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hiroyukikojimaの日記

2017-02-18

経済学者がこぞって読むべき物理の本

16:23

 今回は、久々に物理学の本の紹介をしようと思う。紹介するのは、田崎晴明統計力学I』培風館だ。この本の元となる原稿は、かなり前に入手していた。ぼくが、田崎さんにぼくの経済学の教科書を献本したら、田崎さんが、お礼に(しかえしに)TeXで作った原稿を製本した分厚い冊子をプレゼントして下さった(送りつけてきた)のである。そのときは、ざっと斜め見しただけだったのだけど、今年に入って、(前半だけ)真面目に読んでみたのだ。

なぜ今頃読んだか、というと、それは経済学的なモチベーションからなのだ。

経済学では、「ミクロとマクロがいったいどうつながっているのか」というのは、いまだに解決されていない難題であり、突破口を見つけなければならない課題である。とりわけ、マクロ経済学において、ミクロ理論での基礎付けが要求される現状では不可避のことだ。

マクロ経済学専門家ではないので確かなことは言えないけど、よく知られたマクロモデルでは、「代表的個人」というのを主体にモデル化している。それは、あたかも国民がたった一人しかいないかのような仮定の下でモデルを作っている、ということだ。もちろん、「国内にはいろんな人がいる」ということを無視しているわけではなく、それなりに正当化できないわけではないんだけど、それでも「ミクロ=マクロ」となっているこの前提は、それで大丈夫なのかと思わざるを得ない。

 そこでぼくは、統計力学をある程度きちんとわかりたい、となったわけだ。統計力学は、物理学において、ミクロとマクロの関係をなんとか解き明かそうとし、完全ではないが十分な成果を得ている。そんなわけで、分厚い私家版冊子を手にしている(押しつけられている)にもかかわらず、培風館版をあえて購入し、読み始めた次第である。

 ちゃんと読んでみたら、めちゃくちゃのけぞった、というか、驚いた、というか、感動した、というか、目を丸くした。そこには、ぼくの経済学的なモチベーションを刺激する記述があちこちにあったからだ。この本は、経済学者必読の物理学と太鼓判を押せる本だったのである。

 まず、この本の章立てを、(読んだところまで)、ぼくの言葉でまとめてみる。

第1章 統計力学について、その問題意識を包み隠さず宣言している。

第2章 定番の確率論を、統計物理に応用できる言葉に書き換え、独自の物理的解釈を提示している。

第3章 量子論からの最低限の準備をしている。とりわけ、エネルギー固有状態の離散性と平方性を導出している。

第4章 平衡状態とは何かを解説し、それを記述するカノニカル分布を導出している。

第5章 カノニカル分布を応用して、気体の状態方程式を導いたり、常磁性体のモデルを導出したりする。

ここまでのすべての章が、経済学者として、驚きと興奮の連続だった。とりわけ、経済学者諸氏にお勧めしたいのは、第1章と第2章である。ここには「ミクロとマクロをつなぐ」問題について、執拗なまでに(良い意味での)御託を並べている。ここまで、きちんと著者の考えを記載している統計力学の本は、(ぼくの知っている限り)他にはないと思う。

一部の経済学者は、マクロモデルのために、統計力学を取り入れる研究をしている。古いけど代表的なのはダンカン・フォーリーの「統計的均衡」の論文で(楽しい統計物理 - hiroyukikojimaの日記参照のこと)、その後も、ぽつぽつと研究が出ている(ようだ)。でも、それらの研究は、統計物理をもろに経済現象に写し取るようなもので、ぼくにはあまり有効だとは思えない。物理現象経済現象には根本的に違うところがある。だから、統計物理から写し取るべきは、モデルではなく思想のほうであるべきだと思うのだ。そういう観点から、本書の「(良い意味での)御託」は、そういう思想を得るのに役立つのだ。経済学者の立場から、非常に示唆的に感じられる記述を、いくつか引用してみよう。

予想されるように、ミクロの世界とマクロの世界を結ぶのは、きわめて非自明で困難な課題であり、今日でも未解決の点を無数にある。それでも「平衡状態」と呼ばれる限定された状況については、ミクロな世界の法則がどのようにマクロな世界と対応するかについての、ほぼ完全な一般論が得られている。

統計力学はミクロな世界の力学法則に基づいてマクロな世界を記述する体系である。(中略)。力学を少し学べば実感するように、特殊な事情がない限り、粒子の数が増えれば増えるほど、力学の問題を解くのは難しくなる。(中略)。ところが、ここで非常に興味深い「逆転」が起きる。構成要素の個数がきわめて大きくなることで、逆に、ある種の問題の扱いは簡単になるのである。より正確に言えば、マクロな系が平衡状態という特殊な状態にあるときには、力学の問題を完全に解かずにマクロな物理量のふるまいを正確に特徴づけることができるのだ。さらには、この際、系の記述には、力学の言葉よりも確率論の言葉を用いるのが自然なのである。

