経由の強化学習についての説明も引用しておく

特定の目標物に手を伸ばす運動をさせるだけでも,複数ある関節を連携させるための複雑な計算が必要になる。そんな手間はかけずに,動物のオペラント条件づけのように学習させることができないだろうか。それを実現するのが強化学習である。

強化学習は,行動の良し悪しの評価(報酬)をもとに人工的なエージェントに行動を学習させるための計算手法である。

この論文でも触れられているモデルフリー/モデルベースについては気が向いたら記事を書くかもしれない(約束はできない)。私としては、学者も含めて他の人が頑張ってくれているのならわざわざ自分がネットに何か書く必要性は特に感じないのだが、ここ最近の人工知能ブームで門外漢が焼付け場の知識で適当なことを語っていたりするのを聞くにつけ(そしてたとえ学者であっても専門外について見当違いな発言をしてるのを見るにつけ)まだ自分にも活躍の余地はあるのかな〜と思わなくもない。

2017-11-01

お蔵入り寸前のお気に入りミステリーのリスト

注:ブログでお気に入りミステリーのリストを作る!と公言してからこれを書き始めたのだが、リストの個々の作品へのコメントを書かなくちゃ〜と思っているうちに時間が過ぎてしまい、お蔵入りになっていた記事。もったいないのでこのまま出します。

21世紀に入ってから刊行された日本のミステリーから個人的なお気に入りをリストにしようといういう記事です。

最初から正直なところを吐露してしまうと、だいたいの面白いミステリーなんて有名なランキング企画で上位に入っており、実際に私のリストもそのランキング入りと重なるところも多く、こんな記事は私の自己満足に過ぎないです。それでもあえてリストを作ろうと思ったきっかけのひとつは、ネットでミステリーのベストを検索してそのリストの選択が似たり寄ったりだったことにがっかりしたせいもある。そもそも傑作なんて誰が選んでも似るものだという意見もありうるが、問題はそこではない。それらのミステリー選で共通して西村京太郎「殺しの双曲線」がお勧めされていた。実際に西村京太郎を舐めていた私はそのお勧めに従ってその作品を読んだのだが、その感想はがっかりの一言だった。こんなセンスのないお勧めミステリー選が平気で検索上位に挙がるぐらいなら、私が新たなリストを作ることに少しぐらいの意義はあるかもしれないと感じた。

今述べたのは消極的な理由だが、それ以前に少し前から久しぶりに日本のミステリーをまとめて読み始めて、21世紀に入ってからの日本のミステリーのレベルの高さに驚いたのもリストを作ろうと思った理由でもある。学生時代の辺りに笠井潔の影響でミステリーをある程度まとめて読んでいた時期はあったが、私の趣味の常で一定以上夢中になった後にパターンが読めてくると飽きて冷めてしまった。

しかし、比較的最近になって突然日本のミステリーを読み始めて、その質の高さと自分の文学趣味との一致に驚いてしまった。リストに挙げた中にもあるが、テレビドラマが面白かったので原作を読もうと思って雫井脩介をいくつか読み始めた。その中でも処女作「栄光一途」の衝撃はものすごかったが、その処女作の手法はその後捨てられてしまい、それにかなう作品はないと分かってしまった。だが、日本のミステリーが私のような(仕掛けのある)モダニズム小説好きには鉱脈だと知りワクワクしてしまった。だがもちろんどれがそのような仕掛けのある作品かは分からないので、普通に評判のいい作家の本を次々と読むようになった。基本的に仕掛けがありうる作品は本格ミステリーなのだが、本格ものは元から好きなのでいろいろな作品を読んでしまい、その結果として発見した作品が次のリストだ(おそらく未完)。

個人的に好みな文学的な仕掛けのある本格ミステリー(順不同)

初野晴「漆黒の王子」ISBN:9784043943159

カマラとアマラの丘」ISBN:9784062175272の改題→「向こう側の遊園」ISBN:9784062778510

雫井脩介「栄光一途」ISBN:9784344402218

島田荘司「ネジ式ザゼツキー」ISBN:9784062755320

北山猛邦「オルゴーリェンヌ」ISBN:9784488017798

米澤穂信「折れた竜骨」ISBN:9784488451073 ISBN:9784488451080

綾辻行人「Another」ISBN:9784041000014 ISBN:9784041000007

七河迦南アルバトロスは羽ばたかない」ISBN:9784488024581

市川憂人「ジェリーフィッシュは凍らない」ISBN:9784488025519

法月綸太郎「生首に聞いてみろ」isbn:9784043803026

ちなみに、リストの順番は評価や好みとは全く関係ありません(ただの思いついた順)。あえて言えば初野晴が個人的なお気入り作家なことぐらいかな。ちなみに、初野晴の最高傑作はやはりハルチカシリーズでシリーズの最初から三冊を順に読むのが絶対にお勧めだが、仕掛けの点でそれは一応リストから外した。仕掛けのある面白い本格ミステリーは(ジャンルの性質上)他にももちろんあるのだが、切りがないのでもう考えたくない。

