梅田望夫『ウェブ進化論』筑摩書房 2006

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

序章 ウェブ社会−本当の大変化はこれから始める
第1章 「革命」であることの真の意味
第2章 グーグル−知の世界を再編する
第3章 ロングテールWeb2.0
第4章 ブログと総表現社会
第5章 オープンソース現象とマス・コラポレーション
第6章 ウェブ進化は世代交代によって
終章 脱エスタブリッシュメントへの旅立ち


 最近ネットで注目され、右下のASIN(今や本はISBNだけじゃなくAmazonの番号で記載されるのだ…)でも連続してランクインしているこの本は、近頃のネットでの(ソフトウェア面での)急速な、そして重大な変化についての非常に優れた現状認識の本である。内容を簡単にまとめると以下のようになる。

 つまり、ハードウェア価格の下落・Linuxやなどのオープンソースによるソフトの無料化・高速ブロードバンドによる回線コストの低下、etcといった「チープ革命」による様々なシステムやサービスの普及と、GoogleAmazon.などの検索システムによる情報の検索スピードと精度の飛躍的な向上が、いまやブログを始めとする「総表現社会」を生み出している。そこではパーソナライズが極端に進んだ自動秩序形成システム(ex Amazon.のマイページ)が立ち上がり、同時にそうしたシステムを土台としてWikipediaのような不特定多数無限大を信頼することによる「知の再編」が起こっている、というのである。

 この本の基本となっているのは、ネットの現状を肯定的に評価し、その可能性を追求するための啓蒙書であるということ。しかし、実は梅田氏も自覚していることだが、こうしたシステムの変化に対してそれを寿ぐだけでなく、その問題点について言及し、警鐘をならす必要があるのではないだろうか。

 例えば、現在は個人情報というデータが遍在化し、そのデータ自体が監視の対象になっている。さらにはそうした、パソコンのキャッシュやアマゾンの「マイページ」などのデータベースと個人との関係にも新たな変化が現れているそうだ。例えば、そうしたツール(梅田氏のいう自動秩序形成システム)を使いこなすということは、「自身が欲望するものをアルゴリズム的に提出してもらい、その結果に対して人間的な理由を見いだすことによって、それを「ハイテンションな自己啓発」の材料にするという往復運動」*1を引き起こし、「場面場面に応じて臨機応変に「自分」を使い分け、その「自分」の間の矛盾をやりすごすことのできるような人間になること、いわば「脱-社会化」が進んでいる」*2とさえ言えるかもしれない。
 
 また、ネットはタブロイド的娯楽メディアであり、そこでは感情的なフックを引き金として吹き上がる「ポピュリズム」の様相を呈しているとも言われている(例えば最近の「嫌韓流」など)。『ウェブ進化論』で描かれたような「既存のメディアでは成しえない情報共有と社会的ネットワークの形成」を「創発的秩序」と言うそうだが、それは同時にカスケード的な衆愚制に陥る危険性もあるのではないだろうか。*3

 しかし、もちろんだからといって今からネットを捨てるわけにはいかないし、それは非生産的だろう。というよりも、実感として自分もまたそうした「特典」を大きく受けているし、技術的な進化を押しとどめるのは不可能だ。また、紹介されているように、オープンリソース的なソフトウェアの開発においては確かに不特定多数による創発的秩序はより良いものを生み出していくだろう。

 そうなると問題は、それを利用する各人がそれをどれだけ意識し、自覚的に利用するかであろう。そしてそのためには、使い古された、というかもう死語だが「ネット・リテラシー」の必要性を考えるべきかもしれない。ネット・リテラシー、またその基となるメディア・リテラシーとは「メディアと適切な距離をとって付き合っていくための姿勢」であり、ネット空間における政治力学の存在、さらには自らの立ち位置を意識しながら利用していくことにつながる。問題はそれをどうやって、自覚的に認識し、培っていくかということだ。しかし、これもまた「不特定多数」による自浄的なルール化、または混沌化に委ねるしかなくなってしまうのか…。今必要なのは、結局単なる技術論ではなく、まさに哲学・歴史学社会学などの人文的知に基づいての「議論」(創発的な意思表明の集積ではなく)ではないだろうか。

*1:鈴木謙介カーニヴァル化する社会』(講談社新書)講談社 2005p96

*2:同書p130

*3:以上についてはised@glocom(http://www.glocom.jp/ised/)の鈴木謙介「情報社会の倫理と民主主義の精神」に詳しい。一方で不特定多数の関しては北田暁大の言う2chの存在での「ネタ的」コミュニケーションや「祭り/カーニヴァル」的な雰囲気が指摘できるが、今回は省略。詳しくは以下参照。北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』(NHKブックス日本放送出版協会 2005

