11-03-22 Tue
■ 震災対応に関するマスメディアへの提言

ポイントをあえて1つだけに絞って提言します。
マスメディア各社が連携して、被災地全域にわたる情報を集約し、共有するしくみを作ってください。
今回の震災は、阪神淡路や中越に比べても桁違いの規模・範囲におよびます。
大手のメディア企業であれ、1社で、被災地全域をカバーし情報収集・集約できる限界を超えています。
1社単位ではなく、マスメディア業界全体で連携し、支援の必要な、どの被災地も取りこぼされることなく網羅する。
たとえば、各社が取材地域や役割をある程度分担する。
情報はひとつに集約して、行政やボランティアとも共有する。
そのような連携が必要ではないでしょうか。
原発や計画停電等々への対応のため、政府の情報収集力・集約力は過去の震災よりも削がれています。
県や市町村でも自治体じたいが深甚なダメージを受け、加えて二次災害・複合災害への対応のため、十分に情報を集め、出すことができません。
今、マスメディアには、政府や自治体に代わる分までも、被災地の情報を収集し、集約し、発信することが求められています。
そしてまた、そんなことができるのは、マスメディアしかありません。
しかし、連携して業界全体として被災地を網羅するという考え方は、未だマスメディアから出てきていないように思います。
18日時点ですが、ある通信社の記者の方からも、ツイッターで次のような反応がありました。
「今現場には民放を除く新聞各社、NHKは100人以上の記者が取材に当たっています。各社ごとには網羅的な取材をしていますが、全社が統合的に取材することは原則ありません。有事ですから協力することも大事ですね。「結託して云々」との批判があるかもですが、提言してみます」
現場は多忙と混乱を極めているでしょうし、そんな中、余計な負担をかけるだけでも心苦しいものがあります。
ただ、こうした連携は基本的に、現場でどうこうできる・すべき話ではなく、各マスメディア本社・中枢部レベルで取り組むべきマターであろうと思います。
このレベルにおいて、未だ動きがあるように思えません。
今となっては、取材地域の分担・調整などは難しいかもしれません。
各社ごとの、取材・報道の多様性が重要であるという考え方もわかります。
しかしながら、そうだとしても、たとえば各社が取材の中でつかんだ情報のうち、安否や物資の必要性等に関わる情報だけでも(要は支援に関係する必要最低限の情報と言うことです)一元的に集約し、自治体やボランティアを含めて共有できるようなシステムが組めないでしょうか。
個人単位の安否情報ではなく、町村単位(できればより細かく公民館のカバーするくらいの範囲)で、現在どのような状況で、何がどれくらい必要とされているか(特に医療資源)を、関係機関・団体すべてが一覧できるようなしくみです。
その情報をGoogle Map等にマッピングさせれば、被災状況に比して、どの地域の情報が薄いか、取り残されてしまっているか、すぐわかるでしょう。
それだけでも十分に意味があるはずです。
震災発生時から10日経って、もう急いで多くの被災者の命を救う・救える時期ではなくなったのかもしれません。
メディア報道にもそういう空気が漂い始めています。
しかし、これからの10日は、これまで食料や医薬品の枯渇を何とか耐えてきた慢性病患者、けが人、お年寄りなどの弱者が、二次災害として命を落としていく時期です。
これからは、「減災」のための勘所の1週間、10日になります。
阪神淡路クラスの規模であれば、震災発生10日後の時期には、行政によっても、個別バラバラに動いていたメディアによっても、各被災地にそれなりに目が行き届いてきていたかもしれません。
しかし、今回の震災はそれを数倍上回る規模と深甚さです。
それにも関わらず、どこかこれまでの「大震災」と同じような感覚で捉えてしまっている、状況を甘く見てしまっているような気がしてなりません。
(このような言い方が、阪神淡路、中越などの被災者の方々に失礼極まりないこともわかっているつもりです。申し訳ありません。非難・批判は甘んじて受けます。)
ネット上でも被災各地域の情報は逐次あがってきてはいます。
しかし、それらがどこまで確度の高いものか、「裏を取る」ことはマスメディアしかできません。
