2009-08-03
■もう少しマシな言語哲学への展望を妄想する
- (承知済みだったとはいえ)前回の記事があまりにひどかったことに後から反省。きちんとした解説はid:optical_frogさんが訳した「レカナティ「語用論と意味論」」を読んでください。以下はあくまで私的見解としてお読みください。ちなみに、最近はやる気がないのでブログの更新は(めったにしそうにもないが)たとえしたとしてもこの程度のメモぐらいがやっとだと思います。
2009-07-16
■言語の文脈的意味を考えるつぶやき
- まとまりがなくて自信がない文章だけど面倒なので出しちゃう
言語行為論の哲学的貢献は、言語は記述に関係すべきという(道徳的説教と変わらない)哲学の傲慢を批判したことであり、その延長で言語と現実との関係はそれに関与する人間によってこそなされるとする主張だ。言語と現実との関係にも二つあって、オースティンが提示したのは言葉の記述役割を相対化する語用論的関係であって、文脈主義による意味論的関係とは分けないといけない。ところで、言語行為論は論理実証主義との対抗関係で成立しているが、言語行為論的な批判をそのまま日本に持ってきて主張してもむなしいところがある。つまり、日本では逆に言語と現実との関係が無責任であることの方が問題なのだ。言語行為論の普遍的意義は(歴史的意義とは別に)認めるべきだが、いい加減に特殊な文脈で意義を持つ輸入品をそのまま日本で使おうとするような愚はやめてほしいと思う(日本には記述至上主義など初めからないのよ)。
2009-07-07
■エリザベス・スペルクによるジャン-ニコ講義2009概要(翻訳)
原文
ELIZABETH SPELKE Sources of Human Knowledge
http://www.institutnicod.org/lectures2009_outline.htm
エリザベス・スペルク「人の知識の源泉」(講義概要)
講義1:人の思考の認知科学へ:なぜこんなにも遅いのか
プラトンの時代以降、物理学や生物学の現象への理解は、人の知覚や活動の理解と同様に、科学者によって大変革をもたらされた。これとは対照的に、人の高次認知への理解は、現代の研究者が古代の資料から真面目に引用できるものからほとんど進んでいない。この講義では、なぜ人の心のもっとも重要な側面が科学的な分析に抗しているのかを考え、その抵抗を乗り越えるための戦略を述べたい。中心的な戦略は二つの提案にある。まず、人の認知は核となる少数の知識システムの元に築かれていること:そのシステムは奥行きの知覚や物に手を伸ばすためのシステムのように学ばれる余地があるものである。次に、新しい認知能力と知識システムはこれらの核となるシステムを生産的に組み合わることによって発展していく:組み合わされる過程は自然言語のような人の種に特殊な能力に依存している。生きていない操作できる対象と生きた目的を持った活動との表象のための二つの核となるシステムに関する研究を描き出すことで戦略を提示します。さらに、それらのシステムが組み合わされることで生ずる人間に特有な能力―特定の機能によって構造を持たされた物である人工物を表現する能力―を考察します。
2009-07-01
■ベンヤミンのアレゴリー論への前哨
シンボルとアレゴリーとメタファーとアナロジーの違いは分かりにくい。アレゴリーは比喩と訳されることもあるが、それだとメタファーと区別がつかなくなる。レトリック(修辞)としてのメタファー(比喩)とは区別しないとしょうがない。認知科学ではメタファー(比喩)とアナロジー(類推)はセットで扱われる。つまり二つの事柄の持つ性質を比較対照する点で共通点を持つ。ただし、アナロジーでは性質の対応が明示に行なわれるのに対して、メタファーでは性質の対応は暗黙のうちに行なわれる(太陽系と原子構造、王様の勇敢さとライオンの勇敢さ)。しかしアレゴリーを比喩とするのは(一部を言い当ててはいるが)問題がある。
2009-06-28
■樫村晴香「ドゥルーズのどこが間違っているか?」の私的要約
