蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-08-09

還元的科学と非還元的人文学対立系譜を乗り越える

学生時代に認知科学に興味を持ってからかなり経つが、その間に認知科学への批判は色々と聞いてきたし、認知科学的な研究がかなり認められるようになった現在でもたまにまだ聞く。認知科学の良い所はそうした様々な批判も取り入れて研究に反映されていることだ。その中でも古典的計算主義への批判は有名で今でもたまに聞くが、今や純粋な古典的計算主義者なんているかどうか怪しい。認知科学は感情を扱えないという批判もあったが、二重過程説や脳イメージング研究によって感情もそれなりに扱えるようになっている。もちろん必ずしも批判のすべてを反映している訳ではないが、科学的に扱えるようにする努力は行われ続けている。しかし、そもそも無理解に基づいた批判についてはどうにも困ってしまう。

困った批判の一つとして、日常的概念を認知科学に押し付けてその用法が間違っているという批判がある。例えば無意識的推論の推論が日常的な用法と違うというのだが、科学には比喩や類推も許されないのかと頭を抱える。このタイプの批判は最近だと現象学者がやっていて、mindreadingは文字通りの意味(心を読む)では行われないと言うのだが、科学者がそうした文字通りの意味で使っているのを私は見たことがない(たいてい心の理論やmentalizingとほぼ同義)。こうした(特に日本の学者による)人文社会科学者による認知科学批判は無理解に基づくものだと感じ、必要以上には取り合ってこなかった。

リベラル自然主義を発見する

最近、晩年の(故)パトナムの哲学を紹介した論文を読んでいたら、リベラル自然主義なる用語に出会って興味を持ったのでネットで関連文献を探してみた。すると、パトナムの独自の用語ではなくて別の学者(De CaroやMacarthur)が推奨している概念だと分かった。彼らの論文を読んでみると、リベラル自然主義の代表的な学者としてよく取り上げられているのが、「第二の自然」で知られるマクダウェルだと分かった。概念主義で有名な哲学者マクダウェルはライルやドレイファスと共に、前節で触れたタイプの認知科学批判をする人文社会科学者が好む哲学者だ。当のマクダウェル自身は認知科学に対してはほぼ無視なのだが、どうしてそうした認知科学嫌いの人文社会学者に好まれるのかはいまいち腑に落ちていなかった。しかし、今回リベラル自然主義についての論文を読んでいたら何となくその背景が見えてきた気がした。

リベラル自然主義についての論文を眺めていて気がついたのは、まずそれが非還元的な自然主義(「Two form of non-reductionive naturalism」)として理解されていることだ。そして、リベラル自然主義の「自然」がマクダウェルの第二の自然のことであり、自然科学の『自然』との対照的な関係として提示されている(「Taking the human sciences seriously」)。こうした特徴に気づくにつれて、私が無駄に持っている哲学史知識が発動し、なんかこれってディルタイの精神科学の話に似てないかと思うようになった。

自然科学との対立としての精神科学

ディルタイの精神科学とは、自然科学に対応する形で提唱された文化を持った人間についての学問である。といっても、ディルタイが「心理学」と言っていてもそれはいわゆる科学的心理学のことではなく、精神科学もむしろテキストの読解によって人を理解する(解釈学的)人文学のことを指している。こうした自然科学-精神科学の対はリベラル自然主義における還元主義-非還元主義の対や(自然科学の)自然-第二の自然の対に見事に対応している。そこにあったのは(自然)科学と人文学との対立関係だったのだ。

しかし、ここまで気づいてもまだ腑に落ちない。(自然科学としての言語学を提唱するチョムスキーには悪いが)認知科学自然科学そのものではない。この辺りの説明はここでは省略するが、大事なのは反認知科学の人文社会学者認知科学批判還元主義批判という形をとっている訳ではないということだ。彼らが重視するは日常的概念なのだが、概念重視は解釈学的人文学の擁護と結びついている。しかしそれだけでは認知科学への敵対視にはまだ結びつかない。注目すべきは「日常」なのだが、そこで思い出したのがフッサール生活世界論だ。

日常的世界としての生活世界論

フッサール生活世界には2つの解釈が可能で、科学的世界に対する日常的世界を生活世界として擁護しようとするハーバーマス型の生活世界理解が一つであり、もう一つはそもそもの科学的世界と日常的世界の双方を生み出しているものとしての生活世界の理解だ。これらはどちらかが正しいのではなくフッサール自身は文脈によって使い分けている。前者の場合は日常的世界(生活世界)の科学的世界への還元を批判するという形では還元主義批判も含んでいる。だが、これを科学的世界の日常的世界(生活世界)への侵食を危険視しているとも受け取ることができる。すると、科学的世界と日常的世界は分離されるべきという考えにつながるが、これは2つの自然の関係は問わないマクダウェルの考えと一致する(『自然的かつ「独特」な概念能力』)。この考え方は科学的世界(科学的イメージ)と日常的世界(明白なイメージ)との関係を問うとするセラーズとは対照的だ(「ジョーンズの神話が残したもの」を参照)。*1

こういう視点から哲学者ライルを見ると腑に落ちるところがある。ライルは論理的行動主義で有名な哲学者だ。行動主義というと心を行動に還元する点で還元主義的に見えてしまう。しかし、「心の概念」の最終章を読むと著者ライルが日常的概念の分析を擁護して機械論を導く科学的行動主義はむしろ批判対象となっている。つまり。ライルにとっての科学的行動主義-論理的行動主義の対は還元的科学-非還元的人文社会科学の対と対応関係を持ったものとして理解されていたのだ。どうりで認知科学嫌いの人文社会科学者がライルを持ち出すはずなのだ。ただ彼らが理解していないのは、認知科学還元主義にも非還元主義にもどちらにも素朴に分類できないこと*2であり、それこそが認知科学が起こした科学革命の静かなる成果なのだ。

認知的存在論を考える

こうして反認知科学系譜を理解できたわけだが、だからといって彼らの認知科学批判が誤解と無理解に基づいたものでとても受け入れられないことには変わりがない。だいたい科学者言葉遣いは日常的用法に従うべきだという考え自体が無茶なものであり、もしそれを言うなら認知科学だけでなく自然科学も同様の批判対象にしていないと一貫性がない。ただこの形の議論認知科学にとって全く無意味かと言うと実はそうでもない。

最近になってこれまでの脳イメージング研究のブームを経て、改めて心的な機能と脳の構造(部位)との対応関係を問う認知的存在論(cognitive ontology)が注目され始めている*3。つまり、心的な機能と脳の部位は決して一対一の対応ではなく、一対他や多対一であることが共通の認識となってきている。そこから機能局在論を捨て去る学者もいるが、だからといって今更素朴な全体論を支持することなどできない。そこで脳の構造をスモールワールドネットワークとして見る脳観も出てきているが、それだけでは心的機能との関係は分からないままだ。そこでもう一方からの見方として、そもそも心的機能の捉え方に問題があるという見方もある。認知科学(心の科学)での心的機能の捉え方が、所詮は私達が日常的にしている素朴心理学(folk psychology)や素朴概念(folk concept)に囚われたままであることが原因ではないかということだ。こうした側面は感情心理学においては心理学構成主義として問題になっている(例えば「なぜ概念・定義が問題となるのか」を参照)。しかし、素朴概念への囚われは認知科学(心の科学)の否定ではなく、(素朴な理解をしやすい)ニュートン力学から相対性理論への進展に値するような新たなる科学的発展が待ちわびられていることを意味しているのだ。

*1:科学的世界と日常(人文)的世界については、分離派であるディルタイ~マクダウェル型と関連づけ派のセラーズ型と分類できる(「経験論の再生と二つの超越論哲学」も参照)が、フッサールの2つの生活世界論(狭い意味と広い意味)もこの分類に大体当てはまる。セラーズの広い意味の生活世界的な側面については「経験論と心の哲学」の最後の節も参照。セラーズは科学的世界と日常的世界をどちらも同じく(言語を用いた)人の営みとして捉えており別々に分けてはいない

*2:例えば計算論。心の計算モデルは(全体として)神経系に基づいて実装されているはずだが、還元可能かは単に分からない

*3:認知的存在論の簡潔な紹介を含む論文としては「Cognitive ontorogy and region- versus network-oriented analyses」がある。本当はこうした問題について考えるきっかけを与えてくれた素晴らしい英語の文献があるのだが、まだ思い入れが強すぎる(まだ十分に読み切れていない)のであえてここでは紹介しない

2018-07-09

身体化としての社会的プライミングとは何か?

