蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-06-30

[]短期記憶の容量は七から四に書き換えられたのか?

少し前に、当時出版されたばかりの日本の心理学者の書いた一般向けの本を眺めていたら、短期記憶の容量として有名な7(±2)は今や間違っていて4(±1)が正しいと書いてあった(ネット上の論文では「前頭前野とワーキングメモリ」に同様の記述がある)。短期記憶の容量が7であるというのは心理学の教科書にも書いてある有名な話だが、それが書き換えられたと知って驚いた。ただ私は心理学の文献はそれなりに見ているので、そんな重大な話をどこでも見たことがないのはおかしいとも思った。それでこの説の元となる論文をネットで探したら見つかったので読んでみた。さらに詳しい事情を知るために、特にその論文の著者による他の文献を中心に調べを進めてみたら、なんとなく事情が見えてきた。結論としては、冒頭の本の記述は決して間違ってはいないが学者間の同意が十分にとれているかはまだあやしい…といった辺りが妥当かもしれない。

短期記憶の容量四説の著者のことばかり考えることになる

この説のオリジナルの論文とはNelson Cowanによって書かれた論文The magical number 4 in short-term memory」だが、実際に内容を読むと単に短期記憶の容量が間違っているというだけの単純な内容ではないのだが、それは後で説明することにする。それよりも、調べていく過程で短期記憶の容量が七から四に書き換えられたという内容の論文や記事があまりないことの方に驚いた。内容のしっかりした(参照される)認められている論文なのにどうしてなのかと不思議に思った。そう思っていると、最近書かれたNelson Cowanの論文George Miller’s Magical Number of Immediate Memory in Retrospect」を見つけた。この論文短期記憶の容量が七である事を主張した古典的なミラーの論文についての論文なのだが、これを書いた動機は自分の主張した短期記憶の容量の書き換えがあまり広く受け入れられないことにあるようだ。ジョージ・ミラー自身(故人)にはその書き換えは受け入れられそうだと確信できただけに、余計に悔しそうにも見える。ということは、私がこれまで短期記憶の容量が書き換られたという記述を見たことがなかったとしても、そもそも学者に広く受け入れられてはいないのだから仕方がないのだったと納得した。う〜ん、気の毒なNelson Cowan!

しかし、短期記憶の容量の書き換えが受け入れられないのは、実は単にNelson Cowanの業績が無視されているとかそういう単純な問題では全くない。そこで短期記憶の容量四説のオリジナルの論文を見てみよう。この論文はかなり複雑な内容なのでここに要約することはできない(しする気もない)。しかし、容量四説はなにもこの著者が突然に発見した訳でもなく、古くはハーバート・サイモン辺りが七は多い五ぐらいじゃないか…と言っていた記録もある。この論文の重要性はただの数字の発見というよりもこれまでの研究成果をまとめあげたことに価値がある。この論文の中でCowanは短期記憶は純粋な短期記憶と複合的な短期記憶に分けられて、純粋な短期記憶の容量は四であるとしている。記憶の項目同士が手がかりになっていたりする場合は複合的な短期記憶となって容量が多くなるという。はっきりとは書かれていないが元々のミラーの容量七は複合的な短期記憶のものに近いのかもしれない(下限の七引く二である五は純粋な短期記憶の容量に近くなっている)。ミラーの古典的論文の重要性が一般に知られている七という数字によりもチャンクという記憶の単位の提出にあるように、この論文の重要性も四という数字にばかり注目するよりも短期記憶の構造への指摘にあるのかもしれない。

記憶の構造なんてもう分かってるって?

この論文以後に書かれたCowanの論文The Magical Mystery Four」を読むと面白いことに気づく。この論文はもはや記憶容量である四は作業記憶の容量だとされている。いつの間にか見解が変わったのだろうか?おそらくそうではないだろう。推測するに、純粋な短期記憶とCowanが呼んでいたものが作業記憶と一致することに気づいたためだと思われる。もう少し後に書かれた「What are the differences between long-term, short-term, and working memory?」では、短期記憶と作業記憶との違いに頭を悩ませている。

基本的には、短期記憶は想起に関わり作業記憶は操作に関わるのだが、明らかにその間には重なり合っている部分がある。というか、項目の想起という現象としての短期記憶は確かに存在しているのだが、まとまった能力としての短期記憶の存在はかなり怪しく感じる(少なくとも作業記憶とうまく区別がつかない)。元々は長期記憶と短期記憶という記憶の分類が先にあって、後から作業記憶が提示されたせいでややこしいことになってしまったのかもしれない。思い切って短期記憶という用語は消し去ってしまったほうがスッキリするんじゃないかと個人的には思わなくもない。しかし、古典的な分類としての長期記憶と短期記憶の対は便利だし、視覚的短期記憶という用語も現在よく使われているので、単に短期記憶を用語として消し去るだけでは済まないのだろう。

もちろんここで結論を出すことなど出来ないのだが、少なくとも心の能力を(言葉で)理解するのは思われている以上に大変な作業なのだ!

2017-06-16

[]トップダウン効果は本当に知覚を変えているのか?

モジュールカプセル化に関する議論

哲学者が科学的成果に則って論文を書くことは近年になって増えてきたが、たまたま見つけた「Opening Up Vision:The Case Against Encapsulation」(PDF)もそんな論文の一つだった。内容はフォーダーのモジュール論の特徴であるカプセル化批判するもので、論文の半ば辺りで認知神経科学の具体的な成果に触れて議論を進めるところはまさに今どきの哲学論文らしい。フォーダーの主張し始めたカプセル化とは心のモジュールの特徴であり、ここでは(初期)知覚と高次認知との間の関係として論じられている。カプセル化説明する前に、まずその論拠の一つを説明してしまう方が手っ取り早い。そのカプセル化を支持する論拠の一つはミューラー・リヤー錯視にある。ミュラー・リヤー錯視は、ネットで検索すれば該当の図がすぐに出るはずだがと、物理的に同じ長さの線分が見た目には違った長さに見える錯視現象のことである。このミューラー・リヤー錯視において、たとえその錯視についての知識を持っていても錯視という見え方は変化しない。つまり、知っているという高次認知はどう見えているかという知覚に影響を与えないことから、知覚能力は他の心的能力から独立している点でカプセル化されていると呼ばれる。

こうして論文の前半はカプセル化説明に費やされているが、中間部分の認知神経科学の成果に基づいた議論は私には評価しきれないので省略すると、後半では初期知覚のカプセル化トップダウン処理によって批判されている。トップダウン処理とは*1、(論文にあるものではないが)古典的な例としては同じ視覚的刺激でもそれに付けられたラベルによってその見え方が異なる研究が分かりやすいだろう。トップダウン処理現象の存在によって知覚能力が他の心的能力から独立していることが否定されている。細かい議論は面倒なので触れないが、カプセル化への批判という議論の全体の流れは明確だ。ミュラー・リヤー錯視に関する議論はかなり強力なのでそれをどうするのか?という疑問も湧いたが、と同時にトップダウン処理というのは結構昔から知られていたはずだからフォーダー自身はそれをどう扱っていたのか?と思って調べたのだが、今の私には調べきれなかった。しかし、この件とは別にたまたま見つけて読んだ論文がこのテーマに関連した話題を扱っていたのだが、その論文の面白さに興奮してしまった。

認知は知覚に影響を与えるか?