この言葉は、ぼくの統計力学への誤解を完全に解いてくれた。ぼくは、統計力学というのは、力学法則を公理のようにして用いて、マクロ現象演繹的に導出する分野だと思い込んでいた。でも、そうではなかったのだ。次の記述は、そのことをもっと明確にしてくれる。

気体にしろ、固体にしろ、磁性体にしろ、統計力学の対象となるマクロの系は、一般には、きわめて複雑なミクロな構造を持っている。これらの系の(量子)力学的なミクロな詳細を完全に特徴付けるには、膨大な数のミクロなパラメーターが必要だが、通常、それらの値を正確に知ることなどできない。だから、ミクロな情報をもとにマクロな物理量を無闇やたらと正確に計算できるような理論ができたところで、科学としてさしたる意味がないのだ。統計力学が目指すのは、様々な物理量を細かく計算することではなく、系のミクロな詳細に依存しない普遍的なふるまいを探し出し、それらを的確に記述することなのである。

これなんかは、経済学者としては超「耳が痛い」。そして、非常に啓示的に感じられる。

 圧巻なのは、第2章である。ここでは、確率論の基礎を準備するのだけれど、二つの目的を備えている。第一は、物理量を確率の言葉で表現すること。第二は、「確率論が、マクロとミクロを関係付ける」ということの意味を一般論として提示することである。

物理既修者にとっては無駄な章に思えるかもしれないが、ぼくら経済学者にとっては、宝の埋まった「もったいないぐらいの章」なのである。とりわけ、ゆらぎが測定精度よりもはるかに小さい場合、不確実性が確実性にすり替わるからくりを、「チェビシェフの不等式」を用いて説明している数ページは、鳥肌がたち、わくわくしてしまった。いわく、

確率論という不確かさを全面的に取り入れた枠組みの中で、このように(ほぼ)確実な予言が可能だということは、意外なことだし、(特に統計力学への応用を考えるとき)本質的なことだ。

この章には、マクロ現象を理論化するときの重大なヒントが満載のように思える。もちろん、そのとき、向き不向きや限界をわきまえるのは大事なことである。その点については、田崎さんは次のように言及している。

われわれの世界には定量的な分析という観点からは「手に負えない」部分が確実に存在する。マクロな物質の中に潜むきわめて多くの自由度の複雑きわまりない運動は、その典型例である。そのような「手に負えない」側面については、単に予言をあきらめてしまうのではなく、確率の言葉を使った定量的な予言を試みるのは健全な考えだろう。ただし、単に確率的なものの言い方しただけで、科学的・定量的になるわけではない。

 確率論そのものは抽象的な数学の体系であり、それだけでは現実世界の出来事について予言する力はない。抽象的な確率論と現実とを結びつける何らかの解釈の規則が必要である。

ここなんかも、経済学者の「耳の痛い」言及であろう。

 第3章は、シュレジンガー方程式からエネルギー固有状態の離散性と平方性を導出する。ここのところは、ずっと前から離散性と平方性が疑問のるつぼだったぼくには、目からウロコだったけど、興味のない経済学者は飛ばしても問題ないと思う。

 第4章は、最も基本となるカノニカル分布の導出を丁寧に解説している。ここでは、分布の数学的な導出も面白いのだけど、それより何より、分布を導出する「原理的部分」の解説がスゴイのだ。平衡状態は、何の仮定もなしに導出されるわけがない。そこで何が仮定されているかが、明確に、そして哲学的に解説されている。仮定される原理は次のようなものであり、このような記述は、(少ないけど)これまで読んだ統計力学の本では見たことがない。

平衡状態についての基本的な仮定:ある系での(熱力学でいうところの)平衡状態の様々な性質は、対応する「許される量子状態」の中の「典型的な状態」が共通にもっている性質に他ならない。

ここで、「許される」とか「典型的な」とかいう、科学的でない表現が冒険的に使われている。こういう危険な冒険が、本書の魅力なのだ。この原理を元にして、平衡状態から大きくはずれた系が、どうして平衡状態に発展する(平衡への緩和)のかが説明されていく。ここが、科学思想的な意味で、非常に重要なことであり、経済学にも輸入できる観点だと思える。この章の最後のほうで「エルゴード仮説」へ痛烈な批判が書かれている。エルゴード仮説は、いろんな本に書いてあってみんなが認める原理だとばかり思っていたから、これは衝撃的だった。