近年になって身体性認知科学が流行っていると言われることがある。確かに文献の数の上ではその気配はあるが、その実態は怪しいところもある。特に身体性や身体化についての考え方が論者によって様々で定義がよく分からない上に、どこまでが科学的に意義のある話かも相当に怪しい*1。元々は身体化論そのものについて概観する記事を書こうと計画していたのだが、記事として長くなりそうだし、そもそも21世紀に入ってからの身体化論の説明にはそこまで自信が持てるわけではない上に(認知科学関連も含め)他にも興味のあることがあるのでそうは構ってられない。という訳で、近年の身体化論の中では比較的科学的に意義の有りそうな社会的身体性についての記事を書くことにした。

社会的プライミングとは何か?

社会的身体性(social embodiment)に注目が集まるようになったのは、実験社会心理学の発見である社会的プライミングが身体化論と結び付けられることで生じた。そこでまずはプライニング効果について説明しよう。

プライミング効果とは?

プライミング効果とは心理学実験によって見い出された現象である。前もって何かしらの刺激を提示しておくと、その後に行われるその刺激とは無関連な試行(例えば記憶テスト)において、前に提示された刺激の影響を受けることである。詳しい説明は「プライミングの認知心理学」を見てください。ここでは関連するものとして意味プライミングだけ説明しておくと、直前に提示された刺激と意味的に関連した事柄が思い出しやすかったり素早く反応できたりすることである。プライミング効果の特徴としては、それが意識されない潜在的な過程であることであり、別に直前の刺激を思い出して連想していたりしている訳ではない(というか、たいていできないように実験計画されている)。

身体化としての社会的プライミング

元々のプライミング効果は主に認知的なテストによって発見されている。それに対して、社会心理学において事前に提示された刺激がその後の(より広い)行動へ影響を与えるような現象が報告されるようになった。有名な研究としては、事前の課題で老人に関連した言葉に触れた後は歩行速度が遅くなるものがある。こうした事前の刺激がその後の思考や行動に影響を与える現象はその類似性から社会的プライミング(social priming)と呼ばれる。通常のプライミングでは前の刺激とその後の現象とでどちらも言葉同士のような同種の対象だったりするが、社会的プライミングでは言葉と行動・感覚と思考などのように異なるモード感で影響関係があり、そこから身体化論との結びつきが意識されるようになった。詳しくは「身体と外界の相互作用から醸成される社会的認知」などを参照してください。

社会的身体性についての2つの理論的基礎

社会的プライミングから社会的身体性への注目へと発展していったのだが、ここではその説明の基礎となる2つの理論を紹介します。これから書くことにはアンチョコがあるので詳しくは「Grounding social embodiment」を見てください。日本語の関連文献としては「単語の意味の計算論的探求」が参考になります。

知覚的シンボルシステムと概念的メタファー理論

1つ目の理論はBalsalouによる知覚的シンボルシステムである。それまでの言葉の意味は概念同士の関係のネットワワーク(例えば、動物-犬-吠える...)として理解されるのが一般的であった。そうした概念だけの内側で閉じた理論を批判し、概念が他の様々な感覚と結びついて理解されているとした。そして、それは目の前にある物について当てはまるだけでなく、不在の対象に対しても関連した感覚が(意識されずとも)心の中でシュミレーションされて理解されるとした。この考え方を取ると、老人と緩慢さが単に概念内で結びついているだけではなくてシュミレーション的に結びついていることで身体にさえ与えている...と社会的プライミングを理解することができる。

社会的プライミングを理解するためのもう一つの理論は、Lakoffのよる概念的メタファー理論である。言葉の意味というのは一般的にはモノの種類や属性(例えば犬や赤い)を直接に示していることが多い(形式意味論も参照)。しかし、例えば「考えが甘い」や「心が広い」のようにもともと示されていた感覚の種類とは異なる対象に比喩的形容される語の使用法もある。実は社会的プライミングにもこうした概念の異なる感覚間での影響が見られる現象が報告されている。例えば苦いものを口に入れた後には道徳的に厳しい判断をするようになるという実験がある。「皮膚感覚の身体化認知の展望とその課題」には他の関連した実験が紹介されている。

Lakoff自身は比喩的意味を(Balsalouの批判する)概念のネットワークで理解していたが、Balsalouの理論と組み合わせることで、現前か不在か・直接的か比喩的かの違いに変わらず概念を身体的に理解する道が広がってくる。そして、そうした概念の身体的理論を経験的に裏付けているのが心理学実験の成果である社会的プライミングあるといえる。

再現性の点で疑われる社会的プライミング

身体性理論が経験的な証拠に裏付けられた状態で体系化されているというのは、私の印象では珍しく(身体化論に厳しい私でも)注目すべきだと思われる。しかし残念なことに、心理学再現性危機の波が社会的プライミングの成果を押し潰そうとする事態に陥っている。

『心理学における再現可能性危機』追加ノート」にあるように、社会的プライミングは心理学実験として再現するのが困難な典型例として有名になってしまった。社会的プライミングは身体性理論を(後付の説明でない形で)直接に裏付け心理学的な経験的証拠として貴重な事例なだけに、身体化論にとって重大な危機であるはずだ(ただし当の身体化論者の危機意識は薄い)。これを救う道はあるのだろうか?

心理学実験の再現性危機研究者の問題(例えば有意差が出るまで実験を続ける)や統計上の問題(例えば仮説への二者択一的判断)などから成っている。こうした問題は直せば済むのでまだ良い。基本的には再現実験の積み重ねによる真偽を待つしかない。しかし、身体化論ならではの問題もある。身体化論には大雑把に強いものと弱いものがあって、強い身体化論は認知活動はすべて身体と関わりを持っていると考えるが、弱い考え方ではそこまでの想定はしない。(後付のもっともらしい説明は脇によけると)強い身体化論を採用すると社会的プライミングの再現失敗を説明するのが困難になるように思われる。むしろ弱い身体化を採用して、社会的プライミングが成功する条件を探る方が科学的に生産的だと思われる。直観的にも、概念が常に身体化された状態で理解されると考えるのには不自然さがある(例えば言葉を表面的な記号列としか読まない時とか)。(思弁的な身体化論で平気な人は放っておくとしても)少なくともこんなことで科学的な身体化論が捨てられてしまうのはもったいない。議論と検証が繰り返されることこそが科学なのだから。

*1心理学者による誇大妄想的な身体化論への批判としては「The poverty of embodied cognition」を参照。科学的な視点からは、曖昧・発見がない・無意義・他のテーマで代替可....といった指摘にはうなずかざるをえない

2018-06-25

なぜ今の人工知能ブームは認知科学とあまり関係がないのか?

現在は三度目の人工知能ブームだとも言われている。それは深層学習と呼ばれる機械学習の発達による成果によるところが大きい。しかし、人工知能と関連が深い認知科学ではそうした人工知能ブームの影響はあまりない。人工知能そのものについては様々な良書が増えてきたのでそれを読んでほしいが、この辺りの事情については (日本では語れる人材がいないせいもあって)語られることはあまりない。

核心に入る前に確認しておきたいのは、認知科学関連では世間的なブームと学問的なブームに乖離があることも多いという点だ。人工知能には三度のブームがあったされている。一度目のブームはおそらく人工知能が提唱されたダートマス会議の頃だと思われるが、世間的によく知られていたのはむしろ映画「二千一年宇宙の旅」のHALだと思われる*1。この時点で現実と虚構で違っている。二度目のブームは1980年代のエキスパー卜・システムの頃でこれについては最近の説明でもまず触れられる。しかし、同じく1980年代にはコネショクニズム・ブームというニューラルネットワークの学問的なブームが起こっていた。むしろエキスパート・システムのような考え方は古典的人工知能として批判されつつあったのだ。そして、現在の三度目の人工知能ブームはこうしたニューラルネットワークを改良した深層学習の華々しい成果が元となって起こっている。しかしそれはあくまで技術的な改良であって、脳のモデルとはあまり関係がなくなってしまっている。

