マイケル・リンド「新しい階級闘争」を独自に整理してみた

最近マイケル・リンド「新しい階級闘争 大都市エリートから民主主義を守る」を読んで、そのあまりの洞察の深さに衝撃を受けた。しかし、翻訳書についてる二つの解説やネットでの紹介を見て、なんか違うよな〜とモヤモヤしたので、ここでそれを発散したい(この記事は長い上に悪口が激しいので注意)。

基本的な内容の要約については翻訳書の解説でもネットの紹介でも問題はないので、とりあえずの内容を知りたい人はそれを読んでください。問題はそれらで強調されている点が、著作で書かれていることと微妙に違っていて誤解を招くと思ったことだ。

翻訳書の解説のどこが誤解を招くか?

冒頭の解説を見る

まず、冒頭の解説には「左右の対立から上下の対立へ」とまとめられていて、ネット上でも同じように紹介されていることは多い。(私がまだこの本を読んでなかった)少し前に、ネットの某所でこの主張と同じ書き込みに対して、上下の対立という思考法がそもそも左翼のものだ!と反論されていて、もっともだと思った覚えがある。

マルクス主義の視点からすると人類の歴史は全て階級闘争であり、上下の対立は今に始まったことではないことになる。実際にはリンドは本書の中ではインサイダーとアウトサイダーの対立と書いてある。内外の対立と上下の対立は重なっているが、上下の対立へと移行したとするのはちょっと違う(上下の対立のあり方が変化したと考えるべき)。

同じく冒頭の解説で中野剛志は「リベラル・ナショナリズム」を取り上げている。これは中野自身が言うようにリンドの以前の論文の主張であり、本書では明示には語られていない(ただしグローバル資本主義に対抗するための暗黙の前提にはなっている)。リベラル・ナショナリズムは国際関係上の立場であるが、この著作で主張されている民主的多元主義は国内的な状態への提言である。その点では中野剛志の解説は本書への補足と捉えるべきだ。

巻末の解説を見る

とはいえ、中野剛志の解説は巻末の学者による解説に比べたらあまり害はない。巻末の解説での内容の要約には(つまらないことを除けば)問題はない。問題は後半の日本についての話だ。『日本の場合は、「上からの新自由主義革命」が国内で生じたというよりも、ドーアなどが指摘する通り、米国などの欧米諸国の新自由主義化に無批判に追従したことが主な要因だと言えよう』(p.266-7)とある。

しかし、リンドは本書の第一章の冒頭の注で本書で論じるのは欧米の事情であり東アジアは含めないと書いてる。エピローグでは「現代の東アジアにおいては民主主義体制にある日本と韓国、それに台湾の経験は、新自由主義だけが近代民主主義のモデルではないことを証明している」(p.249)とあって、リンドは日本が新自由主義であることを否定している。解説に独自の意見を書いてもいいけど、何の注釈もなく本書と異なる見解を述べるのは誤解しか招かない。

リンド「新しい階級闘争」の議論を私なりに整理する

こういう海外の話題の本を読んだとき、日本の人はそこでの議論を日本にそのまま当てはめてしまうことはよくある(巻末の解説はそれに近い)。しかし、著者自身も言うように本書は欧米の分析しか意図されていない。もしそれでも日本に適用したいなら、議論を整理してどこなら日本に当てはまるか?を丁寧に考える必要がある。

ここからは、本書でのリンドの議論を私なりに整理してみたい。余裕があれば日本への適用も試してもいいが、できればそれはきちんとしたデータや事例を伴って他の人にやってもらいたい。

管理する者とされる者としてのインサイダーとアウトサイダーの対立

リンドの議論を理解する上で基本となるのは、インサイダーとアウトサイダーの対立である。これは管理する者と管理される者の対立、ルールを作るものとルールに従う者の対立でもある。これを理解してもらうための手っ取り早い方法はインターネットにおけるプラットフォームを例にあげることだ。

