蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- このページをアンテナに追加 RSSフィード

2015-10-21

[]Michael Loux"Metaphysics:A Contemporary Introduction"(&おまけのひとりごと)

Metaphysics: A Contemporary Introduction (Routledge Contemporary Introductions to Philosophy)

その分野の第一人者がカテゴリー論の視点から分析的形而上学を概観した優れた教科書

世界の根本の構造を問う哲学としての形而上学における(分析的な)議論をまとめあげた教科書。ただし、序文にもある通り、形而上学の中でも神や心の問題は他書に譲ることにして、あくまで物の存在問題だけが扱われている。教科書と言っても洋書なので、独立した読み物としてもよく出来ている。分析的形而上学の主要な議論を一通り解説しているので、この分野の学習にピッタリ。それなりに分析哲学に慣れていないとさすがに読み進めづらいが、全体としてはとても読みやすく書かれている。主要な議論を一通り紹介しているだけではなく、全体をカテゴリー論という視点でまとめあげている点も優れている。もし本格的に分析的形而上学について学びたければ是非お勧めしたい著作だ。

(分析的)形而上学についての著作は日本語でもある程度は読めるようになったが、たとえ入門的な著作であっても個々のテーマに関する議論は紹介されていても、そもそも形而上学とは何か?形而上学は何を目指しているのか?という根底となる問題意識が伝えられていないように感じる。これは分析的形而上学の代表的な学者が書いた教科書であるが、教科書としてはあまりに優れていて読み物としてもよく成立している。

まず個々のテーマについての議論の紹介が手際よくまとめられており、(必ずしもこの分野に限った話でもないが)下手な日本語文献を読むよりもたとえ英語であろうとこの著作を読むほうがよっぽど分かりやすい。(洋書ではよくあることとはいえ)文献紹介もしっかりしている。しかし、この著作の最大の特徴は全体が統一された視点から書かれていることである。その最も大きな枠組みは、形而上学を世界の根本構造を捉えるためのカテゴリー論として理解することである。例えば普遍問題とは普遍の存在が世界の理解にとって本当に必要か?を問うものである。それとも関連した形で、物質の構成(基体説か束説か)や様相(必然性と可能性)についての議論が前半では紹介されている。後半では因果・時間・持続の問題が扱われて、最後の章ではこれまでの形而上学議論そのものを否定するかのような反実在論が紹介されて終わるが、この全体の構成そのものがとても綺麗にまとめられている。形而上学に個々のテーマについての瑣末な議論には還元できない視点をもたらしてくれる点でも貴重な著作である。

私にはこの著作の欠点は本当に見つからないし、そもそも欠陥を見つけられるほど私が(分析的)形而上学を理解していないのかもしれないが、ただ一つだけ気づいた注意点を挙げておく。metaphysical realismという用語の使われ方が、日本でよく知られているヒラリー・パトナムの使用法とは異なることである。著者のLouxは普遍問題におけるrealismをmetaphysical realism、反実在論に対応するrealismを頭文字を大文字でRealismと表記しているが、パトナムが批判している形而上学実在論とはLouxの言うRealismに当たる。そもそも日本にはrealismには2つの意味があることを始めとして、(この分野に限った話でもないが)基本的知識があまり普及していないことも多い。こうした海外の信頼できる教科書を読むことはとても意義のあることである。

軽く入門するぐらいなら日本語文献でも事足りるかもしれないが、もし本格的に(分析的)形而上学を学びたいならこれを読むことをお勧めします。個々の議論のまとめ方の手際良さもさることながら、(分析的)形而上学を単に個々のテーマで瑣末な議論をしているだけではないとする統一的な視点をもたらしてくれる点で、単なる教科書を超えた素晴らしい出来となっている。ちなみに、私が読んだのは2006年に出版された第三版であり、版を重ねる毎に増補修正が施されている。

勝手なひとりごと

私は(まだ日本語文献がほぼなかった何年か前に買った)この本から分析的形而上学を学んだのであり、お世辞抜きで素晴らしい教科書だとは思っていたのだが、私はこの本を通して読んだとは言えない(せいぜい通して読んだと言えるのは前半だけで、あとはつまみ食い状態)のでレビューを書く気もなかったのだが、日本の状況を見ていると一応簡単なレビューぐらいあったほうがいいかもしれないと思って思い切って書いた。

とはいえ、自分には分析的形而上学には以前ほどの興味はない。今から考えると勘違いして(分析的)形而上学に興味を持ったのだけれど、一応は努力して勉強したのでそれなりの理解には達しているとは思う(たぶん)。しかし物の存在を扱う形而上学が、無機的な物を扱う学問(物理学化学)が苦手な私にしっくりくるはずもなかったのだ。とはいえ、心身問題も形而上学の一部であり、そっちには興味のある私には無駄な勉強だった訳でもなかった(と思いたい)。主流の物理主義的な形而上学を知っていたからこそ、最近になって知った汎心論も理解しやすかったのは幸いとも言える。とはいえ、(分析的)形而上学が面白いかと言われると困ってしまう。(この教科書が形而上学に統一的視点をもたらすと言っておきながらなんだが)分析的形而上学の個々の議論は高級なパズルなんだと割り切った方が面白く思えるのかもしれない。いや、せめてこの著作で扱われている形而上学的立場(普遍問題や持続問題などの説)にスーパーヴィーニエンスによる心身問題の解消を付け加えた物理主義的な形而上学的な体系がありうることぐらいは心の隅に留めておいた方がいいかもしれない(それがあってこそ対立する汎心論の体系が成立する)。

2015-10-14

[]汎心論の哲学史をほんの少しだけ調べてみた

この前チャーマーズの汎心論概論の論文を紹介したけれど、チャーマーズ自身が現代の哲学で主流であるはずの唯物論(物理主義)を見限って、汎心論と(実体)二元論に見込みがあると言っているのに驚いた。唯物論(物理主義)を捨て去ろうとするのは意識のハードプロブレムで有名になったチャーマーズとしては仕方がない(?)のかもしれないが、それこそとっくの昔に捨て去られたはずの実体二元論を有望な選択肢に上げるのは不思議だ。チャーマーズ自身が指摘するように(実体)二元論には心的因果についての問題があり、それこそが(実体)二元論が放り出された理由であったはずだ。とはいえ、唯物論にも二元論にも汎心論にもどの立場にも深刻な問題があることを考えれば、安易に二元論が間違いで唯物論が正しいとは言い切れないのも確かだ。

私は哲学的な議論である論証にも興味があるが、他方で哲学史的な話にも興味がある。哲学史的な汎心論については日本語に文献がまだないので調べるのは大変だが、かなりいろんな哲学者が汎心論者として候補に挙がっている*1。ただ哲学者によって汎心論度に差があって、たとえばスピノザが汎心論だという話もあるが、スピノザが汎神論だとはよく聞くがどこがどう汎心論なのかは私にはよく分からない。私が素人なりに調べていて汎心論なのかなと思えたのは、ブルーノライプニッツ、ウィリアム・ジェイムス、(一時期の)ラッセル、(おそらく)ホワイトヘッド(または弟子のハースホーン)ぐらいだろうか。私がそう思うようになった共通する特徴は皆、何かしらの形のパースペクティブ主義を採っていることだ。パースペクティブ主義というとニーチェが有名だが、それは生き物に限られたもののように思う。汎心論的な哲学者は物にもパースペクティブ主義を採用しているところに特徴がある。といっても、物に意識があるという話ではなくて、意識なき表象を認めようという事だ。それぞれの物にはそれぞれの視点がある考え方であるが、これをラッセルは中性的一元論と称しているが、ウィリアム・ジェイムスにとってはおのおのの視点があるだけで絶対的な超越的視点はないとする多元論として示している。ライプニッツが「モナトロジー」で街は様々な視点から眺められることとのアナロジーで語っているのもまさにパースペクティブ主義だ。個人的には、汎心論の魅力は心身問題の解決ではなくて、むしろパースペクティブ主義という世界観にあると感じる。全ての物がそれぞれの仕方で世界を眺めていると考えるのは私には面白い。

ちなみに、この前の記事では心の哲学から汎心論を論じたチャーマーズを扱ったが、Stanford Encyclopedia of Philosophyの汎心論の項目の後半は物理学(特に量子力学)の視点から汎心論を論じた記事になっていて、いわゆる心身問題からの接近とは異なる議論に触れることができる。