現在のニューラルネットワーク機械学習)は脳のモデルとしては構造的にも機能的にも脳とあまり似ていない。確かにニューラルネットワークは初期のアイデアとしては脳をモデルにして作られたのだが、現在の複雑になったニューラルネットワークを(比喩以上の意味で)脳に似ているということには無理があるし、そういうものとして意図して改良された訳ではない。更に問題なのは、現在のニューラルネットワークは現実の脳(心)と機能的にも似ているとは言い難いことだ。深層学習を中心とした現在の人工知能パターン認識が得意で意味的な言語処理が苦手だといった、人工知能になにができるか?の問題は巷の人工知能本にあるような知識なので、詳しくはそっちを読んでください。ここで焦点を当てたいのは、深層学習は学習のために大量のデータを必要とすることだが、それは人の心の特徴としてよく指摘される刺激の貧困問題(プラトン問題)に明らかに反していることだ。つまり、人が現実に触れられる経験は量的に限られているのに、どうしてそこから必要な規則を学ぶことができるのか?という問題だ。過去にはそうした問題に答えるためにエルマンネットのようなニューラルネットワークが考え出されたこともあったが、それは第二次ブーム時の話で今回とは関係がない。ある種の機械学習は今でもニューラルネットワークと今でも呼ばれているが、それは過去から引き継がれた名前なのであって、別に今のニューラルネットワークが現実の脳と構造的にも機能的にも似ていることを意味している訳ではない。

*1:ちなみに、初期のニューラルネットワークのアイデアはこの頃にだいたい出ている

2018-06-24

空虚人工知能脅威論より恐ろしいこと

最近は人工知能ブームで様々な人工知能論が増えてきた。しかし、残念ながらその中には人工知能についての正しい知識の基づいていないろくでもない話も多い。あの有名なTED講演にさえそれがあったのを見つけたことがこの記事を書こうとした動機になった。

中身の空虚一般化された人工知能脅威論

比較的最近の日本語訳の付いたTED講演をいくつか見ていた。その中に流行りの人工知能についての講演があったので期待して動画を再生してみた。感想としては、知識に則った興味深い講演がある一方で、知識の基づかない恐怖を煽るだけの一般化された人工知能脅威論もあることに驚いてしまった。私には元々人工知能の基礎知識がある上に最近の論文も読んで勉強したので、講演を聞いていればなんとなく...こいつ実はよく分かってないなぁ〜と感じられてしまう。

私が中身が空虚だと感じたTED講演はいくつかあるが、比較的それが分かりやすいのが人間より優れた人工知能を作って制御を失わずにいるのは可能かだ。講演タイトルからすると面白そうだし講演者が元々科学者だからまともな内容なのかと期待したくなる。実は私もそうだった。ところが実際にこれを聞いてみると、人の恐怖を煽るタイプの一般化された人工知能脅威論だった。SF的な人工知能論が批判されていてはいるが、そのじつ彼の語る人工知能の脅威はどうも抽象的で実際の人工知能がどんなものであるかを知っているように思えない。一見すると話が巧みなのでつい引き込まれてしまういそうだが、具体的にどうしたら人工知能が脅威になるのかは話しているようでいて実は大してしてない。こういう口がうまくてもっともらしい話を次々と繰り出すが、知識に基づいて真面目に検証すると実は中身がスカスカ...みたいな奴は日本ではよく見かけるが(もっと巧みな形で)欧米にもいるんだと感心した。

だからといって、人工知能脅威論すべてが嘘っぱちだと言う訳ではない。例えば、人工知能が人の職を奪う論はそれ自体では間違いではない。ただし、これまで様々な技術が散々人の職を奪ってきたのに、人工知能だけが特別に脅威の対象にされるべきかは私には疑問だが。

アーキテクチャに埋め込まれる人工知能

実はTED講演には興味深い人工知能(脅威?)論もある。より技術的な方面の講演でも面白いものはあるが、ここで紹介したいのはネット広告の仕組みが開くディストピアへの道だ。講演タイトルからすると人工知能とは無関係そうだが、講演内容を聞くと案外そうでもない。この講演者の優れた点は人工知能が所詮はアルゴリズムでしかないという扱いだ。人工知能が人のように意識や意図を持つといったSF的な設定はもちろん現実的ではないが、人工知能が人の知性を超えると言う話もその人の安易な知識や感情が投影されているだけのことが多く、学問的には人工知能の知性を測るとされたチューリングテストが否定されて代わりが模索されている中で、どうすれば人の知性を超えたと言えるのかさえよく分からない。そもそも部分的に見れば人工知能は既に人の知性を超えている(分かりやすい例では囲碁)。可能かどうかさえよく分からないシンギュラリティなんかよりも、現に起こりつつあることの方がよっぽど恐ろしい。

詳しくは講演を見てほしいが、インターネットはその利用者が欲するものばかりを提示してくれるが、人工知能はそれをより加速させることになりうる。利用者に提示される欲するものはより極端な方へと振れていき、所謂フェイクニュースにまでたどり着く。そこまで行かなくとも、入ってくる記事なりつぶやきなりが自動的に利用者の好む方ばかりに偏るようになる。さらに恐ろしいのは、そうした選択が誰の特別な意図でもなく人工知能のようなアルゴリズムによって勝手になされてしまうことだ。そうしたネット空間にいることは快適ではあるが、そこでの情報の偏りは民主主義や科学を危機に陥らせてしまう(というより既に現にしつつある)。人工知能差別を学習したとしても、それは単にデータから学習されたに過ぎない。そこには何のイデオロギー的な意図もなく、政治的に一方に偏った内容だけが提示されることになりうる。その結果として(科学的には地球温暖化は事実だがその原因では意見が分かれているのだが)大国大統領によって地球温暖化そのものさえ否定されてしまっているが、その程度はまだ序の口なのかもしれない。

アーキテクチャによるディストピアの恐ろしい所は、人々に恐怖をもたらす従来のディストピアとは異なり、自らの世界の中に閉じこもることによる快適さから成り立っていることだ。人工知能は人々の生活を便利にする側面もある一方で、そうしたディストピアを支える技術にもなりうるのだ。

2018-06-17

神経科学者セスによる予測符号化についてのTED講演を見よう

脳が「意識された現実」という幻覚を作り出す仕組み

TEDは学者や企業家をはじめとした様々な注目すべき人たちによる講演を動画として公開している有名な所だが、たまたま専用アプリが目に入ったので試しに見てみた。TED講演の存在は以前から知ってはいたが英語が面倒で長らく無視してきたが、最近は日本語字幕付きの動画が増えて見やすくなっている。その中で最近の調べ物でよく目にした学者による講演があったので見た。そうしたら思った以上に優れた講演だったので是非ここでお勧めしたくなった。この記事の冒頭にあるリンクから見れるのでどうぞ。

最近の調べ物というのは、このブログでもすでに取り上げている予測符号化(predictive coding)のことだ。講義のタイトルからすると意識についての講演だと思ってしまうが、内実は予測符号化(から見た意識)についての入門講義となっている。予測符号化についての良書としては既にフリスの本をここで勧めているが、別の第一人者による入門講義がネットで見れるのは喜ばしいことである。詳しい説明はやはり書籍の方が優れているが、実験を視覚的に確認できる点では講演の動画が優れている。興味を持った方はどちらも眺めてみても損はないです。

17分程の講演で軽い入門レベルの話しかできていないが、初心者には見やすいものとなっている。ただ最近のセスの研究対象である内受容感覚についても終わりの方で触れられてもいるが、本論の予測符号化についての話とは分離気味なのは残念だが、これは文字通りに現在進行形の研究なので仕方ないだろう。

予測符号化についての私的見解

セスもフリスと同様に予測符号化を世界は直接に知覚されている訳ではないとしている点で観念論的だが、科学的にはこれが正統派の理解だろう。その点では予測符号化を好む身体化論者アンディ・クラークとは調和しない感は拭えないが、予測符号化が得意とするのが主に感覚・運動のような低次認知が中心であることを考えると、その好みも理解不可能というほどでもないような気もする(高次認知との関係が謎なのはクラークに対する昔からの謎で、今に始まったことではない)。

ここからは個人的に考えたことばかりで、一般的な見解ではありません。なぜ予測符号化が生じたのかと考えると、それは世界におけるリアルタイムな対応を可能にするためではないかと思われる。なぜリアルタイムな対応のために予測が必要かというと、現実の世界でのリアルタイムな対応において必要とされる速度と、神経系においてリアルタイムで処理可能な速度との齟齬があるせいのではないかと考えついた。現実のリアルタイムな対応を実現する最も簡単に思いつく手段は神経系においても現実の世界での対応速度と同じ速度で同時間的に処理することだが、そうでないのは単に神経系における物理的限界(又は効率の悪さ)によってそれが不可能だからに過ぎない。しかし、現実へのリアルタイムの対応ができないと自然淘汰によって生き残ることはできない。そこで進化した手段が、現実の世界の動きを予測(と学習)することによって、神経系の処理速度の相対的な遅さにも関わらず現実の世界に素早くリアルタイムに対応できるようになったのではないか?と思うようになった。こうした点はスポーツの世界で典型的に見ることができるはずだ。私達はボールの動きに文字通りにリアルタイムに対応しているというよりも、ボールの動きを学習の結果として(無意識に)予測することによって身体を動かすのだ。