第4章は、カノニカル分布を計算して導出し、導かれた分布関数を用いて、エネルギーの期待値とゆらぎを計算する公式を提示している。それは、ほれぼれするような綺麗な公式であり、うっとりとした(数理統計でもそっくりの計算が出てきた記憶があった)。とりわけ、二準位系を使って、「低温ではエネルギーがなるべく低いエネルギー固有状態をとろうとし、高温ではデタラメに近い状態をとろうとする」ということを明快に説明しており、このことはすごく重要だと思いながらもなかなか「からくり」が納得できなかったぼくには、目からウロコの説明だった。

 第5章では、カノニカル分布をさまざまに応用している。とりわけ、理想気体の状態方程式を導くところはワクワクものだった。著者はこの方法について次のように書いている。

このようにして、理想気体の状態方程式を導くことができた。もちろん、PV=nRTは高校から知っている関係で、目新しいものではない。しかし、ここでは、そのお馴染みの関係が、気体分子についてのシュレジンガー方程式統計力学一般論だけから導出されたのだ。その意義は十分に大きい。

 気体分子運動論を学んだ読者、ここでのPV=nRTの導出に、気体分子の速度分布、分子が壁に与える力積などなどが全く登場しないことに驚くだろう。確かに、出発点となるのは分子の(量子)力学なのだが、力学と無数の分子の統計的な性質を個別に議論する必要はないのだ。すべて分配関数という「魔法の和」の中に取り込まれていて、半ば自動的に計算が進むのである。

はい、仰る通りで、ぼくはめっちゃ驚きました。

 さて、ここまで読んだところでぼくは、以前、ぼくが校閲を手伝った加藤岳生『ゼロから学ぶ統計力学講談社が、再読したくなった(この本との関係は、統計力学が初めてわかった! - hiroyukikojimaの日記を参照のこと)。この本は、校閲を手伝ったこともあり、相当読み込んでいた。そして、田崎さんの本とは、だいぶ構成方法が違っている印象があったからだ。

再読してみて、加藤くんがどういう工夫をしたかが当時よりずっとわかった。ほぼ、同じような方法論で、ほぼ同じ思想的な背景で書かれていることがわかった。(素人目には、「逆向きに」構築しているかのように見える)。ただ、重要な違いは、田崎本が公理論的な構築性を打ち出しているのに対して、加藤本は現象モデルを提示しながらイメージ的構成を試みている、というところ。加藤本は(褒めすぎかもしれないが)「ファインマン物理学っぽい」のである。とりわけ、前半で導入されている「ゴムの統計物理モデル」は、統計力学の計算が何をやっているのかをイメージするのに抜群に優れているので、田崎本を読んでいて苦しくなったら、この本に寄り道すればいいと思う。

 この二冊を読んでいて痛感したのは、高校で教わった力学というのが、統計力学ではなりを潜めて見えなくなる、ということだ。にもかかわらず、統計力学はミクロとマクロを整合的につなぐ。また、現実も精密に検証できる。この魔法のような手法は、経済学者にも十分示唆的な暗示的な啓示的なものだと思う。しかし、肝に銘ずるべきは、取り込むべきは「方法論」ではなく、その「考え方」「思想」「哲学」なのだ、という点であろう。

2017-01-19

新著『証明と論理に強くなる』は、ぼくの論理学への自問自答なのだ。

01:08

 ぼくの新著『証明と論理に強くなる』技術評論社が刊行されたことは、前回にエントリーした(『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!! - hiroyukikojimaの日記)。竹内薫先生の日経夕刊の書評のおかげで、アマゾンの在庫も楽天の在庫も一気にはけ、幸先良いスタートとなった。おまけに、昨日、大部数の増刷が決まった。刊行後一週間以内の増刷というのは、ぼくにとってはとても久々のことだ。めちゃくちゃ嬉しい。竹内薫大明神さまさまである。アマゾン楽天の在庫が回復したようなので、ここでもう一発、販促の追い打ちをかけようと思う。

前前前世、じゃなかった、前前回(もうすぐ、ぼくの論理学の本が刊行されます! - hiroyukikojimaの日記)では「目次」をエントリーし、前回(『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!! - hiroyukikojimaの日記)では「まえがき」をエントリーしたので、今回は、「序章」の一部を晒そうと思う。

「序章」は、「『証明』と『論理』を学ぶと何の役に立つのか」と題している。この本のテーマについて語っている部分である。まず、見出しだけを列挙する。

(1)「論理学」の論理ってなに?