分裂病(強度)と神経症(抑圧)が善と悪の戦いに重ねあわされるグノーシス的世界観(ニーチェをプラトンに対置し闘わせる)。ドゥルーズは新たな世界観(幻想)を提示してしまっている点でニーチェとは異なる。ニーチェの哲学者への態度は憐憫だが、ドゥルーズは批判に留まる。ニーチェが自己に魅惑されているのに対して、ドゥルーズはニーチェの観念に魅惑されている。永劫回帰を抑圧なき幻想とすることは、ニーチェのハイデガー化でしかない(想像が象徴化される)。ニーチェは体験する人だが、ドゥルーズは読む人である(哲学書を小説のように読む)。実在的層と潜在的層の間を循環する対象=xという構成は現実界と象徴界に関するラカン(およびベルクソンの純粋過去)に由来する。「世界の外から来る」ものとしての不吉な反復はあらかじめ意味づけられた「謎」として提示される(倒錯!)。これこそがドゥルーズの哲学的統一を可能にしている方法論である(異なる哲学説を無理やり結び付けている)。むしろ小説の言葉相互に生じるズレ(微分)への感覚こそがドゥルーズの真骨頂であり、よって患者の苦痛によりも捧げられた苦痛へと関心が向かう(苦痛は読み取られる)。ドゥルーズの理論は小説世界の再演であり、それが神経症的な現実と同格に論じられると誇大妄想に近くなる。身体‐運動野(他者への叫び)と言語野(意味)の離接関係はまだ十分に探られていない。
- 参照したサイト
樫村晴香「ドゥルーズのどこが間違っているか?」(http://www.k-hosaka.com/kashimura/jiru.html)
■de dict様相とde re様相の中世哲学的起源
結合的意味と分離的意味の差異はpossibile est album esse nigrumにおいても、これが「白いものが黒いことは可能である」と「白いものは黒いことが可能である」の二様に解されるというように、まったく同様に成り立つ。結合的意味ににおいては「白いものは黒い」と記述される事態の成立が可能であるということになり、これは偽である。しかし、分離的意味においては現に「白い」と記述されているものについて、「黒いことが可能だ」と言っていることになり、これは真である。現に白い人も、日に焼ければ黒くなるかも知れないからである。
このように結合的意味と分離的意味は、一般的に様相命題の論理構造に関して、様相の掛かり方をどう解するかについての二通りの解釈として提示され得るのであって、この区別が中世論理学に由来するde dict様相とde re様相の源泉となる。結合的意味は「白いものが黒いこと」(album esse nigrum)という言語表現(dictum)全体に様相が掛かっていると解し、分離的意味で「白い」と言われるものに(de re)様相が掛かっていると解するものにほかならないからである。
清水哲郎 「オッカムの言語哲学」(ISBN:4326100850)p.171-2より
神の予定に関する命題「予定されている人が(は)滅びる」に関する議論もあるのだが、それは省略。(形式意味論の前提ともなる)可能世界意味論にも関連して。とはいえ、形式意味論についてはマニアックすぎてここで何か書けるか分からない。
- 参考サイト
クリプキの「信念のパズル」
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/tokusyu/2003ss/2003ss08Kripke.htm
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/tokusyu/2003ss/2003ss09Kripke.htm
2009-03-21
■2009年のジャン-ニコ賞はElizabeth Spelke
今年のジャン-ニコ賞が決まったようです(受賞講義そのものはまだ先ですが)。Elizabeth Spelkeは知覚や発達を研究する心理学者です。調べてみると、最近では性差の話題で有名なようです。科学能力*1の男女差について心理学者のピンカーと論争をしたこともあるようです(下記リンク参照)。この論争はハーバート大学学長のLawrence Summersの発言(女に科学なんてできねぇ!みたいなの)がきっかけで起こった論争だ。
ネット上にこの論争の記録があるのですが、私は面倒なのでスライドだけを見たのですが、それだけでも大体の内容は分かりましたので紹介します。ピンカーは様々な証拠から男女の科学能力の差は社会化や偏見だけで説明するのは無理があると言っています。ピンカーは男女には生まれたときから差があるという証拠(実験や調査)を示した。ひとつは人の興味には生まれつき性差があるという話で、赤ん坊の段階から男は物に女は人に興味を示す傾向があるとしています。もうひとつは、数学や科学に関連した能力には性差があるという話で、心の中でイメージを回転させる能力の性差などを例に挙げています。これに対してSpelkeは物や数に関連した能力に関して性差がないという証拠があることを挙げ、社会的な力が働いているを示した。例えばSpelkeは数える能力や空間定位の能力に性差がないことを挙げている。また、親の子供に対する評価や学者に対する評価に関する実験(社会的認知の実験)から、評価には相手の性によって偏りがあることを示した。ちなみに、心理学には女性の研究者が多いというのは余談だが、それってどっちの見解を支持した証拠だがよく考えると分からないじゃねぇか!