昨日は、各局、各紙とも、高校生とお祖母さんの9日ぶりの救出がトップ扱いでした。
貴重なニュースだと思います。
ですが、入院先まで踏み込んで取材すること、高校の先生へのインタビューに報道時間を費やすことに意味があるとは思えません。
これからはさらに震災報道のドラマ化が進んでいきそうな気がします。
それが一概に悪いと言うのではありません。
ただ、現場の記者の方々は、必ずしも絵になる映像、感動ドラマになる話を追い求めているのではなく、実質的な支援に役立つ地味な情報も――いや、そういう情報こそを――つかんでいらっしゃるはずです。
記事にならなくてもニュース映像にならなくても、その情報は直接被災者を救うかもしれない情報です。
現場で大変な思いをしていらっしゃる記者の方々の頑張り、努力に最大限応えるためにも、マスメディア各社が連携して、情報を集約し、共有するしくみを考えていただきたいのです。
事が落ち着いた後で問題提起するよりも、まだ現在進行形の今、提起・提言しておくことが、今後につなげるためにも重要だろうと考えます。
何卒どうかよろしくお願い申し上げます。
大阪大学大学院人間科学研究科准教授 辻 大介
11-03-18 Fri
■ 【転載】災害情報、広報の視点からみた「今、被災地のためになすべきこと」

(21日追記)
関谷直也さんがご自身のホームページに情報・提言をアップされています。
支援のためにすべきこと・できることは時間の経過とともに変わっていきます。
以下はあくまで18日時点のものであることを念頭にお読みください。
ここは大阪大学大学院人間科学研究科准教授、辻大介のブログです。
(信頼性確保のために所属を記載しましたが、大学の活動ではなく、個人で運営しています。)
災害情報の専門家、東洋大学の関谷直也准教授からのメッセージを、ご本人の許可を得て取り急ぎ転載します。
チェーンメール化して内容が変わるのを防ぐため、内容そのものの転載はお控えください(リンクはご自由に)。
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災害情報、広報の視点からみた「今、被災地のためになすべきこと」
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2011年3月18日(Ver1)
東洋大学社会学部
メディア・コミュニケーション学科准教授
/日本広報学会理事
関谷直也
今回の規模の災害では、[1]壊滅的な被災エリア、[2]その奥、山側にある、避難している人たちがいる支援のあるばらばらの被災エリア、[3]情報として孤立し、支援のない被災エリア、[4]その周りのライフライン、物流が滞っているエリアと多層的です。メディアで報道されているのは、[1]、[2]が中心です。
復旧段階の現在、[3]をいち早く全貌を確認すべきです。また[4]も重要です。今物資がとどいていない人に物資を届けることが重要です。寒さ対策の燃料、水・食料・薬・医療資源が最優先です。他のは後です。医療資源をとどけなければなりません。これを必要とする弱者、高齢者、けが人は今生命の危機にあります。
(1)マスメディアの問題
- 今問題なのは、被災エリアの全貌が見えてないのに、収束に向かっていることです。自治体そのものが被災し、情報をだせず、規模が大きすぎたり、複合的な災害のため政府や自治体の情報集約能力が欠如しています。
- 被災地の中に入って情報収集を行えるのはマスメディアだけです。支援団体や企業は、メディアをみて、これからの支援体制を考えています。社会の眼となって、今、被害情報を集約することはマスメディアにしかできないことです。
- 過去と比べて規模が違いすぎます。ぜひ、業界統合的に行ってください。
- 端的に言えば、まだ災害報道をしてください。「画」的に飽きられたのと、新しい情報が入ってこない
- 個人の安否情報よりも集団の安否情報が重要です。それは支援の情報になります。
- 今は、寒さ対策の燃料、水・食料・薬・医療資源を以下に届けられるかが重要です。個人の安否情報や情緒的な情報が必要な段階ではありません。
(2)企業広報
- 企業の広報は支店、事業所、チェーン、フランチャイズ、拠点の「被害情報」「集団安否情報」をぜひ開示してください。このような大規模災害では、個人の安否情報では、全体像を把握するのが困難です。それが広報としてできる最大限の減災となります。