あるサイトで参照されていて見つけた論文「Cognition does not affect perception:Evaluating the evidence for “top-down”effects」(PDF)が、読んでみたらあまりに面白かったのでびっくりした。その面白さは知識や事情が分からないと伝わらないので、大雑把に内容の説明だけします。この論文で扱われているのはトップダウン処理だが、既に紹介した例は古典的な例だが、近年になってもっと様々なタイプのトップダウン処理が報告されるようになった。様々な現象が報告されているが分かりやすい例だけ挙げると、例えば文字に色のついた語句を提示した時に、その語句が(道徳的にや感情的に)ポジティプな意味を持っている時の方が、その語句がはっきりと見えたり色が濃く見えたりする現象が報告されている。古典的な例では主に概念が見え方に影響を与えているが、新しいタイプのトップダウン処理では付属するもっと様々な状態が見え方に影響を与えているとされている。こうした新しいトップダウン処理は昔ニュールックと呼ばれた現象、貧しい子供は富んだ子供よりもコインの大きさを大きく知覚していることを示した研究、の蘇りとも言える。

トップダウン処理の特徴とは、意味や思考が関わる(より高次の)認知が物の見え方のような(比較的低次の)知覚に影響を与えることであり、(より高次の)認知が知覚に侵入する(penetrate)とよく言われる*2。この論文ではこうしたトップダウン処理を疑っているのだが、それは最近話題になっているような再現可能性からの疑いではない。むしろトップダウン処理を示しているとされる実験への解釈の問題と言え、それをいつかの落とし穴として提示している。

実験への解釈(評価)の仕方は(再現可能性に劣らず)心理学では大事な要素で、古典的な例では賢い馬ハンスがあるが、こうした批判からその批判を交わす洗練された実験法が開発されたりと心理学を動かす力となっている。この論文ではトップダウン処理(の実験を評価するための)の落とし穴が具体的な研究を挙げながら説明されている。ここではそのうちから分かりやすいものを幾つか挙げると、知覚と判断の区別がついているのか?、案に答え方が偏るような要求をしていないか?、刺激に意図しない微妙な違いがあるのではないか?、知覚よりも記憶の問題になっていないのか?…などの落とし穴がある。この論文にはとても読みきれないほど多数の学者からのコメントがついているが、ともかくトップダウン処理の実験への解釈に重大な疑義を挟んだことだけは確かだ。

終わりに

前半で取り上げたトップダウン処理を示す現象によるカプセル化批判は分かりやすいものであるが、後半で取り上げたようにそれは少なくともそのまま受け取るには疑わしいものである。この問題には様々な議論が関係しており私にはとても追い切れないし、私が思いつくものに限っても、知覚と判断は分けられるのか?モジュールカプセル化と脳の機能局在化はどのような関係か?とかこのまま続けて書ける程の内容ではない。ともあれ、このように科学は(民主主義と同じく)結果だけではなく過程こそが大事なのだ…という点はいくら強調しても切りはない。

*1トップダウン処理についてはネットで調べたのですが適切なものがありません。図を伴った説明なら→http://www.dokuji.net/model.htmlだが、これも説明が簡単すぎるのが欠点

*2:認知という言葉には広い意味と狭い意味があり、認知科学における認知とは心の能力を幅広く指す広い意味だが、一般的に使われているのは狭い意味の方が多い、それにしても、認知と行動・認知と知覚・認知と感情…と何と対照されるかで含意は微妙に変化する。とはいえ、一般的には思考や言語のような人間ならではの高次の能力を指すことが多い

2017-05-20

「Neuroscience Needs Behavior:Correcting a Reductionist Bias」を読む

最近は気が向いて、ネットに上がっている認知科学関連の論文を読むことが多くなった。その中で、たまたまある学者が関わっていた論文を読んだら面白かった。それはNeuroscience Needs Behavior:Correcting a Reductionist Bias」(pdf)だ。基本的に神経科学論文はあまり読まない(というか読めない)のだが、これは例外的に自分の知識で理解できる自分に合った論文だった。実際の内容は複雑でここで要約するのは面倒なのだが、主旨だけ取り出すとそれほど難しいものではない。つまり、神経科学では還元主義的な方法が主流だ。しかし、因果的説明だけでは不十分で計算的説明も必要だ。もっと多元的な神経科学を推し進めよう!…という話だ。

もちろん実際にはもっといろいろな話が書かれている。だが、例えば最後の方に多元的な説明を理解するための三人の人物アリストテレスティンバーゲン、マー…が出てくるのだが、実質的に論文の中で詳しく扱われているのはマーぐらいでしかない。ティンバーゲンはコラムで多少触れたれているだけだし、アリストテレスは一度さらっと引用されているだけだ。その上に、因果的説明と計算的説明(または記述と説明)の間の違いの議論はかなり詳しく扱われている。だったらむしろ、論文全体を計算論的神経科学の勧めに集中して論じたほうがもっと見通しの良い論文になったのでは…と思った。

正直な所、昔からの認知科学を知っている私のような人間にはそれほど目新しい主張でもなく、今になってやっとNeuronのような神経科学の専門誌にこんな話が載ったことに驚いている部分もある。ただ、「神経科学には行動が必要だ」というタイトルは内容をそれほど反映していなくて、本文では冒頭に神経パターンと行動との対応関係について軽く触れられているだけで、後は行動についてのコラムがあるだけだ。むしろ副題の「還元主義バイアスを正す」の方が内容を適切に反映している。まぁ、それにしても計算論的神経科学の勧めを超える話はそれほど書いてあるとも思えないのだが。

後は論文とは関係のない個人的な見解

(認知神経科学を含む)認知科学の基礎みたいな話はもともとの私の興味対象で、ある程度までは自分の中で解決した問題だがそれでも時々そのことについて考えてしまうことはある。それについてここに書こうとすると大変なのでやらないが、今回の話題に関連した話だけ書いてみる。

