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hiroyukikojimaの日記

2017-05-21

『マンガでやさしくわかる統計学』が刊行されました!

13:27

 ぼくの新著『マンガでやさしくわかる統計学日本能率協会マネジメントセンターが、ネット書店にも入荷され、書店にも並び始めたので、ここできちんと紹介しよう。(ちなみに、前回もぼくの新著、マンガ統計学が出ます! - hiroyukikojimaの日記で紹介しているので、こちらも参照のこと)。

この本は、統計学の解説書だけど、マンガと解説がおおよそ半々になっている。マンガでは、「ピンチの商店街を統計学を使って復活させる」というサクセス・ストーリーを描いている。マンガのところどころに、統計学の計算が導入されているが、きちんとした解説は活字で行うようになっている。ぼくが担当したのは、マンガのストーリー作りの手伝いと、解説部分すべてだ。

全部をマンガで読みたい、という読者には不満が出るかもしれないが、ぼくはこの形式のほうが、全部マンガ、より優れていると思う。解説するジャンルによるとは思うが、数理系の解説書の場合、マンガの中に数式を入れるのは無理がある。数式が「背景」に埋まってしまうし、登場人物が吹き出しの中で数式について解説するとどうしても舌足らずになり、説明が十分ではなくなる。また、マンガの流れを断ち切ってしまう恨みがある。本書では、「スト−リーはマンガで、解説は活字で」、と役割分担をしており、それはむしろ有効に働いていると思うのだ。

今回は、本書の見所を二つほど紹介したあと、序文の一部をさらすことにしよう。

まずは、(前回に紹介したが)、本書の主人公の三浦晴香ちゃんは、ぼくがファンのとあるアイドルがモデルとなっている。右の娘だ。

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そのアイドルが誰かは、(恥ずかしいので)あえていわない。ヒントはいちおう巨乳ということで。笑。ちなみに、左の男は、もう一人の主人公・数沢九十九准教授。このモデルが誰なのかはよくわからない。みんなでキャラ作りをしている際、女性のスタッフが、好みのイケメンをあげつらい、そのとき出たのは、西島秀俊とか竹野内豊とか、渋めの俳優だった。(どうゆう趣味してるねん、と心の中で笑ってた)。たぶん、マンガ家さんはこれらは参考にしなかったのじゃないかと思う。

 本書のもう一つの見所は、ぼくの統計学の前著『完全独習 統計学入門』ダイヤモンド社と相補的な関係にある、ということだ。本書はマンガだし、前著ほどに豊富な解説はしていない。カイ二乗分布とかt分布とかを使った推定は諦めた。しかし、その分、ページの余裕が出来たので、「統計的推定とは、いったいどんな思想で、何をやっているのか」について前著には書かなかった解説を導入している。とりわけ、統計的推定というのが、「確率の逆問題(観測値から母集団パラメーターを決定する)」というものであることを明らかにし、それを「確率の順問題(通常の確率の操作)」にどうやって書き換えるのか、ということを詳しく解説している。これこそが、統計学の思想であり、本質であると思うのだ。

したがって、前著『完全独習 統計学入門』を読んでくださった方も、いや、そういう読者こそ、本書は勉強になるはずだ。

 では、以下、序文を途中までさらすことにしよう。(全部だと長すぎるので)。

統計学に強くなる・仕事に活かす

 現在、統計学に対する関心が非常に高まっています。とりわけ、ビジネスシーンでは、必須アイテムの座を築きつつあります。

 その背景には、米国の企業が、ビジネスにマーケティングという技術を導入していることがあります。これは市場の動向を科学的に探ろう、というものです。マーケティングにおいては、消費者の嗜好(プレファレンス)を見抜くことが最も大切です。マーケターたちは、統計学を使って、市場調査し、商品の企画を立て、売り込みを行うのです。その手法は、完全に統計学に立脚する科学的なものです。驚くべきことですが、消費者の動向には科学法則が存在していて、統計学を使えばそれらをあぶり出すことが可能なのです。

 そんな米国企業の戦略を見て、我が国ビジネスパーソン統計学を知りたい・わかりたい、という欲求を強くしています。ところが、残念なことに、日本語の統計学の教科書は、アカデミックに書かれたものばかりで、ビジネスへの配慮がありません。学者になりたい人が学ぶにはいいですが、ビジネスに活かそうと思うと「あさっての方向」と感じることでしょう。さらに困ったことには、これらの教科書は、高校以上の数学を前提として書かれています。したがって、学習者がこれらの教科書を手にすると、「難しい上、ピントもずれてる」という二重苦に陥りがちです。

本書は、その困難を克服するために、二つの工夫をしました。

第一の工夫は、「ストーリー・マンガを使って、ビジネスにピントを合わせる」ことです。「マンガ統計学」と題された本はこれまでもたくさんありましたが、それらはだいたい「登場人物が統計学を講義する」というもので、統計学自体のスト−リーがありません。本書はそれらとは異なり、登場人物たちが統計学を実際のビジネスに活かしていくストーリーになっています。そのビジネスも、「商店街を復活させる」という卑近でリアルな題材を選びました。