と、ここまで考えて反論を思いつく。アンディ・クラークが好んで取り上げるトップダウン効果は予測符号化による説明に適しているが、これをリアルタイムな対応のためだと言い切ってしまうことにはまだ躊躇がある。黒人への無意識の偏見が前もってあれば危険を避けられる…とすれば偏見を現場でのリアルタイムな対応のための準備だと考えることもできる。しかし、そうした無意識の偏見は必ずしも現実のリスクをそのまま反映したものとは言い難く、本当は根拠のないただの偏見でしかないことも多い。トップダウン効果は低次認知と高次認知の境界に当たる現象で、予測符号化のリアルタイム対応説がそのまま当てはまるのかは疑問も多い。

2018-05-14

人工知能ブームに乗った漫画から考えた

最近になって人工知能を扱った漫画は増えているが、この前はキンドルで「バディドッグ」が無料で試し読みできたので読んでみた。(残念ながら?)人工知能を扱った漫画の多くは現実の人工知能の進展とは無関係な純粋なSF的設定であることが多く、単なるフィクション(虚構)以上でも以下でもなく、認知科学オタクの私が述べるべきことは何もない。そんな中でもロボット開発を扱った漫画「アイアンバディ(1) (モーニング KC)」は有名な科学技術ジャーナリストが監修に関わっていたせいか、第一巻を読んだときはロボット(人工知能)についての設定がリアルなせいもあって夢中になり、ケチな私には珍しくその第二巻を有料で手に入れた。しかし、第二巻の半ば辺りから人工知能に関しての設定のリアリティーが失われてしまって(人工知能の能力が過剰になっていて)がっかりした覚えがある。それに対して漫画「バディドッグ 1 (ビッグコミックス)」はストーリー上の設定は、幾多もの人工知能を安易に使った漫画と違ってよく考えられてはいるが、それでもツッコミどころも多くフィクションとしての要素が強い(ストーリー上のリアリティーでは「アイアンバディ」第一巻には所詮およばない)。ただ私が驚いたのは、その漫画に描かれている人工知能についての知識が正確で現実的だったことだ。特にクラウドと結びつけた話はなかなか出てこない話題なので感心してしまった。その人工知能に関する知識が正確な「バディドッグ」の中でも人工知能の強いと汎用が同じに扱われているのだが、これは作者の責任ではなく日本で人工知能について語る論者の知識が微妙に怪しいせいなので仕方ない所はある。

この辺りの話題については前回の記事を出した後も考えるのだが、(残念ながら学者も含めて)知識の怪しい論者が堂々とそれについて語る日本の問題は脇に置いても、前回に述べた理由の他にも人工知能について強い/弱いの対と広い/狭いの対がごっちゃになっているせいではないかと思われる。人工知能について汎用/特化の対は広い/狭いの対とはかなり一致するのだが、強い/弱いの対とはあまり一致しない。能力の汎用性の範囲が(程度の差はあれ)人間並みか人間を超えるのかの違いは端に寄せておくにして、まず汎用人工知能が可能であったと仮定して、その汎用人工知能が心を持っているかはそれ自体が議論の余地がある。つまり汎用人工知能であるにも関わらずそれが弱い人工知能である(心を持っていない)という想定は可能だ。もっとあっさり言い切ってしまうと、人工知能において強い/弱いの対は哲学的な問なのに対して、広い/狭い(汎用/特化)の対は工学的な問と関わりを持っている。更に言い切ってしまうと、強い/弱いの対は1980年代辺りの昔の人工知能ブームでの話題であって、最近の人工知能ブームではあまり中心的な位置にはない。

人工知能については日本では意識や自我もよく話題に上がっているが、意識についても行動主義のようにそもそも意識の存在を認めない立場もある(根本的に反駁されたわけではない)し、自我に至ってはどう定義すればいいのか私にはよく分からないしそもそも(認知科学オタクの私でさえ)そういう議論を見たことがない。日本での人工知能の話は安易に人とのメタファーに頼りすぎではないだろうか?

2018-05-09

人工知能ブームのとばっちり

いつものようにネットで調べものをしていたら、あるサイト(AIの真の可能能を見極めよ)で人工知能について私の知っていることとは違うことが語られていた。やっぱり自分が口出さないといけないのかな〜、でも正しいサイトがあればそれでいいや!と思って他のサイトも調べてみた。さっそく検索上位をいくつか見たのだけれど、該当の点については正しいのだけれど別の点が間違っていた。しかし別のサイトでは逆だったりと、堂々と紹介できるサイトがない。最近は自分は論文を読むことが多いのだけれど、そっちでもいい感じの文献が見つからない。ネットはたしか便利だけれど、案外必要な情報は(内容が間違っていたりもして)うまく手に入らない。

疑問に感じたのは強い人工知能のついてなのだが、上に挙げたのも含めて人工知能が意識や自我を持つことだと説明していることが多い。強い人工知能の源は哲学者サールだけれど、そこまでは指摘しているのに説明は同じだったりする。「マインズ・アイ」なら手許に持っているので、一応そこに収録されているサール「心・脳・プログラム」を改めて見なおしたけれど、やっぱり自分の方が正しいと確信した。強い人工知能ってのは人工知能が文字通りに心を持つと言えるか?の問題であって、そうでなければサールの提出した中国語の部屋を理解できない*1。ちなみに、同じような誤解は汎用人工知能についてもあって、正しい定義は論文汎用人工知能概観」を見てください。汎用人工知能は特化型人工知能ではない…というネガティヴな定義をしておくのが穏当だ(汎用性の幅の定義は今のところ人によってバラバラで困難)。強い人工知能を信じている人は汎用人工知能を目指しがちかもしれないが、結びつきが必然的な訳でもない。

こんな勘違いが起こったのは、そもそも書き手が文献をまともに参照してないせいもあるが、それ以外にも人工知能に触れた最近のサイトが話題のシンギュラリティーに触発されたものが多く、そこからの偏見が働いているせいだろう。シンギュラリティーについては初めに聞いた時から馬鹿にしていて、まともに人工知能知識を持っていれば素朴には受け取れないことだけは確かだ。これはシンギュラリティー(人工知能の知性が人を超える)が可能か不可能かの問題ではなく、そんなことを真面目に議論するほどの段階になどさっぱり達していないからにすぎない。これについてはいい記事があるのでそれを参照してください→AI - その革命はまだ起きていない、そして起きそうもない*2

今回の人工知能ブームといいその前までの脳科学ブームといい、ブーム時には生半可な知識で適当なことを言う奴が目立ってきて困る。その中には学者もそれなりに含まれているのが頭が痛い。本当は今回の調べものはIA(知能増幅)についてであって、スマホタブレットはIA構想の実現ではあるけれどインターネットとの結びつきはIA論者の想定ではなかったはず…という話を考えていたのだが、その話題の中心である知識の問題(IAの想定していた知識インターネット媒介の不確実な知識すとは異なる)がその調べ物中に立ちはだかった。これまた別に考えていた、現代の教養は知識ではなくて*3(メディア)リテラシーなんだと改めて確信した。

*1:心の有無と意識の有無は別に分けるべき問題

*2:ちなみに、この記事中の翻訳エッセイに「現在AIとよばれるものは、工学関連の分野での低レベルのパターン認識やモーション・コントロールに関するものか、」とある低レベルとは、高次認知(思考や言語)と低次認知(知覚や運動)の対照における低レベルのことだ。もちろんモーションは運動のことだし、パターン認識は知覚で起きることだ。質が低いとか基礎的という意味ではない

*3:教養となる知識は論者によってバラバラ(歴史とか経済とか古典とか)でさっぱり一致しない。要するにその論者にとって都合のいい知識が教養と称されているだけだ

2018-03-24

フリス「心をつくる」によってpredictive codingについてのモヤモヤをなくす

前回紹介した「心をつくる―脳が生みだす心の世界」は本当に今になって読んでよかったと思っている。これを読んでpredictive codingに関して感じていたモヤモヤがなくなってきた。それをいくつか挙げよう。