インターネット上には、旧ツイッター(現X)のようなSNSプラットフォームやアマゾンのようなショッピング・プラットフォームなどがある。プラットフォーム上で利用者は自由な使用ができる。ただし、利用者はプラットフォームのルールに自動的に従わなければならない。プラットフォーマーはいざとなったら書き込みを削除したりアカウントを停止したりできる権限を持つ。

プラットフォーマーは利用者が従うべきルールを自在に作ることができ、理不尽な書き込み削除やアカウント停止をしても別に説明責任はない。他にも色んなプラットフォームを選べるなら問題ないのだが、実質上の独占による特権があり、他のプラットフォームの選択肢はないに等しくなる。利用者はプラットフォーマーの一方的な管理に甘んじるしかなくなる。

このプラットフォーマーと利用者の関係が、インサイダーとアウトサイダーの対立と同じであり、それが実は現実世界でも起こっていたという。

労働市場の分断で労働者の力は削がれている

経済の話から始めよう。経営者(管理者)の労働者の関係を見ると、労働条件を変えられる経営者の立場の方が強い。それに対抗するように労働条件を守るための力を発揮してたのが労働組合である。しかし、新自由主義の影響で労働組合そのものがが縮小してもいったが、労働組合の影響が小さくなったもう一つの原因がある。それは(違法)移民の増加である。

労働組合は良い方に労働条件を揃えることで経営者の要求に対抗するが、労働組合に属さない移民が増えることで、労働組合を無視して労働条件が悪くとも安く働いてくれる(違法)移民を雇えば済むようになった(労働市場の分断と呼ばれる)。ここで起こったのが、労働者(アウトサイダー)同士の分断による敵対視である。トランプ支持で煽られたのはこれである。

十数年前にまだブログが流行っていた頃に、あるブログでアメリカ在住の(フェミニズムを支持する)リベラルな人が、日本が移民を入れないことを否定的に書いてて、読んでモヤモヤした覚えがある。リベラルが(既に国内にいる)移民への差別に反対するのはまだ分かるのだが、(これから来る)移民の移入そのものは別の問題では?と思った気がする。この時点で既にリベラルは労働者の味方ではなくなっていたのだ。

司法や条約による政治を通さない非民主的な実質上の立法

次は政治の話にしよう。たとえ労働運動で労働条件を改善できないとしても、まだ政治で民主的にルールを変える方法がある。しかしこれも、(新自由主義の影響もあって)労働組合や地域共同体の力が弱まっていて、政治的な影響を与えるのも難しくなっていた。だが、多数派のはずの労働者の政治への影響が薄くなったのには、他にも理由がある。

(主にリベラルが)司法審査を介して民主的政治を無視して実質的な立法に当たる影響を及ぼしてた(例えば過去の中絶問題)。国際的な組織や協定によって条約や規制を規定することで国内の民主的な政治を飛び越してルールを決めることができた。

ブレグジットの時に、EU離脱に賛成した地域に対してEUはこんなに良い事したんだよ…と指摘してる動画を見た覚えがある。それを見た時も違和感があったが、問題はEUの決定が(各国の国民を無視してエリートだけが決めた)民主的ではないことであり、何をしたか?ではない。トランプ当選の時も、トランプ支持者が民主主義を駄目にした!かのようによく言われていたが、本当はエリート(インサイダー)こそが民主主義を既に損なっていたのだ。

リベラルぶりっ子はエリートに有利な能力主義を推し進める隠れ蓑だ

最後は文化の話をする。リベラルのポリティカルコレクトネス(政治的な正しさ)は、実質的に労働者に喋るな!と言ってるのと同じだ。実際にトランプの庶民的な喋りはリベラルによって揶揄されていた。育ちが悪い労働者に対して育ちの良いエリートがポリコレの名のもとに黙らせている。ポリコレは表面的には良いことのように見えるが、実際の効果はただのエリート主義でしかない。

リベラルは別に上下の対立を手放したのではない。リベラルは下の領域をマイノリティの段階にまで縮小したに過ぎない。しかし、そこで行われているのは多数派を取れずに政治的に影響を持てないマイノリティの味方ごっこでしかない。そこでの差異の政治は労働者の分断と同じ効果を及ぼしているに過ぎない。