『いま歴史とは何か』

某研究会で報告した際のメモ書きを蔵出しアップいたします。序章についての読書感想です。


いま歴史とは何か (MINERVA歴史・文化ライブラリー)

いま歴史とは何か (MINERVA歴史・文化ライブラリー)

[Cannadine,d.(ed.),What is History Now ?,Palgrave Macmillan,2002]

E.H.カーを読んだのははるか昔の学部生の頃のお話。しかも、斜め読み。「過去との対話」とか、思い出すフレーズはあるのだが、カーが提起した「歴史」のインパクトの大きさとその意義、そしてカー自身の歴史的スタンスについて知ったのはこの本を通じてのことだった。

 ホイッグ的感性との明朗なる決別、これこそがカーの意義であり、そこから派生した社会史への大きなシフト、隣接諸科学との協働による、「もっと科学的」な歴史学の追求が『歴史とは何か』が歌い上げた「60年代のニューヒストリー」の地平だった。序章が提示したのは60年代のそうしたスタンスに対する批判的な検証と00年代版ヒストリーの現在、そして現在のヒストリーにおけるE.H.カーの遺産についての検証といえるだろうか。60年代の社会史からはじまる「ニュー・ヒストリー」が80年代末の政治の退潮、言語論的転回、ポストモダンとの闘争を経て、現在隆盛を極めている「文化史」的アプローチに至るまでの「歴史」をめぐる天路歴程をさぐることが序章の目的となっている。
 多くにはふれないが、筆者R.J.エヴァンスのアプローチで最大の特徴となっているのは、「歴史」を支えるものたち、あるいは「歴史」解釈に変動を促す動因への冷静な眼差しのようにおもわれる。なによりカーの著作は大衆高等教育のテキストになることで、ばつぐんの影響力を誇示した。そして現在、アカデミズムの中で歴史学は危機にさらされ、また学校教育の中でもその意義は疑問視され、退潮に瀕している。しかし、一方でTVメディアのなかで「歴史」は「新しい庭いじり」と揶揄されるまでに一大ブームを巻き起こすジャンルになった。アカデミズムとメディアによる大衆化、この両点の間を「歴史」は漂っている。しかし、両者は「歴史」の所有をめぐって争っているわけではない。精選されたアカデミズムの中からメディアで取り上げるにふさわしい歴史がマス・メディアを通じて報じられる。「精選されたアカデミズム」を支える莫大なコンテンツ/コンテクストはどこへ向かうのか、メディアに選別される「歴史叙述」はどこに向かうのか。それらは今後イギリス社会の中で問われてゆくのだろう。

とりあえずのルール3

 下記の僕の記事ですが、そこで使ったはてなのルールを載せときます。

・最初の本の表紙は編集ページの右上「はまぞう」というとこを押して、目的の作品を探して、「リンクを作成」を押して下さい。
・注は注の文章を本文に挿入して半角二重丸括弧(())で囲んで下さい。

三崎亜記『となり町戦争』集英社2005 

となり町戦争

となり町戦争

 リアルな「戦争」、もうその言葉自体がどこかフェイクじみた響きを醸し出しますが、この小説はまさにいまここにいる私たちにとっての戦争について考えさせられる作品です

 ある日、主人公の「僕」は町内広報にて「となり町との戦争がはじまる」ことを知り、さらに「僕」は町役場から戦時特別偵察業務従事者、つまりは敵地偵察を任じられる。音も光も気配も感じられず、ただ広報紙上の町政概況の「死亡者(その内戦死者)」の数だけが増えていく。戦時下の実感を持てないまま、「僕」は敵地にて「となり町戦争推進室」の香西さんと奇妙な同棲生活を続けていく…。

 この小説の中にはいくつかの場面を除いて戦争を表す要素は出てきませんし、その数少ない場面でさえ、結局主人公の面前に明確な形での戦争の災禍は現れません。それどころか戦争は町の行政として進んでいきます。しかし、逆にその言いようのなく巻き込まれていく様子が淡々としたした文章とひたすら受動的な主人公の下描かれている作品です。

 「僕」にとっては「この複雑化した社会の中で、戦争は、絶対悪としてでもなく、美化された形でもない、まったく違う形を持ち出したのではないか。実際の戦争は、予想しえないさまざまな形で僕たちを巻き込み、取り込んでいくのではないか。その時僕達は、はたして戦争にNOと言えるのあろうか。自信がない」。
 
