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hiroyukikojimaの日記

2016-05-23

数学は遠きにありて想うもの

15:08

 実は、また、数学者たちと鼎談をすることになり、そのお題のために、リーマン面・層・コホモロジー群・スキームの勉強を再開した。

 リーマン面というのは、ごく小さい部分だけを局所的に見ると「複素平面」と同一視できるような空間のこと。逆に言うと、複素平面の原点付近の円をたくさん貼り合わせて作り出せる空間のことだ。例えば、リーマン球面は、二枚の円をお椀のように丸めて反対向きにはめ込んで球形にしたリーマン面の一種である。ドーナツ型(トーラス)も円を湿布薬のようにぺたぺたと貼っていけば作れるからリーマン面だ。

 リーマン面コホモロジー群は、小木曽啓示『代数曲線論』朝倉書店で勉強している。この本は以前にも、続・続・堀川先生とキングクリムゾンの頃 - hiroyukikojimaの日記のエントリーで紹介したが、もう一度最初から読み直した。ちなみにこの本は、「代数曲線」と題するより、「リーマン面」と題するべき本だということを書き添えておこう。

講座 数学の考え方〈18〉代数曲線論

講座 数学の考え方〈18〉代数曲線論

 実は、前に読んだときは、「知りたいことと関係が希薄そうで、めんどくさそうな部分」をはしょって読んでいた。具体的には、第3章「リーマン面微分形式」をまるまる飛ばし、そのために第4章の「いろいろなリーマン面」が部分的に読めなくなり、そこも飛ばした。でも今回は、前回飛ばしたところを含め、順を追ってきちんと読んだ。そして、最初からそうすべきだったことに気づき、安易なはしょりをしたことを猛省した。

 多くの数学書は、メインディッシュに対する最短経路で書かれているわけではなく、余計なことがいろいろ書いてある。もちろん著者は、「それが重要である」ないし「知っていたほうが良い」という親心から導入しているのだろう。でも、その「刺身のつま」のせいで、たいていの読者が理解の辛さから脱落することになってしまうことに著者は気を遣うべきだと思う。だから、ぼくはいつからか、そういう「刺身のつま」を箸でよけて読むようになった。

 一方、小木曽啓示『代数曲線論』には、そういう「刺身のつま」がほとんどなかった。導入されているすべてのアイテムは、メインディッシュをより良く吸収するために必要不可欠のアイテムだったのだ。

 たとえば、第3章「リーマン面微分形式」は、「」という数学概念を豊かにイメージするために重要だった。「層」というのは、単純に言えば、リーマン面上の複素関数を思い浮かべればいい。リーマン面は局所的には複素平面の小さい円と同じだから、そこで定義された複素関数のことだ。「層」というのは、「局所で0と一致すれば全体で0、局所的な関数族は貼り合わせて全体の関数にできる」という性質を持つ空間のこと。正則な複素関数は、この性質を備えている。

ただ、それだけをイメージしていると「層」ってそれしかないのかなあ、と貧弱な感覚しか得られない。「層」は、複素線形空間だから、他の例も頭の引き出しに入れておかないと、その不変量であるコホモロジーを理解するときに、高すぎる障壁に突き当たることになる。以前にぼくが突き当たって挫折を余儀なくされたのはその障壁だった。

 本書は、少なくとも「リーマン・ロッホの定理」に到達するまでには(まだ、そこまでしか読んでいない)、無駄なことが一切書いていない。すべてが用意周到に準備されている。それはそれはみごとなものだ。抽象的な概念を具体的に理解するために(たぶん)最もわかりやすい具体例や解説が前もって投入されているのである。

 今回は、ほとんど飛ばしなしに読んだので、「層」「コホモロジー群」「リーマン・ロッホの定理」は理解できた(と思う)。とりわけ、コホモロジー群(チェック・コホモロジー)が、いったい何を表現しようとしているのか、とか、完全系列というのがどう使われるのか、とかを、目が覚めるぐらいに納得することができた。完全系列については、数学科に在籍したときに、「いったい、こりゃ何者なんだ、何の役に立つんだ」と悩ましかったものだった。それが克服できたのは、清々しい。

 本書でのリーマン・ロッホの定理の証明には、完全系列の威力がめっちゃ発揮される。リーマン・ロッホの定理とは、簡単に説明するのは難しいが、層のコホモロジー群に関して、オイラー標数(例えば、[点の数]−[線の数]+[面の数])のような交代和の公式が成立することを主張するものだ。