女性や人種の差別を叫ぶリベラルの場合は事情がもう少し違う。女性や人種への差別は(人の能力を純粋に評価する)能力主義(メリトクラシー)を阻害する障害として扱われていることが多い。似た例としてはダイバーシティや(本来の)ルッキズムも、それに対応することで能力主義体制を純粋に実現できるとする側面がある。しかし、これはグローバル資本主義の下における能力を持つ者(インサイダー)と持たない者(アウトサイダー)を分けることにお墨付きを与えているだけだ。

右派も左派も中道もグローバル資本主義下でのエリート同士の覇権争いをしてるだけだ

リンドは本書でテクノクラート新自由主義という言葉をよく使っている。正直この言葉は分かりにくい。テクノクラートは良い翻訳語がない。(民主的ではない)技術的な手続きによる支配体制…としか自分には言えない。新自由主義は本来は政府を小さくする市場主義だが、リンドは再分配を伴った新自由主義を認めてるのでややこしい。

ここで注目すべきはベーシックインカムである。ベーシックインカムは右派からも左派からも支持されている。左派はすべての人の最低限の生存を保証するものとしてベーシックインカムを支持している。右派は社会保障費を節約するためもあるが、金を渡して労働者を黙らせる効果もある。ベーシックインカムグローバル資本主義には反対してない。

リンドの言うテクノクラート新自由主義とは、エリートによる統治+市場による統治である。ここにおいてエリートによる統治は市場による統治を補完するものでしかない。再分配や教育をするにしても、それは市場による統治を手助けするのが前提だ。

右派も左派も中道も、市場による統治を当たり前の前提とした上で、エリートによる統治を誰がするか?というエリート同士の覇権争いをしているだけだ。そこでは多数派の一般市民は無視されており、民主的なルートは遮断されている。エリート叩きをしてるのもエリート(予備軍を含む)であり、ただの覇権争いでしかない。

今や、一般市民はどこにも支持できるめぼしい政党がなかったとしても、それはどのめぼしい政党も覇権を欲しているただのエリートの集まりだからであり、民衆の方など始めから向いていない。

リンドの民主的多元主義への評価

エリート同士の覇権争いを逃れる方法として、リンドは民主的多元主義を提示している。その拮抗力を重視するアイデアは評価するが、リンドの提唱する民主的多元主義は古き良きアメリカへのノスタルジーに見えなくもない。リンドの民主的多元主義とは、(様々な階級の様々な利益を代表する団体が存在する)中間団体主義とも呼べるが、それがどのように現代に実現可能か?どうも見えない。

日本の話も少しだけ

少しだけ日本の話もしよう。既に指摘したように、リンドは新自由主義ではないとしてる。確かに日本は最小政府という意味での新自由主義は失敗したと思う。移民については前なら日本は少なかったが、最近は実質上の移民大国と言われることもあり、私にはそこはよく分からない。日本には公共サービスの縮小はあるが、そこを指して日本は新自由主義だとするのはどうか?と思う(ただの利権の移し替え[貧乏人に金はやらん、俺がもらう]だと思う)。

ここで注目すべきは労働市場の分断である。欧米では地元の労働者vs.移民の対立による分断だったが、日本では長らく正社員vs.非正規雇用の対立が同じ役割を果たしてたように見える。今の日本は少子化で人手不足なのでその図式は成立しなくなり、より移民を入れる方に向かいつつあるが、それは過去の欧米と同じだ。

日本におけるインサイダーは利権に与れる集団(政治家や大企業や官僚)である。日本は司法を介さずとも政治家が勝手にルール(立法)を非民主的に作れてしまう。ただの権力の犬でしかないネトウヨはゴミとして捨てるとして、日本には労働運動を支持する昔ながらの左翼は絶滅危惧種である。マイノリティの味方ごっこをしてるリベラルぶりっ子ばかりが目立つ(能力主義者も多く見える)。与党も野党も覇権争いをしてるエリートの集まりであり、一般市民から見て支持できるめぼしい政党が見当たらないのも同じだ。

