蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-11-01

お蔵入り寸前のお気に入りミステリーのリスト

注:ブログでお気に入りミステリーのリストを作る!と公言してからこれを書き始めたのだが、リストの個々の作品へのコメントを書かなくちゃ〜と思っているうちに時間が過ぎてしまい、お蔵入りになっていた記事。もったいないのでこのまま出します。

21世紀に入ってから刊行された日本のミステリーから個人的なお気に入りをリストにしようといういう記事です。

最初から正直なところを吐露してしまうと、だいたいの面白いミステリーなんて有名なランキング企画で上位に入っており、実際に私のリストもそのランキング入りと重なるところも多く、こんな記事は私の自己満足に過ぎないです。それでもあえてリストを作ろうと思ったきっかけのひとつは、ネットでミステリーのベストを検索してそのリストの選択が似たり寄ったりだったことにがっかりしたせいもある。そもそも傑作なんて誰が選んでも似るものだという意見もありうるが、問題はそこではない。それらのミステリー選で共通して西村京太郎「殺しの双曲線」がお勧めされていた。実際に西村京太郎を舐めていた私はそのお勧めに従ってその作品を読んだのだが、その感想はがっかりの一言だった。こんなセンスのないお勧めミステリー選が平気で検索上位に挙がるぐらいなら、私が新たなリストを作ることに少しぐらいの意義はあるかもしれないと感じた。

今述べたのは消極的な理由だが、それ以前に少し前から久しぶりに日本のミステリーをまとめて読み始めて、21世紀に入ってからの日本のミステリーのレベルの高さに驚いたのもリストを作ろうと思った理由でもある。学生時代の辺りに笠井潔の影響でミステリーをある程度まとめて読んでいた時期はあったが、私の趣味の常で一定以上夢中になった後にパターンが読めてくると飽きて冷めてしまった。

しかし、比較的最近になって突然日本のミステリーを読み始めて、その質の高さと自分の文学趣味との一致に驚いてしまった。リストに挙げた中にもあるが、テレビドラマが面白かったので原作を読もうと思って雫井脩介をいくつか読み始めた。その中でも処女作「栄光一途」の衝撃はものすごかったが、その処女作の手法はその後捨てられてしまい、それにかなう作品はないと分かってしまった。だが、日本のミステリーが私のような(仕掛けのある)モダニズム小説好きには鉱脈だと知りワクワクしてしまった。だがもちろんどれがそのような仕掛けのある作品かは分からないので、普通に評判のいい作家の本を次々と読むようになった。基本的に仕掛けがありうる作品は本格ミステリーなのだが、本格ものは元から好きなのでいろいろな作品を読んでしまい、その結果として発見した作品が次のリストだ(おそらく未完)。

個人的に好みな文学的な仕掛けのある本格ミステリー(順不同)

初野晴「漆黒の王子」ISBN:9784043943159

カマラとアマラの丘」ISBN:9784062175272の改題→「向こう側の遊園」ISBN:9784062778510

雫井脩介「栄光一途」ISBN:9784344402218

島田荘司「ネジ式ザゼツキー」ISBN:9784062755320

北山猛邦「オルゴーリェンヌ」ISBN:9784488017798

米澤穂信「折れた竜骨」ISBN:9784488451073 ISBN:9784488451080

綾辻行人「Another」ISBN:9784041000014 ISBN:9784041000007

七河迦南アルバトロスは羽ばたかない」ISBN:9784488024581

市川憂人「ジェリーフィッシュは凍らない」ISBN:9784488025519

法月綸太郎「生首に聞いてみろ」isbn:9784043803026

ちなみに、リストの順番は評価や好みとは全く関係ありません(ただの思いついた順)。あえて言えば初野晴が個人的なお気入り作家なことぐらいかな。ちなみに、初野晴の最高傑作はやはりハルチカシリーズでシリーズの最初から三冊を順に読むのが絶対にお勧めだが、仕掛けの点でそれは一応リストから外した。仕掛けのある面白い本格ミステリーは(ジャンルの性質上)他にももちろんあるのだが、切りがないのでもう考えたくない。

2017-10-26

TBSラジオフロッグマン・ショー AI共存ラジオ」で人工知能の歴史を聴く(そしてヒヤヒヤする)

最近はTBSラジオで夜にやっている「フロッグマン・ショー」が人工知能をテーマした番組で、毎回楽しみに聞いている。いつもどうりガ番組を聞いていたら、10/25(水)の特集で人工知能の歴史が扱われていた。講師が専門家でなくサイトを運営するほぼ素人なところに不安を感じたが、工学者は歴史を知らないという説明でそこは納得した。そこで始まった人工知能の歴史についての説明を聞いていみたら、私のような(元?)認知科学オタクからするとヒヤヒヤものだった。

人工知能のブームを三期に分けて1950年代、1980年代、つい最近の2010年代と順に説明していた。第一期は(会議名は出なかったが)ダートマス会議の頃なのでそこまでは良かった。しかしその後に、第一期の人工知能の失敗の理由としてフレーム問題を挙げたのを聞いて、「それはまずいだろ!」と心の中でつぶやいた。フレーム問題の説明を注文時のサイドメニューの例でするのも微妙だが、それよりもそもそもフレーム問題は今でも別に解かれたわけではないので、それを第一期の失敗理由にするのはどうかと思った。次の1980年代の第二期人工知能ブームとしてはエキスパートシステムを挙げていて、そこは安心。しかし、次にいきなり最近の第三期のブームに移ってしまったのには頭を抱えてしまった。

もちろん最近のブームはディープ・ラーニングに基づいているのだが、そのためにはコネクショニズムの説明をしないと本当はいけないのだが、そこが全てスキップされてしまった。ディープ・ラーニングについて素人向けにうまく説明できないのは仕方ない(私だってできない)が、その基本となるコネクショニズム(機械学習)について全く触れられなかったのは問題だった。正直な所、本来の専門家である工学者に説明させるのが難しいなら関連領域を研究している哲学者とか科学者でも構わないと思うので、ディープ・ラーニングについてはコネクショニズムの基礎から説明できる(準)専門家を連れてくるしかないだろう。…てかその後にこの文章を書きながら番組を聞いてたら、昔ニューラルネットワークを研究してた人が出てきてびっくり(ただし人工知能の話はそれ以上してない)。

自分だったらディープ・ラーニングにどうたどり着くか

私が説明するならどうするだろうか。理想的にはヘッブ則、マカロック&ピッツ、パーセプトロンPDPモデル(バックプロバゲーション)とコネクショニズムブームまで説明して、ディープ・ラーニングについては層が深いからディープなんだよ〜それで学習効率が良くなったんだよ(ついでにビッグデータにも触れる)程度で済ませるかな。ただ、これだと大雑把な概論講義になってしまうので、基本のアイデアだけに説明を集中しようか。

一般的には脳のモデルとして説明するだろうが、私はむしろ条件付けのモデルとしての説明を優先させるかな。つまり、AとBという2つの物事がどれだけ深く結びついているかをデータから学習していく、のを分かりやすい例として出す。これだけならAとBの2つの要素だけで結びつきを学習できるが、さらに学習すべき物事を増やしていくとそうもいかなくなる。そこで本来学習させたい要素とは別に結びつきを学習する隠れた要素を、学習させたい要素の間に挟み込む(ここで要素間を結びつけた図を見せると良し)。そうすると、なぜだか本来結びつきを覚えさせたい要素同士をうまく学習させられるようになる。じゃあ具体的にどうすれば多くの要素同士の結びつきをうまく学習できるようになるかの説明はすべてスキップ。ここがコネクショニズムの歴史そのものだけど(専門的で難しい上に)素人は知らなくて問題ないので、その結果がディープ・ラーニングだ!で済ます。もうひとつ説明しないといけないのがパターン認識だが、これは学習すべき要素を画像上の点にするだけで済ます。教師あり/なしも結びつきの学習と関連付ければ多分なんとかなる。

あ〜、でもラジオどころかそもそも自分は話するの自体が下手だからこんな妄想は意味な〜し!

