Hatena::ブログ(Diary)

himaginaryの日記

2014-07-23

中南米の格差はなぜ縮小したのか?

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という論文IMFのEvridiki TsountaとAnayochukwu Osuekeが書いている(原題は「What is Behind Latin America’s Declining Income Inequality?」;H/T Mostly Economics)。以下はその要旨。

Income inequality in Latin America has declined during the last decade, in contrast to the experience in many other emerging and developed regions. However, Latin America remains the most unequal region in the world. This study documents the declining trend in income inequality in Latin America and proposes various reasons behind this important development. Using a panel econometric analysis for a large group of emerging and developing countries, we find that the Kuznets curve holds. Notwithstanding the limitations in the dataset and of cross-country regression analysis more generally, our results suggest that almost two-thirds of the recent decline in income inequality in Latin America is explained by policies and strong GDP growth, with policies alone explaining more than half of this total decline. Higher education spending is the most important driver, followed by stronger foreign direct investment and higher tax revenues. Results suggest that policies and to some extent positive growth dynamics could play an important role in lowering inequality further.

(拙訳)

中南米所得格差は過去10年間に縮小した。それは、他の多くの新興国先進国とは対照的な傾向である。とは言え、中南米は依然として世界で最も格差の大きい地域である。本研究では中南米所得格差の縮小傾向を報告し、この重要な変化の背後にある様々な理由を提示する。多くの新興国発展途上国からなる集団にパネル計量経済分析を用いたところ、クズネッツ曲線が成立することが見い出された。データの制約、および多国間の回帰分析の全般的な制約にも関わらず、我々の結果から、中南米の最近の所得格差の縮小のうち3分の2近くは政策と強いGDPの成長で説明できることが分かった。政策だけで縮小全体の半分以上を説明できる。教育支出の増加が最も重要な駆動力であり、大きな海外直接投資と高い税収がそれに続く。我々の結果は、政策、およびある程度まではプラスの経済成長が、格差のさらなる縮小に重要な役割を果たし得ることを示している。

2014-07-22

金融腐蝕合衆国

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7/6エントリで紹介したポリティコ記事でスティグリッツは、不正を行った銀行家が罪を問われていないことに怒りを表明している。

The administration poured billions into the banks that had brought the country to the brink of ruin, without setting conditions in return. When the International Monetary Fund and the World Bank engage in a rescue, they virtually always impose requirements to ensure the money is used in the way intended. But here, the government merely expressed the hope that the banks would keep credit, the lifeblood of the economy, flowing. And so the banks shrank lending, and paid their executives megabonuses, even though they had almost destroyed their businesses. Even then, we knew that much of the banks’ profits had been earned not by increasing the efficiency of the economy but by exploitation—through predatory lending, abusive credit-card practices and monopolistic pricing. The full extent of their misdeeds—for instance, the illegal manipulation of key interest rates and foreign exchange, affecting derivatives and mortgages in the amount of hundreds of trillions of dollars—was only just beginning to be fathomed.

Obama promised to stop these abuses, but so far only a single senior banker has gone to jail (along with a very few mid- and low-level employees). The president’s former Treasury secretary, Timothy Geithner, in his recent book, Stress Test, made a valiant but unsuccessful attempt to defend the administration’s actions, suggesting that there were no alternatives.

(拙訳)

国を破綻の瀬戸際に追い込んだ銀行に、政権は何十億ドルという資金を、見返りの条件抜きに注ぎ込んだ。国際通貨基金世界銀行が救済を行う時、彼らは救済資金が目的通りに使われることを保証するための要求を事実上常に課す。しかし今回、政府は、経済の血流たる信用の流れを銀行は維持して欲しい、という希望を表明するだけに終わった。そして銀行は融資を縮小し、自分の会社を壊滅寸前に追い込んだ当の役員に巨額の賞与を支払った。その時点でさえ、我々は、銀行の利益の多くが経済の効率性を増すことによってではなく、略奪的な貸し付けやクレジットカードの不正な慣行や独占的な価格付けといった搾取によって得られたことを知っていた。何百兆ドルというデリバティブ不動産に影響する重要な金利為替相場を違法に操作するといった彼らの悪行の全貌は、漸く分かり始めた段階であった。

オバマはこうした不正を止めると約束したが、これまでのところ上級の銀行家の一人*1だけが(ごく少数の中級および下級の銀行員と共に)刑務所に入ったに過ぎない。前財務長官ティモシー・ガイトナーは、近著の「ストレステスト」において、他に選択肢は無かったと雄々しくも政権の行動を擁護しているが、その擁護は成功していない*2