いい加減に長いので、この辺りでやめるが、これでも色々と書けてない。例えば(リンドも挙げてる)リチャード・ホフスタッターの悪口(反知性主義で騒ぐ奴らの悪口)も書きたかったが、もう無理。

さっぱりリベラリズムではない現代的リベラルの二つの源泉

現代においてリベラルと呼ばれる立場や人々に、私はよく理解できないところが多くある。マイノリティの権利と称して極端な考えを他人に押し付けようとしたり、被害者(とされる人)の主観を絶対視したりと、あまり正気に見えない。私はロールズを始めとする政治哲学を個人的に勉強していてまあまあ詳しいと思うし、左翼と近代主義の区別ができない日本のネトウヨなんて馬鹿にしている。そんな私でも現代にリベラルと呼ばれるものが、私が理解しているリベラリズムと違っているとしか思えなくて、長らく困惑していた。

現代的リベラルの源としての文化左翼―ローティ―

そんな訳の分からないリベラルは日本の特殊事情だろ!…と思おうともしたが、アメリカでも似た事情があるらしいのでそうとも言い切れない。私はそうした立場や人達を(正統派リベラリズムと区別して)現代的リベラルとここで呼ぶことにするが、それはポストモダン左翼と呼んでもいい。最近はそれはアイデンティティ政治として批判されているが、それは1990年代に文化左翼としてローティに批判されていた思想と同じだ。

改良主義は否定されている。改良主義的左翼にとっては,改良の道徳的責任の条件として,みずからがアイデンティファイする対象一ここではアメリカという国家一が要求されるであろう。これは個人の自尊心と同じかもしれない。しかし,端からアメリカという「システム」の転覆を狙うラディカルにとって,そんなものは微塵も必要ないのだ。「議会で多数派を」などと叫ぶのは,幼稚な子供の所業である。ローティによれば,「差異の政治」「多文化主義」そして「文化系研究」は, まさしくこの「システム」転覆のための道具である。
「学界内左翼は固く信じている。この手の思考様式を転覆するためには,我々はアメリカ人たちに他者性を認識することを教えなくてはならないと。この目的のために,左翼主義者たちは,女性史,黒人史,ゲイ研究,スペイン系アメリカ人研究,そして移民研究などの学問領域を統合することに力を尽くしてきた。」(AOC,79)

渡辺幹雄「左翼を健全化する R・ローティの見る現代アメリカ左翼事情(1)」p.615-6より

ここで引用を止めると誤解しか与えない(マイノリティの権利を否定するのか!)ので、次の引用と必ずセットで読んでほしい。

以上の考察から総合的に明らかであると思われるのは,「差異の政治」一文化的差異に眼をつぶるのではなくそれを固持しようとする政治一が,「現実政治」の場面で具体的なイニシアティヴをとれる可能性は低い,ということである。なぜなら,「国政レヴェルの選挙で多数を勝ち取ることができるのは,仲間である(commonality)というレトリックだけだからである」。「もしも文化系左翼がその昨今の戦略一お互いの差異に頓着するのを止めさせるのではなく,お互いをその差異において尊ぶことを求める一に執着するのなら,それは国家レヴェルの政治において仲間意識(a sense of commonality)を創造する新たな方法を発見しなくてはならないだろう」(AOC,101)。

渡辺幹雄「左翼を健全化する R・ローティの見る現代アメリカ左翼事情(1)」p.220より

つまり、本気でマイノリティの権利を実現したいなら、より多くの国民にその必要性を理解してもらって政治で多数派を取るしかない。しかし、マイノリティを理解しないとされる人たちを無闇に敵対視するアイデンティティ政治(差異の政治)は、何も変えることのできない政治的な効力のない自己満足でしかない。なぜこんな不毛な考え方が現代的リベラルとして広まったのか?ずっと疑問だった。