2017-09-30

思弁的実在論ハーマン哲学私的に読み込む

いつものように何となくネットを漁っていたら、グレアム・ハーマン「オブジェクト指向哲学の76テーゼ」なる哲学的文書の翻訳を見つけた。グレアム・ハーマンは思弁的実在論で有名な哲学者の一人であり、私はそれほど期待もせず読み始めた。すると、その内容がスルスルと頭に中に入ってくる不思議な感覚に襲われた。思弁的実在論なんて現代思想系が内輪で騒いでるけど所詮は昔の東浩紀の言う否定神学システムでしょ!程度に思っていて、その見解は今でも変わらないが、それが自分にしっくりきたことに驚いた。その主な理由は、私も一時期ハイデガーを熱心に読んでいた時期があって、その時の理解と合致していたからだと思われる。思わぬ拾い物をしてしまったものだ!

ハーマンハイデガー存在論

(特に認知科学界隈では)ハイデガー存在と時間」は最近亡くなった哲学者ヒューバート・ドレイファスによる身体論的なハイデガー解釈がよく知られている。これは解釈としては面白いと思うけど、「存在と時間」の前半だけを取り出して都合よく解釈しただけという印象が拭えなかった。ハーマンは「存在と時間」における道具存在の分析で知られるようになったのだが、それがまさにドレイファスハイデガー解釈とは対照的なものなのだ。

ドレイファスは道具存在の手許存在性を賞賛しているが、私はそこにすごく違和感があった。私自身はハンナ・ヨナスのようなグノーシス的なハイデガー理解の方が(前記から後期までを一貫して理解できる点からも)テキスト的には正しい解釈だと思っていたが、ハーマンハイデガー解釈はこのグノーシス的解釈に近い。素直にテキストに沿って読めば、ハイデガーは眼前存在性に劣らず手許存在性も好意的には思っていない。ハーマンの挙げる壊れたハンマーの例からもそれは分かる。アクセス可能な眼前存在性も手許存在性も超えた存在の本質に向かうのが目的であり、壊れた道具はその本質を匂わしてくれる。存在の本質(実在的オブジェクト)はいかなる関係(アクセス)からも「退隠」されているのだ。

ハーマンホワイトヘッド宇宙論

以上はハーマン哲学ハイデガー存在論の側面だが、ハーマン哲学にはもうひとつホワイトヘッド宇宙論の側面もある。私はホワイトヘッドには詳しくないし、ハーマンの理論をそのものとしてはうまく理解できているとはとても言えない。しかし、当のハーマンには微妙な言及しかされていない汎心論と類比的に結びつけると、その基本的なアイデアは理解しやすくなる(ちなみにホワイトヘッドも汎心論者とされている)。

まず復習すると、物に対して知覚できたり使えたりできることとはアクセス可能なことであり、存在の本質(実在的オブジェクト)はそのような意味ではアクセス可能ではない。これを物にもアナロジー的に当てはまると、物にとっては(通常の)因果関係を持つことは他に対してアクセス可能なことを意味する。ハーマンは物が心を持つとした時、物の心は知覚によって他に対してアクセス可能なものとしてしか考えられていない(「オブジェクト指向哲学の76テーゼ」訳注7を参照)。

しかし、ネッド・ブロックに倣って意識にアクセス的意識と現象的意識があるように、知覚にもアクセス的側面と現象的側面があると考えられる。ここで現象的という言葉ではアクセス可能性が含まれているように勘違いされるので、アクセス不可能な側面をクオリア的側面を呼ぶことにしよう。すると、物の知覚にもアクセス的側面とクオリア的側面があると想定できる。ハーマン自身は汎心論によってアクセス的側面しか想定していないが、汎心論を採用する元々の動機を考える(物理主義によっては説明が届かない意識の領域を理解する)と、クオリア的側面もあると考える方が妥当だ。そこでアクセス的/クオリア的の対をハーマンによる感覚的/実在的の対に対応させると、アクセス不可能なクオリア的や実在的の側が存在の本質に当たる。汎心論はハーマン自身が思っている以上にハーマン哲学との相性は良い。

ハーマンロマン主義的な根

ここまでハーマン存在論宇宙論についての基本的アイデアを追っていったが、それでハーマン哲学のすべてを理解できているわけではない。特に実在的オブジェクトと実在的性質とを分ける必然性はよく分からないままだ。後はハーマン哲学の重要概念である代替因果と魅惑に触れる。代替因果は神学とのアナロジーで理解できることはハーマン自身が触れているのでそちらにお任せする。魅惑については一見すると深遠なオリジナル概念に見えるが、これは哲学史的には(カントに由来する)ロマン主義的な崇高概念を思わせるところがある。いや、そもそもハーマン哲学(しいては思弁的実在論そのもの)は全体的にロマン主義を思わせるところがある。思弁的実在論カント以降の哲学における相関主義批判しているが、思弁的実在論ハイデガーを介してロマン主義継承している点で、相関主義/ロマン主義対立の伝統を引き継いでいるように思われる。世の中に真に新しいものなどそうそうない!

  • 追記(10/4)

オブジェクト指向哲学の76テーゼ」を再読していたら、また思いついた。(第一六項から)実在的オブジェクトというのは分析的形而上学での束説と基体説の対立における基体にあたり、実在的性質というのはドゥンス・スコトゥスに由来するこのもの性にあたる。(第二四項から)感覚的性質とは現象学においてはトロープのことであり、感覚的オブジェクトとの緊張関係とはトロープを物へとまとめあげる困難を指す。

ただし、この解釈はハーマン理解には便利だが完璧ではなく、例えば物にこのもの性が複数あるように把握できてしまうがこれは無茶だ。あくまでアナロジーにすぎないがそれでも取っ掛かりには使える。

2017-09-28

経験的研究と理論的研究の生産的循環としての研究プログラム

私は最近、進化心理学にとってモジュール論はいらない!という文章を書こうとして、ネットで手に入れた関連した論文を読んでいる。私が思いつくようなアイデアなんて大して独創的な訳もなく、実際に似たアイデアを提示した論文はなくもなかった。とはいえ、納得できる論旨の論文は見つからないので、探求は引き続き続行中だが、その中で次に引用する論文を見つけた。

進化心理学が心の計算理論に取って代わることが出来なかったのは、それが心の計算理論だったからだ。進化心理学は「標準的な」計算的認知心理学と進化生物学の適応論プログラムとの結婚だった。