一方、ディーン・ベーカーは、今回のシティの70億ドルの和解(cf. ロイター日本語記事)に絡めて、そうした刑事罰の不在が将来に禍根を残した、と指摘している(H/T Economist’s View)。

Based on the information Norris presents here, Citigroup's top management essentially knew that the bank was engaging in large-scale fraud by passing along billions of dollars worth of bad mortgages. If these people were now facing years of prison as a result of criminal prosecution then it may well affect how bank executives think about these situations in the future. While it will always be true that they do not want to turn away business, they would probably rather sacrifice some of their yearly bonus than risk spending a decade of their life behind bars. The fear of prision may even deter less scrupulous competitors. In that case, securitizing fraudulent mortgages might have been a marginal activity of little consequence for the economy.

Citigroup's settlement will not change the tradeoffs from what Citigroup's top management saw in 2006. As a result, in the future bankers are likely to make the same decisions that they did in 2006.

(拙訳)

ノリスがここで提示した情報によると*3シティグループの経営陣は、何十億ドルという不良モーゲージ資産転売することで大規模な不正行為に銀行が手を染めることになる、ということを基本的に認識していた。もし刑事訴追の結果として現時点でこれらの人々が刑務所で何年か過ごす羽目に直面していたならば、将来においてこうした状況で銀行の重役がどう考えるかに影響していただろう。彼らがビジネスチャンスを逃すのを嫌がるのは不変の事実だとはいえ、塀の中で十年過ごすリスクを取るよりは年間ボーナスの幾ばくかを犠牲にする方を選ぶだろう。刑務所入りの恐怖は、彼らよりも良心的でない競争相手をも怯ませるかもしれない。その場合、いかさまなモーゲージ証券化することは、経済にとってそれほど重大な結果をもたらさないマイナーな出来事に留まることだろう。

今回のシティグループの和解は、シティグループの経営陣が2006年に直面したトレードオフを変えることはなかった。その結果として、将来の銀行家たちは2006年と同じ決断をすることだろう。

ここで描かれているシティの行為は、日曜にBS日テレで放映されていた下記の映画を彷彿とさせる。

マージン・コール (字幕版)

マージン・コール (字幕版)


日本の金融危機の場合は、曲がりなりにも金融界に司直の手が入って、それが金融界の綱紀粛正に寄与した面もあったように思う。ただ同時に、そうした捜査は、検察ファッショや国策捜査揶揄されたように、国民のガス抜きのためにスケープゴートを仕立て上げたという側面も否定できなかったようにも思う*4長銀日債銀の逮捕された経営者が最終的に無罪になったことにそのことが表れている。また、それらの銀行の粉飾決算の「共同正犯」と言われた当局側の責任も結局有耶無耶に終わった感がある。とは言え、銀行のトップが逮捕される可能性を示したことは、若干人治主義の匂いがするものの、ベーカーの言うトレードオフを変えた面はあったように思われる。

*1スティグリッツはここでこの記事にリンクしている。該当の人物に関する日本語記事はこちら

*2:この引用部分の続きが7/6エントリの「ガイトナーは、水面下に沈んだ自宅保有者を助けること…」という文章

*3:Floyd Norrisの書いたシティグループの和解に関するNYT記事を指す。その記事では、シティのコンサルタント証券化されたモーゲージの多くが基準に達していないと警告した、と報告している。またその警告を無視して経営陣が話を進めた理由として、利益率の高いビジネスから手を引きたくなかったこと、シティが手を引いてもより良心的でない競争相手に回るだけだと考えられたこと、を挙げている。

*4:第一勧銀のような闇の勢力とつるんだという今回の欧米のケースでは見られなかった特異なケースを除く。

2014-07-21

サーチ理論で説明できること、できないこと

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ジョン・クイギンが、以下の三段論法でサーチ理論を腐している

  • 経済学において今や失業の主流理論となったサーチ理論では、職探しの効率が良くなれば失業率は減少するはず。
  • インターネットによって職探しは効率化したので、この理論によれば、過去20年間に失業率は低下を続けているはずだが、現実にはそうなっていない。
  • よって、サーチ理論には問題あり。それを使い続けている経済学界にも問題あり。