引用した論文では後編でデリダフーコーが取り上げられているが、これは現代的リベラルの直接的な源泉として理解するのは難しい。ここではもうちょっと関連性がより直接的で強い源泉を二つ取り上げたい。

一つ目の現代的リベラルの源泉―ラクラウ&ムフ―

ラクラウ=ムフの議論が前提しているのは、アイデンティティが階級や経済的土台によって決定されるとする本質主義を放棄し、むしろ主体がある言説内でどのような位置を占めるか、あるいは社会におけるどのような諸要素と節合されるかによって偶発的に決定されるという、アイデンティテイの非本質主義的理解である。このために導入されるのが 「言説理論discourse theory」であり、ラクラウ=ムフはイデオロギー的諸要素の意味や社会的行為者のアイデンテイティがア・プリオリに決定されているのではなく、つねにすでに未決定な状態、もしくは不完全な状態であることを示したのである。

「境界効果」の産出〔……〕はかくして、明確かつ所与の分離のうえに、また、最終的に獲得された参照枠組みのなかに、基礎を置くことをやめるのである。この枠組みの産出、そして、相互に敵対的に対決するようになるであろう諸アイデンティティの構成が、いまや第一の政治問題となる。(Laclauand Mouffe 2001 [1985) : 134=2000: 212-13)

ここで「第一の政治問題」と言われているものこそ、階級的紐帯から解放され、社会内に浮遊したアイデンティティを固定化するべく繰り広げられるヘゲモニー闘争なのである。 ラクラウ=ムフによれば、社会内の諸要素のアイデンティティは階級によってア・プリオリに決定されるのではなく、節合実践を通じた他の諸要素との関係において、偶発的に重層決定されるものである。

山本圭「E.ラクラウにおける主体概念の転回とラデイカル・デモクラシー」p.88より

ここで論じられているのは、現在にアイデンティティ政治と呼ばれているものそのものである。アイデンティティ政治は最近はさんざん批判されている(引用したローティ論でもされてる)ので、ここではこれ以上は詳しく扱わない。ただし、私自身は批判すべきはアイデンティティ政治よりも差異の政治と呼ばれるべきだと思う。

アイデンティティ政治は現代に人々をバラバラにしている状態の原因ではあるが、アイデンティティ政治を全面否定するのは危険なことだ。始めてある問題や不満(例えば同性婚)を持ったときに、当初は共感してくれる人がほとんどいない可能性がある。その時にその問題に注目してもらう過程で、何かしらのアイデンティティを軸にするのがいけないとは言えない。駄目なのはとりあえずの仲間探しの手段でしかなかったアイデンティティ政治が、細かく敵と味方を分ける差異の政治に変換してしまった時だ。差異の政治に陥ってしまうと、それ以上に味方が増えないので政治的な影響が持てなくて何も変わらない。こんなのはやってる感だけのただの自己満足だ。

ただし、当のラクラウ&ムフはその後に左派ポピュリズムに向かっていったが、それは差異の政治だけの政治的無力からの展開としては正しいとしか言いようがない(味方を増やすがゆえのポピュリズムであり、安易に批判する奴は分かってない)。なのに、いまさら差異の政治だけが一般に広がってしまったのはSNSの影響が大きいのかもしれない(正確にはスマホの普及によるSNSの大衆化)。これについては私は憶測しか言えないので、ここではこれ以上は触れない1

二つ目の現代的リベラルの源泉―ドゥオーキン―

以前に、アメリカでトランプがまだ大統領だった頃に、最高裁判事に右寄りの人を指名したことがあった。その時にもここにブログ記事を書いたが、その後もアメリカの司法審査制を理解した上での説明を日本では見ることがあまりなかった(学者は何やってるの?)。

比較的に最近になって、アメリカのリベラルの失敗は司法依存にある!というネット記事を見てナルホドと思った。現代的リベラルの奇妙さ(なぜ政治的影響を持てないのに差異の政治を続けるのか?)の源はそこにあったと気づいたので、それをここで軽く説明したい。