それにしても、去年に引き続き進化心理学的な主張(生得説)に批判的な研究者が受賞したところが面白い(ちなみにそれ以前には逆に進化心理学に好意的な研究者の受賞が目立っていた)。まぁいろいろ反省が働いているんだろうねぇ、と私は邪推を働かせてしまうが、しかし(性差問題以外の貢献を考慮しても)受賞にふさわしい研究者であることに変わりはない。
- 参照リンク
Institut | Nicod
http://www.institutnicod.org/index.html
Elizabeth S. Spelke
http://www.wjh.harvard.edu/~lds/index.html?spelke.html
紹介したのは→Edge: THE SCIENCE OF GENDER AND SCIENCE[PINKER VS. SPELKE]
http://www.edge.org/3rd_culture/debate05/debate05_index.html
ハーバード大学の Larry Summers 学長の発言について
http://freshu.ist.hokudai.ac.jp/blog/?p=41
心の性差の始まりを考える
http://blog.livedoor.jp/gccpu/archives/45372.html
■身体化とか何とか
UTCPワークショップ "Philosophy of Perception: Being in the World"
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2009/03/utcp-workshop-philosophy-of-pe/
この20年近くの間に、知覚の哲学、心の哲学、そして認知科学の哲学の分野では、古典的な認知主義と内在主義のパラダイムに代わる心と認知に関する考え方がさまざまに提出されてきた。
アフォーダンスとかエナクティブとか日本じゃ好まれるんだよね(のはず)。その割に日本ではめぼしい成果が表に出てるのを見ることはあまりない、というか翻訳自体が少ない(本当に好きなのか?)。そういえば、21世紀に入ってからはAlva Noëによる知覚の哲学が話題になったり、最近だと生命との関連を問うているのを見ることも多い気がする。
世界的に見ても、多くの哲学科で認知科学との共同研究センターを設けることがここ20年近くブームのように行われてきているが、実質的内容を持つ研究がなされることはそれほど容易ではないようである。日本では残念ながらほとんどそうした研究のあり方が見られないままいま現在に至っている。
あははは、確かにそうだ。哲学が科学に貢献しようとか科学的手法を哲学にも持ち込もうとする試みでうまくいっているのをほとんど見たことがない。こう言っちゃ悪いけど、哲学者が本職の科学者にかなうわけない。こっちは認知科学の基礎について悩んでいるっていうのに、哲学の自然化のように認知科学が哲学の基礎になりえるみたいな考えが私にはさっぱり分からない
Listmania! Extend-Embed Mind/Knowledge
http://www.amazon.com/Extend-Embed-Mind-Knowledge/lm/RP6XZ40TGHHJH
おまけで、アメリカのアマゾンから関連書籍リスト「延長された-身体化された心/知」。よくできたリストだけどヴァレラらの本がないなぁ。それにしても、何でこの辺りの本ってなかなか訳されれないんだろう(好きな人は日本に多そうなのに…)。
*1:初めは理系能力と書いたが、誤解されそうなので書き換えた
2009-03-14
■宗教と神経科学
科学と宗教との関係への新しい挑戦が近年でてきた。私たちはそう望むのだが、科学者と神学者との間の注意深い検討があれば、科学と宗教との「文化戦争」と呼ばれることに伴う最新の戦場にならないだろう。この挑戦は神経科学からやってきたもので、人間の本性への理解に関係している。