(2)公務員試験資格試験の論理問題はどう解く?

(3)中高生に論理を教えるにはどうしたら良いか?

(4)数学はなぜいつも正しいのか?

(5)なぜ、三角形の内角の和が180°でない世界がある?

(6)証明法には、何か根拠があるのか?

(7)数理論理の教科書はなぜわかりにくいのか?

(8)ゲーデルの定理とはどう証明されるのか?

*見出し番号は、当ブログでつけたもの

見出しを眺めればわかるように、本書は、ぼくの論理学に対する自問自答を書き綴ったものなのだ。8項目をすべて晒すと、相当な字数になるので、(2)と(6)と(7)だけにしようと思う。

(2)公務員試験資格試験の論理問題はどう解く?

 世の中で、「証明」と「論理」の能力が問われる場面は多くあります。大学入試数学では論理は必須ですが、それだけではありません。公務員試験資格試験・就職の適正試験などで実施される「論理的推論」もそうです。このような試験が課される理由は、数学や理科や歴史などの教科内容を試験すると、修学経験や専門の差が出て公平でないと考えられていることにあるでしょう。「論理的推論」を、教科を超えた普遍的な認識手段だと考え、その能力を見ることで応募者の知的能力を測ろうというわけです。

 これらの「論理的推論」の試験問題は、「日常言語」の形で出題されますが、実は、「日常言語の論理」に見られる曖昧性はほとんどありません。なぜなら、これらの問題は、みかけは日常言語的であっても、数学の論理(数理論理)で解けるように作られているからです。

 見たところ、たいていの学生さんたちは、これら「論理的推論」の問題を勘とかフィーリングで解いています。そうやっていては、正答しても誤答しても、その理由を理解できないでしょう。

 本書では、「論理的推論」の試験を受けなければならない学生さんに向け、勉強の指針を与えるように書いています。本書を読破した後、「論理的推論」の問題集にあたれば、きっと以前よりも理解がよくなっていると思います。

 実はぼくは、とある資格試験予備校経営者と商談をしたことがあり、そこで、(上級)公務員試験のテキスト作りを依頼されたことがある。そのとき、出題されている論理的推論の問題が、(日常論理ではなく)数理論理の問題でありながら、教材ではあまり良い解説(体系的解説)がなされていないことに驚いたのだった。きっと、世の中の受験生は、体系的に勉強することなく、フィーリングで解くか、あるいは、意味不明の暗号操作で解いているのだろうな、と想像した。そういう現状にアプローチした数理論理の教科書は見たことがないので、本書を従来の教科書と差別化するには、うってつけの題材だと思って投入することにしたのである。

(6)証明法には、何か根拠があるのか?

 数学が得意な人は、数学の証明法、例えば、「背理法」とか「数学的帰納法」とかを自然に使いこなせるようになったことでしょう。しかし、用心深くものを考える人、何でも根本的なところが気になってしまう人は、「背理法数学的帰納法は、いったい何をやっているのだろう。そして、なぜ正しいのだろう?」という疑問を持ったかもしれません。

実際、筆者はそういう疑問に突き当たりました。自分では、これらの証明法を簡単に会得できましたが、それがどうして正しいのか、明確にはわかりませんでした。そもそも「証明法として正しい」とはどういうことかも疑問となりました。とりわけ、中高生にこれらの証明法を教えているときには、「例え話」で強引に納得させる顛末に陥り、心の中では秘かに「それじゃ、数学じゃない」という罪悪感を持ちました。

もしも読者が、こういう疑問を持ったならば、それはとても鋭い疑問なのです。安心して下さい、答えは論理学の中にあります。本書を読めば、「証明法として正しい」ということの意味が理解できるはずです。

塾の先生をやっていた頃、これが最も懸案事項だった。もちろん、「背理法」とか「数学的帰納法」とかは、スペシューム光線とか、コブラツイスト(ふ、古い)に匹敵する「決め技」、「必殺技」に当たるものだから、生徒に伝授するのは先生の威厳を示すのにもってこいとなる。塾の先生は、そうやって、権威を示し、尊敬を押し売りするのが生業だ。でも、ぼくは心苦しかった。めっちゃ葛藤があった。。それじゃ、インチキ宗教教義の伝授とどっこいだ。ちゃんとした、「科学的な」、あるいは、「哲学的な」、バックボーンを生徒に示したい、と思ってた。ぼくが欲しかったのは、生徒からの「偽りの尊敬」ではなく、生徒たちの「好奇心にみなぎった未来」だったのである(かっこつけすぎかな。笑)。それが、ぼくに数理論理の勉強に走らせた最も大きな活力だったのである。そんなわけで、本書は、「How」を示すだけではなく、できるだけの、(ぼくの度量で可能なだけの)、「Why」を与えたかったのである。

(7)数理論理の教科書はなぜわかりにくいのか?