- この、被害情報に加え、物流、支援情報の共有化を。それを共有できれば、災害情報は、物資不足・支援不足によるこれ以上の犠牲者を減らせます。現在からできる最大の減災になります。
- 企業は組織として、被災地支援を行うべきです。現段階では、個人は金銭的支援が重要ですが、企業は金銭的支援よりも組織的に企業ドメイン、本業にかかわる物資・サービスによる資源を提供してください。
- できれば、同じ業種で共同して支援活動を行ってください。そうしないと、長期的に支援のばらつきがでます。支援情報を業種で共同して共有化してください。
- 全貌が把握できていないので、現段階の支援が十分とは思えません。ほぼ間違いなく、現状ではたりません。
(3)ボランティア
- 今はガソリンが足りていません。今、現地に人を出し、燃料を奪う、道路の混雑に加担してしまうことは、水・食料・薬など命にかかわる支援物資を届けるのを阻害します。一台一台積み重なると相当な分量です。あせる気持ちは日本中一緒です。今は個々にはできるだけ行かないことが最大の支援です。水・食料・薬・医療資源など命にかかわる支援物資を届けるのを阻害します。できるだけ行かないことが重要です。
- 今は「命の安全」「生命」にかかかわる支援を優先させてください。「生活上の困難」「安心」にかかわる支援よりも、生命の危機を救うことが最優先です。
- 個々人としては、金銭的支援が一番です。かならず、最終的になんらかの形で、被災者に分配されます。今は個々にはできるだけ行かないこと、見守り、必要な時期を待つことが最大の支援です。
今回の災害は、先進国がうける世界最大の自然災害です。
過去の災害対策の延長線上で考えずにもっとドラスティックにできることを。
以上
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
■ 「(1)マスメディアの問題」補足

これは関谷さんではなく、辻からの補足です。
ポイントは、今回の震災の規模、深甚さが、マスコミの1社単位でカバーできる範囲を超えているということです。
個々の記者や報道人の方々、マスコミそれぞれの社の単位での活動が不十分とか不適当ということではありません。
現場の方々が大変な思いをしながら、誠実に懸命に頑張っておられるのは、よくわかっているつもりです。
「非常時だからマスコミは一体となり協力せよ」という、第二次大戦時の総力戦体制のような物言いの危険性も理解しているつもりです。
しかし逆に、だからこそ、マスコミの内部から自主的に連携、協働する試みが必要なのではないでしょうか。
取材地域を偏りなく分担し、取材から得られた情報で、支援に必要・重要となるものは全社で(フリーランスの方々も含め)共有する。
すべての取材活動、報道活動を、そうする必要はありませんし、各社独自の取材・報道ももちろん重要でしょう。
しかしながら、各社がそれぞれで網羅的に取材・報道するにはどうしても限界がありますし、結果的に、伝えられるべき必要な情報がどのメディアからも伝えられないということになりかねません。
これを読まれたマスコミ関係の方がいらっしゃいましたら、どうか中枢部・上層部に提言してみていただけないでしょうか。
09-07-25 Sat
■[memo][media] 衰退局面に入ったマスメディア

今や改めて言うに及ばないことかもしれない。
私としては『2011年 新聞・テレビ消滅』とまで言うつもりはないが、テレビはともかく新聞はこのままではあと10年もたない気がする。
- 作者: 佐々木俊尚
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- 発売日: 2009/07
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ネット登場以前から新聞離れ(活字離れ)は叫ばれてはいた。
NHK放送文化研究所の生活時間調査によれば、1985年時点の新聞講読の行為者率(平日の場合)は20歳代の男性で51%だった。
つまり、2人に1人は新聞を読んでいた*1のが、95年には3人に1人(32%)まで下がっている*2。