(Louise Barrett,Thomas V.Pollet and Gert Stulp"From computers to cultivation:reconceptualizing evolutionary psychology" p.2より)

この論文("From computers to cultivation:reconceptualizing evolutionary psychology")そのものは、進化心理学についてとタイトルで言っておきながら、その実質はモジュール批判と計算論批判という私のような認知科学オタクからすると耳にタコができるほど聞かされた議論だし、その結論も進化心理学に取って代わるのは身体化論だという私のような認知科学オタクには見込みのない見解にがっくりしてしまった(身体化論の源の一つであるヴァレラら「身体化された心」がトゥービー&コスミデスの有名な進化心理学論文よりも出版が早いのにこの現状なのだから、研究プログラムとしての見込みはなんとやら…)。しかし、ここで問題にしたいのはそんな(つまらない)ところではなく、引用文に暗示されている著者らの進化心理学観だ。

この引用文の前半は知識なしに表面的に読んでもおかしなことを言っている.正確には、確かに正しいことを言っているだけれど、自明なトートロジーでわざわざ書く必要がない。認知科学の主流である計算的アプローチに対してのあまりにあからさまな敵対視は結論まで読むまでもなく既に明らかになっている。そして、まさにその偏見のせいで進化心理学(の登場の歴史)に対して正当な見方ができていない。

社会生物学進化心理学に類似のパターンを見つける

進化心理学は(人の)心への進化的アプローチの一種であるが、それは進化心理学の登場以前から既に存在していた。それは社会生物学(行動生態学)である。過去の社会生物学をめぐるややこしい論争について詳しくは「社会生物学論争史」に任せる。過去の論争はどうであれ、結局のところ社会生物学は科学的研究領域として成功した。にも関わらず、(人の)心への進化的アプローチとしては社会生物学よりも進化心理学が受け入れられた*1。それはなぜだろうか。その理由こそ引用文にあるように「進化心理学が「標準的な」計算的認知心理学と進化生物学の適応論プログラムとの結婚だった」からだ。

進化心理学登場以前に、大著「社会生物学」で有名なウィルソンは人の心への進化的アプローチを既に行なっていた。にも関わらず(人の)心への進化的アプローチとして広くうけ入れられたのは進化心理学だった。その訳は、進化心理学が既に認められていた認知科学の成果に則って議論を進めていたからだ。ウィルソンにはそのような議論のための確固とした研究領域に頼ることが出来たわけではなく、そのこころざしにも関わらず単発の試み以上の広がりを持たなかった。進化心理学認知科学(その主流の計算的アプローチ)というそれ自体が有望な研究領域と結びつくことで、新たな研究プログラムを提示できるようになった。実はこうした進化心理学の研究プログラム*2としてのパターンには、成功した先輩にも見られたものだった。その成功した先輩とはまさに社会生物学だ。

社会生物学は動物の行動を説明するという点ではやはり心への進化的アプローチの一種である。それを進化心理学の結婚になぞらえて例えると、社会生物学は動物行動学(エソロジー)と進化論(特に集団遺伝学)のプログラムとの結婚だったと言える。社会生物学においては動物行動学の経験的な研究成果に集団遺伝学から借りた遺伝子中心的な理論が組み合わされている。このような経験的研究と理論的研究の組み合わせは、社会生物学進化心理学とで一致している。確固とした成果を探す経験的研究と客観的に巧みな議論を提示する理論的研究はうまく組み合わされると最高の科学的な研究プログラムを生み出す。その点では、社会生物学は多くの批判にも関わらず生産的な科学として成功したと言える。では進化心理学はどうだろうか?

進化心理学を研究プログラムとして評価する

Darren Burke"Why isn’t everyone an evolutionary psychologist?"進化心理学が主流の心理学にはあまり受け入れられていないことを懸念して、その訳を分析した論文だ。確かに進化心理学は心への進化的アプローチとしては社会生物学よりも広く受け入れられた。熱心な研究者もそれなりに多い。とはいえ、受け入れられた領域は社会生物学ほどには広くなく、お世辞にもそこまでは一般化していない。その理由はいくつか挙げられるし、モジュール論もその理由の一つだと思われる。モジュール論について書きたいことはあるが、今回の論旨とはズレるのでそれは別の機会にする。ここで問題にしたいのは、進化心理学の(ラカトシュ的な)研究プログラムとしての評価である。

社会生物学進化心理学も経験的探求と理論的論議が組み合わされた研究プログラムを提示している事は既に述べた。しかし、社会生物学進化心理学では経験的研究と理論的研究との間の関係がかなり異なる。社会生物学においては、動物行動学による経験的成果が遺伝子心の理論的研究によって論じられるだけでなく、遺伝子心の理論的研究が経験的に検証可能な仮説を生み出して経験的研究に還元しているという良き循環が成り立っている。ところが進化心理学においては認知科学の経験的成果を適応論的に論じることはよくなされているが、逆に進化心理学的な仮説が経験的に検証される機会はとても少ない。進化心理学においては経験的研究から理論的研究へと関係が主に一方方向で、理論から経験的研究への還元が少ない。進化論への正しい理解以前に*3、このような一方的な搾取関係に耐えられない研究者は多いのかもしれない。経験的探求に基づいた心理学理論にとって進化心理学の理論は対等な関係ではなく一方的に説明を与えられるメタ理論でしかない。「なぜ誰もが進化心理学者でないか」(Darren Burke)の理由はまさにそこにあるのだ。

ちなみに、進化心理学以前から心の進化論的アプローチを提示していた身体化論(ギブソンやヴァレラ)は、そもそもの身体化論そのものが研究プログラムとしての生産性が低いので今のところ見込みは薄い。もちろん進化心理学であれ身体化論であれ現時点での私の評価であって将来のことは分かりません(とはいえどちらも登場以来少なくとも二十年超えているのだが)。

*1:以下では、社会生物学と(古典的)進化心理学を別物として扱うが、デヴィット・バス性淘汰論のように微妙な例もある。ここでは標準的な見方に従う

*2:研究プログラムという言葉は科学哲学者ラカトシュに基づくが、アイデアを借りただけで厳密には同じではない。研究プログラムであれ機能主義であれ、哲学的に厳密に論じると問題が多いのだが、大雑把な考え方としては現実を説明するのに役に立つ哲学的概念はある。私は厳密な議論も理解できなくもないが、最終的にはプラグマティストの立場に立つ

*3:実は心理学には適応論的な進化心理学よりも前に既に系統発生的な比較心理学が普及しており、それが近年の霊長類研究の隆盛と結びついている。だから心理学者進化論に不慣れと言う訳では必ずしもない

2017-06-30

[]短期記憶の容量は七から四に書き換えられたのか?