 まさに現在の日本のメディアを通じてしか戦争に触れる事のない、しかし厳然と「戦時下」にある状況を示しているんですが、興味深かったのがこの作品に対するAmazonのカスタマーレヴュー。そのほとんどが、この小説を「戦争の実態が描かれてなくて面白くない」とレヴューしています。例えば以下のように。「ところが半分読んでも、隣町との何の戦争なのか理解できなかった」。そう、確かに分からないのです。「僕」は戦争が始まっても平然ととなり町を通って職場に通い、となり町にて普段と変わらぬ生活を送ります。広報と戦争推進室を通してしか戦争が展開していくことを実感できずに知るだけです。そこには戦争の倫理も意味もない。あるのはただ制度(=政治)として展開する「戦争」だけです。問題はまさにその「実態の描かれない戦争」こそが今、私たちの目の前に、いやその身を覆おうとしているのではないか、というリアリティではないでしょうか。

 しかし、するとレヴューした人々は何に違和感を抱いたのか、と考えていると、ふと思ったことが。少し唐突ですが、最近昭和40年代生まれの、いわゆるオタク第二世代による戦争を描いた映像作品が目立ってきているという指摘を思い出しました*1。その代表が「亡国のイージス」「ローレライ」で有名な福井晴敏です。この世代は彼を代表として、第二次世界大戦を幼少期に経験した世代の作品(代表作は『機動戦士ガンダム』)を見て戦争を学んだ世代で、この世代にとって戦争とはアニメとテレビでの米ソ冷戦のニュースであったのです。

 同様に、この世代より少し下の世代が描くセカイ系とよばれる作品群においても戦争は重要な要素となります。その中でも、例えば秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』や高橋しん最終兵器彼女』はその背後に冷戦を思わせる設定が特徴的です。そう、今注目の作家達の背景には昭和40〜50年代に強固に植えつけられた冷戦による国家総力戦のイメージを前提としていて、しかも、されはこうしたサブカルだけでなく、いまだ多くの日本人が抱いている「戦争」のイメージと重なるのではないでしょうか。

 そうした視点からはこの『となり町戦争』は確かにつまらないものでしょう。しかし、著者の三崎亜記は同じセカイ系的な設定でありながら(「僕」は戦争のリアリティを結局香西さんからしか感じ取れない)、新たな戦争が始まっていることを示しています。面白いのは、実はこうした新たな戦争(ここでは、テロ対策を代表とする高度なセキュリティ戦とメディアを通しての非身体的な戦争のこと)をすでに日本のアニメというサブカルの一端が1990年代半ばに映像化しているということです。すなわち対テロ舞台の活躍を描く『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』と「虚構の中の戦争」を描いた『劇場版パトレイバー2』という2本の押井作品。なぜ、こうした事が起きたのか。それは押井監督という特質なのか、それともアニメというメディアが持つ虚構との親和性故なのかはまだ分かりませんが。とはいえ、いわば、『となり町戦争』はこうしたテーマを高質な散文性で描き通したところにその重要さがあるように思えます。

 ただ、読後にはある違和感が残りました。以下はネタバレになるので注にしときました。ぜひ作品を読んでから確認して下さい。*2

*1:加野瀬未友「身体的戦争とバーチャルな戦争の狭間で――昭和40年代生まれが描く「戦争」――」『Natural Color Majestic-12』(同人誌)2005

*2:しかし、こうしたリアリティを担保する存在として、最終的に「僕」は「失うことの痛み」に耐え続けます。あらゆる情報が押し寄せては流れ去る中、人との繋がりの中で決して他人と共有することのない「痛み」、しかもそれは自身についてのみでなく、共有することのできない他者の痛みを含めて。問題はこの後、僕が自分の存在を再び確認するのが、戦争を「「なかったこと」なのだ。それは現実逃避とも、責任転嫁とも違う。僕を中心とした僕の世界の中においては、戦争は始まってもいなければ、終わってもいないのだ」としてしまったこと。このセカイ系を一歩進めてヘイサ系とも呼べる個人の閉塞的な世界認識を前提とした終り方にはさすがに釈然としないものを感じます。そこがセカイ系、いや、新たな戦争を描くことの限界なのでしょうか。

