長山靖生 / 戦後SF事件史


長山靖生 / 日本SF精神史 ─幕末・明治から戦後まで / 河出ブックス (227P) ・ 2009年12月(121007−1008)】



・内容
 日本SFの誕生から150年、「未来」はどのように思い描かれ、「もうひとつの世界」はいかに空想されてきたか…。近代日本が培ってきた、多様なるSF的想像力の系譜をたどる。《2010年 日本SF大賞星雲賞受賞》



まだ「SF」という概念すらなかった明治・大正時代にも、SF的発想の空想小説は書かれていた― というのだが、そもそも自分は幕末〜明治時代の世相風俗に暗いのでまったく想像力が追いつかない。知られざる古典SFの書名が列挙され、その博覧強記ぶりには頭が下がるばかりだが、では、それらの作品はどのくらい一般的に認知され読まれていたのか。現在のように書物が簡単に手に入る時代ではなかった。言論統制、思想弾圧下の社会でもあった。そのあたりがわからないためにピンとこなかった。
唯一、星新一のお父上がSF的小説を書いていたという件りには興味を持ったが……。あまりにマニアックすぎて、この本そのものがハードSF的に感じられてしまい(笑)、二日であきらめた。





長山靖生 / 戦後SF事件史 ─日本的想像力の70年 / 河出ブックス (284P) ・ 2012年 2月(121009−1012)】



・内容
 SF小説、マンガ、アニメ、特撮、異端・幻想文学、現代美術、アングラ演劇… ファンダムの発展、専門誌・同人誌の盛衰、作家と編集者の戦い、しばしばファンを巻き込んだ論争と騒乱とお祭り―そこにはSF的想像力/創造力を駆使しながら、同時代の諸ジャンルが互いに響きあうエネルギーの磁場があった! 敗戦から3.11後まで、戦後の様々な「想像力」運動の横のつながりやその周辺で起きた事件、作り手と読み手が織りなす人間ドラマをいきいきと描きながら、現代日本の可能性を問う。


          


『SF精神史』には全然ついていけなかったが、続篇となるこちらは自分にも身近な内容で、とても面白かった!
この二冊がユニークなのは、SFにカテゴライズされるジャンル小説だけを扱うのではなく、広く大衆文化の中の「SF的想像力」によって創作された作品もカバーして、日本人全体のSF精神の変遷を探っていること。特に戦後から現代までをテーマにする本書は、活字からメディアの発達に伴って様々にクロスオーバーしながら拡張していくSF界の動きをわかりやすくまとめてあり、現代文化史としても興味深い読み物になっている。

 日本SF作家クラブの設立目的は、真面目で悲壮な決意から発しており、その成立過程には福島の思惑もはたらいていた。しかし準備段階から作家たちは冗談を飛ばした。会則を検討していると、誰かが「第一条 宇宙人はダメ、第二条 馬はダメ」と言い出す。するとすぐに誰かが「星新一より背が高くてはダメ、小松左京より重くてはダメ、筒井康隆よりハンサムはダメ」と提案する始末。後年、背が高い星新一よりさらに長身の田中光二鏡明が入会したときには、星は「足を詰めろ、足を」と言ったとか。


空飛ぶ円盤ブームがあり、人類が宇宙に飛んでいく時代が到来。「鉄腕アトム」「鉄人28号」「エイトマン」が同時期にテレビ放映された50年代後半からウルトラシリーズが始まる60年代半ば。既成の文学観にとらわれない新しい才能が集い、‘日本SF第一世代’が形づくられた。
あらためて、その顔ぶれの豪華さに驚く。 安部公房筒井康隆小松左京星新一平井和正豊田有恒眉村卓半村良光瀬龍ら、若いころ自分が親しんだ作家の名が続々と登場する。SFマガジンの創刊や独自賞の創設、SF大会の定期開催など、福島正美を筆頭に、この時期にSFに賭けた若者たちのエネルギーの結集は現代にもつながっているのだ。SFという新ジャンルへの軽視、無理解に対抗しようと彼らはSF作家クラブを結成する。特に現代ではふつうに文学者として名が通っている安部公房筒井康隆も当時は積極的にそれらの運動にたずさわっていたというのが意外でもあり新鮮だった。
そうして海外シーンの模倣ではなく独自性を獲得した日本SFは、常に「SFとは何か」を自問しながら根づき、発展してきたジャンルであることを気づかされると、ちょっと誇らしい気持ちにさえなってくるのだった。


その後、映画「スター・ウォーズ」や「未知との遭遇」、アニメでは「ヤマト」や「ガンダム」、また漫画界では特に萩尾望都竹宮恵子らの少女漫画家が人気を得て、SFはエンタテイメント化して大ブームになるのだが、逆に活字メディアはじり貧になっていく。
90年代の日本SF「冬の時代」を著者は、SFだけが弱体化したのではなく出版界そのものが活力を失っていったのだが、その背景には日本人のSF的想像力の衰退がある、と説明する。
その流れは昨年の原発事故の要因の一つでもあると本書の最後で結んでいるのには、いささか飛躍を感じないでもなかった。だが、ある程度豊かになった生活レベルを維持することに汲々とするとき、想像力なんかは脇に追いやられるのかもしれない。かつては考えられなかったほどSFとして描かれる世界と実文明との距離が近くなった現代では、想像力を自由自在に駆使する機会は意外に少ない。原発事故云々は別にして、世界市場で影響力を持つ日本製品が減っている事実の背景としては当たっていると思う。

 この頃になると、「花の二十四年組」の活躍はますます目覚ましく、ファンも爆発的に増えていた。特に従来は考えられなかったほど、男子の少女マンガファンが急増していた。彼らは、なぜ自分たちが少女マンガを読むのかを説明する必要を感じており、それがマンガ評論へと結びついた面があったのではないかと、当時「彼ら」の一員だった私は今にして思う。


読んでいておかしかったのは、後半の80年代以降の「おたく」文化とサブカル系の章の熱っぽさで、初期のSFムーブメントが、コミケやコスプレなど後のおたく文化の土台となったという件はやや脱線気味かと思われるほど詳しく語られる。長山氏自身が「おたく」第一世代であったとのことで、研究の苦労をうかがわせる『精神史』の文体とは微妙にリズムが違っていて、随所に挿まれる「ちなみに…」「余談だが」と語られるエピソードがまた面白い。(おかげで「やおい」という単語の意味がやっとわかった)
これだけでも大変な労作であって敬意を表したいとは思うが、それでもまだ物足りなさもある。たとえば阿久悠が書いたピンクレディーの歌詞の中にもSF精神を垣間見ることはできるし、子どもの頃にSFジュブナイルを読み、SFアニメを見て育った世代の小説家の作品には、特に「SF」とは銘打っていなくともSFっぽさが濃厚に織りこまれている。ことさらにそう謳わないでも、SF要素はどこにも盛りこまれている現代。ここまでに至る長い長い道のり(それはSF者たちの戦いでもあった!)が書かれてあったが、まだまだ切り口はあると思うので、これでシリーズを終わりにしてほしくない。
それはともかく、「日本SF万歳!」 と叫びたくなる一冊であることはまちがいない。本年ベストの一冊。