第二の工夫は、「高度な数学をイメージ図に置き換える」ことです。ページをぱらぱらめくってもらえばわかるのですが、多くのイメージ図によって、統計学の数式を図像化しています。とりわけ、推測統計の本質でありながら最も理解の難しい無限母集団を、「福引き箱」のイメージ図を使って具体化する工夫は、本書最高の「売り」です。本書がマンガを使った解説書であることが、このようなイメージ図の手法とマッチし、読者の理解を強化できる自信があります。

 実は、統計学がビジネスにリアルに利用できることは、森岡毅さんの本を読んでわかった。そして、思いっきりのけぞった。このことについては、いずれエントリーしようと思う。本書は統計学の基本を解説する本だから、森岡さんのような「マーケティングへの直接的利用」とまでは言えないけど、その発想にできるだけ近づけてあるつもり。

 それでは、当ブログ読者の皆さん、かわいい晴香ちゃんと一緒に、統計学を勉強してくださいな!

2017-05-15

ぼくの新著、マンガ統計学が出ます!

13:26

 ぼくの新著『マンガでやさしくわかる統計学』日本能率協会マネジメントセンターの刊行まであと一週間を切ったので、満を持して宣伝しようと思う。

楽天はこちら。

アマゾンはこちら。

この本は、ぼくの統計学の本では、『完全独習 統計学入門』『完全独習 ベイズ統計学入門』(共にダイヤモンド社)に続く三冊目となる。統計学が専門でもなく、また、若い頃は好きでもなかったぼくが、三冊も統計学の本を書くとは、人生不思議な巡り合わせだ。統計学の面白さはどこにあるか - hiroyukikojimaの日記にエントリーしたように、ぼくは今では、統計学がとても面白く、また、ある程度統計学に近い距離にある「意思決定理論」という分野を専門としている。簡単に言えば、数学を専攻していた青年時代は、「完全無欠な演繹体系」としての数学にしか関心がなかった。それは同時に、「この生々しい現実世界」にほとんど興味がなかった、ということを意味する。そして、経済学を専攻するようになった中年以降は、「この生々しい現実世界」こそが興味の対象となり、「どうやったって不完全な情報しか得られない中での帰納体系」としての統計学に強い関心を抱くようになったのだ。

 でも、そういうふうに統計学に関心を持ってみると、世の中にある統計学の教科書に不満を持つようになった。ほとんどの教科書は、あまりに淡泊な記述をしていて、「どうやったって不完全な情報しか得られない中での帰納体系」としての統計学、という視点を強調していないからだ。まあ、統計学の教科書の執筆者たちは、「そんなことは自分で気取れ」と思っているのか、あるいはもしかすると、ぼくのような感じ方をしてないのかもしれない。だからぼくは、自分が感じる統計学の魅力と本質を伝えるような本を書きたいと思って、教科書を執筆した。

 今回の『マンガでやさしくわかる統計学は、マンガ企画ということで、前著とは異なるアプローチをしている。まず大きいのは、コラボ作品だ、という点。統計学の解説部分はぼくが書いているが、マンガのシナリオは葛城かえでさんが、マンガは薙澤なおさんが担当している。ストーリー自体は、この三人に、編集者さんと編プロのかたが加わった5人で、ああでもないこうでもないと議論して構築した。自分の意見が反映されたストーリーが、マンガとして実現していくのは、このうえなく楽しいことだった。

 前著『完全独習 統計学入門』を読んでくださったかたは、この本と今回の新著との関係に関心があろうから、それについて述べよう。

完全独習 統計学入門

完全独習 統計学入門

 『完全独習 統計学入門』は、10万部超のセールスを収めた教科書だ。実は、つい先日に、1万部増刷になった(初版部数より多いやんけ)ので、11万部超ということになる。本書が多くの読者に歓迎されたのは、「数式をほとんど使わない」という工夫をしたからだ。シグマも使わない、順列・組み合わせも、確率も使わない、使うのは、中学数学(それも、せいぜいルート)だけ、というのが数式を苦手とするけど、統計学を学びたい読者にアピールしたと思う。

 この「数式をほとんど使わない」というのは、単なる「ごまかし」のためのネガティブな戦略ではないのだ。そうしたほうが、「どうやったって不完全な情報しか得られない中での帰納体系」という統計学の思想がストレートに伝わる、というポジティブな戦略だったのである。喩えてみれば、野菜の味は調理しないで生で食べたほうがよくわかる、ようなものである。そういう発想は、今回の新著でも踏襲している。今回も、「数式をほとんど使わない」ことによって、統計学はいったい何をやっているか」を浮き彫りにしている。