これが2005年になると、5人に1人(21%)まで下がる。
30歳代、40歳代も同様である。
ただ、85年から95年の変化(低下)と、95年から05年の変化には、構造的に大きく違う点がある。
1985年に20歳代だった男性、つまり1956〜65年生まれの男性は、95年には30歳代であり、彼らの新聞の行為者率は85年51%→95年55%に上がっている。
同様に、1946〜55年生まれの男性は65%→67%に上がっている(とまで言えなくても、少なくとも下がっていない)。
同じ世代の中でみれば、この85年から95年の十年間には、新聞を読む習慣自体は失われていなかった。
これが95年から05年になると、1966〜75年生まれの男性では(95年20歳代)32%→(05年30歳代)29%に漸減。
1956〜65年生まれでは55%→41%に、1946〜55年生まれでも67%→56%へと、大幅に減少している。
同じ世代の中でも、新聞を読む習慣が失われ始めたのだ。
以上のことは、女性の場合にもあてはまる。
この低下傾向を単純に延長させていくと、2015年には10代〜40代の新聞講読率(行為者率)は数%から15%程度の範囲にまで落ちると予想されることになる。
これまでの紙媒体中心のビジネスモデルでは、全国紙は経営上危機的な状況に追い込まれるパーセンテージだろう。
ではネットにシフトしていくことは可能かと言えば、そこで採算が成り立つだけのビジネスモデルはまだ見つかっていないのが現状だ。
テレビは新聞ほどにはきつくなかろうが、それでも規模の縮小は必至だろう。
もっとも個人的には、これまでのテレビが巨大すぎただけだと思うので、適正規模になっていくためのいい機会だとも思うが。
ただ、マスメディアがこれまでのような巨大な「権力」の座から落ちていった先の状況が気になる。
視聴者、読者(受け手)の側に、その用意がはたしてできているだろうか。
2ちゃんねらにせよ、メディア(リテラシー)研究者にせよ、これまでであれば、マスメディアを権力として「批判」していれば、それで事足りた。
それは裏返せば、権力への「依存」に他ならないわけだが、それでもそれが大きな権力であったがゆえに、それなりの意味・機能はあった(ことにしておこう)。
親の力が圧倒的であるとき、子どもが親にむやみに反抗・反発するのも、それはそれで意味があろう。
しかし、親が老い衰えてなお、子どものときと同じような反抗しかしない、できないのは、滑稽でしかない。
マスメディアは老い衰えつつある。
もちろん、このまま消滅してもかまわないという考え方もあろう。
ただ、それで本当にいいのかという議論は――これまでのポジションに固執する親の小言・愚痴と、親が老いたことを正視できずにいる子どもの甘え・悪口ばかりで――ほとんどなされていない。
09-07-24 Fri
■[memo][media] 後で書くと書いておきながら

なかなか書く時間を取れずにおりましたが、「とくダネ!」放送後に担当の方からメールをいただき、それに返信したメールを上げておきます。
さらし続けてきたメールもこれで最後。
またもレスポンスが遅くなってしまい、恐縮です。
このところ週末に休めずにいたので、今度の連休は何もせずひたすら休んでおりまして。
今回の放送について、私としては現状では望みうるほぼベストの出来ではないかと考えておりますし、××さんにも感謝しております。
丁寧に取材され、制作者側の主張(というかスタンス)もきっちり盛り込まれていたと思います。
もちろんブログにも書きましたように、スタジオでのコメントや反応には個人的に残念なところもありますが、それこそが私の言う“構造的な”問題からくる限界であるわけですし、それに対する問題提起としては十分な力をもっていたのではないかと。
スタジオのキャスターや出演者の“仕事”上の役割というものも理解しているつもりです。
大雑把な言い方をすれば、それはある種、視聴者(の反応)の「代理」をするということでしょう。
むしろ視聴率の「代理」と言った方が適切かもしれません。
そうした視聴率という――制作者(送り手)側と視聴者(受け手)側の、何というか「対話」の――回路はむろん重要なものではありますが、それ以外の「対話」の回路があまり力を持っていない。