少し前に、当時出版されたばかりの日本の心理学者の書いた一般向けの本を眺めていたら、短期記憶の容量として有名な7(±2)は今や間違っていて4(±1)が正しいと書いてあった(ネット上の論文では「前頭前野とワーキングメモリ」に同様の記述がある)。短期記憶の容量が7であるというのは心理学の教科書にも書いてある有名な話だが、それが書き換えられたと知って驚いた。ただ私は心理学の文献はそれなりに見ているので、そんな重大な話をどこでも見たことがないのはおかしいとも思った。それでこの説の元となる論文をネットで探したら見つかったので読んでみた。さらに詳しい事情を知るために、特にその論文の著者による他の文献を中心に調べを進めてみたら、なんとなく事情が見えてきた。結論としては、冒頭の本の記述は決して間違ってはいないが学者間の同意が十分にとれているかはまだあやしい…といった辺りが妥当かもしれない。

短期記憶の容量四説の著者のことばかり考えることになる

この説のオリジナルの論文とはNelson Cowanによって書かれた論文The magical number 4 in short-term memory」だが、実際に内容を読むと単に短期記憶の容量が間違っているというだけの単純な内容ではないのだが、それは後で説明することにする。それよりも、調べていく過程で短期記憶の容量が七から四に書き換えられたという内容の論文や記事があまりないことの方に驚いた。内容のしっかりした(参照される)認められている論文なのにどうしてなのかと不思議に思った。そう思っていると、最近書かれたNelson Cowanの論文George Miller’s Magical Number of Immediate Memory in Retrospect」を見つけた。この論文短期記憶の容量が七である事を主張した古典的なミラーの論文についての論文なのだが、これを書いた動機は自分の主張した短期記憶の容量の書き換えがあまり広く受け入れられないことにあるようだ。ジョージ・ミラー自身(故人)にはその書き換えは受け入れられそうだと確信できただけに、余計に悔しそうにも見える。ということは、私がこれまで短期記憶の容量が書き換られたという記述を見たことがなかったとしても、そもそも学者に広く受け入れられてはいないのだから仕方がないのだったと納得した。う〜ん、気の毒なNelson Cowan!

しかし、短期記憶の容量の書き換えが受け入れられないのは、実は単にNelson Cowanの業績が無視されているとかそういう単純な問題では全くない。そこで短期記憶の容量四説のオリジナルの論文を見てみよう。この論文はかなり複雑な内容なのでここに要約することはできない(しする気もない)。しかし、容量四説はなにもこの著者が突然に発見した訳でもなく、古くはハーバート・サイモン辺りが七は多い五ぐらいじゃないか…と言っていた記録もある。この論文の重要性はただの数字の発見というよりもこれまでの研究成果をまとめあげたことに価値がある。この論文の中でCowanは短期記憶は純粋な短期記憶と複合的な短期記憶に分けられて、純粋な短期記憶の容量は四であるとしている。記憶の項目同士が手がかりになっていたりする場合は複合的な短期記憶となって容量が多くなるという。はっきりとは書かれていないが元々のミラーの容量七は複合的な短期記憶のものに近いのかもしれない(下限の七引く二である五は純粋な短期記憶の容量に近くなっている)。ミラーの古典的論文の重要性が一般に知られている七という数字によりもチャンクという記憶の単位の提出にあるように、この論文の重要性も四という数字にばかり注目するよりも短期記憶の構造への指摘にあるのかもしれない。

記憶の構造なんてもう分かってるって?

この論文以後に書かれたCowanの論文The Magical Mystery Four」を読むと面白いことに気づく。この論文はもはや記憶容量である四は作業記憶の容量だとされている。いつの間にか見解が変わったのだろうか?おそらくそうではないだろう。推測するに、純粋な短期記憶とCowanが呼んでいたものが作業記憶と一致することに気づいたためだと思われる。もう少し後に書かれた「What are the differences between long-term, short-term, and working memory?」では、短期記憶と作業記憶との違いに頭を悩ませている。

基本的には、短期記憶は想起に関わり作業記憶は操作に関わるのだが、明らかにその間には重なり合っている部分がある。というか、項目の想起という現象としての短期記憶は確かに存在しているのだが、まとまった能力としての短期記憶の存在はかなり怪しく感じる(少なくとも作業記憶とうまく区別がつかない)。元々は長期記憶と短期記憶という記憶の分類が先にあって、後から作業記憶が提示されたせいでややこしいことになってしまったのかもしれない。思い切って短期記憶という用語は消し去ってしまったほうがスッキリするんじゃないかと個人的には思わなくもない。しかし、古典的な分類としての長期記憶と短期記憶の対は便利だし、視覚的短期記憶という用語も現在よく使われているので、単に短期記憶を用語として消し去るだけでは済まないのだろう。

もちろんここで結論を出すことなど出来ないのだが、少なくとも心の能力を(言葉で)理解するのは思われている以上に大変な作業なのだ!

2017-06-16

[]トップダウン効果は本当に知覚を変えているのか?

モジュールカプセル化に関する議論

哲学者が科学的成果に則って論文を書くことは近年になって増えてきたが、たまたま見つけた「Opening Up Vision:The Case Against Encapsulation」(PDF)もそんな論文の一つだった。内容はフォーダーのモジュール論の特徴であるカプセル化批判するもので、論文の半ば辺りで認知神経科学の具体的な成果に触れて議論を進めるところはまさに今どきの哲学論文らしい。フォーダーの主張し始めたカプセル化とは心のモジュールの特徴であり、ここでは(初期)知覚と高次認知との間の関係として論じられている。カプセル化を説明する前に、まずその論拠の一つを説明してしまう方が手っ取り早い。そのカプセル化を支持する論拠の一つはミューラー・リヤー錯視にある。ミュラー・リヤー錯視は、ネットで検索すれば該当の図がすぐに出るはずだがと、物理的に同じ長さの線分が見た目には違った長さに見える錯視現象のことである。このミューラー・リヤー錯視において、たとえその錯視についての知識を持っていても錯視という見え方は変化しない。つまり、知っているという高次認知はどう見えているかという知覚に影響を与えないことから、知覚能力は他の心的能力から独立している点でカプセル化されていると呼ばれる。

こうして論文の前半はカプセル化の説明に費やされているが、中間部分の認知神経科学の成果に基づいた議論は私には評価しきれないので省略すると、後半では初期知覚のカプセル化トップダウン処理によって批判されている。トップダウン処理とは*1、(論文にあるものではないが)古典的な例としては同じ視覚的刺激でもそれに付けられたラベルによってその見え方が異なる研究が分かりやすいだろう。トップダウン処理現象の存在によって知覚能力が他の心的能力から独立していることが否定されている。細かい議論は面倒なので触れないが、カプセル化への批判という議論の全体の流れは明確だ。ミュラー・リヤー錯視に関する議論はかなり強力なのでそれをどうするのか?という疑問も湧いたが、と同時にトップダウン処理というのは結構昔から知られていたはずだからフォーダー自身はそれをどう扱っていたのか?と思って調べたのだが、今の私には調べきれなかった。しかし、この件とは別にたまたま見つけて読んだ論文がこのテーマに関連した話題を扱っていたのだが、その論文の面白さに興奮してしまった。

認知は知覚に影響を与えるか?