もともと私は(物質への)還元主義が大嫌いで、(そこそこ数学の出来た)私がいわゆる理系に進まなかった理由も学生時代に認知科学にハマったのも(少なくとも)当初は身体化論に好意的だったのも、どれも還元主義嫌いに原因があると言われればある。しかし、今は還元主義をそれほど恐れてはいない。その理由は私が歳をとって寛容になったせいもあるかもしれないが、自分の意識では還元主義嫌いが弱まった原因ははっきりしている。それは私の中での存在論から方法論への転換だ。

つまり、還元主義を文字通りに存在論的に捉えるから嫌煙する原因になるのであって、還元主義ラカトシュ的な研究プログラムを導く方法論的なものだと捉えてしまえば、還元主義は研究プログラムとして生産的だから採用されているだけなのだ…と考えてしまえば還元主義なんて気にするほどのものではないと思えてきた。これを思いついたのは結構前なのだが、その後に(欧米での)方法論的自然主義の広がりを知って、その方法論への転回という共通点に気づいてびっくりした経験がある。

と言う訳で、現在の自分は科学を(ラカトシュ的な)研究プログラムとして生産的かどうかで見るようになった…もちろんそれで科学のすべてを説明できるわけではないが。

2017-05-16

心の計算理論におけるマーの三つのレベルについて少しだけ

認知の計算モデルについて調べていていたら、日本のサイトでとてもよいリンク集サイトを見つけた。それは私のブックマーク計算論的認知科学 第1版であり、基本的にお勧めなのだが、実は最初にこれに目を通した時になんとなく違和感があった。それがはっきりしないまま認知の計算モデルについての調べ物を進めていたら、「計算論的神経科学のすすめ」(PDF)という素晴らしい解説論文を見つけて大喜びしたのだが、これを読んでから例のリンク集を見なおしてみたら、どこに違和感を感じたのかはっきりと分かった。それはMarrの三つのレベルについての言及部分だった。

この分野ではベイズ派を中心に、Marrの三レベル(計算論、アルゴリズム、実装)で言う計算論的モデリング、すなわち「何を計算するか/すべきか」の研究に主なフォーカスがあり、これは計算論的神経科学認知神経科学において「いかに計算されるか」を扱うアルゴリズムレベルの研究が盛んであるのと相補的であると言える。

私のブックマーク計算論的認知科学 第1版より

計算論的神経科学認知神経科学が一緒にされてアルゴリズムレベルの研究だと言ってるところに違和感があったのだ。認知神経科学ってのは脳イメージング研究とも呼ばれるあの研究群だが、これがアルゴリズムレベルの研究ってのはいくらなんでも無理がある。そう思って改めて見直すと、計算論的認知科学Marrの三レベル(計算論、アルゴリズム、実装)で言う計算論的モデリングすなわち「何を計算するか/すべきか」の研究に主なフォーカスがある、という説明も間違ってはいないが誤解を招きやすい。Marrの三レベルについて詳しくは計算論的神経科学のすすめが分かりやすくてより正確なのでそっちを参考にしてもらうとして、関連部分だけを論じます。

認知神経科学については単なる勘違いなので脇に置くと、問題はMarrの三レベルにおける計算論のレベルとアルゴリズムのレベルの間に違いにある。計算論的認知科学と計算論的神経科学の間には計算論のレベルとアルゴリズムのレベルの違いがあるという引用部分の説明は、「計算論的神経科学のすすめ」を読んでもらえば分かるように無理がある。私の印象では計算論的認知科学と計算論的神経科学の間の違いは脳の構造をどの程度まで考慮するかの違いであって、どちらも心の計算モデルの研究という点では一致している。そして、その点はどちらの研究領域も計算論のレベルとアルゴリズムのレベルの両方に関わりあっている。それは次の引用部分からも分かる。

この解説論文では、最適化の原理が運動制御とりわけ到達運動をどのように説明するかを、Marr の計算理論と表現・アルゴリズムのレベルにおいて、筆者の研究を通して紹介したい。

計算論的神経科学のすすめ」 p.156より

おそらく勘違いが生じる原因は、研究領域全体を指すのに使われる計算論(計算理論)という言葉が、Marrの三レベルのうちの一つに使われているからだ。これについては、1990年に出た少し古い文献でも「以上を考えるなら、この理論的な水準にMarrが「計算論的」という用語を与えたのがよかったのかは疑問である。しかしこれは文献上確立したものとなっている」(「認知心理学事典」p.257より)と指摘されている。大雑把に説明すれば、計算論レベルでは計算モデル研究を行なう前提となる方法と目的を与えてアルゴリズムレベルはそれに則って具体的な数式を考えだすので、科学哲学用語を使うと…計算論レベルは研究のためのパラダイム(または研究プログラム)を与えていると考えると分かりやすい。

まぁここまで説明しておいてなんだけど、マーの三つのレベルなんて、心の計算理論についての入門講義で導入に使われたりはしているが*1、実際の計算理論研究をするには必ずしも知らなくてもそれほど支障がない気がする。私はこういう抽象的な話は得意だけれど、もちろん高度に専門化した実際の計算モデル研究には私はついていけていません。

2017-05-14

解釈主義は機能主義に反しているのか?

具体的な書名はあえて挙げないがある日本の学者の書いた本の中で、解釈主義は行動主義なのであって機能主義には反しているという主旨の記述を見たことがある。残念ながらこれは完全なる間違いである。おそらくその学者は代表的な解釈主義者であるデネット全体論的行動主義と呼ばれていることからの推測でそう主張したのだろうが、それは安易な連想でしかない。

解釈主義とは言語に関するディヴィドソンの立場であり、それを受け継いだ哲学者は幾人もいる。デネットはその代表的な一人ではある。しかし、それ以外にもディヴィッド・ルイスにも(ディヴィドソンと同名の)「Radical interpretation」(PDF)という論文があり解釈主義としての側面も持っている。もちろんD・ルイスは有名な機能主義者であり、それが解釈主義と反しているということは全くない。むしろ逆に素朴心理学(folk psychology)の理論によって相手に命題的態度を当てはめて解釈している。これで既に反例を少なくとも一つ提示したので、「解釈主義は機能主義に反している」という主張が間違っていることは十分に示されたのだが、実はデネットに関しても誤解がある。