前々回に紹介した「予測的符号化・内受容感覚・感情」は良い論文だが、どうしても違和感があったところがあった。それはpredictive codingを説明するところでヘルムホルツの無意識的推論について言及しているところだが、これはなんか違うと思っていた。これはこの本を読んだらスッキリと解消されて、ヘルムホルツの無意識的推論は前半の二重過程説で扱われていて、後半の予測脳の話では同じヘルムホルツでも不安定網膜像にも関わらず安定した世界を知覚できるのはなぜか?という疑問の方が取り上げられていた。私もこれが妥当な扱いだと思う。実は私が違和感を感じた理由はヘルムホルツの無意識的推論というとリチャード・グレゴリーのインテリジェント・アイを思い出すからだが、著者のフリスは若い頃にリチャード・グレゴリの授業を受けたことあるようだ。

哲学者アンディ・クラークは私がpredictive codingを知るきっかけを与えてくれた点では感謝するが、彼のpredictive codingの扱いはその理解にむしろ障害をなってしまう。その理由はアンディ・クラークがpredictive codingを身体化論を結びつけているせいだが、ここには違和感しか感じない。上で取り上げたヘルムホルツの謎を見れば分かるように、predictive codingには網膜像(二次元)から世界(三次元)を推測するという考え方がある。身体化論の源の一人である心理学者ギブソンはこうした間接的な知覚理論を批判して直接知覚説を主張した。アンディ・クラークがpredictive codingを取り上げて有名になった論文「Whatever next? predictive brain, situaed agents, the future of cognitive science」にクリス・フリスは連名でコメントを書いているが、そこでフリスはこの本「心をつくる」を挙げて、predictive codingの非直接的な知覚理論はクラークの身体化論的な直接説と矛盾するのでは?と指摘している。私もそう思うし、それどころか身体化論はpredictive codingの理解を妨げる可能性さえ高い(少なくとも自分は困った)。

アンディ・クラークのこの論文障害になるもう一つの面は、彼がpredictive codingを心についての統一理論(普遍理論)だと称しているところだ。そこまで言い切られているところも私がpredictive codingに関心をもった原因でもあるので皮肉なのだが、これも私のpredictive codingへの理解を明らかに妨げた。アンディ・クラークのpredictive coding論文が出たのと同じ年に同じ雑誌で言語の産出と理解をpredictive codingから統一的に理解しようとした「An integrated theory of language production and comprehension」という論文が出たのだが、ここにGregory Hichokによるこの論文へのコメントが載っている。ここでpredictive codingの源を探ってこれは元々感覚運動の理論であることを指摘して、それを言語に安易に応用する事を批判している。アンディ・クラークは言語については特に触れていないが、この指摘は核心を突いている。フリスの本「心をつくる」を読んでも出てくる例は感覚運動の例を超えていない。この本では社会性についても論じてはいるが、それは示唆にとどまっている。フリスの本に取り上げられていない例を挙げるにしても、Gregory Hichokが挙げるのはプライミングやトップダウン効果(または文脈効果)であるが、これだけでは言語にはたどり着いていない(プライミングは記憶理論なので一見すると例外に見えるが知覚からの想起に関わるので一概にそうは言えない)。私の見解では、predictive codingは射程の広い理論かもしれないが、心についての統一理論だの普遍理論だの称するのは昔のコネクショニズム・ブームの二の舞にしかならないと思っている。堅実に様々な経験的研究と関連付けることでその射程を広げることはできると思うが、それ以上の過剰な(思弁的)期待は益するところが少ない気がする。むしろ大風呂敷を広げすぎない方がベイジアンとの関係も見えやすくなるので、その側面からも利点がある。

私の印象では、predictive codingは心についての統一理論(普遍理論)そのものというよりも、心についての統一理論(普遍理論)へと向かうための重要な段階だと思う。階段を一気に上がれるかもしれないという思弁的な妄想に浸るよりも、確実に階段を上がっていくための経験的な道を歩むほうが私には好ましく見える。

2018-03-22

[]クリス・フリス「心をつくる」

心をつくる―脳が生みだす心の世界

脳イメージ研究の大御所が一〇年以上前に予測脳について書いていた先駆的な心の科学入門の書

近年、心の科学(認知科学)界隈で予測脳(予測的符号化)がよく話題になっているのだが、その関連でこの本の原著の存在を知った。その後で翻訳の存在を知って手に入れて読み始めた。翻訳書の発売当時にも書店の新刊棚で見かけた覚えがあるはずなのだが、その頃はよく出てた心の科学入門のひとつ程度にしか思っていなくて、きちんとは目を通してはなかった。その判断は半ばは間違っていなかったのだが、もう半面の興味深さは今になってやっと理解できるようになった。確かにこの本の前半は二重過程説に則った心の科学入門であり、そんな本は既に山のように出版されている。しかし、後半の予測脳についての分かりやすい解説は今もって他に代替品のない貴重なものとなっている。一〇年以上前に出た本なのに、長らくの認知科学マニアである私のようなすれっからしでも面白く読めることに驚いた。(今この本の価値を正しく評価できる人がいるとはとても思えないが故に)こんなに強くお勧めしたいと思った科学書は私としては珍しい。

著者のフリス・クリスは初期の頃から脳イメージ研究に関わっていた心の科学における大御所だが、この著作一般向けに書かれた心の科学についての入門書だ。文章も読みやすく本当の素人でも分かりやすく書かれている。その時点で心の科学入門としては良書だし、日本での評価はそんな感じであり自分もそう思っていた。特に第一部は二重過程説に則った心の科学についての解説であり、よく書けている方ではあるがそうしたテーマの本は日本でもたくさん出ていて珍しいものではない(おそらくその中で最も有名なのはカーネマンの行動経済学の本だろう)。私のこの本への当初の評価もこの辺りに沿っていたのだろうけれど、実はこれは後半の解説の準備でしかなかったのに気づくのはつい最近になってからだ。

この本の第二部は予測脳(予測的符号化)についての解説になっている。こここそが今もって持っているこの本の価値であり、(最近になって関連本が少しは出始めたが)ここまで分かりやすい解説は今でも代わりとなるものはないに等しい。強化学習(条件付け)、自己、ベイジアン、といったことを話題にしながらいかに脳が予測を用いているかが分かりやすく解説されている。ただし予測と言っても意識的にする予測ではなく、脳が無意識にする予測のことであり、それによって私達は日常生活をスムーズに営むことができるようになっているのだ。そう、前半の二重過程説の話は、後半の脳は無意識で予測を行なっているという予測脳の話をするための準備だったのだ。しかも、これまで関連論文をいくら読んでもあまりピンと来なかった予測脳関連の用語がスッキリと説明されていて、この本を読んで本当に助かったと思った。この本の説明はあまりに分かりやすくて素人はあっさりと読み進めてしまうだろうが、私のような認知科学オタクはあっさりとされてる説明が実は奥深いのに気づいてしまうので、ただただ感嘆するしかない。本物ほど知識をひけらかしたりはしないものなのだ。

第三部とエピローグは第二部でした予測脳を社会性に応用した話だが、さすがにこの辺りは今読むと物足りない。しかし、これは利他性研究や(特に無意識の偏見を扱った)社会的認知研究が本格的に注目されるようになったのがこの本の原著が出版された後なので仕方ない。むしろこの段階でこうした社会性のテーマに触れている事自体が先見の明だとも言える。十年以上前に出た本なので今となっては足りない所があってもむしろ当然だが、逆に言えばにも関わらず今でも読む価値のある本である事自体が奇跡的なことだ。

心をつくる―脳が生みだす心の世界

心をつくる―脳が生みだす心の世界

2018-03-09

predictive codingに関連したいくつかの疑問

ここ近年はpredictive codingについて調べることが多い。これはアンディ・クラーク経由で知ったのだが、科学者であれ哲学者であれ話題にする人は増えてきている印象がある。日本語の文献についてはいいものがなくて長らく困っていたのだが、やっと「予測的符号化・内受容感覚・感情」を見つけたので、詳しい説明はこちらをお勧めします。とはいえ、より理解を求めて勉強するには英語の文献を読むしかなく、理解の浅いテーマを外国語で読むのはきつくて苦労している。中には話題の流行に乗っている感の強い学者もよく見かけ、一時的な流行なのか本物の普遍理論なのか判断しかねるところもまだある。まだこの辺りは学習中で間違いや勘違いもあるかもしれないが、勉強と備忘録を兼ねて、ここではpredictive codingについて疑問に感じたことをいくつか挙げてみたい。

predictive codingにベイジアンは必須なのか

ベイジアンについてネットで調べているとpredictive codingに触れているのを見かけることは多い。今現在の私はベイジアンは勉強中だが、predictive codingのベイジアンとの関係にはピンとこないところがある。表面的には、冒頭で上げた日本語論文にあるように、事前確率と予測モデル、尤度と現実からのデータ、事後確率と結果としての心的状態という関係は分かる。しかし、私が最初にベイジアンモデルを評価するようになったGriffiths&Tenenbaumの研究がベイジアンを認知モデルに直接に利用しているのに比べると、predictive codingとベイジアンの関係はアナロジーでしかないような気がしてならない。せいぜい感覚運動(sensorimotor)の数理モデルになら直接適用できるかもしれないが、普遍理論として提出されているpredictive codingに対してはベイジアンが比喩の域を超えていない気がしてならない。