多くの宗教が物理的身体から離れた魂(精神)の考えを是認してきた。しかし神経科学の発展によって、だんだんと人のすべての側面が物質的システムの働きによって説明できるように思われている。最初は運動制御と知覚の領域で明らかになった。だが、色覚や歩行のような知覚や運動能力のモデルは魂の考えを直接には脅かさない。あなたはそれでもギルバート・ライルが「機械の中の幽霊」と呼ぶものを信じることが出来るし、色覚や歩行は幽霊というよりも機械の特徴を持つとまだ結論づけられる。
しかしながら、神経科学は人格や愛や道徳や霊性に潜む仕組みを明らかにし始めていて、機械の中の幽霊という考えは痛めつけられている。そうした特性がすべて脳の働きである物理的な対応物を持っていることを、脳画像は示している。さらに、そうした特性への薬理的影響も局所刺激や損傷の影響と同じように、脳の過程が単なる対応物どころか私たちの人格性の中心的側面の物理的基盤であることを指し示している。人のこうした側面がすべて機械の特徴と同じならば、なぜ幽霊なんてを持っているなんてことになるんだ?
一応言っておきますが、私がここで説明したり翻訳したりしているからといって、そこに書かれていることに必ずしも賛同しているわけではありません。上の引用は機械論と還元論の扱いが粗雑な気もしますが、自分の意見は言わないでおきます。
- 参照サイト
Will There be a Neuroscience Culture War?
http://coglanglab.blogspot.com/2009/03/will-there-be-neuroscience-culture-war.html
著者:Martha Farah (神経科学)
http://www.psych.upenn.edu/~mfarah/
著者:Nancey Murphy(神学)
http://www.counterbalance.net/bio/murph-body.html
2009-03-12
■行動経済学の成果で他人を出し向けるか?
- 但し書き:以下の文章は気に入らないところを多少含むのですが、直せそうもないのでもったいないので出しちゃいます。適当に割り引いて読んでください。
最近読んだある本で、市場を出しぬくことはまずできない(できたらそれはインサイダーだ)とあった。これは経済学の考え方から導けるものだが、これを行動経済学を投資に都合よく利用できると考えている人に当てはめることができる。(誰でも知ることができる)行動経済学の成果によって他人の投資行動を見通して出し抜くことができるとしたら、他の人も同じことをするに決まっているので結果として出す抜くことはできない。行動経済学で儲けようとするなんて、市場の効率性(都合のいい情報は価格に反映されるに決まっている)から考えてもありそうにないが、しかしそもそもにおいて心理学的に考えても儲けるのは難しい。実際には、学習の転移が困難なこと*1などから無意識的な認識過程を変えることはそうはできるわけではないので、優れた直観*2の働く熟達した投資家でない限り他の人と同じ行動をとる可能性の方が高い(つまり他人を出し抜くことができない)*3。つまり、行動経済学の*4確実な成果を甘く見るなということだ。ただし行動経済学でも確実でない成果も多くあるが、それはたいてい社会的な要因によるものだ(というかむしろその場合は社会心理学に近い)。
先物取引などが儲かる仕組みであるリスクオプションは確かに行動経済学における心理的に生じる時間的割引説(または不確実性の回避)によって説明できるが、それはあくまで外からの説明であって、リスクオプションそのものは市場が勝手に計算してくれるものだ(または勝手に値が安定すると言い換えてもよい)。個人レベル*5では行動経済学はそう都合よく役に立つものではないし(そんなものを知らないで相手を騙して詐欺をやってる奴はいくらでもいる)、おかしな期待はお門違いだ。
- 参考サイト
行動経済学は政策に役立つか(PDF)
http://econon.cun.jp/abef/doc/panel_discussion_081220.pdf
*1:つまり実験室で生じた結果が現実のどのような場面で生じるかが分かって自分で直せるわけではない
*2:この場合、直観とはつまり無意識的に行われる判断のことになる。ただし、優れた投資家にそうした直観が本当に備わっているかはここでは問わない。儲かる投資とは統計学的に見られる単なる偶然に過ぎないという意見もある