これを受けてマイク・コンツァルが、関連する話として、3年前に彼がコチャラコタのDMPモデル*1による失業の説明に反論したことを引き合いに出している。コチャラコタのその説明は、彼の2010年の年間報告書に掲載されたもので、同報告書は金利インフレについてのフィッシャー式逆さ眼鏡派的解釈が批判の的になったが、失業の説明も同様に危ういものだったという。


報告書の中でコチャラコタはDMPモデルを以下の式にまとめている。

  B = u/v * (p-z) * 定数


記号の説明は以下の通り。

B(Benefit=便益)
雇用の意思決定者である企業が欠員を生じさせるかどうかは、その費用が便益を下回るかどうかに依存する。
u/v(Unemployment-Vacancy Ratio=失業率欠員比率)
失業率を欠員率で割ったもの。この比率が高いと、企業にとって利用可能な選択肢が多くなりかつ改善するため――しかもより低賃金で――便益が高くなる。
p(Productivity(after-tax)=税引き後生産性
生産性が高ければ、企業にとって雇用から得られる利益は高くなる。法人税、個人税、売上税は税引き後生産性を引き下げる。
z(Utility)=効用
働かないことの労働者にとっての効用失業保険の受取など。

2007年12月にはu=5%、v=3.1%だったが、2010年12月にはu=9.4%、v=2.2%となった。そのため、u/vは165%増えたことになる。pとzに変化が無ければ、雇用を創出することによる企業の便益は倍以上に増えたことになるが、実際には雇用は創出されなかった。これについての一般的な説明は、名目価格の硬直性によって企業が需要不足に直面していたため、というものだが、pとzが変化したとも考えられるのではないか、とコチャラコタは言う。もし財政赤字政府債務の増大によってpが10%低下して1から0.9となり、失業保険給付期間の延長によってzが0.05増大して0.73から0.78になったならば、雇用を創出することによる企業の便益の増加は165%ではなく僅か18%となる。その場合、需要不足を前提にした金融緩和策は行き過ぎということになる。


コチャラコタはまた、DMPモデルから自然失業率u*を計算できるとして、もしpとzが2007年12月当時のままならば、u*は5.8%だった、という数字を示している。しかしpが10%低下し、zが0.05増大したならば、u*は8.7%となり、9%だった当時(2011年7〜9月)の失業率に近くなる。


こうしたコチャラコタの説明について、コンツァルは以下の問題点を指摘している。

  • 上式には金融政策の入り込む余地が無い。ロバート・ホールらはゼロ金利下限や商品市場が清算されない状態をDMPモデルに持ち込み、現実世界に近い結果を得たが、コチャラコタは言及していない。
  • Shimer(2005)は、我々が目にする失業率の変動をこのモデルから生産性の変化によって説明することはできない、ということを示した。しかも、最近の景気後退期には生産性はむしろ上昇しており、2008年以降の大収縮期の生産性はほぼ通常のペースで上昇している。
  • pの10%の低下とzの0.05の上昇という数字は、リチャード・フィッシャーがインフレ高騰を予測する基になった勘(gut)と変わらない。フィッシャーの勘は外れ続けており、ほとんどビョーキの域に達している。米国経済の行く末を決定する上で世界で最も大きな力を持つ人々が、バーナンキへの不同意をこのように決めているとはあな恐ろしや。
  • 失業保険失業期間の長期化をもたらしているというならば、それを貰える人と貰えない人で結果が違ってくるはず。SF連銀の研究者が実際にそれを調べたが失業給付延長の失業率への影響は0.4〜0.8%ポイントに過ぎず、しかもスコット・サムナーが指摘したように、失業給付期間の延長自体も内生的に決まるため、この結果はルーカス批判に該当することに注意する必要がある。
  • 債務が圧し掛かった家計で職の重要性が増し、新卒者が職を見つけられずに職歴に大きな傷が残るのを心配している不況下で、zは下がったと考えるのが自然ではないか。オバマ大統領雇用創出者を怯えさせ失業者が十分に飢えていないために自然失業率が9%近くに達したと本当に信じているならば、いかなる計量経済学を使っても説得するのは難しいが、税金引き下げや規制緩和などを訴える銀行や富裕層や企業経営者だけでなく、必死に仕事を探し求めている労働者や就職を控えた学生の声に耳を傾けたらどうか。彼らは魔法の休暇を享受しているわけでも、「z」を楽しんで日がな一日フェイスブックに耽っている無気力な負け犬でもない。