デネット全体論的行動主義と呼ばれるのは、デネットクオリアを否定していることと、有名な論理的行動主義者であるライルに学んだことがあることからそう呼ばれていると思われる。しかし、セラーズの書籍の「はじめに」にあるローティの文章の注9に「デネットは彼自身が属している学派である機能主義を創始したことをセラーズに帰している」(「経験論と心の哲学」より)とある。デネットの立場を行動主義と呼ぶのは、その特定の側面に注目しているからであって、完全に行動主義とは言い切れない。とはいえ、デネットの立場を機能主義と呼ぶにしても、それは志向的姿勢を取って命題的態度を相手に読み込んでいるからであって、機能主義のもう一つの側面であるトークン同一説を採用しているかどうかは怪しいのだが。

あまり大きな声で言いたくないのだが、日本の学者には何とかしてオリジナルなことを主張しようとして基礎知識レベルでおかしなことを言う傾向がたまにある。そういうのは学者間の批判によって訂正されていけば良いのだと思うが、どうもそれはうまく機能していないらしい。そういうのを見ていると時々、本当にそう思っているのなら欧米に行ってそう発表してこいよ!と叫びたくなる。もちろん、(在野の所詮は素人でしかない)私は日本の学者の面倒な事情には巻き込まれたくないのでそんなことをすることはありないのだが。

2017-05-12

フォーダーとピシリンの共著「Minds without Meanings」(出版済み)の草稿を読む

ネットで調べ物をしていてある論文を読んでいたら、数年前にフォーダーがピシリンとの共著「Minds without Meanings」を出していたのを知ったのでさらに調べてみたら、その更に数年前に書かれたその本の草稿が見つかったので大雑把に目を通してみた。第二章の概念は何でないのか?の議論などは入門者向けにも適切かもしれないとか、第四章の知覚研究の紹介は全体から浮いてないかとか、思ったことはいろいろある。この本全体でやりたいことはおそらく意味(概念の内容)についてフォーダー自身の説を支持するためにそれ以外の説を批判することではないかと思うのだが、実際の所フォーダー自身の支持する意味論の説明は直接にはないので分かりにくい。Inferential Role Semantics(IRS)への批判ってのはセラーズへの言及を考慮すると実質は概念役割意味論への批判だろうし、実際に過去に行なった批判(全体論と合成性による批判)と内容が似ている(「意味の全体論―ホーリズム、そのお買い物ガイド」)。そして問題は指示(Reference)の問題に集中するのだが、その過程で知覚研究に触れることになる(ピシリンはこの辺りで協力?)。さらにクリプキやPurely Referential Semantics(PRS)への言及を目にする内に、こっちがフォーダーの支持したい立場ではないかと推測できる。そこでこの草稿を離れてしまうと、一般的にフォーダーは情報論的意味論と呼ばれる意味の因果説を提唱していることが知られている。そういえば草稿ではCausal/referential semanticsという言い方もされている。つまり、クリプキもフォーダーも指示を対象と結びついた因果的な説を採用している点で共通点があるのだ。ただし、フォーダーの場合は言葉と対象をいきなり結びつけるのではなく、心的表象を介して結びつけているのが異なる。この心的表象がフォーダーが思考の言語と呼んでいるものだ。

フォーダーの意味論への批判としては選言問題が有名である*1が、一般化すればパトナムの指示の魔術説批判がそのまま当てはまってしまう。心的表象(思考の言語)はまだ認めてもいいが、意味の因果説はやはり厳しい気がする。情報論的意味論として一緒に括られるミリカンやドレツキは進化や知覚の理論だから受け入れられるのであって、フォーダーのように意味の理論としては難しい。つまり、言葉が(心的表象を介して)その普遍に対応する物を示すと言い切るのは無理がある。フォーダーがとてつもなく鋭い学者だと思うが、その一方で特定の説に固執しているようであり、納得できる理由さえあれば平気で転向するパトナムとは対照的な哲学者だと思った。

2017-05-10

認知の計算モデルは本当に流行っているのか?

少し前にネットで調べ物をしていたら、新しい認知科学のハンドブックが出たと分かって喜んで内容を調べてみた。こちらのオックスフォード認知科学ハンドブックの紹介記事(PDF)を見てもらえば分かるが、古典的な従来の研究テーマに一通り触れられているのは当然ながら、それとは異なる特色があるのが目次を見ると分かる。それは認知の計算モデルとビッグデータ研究にページが費やされていることである。このハンドブックでは主に言語研究についてではあるけれどビッグデータを用いた研究にも章が割かれている。これは確かに新しい傾向としては触れるに相応しい研究傾向ではある。それに対して、認知の計算モデルにまるまる何章も割かれていることには驚いてしまった。コネクショニズムぐらいなら別に驚かないが、ACT-Rの名前が出てきたことには懐かしささえ感じてしまった。認知の計算モデルについては、認知科学に興味を持った頃に多少勉強した覚えがあるが、その後特に研究が盛んになったという印象がなかったので、ハンドブックにかなりの紙数が割かれているのにびっくりした。

その後なんとなくサイトを巡回して気になった記述があった。「The Importance of Falsification in Computational Cognitive Modeling」の要約に「In the past decade the field of cognitive sciences has seen an exponential growth in the number of computational modeling studies」とあって、えっ!計算モデルって流行ってるの?と驚いてしまった。それで計算モデルについてネットでもっと調べてもみたが、本当に計算モデルが流行っているのかは確信が持てなかった。しかし、調べ物をしている内に思い出したのだが、何年か前にベイジアンモデルが流行っているを知って勉強しようとして途中で挫折した覚えがあることを思い出した。もちろん挫折したのでブログには記事にしていないが。そう考えると、ベイジアンの流行りってならまだ分かるけど、ACT-R(元は結構古い)を含む計算モデルの流行りって言われてもいまいちピンとこない。

2017-05-07

法学者サンスティーンが参照する科学的心理学の成果を確認する

法学者サンスティーンは科学的心理学の成果に基づいた議論で著名な学者であるが、欧米での評価の割には日本ではそこまで知られていない学者でもある。

比較的最近の話題だと行動経済学者セイラーとの共著「ナッジ」(邦題実践 行動経済学」)が有名があるが、これも(認知科学的な成果と言える)二重過程説に基づいた作品だ。うまく環境を設計して潜在過程に働きかけることで、意識上の自由は確保した上で行動に介入する事を目指すリバタリアンパターナリズムを提唱することで知られるようになった。ネットにある論文だと「リバタリアン・パターナリズムとその10 年」(PDF)が最近の展開も分かってお勧めだ。最近になってからのサンスティーン自身によるナッジへの批判的反省は「Nudges That Fail」を参照。