*3:優れた直観のない一般の投資家からすると、行動経済学は陥りやすい正しい投資法からの逸脱(例えば手元の株への執着)を教えてくれはするが、正しい投資法そのものを教えてくれるわけではない
*4:もちろん正確に言えばあくまで比較的に確実だが、一般化できる認められている研究成果は大体定まっている
*5:ただし、Sunstein&Thalerで話題になっているような政策レベルなどは別の話。ちなみに、環境設計の考え方はハーバート・サイモンやノーマンから続く認知科学では十八番の議論で(政治的含意を除けば)目新しい話でもない。それから、ドゥルーズ的な環境管理とは安易には一緒にしてほしくないと思うが、認知科学における自由の位置づけについては以前書いた認知科学の基礎の話における科学的構造主義への言及も参照
2009-03-08
■正統性を英語圏のサイトで確保する
日本の面倒なところは、正統性を国内で確保することが困難なことだ。だから、英語圏のような外国に正統性を頼らないといけなくなる。私が単にこれが正しいといっても駄目そうなときは、しょうがないので英語からの翻訳に頼るはめになる。
例えば、下で行なった進化心理学の説明がそうだ。進化心理学の意味をむやみやたらに広げるのはもうやめてほしいと思う。人間が進化によって生じたことを否定するなんて、今更まともな科学者ならしません。争点は最初からそんなところにはありません。進化心理学はモジュール論的な本来の意味で使って、より一般的に語りたいときには「人間行動と進化」のようなゆるやか言い方をしてください。トマセロが言語進化の話をしているからといって、彼らを進化心理学の人とは呼ばない。最近の進化心理学(と呼ばれるもの)はモジュール論と社会生物学(となぜなぜ物語?)が混ざっていることをせめて自覚してぐらいはしてほしいと思う。
それから、こちらの本(ISBN:4121019865)は前半で科学哲学が後半で心の哲学が話題になっているのだが、哲学史についての記述はとても参考になるけれど、現代的な心の哲学に関しては(間違っているとまでは言わないが)それほど当てにならない。なんだか、著者の専門であるデカルトの話をするためにダシに使われているだけという印象がする。勝手がよく分かっていない専門領域外の話をいちいち新書で出す必然性がまったく私には分からない。例によって随伴と付随の区別がついていなくて困る。しょうがないので信用できるサイトから最小限の説明部分を訳してみた。
随伴現象(Epiphenomenalism)とは、心的出来事は脳の中の物理的出来事によって起こるのであって、物理的出来事に対しては影響を及ぼさないという考え方だ。
Epiphenomenalism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)より
付随(Supervenience)をスローガンにすると「一方に違いがなければ他方にも違いはありえない」である…(略)…付随は分析哲学の重要な考え方で、ほとんどの分野に関連している。例えば、美的・道徳的・心的な属性は物理的属性に付随する(supervene)と言われる。
Supervenience (Stanford Encyclopedia of Philosophy)より
随伴現象が問題にされるのは主に意思論(意思に因果関係はあるか。例えば「意思は腕を動かせるのか?」)であり、付随が問題にされるのは主に意識論(意識と脳の関係はどうか。例えば「脳の状態が異なれば意識の状態も異なるのか(またはその逆は?)」)である。
2009-03-06
■トゥービー&コスミデスによる進化心理学の説明(要約版)
近年トゥービー&コスミデスが提示した進化心理学の理論的内容は次のようなものだ
- 脳とは自然淘汰によってデザインされた環境から情報を抽出するするコンピュータである
- 個々の人間の行動はこの進化したコンピューターによって環境から抽出した情報に応じて生じる。行動を理解するには、行動を生んだ認知的プログラムを明瞭にする必要がある
- 人の脳の認知的プログラムは適応物である。これらが存在するのは、祖先が生き残って繁殖することができるような行動を生み出すためである。