完全系列というのは、いくつかの線形空間(とか環とか),・・・A, B, C,・・・,と、その間の線形写像(準同型写像),・・・,f, g,・・・の間の関係である 、[・・・→A→(f)→B→(g)→C→・・・]、に関して、(AからBへのfによる像)=(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)という等式(要するに、Im(f)=Ker(g))がすべてに対して成り立っているものを言う。線形代数の基本的な定理として、空間Bを(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)で割った商空間は、(BからCへのgによる像)と同じ空間になると見なせるから、(Bの次元)=(BからCへのgによる像の次元)+(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)である。したがって、さっきの完全系列の定義から、(AからBへのfによる像の次元)=(Cの零元{0}のgによるBへの逆像の次元)が成り立つので、置き換えれば、(Bの次元)=(AからBへのfによる像の次元)+(BからCへのgによる像の次元)という等式(dim B=dimIm(f)+dimIm(g)))が成り立つとわかる。この事実から、[・・・+(Aの次元)−(Bの次元)+(Cの次元)−・・・]という交代和を作ると、打ち消し合いが起きる。だから、系列の最初と最後が空間{ 0 }であれば、交代和は0とわかる。リーマン・ロッホの定理は、この(次元の交代和)=0、を用いてみごとに証明されるのである。

 この定理について、著者の小木曽さんは、次のように書いている。

リーマン・ロッホの定理は次元そのものに関する定理ではなく次元の交代和に関する定理である。オイラー数も交代和だった。日常生活においては和を考えることはあっても交代和を考えることは皆無に近い。それとは対照的に、何故だかよくわからないが、数学では交代和を考えてみると簡明になるということがしばしば起こるようである。

こういう数学者の個人的な数学観のようなものを書いてくれると、本当に楽しくなる。数学者も人間なのだから、定理を見つめた個人的な印象や感慨や感動というのはあるはずで、それを知ることで、読者も数学を人間的で生臭いものとして身近に感じることができるのである。この小木曽さんの言葉を読んだぼくは、「そういえば、行列式の展開定理も交代和だよな」などと記憶が蘇った。ひょっとして、同じアイデアの証明が可能なのだろうか??

 著者の小木曽さんは、昔、ある場所でご一緒したことがあり、何度かお茶を飲んだり、ご飯を食べたりした。そんなある日に、ぼくが、非常に簡単な高校数学レベルの問題を考え出して、それをお見せしたところ、子供のような輝く表情で「それは面白いですねえ、よくできた問題ですねえ」と感嘆してくださった。そのとき、ぼくは、「こんなに優秀な数学者のタマゴが、この程度のことでも、興味津々で楽しい顔をするものなのだ」と感動したことをよく覚えている。そういう小木曽さんの純粋さ、人柄の優れたところ、好奇心溢れるところ、が本書にはよく現れていると思う。

 ただ、やはり、本書を読んでいて、「辛くなかった」と言えば嘘になる。しんどかった。こんなにも工夫して手取り足取り記述してもらってさえ、抽象的な概念を理解するのは「楽しい」より「辛い」のほうが先に立った。こういう抽象物を、何の摩擦もなくイメージ化でき、そうする作業がウハウハと楽しく、真綿のように吸収できる人でないと、数学者にはなれないのだろう、と痛みを持って実感した。そういう意味ではぼくは数学者にはなれない、ということを思い知った。

 その証拠に、「コンパクトリーマン面の正則関数の1次元コホモロジー群の次元が有限である」という基本定理の証明は、読むのをいったんペンディングしている。とんでもなく長い証明で、また、膨大な道具立て(ヒルベルト空間など)が必要だからだ。こういうのを、数学者たちはウハウハと垂涎で読めるのだろうが、ぼくにはため息が出てしまう。こういうところが、数学者に向いているかどうかの踏み絵となるのだろう。

 ぼくは、経済学数学と両方を勉強している。でも、この二つのぼくの中での位置付け・あり方はけっこう異なる。数学は恋い焦がれるほど好きだが、経済学はそうでもない(同業者のみなさん、すいません)。数学には狂おしいほど惹かれるが、経済学はそうでもない(笑い)。それだから、数学にはじれったく短絡的になり、地道な努力が無理で、性急に結果を求めてしまう。一方、経済学のほうでは、冷静で地道な努力ができ、じわじわと距離を狭めることができる。どんな業種であっても、飯を食うプロに自分がなれるかどうかは、「愛のあり方」に依拠するのではないか、と思う。例えば、狂おしいほど音楽が好きな人はむしろプロのミュージシャンには向かないだろう。そうではなく、どんな音楽にもクールに興味を持てて、冷静に分析でき、結果を急がず地道な努力が苦でなく、自分の心と一定程度の距離をおける人がプロ・ミュージシャンになれるのではないだろうか。