番組「批判」にしても、得てして「攻撃」「非難」ばかりになってしまい、「対話」というより「独話」の応酬に陥ってしまう。
そういう“構造”はやはり制作者側にとっても視聴者側にとっても不幸なことではないかと思います。
マスコミに対する「批判」的なメディアリテラシー(教育)の重要性を言うなら、それは受け手側(あるいは送り手側)で完結するものではなく、「対話」やコミュニケーションの回路を開くものであるべきでしょうし。
なので、私としては、今回の放送に限らず、単純に「いいよね」「悪いよね」ではないような「批判」を続けていくことが、自分の“仕事”であるだろうと考えています。
ネット上では(予想もされたとおり)ほぼ独り相撲に終わりましたが、次につながる小さな芽はいくつか作ることができたような気もします。
今回はプロ意識をもった仕事に直に接することができ、うれしく思っています。
またいつか一緒にお仕事ができる機会があれば。
(もうこりごりと思われているかもしれませんが;笑)
遅くなってしまいましたが、御礼申し上げます。
今後とも一層のご活躍を心より祈念しております。
09-07-21 Tue
■[info][media] ヤフーニュース、MSN産経で記事掲載

http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20090715#p1
↑でアナウンスした記事ですが、ネット版がヤフーとMSNにアップされました。
紙媒体の方にも近日掲載されるそうです。
■[info][media] 「ガバナンス論演習2009」ブログで

取り上げていただいています。
http://gov.oops.jp/index.php?ID=156
こういう形で活用していってもらえると、本望(?)というか、ありがたい限りです。
09-07-17 Fri
■[memo][media] フジ「とくダネ!」での放送終了

遅めの昼休み中です。
HDDレコーダに録っておいたのをチェックして感じたところを取り急ぎ。
スタッフが制作した映像部分は評価したい。
少なくとも、若者を(あるいは友達がいないように見られることへの不安を)否定的にばかり位置づけようとするものではない。
スタジオの出演者はどうか。
スタッフの意図や問題意識をはたして共有できているのか。
結局はこういうことしか言えないのかと、思わざるをえなかった発言。
メインキャスター小倉智昭「日本は滅びるんじゃない」
メインキャスター小倉智昭「よし今日は実践しよ、今日の昼間はトイレでカレーを食うぞ」
その他スタジオ出演者「あはははは」
これは「揶揄」ではないのか。
前エントリにも書いたように、私が取材を受けるにあたって出した条件の一つに次のことがあったのだが。
まず一つは、メールに書かれていた企画意図、つまり、今回の愉快犯的な張り紙といっしょになって「便所飯」を揶揄し、おもしろがることが決して目的ではないことを、番組中で明言していただきたい。
一言でかまいません。
「番組中で明言」されたと思える箇所もさしあたり見あたらなかった。
急いで付け加えておくが、裏切られたとは思っていない。
私の対応にあたってくれた方は、その職務の範囲内でできる限りのことをされたと思う。
その跡は随所にみえる。
にも関わらず、こうなる。
くどいようだが、そこに今のテレビ(マスコミ)の“構造的な”問題がある。
それを明確に例示する素材が得られたと思う。
仕事に戻るので、後でまた改めて書く。
09-07-16 Thu
■[info][media] フジテレビで放送

↓のエントリで紹介したメール先が、つまりフジテレビということです。
http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20090709#p1
先ほど電話でのコメント収録を終えました。
(自分のしゃべり下手を再認識しましたが...orz)
明日の「とくダネ!」で放送されるそうです。
よりによって、と思われる向きもあるかもしれませんが、経緯、詳細、何をどう考え直したのかは、後ほど改めてアップしていきます。
取り急ぎ告知だけ先にしておきます。
(19時半追記)
9時10分頃から放送予定だとのことです。
生番組なので多少の時間のずれはあるでしょうし、大きな事件などが起こった際には延期される可能性もあります。
