東国三社

分野旅行の下見の際、聞き伝えであった東国三社の関係を指導教官に話しました。
その時言ったのは「平定の際、鹿島神宮の祭神(武甕槌神建御雷之男神)が香取神宮の祭神(経津主神)を剣として携えて、息栖神社の祭神(天鳥船神)に乗ってやってきました。息栖神社の利根川に臨んだ鳥居に息栖神社の祭神は上陸したって聞きましたよ」という話。

「本当だったら面白いけど、そんな逸話があったら息栖神社が見逃すはずないだろ。何と言っても権威が欲しいんだから。」とのコメントを頂きました。実に宗教社会学者的です。要石を見るときにも「聖性が所与のものでないとしたら、果たしてどのように構築されているか?」という視点からでしたし。

「取れるようなら、ちゃんと裏を取っとけ」と言われたのでちょっと調べましたが、かな〜りいい加減なことを言っていたので訂正。とりあえず、古事記日本書紀では国譲りを命じられたのが鹿島だったり香取だったりで異なりますが、息栖は船ってことで良いらしい。ここのサイトでまとめられているのが都合良いですね。ちょっと転載。

記紀神話の「国譲り」のくだり。天つ神が地上に遣わされ、大国主神に国譲りを迫る。そのとき高天原から降ったのが鹿島神宮の祭神武甕槌神(建御雷之男神=たけみかづちのかみ)、香取神宮の祭神経津主神(ふつぬしのかみ)、そして息栖神社の祭神天鳥船神(あめのとりふねのかみ)という三柱の神だった。経津主神武甕槌神が身につけた神剣が化身した神で、天鳥船神は降臨する際の乗り物が化身した神という見方もある。いずれにせよ、この三神は一体であるといえる。

三柱が一体であるという結論を導くのに、どこら辺が「いずれにせよ」なのかわかりませんが、まぁ、この三社が「東国三社」としてまとめられる理由はちゃんと記紀に求められます。一応自分でも記紀読みました。
今年の分野旅行は東国三社がメインなので、この関係性を把握しておけば問題なし。あとは三社が二等辺三角形で結ばれることと、鹿島・香取の要石が凹凸で対応しているっていうこと、鹿島神宮の本殿が蝦夷地を睨む方角に向けて建てられてるっていうことぐらいですかねぇ……。史学系からスピリチュアル系まで楽しめる旅行ですね。

で、訂正点。
考えてみれば、一言で平定って言っても、記紀における葦原中国の国譲りと、その後に行われた東国平定では全然話が違いますね。上記引用は鹿島神宮の祭神が出雲に降り立ったものであって、東国平定ではありません。それに、河川に臨む鳥居って、息栖だけじゃなくて鹿島にも香取にもありますし。東国平定の際に上陸した箇所は『常陸国風土記』辺りを詳細に読めばわかるのかも知れません。陸地移動だったらそんな記述も無いのでしょうが……。

2002年(平成14年)9月、大学の講義に出席しなければならないというのに午年に行われる鹿島神宮式年大祭御船祭へ連れて行かれたことを思い出します。約90隻の珍妙な船(御座船)が出立していく様は圧巻でした。「鹿島から香取市加藤州へ至る道中で息栖も通るかな?」と思ったら、どうやら通らないようですね。東国三社なのに、ちょっとハブられ気味。

そう言えば、7さんが「水郷なのに水神信仰が見当たりませんね」と言っていましたが、以下のような記述もありました。

もともと鹿島や香取には、土着神が海上交通の神として信仰されていたと思われる。香取の古名は「楫取」と書き、一般には舵取りの意味と考えられている。

水神って言ったら龍ってことで、上に挙げた御座船のヘッドが龍をあしらっています。とりあえず、水神信仰自体はあるみたい。

分野旅行本番に備えての情報収集は大体こんなところかと。論文とかで裏を取ってたらキリがなさそうだから、ネットで済む範囲で確認しました。