ちなみに、あるアンディ・クラークフォロワー学者がベイジアンについてGriffiths&Tenenbaumの研究とpredictive codingを比較して前者をけなしている不勉強な中身のない論文を読んだが、アンディ・クラークの目ざとさ(先見性)には感心するが、アンディ・クラークフォロワーにはろくなのがいないなぁ〜と改めて思ってしまった。

predictive codingに身体化論は必要か

アンディ・クラークはもともと身体化論の代表的な論者として有名だが、predictive codingの話をする上でも身体化論と結びつけることが多い。クラークフォロワーは喜んでそれを受け入れて取り上げるのだが、自分はどうもモヤモヤする。predictive codingを身体化論を結びつけるのは話としては興味深い面白いものだと思うのだが、その結びつきは必然的なものではない気がする。

predictive codingというのは元をたどると歴史が案外深く、よく参照されるFristonやRao&Ballardどころではなく、predictive codingの源である小脳の内部モデルはそれ以前からすでにあったのだが、もちろん元々身体化論との結びつきがあったわけではない。身体化論が結びつくのはpredictive codingが得意とする感覚運動(sensorimotor)との関連があるからだが、普遍理論としてのpredictive codingと身体化論がどう結びつくのかは(エントロピー論を超える具体的な計算論的モデルが大して目につくわけでもなく)曖昧なところも多い。それどころか、知覚とは外界からの直接知覚(ギブソン!)ではなく、心にある世界についてのモデルからの帰結だと考えると、むしろ観念論だと捉えるほうが自然な気がしてくる。

ここまではクラークフォロワーへの文句ばかりになってしまったが、次は方向性が違う。

predictive codingはカントと結びつくのか

The Predictive Processing Paradigm Has Roots in Kant」なる論文を見つけて読んでいたのだが、哲学史知識のある自分には違和感だらけで途中で読むのやめてしまった。その最たる論点カントが知覚のトップダウンの源だという話だ。これは浅い知識だと一見して正しそうに思えるが、やはりおかしい。(なぜだかこの著者は参照していない)セラーズによって知られるようになったカントの思想「概念なき直観は盲目である」は確かにトップダウンのように見える。しかし、トップダウンボトムアップと対になっており、そうでなければ特定の現象トップダウン効果とわざわざ呼ぶ必然性はない。しかし。カントの言葉からは(少なくとも認識論的には)そもそも純粋なボトムアップ(つまりセンスデータ)だけでは意義がないことを言っているのだから、(ただのトップダウン効果よりも)その適用範囲はもっと広い。カントトップダウン効果を結びつけるのはただの連想ゲームであって、実際の哲学史には沿っていない。

この論文への悪口は言っていると切りがないのだが、ここは決定的な批判となる有名な現象学者ザハディがこの論文を取り上げての批判を挙げて終わりにする。個人的には、カントは心の科学の可能性を根本から否定したというエドワード・リードの指摘も思い出す。

Swanson further argues that predictive coding theory can be “seen as a major step in the evolution of Kant’s transcendental psychology” (2016: 10)…(中略)…One might wonder, though,whether the naturalism of predictive coding theory is not ultimately incompatible with Kant’s transcendental framework.

引用部分後半の翻訳→「predictive coding説の自然主義カントの超越論の枠組みとは究極的には両立しないのではないか?と勘ぐる人もいるだろう。」

2018-02-23

[]松原望ベイズ統計

ベイズ統計学 (やさしく知りたい先端科学シリーズ1)

統計学入門でも人工知能入門でもある、数式よりも考え方を重視したベイズ統計入門書

数式が少ない考え方を伝えることに重点をおいたベイズ統計学入門書。これまでのベイズ統計入門によくあった数式ばかりの専門書でもビジネス利用や学術利用を目指した実用書でもなく、(ベイズに限らない)統計の初歩から人工知能GPSと結びつけながら統計的思考法を身につけさせることを目的とした啓蒙的な本。ベイズ統計入門書としては変わった構成だが、内容は分かりやすく扱われている範囲も広め。本当の初心者でも読めば(全ては理解できなくとも)イメージはつかめるし、他のベイズ入門書を読んでいても残っていたモヤモヤも解消されるかもしれない。

21世紀になってからベイズ統計学への注目がますます高まってきている。それに呼応するように、ベイズ統計についての日本語の書籍も多く出版されている。しかし、これまでの正統派であった頻度主義と呼ばれる統計学に比べると、注目されてからの歴史が浅いせいか分かりやすい本が多いとは言いがたい。定評の入門書もいくつかあったが、それもある程度の統計的な素養がないと読み進められないものばかりだった。本当の初心者向けでもベイズの定理の基礎で話が終わりで知りたいことにたどり着けないこともあったし、基礎を超えていても学者でない人が書いた本でこの辺りはどうも怪しい?というのも見た。しかしとうとう、本物の統計専門家が書いたベイズ統計の考え方を伝える入門書が現れた。

著者は有名な統計専門家で、既に世評の高いベイズ入門書も出している。その入門書が数式もそれなりに出てくる教科書だとしたら、今回の入門書は普通の読み物としても読める一般書に近くなっている。だからといってレベルが低いわけではなく、内容は統計の基礎から始まってより高度な話題である階層ベイズベイジアンネットワークにまで及んでいる。それどころか、ベイズ入門書としては珍しくニューラルネットワーク(人工知能)やカルマンフィルター(GPS)にも触れられており、その扱われるテーマの広さに驚かされる(目ぼしいもので触れられてないのはベイズファクターぐらいか?)。

この本の特色は扱われるテーマに広さだけではない。そのベイズ統計への導入の仕方が他の書籍とは違っていてとても分かりやすい。他の一般的な入門書だと(一般的な統計への入門の後)いきなりベイズの定理に触れてしまう。この本では一般的な統計の入門(確率論)がいつの間にかベイズ統計入門になっていて分かりやすい。その分かりやすさを示す特徴は、(他の入門書ではありえないが)ベイズの定理の数式に直接にはほとんど触れない点にある。確率計算からベイズの世界に自然に入り込めるようになっていて、本当の初心者にもやさしい。ベイズの定理の数式を印籠としてすぐ出してしまう本が多い中で、いかにしてこの本が統計的思考法を伝えることに尽力しているかがうかがえる。

他のベイズ本と比較してのこの本の特色は多くて紹介しきれない。頻度主義ベイズ主義との対立を前提にしないがゆえに統計に無知でも入りやすい。(他の本ではごまかされがちな)尤度や階層といった基礎用語も分かりやすく説明してくれる上に、(謎に見えがちな)ベイズの定理の分母について確率の合計を1にするためといった説明がさらりとされていて目を開かされた。マルコフ連鎖モンテカルロ法にも触れられているがその冷めた扱いには溜飲を下げた。だが、何より大きな特徴は人工知能と関連付けてのベイズ統計についての説明だろう。特にニューラルネットワークにおける非線形関数との関連については感心した。

この本の長所も特色もたしかに多いのだが、だからといって完璧なわけではない。本当の統計の初心者には、最初の二章までは分かりやすいが、それ以降は多少は統計の素養がないとちょっと読みづらい。この本の特色である人工知能の話題についても、唐突に説明されるので人工知能知識が全くない人には訳が分からないかもしれない。しかし、このタイプの本で本当の無知な初心者に理解できるようにするのは困難なので、(この本ならでは長所と特色を考慮すると)必ずしも欠点とは言いがたい。

学術書とも実用書とも異なるあくまで思考法を伝えることを目的とした一般向けベイズ入門として優れており、他の入門書にはない特色も多く随一の入門書に仕上がっている。ベイズ統計に興味があるなら、最初の一冊としても他の入門書を読んでからでもお勧めです。