- 人の脳の認知的プログラムは今では適応ではないかもしれない。これらは祖先の環境において適応的だった
- 自然淘汰によって生じたのが、脳は多くの異なる特殊な用途のプログラムから成り立っており単一の一般的な構造物ではないことである
- 進化した計算する構造物である私たちの脳を描き出すことは文化的社会的現象をきちんと理解するのに役立つ
Evolutionary Psychology (Stanford Encyclopedia of Philosophy)より
これはTooby, J. & Cosmides, L. (2005)[PDFではp.16-8]からの要約になっていますが、元の論文のPDFへのリンクは英語のWikipediaのEvolutionary psychologyの項目にあります(ちなみにWikipediaのこの項目の説明は盛り沢山過ぎて要領が悪い)。ここに翻訳したのは、各項目の要約になっているものです。
はっきりとは書かれていませんが、これは基本的に人間という生物種(男女差含む)を単位にした話です(でなければ「多くの異なる特殊な用途のプログラム」という言葉が理解できない。これは所謂モジュール*1のことだ)。なので結果として、適応した祖先の環境とは人の種が形成された過去の野生環境を想定するのが一般的である(だから乳分解酵素やペストに強い体質と比較されても困る)。生得経験問題を考えたら人間という種(男女差含む)を単位にして考察せざるをえない。個人差は生得か経験かの見分けがあまりに困難なのであまり検討対象にはしないのが妥当である。社会生物学的な考え方を取り入れるのは構わないけれど、できればもっと慎重に検討してほしいと思うことも多い。一応指摘しておくと、ネオ・ダーウィズムは種をうまく扱えないのでモジュール論との相性は必ずしも良い訳ではない。
2009-03-01
■日経サイエンスの進化論特集を読んだ
進化心理学への批判記事があるというので楽しみにしてたけど、なんか物足りない。進化論特集なのに紹介記事でなく批判記事ってところにどんな意図があるのかはよく分からないが、そこはとりあえず脇に置く。
この記事の著者は、進化心理学にも科学的に慎重な研究もあるとしながらも、一般に流行ったものに対してはポップ進化心理学と茶化した呼び方をしていたのだが、その文献表の中には(デヴィット・バスなどに混じって)ピンカーやトゥービー&コスミデスの(90年代の)有名な著作が挙げられていて、近年における進化心理学の進展に批判的だった私でさえ違和感があった。同じピンカーならもっとひどいのがあるだろうし(残念ながら"The Blank Slate"は褒められたものではない)、だいたい"The Adapted Mind"が駄目なら進化心理学の根幹が駄目になるんじゃないのか。でも私から見ても、著者はこうした正統派の進化心理学を十分に理解して批判しているかは怪しい(ヒトの心が更新世に作られたかどうかを問題にしている辺りはまさにそうだ。適応時期そのものを議論対象にすれば済むことだ。証拠がないの連呼でどうも能がない)。
2009-02-22
2009-02-20
■Topics in Cognitive Science誌が創刊されるらしい
これです→Topics in Cognitive Science誌
いやはや、Cognitive Science Societyが新しい学術誌を出すなんて驚いた(始めは何かの間違いじゃないかと思ってしまった)。この十年位は脳科学ブームと進化心理学ブームに右往左往させられたけど、とりあえずは認知科学の位置はまだ残されているらしい。よかったよかった。脳科学ブームも進化心理学ブームも穏やかになって本来の科学的な方向に収まりつつあるようなので、まぁ一安心です。とはいえ、科学に関する騒動はこれからも起こり続けるだろうから、議論のためにも批判はいつでも常に必要になるのですが。
近況:あまりに内容がない記事なので、おまけで近況。ここのところは形式意味論の本を読んでます。内容はマニアックすぎてここにおそらく書けませんでしょうが(外延と内包の関係から書かないといけないよ)。でも読んでる本が古めの本なので最近の展開はさっぱり分からない。状況意味論なんて一時は流行ってたみたいだけど最近はどうなってしまったんだろう?
