電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

フランスにはまだ東北の農民がいる

以前、宮台真司の近刊について、ドシロウト丸出しの適当な感想文を書いてたのを旧知人に見つかり、先方はちょうど用があって最近の宮台氏について調べてたそうで意見を求められるが、むしろこちらの不勉強を晒す結末に終わる。で、
宮台真司の公式サイト
http://www.miyadai.com/
に載っていた
亜細亜主義北一輝〜21世紀の亜細亜主義
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=67
についての話が出る。

「東北の農村」を失った亜細亜主義者

一般には、どっちかといえば戦後民主主義リベラリストというイメージだった宮台が、北一輝亜細亜主義? といえば「おっ何事だ?」と注目する人も多いんじゃないかとは思うが、ウェブログのコメントとか、なんか今のところ評価は芳しくないように見える。
社会主義から土着的心情の前向きな利用という思考に至った北一輝をして

「不合理からの解放を希求する志向」と「合理性を弁証されざるものを護持しようとする志向」

の両立、なんて言い方は、わたしとしてはよくわかるし、同感もできる。
前者は、例えば、昔ながらのムラの共同体の理不尽な同調圧力とか根拠のない権威主義からの自由や解放を求める志向とかで、逆に後者には、例えば、利益や効率追求の学校社会、企業社会では形骸化名目化して別のものにすり替わってしまうしまう、年長者への敬意とか、日常的な挨拶の大事さとか(参照:http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040215)が挙げられるだろう。
とはいえ、今の情況に照らし合わせると、限界も感じざるを得ない。で、わたしが
「フランスでは反マクドナルド暴動が起きると共感する庶民がいるけど、日本で同じことをやったらキチガイ扱いされる、ってのは、つまりフランスとかは、まだ良くも悪くも、国内に農民がちゃんといて、食い物は自国産でまかなう気風が強いからだろ。
しかし日本は、すっかりおしなべて産業構造が第三次産業中心、消費中心(宮台先生がかつて言ったところの「成熟社会」)になっちまってるわけだよね。
そんな現在に、亜細亜主義とか言っても、それを支えるリアリティがないだろ、つまり、現実の北一輝やそれに従った青年将校には、眼に見える東北の農村の貧困ってもんがあったんだが、今はそれがないわけで、そこで北一輝なんて言ってもなあ……」
といったようなことを言うと、件の旧知人からこう突っ込まれた。
「あ、それは、東浩紀もメルマガ(波状言論)で同じことを言って批判してたらしいよ」
そうか。俺程度で思いつくことは、東でも言うか――いや、だが、同じことは20年も前から竹中労も指摘してるし、吉田司はそればかり詳細に言ってるともいえるぞ(笑)

近代主義者が「目に見えないもの」を語る困難

どうも、援助交際女子高生みたいな生き方は放置してれば自然に基準が定着するとか、文化の自由放任主義者と思われた宮台先生も、さすがに最近、無形の文化の重要性みたいなものを説かねば成らない責任感に駆られてか、例えば「魂」とかいう言葉を使い始めているようだが、どうにも苦しそうに見える――
(ちなみに、宮台先生がよく「大麻を合法にしても荒れない」と肯定的に引き合いに出すオランダをはじめ、ヨーロッパ人に、個々人のレベルで合理性だけに落ちない倫理観があるのは、キリスト教文化圏だからじゃないのか、とか言ってたら、「それも過大評価じゃないか。向こうにも聖書も読んだこともない人も多いっていうし」と返されてしまった。それも一面然りか)
――というのは、これは半ば偏見だが、宮台の愛読者になった人の最外延部というのは、多分「宮台はシャープで理知的だからカッコいい」という理由で宮台を好む近代主義者じゃないかと思うわけだが、そんな客層相手に「魂」とかいう言葉を使い始めると、即「あ、コイツも遂にオカルトに走り始めたか」と、安直にソッポを向かれてしまうんじゃないかあな、という気がするからだ。
実際、具体性のある土壌がないところで精神論を唱えると、勢い一足飛びに観念的に誇大解釈されがちな問題はあるし、東などはそれを生理的に警戒してるのかも知れない。

見えない「東北の農村」を見つける想像力

しかしだ、それもまたセカイ一挙把握願望なんぞを持つ若い時期特有のもんで、まっとうな社会生活を歩んでいけば、非近代の非合理には現実生活で直面することになるんじゃないか、と思うんだが……その一番わかりやすい例が冠婚葬祭じゃないか?
例えば、結婚しようと思えば、よほどお互いの実家から疎遠な立場を取れる場合でもない限り、日本では結婚とは、個人と個人の結婚ではなく家と家の結婚だと痛感させられるぞ、新郎の新婦のご兄弟姉妹のご職業は収入は学歴は……なんて空疎なカタログデータスペックが、いきなり意味を持ったりする、もっとも、それで人を計ってる側も、別に悪意なんか無いのだが、実際そんなもんしか明示化できる基準はなかったりする。
私事で恐縮だが、わたしも親父の葬式の席じゃ、母親と叔母(親父の姉)の妙な確執(傍目には、ただの個々人の好悪、相性の問題に過ぎないように見えるが、当人にはそれが大問題だったりする)、またその叔母を共通的にして母親と兄嫁夫婦が仲良くなる構図とか、色々なものを意図せず見させられたが、半径50メートルが自分にとっての世界で、その構成物は地縁血縁のリアリティに即した親類縁者ばかり、という昔からの日本人は、皆そうだったとも言える、っていうか、そう思うしかない、という結論に行き着きましたよ。
見えなくなったもんを見つけるのには、契機や場も必要なんだろうが、人間というものに対する想像力が要る。自分自身を筆頭に、人は単独で生きてるわけではない、必ずそこには、それを作った土地やらそこでの利害関係やら血縁者やらその職業やら学歴やらetcetcがある――って、まあ、当たり前のことなのだが……