2017-10-26

TBSラジオフロッグマン・ショー AI共存ラジオ」で人工知能の歴史を聴く(そしてヒヤヒヤする)

最近はTBSラジオで夜にやっている「フロッグマン・ショー」が人工知能をテーマした番組で、毎回楽しみに聞いている。いつもどうりガ番組を聞いていたら、10/25(水)の特集で人工知能の歴史が扱われていた。講師が専門家でなくサイトを運営するほぼ素人なところに不安を感じたが、工学者は歴史を知らないという説明でそこは納得した。そこで始まった人工知能の歴史についての説明を聞いていみたら、私のような(元?)認知科学オタクからするとヒヤヒヤものだった。

人工知能のブームを三期に分けて1950年代、1980年代、つい最近の2010年代と順に説明していた。第一期は(会議名は出なかったが)ダートマス会議の頃なのでそこまでは良かった。しかしその後に、第一期の人工知能の失敗の理由としてフレーム問題を挙げたのを聞いて、「それはまずいだろ!」と心の中でつぶやいた。フレーム問題の説明を注文時のサイドメニューの例でするのも微妙だが、それよりもそもそもフレーム問題は今でも別に解かれたわけではないので、それを第一期の失敗理由にするのはどうかと思った。次の1980年代の第二期人工知能ブームとしてはエキスパートシステムを挙げていて、そこは安心。しかし、次にいきなり最近の第三期のブームに移ってしまったのには頭を抱えてしまった。

もちろん最近のブームはディープ・ラーニングに基づいているのだが、そのためにはコネクショニズムの説明をしないと本当はいけないのだが、そこが全てスキップされてしまった。ディープ・ラーニングについて素人向けにうまく説明できないのは仕方ない(私だってできない)が、その基本となるコネクショニズム(機械学習)について全く触れられなかったのは問題だった。正直な所、本来の専門家である工学者に説明させるのが難しいなら関連領域を研究している哲学者とか科学者でも構わないと思うので、ディープ・ラーニングについてはコネクショニズムの基礎から説明できる(準)専門家を連れてくるしかないだろう。…てかその後にこの文章を書きながら番組を聞いてたら、昔ニューラルネットワークを研究してた人が出てきてびっくり(ただし人工知能の話はそれ以上してない)。

自分だったらディープ・ラーニングにどうたどり着くか

私が説明するならどうするだろうか。理想的にはヘッブ則、マカロック&ピッツ、パーセプトロンPDPモデル(バックプロバゲーション)とコネクショニズムブームまで説明して、ディープ・ラーニングについては層が深いからディープなんだよ〜それで学習効率が良くなったんだよ(ついでにビッグデータにも触れる)程度で済ませるかな。ただ、これだと大雑把な概論講義になってしまうので、基本のアイデアだけに説明を集中しようか。

一般的には脳のモデルとして説明するだろうが、私はむしろ条件付けのモデルとしての説明を優先させるかな。つまり、AとBという2つの物事がどれだけ深く結びついているかをデータから学習していく、のを分かりやすい例として出す。これだけならAとBの2つの要素だけで結びつきを学習できるが、さらに学習すべき物事を増やしていくとそうもいかなくなる。そこで本来学習させたい要素とは別に結びつきを学習する隠れた要素を、学習させたい要素の間に挟み込む(ここで要素間を結びつけた図を見せると良し)。そうすると、なぜだか本来結びつきを覚えさせたい要素同士をうまく学習させられるようになる。じゃあ具体的にどうすれば多くの要素同士の結びつきをうまく学習できるようになるかの説明はすべてスキップ。ここがコネクショニズムの歴史そのものだけど(専門的で難しい上に)素人は知らなくて問題ないので、その結果がディープ・ラーニングだ!で済ます。もうひとつ説明しないといけないのがパターン認識だが、これは学習すべき要素を画像上の点にするだけで済ます。教師あり/なしも結びつきの学習と関連付ければ多分なんとかなる。

あ〜、でもラジオどころかそもそも自分は話するの自体が下手だからこんな妄想は意味な〜し!