以上のように、ドゥオーキンは、自らの構想するリベラリズム市場経済と代表民主制という二つの制度の下では実現されないと結論づける。その理由は、生まれつきのハンディ・キャップなどによりたまたま「少数者」といわれるグループに属する人々は、自らの選択の及ばない事由により、種々の不利益扱いを受けるからなのである。
[…略…]
「もし[少数派の]諸権利が裁判所によって認められたなら、これらの諸権利は、議会によって実効あるものとされたことがなくまた将来されることがないであろうにもかかわらず、実効性あるものとなるのである。
[…略…]
少数者がこのようにして獲得し得る能力は…立法的諸決定に対する司法審査というシステムの下で、最大となるであろう。」
ここまでくると、なぜドゥオーキンがその法理論において道徳的権利という権利概念を設けたのかは、もはや明白というよりほかはない。かれは、代表民主制下においても少数派はその主張を充分に展開することができないという認識に立ったために、少数派の主張をその政治的機能において十全に展開せしめ得るには、外的選好の圧力から免れたそれとは別のチャンスを設けなければならなかったのである。かれはそのチャンスを司法過程に求めたのであるが、そこでもし、権利は議会の制定法により創設されるもの以外ではあり得ないとする実証主義的理論構成をとったのでは、その制定に自らの意見を反映させることのできなかった少数派の救済の場のして機能し得ないことは言うまでもない。

旗手俊彦「ドゥオーキン権利論の社会哲学」p.779-80より

司法審査とは、最高裁で立法された法律を超えて違憲性を判断するアメリカの仕組みであり、独立した機関である憲法裁判所と違って個々の裁判の中で憲法に反しているか?が判定される。ドゥオーキンは司法審査によって司法が政治的な立法に対する強い力を発揮することができ、それによってマイノリティ(少数派)の権利を守ることができるとしている。アメリカのリベラルなあり方は(政治ではなく)司法によって可能になっていたとも言える。しかし、その希望はトランプ元大統領の最高裁判事の指名によって打ち破られた。

アメリカの現代的リベラルがマイノリティの権利を叫ぶだけのアイデンティティ政治を平気でやってこれたのは、政治的に多数を取らなくとも司法審査によってそれが実現可能だったからだ。だが、それはアメリカのリベラルの怠慢であり、現に中絶問題を見れば分かるようにそのやり方は今や通用しなくなっている2

自分はロールズを見て、現代的リベラルはリベラリズムではないと思っていたが、実は現代的リベラルはドゥオーキン的な意味ではリベラリズムであると言えなくもない。しかし、リベラリズムを政治的に実現するのを前提としたロールズと違い、ドゥオーキンの権利基底リベラリズムは司法を通して実現できるとしたが、これは最高裁判事に依存した都合の良い想定でしかなかったのだ。

もちろん、日本ではアメリカにおける司法審査に当たる違憲立法審査権が行使されることなど滅多にない(これは司法消極主義と呼ばれる)。たとえ違憲判決が出ても日本では何の実効性もない(最近の同性婚判決を見よ!)。日本では権利基底リベラリズムは成立できる基盤がそもそもない。

差異の政治+権利基底リベラリズムとしての現代的リベラル

現代的リベラルとは「差異の政治+権利基底リベラリズム」の組み合わせであり、その実現はアメリカの特殊事情に依存している。しかし日本では事情が異なるので、日本で差異の政治をやることにはあまり意義がないはずだ。

この前、日本で合理的配慮を求める法律が施行されることに喜んでいたリベラルな人がいた。その喜びは結構だけど、そもそもその法律が通ったのは別に日本のリベラルの力ではない。日本の法律の多くは官僚が作ったものであり、それが良い法案であったとしてもそれは官僚の気まぐれでしかない。日本のリベラルは日本の官僚(行政)に一方的な期待をしているところがあるが、例えば日本の難民対応(人を死なしてる!)を見れば分かるように、日本の行政(官僚)に都合の良い期待をできる根拠はない。