 それじゃ、前著だけ読めば十分じゃないか、というツッコミをされそうだが、そうじゃないんだな。今回は、『完全独習 統計学入門』で扱っていない内容がいくつかある。例えば、「差の検定」という方法論は、当時はあまり大切とは思わず、前著では省略したものだ。新著では、これをクライマックスに持ってきた。前著を刊行したあと、実は、「差の検定」を扱えば、統計的推定を理解するための多くの項目が網羅される、と気づいた。母集団正規分布正規分布の差、検定の発想法、2つの標本グループからの真の母平均の推定などなど。だから、「差の検定」をメインのアイテムにもってくれば、統計学技法の本質がものすごくよくわかる。このことに気づいたのは、前著を刊行したあとだったのだ。

また、あまり大きな声では言えないが、前著『完全独習 統計学入門』では、少し舌足らずな説明になった部分がある。その一つは、正規母集団から複数の標本を観測するときの標本平均の分布についてだ。この説明が伝わりにくいことが、大学でこれを教科書にして講義をしていて気がついた。それで、学生たちをモニターに、いろんなパターンの説明を試みて、今回の教え方を構築したのだ。新著での「福引き箱の足し算イメージ」が、現状では、最も伝わりやすい教え方のように思う。だから、前著を読んだ人も手にする価値があるはずだ。(っていうか、是非、手にして欲しい。笑)。

 「まえがき」等は、週末に刊行された頃に公開するので、今回は、もう一つだけ。

実は、このマンガの主人公・三浦晴香ちゃんのモデルは、ぼくが大ファンアイドルなのだ。打ち合わせで、主人公をどんなキャラクターにするかを議論しているとき、「ぼくが○○のファンで」と言ったら、「じゃあ、○○をモデルにしましょう」と決まった。こんな感じ↓

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自分がファンアイドルが主役だから、がぜんやる気が出て、めちゃくちゃウキウキと仕事をした。今回ほど、本を書くのが楽しかったのも珍しい。そのアイドルが誰だかは、あえて言わないので、(本を買った上で、笑)、是非当ててみてほしい。

 

2017-04-28

棋士は、苦境の中でどう心を支えるか

23:38

今回は、将棋の現名人・佐藤天彦さんの『理想を現実にする力』朝日新書を紹介しよう。

この本の編集者さんは、実は、ぼくの本を二冊も世に出してくれた人だ。そして、その編集者さんが棋士の本を企画したことに、ぼくとの仕事が少し影響を及ぼしている。このブログで何度も書いたが、ぼくの中学時代の親友にプロ棋士になった人がいる関係で、ぼくは将棋に強い関心を持っており、普通の人よりには将棋周辺の話題に詳しい。実際、森内俊之永世名人のことを何度かエントリーしている。(森内名人の就位式に参加してきますた。 - hiroyukikojimaの日記赤い公園のライブのこと、森内二冠の就位式のこと - hiroyukikojimaの日記なぜ複数の天才が同期に生まれるのか - hiroyukikojimaの日記など)。その編集者さんと書籍について歓談するとき、ぼくは将棋の話をけっこうしていたのである。

さて、佐藤天彦さんは、現在、将棋の最高位・名人の位にある天才だ。しかも、今期の叡王戦で優勝し、叡王として最強の将棋ソフト・ポナンザと対戦している渦中である。ある意味、(中学生棋士・藤井くんを除けば)、今、最もホットな話題の棋士である。

本書は、佐藤天彦さんの将棋に対する考え方が、さまざまな角度から語られる味わい深い本である。将棋ファンなら、非常に楽しめることは言うまでもない。

でも、この本には、将棋をしない人、将棋をよく知らない人にも、とてもためになる内容を持った本なのだ。それは、「苦境の中でどう心を支えたらいいか」についてのヒントが得られるからだ。

ぼくは、将棋ファンとしてこれまで、羽生善治さんの新書、森内俊之さんの新書は欠かさず読んできた。佐藤天彦・名人の新書は、それらの新書とは、ちょっと違うフレーバーを持っている。それは、「苦境の中にある」ときのことが、赤裸々に語られているからだ。佐藤名人も、名人位を獲得したのだからもちろん天才に他ならない。でも、羽生永世名人や森内永世名人に比べると、棋士生活が順風満帆だったとは言い切れない。ぼくも、本書で初めて知ったのだけれど、かなりな「苦境」をかいくぐってきたのである。だから、本書には、我々一般人が共感できる要素も多い。特にぼくなんかは、これまでの人生の3分の2の年月が「苦境」だったので(笑)、人ごとではない感慨を覚える。