取材協力費も出るとのことなので、oxfamとかユニセフとかどこかに寄付したいと思います(ふさわしい寄付先があれば教えてください)。
(20時半追記)
今回、私が先方に出した条件です。
この三つめ以外は満たしていただけるという返信をもらい、それを前提に取材に応じました。
メール拝読いたしました。
真摯なご返答をいただきましたことに、まず感謝いたします。
未だ悩み、逡巡するところはありますが、取材に協力させていただきたいと思います。
ご返信いただいたメールに心動かされ、考え直し、腹を決めました。
ただし、おこがましいのは承知のうえで、いくつか条件を出させてください。
まず一つは、メールに書かれていた企画意図、つまり、今回の愉快犯的な張り紙といっしょになって「便所飯」を揶揄し、おもしろがることが決して目的ではないことを、番組中で明言していただきたい。
一言でかまいません。
二つめに、このメールを私のブログで公開したうえで、番組の予告というか、視聴の呼びかけをさせてください。
もちろん、個人名は伏せますし、私宛にお送りいただいたメールを公開するようなことはしません。
恐縮ながら、先にお送りしたメールはすでに私のブログに載せています(もちろん個人名や局が特定されるような部分は伏せてあります)。
私の取材協力意図および番組の企画意図をはっきりさせ、その意図がどこまで実現し得ているかを第三者(視聴者)の目からみて判断してもらいたい、ということです。
三つめは、藪本雅子さんに何らかの形で番組に出演していただきたい。
http://ameblo.jp/yabumoto/entry-10295666497.html
かつてもこうした若者はいたことを伝えたい。
私とは見方・捉え方は違いますが、いいことを書いてらっしゃると思います。
この三つめに関しては、もちろん番組制作上の判断や事情が大きく関わってくることと思いますので、あくまでできればということで結構です。
ご検討かた、よろしくお願い申し上げます。
■[info][media] 電話取材時の発言内容

収録時に辻が発言したことを録音して、すべて文字起こししたので、掲載しておきます。
相手の質問に答える形での収録でしたが、ICレコーダを電話につなぐようなものを持っていなかったので、相手の質問部分はありません。
記憶に頼って質問の概略だけでも書こうかとも思いましたが、どうしても正確さを欠くため、問題を生じかねないので、やめました。
フィラー(「えーと」のような埋め草的な発言部分)も含めて、一言一句すべて、できるだけ正確に文字起こししてあります。
たとえばフィラーに関していえば、多いほど、視聴者にとっては聞き苦しくなります。
つまり制作者側にとっては使いにくくなります。
取材された側が、どうしてここを使ってくれないのかと思ったとしても、制作者側にとっては、発言の中身ではなく、その発言のしかた(フィラーが多すぎるなど)のために使えないということがあります。
とすれば、意図した発言が使われなかった責任は、半ば以上、取材された側にあります。
こうしたことをふまえない批判を制作者側(メディア側)に向けるとすれば、それはやはりアンフェアというものでしょう。
一読いただけばわかるように、今回の辻の発言はその点でかなり拙い。
自分でも文字起こしをしていて愕然としました。
無意味な「たとえば」を何回連発しているんだ、とか(自分ではこれまで気づきませんでした)。
文脈を補わないと、何を言いたいのか判然としない箇所が大半ですし。
この20分前に事前取材があって、私はそれを本番の収録だと勘違いして話していたため、微妙に勘が狂ってしまったという言い訳もあるにはありますが、あくまで言い訳にすぎません。
明らかに私の力不足です。
ディフェンシブな意識(下手な発言、誤解されそうな発言は避けようとする)をもって臨んでいたので、話がくだくだしくもなっています。
これを整理したり、文脈を補うには、制作者側での編集が必要になります。
その整理や補われた文脈が、私の発言意図と何かしらかけ離れたものに結果的になってしまった場合、その批判は自分自身にも向けられるべきところがあるでしょう。
ワンフレーズでわかりやすく、インパクトをもって話さなければならない、というテレビの作法。