私的領域のことで威張るしかない現代的リベラル

(特に日本では)政治的にも司法的にも行政(官僚)的にも効力を持てない現代的リベラルとは何なのだろうか?日本の現代的リベラルは公的には影響力を及ぼせないが、代わりに私的領域への影響は駆使している。つまり、日本の現代的リベラルとは他人の生活に口を出しているだけなお節介な(自称)風紀委員でしかない。せめてクラスの決まりとして同意してもらう力ぐらいある学級委員ならまだマシだが、それでさえない。公的な力を発揮できないから私的に口を出すしかないのだ。

日本の現代的リベラルが公私の区別に無頓着なのは、例えばルッキズムの理解に表れている。ルッキズムの本質は、見た目とは関係のないこと(能力)を判断するのに見た目が影響してしまう問題にある。しかし、日本ではルッキズムを見た目の判断そのものだと勘違いされていることが多い。見た目の好みは私的な問題であり、例えば就職におけるルッキズム(見た目が能力より重視される3)ような公的な問題とは異なる。

マイノリティの権利を本気で実現したいなら、それを実現可能な形に仕立て上げて人々を説得して政治的に多数派を取らなければならない。しかし、現代的リベラルはそうした努力をする気などなく、人々の私的領域を脅かすことで威張っているだけだ。もちろん私的領域は公的領域と関連していて、時には連携していて切り離すことはできない4。だが、それは例えばマイノリティは自分たちの仲間であると思わせる…といった政治的な努力をしなくて良い言い訳にはならない。

最後に注意しておくが、私がここでやりたかったのはネトウヨのようなリベラル叩きではない。日本のリベラルとされる人たちにも色んな人がいて、その中にはここで指摘したような問題の多い現代的リベラルもいるということだ。むしろ私は日本で正統派リベラリズムがもっと広がるべきだと思っている。そのためにも、害悪なリベラルぶりっ子はきちんと批判されるべきだと思う。


  1. SNS上などでアイデンティティ政治が戦われているのは、承認欲求の表れかもしれない(その点では陰謀論も似ている)。承認欲求を満たすのが目的であるが故に、政治的影響を持って社会を変えることは別に目指されてはいない(陰謀論もそれが真実か?は信者にとっては重要ではない)。被害者の主観の絶対視(私が思っていることが全て正しい!)は承認欲求の行き着いた先なのだろう。
  2. ただし、アメリカの中絶問題への違憲判決に対しては日本では誤解が多い。これが意味するのは中絶問題は州ごとに決めろ!であって、州ごとの政治的な決定という最後の砦は残されている。アメリカの連邦制がちゃんと理解されていない。
  3. ただし、職業によっては(職業の特性上)見た目が重視されるのは仕方がないことであり、それは問題ではない。重要なのは、本来は見た目と関連のないことの判断に見た目が影響してしまう件にある。ちなみに、見た目の好みの問題はそれ自体に問題がない訳ではない。しかし、それは見た目の好みの多様性の問題であり、ルッキズムとは分けるべきだ。
  4. 日本でケアや贈与や徳倫理が持て囃されるのは、それらが私的領域にありながら公的な影響があることに由来する。ケアや贈与や徳倫理の本質は、民主主義や資本主義といった近代的システムから外れた外側(私的領域)にありながら、それらがなければその近代的システムそのものが立ち行かなくなるというパラドキシカルなところにある。故に、単なる私的努力(ケアや贈与をしましょう!)でも公的機能(ケアは全て国家が担うべき!)でもどちらでも解決はしない(全て市場に任せるのも問題だらけだ)。

大規模言語モデルについての戯言

  • substack notes向けに書いた独り言をこっちに転用。ただの思いつきであり、大きな間違いはないと思うが確認はしてない

フォーダー&ルポア「意味の全体論」は、(比喩や見栄ではない)私の文字通りの愛読書だが、最近もチャーチランドの章を読み返した。チャーチランドはコネクショニストとして有名だが、対してフォーダーはコネクショニズム批判で有名だ。この本でもコネクショニズムを批判に論じているのだが、今の大規模言語モデルの時代に読んでもなかなかに面白い。