さらに言うなら、「プロ」になることが幸せとは限らない。本当に幸せなのは「ファンのほうなのではあるまいか。

 こう考えると、「ぼくが数学者なれなかったのは、必然だったし、むしろ、そのほうが良かったのだ」と今は素直に思える。「数学は遠きにありて思うもの」。心底好きなことは、職業にならないほうがいい。成果もレベルも問われない、そんなに幸せなことはない。それが、今、ぼくの胸中に育つ大きな感慨なのだ。この境地にたどりつくのに、30年もの歳月を費やしてしまったが。。。

 

2016-05-16

メルセンヌ素数とリュカ=レーマー判定法と、そしてペル方程式と

14:10

 「最大の素数が更新された」という報道が今年の1月24日の朝日新聞朝刊でなされたことは、当ブログでも、また、最大の素数が更新された! - hiroyukikojimaの日記でエントリーした。これは2233万ケタという巨大な素数で、アメリカのセントラルミズーリ大学のカーチス・クーパー教授が、世界中のコンピューター約800台のボランティアを利用して発見したものだ。

 発見された素数は、メルセンヌ素数というタイプの素数である。メルセンヌ素数とは、(2のk乗−1)という計算で表される素数。kが素数でないなら、(2のk乗−1)が素数にならないことは簡単にわかるので、kとしては素数だけ試せばよい。今回のものは、(2の74,207,281乗−1)となっており、49番目のメルセンス素数で、当然、74,207,281は素数である。メルセンス素数が発見されることは、偶数完全数(6=1+2+3のように、自分自身を除く約数の和が自分自身と一致する数)が発見されることと同じである。したがって、49個目の偶数完全数が見つかったことになる。ちなみに、奇数完全数はまだ一つもみつかっていないし、「存在しない」と予想されているが、それも証明されていない。

 「任意の」大きな整数素数かどうかを判定する実用的な判定法は、現在のところない。しかし、メルセンヌ数(2のk乗−1)に対しては、実用的な判定法がある。それが、リュカ=レーマー判定法である。これは、19世紀数学者リュカが発見した判定法を、20世紀の数学者レーマーが改良したものだ。

 リュカ=レーマー判定法のやり方は簡単である。まず、リュカ=レーマー数列というのを、次のように作る。すなわち、4からスタートし、得られた数を2乗して2を引いて次の数を作るのである。

4→4×4−2=14→14×14−2=194→194×194−2=37634→・・・

というふうに進んでいく。このn項目をS(n)と書くとき、リュカ=レーマー判定法とは、

素数pについて、(2のp乗−1)がS(p−1)を割り切るとき、また、そのときに限り、(2のp乗−1)は素数である

というものである。例えば、k=5のときのメルセンヌ数(2の5乗−1)は31だが、S(4)=37634は確かに31で割り切れる(おみごと、おみごと)。リュカ=レーマー数列は、正直に計算すると、すぐに巨大な数になるが、判定したい(2のp乗−1)で割った余りで数列を計算(mod計算)していけばいいので、オーバーフローしなくて済むのである。

 雑誌『高校への数学』で素数についての連載をしていることもあって、このたび、このリュカ=レーマー判定法のレーマーによる証明をまじめに読んでみた。読んだのは、和田秀男『数の世界 整数論への道』岩波書店だ。

その証明は、理解できてみると、めちゃめちゃ面白いものだった。

なんということでしょう! 最も重要な役割を果たすのは、いわゆる、「ペル方程式」なのである。

ペル方程式というのは、「(xの2乗)−a(yの2乗)=±1」の整数解を求める問題のことで、数論の研究の中でも歴史の古いものだ。本当は「フェルマー方程式」と呼ばれるべきなのに、誤ってペル方程式と定着してしまったものである。ペル方程式について、詳しくは、拙著『世界は2乗でできている』ブルーバックスを参照してほしい。

証明に使うペル方程式は、a=3のケース、すなわち、「(xの2乗)−3(yの2乗)=1(☆)」である。

この方程式(☆)の整数解は、次のようにして、実にユニークな方法で得られる。すなわち、無理数α=2+√3に対して、(αのn乗)を展開整理し、(αのn乗)=x(n)+y(n)√3と表したとき、x=x(n), y=y(n)が、ペル方程式(☆)の整数解となるのである。しかも、この方法で、すべての整数解が得られる。