ちなみに、クイギンのエントリにはコンツァルより前にノアピニオン氏も反応しているが、サーチ理論が駄目ならば需要不足という説明になるのは分かるが、需要不足の発生や失業への影響についてもっときちんと定式化してくれないとその説明では満足できない、と述べている。



なお、コンツァルは、サーチ理論に絡んで最低賃金にも触れており、その件についてはサーチ理論が経済学者の反対を弱め、現実的に考える方向に働いているかもしれない、と指摘している。というのは、サーチ理論では、最低賃金雇用に悪影響をそれほどもたらさない、と考える方が理に適っているからである。

  • 最低賃金が高いと、低賃金労働者低賃金の仕事をより熱心に探すようになり、その仕事を受け入れることが多くなり、断ることが少なくなる。これは均衡雇用水準を引き上げる。
  • すべての職にサーチ摩擦が付き纏うならば、雇用者は職について独占力を幾分なりとも有していると考えるのが理に適っている。その場合、雇用者は市場清算価格まで賃金を引き上げないかもしれない。というのは、そこまで引き上げると全労働者賃金を引き上げなくてはならなくなるからである。最低賃金はそれに抗する方向に働く。そう考えると、経済学入門で考えるのに比べて雇用への悪影響が少なくなることも説明が付く。

コンツァルは、こうした話はデータにも適合している、と指摘する一方で、同じサーチ理論を景気循環の話に持ち込み、データを無視してイデオロギーで語り出すと飛んでもないことになる、と改めてコチャラコタの誤謬に注意喚起している。

*1cf. ここ

2014-07-20

規範的理論と実証理論の接合点としての効用関数

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以前、アンドリュー・ゲルマンピーター・ドーマン効用理論批判を取り上げたことがあったが、その両者の最近のやり取りがゲルマンブログ紹介されている。エントリには「計量経済学統計学の違い:変動する介入効果から効用に至るまで、経済学者は不変のモデルを好むようだが、統計学者は変動する方が安心する(Differences between econometrics and statistics: From varying treatment effects to utilities, economists seem to like models that are fixed in stone, while statisticians tend to be more comfortable with variation)」という長いタイトルが付けられている。


やり取りは、ある特定の変動に焦点を当てがちな経済学者の傾向についての議論から始まっている。ドーマンが、最近階層モデル(hierarchical modeling)でリスク分析をしたところうまくいったが、計量経済学に何十年も携わってきたにも関わらず、階層モデルなるものをこれまで知らなかった、と書いたのに対し、ゲルマンは次のように答えている。

...it’s my impression that economists are trained to focus on estimating a single quantity of interest, whereas multilevel modeling is appropriate for estimating many parameters. Economists should care about variation, of course; indeed, variation could well be said to be at the core of economics, as without variation of some sort there would be no economic exchanges. There are good reasons for focusing on point estimation of single parameters—in particular, if it’s hard to estimate a main effect, it is typically even more difficult to estimate interactions—but if variations are important, I think it’s important to model and estimate them.

(拙訳)

・・・経済学者は、興味の対象となっている単一の値の推計に集中するように訓練されている、というのが私の印象だ。一方、複数階層モデルは多くのパラメータを推計するのに適している。経済学者は当然ながら変動を気に掛けるべきだ。実際のところ、変動は経済学の核心に位置すると言っても過言ではなかろう。というのは、何らかの変動抜きには経済における交換は存在しないからだ。単一パラメータの点推定に焦点を当てることにも理由はある。特に、主たる効果を推計することが難しければ、相互作用を推計するのは猶更難しかろう。とは言え、変動が重要ならば、それをモデル化して推計することは重要だと思う。

それに対するドーマンの反応は以下の通り。

I’ve been mulling the question about economists’ obsession with average effects and posted this on EconoSpeak. I could have said much more but decided to save it for another day. In particular, while the issue of representative agents has come up in the context of macroeconomic models, I wonder how many noneconomists — and even how many economists — are aware that the same approach is used more or less universally in applied micro. The “model” portion of a typical micro paper has an optimization model for a single agent or perhaps a very small number of interacting agents, and the properties of the model are used to justify the empirical specification. This predisposes economists to look for a single effect that variations in one factor have on variations in another. But the deeper question is why these models are so appealing to economists but less attractive (yes?) to researchers in other disciplines.