『教養としての』

練習として昨年の現思研報告「歴史としてのジャパニメーション」(2005年5月?)の際に記述したメモ、読書感想をアップしてみます。

第二部・アニメ論――ササキバラ・ゴウ


宮崎駿高畑勲:『ホルス』が開いた新しい時代の扉(東映動画
出崎統ジュブナイルの物語構造(虫プロ
富野由悠季:アニメの思春期(サンライズ
ガイナックス:プロとアマチュアの境界(ガイナックス


補講 石ノ森章太郎(&永井豪):メディアミックスの先駆者


〈読後感想〉
①人間の心理的発達段階(成長)と重ねるかたちで個々の作り手(主に監督)と作品を紹介し、個々の紹介の中で、作品自体のもつ新進・新機軸性、そして作品(アニメ)以外に与えた相互作用、いわゆるメディアミックスの変化まで紹介している。「アニメの外なる物」*1は商業化が高度化するにつれて、次第にアニメ自体に近接してゆき、最終段階(!?)つまりはオタク(ポストモダン)の段階になると受け手は「アニメの外なる物」を消費して作り手を支えるのではなく、「アニメ」作品そのものをまさに消費し、さらに「越えてしまった者たち」は自らアニメを造りだした。

※論述の基調は作り手を代表する監督と作品紹介、そしてそれらが生み出すムーヴメント(消費のされ方、メディア・ミックスのかたち)


②具体的に触れられた対象としては上記の目次どおり、いわば後代の表現に影響を残した者たちをクローズアップした論述。
これらは時系列的に並べられており、それはアニメを支えた有名プロダクションの時代変遷であり、また「技法」あるいは伝え方の変遷、そして受け手(消費者)たちの世代・心性の変遷史として見て取れよう。


③抜けている点は何だろうか?無論、なによりも紙幅の制限があるのだけれど…
タツノコぴえろシンエイ動画東北新社などのその他のプロダクション、およびその作品
・少女アニメとは何だったか?:なぜ上戸彩なのか?
・アニメ誌とは何だったか?
・ヤマト・ムーヴメント(=SFへの誘い):無論、今日に至る重大な「背景」として描かれるが、そのものは触れていない。ここはきっちり補うべき。
・オタク出現以後のアニメ状況(この本は2001年に出版されており、時代上仕方のないことなのだが・・・)


ポスト・エヴァの現象について取り留めなく列挙してみると…
(1)『ほしのこえ』現象(プロダクションは必要か?クリエーターが問われる世界/クリエータを支えるツール=IT機器の発達)
(2)ゲーム世界とのミックス:アルファシステムと「絢爛舞踏祭
(3)インターネットとグローバリゼーション(実は手塚の時代から始まってはいるのだが…ネット・アニメ事情)
(4)作り手としての女性?:女性アニメ・クリエーターは存在するのか?
(5)プロダクション再編(ボンズProduction I.G.)


ほしのこえ [DVD] 絢爛舞踏祭 ザ・マーズ・デイブレイク 1 [DVD] 絢爛舞踏祭 劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者 (通常版) [DVD] 攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG Individual Eleven [DVD]

*1:いわゆる「企画関連商品」の意味で感想を書いていた当時の私が名づけているらしいです。似ても似つかぬ「玩具」は次第に精巧な「プラモ」へと変化し、さらにはVHS/DVDという作品そのものの消費へと移る様子を表したいらしいということで。ササキバラ・ゴウ氏の言葉ではありませんのであしからず。

とりあえずのルール2

えー、実はまだ新たな紹介の準備は無いんですが、日付を空けてもしょうがないので、ルールの追加です。

・記事は記事ごとでなく、日付ごとなので新しい記事を書く際は前の記事の後に書く。
 (単に編集上楽だからです)

それと、サイドバーに注目のキーワード/リンク/ISBNを追加しました。
これははてなでリンクされることが多い要素を並べたものです。
この中から新たな発見があればいいんですが。

とりあえずのルール

 さて、今後ブログを作っていく上での最低限の表記を提案します。もちろん書き方は各人それぞれで、それを生かしていきたいんですが、あんまりバラバラでもなんですので表記だけでもまとめようかなと。もちろんこれは仮のルールですので、皆さんの意見を聞きつつ、随時変えていこうかと考えてます。

・日付の横のタイトル欄には何も書かない。
・内容を書く際には以下の書式でタイトルをつける。
 *[カテゴリー1(発言者)][カテゴリー2(ジャンル)]タイトル
・発言者は誰か、ジャンルはとりあえず以下の中で当てはまるものを。
 マンガ/アニメ/映画/音楽/小説/一般書/研究書/サイト/ブログ/その他