2018-02-10

新たに(認知科学的な)言語理論の解説記事について書けたらいいなぁ〜という願望

ここ最近ずっと(未だに)このブログの人気記事が生成文法認知言語学の解説記事であることには正直戸惑っている。あれは結構前に人目につかないことを前提に書いた記事*1で、一部のこのブログのマニアだけが気づけばいい程度に思っていたので、こんなに読まれるとは思っていなかった。そのことの弊害というのはあって、コメント欄でも触れているが記事の書き方が多少乱暴になっているのだが、こんなに人目に触れるのは心外だということだ。同じようなことはウィキペディアでリンクされた心の哲学についての解説記事でもあったが、ネットでのリンクは自由だとは思っているがやっぱり戸惑う。

近況としては、なぜか言語学論文を読むことが多くなっている。例えばピダハン論争や言語進化などといった生成文法関連の傑作論文をネットで見つけたので、それを楽しく読んでいる。それについて記事にしようかとも思ったが、それらの論文の内容を超えそうにないので手はつける気がしない。他にも近年になって構文化の研究が進んだと知って、構文文法や文法化について調べて勉強したりもしている。さらにジャッケンドフ経由でHPSGのような語彙主義の理論の存在をつい最近になって知ったところで、以前書いた生成文法認知言語学の解説記事を改定した新たな記事を書くのもありかもしれないと思った。特に以前書いた解説記事では、認知言語学について認知意味論寄りに説明したので、もっと全体的に文法中心に揃えて説明したほうがいいかもしれないと感じ始めた。ちょうど(制約に基づく理論を伴う)語彙主義の存在も知ったことで、(解説記事のコメント欄でも軽く触れた)ジャッケンドフ的な理論についても何とか位置づけできるかもしれないという展望が生まれた。

…と思ってはいるが、日本語の例は必ず出すと言う部分は(以前の解説記事に引き続き)守りたいのだが、所詮は素人の私にはちょっと難しい。認知言語学や語彙主義との比較を考えると、生成文法については以前の記事では触れなかった移動(内的併合)にも触れた方がいいとは思うが、この辺りは複雑なので私の手には余る。しかしそこに触れないと、そもそ移動を理論の中に含まない制約に基づく理論(に基づく語彙主義)を説明できないとか、困ることが多い。語彙主義については最近知ったばかりで知識が足りないがそれは脇に置くとしても、認知言語学については文法寄りの説明を日本語の例を挙げてするのが難しいのが困る。前回の記事では前面に出ていたメタファーの説明を今度は背景に持っていけばいいのは既に決まっているが、この先が難しい。認知言語学についての文法的な日本語の例だと、第一に思いつくのは(私が最初に感激した分析である)結果構文か、後は(昔に英語の論文で読んで感心した)タルミーの移動経路の分析ならもしかして何とかなるかもしれない(が駄目かもしれない)。なんにせよ認知言語学についての文法的な日本語の例については、日本語の論文が当てにならないので本当に困った。

困難は多いが、以前の記事では生成文法統語論認知言語学は意味論と領域が別れてしまったので、テーマを文法に揃えた記事はあった方がいいとは思うんだよなぁ〜

*1:記事の日付から通常更新の記事でないことは分かるはず

2018-01-20

キンドルで読めなかった日本語PDFを読めるようにする方法(Linux版)

幾らか前にKindleを手に入れてから、PDF論文を読むのがとても楽になって助かっている。しかし、キンドルを使ってPDFで日本語の論文を読もうとすると困ったことになることがある。それは、キンドルで日本語が表示されないPDFがたまにあることだ。仕方ないのでパソコンでそのPDFは読むのだが、やはりキンドルの快適さには及ばない。

これについてはネットで調べてもみた。原因はPDFに日本語フォントが埋め込まれていないことである。どうにか読めるようにする方法もネットで探してみたが、Macでなら何とかなる方法が見つかるがそれ以外だと見つからない。私はMacは持ってない上にそもそもLinux使いなので、困ったなぁと思っていた。一応自分でも色々試してみたのだが、長い間良い方法が見つからなかった。PDFの中にはテキスト化できるものもあったので、一度テキスト化してからワープロソフトPDF化したことはある。しかし、この方法だとテキスト化すると変な改行が入ったりしてレイアウトが崩れることが多い上に、そもそも図は反映できない。諦めていた頃に、さり気なく使ったソフトが打開策を切り開いてくれた。

それは「Xournal」というPDF書き込みができるソフトで、なぜこれを使ったかというとPDFを右クリックしたら表示されたからでしかない。何の気無しに行なった気まぐれ行為が長い間の悩みを解決してくれたのだから、何があるか分からない。以下、フォントの埋め込まれていない日本語PDFキンドルで読めるようにする手順を示すが、その前に「Xournal」というソフトがない人は、ソフトウェアセンターで検索してインストールしておいてください*1

  1. 「Xournal」というソフトで対象のPDFを開く
  2. そのソフトでPDFが表示されたら、ファイルから印刷を選ぶ
  3. プリンタから「ファイルに出力」を選び、出力の形式は「PDF」にする
  4. 印刷するを選ぶと、該当の場所に目的のファイルが制作される

ちなみに印刷には「PDFにエキスポート」の項目もあって、自分も最初はこっちを選んだが、残念ながらたまに変換がうまくいかない。お勧めは示した手順の方で、少なくとも自分が試したPDFはすべてキンドルで日本語表示されるようになった。ただし、注意すべき点は埋め込まれるフォントが元のPDFとは変わってしまうことだ。さらに、そこそこの確率で日本語が読めるようになった代わりにアルファベットが読めなくなったPDFもあった。必ずしも万能な方法ではないけれど、全く読めなかった日本語PDFKindleで読めるようになったのだから、十分にありがたいことです。

*1:ちなみに Linuxなんて使ってないという人は,LiveCD/DVDインストールせずにOSを立ち上げることもできるのでお試しあれ。ネットでisoファイルをダウンロードしてCD/DVDに焼いて起動させるだけなので簡単です。少なくともLinuxbeanなら目的のソフトは入っているはずです。

2018-01-10

そのモデルにとってベイジアンは道具なのか部品なのか?(前回の記事への補足)

やっぱりベイジアンは本で勉強した方がいいのかな?と思って、本屋に棚を改めて物色しに行った。そしたら、この前には見かけなかった書籍も見かけたりして収穫はあったのだが、同時にここで説明しておいた方がいいかなかな?という事も頭に浮かんできた。去年になって心理学認知科学におけるベイズモデリングを紹介した書籍が続けて出版されていて、自分も期待して中身を覗いてみた。それらは特に具体的な研究の実例がいくつも紹介されていてとても有用な本だと感心した。ただ、それらの本で扱われているベイズモデリングと、前回の記事でも触れた私が興味を持っている認知(のベイジアン)モデルは、似ているようでいて違うことは説明しておかないといけないな〜と思った。

その書籍で扱われていたベイズモデリングは、要因の因果モデルを考えてデータで解析するタイプの研究であり、その適用は別に心理学認知科学に限定されるものではなく様々な科学領域に応用可能なものである。実際にベイズモデリングとしては、去年に心理学認知科学向けの書籍が出るまでは、生態学者の書いた本が長らく名著として有名だった。つまり、ここでいうベイズモデリングとはベイジアンを手段としてモデルを作ったり選んだりするものであり、多変量解析のベイジアン・オリジナル版とも言える(ちなみに多変量解析と同じ分析法[例えば共分散構造分析]のベイジアン版もある)。それに対して、私が興味を持っているのはベイジアンを直接にモデルに組み込んだ認知や脳のモデルである。つまり、ベイジアンがモデルづくりのための道具として使われているモデルとベイジアンの関係が間接的なタイプと、ベイジアンをモデルの中に組み込んだモデルとベイジアンの関係が直接的なタイプとがあり、同じくモデルを対象としていても異なる。

ベイズモデリングは統計的検定や機械学習と並んでベイジアンの一般的な用途として代表的なもので、日本語の文献もいくつか出ている。対して、ベイジアンの認知(脳)モデルは他領域への応用がそうそうにできるものではなく、日本語の書籍は私の知る限りはないし、日本語の論文も多いとは言いがたい。しかし、脳(心)の主要な機能を予測とする見方はある程度広まってきているので、その重要性は侮りがたい。つい最近出た日経サイエンスでも心理学者ゴプニックがボトムアップニューラルネットワークと並べてトップダウンベイジアンモデル*1を取り上げている。脳への学習と予測の装置観(総合すると最適化装置観)に関しては、構成論的アプローチと関連付けて語ることも可能そうだが、そのための準備は私にはまだ整っていない。