しかし、それ以前のサンスティーンだと熟議民主主義批判(およびインターネット批判)が知られていたが、これも社会心理学の成果に基づいていた。それはGroup Polarizationであり社会心理学では有名な説なのだが、例えば「熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論」では訳が特殊(集団極端化)で、これがきちんと分かっていない気がする。社会心理学ではGroup Polarizationの定訳は集団成極化または集団分極化であり、集団での決定は個人での決定の時よりも極端な結論に導かれがちだという社会心理学の実験成果があるのだ。ネットにはなかなかいい説明サイトが見つからないのだが、古いものでよいなら「集団分極化とその説明理論について」(PDF)が詳しい。

以上、私にとっては既に当たり前の知識だけれど、(行政と同様で学問も縦割りで)分野間の断絶の激しい日本ではこの程度でも知られているとは言い難いので確認してみました。

2017-05-06

身体化論について私感

エナクティヴ・アプローチにおける現象学の役割は何か」は、ヴァレラらの提唱したエナクティヴ・アプローチをリサーチ・プログラム(ラカトシュ)として理解しようとした素晴らしい論文でお勧めです。詳しい内容は論文を読んでもらうとして、後は身体化論について前々から個人的に考えていたことをつぶやきます。

身体化論については、ヴァレラら「身体化された心」の翻訳が出た当時、既に原書の存在を知っていた私は大喜びした覚えがある。その私から言わせてもらうと、このヴァレラらの本が出てからもう二十年以上も経っているのに、その間に身体化論のリサーチ・プログラムとしての生産性が特に高くなったとは私にはどうしても思えない。ネット上には身体化論の論文(特に英語)がよくあがっていて今でもたまに読むのだが、それほど面白いとは思ったことはない(冒頭の論文は例外)。第一の理由はそもそも特出すべき新しい展開がないせいもあるが、もっと困ったことは経験科学との関係が薄くなってしまったせいもある。それに、身体化論がもともと敵対視していた古典的計算主義そのものが昔ほど力を持たなくなってしまったので、批判としての価値も失ってしまった。身体化論は、哲学的には思弁的な議論ばかりだし、科学的には目ぼしい成果が見当たらないしで、見るべきところはない。それなにの、今さらになってやっと日本では身体化論で騒ぐ人がよく目につくようになって、その周回遅れ感にはあきれてしまう。

とはいえ、身体化論について全く何の期待もないってほどでもないので、これからも薄く見守っていこうとは思います。

2017-04-25

生態学的妥当性を軽く復習する

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)」は、現在の日本での認知科学への理解の低さを考えるとよく出来た本である*1。その中に「生態学的」の意味は「実験室の外で」あるとしているが、この用語の用法のオリジナルとなる文献は欧米の哲学者でさえあまり指摘しないので、軽くそれに触れておく。

生態学的妥当性(ECOLOGICAL VALIDITY)とは、現実の世界において自然に起こっている行動に関する研究が持つ属性である。…(中略)…Neisserによれば、認知心理学者は「日常場面において、そして目的をもった自然な活動の文脈のなかで生まれる認知を理解すべく、より一層の努力を」することによって生態学的妥当性を追求すべきである。

心理学生態学的というとJ.J.ギブソンが有名だが、その影響を受けてナイサーが実験室内の特殊な状況による結果を日常的場面にまで一般化することの危険性を指摘したのが、この生態学的妥当性という用語を提出した動機となっている。ナイサーがこれを指摘した本「認知の構図(原題:Cognition and reality)」が出たのが1976年だが、その後の1980年代以降に起こる認知科学の第二波とも呼ばれる身体性や日常性への転換の先駆的成果となった。しかし、二十一世紀に入って認知神経科学進化心理学のブームの中で第二波的な考え方は忘れ去られていき、せいぜい身体化論が(経験科学から離れて)一部の哲学者の玩ぶ題材と化していったところがある。しかし、生態学妥当性という問題は認知神経科学にこそ当てはまったりもする。忘れられた話題が重要でないという訳でもないのだ。

*1:とはいえ著者の留学先の指導教官の影響が相当に大きいようだ

2017-04-22

方法論的自然主義について個人的なアイデアをつぶやく

前回の記事で、前々から気にかかっていた近年の方法論的自然主義について書けたのはよかったが、固めの内容ばかり抑えたのでもともと持っていたアイデアの殆どを使えなかった上に文章そのものが固くなってしまった。せいぜい方法論的自然主義というと実験哲学ばかりになりがちなところに、自らの判断で科学哲学的な傾向も加えたことぐらいだ。哲学全体で科学的成果への参照は多くなっているので、これを書き加えることには躊躇しなかった。残りのアイデアは微妙な点もあったので、軽く書ける別の記事にしてました。

グランドセオリーから方法論的自然主義

近年の方法論的自然主義の隆盛のきっかけともなった実験哲学については、そもそもはそれ以前の哲学(分析哲学)に対する反抗という側面があった。それを理解するためには元々の分析哲学の状況を知っている必要があるが、日本では(残念ながら学者も含めて)それはほとんど知られていない。それである時、前に別の興味から読んでいた「アメリカ憲法理論の近年の動向―グランドセオリーの退潮―(PDF)」を思い出して*1二十世紀後半の分析哲学をの傾向をグランドセオリーとしてまとめて、それに対する対抗として実験哲学を理解できるのではと計画した。しかし実際に記事に書こうとするとうまくまとまらない。その理由は簡単で、グランドセオリーとして想定している領域と実験哲学が跋扈している領域があまり重ならないせいだった。グランドセオリーとして私が想定していたのは形而上学心の哲学・政治理論・法理論あたりだった*2が、実験哲学の活躍領域は主に認識論倫理学であり、これらを一つの論にまとめることに無理があったのだ。正確には様相理論についてのクリプキ直観が話題に上がることはあるので、両者で形而上学は重なる領域だが、それほど論じられる機会の少ないこのテーマだけでまとめるのはやはり無理がある。全体の流れとしてグランドセオリーから方法論的自然主義へという流れは正しい考えだと思うが、これを一つの流れとして描くのは私の手には余る。

近代哲学史を支配した2つの直観への批判の完成としての方法論的自然主義

方法論的自然主義は経験主義一種とも言えるが、それは昔のクワイン批判していた元来の経験主義とは異なる新しいドグマなき経験主義だ。実際に方法論的自然主義の源としてはクワインの文献が挙げられることが多い。そこで、感覚だけに頼って真実を探る感覚データ説*3とも、人々の同意だけで真実が決まる構築主義とも、異なる考え方としての方法論的自然主義説明できるのではないかと考えた。二十世紀の前半が感覚データ説の時代で後半が構築主義の時代だとすれば*4、今はまさに方法論的自然主義の時代と言える。