あるサイトで参照されていて見つけた論文「Cognition does not affect perception:Evaluating the evidence for “top-down”effects」(PDF)が、読んでみたらあまりに面白かったのでびっくりした。その面白さは知識や事情が分からないと伝わらないので、大雑把に内容の説明だけします。この論文で扱われているのはトップダウン処理だが、既に紹介した例は古典的な例だが、近年になってもっと様々なタイプのトップダウン処理が報告されるようになった。様々な現象が報告されているが分かりやすい例だけ挙げると、例えば文字に色のついた語句を提示した時に、その語句が(道徳的にや感情的に)ポジティプな意味を持っている時の方が、その語句がはっきりと見えたり色が濃く見えたりする現象が報告されている。古典的な例では主に概念が見え方に影響を与えているが、新しいタイプのトップダウン処理では付属するもっと様々な状態が見え方に影響を与えているとされている。こうした新しいトップダウン処理は昔ニュールックと呼ばれた現象、貧しい子供は富んだ子供よりもコインの大きさを大きく知覚していることを示した研究、の蘇りとも言える。

トップダウン処理の特徴とは、意味や思考が関わる(より高次の)認知が物の見え方のような(比較的低次の)知覚に影響を与えることであり、(より高次の)認知が知覚に侵入する(penetrate)とよく言われる*2。この論文ではこうしたトップダウン処理を疑っているのだが、それは最近話題になっているような再現可能性からの疑いではない。むしろトップダウン処理を示しているとされる実験への解釈の問題と言え、それをいつかの落とし穴として提示している。

実験への解釈(評価)の仕方は(再現可能性に劣らず)心理学では大事な要素で、古典的な例では賢い馬ハンスがあるが、こうした批判からその批判を交わす洗練された実験法が開発されたりと心理学を動かす力となっている。この論文ではトップダウン処理(の実験を評価するための)の落とし穴が具体的な研究を挙げながら説明されている。ここではそのうちから分かりやすいものを幾つか挙げると、知覚と判断の区別がついているのか?、案に答え方が偏るような要求をしていないか?、刺激に意図しない微妙な違いがあるのではないか?、知覚よりも記憶の問題になっていないのか?…などの落とし穴がある。この論文にはとても読みきれないほど多数の学者からのコメントがついているが、ともかくトップダウン処理の実験への解釈に重大な疑義を挟んだことだけは確かだ。

終わりに

前半で取り上げたトップダウン処理を示す現象によるカプセル化批判は分かりやすいものであるが、後半で取り上げたようにそれは少なくともそのまま受け取るには疑わしいものである。この問題には様々な議論が関係しており私にはとても追い切れないし、私が思いつくものに限っても、知覚と判断は分けられるのか?モジュールカプセル化と脳の機能局在化はどのような関係か?とかこのまま続けて書ける程の内容ではない。ともあれ、このように科学は(民主主義と同じく)結果だけではなく過程こそが大事なのだ…という点はいくら強調しても切りはない。

*1トップダウン処理についてはネットで調べたのですが適切なものがありません。図を伴った説明なら→http://www.dokuji.net/model.htmlだが、これも説明が簡単すぎるのが欠点

*2:認知という言葉には広い意味と狭い意味があり、認知科学における認知とは心の能力を幅広く指す広い意味だが、一般的に使われているのは狭い意味の方が多い、それにしても、認知と行動・認知と知覚・認知と感情…と何と対照されるかで含意は微妙に変化する。とはいえ、一般的には思考や言語のような人間ならではの高次の能力を指すことが多い

2017-05-20

「Neuroscience Needs Behavior:Correcting a Reductionist Bias」を読む

最近は気が向いて、ネットに上がっている認知科学関連の論文を読むことが多くなった。その中で、たまたまある学者が関わっていた論文を読んだら面白かった。それはNeuroscience Needs Behavior:Correcting a Reductionist Bias」(pdf)だ。基本的に神経科学論文はあまり読まない(というか読めない)のだが、これは例外的に自分の知識で理解できる自分に合った論文だった。実際の内容は複雑でここで要約するのは面倒なのだが、主旨だけ取り出すとそれほど難しいものではない。つまり、神経科学では還元主義的な方法が主流だ。しかし、因果的説明だけでは不十分で計算的説明も必要だ。もっと多元的な神経科学を推し進めよう!…という話だ。

もちろん実際にはもっといろいろな話が書かれている。だが、例えば最後の方に多元的な説明を理解するための三人の人物アリストテレスティンバーゲン、マー…が出てくるのだが、実質的に論文の中で詳しく扱われているのはマーぐらいでしかない。ティンバーゲンはコラムで多少触れたれているだけだし、アリストテレスは一度さらっと引用されているだけだ。その上に、因果的説明と計算的説明(または記述と説明)の間の違いの議論はかなり詳しく扱われている。だったらむしろ、論文全体を計算論的神経科学の勧めに集中して論じたほうがもっと見通しの良い論文になったのでは…と思った。

正直な所、昔からの認知科学を知っている私のような人間にはそれほど目新しい主張でもなく、今になってやっとNeuronのような神経科学の専門誌にこんな話が載ったことに驚いている部分もある。ただ、「神経科学には行動が必要だ」というタイトルは内容をそれほど反映していなくて、本文では冒頭に神経パターンと行動との対応関係について軽く触れられているだけで、後は行動についてのコラムがあるだけだ。むしろ副題の「還元主義バイアスを正す」の方が内容を適切に反映している。まぁ、それにしても計算論的神経科学の勧めを超える話はそれほど書いてあるとも思えないのだが。

後は論文とは関係のない個人的な見解

(認知神経科学を含む)認知科学の基礎みたいな話はもともとの私の興味対象で、ある程度までは自分の中で解決した問題だがそれでも時々そのことについて考えてしまうことはある。それについてここに書こうとすると大変なのでやらないが、今回の話題に関連した話だけ書いてみる。

もともと私は(物質への)還元主義が大嫌いで、(そこそこ数学の出来た)私がいわゆる理系に進まなかった理由も学生時代に認知科学にハマったのも(少なくとも)当初は身体化論に好意的だったのも、どれも還元主義嫌いに原因があると言われればある。しかし、今は還元主義をそれほど恐れてはいない。その理由は私が歳をとって寛容になったせいもあるかもしれないが、自分の意識では還元主義嫌いが弱まった原因ははっきりしている。それは私の中での存在論から方法論への転換だ。

つまり、還元主義を文字通りに存在論的に捉えるから嫌煙する原因になるのであって、還元主義ラカトシュ的な研究プログラムを導く方法論的なものだと捉えてしまえば、還元主義は研究プログラムとして生産的だから採用されているだけなのだ…と考えてしまえば還元主義なんて気にするほどのものではないと思えてきた。これを思いついたのは結構前なのだが、その後に(欧米での)方法論的自然主義の広がりを知って、その方法論への転回という共通点に気づいてびっくりした経験がある。

と言う訳で、現在の自分は科学を(ラカトシュ的な)研究プログラムとして生産的かどうかで見るようになった…もちろんそれで科学のすべてを説明できるわけではないが。

2017-05-16

心の計算理論におけるマーの三つのレベルについて少しだけ

認知の計算モデルについて調べていていたら、日本のサイトでとてもよいリンク集サイトを見つけた。それは私のブックマーク計算論的認知科学 第1版であり、基本的にお勧めなのだが、実は最初にこれに目を通した時になんとなく違和感があった。それがはっきりしないまま認知の計算モデルについての調べ物を進めていたら、「計算論的神経科学のすすめ」(PDF)という素晴らしい解説論文を見つけて大喜びしたのだが、これを読んでから例のリンク集を見なおしてみたら、どこに違和感を感じたのかはっきりと分かった。それはMarrの三つのレベルについての言及部分だった。