2015-10-06

最近までの道徳についての哲学的・科学的な議論をまとめた最良の一般書「太った男を殺しますか?」

太った男を殺しますか? (atプラス叢書11)」は、有名になったサンデルの授業でも取り上げられていたトロリー問題(トロッコ問題)を主題にしながら、最近までの道徳に関する学問的議論(哲学や科学)をまとめた一般向けの著作としてよく出来ている。近年の道徳心理学に関する本は今までも多少は訳されていたが、(これまではあまり触れられることの少なかった)道徳文法や実験哲学も含めてここまで包括的に分かりやすく語った著作はなかったので是非お勧めします。あまりのよく出来た著作(特に科学書)には往々にしてあるのだが、私には特にこの本について語るほどの事は特にないので、とりあえずお勧めだけしておきます。

翻訳上の問題は別にすれば不満が少ないが、あえて指摘すると導入部分でトロリー問題についてもっと丁寧に説明したほうが良かったと思う。翻訳上の問題も色々ある*1が、全体としては読みやすく訳されているのでそこは良しとしたい。ちなみに、(これが哲学書であると同時に科学書でもあることが分からないのは仕方ないとして)タイトルはほぼ原題通りだが副題のrigth and wrongが訳されていないせいで、これが道徳に関する本だと言う事が一目では分かりにくいのはちょっと失敗かな?

*1:解説がなぜこの人に?と思う無益なものだが、本文が読みやすいのでこれは別にいらない。一番ひどいのは(注で参照されてるのに)文献表が省略されていること。せめてネット公開ぐらいしてくれ。結果主義は帰結主義の方が定訳だとは思うが、訳語の問題はこの本に限った問題でもないのでこれ以上は突っ込まない

2015-10-02

社会的認知についての一般書「心の中のブラインドスポット」の紹介

社会的認知とは、社会心理学認知心理学的な考え方を適用した研究領域であり、色々と面白い研究成果もあるのだが、残念ながら日本ではあまり知られていない。そのことについては以前から懸念を抱いていたのだが、社会的認知についての一般書「心の中のブラインド・スポット: 善良な人々に潜む非意識のバイアス」が出ていたのでお知らせしておきます。私自身もほぼ新刊であるにも関わらず、本屋の棚にこっそりと並べられているのを偶然に見つけて驚いたぐらいです。きちんとしたレビューを書くのは面倒なので紹介にとどめておきますが、私が中を見た限りではなかなか悪くない本だと思います。日本では、行動経済学脳科学のような目立つ領域を除くと、科学的心理学の本が一般にはあまり読まれないのはもったいないことです。

この本は、社会的テーマについて認知心理学的に研究する領域である社会的認知について、認知科学全般の基礎となる二重過程説に則って説明されています。例えば黒人について意識的に差別を働かせているわけでもないのに黒人に関する情報だけが異なる処理をされることなどが実験で示されています。黒人や美人を意識的に差別や優遇しているつもりがなくとも、無意識のうちの他とは別の仕方で判断してしまうことが実証的研究から分かっています。こうした社会的認知についての一般向けの本というのは、日本では(たとえ翻訳であろうと)珍しいのでもっと読まれてほしいと思います。

2015-09-11

[]チャーマーズ論文を読んで現代的な汎心論を自分なりにまとめる

私は長らく心の哲学に関心を持ってきたが、元々の問題意識(認知科学の科学性への疑問)がそれなりに解消したのと、最近の哲学者の多くが素朴な科学主義に陥っているように見えること*1などから最近は心の哲学への興味が失われていっていた。それがたまたまネットで調べ物をしていた時に最近の心の哲学における汎心論の議論を扱った日本語論文を見つけて久しぶりに面白いと思ってしまった。汎心論についての紹介については私が参照した論文*2が優れているのでそちらに任せるとして、私はそれから興味を持って読んだチャーマーズの汎心論の論文がきちんと議論をまとめていることに感心したのでそれを参考して私なりに改めてまとめてみたい*3

現代的な汎心論とは何か

(心身)二元論唯物論(物理主義)の問題を探る

心の哲学にとって心身問題は根本となる問題だ。心と体がどのような関係にあるかは哲学史においてずっと問題になり続けている。心身問題における主要な立場には対立する立場としての(心身)二元論唯物論(物理主義)とがある。この2つの立場への不満が現代において汎心論を復興させるきっかけを与えたと言える。まずはこの対立する立場へのそれぞれの反論を紹介することから始めよう。

(心身)二元論は心が体を動かすという常識的な考え方に基づいている。(心身)二元論に関しては、そもそも心と身体の間に直接に因果的な関係があるとしたらそれは物と心が別々にあるとする二元論だとは言えなくなる。世界中にある物は互いに物理的な因果関係にあるのであって、物としての身体に因果的な影響を与えるのは物だけである。よって、心的性質は物的性質に基づいているのであって、心という独立した存在があるわけではない。つまり、世界には物理科学によって明らかにされうる物質だけが存在するという唯物論(物理主義)が正しいことが導かれる。

ならば、唯物論(物理主義)はどうだろうか。一方で物理主義が認めるように世界には(究極の)物理法則があるはずだ。他方で任意の現象的な真実(例えば「私には意識がある」)を認めよう。前者の肯定と後者の否定を両立させることで意識を持たない哲学的ゾンビが理解できるはずである。ならば、(前者)究極の物理法則の肯定と後者(例えば私の意識)の否定との両立は形而上学的に可能なので、唯物論は間違っている。ここまではあえてチャーマーズ議論をほぼそのまま示してみたがもっと分かりやすく言い換えよう。究極の物理法則が私の意識を必然的に導く訳ではないが、それは私の意識という端的な事実に反している。よって、心を説明する上では究極の物理法則だけでは足りない。こうして世界には物的性質しかないとする唯物論(物理主義)も反論されてしまう。唯物論(物理主義)は現代においては有力な立場であるが、それでは意識の問題では行き詰まってしまう。そこで注目されているのが(二元論とも唯物論とも異なる)唯心論の立場である。

現代的な唯心論とは何か

心身問題を解消する鍵として物に心を認める汎心論に新たに注目が集まっているが、それはもはやアニミズムのような素朴な汎心論ではない。好き勝手にあちこちの物に心を認めるだけなら注目するに値しない。それに現在の哲学の基本的な潮流である経験主義や科学主義にあからさまに反する説には価値がない。より整合性を持った説としての汎心論こそが現代においては感心を持たれている。そうした整合的な汎心論とは(哲学史的にはブルーノライプニッツにも遡れる考え方であるが)世界の究極的な基本要素(哲学的アトム)に原初的な心(経験)を認めようという考え方である。この考え方の長所は、あちこちの物に心を見出すような好き勝手を制限して、最小限の基本的な要素にのみ心を認めることである。石や机に心があると素朴に言っているわけではなく、基本要素がある特定の結びつき方をすると人の心のようなより高度な心が生まれるとされている。

この議論にある問題点を指摘する前に、まずは創発主義という立場を紹介しておこう。(心の)創発主義*4とは物がある特定の結びつき方をした時に限りそこから心が生まれるという考え方だ。例えば有機物細胞として神経的に結びついた時だけに心が生じると考えればよい。

しかし、唯物論(物理主義)に基づいて創発主義を捉えた場合、元々の物(例えば有機物)になかった心的性質が創発によって無から生まれることになってしまう。ここでは物的性質と心的性質の間にに質的ギャップが生じていることになり、それ自体は説明すべき謎として残ってしまう。汎心論にも同じことが言えて、基本要素の持つ(原)心的性質とそれらが組み合わさることで創発したより高度な心的性質との間にはギャップがあることになる。ただしそれは物的性質と心的性質の間のような質的ギャップとは異なるのであり、これこそが汎心論の唯物論に対する有利な点ともされる。