 以上のような、あるいは他の、さまざまな問題意識から、数理論理学の教科書をひもといた経験を持つ読者もおられるでしょう。そして、そのうちの多くの人はきっと、困惑に陥ったことでしょう。筆者もこれまで述べた疑問を解決しようと、何冊もの数理論理学の教科書に挑戦しましたが、いつも大きな困惑に直面しました。それは、ほとんどすべての数理論理学の教科書が、以上のような素朴な疑問を解決してくれるものではなかったからです。

 その理由は、数理論理学の教科書が、「数理論理学という数学分野」の研究のための本であって、私たち一般人の素朴な疑問に答えるための本ではないからです。

 例えば、「証明」において使うことが許される「推論規則」が提示されるとき、たいていは、全く見たことのない、わけのわからない「規則」となっていて頭を抱えます。それは、「ヒルベルトの体系」または「ゲンツェンのシークエント計算」、あるいはその派生形です。これらは決して、私たちが普段の数学で使う論法ではありません。なぜそんな奇妙な体系を使うのか、というと、「数理論理学」という固有の数学を展開する(数理論理学の定理を証明する)には、それらの体系のほうが便利だからに他なりません。しかし、これらの「推論規則」は、私たちの普段の論理的推論とあまりに見かけが異なるので、理解するのに大きな努力を要するうえ、「論理的推論ってなに?」という、私たちの疑問の出発点には答えてくれないのです。このことが、多くの一般の読者を論理学から遠ざけてしまう原因だと思います。

 筆者は、何冊もの教科書を読んでいく中で、数学で普通に使われる論法に非常に近い体系を見つけました。それが「自然演繹」と呼ばれる体系です。学校で教わる数学の「証明」は、すべて「自然演繹」の規則に対応づけることが可能です。また、そうすることで、数学の「証明」というものを、前よりも明確に捉えることが可能となります。

 本書では、「自然演繹」を丁寧に解説します。自然演繹を理解することは、「証明とは何をしていることか」を理解することであり、また、「証明のハウツー」を会得することになるからです。

いやあ、ほんとにね、数理論理の教科書を素人が読んでもね、ぜんぜんためにならないと思うよ。それらは、数理論理学というジャンルの専門家の免許を取得するためのものであって、決して、我々の広範な疑問や好奇心を満たすためのものじゃない。別にそれが悪いとは言ってない。ぼくが専門とする経済学の多くの教科書もそうだ。それらは、「生々しい経済活動」についての素人の疑問に答えるようには書かれていない。悪口覚悟で言えば、それは経済学というジャンルで飯を食っていくための「超常的教義」を習得するための呪文の本であって、我々の「生の現実」とは、ある意味での断絶があるんだと思う(ある意味の、意味が大事なんだけど、ここでは論じない)。

でも、数理論理の教科書たちのそういう「傷」が、ぼくには「チャンス」だと思った。専門家でないぼくにも、ある種の役割が、つけいる隙が、あるんだと思った。それは、素人の人のニーズを満たしながら、でも、ちゃんと数理論理の線路から脱線しすぎないような本を書くことができるんじゃないか、ということだ。それで本書を執筆した、というわけなのだね。

 ほ〜ら、読みたくなってきたでしょ? そういう人は、明日、書店に走ろう。ネット書店で、ぽちってもいいぞ。

2017-01-12

『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!!

23:47

 ぼくの新著『証明と論理に強くなる〜論理式の読み方から、ゲーデルの門前まで』技術評論社が書店に並んだので、このタイミングで宣伝をしようと思う。前回のエントリーもうすぐ、ぼくの論理学の本が刊行されます! - hiroyukikojimaの日記では、目次をさらしたので、今回は序文をさらしたいと思う。

以下が、序文である。

まえがき   こんな人たちには、本書がお勧め!

