「異説 現象としての空気の構造」・補考1

ご無沙汰しております。どうにも体調がすぐれず、色んな本をパラパラと読んだり、ニコニコ動画を見る生活を送っておりました・・・。サルトルチョムスキー、社会思想家の入門書を読みつつ、中でも廣松渉の「世界の共同主観的存在構造」をナナメ読みしていると、自分の集団的意識・無意識が現象的に存在できる可能性を示そうとした部分の稚拙さがはっきりと見え、いやな汗をかいております。

また以前から指摘を頂いているminato様からも新しく記事を書かれており、それらをふまえこの問題について追加すべき言葉が必要ではないかと思い、新しく文章を書く必要性を感じました。

minato様の記事
空気について(プロローグ) http://ch.nicovideo.jp/minato-t/blomaga/ar541271


また同時にminato様からグレゴリー・ベイトソンを読むことのすすめを頂きました。わたしは以前からベイトソンを思想だけではなく、人間の「精神」を問う上で重要人物と考えておりましたが、寡聞にして以下の文章などからしか彼のことを知りませんでした。


松岡正剛の千夜千冊
グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学|上・下」
http://1000ya.isis.ne.jp/0446.html

モリス・バーマン 「デカルトからベイトソンへ」
http://1000ya.isis.ne.jp/1241.html

サイバネティクス学者たち―アメリカ戦後科学の出発

サイバネティクス学者たち―アメリカ戦後科学の出発

本書では全10回開催された「メイシー会議」(サイバネティクス会議)に参加したベイトソンについて興味深い記述があります。


この度改めてセイゴウ先生の文章を読むと、わたしが集団的無意識をそのまま単独にせず、集団的意識・無意識としたことは正しかったと実感しています。なぜならベイトソンがもっとも気にかけたのが「精神」とは「関係」であるということは、わたしが稚拙な言葉で書いた文章ともつながりがあるからです。

そもそも集団的意識・無意識は個人同士の「関係」がなければ発生することは不可能です。わたしが最初に示そうとしたのはあくまで集団的意識・無意識が現象の空間で存在しえる可能性を検討するという試みでしたが、この部分は「世界の共同主観的存在構造」と比べればとても読めたものではないですね・・・。

それでも非実証的論理からこの問題に関わったことはそれなりに意味があるように思います。
たとえば、とある個人が他人とまったく関わりのない生活を送っているという仮定しましょう。当然ながら他者と関わりのないその人は集団的意識・無意識とまったく関係がないでしょう。他人と関わりがないのですから当然ですね。
しかし「いま」「ここ」にいるわたしはどうでしょうか。現実の家族とも友達とも話していない(コミュニケーションがない)から自分は他人と関係ないと考える人もいらっしゃるかもしれませんが、そもそもこんな文章を読んでいる時点でgreengokeの書いたこの文章と読んでいるあなたとは「関係」ができています。
これは動画視聴も同じです。たとえ動画投稿者が自分が勝手に動画を投稿しているから、嫌なら見なければいいという主張はけして間違っていませんが、どのような経緯であろうと動画を視聴し、他者に対し何らかの感情(emotion)を創発(emergence)させた以上動画視聴者との「関係性」はできてしまっているのです。つまり本当にトラブルを体験したくなければ動画を投稿するなということになります。自由であることと、自由に振る舞った結果は同一ではないといえるでしょう。


だいぶ話がそれてしまってので戻しますと、個人から出発したはずの意識・無意識が、他者との関わりの中で、集団的意識・無意識を結果として誕生させたのではないかというのがわたしの考えです。つまり最初に集団的意識・無意識があったから個人に影響したのではなく、個人から発生したミーム(模倣子)のようなものの感染や他者に対する「共感」が作り上げた結果形成されたと考えるべきなのです。

ミームはあくまで様々な可能性を検討した結果、そのようなものが存在するのではないかと考えられている仮説の一種ですが(本稿も同じようなもの)、「共感」はミラーニューロンという現象が関わっている可能性の高い脳の働きなのです。
これはminato様の「直感」と「空気」は違う気がするという問題意識に対する、わたしなりの回答でもあります。直感は個人が遺伝的な身体構造を基礎としたものの、それまでに獲得した経験などが意識的にも無意識的にも関わりあって創発(emergence)した現象(この考えをくわしく考えるならマイケル・ポランニーの「暗黙知の次元」を参照)ですが、「空気」というものは個人だけでは成り立たなく、他者との関係性の中で無意識に作られたのにかかわらず、それを意識化(言語化)することにより、結果として現象学的に集団的意識・無意識が形成できる可能性のある場を人間が認識することにつながったことが集団的意識・無意識の存在に再帰性と補完性をたずさえることになった・・・のではないでしょうか。