ぐっとくる話が冒頭に書いてある。それは、羽生名人から名人位を奪取した7番勝負の第2戦についてのエピソードだ。引用してみよう。

初戦を落とした私は、この将棋に背水の陣で臨んでいました。開幕戦で負けただけで?と疑問に思われるかもしれませんが、そうではありません。当時、私は公式戦で六連敗中でした。四、五連敗までならば内容が悪くなければそれほど気にしませんが、さすがにここは結果を出さなければいけないと追い詰められました。(中略)。当時、私は自分が懸命に研究を積み重ねた戦法で失敗し続けていました。そのときの私は確かに技術的には着実に向上していたはずです。しかし、その一方で少しずつ新しい発見や自分で考える楽しみがなくなっていました。その結果、集中力が下がってしまった。要するにモチベーションが上がってこなくなっていたのです。このときの不調は、ここに敗因があったと分析しています。

苦境の自分をこのように客観的に分析できる精神力はすごいと思う。そして、この分析をもとに、この勝負でこれまでと違う戦法を用いて羽生さんに勝利し、それをきっかけに四連勝をして名人位を奪取することになったのである。苦境の自己分析は、苦境脱出に役立つ、ということなのだ。

本書で、とりわけ読み応えがあるのは、第3章「奨励会を生き抜くということ」である。奨励会というのは、棋士の養成組織のこと。ここを勝ち抜けして、4段になるとプロ棋士ということになる。ところが、この奨励会を勝ち抜ける、ということが壮絶なほど大変なことなのだ。まず年齢制限がある。21歳までに初段、26歳までに四段にならないと、強制的に退会させられる。一年に四人しか四段に勝ち抜けできない。そのため、奨励会入会者の約八割が脱落する。この奨励会時代の回顧は、本当に、「苦悩」に満ちた記述が満載だ。例えば、次のような感じ。

奨励会時代は負けて悔しい、と思うことはほとんどありませんでした。というのも「悔しい」というのは、比較的余裕のある感情だと思うのです。

例えばいまの私はプロになっているので、悔しさも将棋の醍醐味の一部、将棋を戦ううえで自然に起きてくる感情です。でも奨励会時代の私は、自分が負けると悔しいどころではなくて、人生が本当に閉ざされるかもしれないという切羽詰まった状況でした。(中略)。将棋の醍醐味の一部である「悔しさ」を感じている余裕がなくて、「次に勝つためにはどうしよう、何とかしなきゃいけない」と常に全力で模索していました。

 だから奨励会時代は、勝っても楽しさや喜びを感じたことはありません。

「人生が本当に閉ざされるかもしれないという切羽詰まった状況」というのは、ぼくも数学を勉強する中で遭遇したことがあるので、(レベルは違うけれど)、とても共感できる感情だ。(ぼくの場合は、本当に、数学人生が閉ざされてしまった)。多くの人も、このような状況に多かれ少なかれ、遭遇したことがあると思う。とりわけ、学者を目指している院生は、今現在、同じ「苦境」を経験しているんじゃないだろうか。高校在学中にプロになれなかった佐藤さんの次の記述などは身につまされることだろう。

高校卒業までにプロになれなかったというのは、実際には心理的金銭的に危機的な状況でした。家族にいつまでも仕送りをもらい続けているわけにもいきませんし、ただそうは言っても、十八歳で奨励会員の自分に生活力があるはずもありません。そこで「あと一年だけこのままやらせてください」と父親に頼みました。それでもダメだったら、奨励会を辞めるか、続けるなら実家に帰るかを選ぶという約束をしました。(中略)。

物事はなんでもそうだと思いますが、悪い状況が続くと、それをはね返すだけのパワーが生まれてこなくなります。だから二十歳になる前、高校卒業後の一年間で勝負できなければ、どのみちプロになっても大成できないかもしれない。それなら二十六歳の年齢制限を待たずにあきらめをつけて辞めようか、と思ったのです。

羽生さんや森内さんは、(聞いたことがないので知らないけど)、こんな気持ちを抱いたこと、こんな境地に追い詰められたことはないと思う。そういう点で、佐藤名人は、彼らとは異質の名人なんじゃないか、と感じるのである。それは、次の一文に強く表れている。

その一方で私は「プロ棋士になるだけが人生ではない」とも思っていました。確かに一奨励会員の立場としては、プロになることがすべてです。ただ、そこから視野を広げて一人の人間としてみれば、世の中にはたくさんの仕事があって、それぞれの良さがある。そう認識しないと、プロ棋士になったら自分を偉いんだと勘違いをしてしまうかもしれない。

この気持ちの持ちようはすばらしいと思う。ぼくは、数学を断念するとき、こんな気持ちは持てなかった。他の仕事になど関心がいかなかった。ひょっとすると、佐藤名人が棋士になれて、ぼくが数学者になれなかった、その分かれ目は、このような「世の中全体に対する敬意と謙虚さ」の違いだったのかもしれない。ぼくには、卑屈さと同時に傲慢さがあったのかもしれない、と今は思う。