物的性質と心的性質を一元化する

では、現代的な汎心論において物的性質と心的性質の関係はどのようなものだろうか。ここで大事なのは現在の哲学の潮流である経験主義と科学主義に反しない汎心論を構築することだ。つまり、現在の物理理論に反しない汎心論を展開する必要がある。そこで提示されたのがウィリアム・ジェイムスラッセルによって考えだされた中性的一元論(ラッセル一元論)である。つまり物には外側から観察的な外的な性質としての物的性質と観察不可な内在的性質である心的性質があるとすることだ。通常の物理理論が捉える狭い物的性質とは観察可能な前者だけを指しているが、物の持つ広い性質は両者を含んでいるとされる。このことによって究極の物理法則と私の意識の両立がありうることになる。ラッセル一元論は、痛みを神経状態と同一視する(心脳)同一説のようにも見えるし、物的性質と心的性質を分ける性質二元論のように見えることもあるが、物的性質も心的性質もどちらも物の性質としている点ではやはり一元論的である。

汎心論のアキレス腱…組み合わせ問題

原心を持った基本要素が組み合わさると人の心のようなより高度な心が生まれるのだが、原心と心との間にギャップがある点では創発主義の持つ問題が受け継がれている。そもそも多数の基本要素の原心が集まってどのようにひとつの心へとまとまるのかは謎でしかない。この問題は組み合わせ問題と呼ばれ、汎心論に対する最大の反論ともなっている。

おまけ

チャーマーズ論文を元にしてかなり簡略化して論じてきた。元論文にはチャーマーズ自身の独自見解を扱った賞もあるが、決定的議論でも一般的見解でもないのでここでは省略する。また、チャーマーズがあまり問題にしていない話題に心的因果もあるが、これは決定論自由意志の問題に関わる面倒な問題ではある。ラッセル一元論ではたとえ決定論であっても問題がないので面白いと思うけど、問題の語り方が変わっただけ*5で基本となる問題は何一つ解決されていないようにしか思えない。とはいえ、形而上学的に見れば汎心論は唯物論に比べてそれほど遜色がないとは言えそうだ*6

*1哲学的問題が科学的成果を参照するだけで解決できるのなら哲学者はもういらない。むしろ科学の事情に通じているはずの科学者から話を聞くほうがよっぽど有意義

*2:「洗練された汎心論は心身問題解決の最後の切札となり得るか(PDF)」と「汎心論と物理主義(PDF)」の2つの論文がよく出来ているのでぜひお勧めします

*3:David Chalmaers「Panpsychism and Panprotopsychism(PDF)」を参照。ただしこの論文をそのまま要約するわけではない。著者の議論の流れの明快さには舌を巻くが、汎原心論に関する章は流れ上で特に必要ないと感じたので省略した。また素朴な汎心論であるアニミズムにも軽く触れておいた。

*4:正確には、創発主義とは低次の性質から高次の性質が生じることであり、高次の性質は低次の性質に還元できない場合を言う。例えば水素酸素から水が生じた時に水の性質が元々の水素酸素の性質にあったわけではない

*5存在論的ギャップが組み合わせ問題になっただけ

*6:あくまでこれは形而上学に遜色がないという話であって、検証可能な科学的仮説を立てるための前提としては物理主義の方が未だ生産的なことには変わりがないと思われる

2015-01-26

[]スザンヌ・コーキン「ぼくは物覚えが悪い」(修正前のくどい書評とおまけの追記)

ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯

世界一有名な健忘症患者H.Mについて、当の研究者がその人柄を交えながらその研究成果を紹介していく記憶の科学書の傑作

ロボトミー手術によって新しいことを一切覚えられなくなってしまったH.M(ヘンリー)をめぐる研究成果をその生涯を交えながら紹介していく一般向け科学書。タイトルからは分かりにくいが、記憶の科学的研究の紹介が主で生涯は挿話としてはさまれる程度ではあるが、そのバランスが絶妙。心理学神経科学の世界では有名な患者であるH.Mについての研究成果を分かりやすく解説しながらも、H.Mの人柄にも触れることで単なる研究対象とは感じさせないようになっている。全般的に読みやすく書かれた著作ではあるけれど、それでも知識がないと分かりにくい部分が多少ある。とはいえ、全体としては一般向けの著作としてかなり頑張って書かれた著作であり、記憶研究の面白さを伝える良作としてぜひお勧めしたい。

この本の主人公であるH.Mは脳のロボトミー手術によって新しいことを覚えられなくなった(前向性)健忘症になったことで世界的に知られている。そのH.Mは(記憶の)心理学神経科学の授業では必ずと言っていい程に言及される有名な患者であるが、長い間イニシャルでしか知られていなかった。その彼が亡くなったことを機に彼を担当していた研究者が(患者の本名を明かして)その研究成果と生涯についてまとめて描いたのがこの著作である。

H.M(ヘンリー)にはひどいてんかんの症状を直すために脳の一部を切除するロボトミー手術を行なった。(現在は認められていないが)当時はロボトミーはよく行なわれた治療法であり、その辺りの事情についても詳しく書かれている。その結果、ヘンリーは新しいことを一切覚えられない(前向性)健忘症になってしまう。だが、ヘンリーはその症状の出方の純粋さ(記憶障害しかない)から世界中の研究者に(イニシャルだけで)知られる存在となる。著者はそのヘンリーを担当した研究者であるが。研究者としてだけでなく著述家としても優れている。科学研究を紹介した本は成果をただ羅列するだけの無味乾燥に陥りやすいが、他の科学的成果に言及したり科学史を参照したりしながら自分の研究を解説するのがこの著者はとてもうまい。そしてなによりも、ヘンリーを直接に知る人物としてその人柄が分かるように具体的に描かれているのが素晴らしい。記憶の科学の啓蒙書としてだけでなく、生きた患者を扱う生き生きした神経心理学を伝えた著作としても優れている。

全体的に科学書としては分かりやすく書かれていると思うが、たまに(心理学の)知識がないと読むのがきつい箇所がいくつかある。特にプライミングについてはやはり説明不足感はぬぐえない。とはいえ、たとえ入門書であってもプライミングについて初心者にきちんと説明するのは大変だと思うので、あまり多くを求めるのは酷かもしれない。むしろ、H.Mについての研究成果を科学史や他の科学研究に言及しながら無味乾燥にならないように分かりやすく説明できている点では、諸々の科学書の中でもトップクラスに入れてもいいくらいだ。H.Mについての単著というだけでも価値があるはずだが、その期待を上回る出来には舌を巻くしかない。

ひとつだけ原著とは無関係な文句を挙げると、やはり日本語版のタイトルに問題がある。この本の題名からは誰かの人生を描いた単なるノンフィクションだと勘違いされそうだが、その内実はほとんど科学書である。そもそも「物覚えが悪い」という言い方自体が(新しいことを覚えられる能力そのものがないのだから)誤解を招く。原題は「永遠の現在形─記憶をなくした男と彼が世界に教えてくれたこと─」であり、もう少し原題を生かした邦題にしてほしかった。本当に読んでほしい人に届けるためにももっと適切なタイトルをつけてもらいたい。

H.Mを担当した研究者による報告としてだけでも貴重だが、(認知科学的教養に基づいた)記憶の科学についての分かりやすい概論としても優れている。この手の本(認知科学関連の著作)は似たり寄ったりの内容だったり無味乾燥だったりしがちで、良くて自分自身の研究を扱った章だけなら面白い…にとどまりがちだが、これは読み通して全体を面白かったと言える稀有な科学書だ。記憶の科学に少しでも興味があるならぜひ読んでもらいたい。

  • 追記:2015年上半期のベスト認知科学書が「美味しさの脳科学」なら、下半期のベストはこの本に決まりだ。部分的に面白い本なら他にも色々あったけど、全体として優れていたのはダントツでこれら。どちらも一般向け科学書だけど、本当に感心するには素養が必要かもしれない。認知科学好き(だった?)の私としては、前者でのイメージ-命題論争への言及や後者での「プランと行動の構造」や「心の概念」への言及とかには驚いた。専門家として優れていながら単なる専門バカではない科学的教養のある学者によって書かれた著作を読めることは幸せだ(残念ながら心理学者の書いた本は大して面白くない本が多いので余計に貴重)。レビューしたこの著作はその全体に潜むテーマが二重過程説である点でカーネマンの本と共通点がある…みたいなことは(流れ的に)書評に書く余裕がなかった。最終章でのヘンリーの死後に彼の脳を保存するプロジェクトの話も面白いのだが、もちろんそれにも触れられなかった。