■科学はボルヘスの図書館
私自身はアルゼンチンの空想を好んでいる。神は古いヨーロッパの人々が想像したような<自然の書>を書きはしなかった。彼はボルヘス風の文庫を著したのである。そのどの一つの本も可能な限り簡潔ではあるが、その一つ一つの本は他のどの本とも整合的でない。どの本も余計なものではない。というのはどの本に対しても、人間に理解のできる自然のある断片があり、そこではその本が起こりつつあることの理解、予測、またそれに影響を与えることを可能にするのであって、他のどの本もそうはしないのであるから。まとまりがないどころか、これは<新世界>のライプニッツ主義なのである。ライプニッツは神は最も単純な法則を選びながら、一方では現象の多様性を最大にしたと言った。まさしくその通り――しかし現象を最大にし単純な法則を持つ最良の方法は、互いに整合的でない諸法則、一つ一つがあれもしくはこれに適用されるが、どれもすべてには適用されない法則を持つことなのである。
イアン・ハッキング「表現と介入」ISBN:4782800320 p.356-7より
2009-02-10
■認知科学の倫理的利用?
個人的な諸事情で最近はブログを書くにはなれないのだが、せめてリンクぐらいはしてみる。すでに出版されている本だが、ネットで解説文を見つけたのでつないでおきます。というか、いまさらこれを見つけたのだから自分の怠慢もいいところだな。
認知科学は純粋な実証的な成果としては中立的なので、それ自体はどんなことにも使える。脳科学ブームや進化心理学ブームの科学的に怪しいところを除いても、実はこの問題は残る。最近は行動経済学に関してきな臭さを感じることもある(金融危機で投資ブームは去ったはずでは…)。認知科学的な成果は認識や行動の癖を教えてはくれるが、科学である限りあくまでそれだけである。その成果をどのように用いるかという問題は全くの別問題である。また、こういう癖があるという教訓を知ったからといってその誤りを防げるわけではないことは(二重過程説だけでなく)学習の転移が難しいことからも導けうる。自分自身の認識問題は二の次にして他人を騙す(惑わす)ことばかりに目が向けられて認知科学的な成果が見られるとしたら、少なくとも私はそんな人ばかりの社会に住みたいとは思わない。
■行動から性格を推測する
某所でこのような内容の書き込みを見た。こいつはコメント欄でのやり取りを続けなかったので気が短いだから本を丁寧に読めない。この推論は妥当だろうか。この人が直接に観察した行動は「コメント欄でのやり取りを続けなかったこと」である、そのことから相手の性格を「気が短い」と判定し「本を丁寧に読めない」という行動を予測した。しかし考えてほしい。「気が短い」という特性を抜きにすると、「コメント欄でのやり取りを続けないこと」と「本を丁寧に読めないこと」が同じ人に当てはまると考えることが妥当なのだろうか。こうも考えられないだろうか。こいつはコメント欄でのやり取りを続けなかったのでネット中毒ではない。そこから、ネット中毒でないのだから本を丁寧に読めない、と推論するのはそれほど妥当には思えない。つまり、観察されたある行動からどんな性格を想定するかで予測される行動はまったく変わってしまう。この辺りの話は社会心理学における社会的認知とも関わりがあるのだがここではそれに触れない。
教訓:少ない情報から任意の結論を導き出すのは簡単である