ところで、方法論的自然主義の代表である実験哲学哲学者直観を疑っているが、ここで言う直観は判断としての直観である。哲学では、直観とは直接に与えられたものという意味であり、主に2つの意味で使われる。一つ目は感覚としての直観であり、感覚は外部から直接に与えられるものであり、論理実証主義(や現象学も?)はこれに頼って哲学を築き上げていた。この種の直観信仰は所与の神話としてセラーズによって完膚なきまでに批判されている。もう一つの意味は既に示した判断としての直観であり、何かを知っていると言えるか?や善いことだと言えるのか?を判断するために頼りにされていた。判断としての直観とは考えるまでもなく判断できることに適用される点でやはり直接に与えれるものであると言える。つまり今や(元来の)経験主義を支える直観も合理主義を支える直観もどちらも批判対象となっている。実験哲学における直観批判としての概念分析批判哲学者パピノーによる「SEPのNaturalismの項目(英語)説明が見事である*5。ともあれ、近代哲学史の代表的な立場である経験主義と合理主義とを支える2つの直観が、結果としてどちらも批判されてしまったのだ。

判断の偏りとしての二重過程説との共通性

直観批判とは何なのか。それは哲学者でさえ何かしらの判断の偏り(バイアス)を避けられないということだが、これは認知科学で示されている二重過程説*6とも一致する見解だ。どんな人でも無意識の内に何かしらの判断の偏り(バイアス)を被っているのだとする多数の実験的成果から二重過程説が浮かび上がってきたのだが、これは実験哲学直観批判とどこか似ている。まぁこれは実は当たり前の話で、実験哲学の祖の一人である哲学者スティッチ認知科学的な成果を元にして概念分析批判を始めたのだからおかしなことではない。

二重過程説における無意識とは過去に流行った精神分析の無意識*7とは全く異なり、きちんとした科学的成果に則っており、どんな人でも(まさに哲学者でも)その影響から逃れるのは困難だ。だからこそ方法論的自然主義が推奨されるのだ。

*1:「SEPのNaturalism in Legal Philosophyの項目(英語)」も参照すれば、私の計画が無茶ではないことは分かるはず

*2:ちなみにグランドセオリー説明には、その体系性に反対する反実在論や身体論的なもの(例えば徳倫理)も同時代のものとして含めようと計画していた。

*3:一般的にはセンスデータ説とか感覚所与説と訳される。現在ではデータという言葉が理解されてきているので、ここでは一見の分かりやすさのためにあえてこう訳した

*4:ちなみに、それとは別に物理主義(唯物論)は二十世紀を一貫して支配していたとも言える。それに対抗するようにいま勃興しているのが汎心論なのだ

*5:テクニカルな話になるので説明は避けるが、カルナップ文(還元)とラムジー文(定義)の関係が分かりやすく示されていてとても勉強になった

*6:ちなみに、語感が似ている二重継承説とは用語の性質が全く異なる。二重過程説はこれまでの多くの科学的成果を分類して名前を付けたのに過ぎず、それ自体が新しい発見ではない。であるが故に(多数の成果が関わるので)そう簡単に反証されるものではない。対して、二重継承説はそこまでの確実な成果に基づいているわけではなく、単にそう考えると説明に便利だよね〜程度のものでしかない。以前これらを単純に並べて比較している記述を読んだ覚えがあるので、一応指摘だけ。

*7:ここで精神分析非科学性に触れる暇はないが、未だに平気で精神分析を信じている人を見かけると皮肉に感じてしまう。

2017-04-21

近年の哲学での方法論的自然主義の隆盛は明らかなのに日本ではあまり知られてないよねぇ

自然主義とは何か?その二類型

自然主義について詳しくは哲学者パピノーによる「SEPのNaturalismの項目(英語)」がお勧めなんので是非参照してもらいたい。論者によっては用法がかなり異なるので定義するのは難しいが、主要な用法としては存在論自然主義と方法論的自然主義が挙げられる*1

存在論自然主義とは自然なものだけが存在するとする考え方で、その代表が物理的なものだけが存在するとされる物理主義である。唯物論とも称されるこの考え方は昨日今日現れた訳ではなく昔からあるもので特に目新しくはない。ここでは、近年になって話題になっている自然主義を語りたいのでこちらは無視する。

ここで話題にしたいのはもちろん方法論的自然主義の方である。方法論的自然主義とは経験的探求によって認められたものだけを認めようとする考え方だ。もちろん、それを実際に既に適用している領域が科学であるが、哲学においても同じように経験的探求に従っていこうということだ。哲学における方法論的自然主義の源はクワインにまで達するが、それが特に二十世紀に入った辺りから哲学者直観を疑うという形で実験哲学として発展していくことになる。実験哲学について詳しくは、認識論については「実験哲学からの挑戦」、倫理学については「第3章 実験倫理学の可能性、問題、限界」(PDF)を参照してください。有料になってしまいますが日本語による実験哲学説明としては「実験哲学という実験」の創始者本人ノーブによる説明も分かりやすいのでお勧めです。

方法論的自然主義と言えば一般的には実験哲学

推理小説の探偵にアームチェア型とアウトドア型がいるとしたら、これまでのたいていの哲学者は明らかにアームチェア型ばかりだった。足で証拠を探るアウトドア型の探偵のように経験できる証拠を自ら探しだすわけではない点で(数学者などの例外を除く)科学者とは異なると思われていた。ならば哲学者は何に頼って物事を考えるのだろうか。哲学者は考えを推し進める上で何が知らの直観に頼っていたのが現状だ。プラトン対話篇を思い浮かべてもらえば分かるように、そこでそこでの議論されている説が正しいかどうかは最終的にはその場にいる者達の直観に頼っている。なぜなら、その場での対話以上の証拠をわざわざ求めていたら、その場での対話としては成立しなくなってしまう。伝統的に哲学者とはアームチェアの上で考えるだけというイメージが強かった。ガリレオに代表される科学革命はそうした哲学的な思弁から脱するための試みであったと言える。しかし科学が発展する中でも哲学はそれだけの独特の領域(例えば認識論倫理学)で仕事を行ってきた。しかし、近年になって哲学独自の領域の中にも証拠を求める科学的思考法が入り込むようになった。