2014-07-11

[]アルチュセール哲学・政治著作集 二」

哲学・政治著作集〈2〉

特異なマキャベリ論だけは一読の価値ありだが、それ以外は単なる資料で面白くはない

フランス思想家アルチュセールが残したテキストを編集した著作集の第二巻。哲学篇であった第一巻では晩年の唯物論地下水脈論が目玉だったが、政治篇に当たるこの第二巻では独特なマキャベリ論が断トツに読み応えがある。それ以外は既刊の著作を補う資料的なテキストばかりで、お世辞にも読んで面白い物ではない。しかし、マキャベリ論に関しては(モンテスキュー論でも顔を見せていた)思想史家としてのアルチュセール本領が発揮されていて面白い。これまでのアルチュセールの思想であったイデオロギー装置論なども生かされてはいるが、なによりも他のマキャベリ論ではあまり見られない「君主論」と「政略論」(「ディスコルシ」)との関係が展開されていて興味深い。アルチュセールマキャベリ論はオリジナルティが高いので、標準的なマキャベリ論を知っておいてからの方がより興味深く読める。この巻の中で読み物として楽しめるのはマキャベリ論だけであるが、難解な思想家としてのアルチュセールを知る者にはその読みやすさと奥深さに驚くはずである。

アルチュセールフランス現代思想家として一時はよく知られていたが、ブームが過ぎるとあまり読まれなくなった。一般に知られたアルチュセール像は難解なマルクス主義思想家であり、その主要著作はお世辞にも読みやすいものではない(かといって、分かりやすい解説書の類もほぼない)。どうせ難解なフランス現代思想だろ!と倦厭されがちだが、実はアルチュセールにはもう一つの顔がある。それは思想史家としてのアルチュセールである。初期の成果であるモンテスキュー論は(階級闘争論を読み込む所がマルクス主義者らしくはあるが)他の学者にもきちんと認められているような学術書である。「法の精神」に階級闘争を読み込む所がマルクス主義者らしくはあるが、内容はきちんとしたテキスト読解に則ったものである。難解な思想家としてのアルチュセールしか知らない人にはこれを読んでもらって、普通に読める学術的なアルチュセールを体験して驚いてほしいが、この著作にあるマキャベリ論も思想史家としてのアルチュセール本領が発揮された読みやすいテキストだ。

このアルチュセール哲学・政治著作集」はアルチュセールの残されたテキストを編集した本だが、哲学篇であった第一巻では晩年の唯物論地下水脈論が目玉だったが、政治篇に当たるこの第二巻では独特なマキャベリ論が断トツに読み応えがある。それ以外は既刊の主要著作を補うような資料的なテキストばかりで、お世辞にも読んで面白い物ではない。読み物として価値があるのはで「マキャベリと私たち」だけではあるが、それだけでも読む価値がある。基本的にマキャベリの主著である「君主論」と「政略論(ディスコルシ)」の読解と解説をしているのだが、これが他のマキャベリ論では見られないオリジナルな読み方がなされていて、とても興味深い。アルチュセールの思想との関連から見ると階級闘争イデオロギー装置を読み込んでいる所にも関心を引かれるが、やはりマキャベリ論の面白さは「君主論」と「政略論(ディスコルシ)」の関係を展開している点だ。絶対主義的な「君主論」と共和主義的な「政略論(ディスコルシ)」との関係は一見すると対立しているようにも見えてしまう。他の一般的なマキャベリ論ではその辺については一方の側面を強調するか曖昧に誤魔化されていしまうかが多く、その関係が論じられることは少ない。その点このマキャベリ論ではその関係が明確な形で論じられていて説得力がある。(少なくとも日本語の文献では)類似したテーマを扱った著作は見当たらないので、その点では希少な文献でもある。

個人的にこのマキャベリ論で面白いと感じる点は、英語圏の政治理論でなされている共和主義論や徳論と関連付けて読めるところでもある。一般的に、20世紀後半のヨーロッパ大陸政治思想英語圏の議論に影響を与えることは少なく、目立つのはハーバーマスの熟議民主主義論への影響ぐらいだ。現実に影響を与えたかどうかはともかく、大陸の現代政治思想英語圏での現代政治理論と結び付けるのは難しいし実際にあまりなされない。その視点からこのマキャベリ論を読むと、あの難解な現代思想の典型みたいなアルチュセール英語圏で議論されている共和主義論や徳論を見出す事ができることに驚く。そもそも共和主義論は「マキャベリアン・モーメント」以降に盛んになった議論なので、マキャベリ論に共和主義論が入っているのは当たり前にも思えるが、アルチュセールの独特な議論は視点が異なる。絶対主義的な「君主論」と共和主義的な「政略論(ディスコルシ)」との関係を論じていることは既に触れたが、共和主義を成立させるための前提となる徳(ヴィルトゥ)についても、そうした市民的徳は閉じた弱い国家でしか持続しないと指摘されていて、そのアルチュセールリアリスト振りには感嘆する。市民的徳を成立させるためにこそ君主的徳が必要とされるというアクロバットな議論展開には目を丸くするしかない。

現代思想家としてのアルチュセールとは異なり、思想史家としてのアルチュセールによって書かれたマキャベリ論には明らさまに難解な所がなく読みやすい文章ので、アルチュセールの初心者や倦厭者にもお勧めできる。むしろ、(アルチュセールに関する知識より)マキャベリに関する知識は前もって持っておかないと楽しみづらいので、とりあえずクォンティン・スキナーのマキャベリ論辺りを読んでおくのがお勧めだ(特にヴィルトゥとフォルトゥナが徳と運命を意味していると知らないと困る)。ちなみに、共和主義論や徳論についてはヘルド「民主政の諸類型」の共和主義の章やキムリッカ「新版 現代政治理論」のシティズンシップ理論の章がお勧めです。

おまけ

アルチュセールはグラシムのマキャベリ論にも触れているが、この話は本文には組み込むことができなかった。アルチュセールイデオロギー装置論がグラシムのイデオロギー論から来ていることは知られている。現代思想的な政治思想にはグラシムの影響が大きい。フーコーの生権力論を好む現代思想の残党は未だにいるが、これはグラシムのイデオロギー論を受け継いでいる。そこからさらに派生させてグラシムは抵抗の拠点としての文化論を提示しているが、これはカルスタに受け継がれている。どちらにもマルクス主義的な階級闘争的なイデオロギー批判を引きずっている(悪しきイデオロギー=生権力:良き文化=抵抗の拠点)。これに対してアルチュセールには(イデオロギーや文化に当たる)徳や支配がいかにして可能になるのか?という生態学的な視点が含まれていて、ここにはグラシムからスラッファを通してウィトゲンシュタインヘも伝わった思想が含意されているように見える。そこで、フーコー的な生権力批判ともカルスタ的なサブカルチャー擁護とも異なり、人々が政治的徳を持つように環境を整える君主のような革命家を待望するアルチュセール像が見えてくる。これは単に人々が政治的徳を持つことを望む(人間学的存在論!)卓越主義的なシヴィックヒューマニストやコミュタリアン(要はアリストテレス的な共和主義者)でもないが、徳(シティズンシップ)は教えればいいじゃん!という啓蒙主義的な共和主義者とも異なる。物質還元主義とは異なるアルチュセールの(ある種の身体化論にも近い)唯物論の秘密はここにある。

2014-06-03

[]アロウェイ夫妻「脳のワーキングメモリを鍛える!」(未削除版レビュー)

脳のワーキングメモリを鍛える! ―情報を選ぶ・つなぐ・活用する

ワーキングメモリとは何かを前もって知ってさえいればとても有用実用的な科学的心理学の書

ワーキングメモリに関連した研究を紹介しながら、ワーキングメモリを生活の中でいかに有効に活用できるかを提示している、ビジネス書としての側面を持った実用的な心理学書。ワーキングメモリ(作業記憶)とは単なる貯蔵庫としての記憶ではない、頭の中で貯めたイメージを操作する能力を指す認知心理学の用語。前半でワーキングメモリに関する研究を紹介してその重要性を確かめた後に、後半で生活や仕事でワーキングメモリを有効に生かすための方法が書かれている。心理学者の妻と教育プログラムを提供する会社のCEOである夫による共著であるため、科学書としてもビジネス書としても優れている。ただし、ワーキングメモリそのものに関する説明があまりにあっさりしすぎていて、全く知識がない人には理解しづらい。別の本でワーキングメモリ(作業記憶)についての知識を得てから読むのをお勧めします。