(拙訳)

経済学者が平均的な効果に固執するという問題について考えを巡らしていたが、その件についてEconoSpeakにエントリを上げた。書くべきことはもっとあったが、それはまた後日ということにした。中でも、代表的主体についての問題マクロ経済モデルの話の中で提起されてきたが、応用ミクロで同じ手法がそれなりに一般的に使われていることをどれだけの非経済学者――あるいは経済学者も――が知っているのだろうか、と疑問に思う。通常のミクロ論文の「モデル」部分は、単一主体、もしくは非常に少数の相互作用する主体最適化モデルになっており、そのモデルの特性が実証的枠組みの正当化に使われている。これによって、ある一つの要因の変動がもう一つの要因の変動に影響するという単一の効果を探し求める経済学者の性向が生み出されている。もっと深く考えるべき問題は、これらのモデルが経済学者に非常に魅力的に映る反面、他の分野の研究者にはそれほど魅力的ではない(でしょ?)理由だ。

それに対しゲルマンは持論である効用関数批判を持ち出している。

There is the so-called folk theorem which I think is typically used as a justification for modeling variation using a common model. But more generally economists seem to like their models and then give after-the-fact justification. My favorite example is modeling uncertainty aversion using a nonlinear utility function for money, in fact in many places risk aversion is _defined_ as a nonlinear utility function for money. This makes no sense on any reasonable scale (see, for example, section 5 of this little paper from 1998, but the general principle has been well-known forever, I’m sure), indeed the very concept of a utility function for money becomes, like a rainbow, impossible to see if you try to get too close to it—but economists continue to use it as their default model. This bothers me. I don’t think it’s like physicists starting by teaching mechanics with a no-friction model and then adding friction. I think it’s more like, ummm, I dunno, doing astronomy with Ptolemy’s model and epicycles. The fundamentals of the model are not approximations to something real, they’re just fictions.

(拙訳)

フォーク定理と呼ばれるものがあるが、それを用いて、一般的なモデルで変動をモデル化することを正当化することが多いように思われる。あるいはもっと全般的に、経済学者はまず自分たちのモデルありきで、それから事後の正当化を行うように見える。私のお気に入りの例は、貨幣非線形効用関数による不確実性回避のモデル化だ。実際には、リスク回避が貨幣非線形効用関数として定義されていることが多い。これは然るべき尺度においてまるで意味をなさない(例えば1998年のこの小論文の5節を参照。ただ、一般的な話としてはずっと前から知られていたことは確かだ)。実際のところ、効用関数の概念自体が、虹と同様、あまり近付いて見ようとすると見えなくなるものなのだ。だが経済学者はそれをデフォルトモデルとして使い続けている。これが私には問題だ。そのことは、物理学者がまず摩擦の無いモデルで仕組みを教え、それから摩擦を付け加えるのと同様である、とは思わない。むしろ、何というか、プトレマイオスのモデルと周転円で天文学を行うようなものだ、と思う。モデルの根本が何らかの現実の近似にはなっておらず、単なる絵空事になっているのだ。

それに対するドーマンの反応。

So my deep theory goes like this: the vision behind all of neoclassical economics post 1870 is a unified normative-positive theory. The theory of choice (positive) is at the same time a theory of social optimality. This is extremely convenient, of course. The problem, which has only grown over time, is that the assumptions needed for this convergence, the central role assigned to utility (which is where positive and normative meet) and its maximization, either devolve into tautology or are vulnerable to disconfirmation. I suspect that this is unavoidable in a theory that attempts to be logically deductive, but isn’t blessed, as physics is, by the highly ordered nature of the object of study. (Physics really does seem to obey the laws of physics, mostly.)

I’ve come to feel that utility is the original sin, so to speak. I really had to do some soul-searching when I wrote my econ textbooks, since if I said hostile things about utility no one would use them. I decided to self-censor: it’s simply not a battle that can be won on the textbook front. Rather, I’ve come to think that the way to go at it is to demonstrate that it is still possible to do normatively meaningful work without utility — to show there’s an alternative. I’m convinced that economists will not be willing to give this up as long as they think that doing so means they can’t use economics to argue for what other people should or shouldn’t do. (This also has connections to the way economists see their work in relation to other approaches to policy, but that’s still another topic.)

And I’ve been thinking more about your risk/uncertainty example. Your approach is to look for regularity in the data (observed choices) which best explains and predicts. I’m with you. But economists want a model of choice behavior based on subjective judgments of whether one is “better off”, since without this they lose the normative dimension. This is a costly constraint.