 

本書は、数学における証明のやり方と、論理式の扱い方を解説した本です。本書のテーマは、序章に詳しく書きましたから、そちらをご参照ください。ここでは、きっと本書が役立つであろう人々を、タイプ別に列挙することにします。

 

タイプ1  論理式の読解が苦手な方

 数学をはじめとした少なくない数理分野の書籍や講義では、論理式で内容が記述されます。論理式の読解になじんでいないと、「内容がわからない」だけでなく「表記が読めない」という二重苦に陥ります。本書では、論理式の読解法を丁寧に講義します。

 

タイプ2 公務員試験などの論理の問題に苦労している方

 就活資格試験では、論理の問題が出題されます。これらの問題は、日常言語で記述されていますが、実は数学の論理の問題です。この手の問題は、フィーリングで解いている限り、いつまでたっても上達しません。本書で、論理式の真偽を学べばハウツーが身につけられます。

 

タイプ3 数学の証明を勘でやっている方

 多くの人は数学の証明で苦心していることと思います。しかし、証明とは単なる推論規則の適用にすぎず、実は十数個の規則だけでまかなわれています。一度、その規則をわかってしまえば、証明を読んだり実行したりすることが、かなり楽になるでしょう。

 

タイプ4 中高生に証明や論理を教えるのに苦労している先生方

 中高生の数学の授業で証明や論理を教えるのは、非常に難しい仕事です。ともすると、丸暗記の押しつけに陥り、学生たちを数学嫌いにしてしまいます。本書の中には、証明教育や論理教育のヒントが散りちりばめられています。

 

タイプ5 思考とか認識ってどういうこと?という疑問を持つ方

 私たちが「ものを考える」とは、いったい何をしているのか。これはとても難しい問題です。このような「人間の認識とは何か」を解くカギは、証明と論理の中にあると言っても過言ではありません。

 

これらのいずれかのタイプにあてはまる方は、ぜひ、本書を手にとってみてください。

 実は、今日の日経新聞夕刊の「目利きが選ぶ三冊」のコーナーで、竹内薫さんが書評を書いてくださった。しかも、最も大きな扱いで、さらに☆五つ! ありがたやありがたや。内容も、とても本書の特徴を掴んでいて嬉しくなった。さすが竹内さんだ。アマゾンの在庫があっという間にはけた。すげえ。

 本書のタイトルには、「ゲーデル」がついているけど、正直、それは刺身のつま。本書の意図は、それとは全く別のところにあるのだ。数理論理学の通常の教科書とは、かなり脇道に逸れた書き方をしている。なぜなら、数理論理の学徒に読んで欲しい本ではないからだ。(数理論理とか基礎論の学徒は、啓蒙書なんて読んでないで、ちゃんとした教科書を読みたまえ!)。本書の想定読者は、「論理ってソモソモなに?」「証明するって、ソモソモどういうこと?」って疑問を持つ人たち、ソモソモ人たちなのだ。だから、通常の教科書のように、「これが読解できなんなら、どうせこの分野には向いてないから諦めな」という突き放しかたはしない。それこそ、懇切丁寧に、まるで古文のあんちょこのように、すべての論理式に「逐語訳」がついているから、スラスラと読み進める(はず)。そして、ぼくが過去に抱いたような疑問を抱いている人たちには、かなりの程度で、その疑問に答えていると思う。

 それってどんな疑問?ってことについては、次回にエントリーしようと思う。

2017-01-01

もうすぐ、ぼくの論理学の本が刊行されます!

18:56

 明けましておめでとうございます。昨年は、当ブログをご愛読くださりありがとうございました。

今年の初エントリーは、もうすぐ、1月11日に刊行されるぼくの新著の紹介をさせていただきましょう。(一部の書店では既に販売されているようです)。

 本のタイトルは、小島寛之『証明と論理に強くなる〜論理式の読み方から、ゲーデルの門前まで』技術評論社。これは、ぼくの長年の論理学との格闘から生まれた本。ある意味では、宿願とも言える刊行である。

刊行までまだ10日ほどあるので、今回は、目次だけをさらすこととしよう。次のようになっている。

『証明と論理に強くなる〜論理式の読み方から、ゲーデルの門前まで』目次

  

序章 「証明」と「論理」を学ぶと何の役に立つのか?

  

<第1部 論理式に慣れよう>

第1章 論理式を読めるようになる

第2章 論理式の真偽は考える世界で変わる

第3章 大学入試公務員試験を解いてみよう

  

<第2部 証明するとは何をすることか>

第4章 言語と推論

第5章 「等しい」とはどういうことか?