ワーキングメモリ(作業記憶)は、一般にはあまり知られていないが、認知心理学(広くは認知科学)の核心に当たる重要な要素だ。同じく記憶と言っても、短期記憶のように単に一時的に情報を貯めておくだけなのとは異なり、作業記憶では頭の中に一時的に貯めたイメージを操作する能力を指す(ちなみにそれが文字通りのイメージなのかは異論もある[イメージ-命題論争])。例えば、ネットで複数のサイトを見ている時に前に見たサイトの内容を覚えておきながらその内容を今見ているサイトの内容と比較する際には、複数のサイトの内容を覚えている貯蔵とその覚えている内容と次々に比較する操作とが同時に行われている事になるが、そこでワーキングメモリが使われている事になる。こうした作業は買い物での既に見た商品との価格比較やおしゃべりでのそれまでの話題との参照など日常生活の中で当たり前のように行われている。

本書はワーキングメモリを研究する心理学者の妻とそうした成果を生かした教育プログラムを提供する会社のCEOである夫の共著であり、科学書とビジネス書との側面を併せ持った著作となっている。前半ではワーキングメモリに関する様々な心理学研究の成果が紹介されており、ワーキングメモリに対するストレスや気分の影響や教育やスポーツでのワーキングメモリの役割などが分かるようになっている。特に人生の成功にはIQの高さよりもワーキングメモリの優秀さの与える影響の方が大きいという研究成果は印象的である。後半ではワーキングメモリを生活で生かすための方法(主に強化と負荷回避)が提示されている。ワーキングメモリを強化する方法についても述べられているが、たまにある既存の心理学の成果を勝手に応用しただけの安易なビジネス書とは異なり、きちんと研究成果に則った紹介がなされている。例えば脳トレゲームはワーキングメモリの改善にはほとんど寄与しないとされている。そこで著者のトレーニングプログラムも紹介されているのだが、そこでもトレーニング効果には疑問視もあるとされて決して手前味噌には陥っていない。実用的でありながら科学的根拠にも配慮したビジネス書としてはバランスの良い作りになっている。

と、ここまで本書の良い所ばかり触れてきたが、実はこの著作には無視できない大きな欠点がある。全般的に一般向けとして読みやすく書かれてはいるが、ワーキングメモリについて説明した最初の章があまりにあっさりとしすぎていて、知識のない人には分かりづらいことだ。ワーキングメモリ(作業記憶)の場合は、たとえ説明が下手でもテストを受ければ何となく理解できる所もあるのだが、一応ワーキングメモリを測るテストは紹介されてはいるのだが、少ないページに圧縮して紹介されているために読者が実際にテストを体験するのが難しい。ワーキングメモリの測定はパソコンで為されることが多いのだが、それを書籍上で再現するには見開きでパソコンの一場面ぐらいの贅沢な作りにする必要があったはずだ。また、こうした事に付随してこの著作では(関連した研究以前の)ワーキングメモリそのものの研究がほとんど紹介されていない。(他の心理学実験と同様に)バッドレーらの提唱以来ワーキングメモリ自体の研究はその手法がどんどん洗練されているのだが、そうした研究の紹介はほぼないも同然だ。こうした事情が相まって知識の全くない人がワーキングメモリを一から理解するのは困難になっている。この書の本体部分の質の良さを考えるとこうした欠点は本当にもったいない!

ワーキングメモリそのものについての説明が不親切なので、誰にでもはお勧めはできないが、(私にはこれだという良い一般書を思いつかないが)何か別の本でワーキングメモリ(作業記憶)についての知識を得てから読めばとても有用な本です。ワーキングメモリについての科学的研究を紹介しながらその応用を提示する科学書かつビジネス書としては優れています。

2014-05-26

[]ダニ・ロドニック「グローバリゼーションパラドクス

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーションの歴史を探って未来の国際経済のあり方を提示する興味深い著作

国際経済学者が過去の国際経済の歴史を分析する事で未来の世界経済のあり方を考えていく経済書。グローバリゼーション批判で有名になった著者だが、この著作ではそうした偏りに陥る事なく経済史の分析を見事に行っている。最初から三分の二はグローバリゼーション経済史を分析することで、世界経済においては全面自由化でも保護主義でもない中間的なあり方が必要だと主張される。残りの三分の一では著者の提示する政治的トリレンマに則って将来の世界経済のあり方が考察され、各国の事情に応じて条件を定めていく多国間体制(ブレトンウッズの妥協)が著者の立場として提示される。とても素晴らしい経済書であるが、前半の経済史分析は客観性が保たれているので素直に読めるが、後半の政治的トリレンマの分析はより著者の立場が反映されているぶん批判的に読む必要がある。

この本が世評通りの素晴らしい出来の経済書であることには異存はないし、内容については既にネットでいろいろ紹介されているし訳者あとがきの要約もよくできているので、そちらを読んでもらえばよいはずなのでこれ以上は言及しません。私はむしろこの本の評価のされ方に違和感を感じたのでそちらについてだけ触れておきます。

この本の世間的な評価では著者の提示する政治的トリレンマにばかりに言及されているが、私の印象では政治的トリレンマというのはこの著作の後半の議論を読む上で参照するに相応しい枠組みだとは必ずしも言いきれない。その理由はこの政治的トリレンマというのが対称的な三項関係にはないように感じるからだ。

政治的トリレンマの三項とはハイパーグローバリゼーション国民国家民主主義であり、任意の二項が結び付くことで特定の世界経済の枠組みが三つ導かれる事になっている。しかし読み進める内にその導かれる枠組みのうちの一つは現実的でないとして否定されることになるが、これだけでもその枠組みは考慮に入れなくてもよい気がしてくる。その枠組みとはハイパーグローバリゼーション民主主義を結び付けることで生まれるとされるグローバル・ガバナンス(国際的な統制)だ。そのグローバル・ガバナンスとは国家を越えた民主主義によって統治される体制のことだが、それが理想が過ぎる非現実的なものとして否定される。この辺りを読んでいて疑問に感じることは二つある。まず、同じ民主主義でも他のどの項と結び付くかで意味合いが余りに違いすぎる…つまり、国家と結び付いた現実にある民主主義と国家を越えた理想的な民主主義とを同じ民主主義の項でまとめること自体に無理を感じる。それから、どうもこの著作ではグローバル・ガバナンスという言葉を、国家を越えた民主主義としての理想的な体制と、国家を否定しない緩やかな意味でのグローバル・ガバナンスとの二重の意味で使っていることだ。だったら、国家を越えた理想的な民主主義は高度な政治理論上の問題としてここでは考慮にいれない方が議論の枠組みはすっきりする。つまり、可能な枠組みとしては国際経済の全面自由化(黄金の拘束服)と各国の事情を考慮する多国間体制(ブレトンウッズの妥協)の二つだけを考慮すればよく、国家を否定しないグローバル・ガバナンスはそのどちらとも両立しうるのではないのか?