2017-09-30

思弁的実在論ハーマン哲学私的に読み込む

いつものように何となくネットを漁っていたら、グレアム・ハーマン「オブジェクト指向哲学の76テーゼ」なる哲学的文書の翻訳を見つけた。グレアム・ハーマンは思弁的実在論で有名な哲学者の一人であり、私はそれほど期待もせず読み始めた。すると、その内容がスルスルと頭に中に入ってくる不思議な感覚に襲われた。思弁的実在論なんて現代思想系が内輪で騒いでるけど所詮は昔の東浩紀の言う否定神学システムでしょ!程度に思っていて、その見解は今でも変わらないが、それが自分にしっくりきたことに驚いた。その主な理由は、私も一時期ハイデガーを熱心に読んでいた時期があって、その時の理解と合致していたからだと思われる。思わぬ拾い物をしてしまったものだ!

ハーマンハイデガー存在論

(特に認知科学界隈では)ハイデガー存在と時間」は最近亡くなった哲学者ヒューバート・ドレイファスによる身体論的なハイデガー解釈がよく知られている。これは解釈としては面白いと思うけど、「存在と時間」の前半だけを取り出して都合よく解釈しただけという印象が拭えなかった。ハーマンは「存在と時間」における道具存在の分析で知られるようになったのだが、それがまさにドレイファスハイデガー解釈とは対照的なものなのだ。

ドレイファスは道具存在の手許存在性を賞賛しているが、私はそこにすごく違和感があった。私自身はハンナ・ヨナスのようなグノーシス的なハイデガー理解の方が(前記から後期までを一貫して理解できる点からも)テキスト的には正しい解釈だと思っていたが、ハーマンハイデガー解釈はこのグノーシス的解釈に近い。素直にテキストに沿って読めば、ハイデガーは眼前存在性に劣らず手許存在性も好意的には思っていない。ハーマンの挙げる壊れたハンマーの例からもそれは分かる。アクセス可能な眼前存在性も手許存在性も超えた存在の本質に向かうのが目的であり、壊れた道具はその本質を匂わしてくれる。存在の本質(実在的オブジェクト)はいかなる関係(アクセス)からも「退隠」されているのだ。

ハーマンホワイトヘッド宇宙論

以上はハーマン哲学ハイデガー存在論の側面だが、ハーマン哲学にはもうひとつホワイトヘッド宇宙論の側面もある。私はホワイトヘッドには詳しくないし、ハーマンの理論をそのものとしてはうまく理解できているとはとても言えない。しかし、当のハーマンには微妙な言及しかされていない汎心論と類比的に結びつけると、その基本的なアイデアは理解しやすくなる(ちなみにホワイトヘッドも汎心論者とされている)。

まず復習すると、物に対して知覚できたり使えたりできることとはアクセス可能なことであり、存在の本質(実在的オブジェクト)はそのような意味ではアクセス可能ではない。これを物にもアナロジー的に当てはまると、物にとっては(通常の)因果関係を持つことは他に対してアクセス可能なことを意味する。ハーマンは物が心を持つとした時、物の心は知覚によって他に対してアクセス可能なものとしてしか考えられていない(「オブジェクト指向哲学の76テーゼ」訳注7を参照)。

しかし、ネッド・ブロックに倣って意識にアクセス的意識と現象的意識があるように、知覚にもアクセス的側面と現象的側面があると考えられる。ここで現象的という言葉ではアクセス可能性が含まれているように勘違いされるので、アクセス不可能な側面をクオリア的側面を呼ぶことにしよう。すると、物の知覚にもアクセス的側面とクオリア的側面があると想定できる。ハーマン自身は汎心論によってアクセス的側面しか想定していないが、汎心論を採用する元々の動機を考える(物理主義によっては説明が届かない意識の領域を理解する)と、クオリア的側面もあると考える方が妥当だ。そこでアクセス的/クオリア的の対をハーマンによる感覚的/実在的の対に対応させると、アクセス不可能なクオリア的や実在的の側が存在の本質に当たる。汎心論はハーマン自身が思っている以上にハーマン哲学との相性は良い。

ハーマンロマン主義的な根

ここまでハーマン存在論宇宙論についての基本的アイデアを追っていったが、それでハーマン哲学のすべてを理解できているわけではない。特に実在的オブジェクトと実在的性質とを分ける必然性はよく分からないままだ。後はハーマン哲学の重要概念である代替因果と魅惑に触れる。代替因果は神学とのアナロジーで理解できることはハーマン自身が触れているのでそちらにお任せする。魅惑については一見すると深遠なオリジナル概念に見えるが、これは哲学史的には(カントに由来する)ロマン主義的な崇高概念を思わせるところがある。いや、そもそもハーマン哲学(しいては思弁的実在論そのもの)は全体的にロマン主義を思わせるところがある。思弁的実在論カント以降の哲学における相関主義批判しているが、思弁的実在論ハイデガーを介してロマン主義継承している点で、相関主義/ロマン主義対立の伝統を引き継いでいるように思われる。世の中に真に新しいものなどそうそうない!