第4章でも、苦境が語られる。それは、順位戦C級2組の突破に四年もかかってしまった時期のことだ。本書を読むと、これが後に名人となる天才の回顧録とはとても思えない。苦境の中でもがき続ける若者の、初々しい手記のように見えて仕方ない。だからこそ、佐藤名人は、これまでとは異なるタイプの名人であり、それゆえ、天才の武勇伝とは次元の違う励ましを我々が得ることができるのである。

大事なことは、佐藤名人が数々の苦境に遭遇しながら、その都度、その中の自分を冷静に分析し、自分の心を支え、活路を見出したことだ。我々は、人生のたいていの時間、苦境の中にある。そんな我々は、本書を読むことで、苦境の中での振る舞い方を学ぶことができる。いかなる仕事に従事しているにしても、「名人」になる能力はもちろんないにしろ、苦境をやりすごし苦境の中をタフに生きるすべを本書から学べるのである。

 最終章第6章は、旬な話題「コンピューターとの対決」だ。ここは、多くの人が興味深いだろう。AIのことをどう考えたらいいか。ここでも佐藤名人の考え方は、「若手棋士っぽい」し、非常に参考になる。

2017-04-15

将棋の実況解説のような数学書

17:55

 今、素数に関する本を書いているので、素数についての資料を集めている。とりわけ、解析数論の本とゼータ関数に関する日本語の本は、片っ端から取り寄せている。今回は、その中から、小山信也『素数からゼータへ、そしてカオスへ』日本評論社を紹介しよう。

 その前に、最近観たアニメの感想をいくつか。

前回(「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされた - hiroyukikojimaの日記)にエントリーした通り、魔法少女まどか☆マギカの虜になったせいで、このところ、アニメづいてしまっている。いや、本当はそうじゃなくて、昨年、大学のホームルーム系の授業で、学生からこの素晴らしい世界に祝福を!を勧められて、ちょっと観たらはまってしまったことが直接のきっかけだったのだ(恥ずかし)。このアニメでは、とにかく、爆裂魔法の使い手のめぐみんが爆裂にかわいい。

で、最近観たのは、新海監督の言の葉の庭と、新房監督の化物語だ。

言の葉の庭』は、なかなか雰囲気のある作品だった。高校生と年上の女性との淡い恋の物語。ぼくも、高校生の頃は、年上の女性に憧れる傾向があったので、(年下に行くと、まずい性癖になっちまうが)、この感じはとても共感できる。また、ほのかに漂うフェテシズムもそそられる(やばい)。ぼくとしては、『秒速5センチメートル』よりも、この作品のほうが好みだった。『秒速5センチメートル』→『言の葉の庭』→『君の名は。』と時系列で並べてみれば、どんどん完成度が高くなり、『君の名は。』で大ヒットを手にするのは、とても納得できる。

化物語』は、『魔法少女まどか☆マギカ』の監督ということでレンタルしてみた。いやあ、これもまた、斬新なアニメで、とんでもなく面白い。

とにかく、主人公の阿良々木くんと戦場ヶ原さんの会話がめちゃくちゃ面白い。とりわけ、戦場ヶ原さんのツンデレなキャラにそそられる。こんな女子高生がいたら、墜ちてしまってもいい(笑)。プチエロなところも夜中に酒呑みながら観るには適している。なにより、アニメの作画と展開があまりに斬新で飽きない。迷子の小学生の八九寺ちゃんの回には、とにかくぶっとんだ。こんなすごい作品があったなんて全く知らなかった。

 さて、小山信也『素数からゼータへ、そしてカオスへ』日本評論社に戻ろう。

この本を全部を読解することは、少なくともアマチュア数学愛好家には無理であろう。ぼくも、半分くらいしか読解できず、歯がたたない部分が多い。ただ、読解できる部分については、非常に得がたい内容なので、半分、あるいは3分の1しか読解できなくても手に入れる価値が十分ある本なのである。

何が「得がたい」かというと、数学者が定理や法則をどのように見つけ、どのようにアプローチするか、という点について「腹を割った話」をしてくれている点だ。喩えてみれば、それは、プロ棋士による将棋の実況中継に近いものである。

プロ棋士の勝負において、単なる観戦者が欲しいのは、「棋士が、なぜ、何のために、その手を指したか」ということだ。でも、だからと言って、複雑に分岐するその後の予想手順をつぶさに知りたいわけではない。そんなものを知っても、自分に指せるわけではないし、理解するつもりもない。ぼくに至っては、将棋を指す予定さえない。観戦者が知りたいのは、その手の背後にある茫洋とした発想・思想・主張なのである。できれば、それを(将棋固有の言語ではなく)「普通の言葉」にして欲しいのである。

数学の本を読むときも、ぼくは将棋の実況解説なようなものを望んでしまう。別に数学の研究をしようと思わないし、論文を書くわけではないので、緻密な証明や、デリケートな部分の注意なんていらないのだ。そんなことを知ったって、自分の仕事には役立たないし、時間の無駄だからだ。ぼくが知りたいのは、数学者がその定理を見つけたときの、その背後にある茫洋とした発想・思想・主張なのである。