第6章 「かつ」「または」「ならば」「でない」の推論規則

第7章 「証明できる」と「正しい」の関係

第8章 述語論理を読めるようになる

  

<第3部 自然数を舞台に公理系を学ぶ>

第9章 1+1=2を証明しよう

第10章 ∀と∃を操作しよう

第11章 数学的帰納法とはどんな原理か

  

<第4部 ゲーデルの定理の予告編で終わる>

第12章 ゲーデルの定理、その予告編

  

<補足>

A. 「命題論理の自然演繹の完全性定理」の証明

B. 「等号の演繹システムの完全性定理」の証明

C.  ニセ自然数はメカ自然数Qのモデルであることの確認

D. 「ホフスタッターの定理」の証明

少しだけ追加の説明をしよう。

本書は、ぼく自身の数理論理に関する自問自答を執筆した本、ということができる。

詳しくはあとがきを読んで欲しいが、ぼくは人生の中のいくつかの局面で、数理論理を勉強しなければならないはめになった。その中で、最も重要で、最も追い詰められたのが、塾で中高生に数学を教えているときだった。

中学生にユークリッド幾何を教えるとき、ちゃんとわかってもらおうとすれば、公理とか推論規則とかに抵触せざるを得ない。そうなると、「やっていい推論は何か」とか、「証明された定理が正しい、とはどういうことか」とかが問題になる。これらに、胸を張って答えるために数理論理の勉強が不可欠になったのである。

それ以外の単元も、数理論理と無縁ではない。証明問題の解法を教える際、「背理法」とか「数学的帰納法」とかが出てくる。このとき、鋭い生徒からは、「背理法は、どうして正しい論法なのか」とか、「数学的帰納法とはいったい何をやっているのか」とか、いじわるな質問が飛んでくる。教師の良心として、逃げずにごまかさずに、誠実に解答をしたい。そうなると、数理論理に取り組まざるを得ない。

このように、本書は、「数学講師としてのぼくの魂が書かせた本」と言える。だから、本書が最もフィットするのは、中高生に数学を教えていらっしゃる先生がたであろうと思う。

 塾講師時代に、幸運にも、同僚に数理論理の研究者がいた。その人が、ゲンツェンのシークエント計算とか自然演繹とかを高校生に向けてレクチャーしていたので、ぼくも講義にもぐらせてもらい、だいぶ下地ができた。でも、その直後に、経済学大学院入学したので、数理論理から遠のくことになってしまった。大学院でも、実は、松井彰彦先生のゲーム理論セミナーで、論理学の本の輪読に参加したことがあった。今思えば、とても効率的な学習の場だったのだけど、ほんちゃんの経済学の勉強を優先したため、たいして身につかなく、本当にもったいないことをした。

 かなり本格的に数理論理の教科書や専門書と取り組んだのは、拙著『数学的推論が世界を変える』NHK出版新書の企画が持ち上がったときだった(詳しくは、新著『数学的推論が世界を変える〜金融・ゲーム・コンピューター』が出ました! - hiroyukikojimaの日記参照のこと)。この本は、金融、コンピューター、ゲーム理論、数理論理をクロスオーバーさせるエキサイティングな本で、ぼくの経済学上の興味を結晶させたものだった。

本を書くからには、数理論理について、かなりきちんと理解しなければいけない。それこそ、数理論理を組み入れた経済学論文が書けるぐらいまで、ちゃんと吸収したい。そういう思いで勉強を行った。

 今回は、その勉強をまとめる形として、本書を執筆した。本書は、さきほども言ったが、経済学者としてではなく、数学教師として、あるいは、数学エッセイストとして、(数理論理の専門家や学徒以外の)多くの一般の人が証明や論理について疑問に思っているであろうことに答えることを志したのである。刊行日が近くなったら、ごり押しの宣伝をする予定なので、お楽しみに。

2016-12-23

もはや思想書と呼ぶべき数学書

03:46

 今回は、黒川先生の新著である黒川信重リーマンと数論』共立出版をエントリーしよう。

この本は、「リーマンの生きる数学」というシリーズものの第1巻。リーマン歿後150年を記念して刊行が開始されたシリーズだ。第1巻の本書は、リーマンゼータ関数から発展した数論の全貌を鳥瞰し、リーマン予想解決への道筋を模索した内容となっている。

 本当は、来月に刊行されるぼくの新著、小島寛之『証明と論理に強くなる』技術評論社を紹介しようか、と思ったのだけど、刊行がまだだいぶ先(1月11日)なので、来週あたりになったら、エントリーすることにしたのだ。(お楽しみに)。

 実は、本書黒川信重リーマンと数論』共立出版は、目次を見た段階では、「ぼくには読み通せない本かな」という予感を持っていた。かなり高度な数学が展開されていそうで、歯が立たなそうだったからだ。でも、予想は嬉しい方角に裏切られた。なんと、最後まで「目を通せて」しまったのだ。もちろん、「読みこなせた」わけではない。斜め読みしたところはたくさんある。でも、飛ばすことなく、最後のページまで到達したことは間違いない。飽きることなく、諦めることなく、突き放されることなく、最後まで連れていかれてしまったのである。それはなぜか。