フォーダーのコネクショニズム批判として有名なのは、言語の体系性を反映できないことだが、それは他の学者による最近の論文でも大規模言語モデルの欠点として指摘されている。これは大規模言語モデル自然言語と異なる最大の欠点の一つだと思うが、まさにフォーダーはそれを三十数年前に指摘していた。つまり、三十数年も経ってフォーダー&ピシリンによるコネクショニズム批判という宿題にやっと答えが出てきたのだ(ただし、自然言語に体系性が本当に必要か?は別の問題)。

この本では、チャーチランドに対して彼のコネクショニズム的な理論が意味論的か?心理物理学的か?ごっちゃになってると批判されているが、その点では現在の大規模言語モデルは意味論的モデルそのものだ(ただし大規模言語モデルは文法と意味の区別はない)。チャーチランドによる語だけで閉じた意味論的モデルは、語ごとのベクトルの近さで語の意味が定まるが、これは大規模言語モデルの語予測モデルに近い。ということは、大規模言語モデルは外部(知覚)との関係は全く反映されないので、チャーチランドの想定するような心理物理学的なモデルではない。もちろん、言葉から画像を生成するAIはあるが、これは語が何を指してるか?という指示はできてない(文全体が画像を生んでいる)ので、意味の理論としては成立してない。

形式意味論(可能世界意味論)-概念役割意味論(推論主義)-コネクショニズム(大規模言語モデル)…と並べてみると、指示で意味を決める形式意味論から、語同士の推論的な関係で意味を決める概念役割意味論、そして推論的な合理性さえ前提としない大規模言語モデル…と指示や論理の具合の違いが分かる。

形式意味論は、指示が意味を決めているので、意味に世界の構造が反映されている(だから形而上学と結びつく)。概念役割意味論は、指示は無関連で使用された語の関係が意味に反映されているだけだ。大規模言語モデルも特徴は同じだが、最大の違いは概念役割意味論では(推論による)論理が含まれているが、大規模言語モデルでは論理は偶然にはありえても、必然的には含まれていない(学問的には頑強性がないと言われる。つまり能力[性能]が不安定である)。大規模言語モデルが体系性を持たないのはそのせいだ。

概念役割意味論は意味に含まれる本質と偶然の区別がつかないと批判されるが、同じことは大規模言語モデルにも言える。例えば、医者が男性であることは医者という言葉にとって本質的ではないが、大規模言語モデルにはそれは分からない。医者が男であるという社会の側の偏りをそのまま学んでしまう。バイアスを直そうとすると、最近はその影響が他にも及んでしまったりもしている。これは大規模言語モデルの、(言葉の中で閉じてるが故に)外部世界の構造を反映できないことや(論理的な体系性を持てない原因である)モデルの極度な非線形性などに由来すると思われる。

私は大規模言語モデルは過大評価されていると前々から思っていた。ここまで見てきたように、少なくとも大規模言語モデル自然言語を表す認知モデルとしては様々な問題があるのは確かだ。だからといって、大規模言語モデルを過小評価するのも誤りで、知識のないことでも思いつきでもっともらしいことを喋るのはある種の人間と似てなくもない。大規模言語モデルが意味を分からない…とするのは言い過ぎであり、意味の特定の側面ならなくもない(ただし、それなら他の意味の理論にも[側面が違うだけで]同じことが言える)。

以上、大規模言語モデルの時代に言語哲学はいらない〜的な旧ツイッターでの書き込みにムカついた私からの解答でした。ただし、言語哲学には形而上学心の哲学とも結びついた広大な話があるので、この程度では本当は終わらない。

はっきり言えるのは、よく知りもしないことを敵対視して自分が偉くなった気になるのは下らない(ちゃんと勉強して正当な批判できるようになれ!)…日本はそんな奴ばっかりだよなぁ〜