そういう意味で、本書は、随所でそういう記述にチャレンジしてくれていて、とても溜飲が下がる。

とりわけ、「第5章 ラマヌジャンのL関数」と「第9章 高校生のための素数定理」が得がたい読書体験をさせてくれる章だ。

「第5章 ラマヌジャンのL関数」では、ラマヌジャン予想をラマヌジャンがどうやって発見したか、それを読者に追体験させてくれる。ラマヌジャン予想とは、「ラマヌジャンのτ関数」について、ラマヌジャンが立てた予想のことである。

ラマヌジャンのτ関数は次のように作られる。qを変数として、次のような無限次の多項式を作る。すなわち、まず、qを持ってくる。それに(1−q)の24乗を掛ける。次に、(1−qの2乗)の24乗((1−q^2)^24)を掛ける。さらに、(1−qの3乗)の24乗を掛ける。以下同様にして、(1−qのk乗)の24乗を次々と掛ける。このようにできたqの無限次の多項式を展開整理したときの、qのn乗の係数をτ(n)と記し、この自然数nに関するτ(n)がラマヌジャンのτ関数である。

ラマヌジャンは、このラマヌジャンのτ関数について、次のような5つの予想をたてた。

予想1:τ(n)は乗法的。すなわち、互いに素なmとnについて、τ(mn)=τ(m)τ(n)。

予想2:素数pに対し、τ(pのj+1乗)=τ(p)τ(pのj乗)−(pの11乗)τ(pのj−1乗)

予想3:τ(n)を使って作ったL関数(τ(n)/(nのs乗)、の全自然数nについての和)がpのs乗について2次のオイラー積を持つ

予想4:素数pに対して、|τ(p)|<2×(pの11/2乗)

予想5:ラマヌジャンのL関数に対して、リーマン予想が成立する

ぼくは、このラマヌジャン予想については、もちろん本で読んで知っていたが、知ったときに次のような素朴な疑問を持った。

疑問1:なんで24乗なの? 疑問2:なんで乗法的を見つけたの? 疑問3:なんでオイラー積に結びつけようとしたの?疑問4:予想2の式にどうやって気がついたの?疑問5:オイラー積表示はなぜ2次なの? 疑問6:予想4の不等式はいったい何の意味があるの?

その上で、どうしてラマヌジャンがこんな奇妙な予想を立てたのかは皆目見当がつかず、要するに、ラマヌジャンが人間離れしたとんでもない発想力の持ち主だからなのだろう、と考えるしかなかった。でも、本書では、この発想が「超能力的」のたぐいでない、ということを教えてくれた。ぼくの疑問たちに回答を与えてくれたのである。数学者にとっては、当たり前にことだから、誰も書かなかったのかもしれないが、アマチュア愛好家には全くあたり前じゃなかった。それは「棋士と観戦者との隔たり」へのアナロジーと言っていい。

小山さんは、まず、疑問2に答える。τ(n)の乗法性は、小さいnについてちょっと数値計算してみれば、わりあい簡単に予想のつくことだった。そして、疑問3につなげる。数列が乗法性を持てば、L関数を作るとオイラー積表示が出ることは経験的にわかることだそうだ。だから、ラマヌジャンがL関数を作ったのも自然な流れと言えるのだ。疑問4の回答も、そんなことか、という肩すかしな感じであった。ちょっと数値計算をしてみれば、案外簡単に予想のつくことだったのだ。ぼくだって、人生のかかった入試かなんかで、この性質を探せと出題されたら、時間を十分かければ見つけられたかもしれない。

圧巻は、疑問5への回答である。数値計算から発見的に見つかる予想1と予想2を用いて、自然にオイラー積の計算を実行してみれば、そんなに苦悶せずとも2次のオイラー積に到達とすることを見せてくれる。その際、重要なのは、τ(n)では完全乗法性(互いに素の条件なしに、予想1の式が成り立つこと)が成り立たず、代わりに予想2が成り立つことだ。予想2は、ある意味では、τ(n)が完全乗法性からズレを持っていることを意味しており、そのズレが2次のオイラー積となって体現される、ということなのである。

そして、小山さんは、予想4と予想5が表裏の関係にある、ということを示して見せる。それは、2次方程式の解の公式で理解できることなので、別に苦痛はない。こう言われてみると、予想4の不等式は非常に自然なものと見えてくる。非常に自然であるからこそ、その神秘に打たれる、とも言えるのだけど。

このように懇切丁寧に、ラマヌジャンの試行錯誤を解剖してくれただけに、疑問1への回答には痺れる。引用しよう。

初めてこの関数(5.4)を見た人は、なぜラマヌジャンがいきなりこんな形の関数を考えたのか、見当がつかないだろう。その背後にはオイラーによる五角数定理など、保型形式の嚆矢となった研究があったわけだが、それだけで、ラマヌジャンが(5.4)を深く研究し新たなL関数の族の発見に至ったことが説明がつくとは思わない。(中略)。そうした発展は、一人の天才がいなければ、その後十数年、数百年たっても決してなされることはない。