  • 追記(10/4)

オブジェクト指向哲学の76テーゼ」を再読していたら、また思いついた。(第一六項から)実在的オブジェクトというのは分析的形而上学での束説と基体説の対立における基体にあたり、実在的性質というのはドゥンス・スコトゥスに由来するこのもの性にあたる。(第二四項から)感覚的性質とは現象学においてはトロープのことであり、感覚的オブジェクトとの緊張関係とはトロープを物へとまとめあげる困難を指す。

ただし、この解釈はハーマン理解には便利だが完璧ではなく、例えば物にこのもの性が複数あるように把握できてしまうがこれは無茶だ。あくまでアナロジーにすぎないがそれでも取っ掛かりには使える。

2017-09-28

経験的研究と理論的研究の生産的循環としての研究プログラム

私は最近、進化心理学にとってモジュール論はいらない!という文章を書こうとして、ネットで手に入れた関連した論文を読んでいる。私が思いつくようなアイデアなんて大して独創的な訳もなく、実際に似たアイデアを提示した論文はなくもなかった。とはいえ、納得できる論旨の論文は見つからないので、探求は引き続き続行中だが、その中で次に引用する論文を見つけた。

進化心理学が心の計算理論に取って代わることが出来なかったのは、それが心の計算理論だったからだ。進化心理学は「標準的な」計算的認知心理学と進化生物学の適応論プログラムとの結婚だった。

(Louise Barrett,Thomas V.Pollet and Gert Stulp"From computers to cultivation:reconceptualizing evolutionary psychology" p.2より)

この論文("From computers to cultivation:reconceptualizing evolutionary psychology")そのものは、進化心理学についてとタイトルで言っておきながら、その実質はモジュール批判と計算論批判という私のような認知科学オタクからすると耳にタコができるほど聞かされた議論だし、その結論も進化心理学に取って代わるのは身体化論だという私のような認知科学オタクには見込みのない見解にがっくりしてしまった(身体化論の源の一つであるヴァレラら「身体化された心」がトゥービー&コスミデスの有名な進化心理学論文よりも出版が早いのにこの現状なのだから、研究プログラムとしての見込みはなんとやら…)。しかし、ここで問題にしたいのはそんな(つまらない)ところではなく、引用文に暗示されている著者らの進化心理学観だ。

この引用文の前半は知識なしに表面的に読んでもおかしなことを言っている.正確には、確かに正しいことを言っているだけれど、自明トートロジーでわざわざ書く必要がない。認知科学の主流である計算的アプローチに対してのあまりにあからさまな敵対視は結論まで読むまでもなく既に明らかになっている。そして、まさにその偏見のせいで進化心理学(の登場の歴史)に対して正当な見方ができていない。

社会生物学進化心理学に類似のパターンを見つける

進化心理学は(人の)心への進化的アプローチの一種であるが、それは進化心理学の登場以前から既に存在していた。それは社会生物学(行動生態学)である。過去の社会生物学をめぐるややこしい論争について詳しくは「社会生物学論争史」に任せる。過去の論争はどうであれ、結局のところ社会生物学は科学的研究領域として成功した。にも関わらず、(人の)心への進化的アプローチとしては社会生物学よりも進化心理学が受け入れられた*1。それはなぜだろうか。その理由こそ引用文にあるように「進化心理学が「標準的な」計算的認知心理学と進化生物学の適応論プログラムとの結婚だった」からだ。

進化心理学登場以前に、大著「社会生物学」で有名なウィルソンは人の心への進化的アプローチを既に行なっていた。にも関わらず(人の)心への進化的アプローチとして広くうけ入れられたのは進化心理学だった。その訳は、進化心理学が既に認められていた認知科学の成果に則って議論を進めていたからだ。ウィルソンにはそのような議論のための確固とした研究領域に頼ることが出来たわけではなく、そのこころざしにも関わらず単発の試み以上の広がりを持たなかった。進化心理学認知科学(その主流の計算的アプローチ)というそれ自体が有望な研究領域と結びつくことで、新たな研究プログラムを提示できるようになった。実はこうした進化心理学の研究プログラム*2としてのパターンには、成功した先輩にも見られたものだった。その成功した先輩とはまさに社会生物学だ。

社会生物学は動物の行動を説明するという点ではやはり心への進化的アプローチの一種である。それを進化心理学の結婚になぞらえて例えると、社会生物学は動物行動学(エソロジー)と進化論(特に集団遺伝学)のプログラムとの結婚だったと言える。社会生物学においては動物行動学の経験的な研究成果に集団遺伝学から借りた遺伝子中心的な理論が組み合わされている。このような経験的研究と理論的研究の組み合わせは、社会生物学進化心理学とで一致している。確固とした成果を探す経験的研究と客観的に巧みな議論を提示する理論的研究はうまく組み合わされると最高の科学的な研究プログラムを生み出す。その点では、社会生物学は多くの批判にも関わらず生産的な科学として成功したと言える。では進化心理学はどうだろうか?