もう一つの哲学での方法論的自然主義的な傾向

近年の(哲学における)方法論的自然主義の隆盛は激しくなっているが、日本ではあまり知られていない。その最大の理由は、そもそも日本では元来の分析哲学そのものがさっぱり知られていなくて、そのカウンターとしての(方法論的自然主義を用いた)実験哲学の意義が理解できないことがある。しかし、実験哲学は近年の方法論的自然主義の隆盛の片面であるように私には見える。もう一面には、主に科学哲学で生じている科学的成果を参照した哲学的議論があるように思う。経験的証拠に基づいているという点ではどちらも共通であるが、実験哲学では経験的的な探求が哲学の内部で行なわれているのに対して、科学哲学では従来のどの領域にも当てはまりそうな抽象的な議論があまり見当たらなくなり、個別の科学の成果を参照しながら議論するようになってきている。この場合は経験的探求は哲学の外部(主に科学)によって担われることになる。もちろんこれらは現時点での表面的な違いに過ぎず、過去の科学革命のように前後で哲学から科学への転換が行われることになるのかもしれない。それが推し進められれば哲学は消滅するいらない分野であることになる。

正直に個人的な印象を述べると、最近の科学哲学議論は(ノーブ効果のような例外を除くと)科学者による科学的成果を参照しているがゆえに、もともと科学者の間で議論になっていた話題に追従して議論を整理しているだけに見えてしまう。だとしたら、哲学者科学者に対するアドバンテージは見当たらなくて、その科学研究に従事している分だけその領域に詳しいので科学者のほうが有利だ。哲学者の方が考えるのが得意だと端的に思っているのなら、それはただの思い上がりに過ぎない。科学者哲学者などいなくてもこれまでも十分に深い議論をしてきたのであり、それに乗っかってるだけの哲学者(案外多数)に偉そうなことは言えない。

これからどうなる?

近年の方法論的自然主義の隆盛は徹底的に推し進めれば「哲学いらない」説に辿り着き、実際にそれを主張している学者もいる。もしそれが正しいなら放っておいても哲学は消滅し、残るはせいぜい古いテキストを読解するだけの哲学史(何のために?)だけになってしまうのかもしてない。今はまだ哲学いらない説の主張そのものが哲学の営みの内に入ってしまうので、文字通りの哲学の消滅にはならないが、哲学存在意義が問われていることに変わりない。

*1:「多元論的自然主義の可能性?哲学と科学の連続性をどうとらえるか」の第一章が、クワインの諸著作から(そうと名指しはされていないが)方法論的自然主義存在論自然主義を抽出した見事な論文である

2017-04-14

既に今年の日本のミステリーのベストかも、太田愛「天上の葦」

最近は日本のミステリーを読むことが多く、特に21世紀に入ってからの日本のミステリーは海外ミステリーと比較しても日本の他ジャンルと比較しても、そのレベルの高さに驚かされている。そのうち、21世紀の日本のミステリーのお気に入りリストでも作ろうかとでも予定は立てている。

とはいえ、私自身は(本来の得意分野は別にして)比較的に評価が定まってから本を読む傾向があって、新刊はよほどのその著者のファンでもない限り読まないのだが、これはたまたま図書館で目について新刊であるにも関わらず直感で借りて読んだのだが、そのあまりの面白さに驚愕。私がリスト化しようとした本(本格ものが多い)とは方向は違うが、そんなこととは関係なく、私がこれまで読んだ日本のミステリーの中でもトップクラスに入れて良い。このミスの上位作品でも時々それほどの出来?と思う時がある程には評価が厳しい私でも、これは素直にお薦めできる。私の趣味に偏ったリストにはのせないつもりなので、単独の記事で紹介しておきます。内容はアマゾンとかを読めばいいので書きませんが、面白いことだけは保証します。

天上の葦 上

天上の葦 上

天上の葦 下

天上の葦 下

ちなみに、最近出た認知科学関連の一般書でお勧めは「理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)」です。

2017-04-12

いろいろ愚痴を言いながらも近年見られた新しい進歩史観だけは指摘しておく

前回の記事でも取り上げた「いま世界の哲学者が考えていること」は、近年の日本の出版状況を考えれば良作の部類には入るのだろうが、やはり不満は多い。前回の記事の注でも指摘したが本来の哲学の話は最初の方にしかない。その哲学の話に関しても、自然主義に注目したのは悪くないのだが、日本の独自の事情のせいで偏った紹介になっている。そこで紹介されている、後半の道徳心理学に関しては実際に最近の議論だし自然主義の例としてふさわしい。しかし前半の認知科学で言われるところの身体化論(Embodiment)については、たまたまその代表的な論者であるアンディ・クラークの著作の翻訳が最近になってやっとなされたせいで一部の人に注目されただけであって、その源は二十世紀末とそれほど新しいわけではない上にそもそも近年の自然主義の文脈で出てきた話でもない。自然主義については適切な記事なり著作なりが日本にはほとんどない状況に*1、何か記事を書こうかと前々から計画だけはしていた。しかしこれまた前回にも書いた理由で計画通りのきちんとした記事を書く気はしない*2。だから今回もただ思ってることをだらだら書くだけにしてみた*3

早速自然主義について書いてもいいのだが、独立した記事にしようと思った程度には分量が多くなるはずなのでそれはまた気が向いた時に後回しにして、今回は気にしていた別の件から片付けることにする。「いま世界の哲学者が考えていること」の哲学の章への不満には既に軽く触れた。この本の残りの部分は社会論評的なものの紹介に費やされている。歴史的に見れば哲学は社会評論的なものとはあまり関係がないのだがそこは脇に置く。その部分には様々なものが紹介されていてそれなりに参考になるのだが、私が知っている範囲でなぜこれが取り上げられないんだろうと思うものがある。それはリドレー「繁栄」やピンカー「暴力の人類史」(アセモグル&ロビンソン「国家はなぜ衰退するのか」も?)で主張されている新しい進歩史観である。どちらも欧米では話題になりヒットした本なのに、日本であまり話題にならない。彼らの進歩史観は、昔のヨーロッパにあったような(西洋中心主義的な)イデオロギーとしての進歩史観ではなく、経験的なデータに基づく新しい進歩史観である。経験的なデータに基づいている事自体が方法論的自然主義と関わり*4があることは脇に置くにしても、この不思議なくらいの日本での無視のされ方は見事すぎる。ときどき日本ではみんな特定の内輪でしか通用しない特定のネタで盛り上がることに夢中な人ばかりで知的好奇心を持った人はもはや絶滅危惧種なのでは…と危惧してしまう。新しい進歩史観についてここで真偽を論ずるつもりはないのでこれ以上は突っ込まないが、いくらなんでももう少し知られていてもいいんじゃないか?