この分野ではベイズ派を中心に、Marrの三レベル(計算論、アルゴリズム、実装)で言う計算論的モデリング、すなわち「何を計算するか/すべきか」の研究に主なフォーカスがあり、これは計算論的神経科学認知神経科学において「いかに計算されるか」を扱うアルゴリズムレベルの研究が盛んであるのと相補的であると言える。

私のブックマーク計算論的認知科学 第1版より

計算論的神経科学認知神経科学が一緒にされてアルゴリズムレベルの研究だと言ってるところに違和感があったのだ。認知神経科学ってのは脳イメージング研究とも呼ばれるあの研究群だが、これがアルゴリズムレベルの研究ってのはいくらなんでも無理がある。そう思って改めて見直すと、計算論的認知科学Marrの三レベル(計算論、アルゴリズム、実装)で言う計算論的モデリングすなわち「何を計算するか/すべきか」の研究に主なフォーカスがある、という説明も間違ってはいないが誤解を招きやすい。Marrの三レベルについて詳しくは計算論的神経科学のすすめが分かりやすくてより正確なのでそっちを参考にしてもらうとして、関連部分だけを論じます。

認知神経科学については単なる勘違いなので脇に置くと、問題はMarrの三レベルにおける計算論のレベルとアルゴリズムのレベルの間に違いにある。計算論的認知科学と計算論的神経科学の間には計算論のレベルとアルゴリズムのレベルの違いがあるという引用部分の説明は、「計算論的神経科学のすすめ」を読んでもらえば分かるように無理がある。私の印象では計算論的認知科学と計算論的神経科学の間の違いは脳の構造をどの程度まで考慮するかの違いであって、どちらも心の計算モデルの研究という点では一致している。そして、その点はどちらの研究領域も計算論のレベルとアルゴリズムのレベルの両方に関わりあっている。それは次の引用部分からも分かる。

この解説論文では、最適化の原理が運動制御とりわけ到達運動をどのように説明するかを、Marr の計算理論と表現・アルゴリズムのレベルにおいて、筆者の研究を通して紹介したい。

計算論的神経科学のすすめ」 p.156より

おそらく勘違いが生じる原因は、研究領域全体を指すのに使われる計算論(計算理論)という言葉が、Marrの三レベルのうちの一つに使われているからだ。これについては、1990年に出た少し古い文献でも「以上を考えるなら、この理論的な水準にMarrが「計算論的」という用語を与えたのがよかったのかは疑問である。しかしこれは文献上確立したものとなっている」(「認知心理学事典」p.257より)と指摘されている。大雑把に説明すれば、計算論レベルでは計算モデル研究を行なう前提となる方法と目的を与えてアルゴリズムレベルはそれに則って具体的な数式を考えだすので、科学哲学用語を使うと…計算論レベルは研究のためのパラダイム(または研究プログラム)を与えていると考えると分かりやすい。

まぁここまで説明しておいてなんだけど、マーの三つのレベルなんて、心の計算理論についての入門講義で導入に使われたりはしているが*1、実際の計算理論研究をするには必ずしも知らなくてもそれほど支障がない気がする。私はこういう抽象的な話は得意だけれど、もちろん高度に専門化した実際の計算モデル研究には私はついていけていません。

2017-05-14

解釈主義は機能主義に反しているのか?

具体的な書名はあえて挙げないがある日本の学者の書いた本の中で、解釈主義は行動主義なのであって機能主義には反しているという主旨の記述を見たことがある。残念ながらこれは完全なる間違いである。おそらくその学者は代表的な解釈主義者であるデネット全体論的行動主義と呼ばれていることからの推測でそう主張したのだろうが、それは安易な連想でしかない。

解釈主義とは言語に関するディヴィドソンの立場であり、それを受け継いだ哲学者は幾人もいる。デネットはその代表的な一人ではある。しかし、それ以外にもディヴィッド・ルイスにも(ディヴィドソンと同名の)「Radical interpretation」(PDF)という論文があり解釈主義としての側面も持っている。もちろんD・ルイスは有名な機能主義者であり、それが解釈主義と反しているということは全くない。むしろ逆に素朴心理学(folk psychology)の理論によって相手に命題的態度を当てはめて解釈している。これで既に反例を少なくとも一つ提示したので、「解釈主義は機能主義に反している」という主張が間違っていることは十分に示されたのだが、実はデネットに関しても誤解がある。

デネット全体論的行動主義と呼ばれるのは、デネットクオリアを否定していることと、有名な論理的行動主義者であるライルに学んだことがあることからそう呼ばれていると思われる。しかし、セラーズの書籍の「はじめに」にあるローティの文章の注9に「デネットは彼自身が属している学派である機能主義を創始したことをセラーズに帰している」(「経験論と心の哲学」より)とある。デネットの立場を行動主義と呼ぶのは、その特定の側面に注目しているからであって、完全に行動主義とは言い切れない。とはいえ、デネットの立場を機能主義と呼ぶにしても、それは志向的姿勢を取って命題的態度を相手に読み込んでいるからであって、機能主義のもう一つの側面であるトークン同一説を採用しているかどうかは怪しいのだが。

あまり大きな声で言いたくないのだが、日本の学者には何とかしてオリジナルなことを主張しようとして基礎知識レベルでおかしなことを言う傾向がたまにある。そういうのは学者間の批判によって訂正されていけば良いのだと思うが、どうもそれはうまく機能していないらしい。そういうのを見ていると時々、本当にそう思っているのなら欧米に行ってそう発表してこいよ!と叫びたくなる。もちろん、(在野の所詮は素人でしかない)私は日本の学者の面倒な事情には巻き込まれたくないのでそんなことをすることはありないのだが。

2017-05-12

フォーダーとピシリンの共著「Minds without Meanings」(出版済み)の草稿を読む

ネットで調べ物をしていてある論文を読んでいたら、数年前にフォーダーがピシリンとの共著「Minds without Meanings」を出していたのを知ったのでさらに調べてみたら、その更に数年前に書かれたその本の草稿が見つかったので大雑把に目を通してみた。第二章の概念は何でないのか?の議論などは入門者向けにも適切かもしれないとか、第四章の知覚研究の紹介は全体から浮いてないかとか、思ったことはいろいろある。この本全体でやりたいことはおそらく意味(概念の内容)についてフォーダー自身の説を支持するためにそれ以外の説を批判することではないかと思うのだが、実際の所フォーダー自身の支持する意味論の説明は直接にはないので分かりにくい。Inferential Role Semantics(IRS)への批判ってのはセラーズへの言及を考慮すると実質は概念役割意味論への批判だろうし、実際に過去に行なった批判(全体論と合成性による批判)と内容が似ている(「意味の全体論―ホーリズム、そのお買い物ガイド」)。そして問題は指示(Reference)の問題に集中するのだが、その過程で知覚研究に触れることになる(ピシリンはこの辺りで協力?)。さらにクリプキやPurely Referential Semantics(PRS)への言及を目にする内に、こっちがフォーダーの支持したい立場ではないかと推測できる。そこでこの草稿を離れてしまうと、一般的にフォーダーは情報論的意味論と呼ばれる意味の因果説を提唱していることが知られている。そういえば草稿ではCausal/referential semanticsという言い方もされている。つまり、クリプキもフォーダーも指示を対象と結びついた因果的な説を採用している点で共通点があるのだ。ただし、フォーダーの場合は言葉と対象をいきなり結びつけるのではなく、心的表象を介して結びつけているのが異なる。この心的表象がフォーダーが思考の言語と呼んでいるものだ。