自分で書いてても大変わかりづらいので、例をあげて考えていきましょう。
集団的意識・無意識がどうやら強く関わっているのは「ナショナリズム」なのではないかとわたしは考えます。近代国家・・・いわゆるネイション・ステートの枠組みはそもそも「幻想」であるという問いがベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」以来共有されています(吉本隆明にも「共同幻想論」があります)。この発想は必ずしもすべての思考者に一致した考えではないですが、それまでの身近な共同体や社会から、必ずし自分の感覚(feel)と関係がなかったネイション・ステートというものに対して想像が差延されているのではないかと指摘しました。最初は自分と回りの環境に存在する小集団や小社会だけに所属していたのが、それよりも大きな単位にも所属しているという意識はどう考えても人々の意識を今までの所属意識とは違うより大きな単位を意識化し、それは個人が基本でありながら感染した他者との関係性の中で集団的意識・無意識が発展してきたのではないでしょうか?

ネイション・ステートとナショナリズムの関係性は非常に難しいのですが、ナショナリズムがあるという証明は実は簡単です。
それはブログやSNSなどで「日本ってクソだよな、なんでこんな国存在するの?」と発言するだけで、ものすごい量の罵倒を受けるでしょう。
「お前なんで日本にいるの?」「日本が嫌なら出て行けよ」「そんなに嫌なら氏ねよ」
などなど自分が引き裂かれるような発言であふれるでしょう。

これはナショナリズムが最初にあったから起こるのでしょうか?わたしはこの誕生は地縁を元にした想像がネイション・ステートへの憧憬に拡大され、国家という幻想を自分のものとして引き受けた結果ではないかと思います。これについては議論待ちとしか言いようがありません。


自分という存在は一人ですが、意識の中では自分の中の自分がいて、またその中に自分がいます(無意識を含めた無限連鎖)。これは内だけでなく自分の所属している学校・会社の人々(友人・同僚・先生・上司)やアルバイトの同僚などの心のなかにも自分に対する想像があり、それは細部で違うもののいくつか同じ特徴を共有されたものが集団的意識・無意識として存在するのではないでしょうか。それらが所属しているグループに共有され、それぞれ個人に影響を与える。ここで重要なのは集団的意識・無意識の全体を知る者がいないことです。というより知ることができないというのが正しいでしょう。なぜなら自分の内部の関係性も自分と他人の関係性も他人と他人の関係性のすべてを知り、決断や行動をするのはまさに神の視座しかありえないのです。しかし人間がどれほど大きく認識を拡大したとしても、すべてを知ることはできません。ひとつの限界は単純化された大きい規模の複雑性をみることでしょう。

これも話がそれてしまいましたが、わたしがいままで語ってきた集団的意識・無意識があるのかという議論は、個人の意識・無意識は存在するのかという議論とも密接に関わってきそうだということです。行動主義心理学者のB.F.スキナーなどは「意識だって?そんなものが見えるのかね?長さや重さや周囲が測れるのかね?だとしたら、まるっきり存在していないも同じじゃないか」
と言い切ります。
わたしも意識・無意識は特別視するべきではないと思いますが、内省でも、個人の振る舞いでも、集団化した自分の振る舞いをみても、それぞれ意識・無意識が働いているのではないかと見えることが多々あります。これは社会科学上で「以上のデータから意識はあるのではないかと推測できる」や「以上のデータはあくまで選好によるデータであり、意識が実証されてない以上意識はないと考える」、また「たしかに生理的反復や自分では意識していない行動を行っていることもあり、それは意識ある行動とは確かめられない」などなど。


補考と言うレベルでないほどずいぶん多く語ってしまいました。いくつかまとめると、集団的意識・無意識は関係の結果として生まれた、それが個人や集団の振る舞いにも影響がある、個から他に対する認識の拡大ではないか?、そもそも個人の意識ってあるの?といったあたりでしょうか。


やっぱり今まで言ってきたことも片手落ちな気がします。しかし疲れてしまったので、気が向いた時にでもまた考察したいと思います。それよりコメントしたい本があるんですうう。