There is an interesting study to be written — maybe someone has already written it — on the response by economists to the flood of evidence for hyperbolic discounting. This has not affected the use of observed interest rates for present value calculation in applied work, and choice-theoretic (positive) arguments are still enlisted to justify the practice. Yet, to a reasonable observer, the normative model has diverged dramatically from its positive twin. This looks like an interesting case of anomaly management.

(拙訳)

この件の深層に関する私の説は次の通りだ。1870年以降のすべての新古典派経済学の背後にある考え方は、規範と実証が統合された理論だ。(実証的な)選択理論は、同時に社会的最適性の理論にもなる。これは当然ながら非常に都合が良い。問題は――その問題は時間が経つに連れ大きくなってきたのだが――そうした収斂のために必要な前提として効用(実証と規範はそこで統合される)とその最大化に割り当てられた中心的な役割が、同義反復に陥るか、もしくは反証に対し脆弱であるかのいずれかになる、という点にある。論理的演繹的たらんとする理論においてそうなるのは不可避のことのように思われるが、この場合は物理学と異なり、研究対象の大いなる秩序によって裏付けられたりはしない(物理学では物理学の法則に大抵の場合実際に従うように思われる)。

言うなれば効用が原罪なのだ、と私は思い始めている。教科書を書く時に私は、本当に自分の良心に照らし合わせる作業をしなくてはならない。というのは、もし効用を敵視するようなことを書けば、誰も買ってくれなくなるからだ。私は自己検閲することにした。これは教科書という戦線で勝利を収められるような戦いではない。私は、効用抜きでも規範的に意味のある研究をすることが可能である、ということを示すのが進むべき道である、と思うようになった。別の道があることを示すのだ。効用を手放すことは即ち、経済学を使って人々にあれをすべきとかすべきでないと指図できなくなることを意味する、と経済学者が考える限り、彼らがそれを諦めることはない、と私は確信している(このことは、経済学者が、政策に関する他の研究と自分たちの研究との関連をどう見ているかという話にも繋がるが、それはまた別の話だ)。

また、貴兄のリスクないし不確実性の例についても色々考えている。貴兄の手法は、説明力と予測力が最も高いデータ(観測された選択)の規則性を探す、というものだ。私もそれに賛成だ。しかし経済学者は、自分が「良くなった」かどうかについての主観的な判断に基づく選択行動のモデルを欲している。それ抜きでは規範的な側面が無くなってしまうからだ。それは制約としてはきついもだ。

双曲割引を支持する実証的証拠が数多く積み重なったことへの経済学者の反応について論文を書くのは面白かろう――あるいはそういう論文は既に書かれているかもしれないが。そうした証拠は、観測された金利を用いて現在価値を計算するという応用研究における慣行に影響を与えなかった。そして、選択理論の(実証的)議論は依然としてその慣行を正当化するのに持ち出されている。しかし、分別ある観察者から見れば、規範的モデルは対応する実証的モデルから大きく乖離してしまった。そうした乖離を彼らがどれだけうまく捌くか見ものではある。


この両者のやり取りについてデロングがEquitableブログで以下のようにコメントしている(H/T Economist’s View)。

  • 期待効用の意思決定理論は規範的なものであり、実証的なものではない、と理解している。それは、リスクのある環境で目的を達成するために人々がどのように行動すべきかを示すものであり、どう行動するかを示すものではない。期待効用の意思決定理論を人々に教える意味は、確率が分かっている少額の賭けについては人々はリスク中立的であるべき、ということを知らしめる点にある。教える手順は以下の通りとなる。
    1. 人々は少額の賭けについてリスク中立的ではない。
    2. 合理性に関する基本的な考察を取り入れると、目的達成のためには少額の賭けについてリスク中立的であるべき、ということになる。
    3. 従って人々は少額の賭けについてリスク中立的であるべき、ということになる。
    4. 他人を相手に賭けをしている際には、賭け金が少額といえどもリスク回避的になるべきではない。賭けの相手の引き受け手がいるということは自分の主観的確率が偏っていることを意味し、主観的確率に基づく期待効用の意思決定理論は自らの偏りに関する情報を織り込んでいないため、あらぬ方向に導いてしまう。
    5. 自然を相手にした少額の賭けについてもリスク中立的に行動すべきか――そうすることが不安、延いては不幸な感情をもたらすとしても――という問題については未だ回答が無い。
      • デロング自身は、不安や不幸という感情を持たないように自分を訓練し、リスク中立的たるべき、と考えている。
  • 人々が実際にベイズ的な期待効用に基づく意思決定を行っていないにも関わらず、そうした経済主体の参加するものとして市場をモデル化することについて、経済学者の考え方は以下の三つに大別される。
    1. その問題について考えたことさえない。
    2. 個人が期待効用に基づく意思決定を行っていないとしても、組織は、認知に関する制度や手続きによって、期待効用に基づく意思決定者のように振る舞う。
    3. 市場の失敗は個人が期待効用の意思決定理論に沿わず、それを補填する制度も存在しないことから起きる。