可能な枠組みをこの二つに絞ってしまうと、前者の国際経済全面的自由化は前半での経済史の分析で極端な立場として否定されているので、ありうる立場としては各国の事情を考慮する多国間体制しか残らない。実際にそれが著者の支持する立場であるが、だったら著者の提示していた政治的トリレンマというのは著者の立場を導くための便利な考え方でしかないようにも見えてしまう。前半で全面的自由化でも保護主義でもない中間的な立場を主張していた著者が、後半では都合のいい別の対立─全面的自由化か多国間主義か─に陥っているのではないか。実は政治的トリレンマという考え方は国際経済に関する議論を一定の方向から見るように促すことで、別の問題から目をそらさせる原因になっているのではないかと勘ぐってしまう。

この著作を読んでいると、著者が民主主義と言っている時は熟議民主主義が念頭にある事に気づく。実際に熟議だの討論だのといった熟議民主主義の関わる概念があっちこっちに出てくる(ちなみに本書で参照されているジョシュア・コーエンは熟議民主主義の代表的な研究者)。実はグローバル・ガバナンスとして専門家などのエリートを集めた集団で決定する官僚体制の可能性もさりげなく示唆されているが、それは民主的な正統性がないとして却下されている。官僚的グローバル・ガバナンスでは採用した決定に対する説明責任がないとして批判されているが、この説明責任への言及も熟議民主主義に伴う公共的理性の考え方を反映している。全般的に国際経済の枠組みは熟議的な民主主義(国家の事情を反映できる民主主義)によって解決できると期待しているようだ。しかし、なぜ民主主義が国際経済の問題を解決できる要だと確信できるのだろう。それはあくまで熟議がうまくいくことを前提としているが、熟議民主主義はその強い理性主義も含めて様々な批判もある。グローバリゼーション支持者が懸念しているのは、(取引コストの問題を別にしても)熟議を含めた民主主義によって国家の事情を反映した適切な国際経済への対応ができること自体を疑っているのではないのか。国内の既存の団体や業界の利害が反映されればそれが保護主義にしかなり得ないが、そうした利害関係のある国内の既存の団体や業界こそが政治的に力を持ちやすいのではないのか。つまり著者が本当に直面しないといけない問題は民主主義が適切に機能するためにはどうすればよいのか?ではないのか。しかし経済学者である著者にはそれ(政治)は管轄外の問題であるとも言える。

政治的トリレンマによって提示される枠組み─全面自由化、グローバル・ガバナンス、多国間体制─というのは、全面自由化と保護主義を両端とするスケールに位置づけられるものではないのか。それとは別にそうした枠組みを民主(政治)的に決めるのか?エリート(官僚)が決めるのか?という選択肢があるのではないか。(前半の分析からはありそうにもないが)民主的に(国家間交渉を介して)国際経済全面的自由化が決まるという事態も可能性としては考えられるのではないか。そう考えるとやはり政治的トリレンマという考え方はたいして必要なものではなく、多国間体制という著者の立場を導くためでしかないことになる。だとしたらここから先は(民主的)政治の問題であり、経済学者自身が人々への説明責任を持った一アクターでしかないのだ。

この著作は政治的トリレンマを扱った後半ばかりが話題にされやすいが、これまで論じた理由から後半部を素直に評価する事はできない。むしろ、グローバリゼーション経済史を分析することでグローバリゼーションは是か否かといった単純な対立は間違っているとする前半部分の方が価値があると思う。(これも本文に触れられている話だが)そうしたグローバリゼーションに対する単純な二分法的な評価が間違っていることは(口には出さずとも)経済学者にとっては当たり前の話で話題にするに値しないのかもしれないが、一般読者にとってはそれが大事な議論である事に変わりはない。私はこの本が後半の政治的トリレンマばかり注目されるのはもったいないと思う。この本から得られる大きな教訓の一つはグローバリゼーションは善か悪かといったイデオロギ─的に固執した話は下らない(だから個別に具体的な議論をするしかない)ことではないのか?

2014-05-25

[]ゴードン・シェファード「美味しさの脳科学」への未削除版レビュー

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

嗅覚が専門の神経科学者が食べ物の風味を生み出す科学的基盤を解明する良質な科学書

嗅覚を専門とする神経科学者が食べ物の味わい(風味)を科学的に探求している一般向け科学書。前半は著者の専門である嗅覚の科学について基礎から分かりやすく説明している。後半は口の中からの匂いであるレトロネイザル経路の匂いが重要な役割を果たす食物の風味(味わい)について多面的に考察している。この種の本にはありがちな地味な記述も多少あれど、全体的にはとても読みやすく書かれている。特に味わいの科学を軸に全体をまとめ上げている科学的教養を背景にした著者の手腕は見事である。

心の科学を扱った著作は日本でも近年多く出版されているが、本当に出来の良いものは必ずしも多くない。正直なところ、有名な面白い研究成果は限られているので、どの本を見ても類似した研究ばかりが紹介されているだけのことも多い。他にない目新しい研究が紹介されていたとしても、ただ淡々と研究が紹介されているだけだと、その意義が読者には伝わりにくくて読んでいて面白くないこともよくある。ましてや心の科学的基盤である脳などの生理学的な説明となると、うまくやらないとどうしても無味乾燥になりがちだ。(たとえ欧米であっても)並の研究者科学ジャーナリストによる本ではそうした罠に陥りやすい。本当に面白い良質な科学書は一流の研究者によって書かれる事が多いのだが、この本はそうした著作の一つとして認定してよい素晴らしい科学書だ。

原題は「ニューロ・ガストロノミー」で、食べ物の風味を決める神経的基盤を探る試みを意味する造語。一般的には嗅覚というと外界の匂いをかぐオルソネイザル経路が中心だが、著者はそれとは異なる、物を食べる際に口の中から運ばれる匂いをかぐレトロネイザル経路に注目して、そこから人は食物の風味をどのように味わっているかを科学的に探求している。著者は嗅覚を専門とする神経科学者だが、この著作は本人の専門である嗅覚の科学についての解説としても優れているが、それだけではなく嗅覚も重要な役割を果たす味わい(風味)についての科学をも紹介しているという点では他に見られない珍しい特徴を持っている。

人間の嗅覚は他の動物に比べると退化しているかのように思えるが、それは外界の匂いを嗅ぐことを念頭におくからそう思えるだけで、口の中からの匂いを嗅ぐ点ではむしろ人間は犬より優れた構造を持っている。そうした口の中から(レトロネイザル経路)の匂いは、鼻をつまんで食べ物を口にすると分かるように、食べ物の風味を決める大切な要素だ。こうして人の嗅覚の重要性を確認した上で、前半では著者の専門である嗅覚の研究をその歴史を交えながら説明している。その説明が見事なもので、匂いの認識の複雑さを顔の認識と比較して説明するのには納得してしまった。後半はより広い視点から嗅覚を始めとする複数の感覚から(脳の中で)生み出される風味について考察している。風味に関連した研究を取り上げて説明しているのだが、もちろん(その複雑さ故に)風味そのものの研究というのはほぼないので、ここでは著者の科学的教養が全面的に発揮されることになる。風味を心の科学で話題にされる一通りのテーマに結び付けて論じられているのだが、心の科学の本に慣れた身にはその扱いの見事さには感心した。

全般的によくまとまっていて読みやすく書かれてはいるが、さすがに(例えばピンカー本のように)誰にでもスラスラと面白おかしく読めるとまではさすがにいかない。やはりこうしたテーマに興味を持っているだけではなく、それなりにこの種(心の科学)の話に慣れている方が読み進め易いだろう。とはいえ、時々見かけるただ研究成果を並べただけの一般向けというにはキツイ本では決してなく、逆に自分の専門領域について分かりやすく説明できているのはもちろんのこと、関連領域にも目端を利かせた上で味わい(風味)の科学を組み立てていく著者の力量─著者の心の科学への深い理解と教養─には感服するしかない。

私は心の科学についての本に食傷気味であまり安易に褒める気はしないのだが、これは著者の科学的な理解の深さが反映された読みやすい本であり、地味ながらも味わい(風味)についての科学を構築するという野心にあふれたとても興味深い著作である。

2014-05-18

[]橋爪大三郎国家緊急権

国家緊急権 (NHKブックス No.1214)

一般には馴染みの薄い国家緊急権について分かりやすく論じられた希少な傑作

国家に緊急事態が生じた時にそれに対処するために、政府が一時的に憲法法律を無視してでも迅速な行動がとれるようにするために必要とされる、国家緊急権について分かりやすく論じた良書。一般には馴染みのない国家緊急権について「憲法とは何か?」といった基礎から説明しながら、その必要性と問題点についてまで見事に議論が展開されている。第六章のアベノミクス批判はちょっと余計だと思うが、それ以外は高度な内容が読みやすく書かれていて、誰にでもお勧めできる。橋爪大三郎の著作としてもトップクラスの出来であり、著者の意見への賛否に関わらず国家緊急権についての一般向けの書として貴重な一冊です。

先年の東日本大震災によって原発事故が起こったのだが、その際は皆が放射線の恐怖におののいた。そうした突発的な大事故や大災害の際には人々の安全を守るために政府緊急避難などを発令することになる。しかし、そうした緊急事態の時に政府がどうすればよいかは法律に書かれている訳ではないし、すでにある法律で対処できる事態でない可能性も高い。それどころか憲法が緊急事態への適切な対処に対する障害になることもありうる。だから緊急事態においては一時的に政府は人々の安全のために憲法を無視した行動をとる必要も出てくる。そうした緊急事態で政府が人々のために自由に行動できるようにするために考えられたのが国家緊急権である。

