新版 百人一首

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 古語が苦手ということもあって和歌や俳句をまとめて今まで読んだことがなかったが一度読んでみようと、百人一首だから百個と数が少なめで現代語訳や注、歌の詳しい説明などもついているこの本から読み始める。
 「はしがき」によると、本書の現代語訳・鑑賞は『原作者の詠作意図よりは、定家がどう解釈し、どう評価していたかに重点を置こうとするのである。』(N12)そのため現代語訳が通説と異なるものもある。選者である定家がどう読み、どう評価していたかを書かれる。定家の誤解については『すべて語釈または参考でその旨を断わっておいた』(N12)。
 巻末の「解説」では百人一首の成立をめぐる様々な説と、著者の見解が書かれている。かなり細かい話。

 「五 おくやまに紅葉踏み分(わけ)なく鹿の声きくときぞあきは悲しき 猿丸大夫」『この「もみぢ」は萩の黄葉で、秋もまだ仲秋のことと見るのが有力である。しかし、それがいつしか楓の紅葉とされ、鹿の音に妻恋いのイメージが重なり秋深きころの悲しみに重点が移されて鑑賞されてゆく。定家が、この歌を高く評価していたのも、すでに紅葉ふみわけなく鹿の音に暮れ行く秋山の寂寥を感じていたに違いない。それは、いかにも新古今時代の好み――ほのかな艶と哀感の表出――にかなった歌境であった。』(N332)歌の詠まれ方が変化して別の状景が想像されるようになり、違う意味が出てきたがそれが定家の好みと合い高く評価していたということがわかって面白い。
 「一〇 これやこの行(ゆく)も帰るも分かれてはしるもしらぬも相坂の関 蝉丸」『「これやこの」、「行も帰るも」、「しるもしらぬも」と畳みかけた語法は、一作家の歌風というよりは、当時の一つの流行であった。「世中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らず有りて無ければ」「よのなかにいづらわが身の有りてなしあはれとやいはむあなうとやいはむ」(古今集・雑下)』(N529)そうした言葉遊び的な歌は響きが面白くてなんか好きだな。蝉丸、平安前期の人のようだからその頃の流行か。
 「一七 ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くゞるとは 在原業平朝臣」『現代語訳(人の世にあってはもちろんのこと)、不思議なことのあった神代にも聞いたことがない。竜田川にまっ赤な色に紅葉がちりばめ、その下を水がくぐって流れるということは。/鑑賞 定家はおそらくこう解していたであろう。(中略)ただ、この歌を作った業平にかえってよめば、賀茂真淵以下今日の通説の、下句を「こんなにまっ赤な色に水をくくり染めするなどとは」といった解釈が正しいであろう。』(「新版 百人一首」N800)これは元の意味のほうがわかりやすくて好きだな。
 「二三 月見れば千々に物こそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど 大江千里」『現代語訳 秋の月を見ていると、いろいろととめどなく物ごとが悲しく感じられることだ。秋が来るのは世間一般に来るのであって、なにも各別自分一人のための秋ではないのだが。』(N1024)「白氏文集」巻十五にあるものの翻案ということのようだけど好き。『広く愛唱された歌』(N1024)というのもわかる。
 「二六 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづくに月やどるらむ 清原深養父」『鑑賞 誇張と機知にみちた古今調の代表作(中略)当時はみとめられた歌であったが、歌人深養父が公任の『三十六人撰』にもれたことも原因して、平安時代を通じては、たいして名歌の扱いを受けなかったようである。それが、平安時代末期になると、俊成の『古今風躰抄』に選ばれ、清輔の『袋草紙』にも深養父が三十六歌仙に漏れていることに不審をもつなど価値が見直されてきた。』(N1523)そうした時代による評価の変遷的な話も面白い。
 「四〇 しのぶれど色に出にけり我恋は物や思と人の問迄 平兼盛」「四一 恋すてふ我名はまだき立にけり人しれずこそ思ひ初しか 壬生忠見」天徳歌合の「忍恋」の題で詠まれた二つの歌で、優れた歌同士の勝負となったので色々な伝説がある。『共に優れた歌で、勝負が決し難く、判者実頼は天皇の御気色をうかがったところ、天皇も判をくだすことなく、ひそかに兼盛の歌を口ずさまれたので、勝ちとした』(N1675)。他にも完全な作り話ではあるそうだが、壬生忠見がこの歌合で負けた落胆で食欲を失い病になって死んだという伝説もある。
 「六八 心にもあらで此世にながらへばこひしかるべきよはの月かな 三条院」『現代語訳 この後も、自分の本心とはちがって、この世に生きながらえているならば、その時、きっと恋しく思うにちがいない、この美しい夜半の月であることよ。/鑑賞 悲しい述懐の歌である。しかも、美しい歌である。寛和二年(九八六)十一歳で東宮に立ち、長い東宮生活の後、寛弘八年(一〇一一)三十六歳でようやく即位された天皇が、内裏が二度も炎上する不祥事、緑内障かと思われる眼病、暗に退位を迫る道長の専横、在位五年にして譲位を決意された沈痛な感情からほとばしり出た歌であった。』(N2718)鑑賞を読んで歌の背景を知ると印象深くなる。
 「九二 我袖はしほひに見えぬおきの石の人こそしらねかはくまもなし 二条院讃岐」『現代語訳 あのお方のことを思って忍び音に泣き濡らす私の袖は、潮干の時にも見えない沖の石のように、人は知らないでしょうが、乾くひまとてございません。』(N3629)見えないが乾く暇なく濡れているというのを表す「しほひに見えぬおきの石」というのはちょっと変わっていて、なおかつ説明を聞くとなるほどと思えるから好き。
 「九九 人もおし人も恨めしあぢきなくよをおもふゆへに物思ふ身は 後鳥羽院後鳥羽院と定家、『時に不興をかいつつ、心から慕っていた定家にとって隠岐配流後の院の境遇はあまりにいたましく、このような述懐歌が特に選ばれたかと思われる。』(N3916)定家は後鳥羽院の事をそんなに慕っていたのか。ちょっと意外。
 巻末の長い「解説」、そこでは「百人一首」の成立をめぐる様々な説と、著者の見解が書かれた論文的なものなどが書かれている。
 かつては定家の撰ではないという説もあったが、『諸氏の研究があいつぎ、すくなくとも撰者については藤原定家と見る説が決定的となり、かつての蓮生説や、宗祇偽撰説は問題でなくなった。』(N4285)
 定家の「百人秀歌」と「百人一首」の関係。「百人秀歌」は101首で「百人一首」との異動は4首。「秀歌」では後鳥羽・順徳の歌がなく、俊頼の歌が異なっている。
 成立をめぐる諸氏の論考のその主張の要点がそれぞれ記された後、著者の仮説が書かれる。