フォーダーの意味論への批判としては選言問題が有名である*1が、一般化すればパトナムの指示の魔術説批判がそのまま当てはまってしまう。心的表象(思考の言語)はまだ認めてもいいが、意味の因果説はやはり厳しい気がする。情報論的意味論として一緒に括られるミリカンやドレツキは進化や知覚の理論だから受け入れられるのであって、フォーダーのように意味の理論としては難しい。つまり、言葉が(心的表象を介して)その普遍に対応する物を示すと言い切るのは無理がある。フォーダーがとてつもなく鋭い学者だと思うが、その一方で特定の説に固執しているようであり、納得できる理由さえあれば平気で転向するパトナムとは対照的な哲学者だと思った。

2017-05-10

認知の計算モデルは本当に流行っているのか?

少し前にネットで調べ物をしていたら、新しい認知科学のハンドブックが出たと分かって喜んで内容を調べてみた。こちらのオックスフォード認知科学ハンドブックの紹介記事(PDF)を見てもらえば分かるが、古典的な従来の研究テーマに一通り触れられているのは当然ながら、それとは異なる特色があるのが目次を見ると分かる。それは認知の計算モデルとビッグデータ研究にページが費やされていることである。このハンドブックでは主に言語研究についてではあるけれどビッグデータを用いた研究にも章が割かれている。これは確かに新しい傾向としては触れるに相応しい研究傾向ではある。それに対して、認知の計算モデルにまるまる何章も割かれていることには驚いてしまった。コネクショニズムぐらいなら別に驚かないが、ACT-Rの名前が出てきたことには懐かしささえ感じてしまった。認知の計算モデルについては、認知科学に興味を持った頃に多少勉強した覚えがあるが、その後特に研究が盛んになったという印象がなかったので、ハンドブックにかなりの紙数が割かれているのにびっくりした。

その後なんとなくサイトを巡回して気になった記述があった。「The Importance of Falsification in Computational Cognitive Modeling」の要約に「In the past decade the field of cognitive sciences has seen an exponential growth in the number of computational modeling studies」とあって、えっ!計算モデルって流行ってるの?と驚いてしまった。それで計算モデルについてネットでもっと調べてもみたが、本当に計算モデルが流行っているのかは確信が持てなかった。しかし、調べ物をしている内に思い出したのだが、何年か前にベイジアンモデルが流行っているを知って勉強しようとして途中で挫折した覚えがあることを思い出した。もちろん挫折したのでブログには記事にしていないが。そう考えると、ベイジアンの流行りってならまだ分かるけど、ACT-R(元は結構古い)を含む計算モデルの流行りって言われてもいまいちピンとこない。

2017-05-07

法学者サンスティーンが参照する科学的心理学の成果を確認する

法学者サンスティーンは科学的心理学の成果に基づいた議論で著名な学者であるが、欧米での評価の割には日本ではそこまで知られていない学者でもある。

比較的最近の話題だと行動経済学者セイラーとの共著「ナッジ」(邦題実践 行動経済学」)が有名があるが、これも(認知科学的な成果と言える)二重過程説に基づいた作品だ。うまく環境を設計して潜在過程に働きかけることで、意識上の自由は確保した上で行動に介入する事を目指すリバタリアンパターナリズムを提唱することで知られるようになった。ネットにある論文だと「リバタリアン・パターナリズムとその10 年」(PDF)が最近の展開も分かってお勧めだ。最近になってからのサンスティーン自身によるナッジへの批判的反省は「Nudges That Fail」を参照。

しかし、それ以前のサンスティーンだと熟議民主主義批判(およびインターネット批判)が知られていたが、これも社会心理学の成果に基づいていた。それはGroup Polarizationであり社会心理学では有名な説なのだが、例えば「熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論」では訳が特殊(集団極端化)で、これがきちんと分かっていない気がする。社会心理学ではGroup Polarizationの定訳は集団成極化または集団分極化であり、集団での決定は個人での決定の時よりも極端な結論に導かれがちだという社会心理学の実験成果があるのだ。ネットにはなかなかいい説明サイトが見つからないのだが、古いものでよいなら「集団分極化とその説明理論について」(PDF)が詳しい。

以上、私にとっては既に当たり前の知識だけれど、(行政と同様で学問も縦割りで)分野間の断絶の激しい日本ではこの程度でも知られているとは言い難いので確認してみました。

2017-05-06

身体化論について私感

エナクティヴ・アプローチにおける現象学の役割は何か」は、ヴァレラらの提唱したエナクティヴ・アプローチをリサーチ・プログラム(ラカトシュ)として理解しようとした素晴らしい論文でお勧めです。詳しい内容は論文を読んでもらうとして、後は身体化論について前々から個人的に考えていたことをつぶやきます。

身体化論については、ヴァレラら「身体化された心」の翻訳が出た当時、既に原書の存在を知っていた私は大喜びした覚えがある。その私から言わせてもらうと、このヴァレラらの本が出てからもう二十年以上も経っているのに、その間に身体化論のリサーチ・プログラムとしての生産性が特に高くなったとは私にはどうしても思えない。ネット上には身体化論の論文(特に英語)がよくあがっていて今でもたまに読むのだが、それほど面白いとは思ったことはない(冒頭の論文は例外)。第一の理由はそもそも特出すべき新しい展開がないせいもあるが、もっと困ったことは経験科学との関係が薄くなってしまったせいもある。それに、身体化論がもともと敵対視していた古典的計算主義そのものが昔ほど力を持たなくなってしまったので、批判としての価値も失ってしまった。身体化論は、哲学的には思弁的な議論ばかりだし、科学的には目ぼしい成果が見当たらないしで、見るべきところはない。それなにの、今さらになってやっと日本では身体化論で騒ぐ人がよく目につくようになって、その周回遅れ感にはあきれてしまう。

とはいえ、身体化論について全く何の期待もないってほどでもないので、これからも薄く見守っていこうとは思います。

2017-04-25

生態学的妥当性を軽く復習する

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)」は、現在の日本での認知科学への理解の低さを考えるとよく出来た本である*1。その中に「生態学的」の意味は「実験室の外で」あるとしているが、この用語の用法のオリジナルとなる文献は欧米の哲学者でさえあまり指摘しないので、軽くそれに触れておく。

生態学的妥当性(ECOLOGICAL VALIDITY)とは、現実の世界において自然に起こっている行動に関する研究が持つ属性である。…(中略)…Neisserによれば、認知心理学者は「日常場面において、そして目的をもった自然な活動の文脈のなかで生まれる認知を理解すべく、より一層の努力を」することによって生態学的妥当性を追求すべきである。