この著作は国家緊急権について「憲法とは何か?」や「軍とは何か?」といった基本に遡って分かりやすく説明し、それが国民の安全のために必要なことや悪用されると独裁に陥る危険性があるなどの国家緊急権に関する必要な議論を一通り見事に論じている。読者の側にあまり知識がなくても理解できるようにうまく書かれているので、高度な問題を論じている割にはとても読みやすい。巻末には国家緊急権に関連した資料集も付いており至れり尽くせりだ。私の印象では橋爪大三郎による著作としても軽く五指に入るほどの傑作(到達点?)であり、ともかくお勧めしたい。

全体的に読みやすくいよく出来た著作でなので大きな欠点はあまり見当たらないのだが、第六章の終わりにあるアベノミクス(のリフレ政策)への批判は蛇足に感じる。ハイパーインフレが起こるから…というリフレ政策批判はあまりに初歩的な批判すぎて説得力がない。どうせ国家緊急権リフレ政策は直接に関係がある訳ではないのだから、こんな中途半端な批判なら(偏見を招くだけなので)する必要はなかった。あと個人的に気になったのは、この本と同じテーマを扱った有名な政治学者であるカール・シュミットへの言及がないのは不可解だが、(学術書ではない)一般向けの著作として議論を複雑にしないためだとでも思えばそこは許せなくもない。

国家緊急権についてこんなに分かりやすく論じた著作など他にないのだからそれだけで読む価値がある。私自身は軍と警察の違いについての説明の分かりやすさには特に感心してしまった。著者の見解に賛成するのであれ反対するのであれ、これからこのテーマを議論をするための叩き台として是非読んでおきたい。

おまけ(を付けるから記事として出すのだが)

この本では国家緊急権憲法に明示されるべきかが問題にされている(ちなみに著者は明示する必要はないという意見のようだ)。私は巻末の資料集にある各国の国家緊急権の規定の項目を眺めていたらある事に気がついた。不文律としてのマーシャル・ローのある英米では憲法への国家緊急権の明示はないが、フランスドイツヨーロッパ大陸の国では憲法ではっきりと規定されている。それで気づいたのだが、国家緊急権憲法に明示されるかどうかは独立した問題ではなくて、その国の政治-行政制度がどのようなものかによって違うのだと思う。以下では、面倒なので政治-行政制度についての把握は「日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ (中公新書)」に全面的に依拠する。

英米では(成文憲法がないイギリスも当たり前ながら)国家緊急権憲法に明示されない(かわりに関連した法律がある)が、これはイギリスでもアメリカでも権力(執行権と立法権)が(独裁に陥らない程度に)集中しやすいからではないかと気づいた。イギリスでは制度上で首相に権力が集中しており、緊急時にはその集中が一時的に高まるだけだと考えられる。アメリカの場合は制度上は権力(執行権と立法権)が分立しているが、現実には大統領に権力が集中しやすい傾向があり、緊急時にはそれがより明確に集中されることになる。つまり、英米では権力(執行権と立法権)を集中させるべき対象が元から明確なので、いちいち国家緊急権憲法に明示せずともその発動は憲法にそこまで矛盾が強くは感じられない。対してヨーロッパ大陸諸国では制度上で英米ほど権力が集中することがないので、緊急時にははっきりとどこかに権力を集中させる必要がある。こうした一時的な権力の集中は憲法上の制度と明確に矛盾するので、憲法の内部で規定する方が自然に思えるのかもしれない。要するに、国家緊急権憲法に明示させるべきかどうかはそれだけで独立した問題というよりは、(憲法上で規定されたものを含めた)政治-行政制度との矛盾の程度によって決まる問題である。じゃあ日本はどうすべきかは勝手に考えてみてください*1

第八章では国家緊急権を発動してしまった後で、事後的にその評価をする事が問題になっているが、逆に国家緊急権を発動させずに多大な被害がでたときの責任に触れられていないのは手抜かりに感じる。どうも著者は行政の長は国民の安全のために国家緊急権を発動させるはずだ(だから独裁の問題に集中すべきだ)としているようだが、それはあまりに良心に頼りすぎてるように思う。実際には必要な時に国家緊急権を発動させられない危険性はもっと高いと思う。国家緊急権を発動させずに多大な被害がでたときの責任についても一応議論しておけば完璧だったのに…と惜しい。

国家緊急権 (NHKブックス No.1214)

国家緊急権 (NHKブックス No.1214)

*1立憲主義民主主義の関係についても個人的に調べていて言いたい事がない訳でもないが、話がズレるので詳しくはしない。とはいえ、最終的な憲法解釈は誰がするのか?という問題を含むから、これを書いてる時点ではタイムリーな話題ではある。大雑把にいえば、最高裁判所に最終的な憲法解釈の決定権があるアメリカ型(民主的じゃない!)と独立した憲法裁判所が違憲判決を出すドイツ型(政争が繰り返される!)があり、一見日本はアメリカ型にも見えるが、裁判所が違憲判決を出すことが少ない上に内閣法制局が大きな影響力を持つ日本は、大統領制でもないが単なる議院内閣制とも微妙に異なる官僚内閣制であることと平行関係にあるような気がする。まぁ、どうであれ最終的な憲法解釈権を特定の政治家が握るなんてことがありえないことだけは確実だ。とりあえずはこれらを参照のこと→wikipedia:違憲審査制Constitutionalism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

2014-01-02

[]ロールズ政治哲学史講義

ロールズ 政治哲学史講義 I

要所を押さえた近代政治哲学史の概論的な講義としては他の追随を許さない程の大傑作

1970年代から80年代にかけてロールズが行なった政治哲学の講義録を編集した著作。既に出版されているロールズの(道徳)哲学史講義と対になっており、独自の見解を抑えてテキストに沿った純粋な哲学史の講義となっている。ホッブス、ロック、ヒュームルソー、J.S.ミル、マルクスといった一連の講義に、シジウィックやバトラーの講義が付属されている。私の知る限りでは、日本語で読める近代政治哲学史の概論的な著作としては断トツに読みやすくて優れた内容になっている。ロールズに興味のある人だけでなく近代政治哲学史に興味があるならば是非お勧めしたい著作だ。

上巻ではホッブス、ロック、ヒュームルソーまでの講義が収録されている。ロールズ哲学史講義は全般的にテキストに沿った哲学史講義になっているが、(独自のカント解釈を含んだ)既に出版されている(道徳)哲学史講義と比べると独自の見解はさらに抑えられている。あくまで元のテキストに沿って歴史的文脈の中で理解しようというロールズの意図を強く感じる。例えば、ロックについては現代的なリバタリアン的解釈を退けて当時の王政への抵抗権を強調して説明している。また学説を紹介するだけの表面的な哲学史概論とは異なり、例えばヒュームによる(ロックの)社会契約論への批判の持つ正当性もきちんと議論して評価している。この講義録を読めば近代政治哲学史への理解が深まること請け合いだ。

全般的に講義内容は分かりやすくてしっかりしたものとなっているが、あえて文句を言うとすれば(一般意思の形成時での会話を否定する)ルソーを熟議的理性の源みたいに言ってしまうのはどうかとは感じる。とはいえ、これはルソーの見解をどう一貫させて理解すべきかは分かりにくい所があるので、一概にロールズのせいとは言えない。むしろ、その程度の傷は講義録全体の出来の素晴らしさの中ではほとんど目立たない。

ともかく、近代の政治哲学史についてこれほどに明瞭に分かりやすく語っている著作は読んだことがない。所詮は講義録だからロールズについての資料みたいなものでしょ…という甘い予断は完全に裏切られる。もちろん政治哲学史のすべてを網羅はしていないが要所は十分に抑えられているので、近代政治哲学史の概論としても優れている。たとえロールズに興味がなくとも読んでもらいたくなる政治哲学史の素晴らしい一品です。