必ずしも、それがいいものだ、のぞましいものだ、とは思いません。
が、その作法は制作者側(メディア側)だけが勝手に決めたものではなく、視聴者(受け手側)が求めたものでもある。
以前のエントリに書いた「“構造的な”問題」は、一つにはそのことを指します。
テレビ番組、メディアに対するいかなる「批判」「批評」も、その“構造”を視野に含めることなくしては、「批判」「批評」たりえないはずです。
今回でいえば、私の発言のどこがどう“構造的に”はじかれざるをえないものであるか、あるいは、それにも関わらず(=“構造”に抗して)制作者側が救い出そうとしているかどうか、等々を見据えることができなければ、そもそもメディア「批判」「批評」はそれとして成り立ち得ないのではないでしょうか。
メディアを「批判」的にみることをいうメディアリテラシー論、メディアリテラシー教育の現況に欠けているのは、この点だと私は考えます。
それゆえ、メディア教育にかかわる授業(たとえば→ http://gov.oops.jp/index.php?ID=140 のような)のための教材を提供したいというのが、今回取材を受けた意図のひとつにあります(それがすべてでもありませんが)。
また少しうだうだ書きすぎました。
というわけで、恥を忍んで自分の力不足を曝します。
(7/17付記:放送で使われた部分を青太字に変えてあります)
はい辻ですが。
はい。
はい、わかりました。
はい。
はい。
はい。
はい。
えーと、原因としてはですね、私自身は、やはり、一人で食事をしているということをまわりから見られて、友達がいないように見られるというふうに恐れてしまうというか不安がってしまう、それが一番大きいんではないか、というふうに考えています。
えー、一つ大きな時代の背景としては、あの、友人だけには必ずしも限らないんですが、身のまわりの親しい人間関係ですね、これは家族も含めてですけれども、そういったものに対する価値観があがっていると。で、そういったものがないっていうことが、逆に、自分が価値のない人間だと見えてしまうんではないか、という不安につながっているんではないか、ということです。
えーとですね、一つは大きな変化としては、まあちょっとあの、歴史的な話になってしまいますけれども、えー、いわゆる高度経済成長期までというのは、あの、やはり物の豊かさというところに価値が置かれていたと思うんですね。
で、それが1970年代の半ばには、そういった時代が終わりをむかえて、で、よく言われているように心の豊かさを目指すような形に流れとしてなった。で、じゃあ、心の豊かさを与えてくれる、その具体的なものは何かというときに大きく浮上してきたのが、身近な親しい人間関係だ、ということだと思います。
そうですね、一つのいわゆる、まあ社会構造なり、まあ経済状況の変化とリンクしたものだと思います。
そうですね。はい。
考えにくいということですか?
そうですね、あの先ほどの話と関係づけていくと、その、価値観っていうのが例えば一年で大きく変わるっていうようなことっていうのは、あまり考えにくいわけですね。え、たとえば私の場合は今四十代半ばですけれども、あの当然たとえば高度経済成長期の時代の雰囲気なんかを知っているわけです。で、たとえば今の、たとえば二十歳ぐらいのことを考えてみると、え、生まれたのがだいたい1989年という、その前後ということになるでしょうか。で、そうするともう完全に、要するに高度経済成長期っていうこと自体が、それこそ歴史的な出来事になっていて、もうまったくピンとこないと。で、ある種、その、物の豊かさっていうのが、ごく当たり前の前提としてあって育ってきたっていうことになります。で、さらにはその後バブル崩壊なんかも経[験]、あの経[験]、あ、バブル崩壊なんかも経験しているわけですし、で、その意味でいくと、かなり、その、時代状況、という、あの、時代状況の影響が出てくるっていうのは、やっぱこう、今、えーと。
ごめんなさい、ここいらへんちょっと説明がへたくそですね。
えーとですね。
大きな流れとして、その、徐々に徐々に人間関係の価値観っていうのが上がってきた、と思うんですね。で、それが、今の、その、現在の若者に関して、その価値観の変化っていうのが一番大きく現れている、ということだと思います。
ど、どんなことと言いますと?