 それは、本書が、数学書の領分を超えて、もはや思想書とでも呼ぶべき高みに達している、からなのだ。以下、それがどういうことかを順を追って説明する。

 まず、本書は、各数学者の業績を、緻密に考証し掘り起こしている

多くの数学書は、(ぼくの書いた啓蒙書も例外ではなく)、孫引きがほとんどだったり、また、誰かが整理整頓した記述に頼ったりしている。対して本書は、(黒川先生の本は、本書に限らずいつもそうなのだが)、原論文にアクセスした上で、正しい記述や見逃されている事実を掘り起こしている。例えば、俗にライプニッツやグレゴリーの発見とされる「奇数の逆数の交代和が、π/4となる」(1−1/3+1/5−1/7+・・・=π/4)が、実は、彼らより300年も前にインドのマーダヴァが発見したことを指摘している。どうも、マーダヴァは、三角関数級数展開を得ていたらしい(微積なしで??)。あるいは、メルテンスという数学者1874年論文で示した公式(x以下の素数pに対して、1/pに(−1)^(p−1)/2を掛けて1から引いた数たちを掛け合わしたものの極限がπ/4になる)が、現代ではほとんど忘れ去られているが、実はこれは深リーマン予想第一歩となっていることを掘り起こしている。はたまた、ハッセ予想のきっかけとなったアンベールという数学者が、同姓同名の別人と混同されることが多いことなども指摘している。

 次の点が非常に大事なのだけど、本書は、リーマンの研究に関するかなり踏み込んだ再考証となっている

第二部は、オイラー以前→オイラー→ディリクレ→リーマン、という歴史順に、ゼータ関数の誕生をたどっている。そして、リーマンについては、死後60年以上を経過したあとに、ジーゲルが遺稿を解読して発見されたことを踏まえて検証しているのである。例えば、ハーディをスターにした「リーマン予想が成立する零点の個数の評価」と同等の結果を、リーマンが既に得ていたことなどが指摘されている。この点について、黒川先生は次のように記している。

以上のことは、リーマンの1859年の論文リーマンの研究の真実を伝えていないという教訓となる。リーマンは将来に詳細を書くことを予定していたのだと思われる。

この章がとにかくすごいのは、こんな風に、「黒川先生がリーマンの霊と議論している」かのように読めることだ。なんということか、「リーマンの全数学を合わせれば、リーマン予想の証明に至ったのではないか」という願望までが書かれている。リーマンは、きっと、こんなアプローチを企てていたに違いない、と。こういうところに、数学者の魂のあり方が垣間見られる。

 とは言ってもぼくには、本書での「有限ゼータ関数」と「行列のゼータ関数」の指南がものすごいツボだった。

今まで、何度か黒川先生と対談させていただき、いろいろなことを発見し腑に落ちたのだけど、一つ今までよくわからないことがあった。それが、「ゼータ関数の零点と行列の固有値が関係する」ということだった。本書には、この点が丁寧に解説されている。第2章「行列の整数ゼータ関数」と第3章「行列の実数ゼータ関数」がそれである。これらは、「行列からある計算でゼータ関数が定義され、それが関数等式を持ち、リーマン予想の類似が成立する」というもの。証明は簡単だけど、「行列のトレース(対角成分の和)が基底変換に対して保存される」という法則の見事な応用となっていて驚く。しかも、にわかには信じられないことだが、この方法論が、合同ゼータ関数やセルバーグゼータ関数に対するリーマン予想の証明(第8章で解説)の急所にもなっているのだ。ぼくはこの解説で、今までわからなかったこれらの証明に関して視界が開けた(ざっくり理解に達した)幸福感を味わうことができた。

一方、「有限ゼータ関数」というのは、有限和で作られるゼータ関数のことで、ぼくは全くこれを知らなかった。すごく簡単な関数だけど、関数等式も、オイラー積表示も、リーマン予想も成り立つことは全く驚きであった。高校生に教えるにはちょうど良いと思う。

 最も胸が熱くなったのは、最後の章に書かれた、黒川先生自身のリーマン予想証明の「提案」だ。

普通の数学書には、こんなことが書かれることはないからだ。もちろん、それはまだ、「青写真」でしかなく、「夢」の段階だけど、なぜそういうアウトラインを作るのかについては、本書一冊読んでくれば強い説得力がある。ちなみに、ここでも、「行列のトレース」のアイデアが活かされている。もしも、この方法で将来、リーマン予想解決されたなら、本書は予言の書となる。リーマン自身が自らの研究の中で発想した夢想が、黒川先生の考察を経て、黒川先生か誰か他の数学者の腕力によって実現されたことを、後生に書き残す本となる。そして、読者はその生き証人となるのである。