ロールズ 政治哲学史講義 II

日本語で読める近代政治哲学史の概論的な講義として随一の素晴らしい作品

ハーバード大学で長年ロールズが行なった政治哲学の講義録を編集した著作。既に出版されている(道徳)哲学史講義と対になっており、独自の見解を抑えてテキストに沿った純粋な哲学史の講義となっている。ホッブス、ロック、ヒュームルソー、J.S.ミル、マルクスロールズ自身が計画した一連の講義に加えて、さらにシジウィックやバトラーの講義が付属されている。私の知る限りでは、日本語で読める近代政治哲学史の概論的な著作としてはこれほど面白く読めるものは他にないように思う。ロールズに興味のある人だけでなく近代政治哲学史に興味がある人にも是非お勧めしたい。

下巻はロールズの計画した一連の講義の残りであるJ.S.ミル、マルクスの講義と、関連した講義であるシジウィックとバトラーの講義が収められている。もちろんこちらでもテキストに沿った哲学史全面的に展開されている。ロールズが好むJ.S.ミルは当然ながら、他では言及が稀なマルクスロールズの批判対象である功利主義の代表であるシジウィックであれ、先入見が排された見事な講義が展開されている。マルクス講義などは、どうせロールズの得意なものではないだろうと高をくくっていたら、案外ときちんとした分かりやすい講義だったので驚いた(資本家労働者が一致すれば原理的に剰余価値はなくなるという指摘にはむしろ感心した)。補遺のシジウィック講義も功利主義入門として優れていてとても勉強になった。

ロールズ政治哲学史講義は全体として読み物としてとても良くできているが、ただバトラー講義だけはロールズ理解のための資料みたいな感じが強くて、読んでいて面白いものではなかった。とはいえ、バトラー講義は単なる資料なんだと割りきればいいだけなので、そこは問題ないだろう。

この政治哲学史講義は「ロールズの…」という冠を無視してもその価値が一切下がらないほど、概論的な講義録として優れている。単に学説を並べただけの政治哲学史に飽き飽きした人には是非この著作を読んでもらいたい。政治哲学史がいかにして現代においても意義を持っているのかをこれほどに力強く理解させてくれる著作は他にはない。

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2013-11-03

[]ブランダム「ヘーゲルにおけるプラグマティスト的主題」第一節を読む

ネオ・プラグマティズムとは何か-ポスト分析哲学の新展開-」を読んで以来、ブランダムの哲学にすっかり興味を持ってしまった。アマゾンのレビューにも書いたように「ネオ・プラグマティズムとは何か」という本に対する私の評価は微妙(悪い本ではないが問題も多い)なのだが、ブランダム論だけにははまってしまった。とはいえ、他の章よりは出来が良いとはいえそのブランダム論も読んでいる内に物足りなくなってきた。とりあえずネットで手に入る日本語で読めるブランダム論も一通り読んではみたのだが、あまり目新しい記述も見当たらずがっくりしてしまった。そこで現時点で唯一のブランダムの翻訳論文がある雑誌*1に載っていたことは分かっていたので、わざわざ少し遠くの図書館に足を伸ばしてその雑誌から該当記事をコピーしてきた。それでさっそくその論文を読んでみると(多少難解ではあったが)その内容の豊かさにすっかり魅了されてしまった*2

「ネオ・プラグマティズムとは何か」のブランダム論は日本語で読める解説として貴重ではあるが、著者の分析哲学への理解が浅いせいで正直物足りなかった。中でもブランダムのどこがプラグマティックなのかがさっぱり分からないのが特に困った。コピーしてきたその唯一のブランダムの翻訳論文が「ヘーゲルにおけるプラグマティスト的主題」という題名であり、それを知るにはまさにうってつけの論文であった。それにしても、カントプラグマティズムを読み込むのならパースへの影響を考えれば自然に思えるが、ヘーゲルプラグマティズムを読み込むとはどういうことか。そこでブランダムの哲学史分析哲学の双方への造詣の深さが発揮される事になる。

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*1:「思想」No.948のこと。http://www.iwanami.co.jp/shiso/0948/shiso.htmlを参照

*2:(似た考えを持っているのに煮えきらないマクダウェルとは異なり)ブランダムのその清々しいまでの観念論者振りにも感激した

2013-08-18

[]キムリッカ「新版 現代政治理論」

新版 現代政治理論

ロールズ以降の現代政治哲学の流れをうまく議論としてまとめている良質な概論書

原題に「現代政治哲学 入門」とある通り、ロールズ以降の政治哲学での重要な議論を分かりやすく解説したよく出来た概論書。功利主義リベラル平等主義リバタリアニズムと主要な正義論の理論を紹介した後で、分析的マルクス主義・コミュタリアニズム・シチズンシップ理論といったそれ以降の動向がさらに紹介され、英語圏政治哲学の流れがうまく整理してまとめられている。ただし、最後の多文化主義フェミニズムの二つの章はそれまでの流れから分断されていて付録みたいに見える。ロールズやコミュタリアニズムの扱いなどに不満がない訳ではないが、全体としては政治哲学の概論としてお勧めできる。

ロールズの「正義論」を震源として英語圏政治哲学での議論が活発になり、今やそれは無視できないものとなっている。そうした政治哲学は日本ではサンデルの授業で有名になったが、この著作はそうした現代の政治哲学を批判的な議論を交えながら分かりやすく紹介している。サンデルの場合は哲学史への言及も多かったが、この著作では現代の政治哲学の文献を参照した本物の現代的な議論を堪能できるようになっている。かなり分厚い著作で、かなり分かりやすく書かれているとはいえ議論はガッツリとされているので、サンデルの本のような入門書を読んで興味を持った人がさらにきちんと勉強したくて手にとるのに相応しい。その点では、入門書と専門的な解説書との中間ぐらいに位置づけられる。

前半で功利主義リベラリズムリバタリアニズムと主要な正義論の立場が扱われ、その後に社会民主主義・コミュタリアニズム・共和主義論とそれ以降の流れが扱われているが、狭義の正義論からそうした抽象的な正義論への批判という流れで書かれており、その見事な構成の仕方には感心する。それに対して、最後に付けられた多文化主義フェミニズムの二つの章は、それ自体が出来が悪いとまでは言わないが、それまでの構成上の流れとは分断されていて、蛇足が言いすぎでも少なくとも付録みたいに見えてしまう。

全体としてみれば、現代政治哲学の概論としてよく出来てると思うが、不満点がない訳ではない。ロールズに関してはその重要性の割には扱いがあっさりとしてて物足りない感じもするが、これがあくまで概論である(専門的な解説書を読むための準備である)事を考えれば許せない程じゃない。コミュタリアニズムの章に関しては、著者はアーミッシュのような閉じた宗教集団をコミュタリアンな集団の例としてよく出すが、そのような集団がコミュタリズムの想定している共同体だとするのは無理があるし、それに伴ってそうした閉じた共同体に対する対応として政治的リベラリズムを捉えるのもやはり無理を感じる。とはいえ、リベラル-コミュタリアン論争の意義そのものが未だにはっきりしないところがあるので、一概に著者を責めることもできない。

英語圏哲学の特徴はそのじっくりとした議論の仕方にあるが、この著作は現代的な政治哲学の議論がうまくまとめられており、そうした哲学的な議論を十分に堪能できるようになっている。複雑な政治哲学の議論をこれほどうまくまとめた著者の手腕には感心せざるを得ない。入門書を越えてもう少し政治哲学を本格的に勉強したいという方にはぜひこの本をお勧めします。

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2013-07-29

[]イグナティエフ「ニーズ・オブ・ストレンジャーズ」

ニーズ・オブ・ストレンジャーズ

政治思想的な背景は一読では分かりにくいが、思想史のエッセイとしては今でも面白い

政治思想家として著名なイグナティエフが、人々の要求(ニーズ)が西洋の歴史上でどのように表現されてきたかを思想史的に探った作品。宗教的なニーズを表現したアウグスティヌスから経済的ニーズと政治的ニーズの対立としてのアダム・スミスルソーに至るまでが描かれ、思想史的な著作として普通に面白い。ただし、「はじめに」での独特の福祉国家批判によるケア論など今となっては時代を感じさせる政治的言説も含まれる。全般的に読みやすい著作ではあるが、イグナティエフがその政治思想の背景としている開かれた言語論については示唆されているだけで直接には描かれないのでそこは分かりにくい。

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