*1ベイジアンモデルを単にトップダウンとするが妥当か?はここでは取り上げない。別の研究者ベイジアンモデルを生得/経験の対立止揚するものとして説明している

2018-01-06

[]認知のベイジアンモデルについて(フライング気味で)考えてみる

認知科学ベイジアンモデルはただいま勉強中で、直接に解説できるほどの理解には達していない。とはいえ、以前に比べればベイジアン・アプローチについて何となくのイメージは掴めるようになったので、地道ながら進歩はしていると思う。ただ、私がベイジアンについて勉強するにはその道がちょっと険しいので苦労している。

ベイジアン(ベイズ主義)とは、これまで長い間主流であった頻度主義とは対照的な統計学の考え方である。私が学生時代に授業で習った心理統計はもちろん頻度主義統計だったが、21世紀に入ってから統計ベイズ主義が台頭してきて隆盛を極めつつある。個人的にベイジアンには興味があったので勉強するのは構わないのだが、私のような認知モデルに興味がある人間にはその道は案外険しい。

ベイジアンといっても、その用途は統計的検定、機械学習モデリングと幅広い。それぞれに用途に合ったベイジアン解説書はいろいろあるのだが、私が興味を持っている認知モデルを扱った日本語の文献は極端に少ない。どの用途でもベイジアンの基本であるベイズファクター、ベイジアンネットワーク、階層ベイズといった部分は共通だが、その用い方にはやはり違いがある。こういうのは興味に合わせて勉強しないときついので、仕方ないのでネットで文献を検索してみた。すると、ベイジアンを用いた認知科学的な研究では代表的な研究者であるJoshua B.TenenbaumやThomas L.Griffithsrらの研究グループによる入門的な論文が優れていて、とても勉強になっている。ベイジアンモデルについてはまだ勉強中なので詳しい中身には触れないとして、更に調べてみると面白い論文に出会った。Matt Jones&Bradley C. Love"Bayesian Fundamentalism or Enlightenment?On the explanatory status and theoretical contributions of Bayesian models of cognition"というベイジアン認知科学への批判論文だ。

Jones&Loveの論文ベイジアン原理主義啓蒙主義

この論文では認知科学へのベイジアン・アプローチを原理主義啓蒙主義に分けて批判的に検討している。正確には、私はこの論文のすべてを面白いとは思ってはいない。ベイジアン・アプローチについての説明も紙面は割かれているが、これは他にもっと優れたものがあるのでそこは脇に置いても問題はある。この論文の全体の流れとしては、ベイジアン・アプローチをマーの三つのレベルの中に位置づけてから、基本をさらっと紹介した後で、ベイジアン・アプローチを行動主義進化心理学と比較し、最後はベイジアン・アプローチの原理主義批判啓蒙主義を薦めて終わっている。この中では行動主義との比較が断トツに面白くて、残りは議論に問題があったりしてそこまでは興味深いものではない。

例えば進化心理学との比較については、旧態依然とした適応万能主義への批判が述べられていて、(言いたい事は分からなくもないが)正直読んでいてうんざりしてしまった。しかし何と言っても、この論文にはJoshua B.TenenbaumやThomas L.Griffithsrらの研究グループによるコメントがついていて、その批判がいちいちもっともだったりする。まずベイジアン・アプローチはマーの言う計算論レベルしか扱っていないとされているがそれはおかしいと指摘している。そもそもベイジアン原理主義なるものが存在するのかどうか自体が怪しいと批判している。この辺りの批判はいちいちもっともで、ベイジアン原理主義批判する最後の章は具体的な研究への言及が少なく話がどことなく抽象的で、読んでいて得られる物があるのかないのかよく分からない。もっとも啓発的な議論ベイジアン・アプローチを行動主義と比較した章で、この論点を中心に話を広げればもっと面白い論文になるのに…と惜しくてならない。少なくとも私はこの章を読んで何となく感じていたモヤモヤから目を開かされた。

私自身は認知科学ベイジアン・アプローチについては、帰納推論や因果推論についての研究を紹介した日本語の論文を読んで、ベイジアン・アプローチの可能性に気付かされた。しかし、ベイジアンについて勉強している内にこれらは認知モデルとしてかなり分かりやすい例であって、他のものはどうにも分かりにくくてしっくりこない。これは私の勉強不足もあるだろうが、何となくモヤモヤとしたままだった。そこでこのベイジアン・アプローチを行動主義と比較をした章を読んで、もしかしたら…と思うようになった。

(心理学的な)行動主義(特にスキナーの)についてはここでは詳しく説明しないが、基本的に条件付けを中心にした理論で観察可能な行動だけを説明に用いるのでもちろんモデルなんて関係がない。そんなものはベイジアン・アプローチとどう関係あるのかというと、(新)行動主義は実験で観察される行動データと一致した理論を提示しているが、ベイジアン・アプローチも表面的にデータと一致しているだけという点では行動主義の理論と違いがないのではないかと言うのだ*1。ただし、この議論ベイジアン・アプローチがメカニズムを扱っていないという指摘を前提にしているので、Tenenbaumらの批判的コメントからするとそのまま受け入れるのは問題がある。しかし、提示されるベイジアンモデルが複雑なものになればなるほど、本当にこれは認知モデルとして相応しいのか?、こんな複雑な計算を脳がしていると考えるのが妥当なのか?、私には怪しく思えてくる。

私が最初に感銘を受けたベイジアン・アプローチの帰納推論(「認知科学におけるベイズ的アプローチに関する文献の紹介PDF)では、同じデータでも事前確率によって推論される確率が変化してしまう。これが友人による超能力実験のデータとされるとそれはめったに起こらないと前提されるので事後確率はそれほど上がらない(サイコロの目を当てたのはただの偶然!)。これが新しく開発された薬品の実験とされると同じデータでも超能力者条件の場合よりも偶然だと判定される率が低くなる。この研究の場合は解釈が比較的に容易なので、これを認知モデルとして考えるのは不自然さがあまりない。しかし、これが例えば階層ベイズを用いた複雑なモデルとなると、それが認知モデルとして相応しいのか私はさっぱり分からない。マルコフ連鎖モンテカルロ法が脳の中でなされていると考えるのが妥当なのか私にはうまく想像できない。これは単に私の理解不足のせいかとも心配していたが、少なくとも似たような不安を持っている人が世の中に入るのだと分かったら、(それが本当に正しいかどうかは別にして)ちょっとホッとした。

認知のベイジアンモデルの問題を考える

なぜデータと一致しているだけの複雑な理論に問題があるかというのは、天動説地動説対立を考えると分かりやすい。天動説に疑いが生じた原因の一つに、観測される天体の動きのデータを一致しない(例えば逆向)ことがある。だが、天動説に複雑な修正を加えて観測される天体の動きのデータと一致させた理論が提出されたことがある。単にデータと一致している点では複雑に修正された天動説地動説とで違いはない。しかし結局は地動説が受け入れられるようになることは周知のとおりだ。データと一致させるために理論をいくらでも複雑にしてもいいなら切りがない*2。科学にとって経験的データとの一致は重要だがそれが全てではない。

認知モデルとしてのベイジアンモデルには、他の用途のベイジアンとは異なる問題もある。それはベイジアンの他の一般的用途(統計的検定や機械学習や科学モデル作り)では、基本的にベイジアンはあくまで手段として用いられているので、最適値(方程式の近似値)を見つけさえすればよいのであって、解を見つけるその過程は問題にならない。しかし、ベイジアンが組み込まれた認知モデルの場合は、脳が最適値を見つけていると仮定するとしても、その見つけ方によってはそれが認知モデルとして相応しいかは場合によっては怪しくなってくる。帰納推論や因果推論のようなシンプルなモデルなら受け入れられるが、もっと複雑になると私にはもう判断できない。

たとえベイジアン・アプローチがメカニズムを提示していたのだとしても、それが本当に認知モデルとして相応しいかは別の話だ。それを理解できるようになるためにも、ベイジアンはもっと勉強しとかないとなぁ〜

*1:これは行動主義の理論への批判にはなっていないことに注意。適切な適用範囲でありさえすれば行動主義の理論には問題はないが、ベイジアン・アプローチの場合は万能気味でマズイ

*2機械学習における過学習(overfitting)と一見似ているが、やはり違う。工学の場合は中身の機構がどんなに複雑になっても、それでうまくいっているなら問題はない。科学の場合はそうはいかない。ここに科学と工学の違いがある。今日では科学と工学が密接に接近していっている(リバースエンジニアリングとしての科学)だけに、その違いに注目する必要もある

認知科学リンク

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