*1:数少ない例外が「多元論的自然主義の可能性?哲学と科学の連続性をどうとらえるか」の第一章が、クワインの諸著作から(そうと名指しはされていないが)方法論的自然主義と存在論的自然主義を抽出した見事な論文である。ただし第一章のあまりの素晴らしさに比べると残りの章は疑問に感じるところが多いので注意

*2:スマホやSNSの普及で情報は無料で手に入って当然という人が多くなった。その多くがおそらくウィキペディアがどういう考え方のもとに作られたのかも分からないのかもしれない。こういうメディア・リテラシーのない人たちがフェイクニュースなり大げさに書かれたネットニュースなりを平気で受け入れいるのだと思うと暗鬱としてくる

*3:それでも下らない炎上が起きない程度には気をつける必要はあるのでめんどくさい。

*4:その点ではセイラー&サンスティン「ナッジ」(邦題「実践行動経済学」)が日本ではあまり話題にならなかったことも奇妙だ。邦題のセンスの悪さもあるがそれにして無視されすぎだ

2017-03-10

[]マルクスガブリエルはどんな存在でも認める都合のいい欲張り存在論者か?

去年に「いま世界の哲学者が考えていること」を読んで興味を持ったマルクスガブリエルについて記事に書こうとはずっとしていたのだが、ネットで調べて考えた結果として私にはそれほど興味が持てなくなり書く気が失せていた。以前までかろうじて持っていたインターネットへの幻想もすっかり失せて、インターネットは単なる日常の一部としか思えなくなった今となっては、わざわざ良心的に丁寧に説明するネット記事を書くのも馬鹿らしくなったせいもあってますますやる気は失せていた。それでも何も書かないでいるとモヤモヤが残ったままなので解説でなくただの紹介と感想程度なら書いてもいいかなぁ〜と思えてきた。

ネットにある論文としては「新実在論とマルクス・ガブリエル」(PDF)「なぜ今「実在論」なのか?」(PDF)がお勧めなのでそれを読んでもらうとして、あとはただの私の感想になります。

『いま世界の哲学者が考えていること』はいろいろツッコミどころは多い*1が、現在思想系の読み物としてはそれなりに面白く読める。現代思想系の残党がきゃっきゃ騒いでるものとしては既に思弁的実在論があってちょこっと調べたことがあるが、どうしても昔の東浩紀が言うところの否定神学システムにしか見えないし、であるがゆえに不毛としか思えない。それに比べれば、同じ実在論と呼ばれていてもマルクスガブリエルの新実在論のほうが興味深そうに思えた。そもそも、マルクスガブリエルは思弁的実在論批判しているので同じく実在論と称しているからと一緒にしてしまうのはどうかと思う。というわけでマルクスガブリエルについて調べたのだが、結論としては哲学史家としては天才的かもしれないが哲学者としては物足りないと感じた。

マルクスガブリエルはもともとは後期シェリングの研究で有名だったのが、一般向けに書いた哲学書である「なぜ世界は存在しないのか」がベストセラーになって一躍有名になり、日本でも注目されつつある。しかし調べてみると確かにドイツではベストセラーになったかもしれないが英語圏ではそれほど話題になっていないように感じる。マルクスガブリエル分析哲学にも目配せしているだけにこれは注視すべき事実だ。これまた結論を先に行ってしまうと、マルクスガブリエル分析哲学をもう少しきちんと勉強したほうがいいんじゃないかと思う程度には議論が甘いと感じた。

もうちょっと詳しい感想を言うと…

マルクスガブリエルを有名にしたのは書名からもうかがえる「世界は存在しない」という考え方だ。一見すると奇妙な考えな気もするが、中身を知るとそうでもない、一言で言えば「世界は物のように存在するわけではない」ということだ。詳しくは論文を読んで欲しいが、この考え方はギルバート・ライルのカテゴリーミステイク「心は体のように存在するわけではない」と議論が同型なので私には特に目新しい議論をしているようには思えなかった。マルクスガブリエル反実在論という用語法が分析哲学用語法と微妙にズレがあることはとりあえず脇に置くにして、マルクスガブリエルが問題としている形而上学構築主義の分離を見ていると、その問題意識は理解できなくもないが、あまり内実のある議論とはどうしてもあまり思えない。マルクスガブリエル形而上学と呼んでいるのはおそらく分析哲学で言うところの物理主義を指しており、物の存在しか認めていないとされる。それに対して、構築主義はそれぞれの心の中にあるとされるものしか存在しないとされ、いわゆる(思弁的実在論を含む)現代思想が取る立場とされる。マルクスガブリエルはどちらの立場も間違っているとして、両者で存在されるとされるものはすべて存在すると主張する。

これまた詳しい説明論文に任せるとして、唯物論的に存在する物も観念論的に存在するものもどちらも存在するとする存在論は、一貫した納得できる理論が提示されない限りはただのご都合主義の欲張りな存在論でしかないのだが、紹介論文を呼ぶ限りではその懸念は当たっているようにしか思えない。だいたい心の中の存在というのが分析哲学に言うところの志向的対象でしかないとしたら、実際の物理主義者はそれを直接的に否定するとは思えない。ただ物理主義者は志向的対象を物理的対象と同じように「存在する」と呼ぶことをためらうだけだが、そのためらいを払拭するだけの根拠をマルクスガブリエルが示せているようには思えない。そもそも物理主義者であってもデヴィット・ルイスやアームストロングのような様相理論を用いれば(すべてではないにせよ)思考の対象もそれなりに扱える(対してマルクスガブリエルは一貫した理論を示しているとは言えない)。

たとえガブリエルフレーゲの「Bedeutung」と「Sinn」の区別を意図していたとしても、関連した議論分析哲学では散々議論されており、私もその一部を知っているに過ぎない。『例えば「アルプス」(同一の対象)が「山脈」であったり、たんに「原子の集合体」であるといった形で表現されることが可能である』(「新実在論マルクスガブリエル」p.183)と言われても、そもそも同じ対象を示している「ヘスペラス」と「フォスフォラス」の間の意味の違いをどう見い出せばいいのかを分析哲学ではずっと問題にしてたのだから、単なる名前の違いと同等に扱われてもどうかと感じる。英語圏マルクスガブリエルがそれほどには話題にされていないのもその議論の甘さを考えると仕方ないと思う。

まぁ他にも、マルクスガブリエルの「そうした規則がそもそも存在しうるかどうか」という設問はメタ理論の匂いが強くその不毛さも含めてやっぱり後期シェリング研究者なんだなぁ〜(感心)とか、分析哲学における観念論反実在論の区別をきちんと考慮してくれとか、いろいろ思うところはまだあるが単なる感想にこれ以上手間をかける気は起きない。唯物論観念論もどちらも批判すべきだという問題意識は理解できなくもないが、どんな存在でも認めるただの都合のいい欲張り存在論ではないかという疑惑は払拭されなかった。

*1:本来の哲学の話は最初の方にしかないとか、身体論は自然主義の例としてはふさわしくないとか

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