2014-07-19

スティグリッツのBRICS銀行称賛

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前回紹介したDemocracy Now!のスティグリッツインタビューは、日本語サイトでも紹介されているように、TPP批判もさることながら、BRICS銀行へのスティグリッツの称賛が一つの大きな特色になっている。司会のエイミー・グッドマンは、スティグリッツを「新銀行の後見人(the godfather of this new bank)」とまで呼んでいる。

スティグリッツは支持の理由を以下のように語っている。

The reason I was so enthusiastic is that the needs for funds for development, for infrastructure, are so huge, and the existing institutions can just supply a small percentage. And our global private financial markets just aren’t working. I mean, let me give you an example. Before the 2008 crisis, Ben Bernanke said that there was a savings glut: We had too much savings. You know, he must have been living on a different planet than I was living, because when I traveled around Africa, other development countries, I didn’t see a problem of too much savings. I saw enough—a problem of huge investment needs. And the problem was that existing financial institutions weren’t taking the savings and putting to where it was needed. It was clear that the private institutions couldn’t do this. You know, they knew how to engage in predatory lending and taking advantage of poor people. They were good at that. But they weren’t good of taking the surplus of savings and putting them to the place where there are huge social needs.

...

It’s not part of their business model. You know, they make money from speculation, from trading, from derivatives, from market manipulation—you know, the gamut of everything except looking around for what are the most socially productive uses of investment and how to manage the risk associated with those investments. So, that’s why you need a development bank.

(拙訳)

私がこれほど支持しているのは、開発やインフラのための資金需要が巨額で、既存の機関だけではそのうちの少しのパーセンテージしか供給できないからです。そして、民間の世界金融市場は機能していません。例を挙げましょう。2008年の危機の前、ベン・バーナンキは貯蓄過剰が存在すると述べました。貯蓄が多すぎると言ったのです。彼は私が住んでいるのとは違う惑星に住んでいたに違いありません。私がアフリカや他の発展途上国を回った時、多すぎる貯蓄の問題など目にしませんでしたが、莫大な投資需要の問題は十分すぎるほど目にしました。問題は、既存の金融機関が貯蓄を必要とされる場所に振り向けていなかったことにあります。民間機関がそれをできないことは明らかでした。彼らは略奪的な貸し付けをして貧しい人々につけこむ術は心得ていました。彼らはそれに長けていたのです。しかし彼らは、貯蓄余剰を社会的ニーズが非常に高い場所に振り向けることには向いていませんでした。

・・・

彼らのビジネスモデルにはそうしたことは含まれていません。彼らは投機や取引やデリバティブや市場操作といったあらゆることで金を儲けていますが、社会的に最も生産的な投資の活用法を探し出し、そうした投資に纏わるリスクを管理する、ということはその中に入っていないのです。開発銀行が必要なのはそのためです。


そして、新銀行の特長について以下のように述べている。

It’s going to be headed by an Indian. It will be located in Shanghai. It has a governing structure that will involve all of the BRICS countries, and unlike, say, the IMF, where the U.S. is the single country with a veto power, it’s going to—all of them will have equal votes.

One aspect of it is it will employ all the new learning that we have about new instruments, new governance. So, for instance, it has the facility, the ability to, say, create a fund that can bring in not only countries, but, say, sovereign wealth funds, to use not just debt, but equity, or to use more, you know, the advances in modern financial technique, financial risk management. So, I think it’s going to try to be a 21st century institution. The other institutions have been trying to adapt from the 20th century—1944 was when they were founded—but, you know, it’s difficult to move these big institutions, particularly difficult to change governance.

The United States doesn’t like the fact that as of some time in September, the United States will be the second-largest country in the world, according to the new way we measure purchasing power parity, how we compare countries. Well, I think it’s difficult for the United States to accept the notion it’s no longer the—will no longer be the largest country. It’s no longer the largest country in trade, in savings, in other areas, but this will be the second-largest country in the world.