心理学生態学的というとJ.J.ギブソンが有名だが、その影響を受けてナイサーが実験室内の特殊な状況による結果を日常的場面にまで一般化することの危険性を指摘したのが、この生態学的妥当性という用語を提出した動機となっている。ナイサーがこれを指摘した本「認知の構図(原題:Cognition and reality)」が出たのが1976年だが、その後の1980年代以降に起こる認知科学の第二波とも呼ばれる身体性や日常性への転換の先駆的成果となった。しかし、二十一世紀に入って認知神経科学進化心理学のブームの中で第二波的な考え方は忘れ去られていき、せいぜい身体化論が(経験科学から離れて)一部の哲学者の玩ぶ題材と化していったところがある。しかし、生態学妥当性という問題は認知神経科学にこそ当てはまったりもする。忘れられた話題が重要でないという訳でもないのだ。

*1:とはいえ著者の留学先の指導教官の影響が相当に大きいようだ

2017-04-22

方法論的自然主義について個人的なアイデアをつぶやく

前回の記事で、前々から気にかかっていた近年の方法論的自然主義について書けたのはよかったが、固めの内容ばかり抑えたのでもともと持っていたアイデアの殆どを使えなかった上に文章そのものが固くなってしまった。せいぜい方法論的自然主義というと実験哲学ばかりになりがちなところに、自らの判断で科学哲学的な傾向も加えたことぐらいだ。哲学全体で科学的成果への参照は多くなっているので、これを書き加えることには躊躇しなかった。残りのアイデアは微妙な点もあったので、軽く書ける別の記事にしてました。

グランドセオリーから方法論的自然主義

近年の方法論的自然主義の隆盛のきっかけともなった実験哲学については、そもそもはそれ以前の哲学(分析哲学)に対する反抗という側面があった。それを理解するためには元々の分析哲学の状況を知っている必要があるが、日本では(残念ながら学者も含めて)それはほとんど知られていない。それである時、前に別の興味から読んでいた「アメリカ憲法理論の近年の動向―グランドセオリーの退潮―(PDF)」を思い出して*1二十世紀後半の分析哲学をの傾向をグランドセオリーとしてまとめて、それに対する対抗として実験哲学を理解できるのではと計画した。しかし実際に記事に書こうとするとうまくまとまらない。その理由は簡単で、グランドセオリーとして想定している領域と実験哲学が跋扈している領域があまり重ならないせいだった。グランドセオリーとして私が想定していたのは形而上学心の哲学・政治理論・法理論あたりだった*2が、実験哲学の活躍領域は主に認識論倫理学であり、これらを一つの論にまとめることに無理があったのだ。正確には様相理論についてのクリプキ直観が話題に上がることはあるので、両者で形而上学は重なる領域だが、それほど論じられる機会の少ないこのテーマだけでまとめるのはやはり無理がある。全体の流れとしてグランドセオリーから方法論的自然主義へという流れは正しい考えだと思うが、これを一つの流れとして描くのは私の手には余る。

近代哲学史を支配した2つの直観への批判の完成としての方法論的自然主義

方法論的自然主義は経験主義一種とも言えるが、それは昔のクワイン批判していた元来の経験主義とは異なる新しいドグマなき経験主義だ。実際に方法論的自然主義の源としてはクワインの文献が挙げられることが多い。そこで、感覚だけに頼って真実を探る感覚データ説*3とも、人々の同意だけで真実が決まる構築主義とも、異なる考え方としての方法論的自然主義を説明できるのではないかと考えた。二十世紀の前半が感覚データ説の時代で後半が構築主義の時代だとすれば*4、今はまさに方法論的自然主義の時代と言える。

ところで、方法論的自然主義の代表である実験哲学哲学者直観を疑っているが、ここで言う直観は判断としての直観である。哲学では、直観とは直接に与えられたものという意味であり、主に2つの意味で使われる。一つ目は感覚としての直観であり、感覚は外部から直接に与えられるものであり、論理実証主義(や現象学も?)はこれに頼って哲学を築き上げていた。この種の直観信仰は所与の神話としてセラーズによって完膚なきまでに批判されている。もう一つの意味は既に示した判断としての直観であり、何かを知っていると言えるか?や善いことだと言えるのか?を判断するために頼りにされていた。判断としての直観とは考えるまでもなく判断できることに適用される点でやはり直接に与えれるものであると言える。つまり今や(元来の)経験主義を支える直観も合理主義を支える直観もどちらも批判対象となっている。実験哲学における直観批判としての概念分析批判哲学者パピノーによる「SEPのNaturalismの項目(英語)」説明が見事である*5。ともあれ、近代哲学史の代表的な立場である経験主義と合理主義とを支える2つの直観が、結果としてどちらも批判されてしまったのだ。

判断の偏りとしての二重過程説との共通性

直観批判とは何なのか。それは哲学者でさえ何かしらの判断の偏り(バイアス)を避けられないということだが、これは認知科学で示されている二重過程説*6とも一致する見解だ。どんな人でも無意識の内に何かしらの判断の偏り(バイアス)を被っているのだとする多数の実験的成果から二重過程説が浮かび上がってきたのだが、これは実験哲学直観批判とどこか似ている。まぁこれは実は当たり前の話で、実験哲学の祖の一人である哲学者スティッチ認知科学的な成果を元にして概念分析批判を始めたのだからおかしなことではない。

二重過程説における無意識とは過去に流行った精神分析の無意識*7とは全く異なり、きちんとした科学的成果に則っており、どんな人でも(まさに哲学者でも)その影響から逃れるのは困難だ。だからこそ方法論的自然主義が推奨されるのだ。

*1:「SEPのNaturalism in Legal Philosophyの項目(英語)」も参照すれば、私の計画が無茶ではないことは分かるはず

*2:ちなみにグランドセオリーの説明には、その体系性に反対する反実在論や身体論的なもの(例えば徳倫理)も同時代のものとして含めようと計画していた。

*3:一般的にはセンスデータ説とか感覚所与説と訳される。現在ではデータという言葉が理解されてきているので、ここでは一見の分かりやすさのためにあえてこう訳した

*4:ちなみに、それとは別に物理主義(唯物論)は二十世紀を一貫して支配していたとも言える。それに対抗するようにいま勃興しているのが汎心論なのだ

*5:テクニカルな話になるので説明は避けるが、カルナップ文(還元)とラムジー文(定義)の関係が分かりやすく示されていてとても勉強になった

*6:ちなみに、語感が似ている二重継承説とは用語の性質が全く異なる。二重過程説はこれまでの多くの科学的成果を分類して名前を付けたのに過ぎず、それ自体が新しい発見ではない。であるが故に(多数の成果が関わるので)そう簡単に反証されるものではない。対して、二重継承説はそこまでの確実な成果に基づいているわけではなく、単にそう考えると説明に便利だよね〜程度のものでしかない。以前これらを単純に並べて比較している記述を読んだ覚えがあるので、一応指摘だけ。

*7:ここで精神分析非科学性に触れる暇はないが、未だに平気で精神分析を信じている人を見かけると皮肉に感じてしまう。

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