小山さんは、ここまでラマヌジャンの発想を解剖し、自然な道筋であることを示しながらも、このτ(n)自体の発見には、異端的な、降臨的な、「奇跡」という評価を下している。

 本書には、このような「数学者の頭の中や心の中の解剖」が満載である。「第9章 高校生のための素数定理」では、リーマンゼータ関数について、発散級数の和や、解析接続や、リーマン素数公式や、素数定理などを、相当にかみ砕いて説明している。正直なところ、「高校生のための」と言ってもこれがわかる高校生なんかいない(か、あるいは、将来数学者が約束された高校生だけ)と思われるが、(笑)、でも、複素解析を勉強したことがある人には目からウロコの解説になっている。とりわけ、留数定理が非常に直観的に解説されていて、「そんな簡単なことだったのか」と明かりが灯ることだろう。

 本書は、最初に述べた通り、数学愛好家には歯が立たない部分の多い本だが、まるまる読もうせず、読めるところだけひもとけば得るものの多い本である。俗な数学者の「ほら、明快に証明できたでしょ」という難解な専門書とは違って、「それは何をやっていること?」「どうして、そうするの?」「それはどこから来るの?」に極力答えようとした画期的な本だと言える。

2017-03-28

「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされた

15:46

 今回は、最近に見た映像作品2つと、最近好きになったミュージシャンのことをエントリーしようと思う。

映像作品は、アニメ作品魔法少女まどか☆マギカとホラー映画残穢、ミュージシャンはAimerだ。

 まず、魔法少女まどか☆マギカから。

この作品に興味を持ったきっかけは、知り合いの学者がツィートしたことだった。そのときは、別に観ようと思ったわけではなく、小学生に関わりを持つ職業の友人に、そのことを話しただけだった。「その学者さんは、なんで紹介したのかな」と。でも、その友人は、その学者のことをメディアで知っていて、とても気になったらしく、さっそく「まどマギ」を観たのだ。そして、ぼくにも「是非観るべき」、と再三にわたってプッシュしたのである。息子からも、「まどマギ」の若者たちの評判について教えられ、「こりゃ、観るしかないな」となって、春休みに乗じて一気観した次第だ。

 観て驚いた。これはあまりに斬新なアニメ作品だった。

 まず、映像が半端ない魔女との闘いのシーンは、さながらポップアート。こんな絵柄で戦闘を描いた作品は他に知らない。音楽もかっこいい。

 しかし、なんと言ってもすごいのは、そのストーリーだ。魔法少女と聞いてイメージするのは、当然、勧善懲悪だ。でも、この作品は、そう言った勧善懲悪とは対極にある作品だった。善と悪とがくるくる入れ替わりながら、最後の一話まで、何をしようとしているのか読めない展開になっている。こんな作品を観た小学生の少女たちの中には、トラウマになっちゃう子もいるのでは、と心配になる。製作者は大人向けに作っているのかもしれない。もちろん、受け入れることができた子どもは、大人になる過程で、作者のもくろみが次第にわかって来るだろう。

 でも、テーマ自体は、ひねたものではなく、切なくて泣けるオチとなっているから、安心して最後まで観よう。

 ぼくとしては、『君の名は。』で打ちのめされ(ぼくの感想は21世紀の数学原論 - hiroyukikojimaの日記にて)、最近、テレビで同じ監督の『秒速5センチメートル』でのけぞり、などと来た結果、「最近のアニメは、局所的な進化を遂げつつあるのだなあ」、という感慨が沸いてきている。宮崎アニメのときも出遅れて後悔したけど、宮崎アニメを「ある意味では」超える作品群が現れていることに、ただただ驚いている次第だ。

 次の映像作品について語る前に、ミュージシャンAimerについて書き留めたい。

 彼女のことを知ったのもつい最近。ときどき見かけていたけれど、アニメ夏目友人帳』のエンディングテーマ「茜さす」をAimerが歌っている、と気づいたことが一番のきっかけになった。

 ぼくは、ほんのときどき、ハスキーボイスの女性ボーカリストにはまる。最初は、ジャニス・ジョプリンだ。ジャニスは、60年代に活躍し、70年に麻薬死した。名曲が多く、今でもCMなどで使われることがある。ぼくは、ジャニスの生涯を描いたドキュメント作品を持っているけど、その映像の中のジャニスは、本当に孤独で切ない。観た印象に過ぎないけど、どこか本質的なところが壊れていて、「生きることとの摩擦」につねに苛まされているように感じる。歌うことでしか自分を保つことができず、歌うことが生きることだったのだと思う