...

Behind China. But the global governance does not reflect these new economic realities. And this new institution is not going to change everything, I mean, clearly. It’s just a little bit of movement, but it’s a movement in the right direction, reflecting the new economic and political realities and reflecting the learning that we’ve done in the last 70 years.

(拙訳)

トップはインド人に、所在地は上海になります。統治機構BRICS諸国すべてが関与する形になり、米国が唯一の拒否権を持つIMFなどと違って、すべての国が平等な投票権を持つことになります。

この銀行の特色の一つには、新しい手段や統治についての最近の進展をすべて適用できる、ということがあります。例えば、国だけでなく政府系投資ファンドをも取り込んだファンドを作ることができます。あるいは、債券だけでなく株式を活用したり、現代の金融技術や金融リスク管理の進歩をどんどん取り入れたりできます。21世紀の機関たらんとすることができるわけです。1944年に創設された他の機関は20世紀から抜け出そうとしていますが、大きな機関が変わるのは難しいのです。とりわけ統治についてはそうです。

米国は、国同士を比較する購買力平価の新たな計測法によれば9月のどこかで世界で二番目に大きな国になる、という事実が気に入りません。もはや世界最大の国ではなくなる、という考えを米国が受け入れるのは難しかろう、と思います。貿易や貯蓄やその他の分野で米国はもはや世界最大ではなく、世界で二番目の国になります。

・・・

中国に次ぐ国となるのです。しかし世界的な統治はその新たな経済の現実を反映していません。明らかに、この新組織もすべてを変えるわけではありません。それは僅かな変化に過ぎませんが、正しい方向への変化であり、新たな経済的および政治的現実を反映し、過去70年間に我々が学んだことを反映しています。


なお、このインタビューは二部構成になっており、これまで紹介したのは第二部からの引用であるが、上記の最後の点について第一部スティグリッツは次のように述べている。

...it reflects a fundamental change in global economic and political power, that one of the ideas behind this is that the BRICS countries today are richer than the advanced countries were when the World Bank and the IMF were founded. We’re in a different world. At the same time, the world hasn’t kept up. The old institutions have not kept up. You know, the G-20 talked about and agreed on a change in the governance of the IMF and the World Bank, which were set back in 1944—there have been some revisions—but the U.S. Congress refuses to follow along with the agreement. The administration failed to go along with what was widely understood as the basic notion that, you know, in the 21st century the heads of these institutions should be chosen on the basis of merit, not just because you’re an American. And yet, the U.S. effectively reneged on that agreement. So, this new institution reflects the disparity and the democratic deficiency in the global governance and is trying to restart, to rethink that.

(拙訳)

・・・新銀行は世界の経済と政治の根本的な変化を反映しています。その背景にある考えの一つは、今日のBRICS諸国は世界銀行IMF設立された当時の先進国より豊かだ、というものです。我々は違う世界にいるのです。と同時に、世界はそれについていっていません。古い機関はついていっていません。1944年に設立されたIMF世界銀行統治を変えるという点について、G20は話し合いを行い、合意しました。幾つか見直しがありましたが、米議会はその合意に沿って行動することを拒否しました。政権は、21世紀にはこれらの機関のトップは単に米国人だからという理由ではなく実力本位で選ばれるべき、という広く基本概念として認識されていることに沿うことができませんでした。米国は事実上合意を反故にしたのです。この新組織は世界の統治における不均衡と民主的欠陥を踏まえ、それをやり直し、再考することを狙いとしているのです。



米財務省やIMF、および米銀行界への批判はスティグリッツがかねてから口にしているところであり、本ブログでも何回か紹介してきた話であるが、今回のインタビューでは、世界における米国の一国主義問題にするあまり、中露の強権主義の問題を不問に付しているように見えるところが個人的にはやや気になった。ちなみに上記の最初の引用部の直前にスティグリッツは、ロシアへの制裁問題と新銀行との関連を問われて次のように答えている:

I think the sanctions probably motivated Russia to be even more enthusiastic about this, because it gave it a political context in which it wasn’t the outsider but was one of the team of creating a new global architecture.

(拙訳)

制裁によってロシアは一層新銀行に傾いたと思います。よそ者ではなく、新たな世界的機構を作り上げるチームの一員として遇される政治的状況を提供されたわけですから。