はい。
ええ、そういうふうに考えられると思います。
はい。
うーん、同じことを繰り返すことになってしまうかもしれませんけれども、たとえばかつてであっても、やっぱりその、友達っていうのは大事だったと思うんですね。で、友達がいないっていうのは非常に辛かった、とは思います。ただ、そのときに、たとえば、かつてであれば、勉強ができることであるとか、スポーツができることであるとか、あるいはそこから将来に、自分の将来につながっていくっていうことが考えられたと思うんですね。で、それが現在では状況として、たとえば、その勉強ができることっていうのが将来につながっていくのか、たとえばかつてであれば、いい学校を出て、いい会社に入れば、いい生活が送れて、幸せな人生が保障されているっていうような、それは仮に幻想であったかもしれないけれども、そういうことを信じることができた。
しかし、そういったある種の単純な信じ込み方っていうのを、今のたとえば若い世代っていうのができるかというと、私はそれは難しいと思うんですね。で、そこで考えると、そういったある種、友達がいないことに代わるような拠り所というものが、ある種の価値の拠り所というものがなくなってしまっている状況がある。で、だとすると、そういった拠り所なくして、かつ、友達がいないっていうのは非常にかつてよりもきつくなっている、と私自身は思います。
えーっと、あのちょっと話長くなってもいいですか、このあたりは。
はい。
えーっとですね、私自身は、たとえばそういうふうに親しい人間関係に、あの、え、価値を置くこと自体が悪いことだとは思っていないんですね。むしろ私自身の、たとえば調査のデータを分析してみても、非常に人間関係に対して配慮ができて、あるいはたとえばボランティア活動に積極的であったりというふうな、いい面というのも多くみられてます。で、実際に友人関係というのも、たとえばこう、周りから友人がいないように見られるのは耐えられないっていう人ほど、友人関係が活発な傾向にはあるんですね。で、しかしそれが裏返って、そのときに、たとえば人によっては、しかしそういうふうに思っているんだけれども、あの友人関係あるいは人づきあいっていうのが苦手だっていう人も当然、あの、ある程度いるわけです。
で、そのときにそういう人たちが追い込まれていくような状況というのがある。で、それを改善することだと思うんですが、そのときに必要なのは、たとえば、今、あの、自分が認めてもらえるとか肯定してもらえる関係っていうのが、少なくともたとえば、高校生であるとか、あるいは大学生にしてもそうだと思うんですが、もっぱら友達、友人関係っていうことになっている。そういう状況に問題はないのかということですね。
だから、自分が認められる関係っていうのは必ずしも友達に限らない。さっき申し上げたように、たとえばボランティアの関係もあるかもしれないし、で、仕事上の関係っていうのもあるかもしれない。そういった、こう、親しい人間関係以外の多様な人間関係っていうのを開くような、ある種環境が、社会的な環境あるいは教育の環境っていうのが整っていないっていうことが問題なんではないでしょうか。
そうですね、それを変えていく必要があるんではないかと思います。
はい。
はい。
えーと、今の若者は要するに周りに対して繊細な気遣いをするという傾向のことだと思います。
はい。
周りの人間関係に、敏感である、繊細な気遣いをする。
そうですね。
はい。
はい。
えーと冬物の服を着ているやつしかないんですが、かまいませんか。はい。わかりました。ではそれはメールで添付して送ります。
アメリカのデータについてはコメントしなくていいんですか。わかりました。はい。
放映の予定は?明日ですね。だと思いました。
はい。それでは添付ファイルでお送りします。
失礼します。
いや、マジで情けない......○| ̄|_