進化心理学を研究プログラムとして評価する

Darren Burke"Why isn’t everyone an evolutionary psychologist?"進化心理学が主流の心理学にはあまり受け入れられていないことを懸念して、その訳を分析した論文だ。確かに進化心理学は心への進化的アプローチとしては社会生物学よりも広く受け入れられた。熱心な研究者もそれなりに多い。とはいえ、受け入れられた領域は社会生物学ほどには広くなく、お世辞にもそこまでは一般化していない。その理由はいくつか挙げられるし、モジュール論もその理由の一つだと思われる。モジュール論について書きたいことはあるが、今回の論旨とはズレるのでそれは別の機会にする。ここで問題にしたいのは、進化心理学の(ラカトシュ的な)研究プログラムとしての評価である。

社会生物学進化心理学も経験的探求と理論的論議が組み合わされた研究プログラムを提示している事は既に述べた。しかし、社会生物学進化心理学では経験的研究と理論的研究との間の関係がかなり異なる。社会生物学においては、動物行動学による経験的成果が遺伝子心の理論的研究によって論じられるだけでなく、遺伝子心の理論的研究が経験的に検証可能な仮説を生み出して経験的研究に還元しているという良き循環が成り立っている。ところが進化心理学においては認知科学の経験的成果を適応論的に論じることはよくなされているが、逆に進化心理学的な仮説が経験的に検証される機会はとても少ない。進化心理学においては経験的研究から理論的研究へと関係が主に一方方向で、理論から経験的研究への還元が少ない。進化論への正しい理解以前に*3、このような一方的な搾取関係に耐えられない研究者は多いのかもしれない。経験的探求に基づいた心理学理論にとって進化心理学の理論は対等な関係ではなく一方的に説明を与えられるメタ理論でしかない。「なぜ誰もが進化心理学者でないか」(Darren Burke)の理由はまさにそこにあるのだ。

ちなみに、進化心理学以前から心の進化論的アプローチを提示していた身体化論(ギブソンやヴァレラ)は、そもそもの身体化論そのものが研究プログラムとしての生産性が低いので今のところ見込みは薄い。もちろん進化心理学であれ身体化論であれ現時点での私の評価であって将来のことは分かりません(とはいえどちらも登場以来少なくとも二十年超えているのだが)。

*1:以下では、社会生物学と(古典的)進化心理学を別物として扱うが、デヴィット・バス性淘汰論のように微妙な例もある。ここでは標準的な見方に従う

*2:研究プログラムという言葉は科学哲学者ラカトシュに基づくが、アイデアを借りただけで厳密には同じではない。研究プログラムであれ機能主義であれ、哲学的に厳密に論じると問題が多いのだが、大雑把な考え方としては現実を説明するのに役に立つ哲学的概念はある。私は厳密な議論も理解できなくもないが、最終的にはプラグマティストの立場に立つ

*3:実は心理学には適応論的な進化心理学よりも前に既に系統発生的な比較心理学が普及しており、それが近年の霊長類研究の隆盛と結びついている。だから心理学者進化論に不慣れと言う訳では必ずしもない

認知科学リンク

生成文法
Noam Chomsky
Ray Jackendoff

認知言語学
George Lakoff
Gilles Fauconnier
Ronald W. Langacker
Len Talmy
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Adele Goldberg
Paul Kay

哲学
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Paul Churchland
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Daniel Dennett
Hubert Dreyfus
Jerry Fodor
Ruth Millikan
Thomas Nagel
Hilary Putnam
John Searle
Wilfrid Sellars
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Paul Thagard
Evan Thompson
Mark Turner
Tim van Gelder

計算機科学
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Marvin Minsky
Seymour Papert
Terry Winograd
Rodney Brooks

神経科学
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Joseph E. LeDoux
Oliver Sacks
Francisco Varela
Alexander Luria

人類学
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Scott Atran
Roy D'Andrade
Edwin Hutchins
Lucy Suchman
Etienne Wenger

心理学
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