 次にはまったのは、オートマティック・ラブレターというバンドのボーカリスト、ジュリエット・シムズだ。オートマティック・ラブレターは、兄妹を中心としたバンドで、妹のジュリエットが歌詞を兄が楽曲を書いていた。残念ながら、2枚のアルバムを作って活動を休止してしまい、その後はジュリエットはソロで活動している(ようだ)。ぼくは、オートマティック・ラブレターの曲が好きなので、要するに、兄の作るエモな楽曲に惹かれる、ということだと思う。二曲ほどyoutubeにリンクを貼ろう。

(Make Up Smeared Eyes - Automatic Loveletter)https://www.youtube.com/watch?v=uAPyutYlHt0

("Story of My Life" by Automatic Loveletter)https://www.youtube.com/watch?v=SEwsa9mAaE4

 そして、久々にはまったハスキーボイスのボーカリストがAimerだというわけなのだ。彼女の声は奇跡の声だと思う。生まれつきではなく、喉の病気からこういう声になったそうだが、神が奇跡を与えてくれたのでは、と思えるほどだ。本当に、切なくて、心に届く歌唱だと思う。

 Aimerのアルバムの最新盤は、Radwimpsの野田さん、One Ok RockTakaさん、凜として時雨のTKさん、Andropの内澤さんなどが楽曲を提供しており、みんなぼくの好きなバンドなので、涎がこぼれる出来となっている。でも、デビューアルバムがすごく好きだ。これは、わりとR&Bっぽい曲が多く、ぼくはR&B方面が得意でないのだけど、このアルバムにはぼくにもぐっとくる。とりあえず、二曲だけリンクを貼っておこう。

(Aimerme me she)https://www.youtube.com/watch?v=wAPHEzDWTHQ

(Aimerー夏草に君を想う)https://www.youtube.com/watch?v=5ea6rkow0Yw

さて、最後は、ホラー映画残穢

これは、小野不由美さんのホラー小説の映像化である。この映画を観たかった大きな動機は、橋本愛ちゃんが主演の一人だから(橋本愛ちゃんについては、当ブログでもワンダフルワールドエンドの舞台挨拶を見てきますた - hiroyukikojimaの日記などでエントリーしている)。なので、別に詰まらない作品でもかまわなかったのだけど、観てみたら、予想外に面白い作品だった。これは、異色のホラー映画、と言っていい。

映画は、橋本愛が演じる女子大生が住むマンションの部屋で起きる心霊現象から始まる。女子大生はその様子を、読者投稿から実話幽霊小説を書いている作家に手紙で知らせる。作家を演じているのは、竹内結子さんだ。女子大生と作家が、心霊現象を探るうち、二つのことが明らかになる。一つは、これらの現象は古くに遡れること。もう一つは、これらの現象が広がりを持っていること。物語は、過去を探る旅となり、意外な真実が明らかになっていくのだ。

原作は読んでいないので確かなことは言えないが、少なくとも映画は、「映像だから可能になる」ような物語を組みたてている。映像が過去に遡ると、ニュース・フィルムの荒さとか、写真の古びかたとか、本当に丁寧な検証の上で作られていて感心する。「どっかんどっかん」なショッキング・ホラー映画が大好きな人には、「なんじゃこれ」になるかもしれないけど、かなりな数のホラー映画を観たぼくには、逆に、とても新鮮で、とても斬新に感じる映画だった。小野さんの構想力はやっぱり天才的なあ、と拍手喝采。

 『魔法少女まどか☆マギカ』にしても、『残穢』にしても、ぼくの社会学者としての感覚に訴えかけてくる作品だった。

ぼくは、学部は理系(数学)、大学院は文系(経済学)なので、理文両方を経験している。その立場から言うと、理系と文系とでは、拠って立つところが違う気がしている。もちろん、学者によって考えが違うのは当然なので、今から書くことは、あくまで小島個人の感覚である。

ぼくは、理系というのは、「単純な世界観」を追求しているように思える。使う数学がどんなにややこしいものでも、難しいものでも、「世界を数式で表せる」ということ自体、シンプルなことである。物質世界の驚きとは、「単純な数式で記述できる」ということなんだと思う。

でも、文系はそうではない。文系で重要なことは、「社会の複雑さを複雑なままに受け入れる」ということではないか、と思えてきている。社会を単純化して解析することは決して間違ったことではないけど、その際、用心が必要であろう。一つは、「見出された結論は、社会の一つの側面を切り取っているにすぎず、全体の中では誤謬である可能性がある」という方法論的用心。第二は、「単純化の際に、あるカテゴリーの人間を冒涜している可能性を忘れず、痛みを持って単純化する」という倫理的用心だ。経済学をやってるお前が言うな、と揶揄されるかもしれないけど、それがぼくのたどり着いた最近の感覚なのだ。『まどマギ』と『残穢』は、そんなぼくの感覚にマッチする作品だった。