面白いのは、この2つの数列x(n)とy(n)が、三角関数(cossin)と類似した、「加法定理」「倍角公式」を持つことなのだ。次のような公式である。

(加法定理)

x(m)=x(n)x(m)±3y(n)y(m)

y(m)=±x(n)y(m)+x(m)y(n)

(倍角公式)

x(2n)=2(x(n)の2乗)−1

y(2n)=2x(n)y(n)

これらの公式を上手に利用すると、いろいろな面白い関係が得られる。まず、

リュカ=レーマー数S(k+1)=2・x(2のk乗)

という関係式がポイントである。

また、3より大きい任意の素数qに対して、

y((q+1)/2)・y((q−1)/2)はqの倍数

が、証明を完成するためのかなめの事実となる。

証明の手法は、典型的な技の組み合わせであり、大学受験の数学問題よりは難しいけれど、数学オリンピック程度のものなので、がんばれば高校生にも理解できる。とりわけ、「2項係数の素因数を評価する」とか、「ある性質を満たす整数が、その性質を満たす最小の整数の倍数となる」という互除法的な発想とか、有名テクニックのオンパレードとなっていて、楽しく、また、随所でうならされる。

こうしてみると、数論の定理というのが、さまざまなアイテムのリンクで成立していて、みごとだなあ、と感心させられる。

 和田秀男『数の世界 整数論への道』は、ものすごい名著だと思うのだけど、現在は版切れのようで残念だ。こんなわかりやすくて、self-containedで、すべての証明を付けている数論の本はほかにないと思う。和田氏が、計算機数学専門家である、ということが、この本のわかりやすさ・面白さと関係あるのではないか、と推測している。最後の章で「すべての素数を表す19変数37次多項式」についての「マチアセビッチの定理」を取り上げ、証明も含めた完全な解説を行っているのが圧巻である。なんと、この定理にも、本質的に「ペル方程式」が活かされているのである。拍手喝采。

2016-04-30

等差数列の中の素数からラングランズ予想へ

15:18

もう、すいぶん前、1年以上前に、黒川信重ガロア表現と表現論日本評論社の一部を紹介した(ガロアの定理の短めの証明が読める本 - hiroyukikojimaの日記)。このときは、ガロアの基本定理」、すなわち、「代数拡大体の中間体と、その自己同型群の部分群が1対1対応する」という定理の、非常に短く、わかりやすい証明がこの本に載っているよ、ということを書いた。それで、この本に載っている他の定理のことも近いうちに書く、と予告してたんだけど、なんと! それから、1年以上も歳月が流れてしまった。

 前々回のエントリー(テレ東ドラマ『電子の標的2』に協力をしました - hiroyukikojimaの日記)で触れたように、今ぼくは、雑誌『高校への数学東京出版に「素数の魅力」という連載を持っていて、そのため、素数について、いろいろと調べ直している。そこで、「ディリクレの算術級数定理」について、どう紹介しようか、と思案して、この黒川先生の本を読み直してみたのである。そんなわけで、このブログにも、小手調べとしてエントリーしてみようと思い立った次第。

 この本の第1章には、「ガロアの基本定理」の最短にして簡明な証明が解説されており、それはガロアの定理の短めの証明が読める本 - hiroyukikojimaの日記のエントリーで紹介した。また、第2章には、「有限アーベル群の基本定理」「ディリクレの算術級数定理」の証明が解説されている。今回は、これについて紹介しようと思う。

 群というのは、1. 結合法則が成り立つ演算を持ち、2. 演算しても変化しない単位元eを持ち、3. 演算すると単位元eになる逆元を持つ、ような代数構造を言う。これらに加えて、4. 交換法則が成り立つ、を要請したものがアーベル群である。「有限アーベル群の基本定理」というのは、有限なアーベル群が、どんな構造をしているかを明らかにする定理。簡単にいれば、nで割った余り算の足し算代数であるZ/(n)たちの和で書け、しかも登場するnたちを小さい順に並べると、約数・倍数関係の列になる、というもの。この定理を拡張して「有限生成アーベル群の基本定理」としたもの(有限生成なので、要素の個数は無限個も可能となる)は、線形代数で重要な定理である「ジョルダン標準形」の証明に使われる。でも、これがまた、わかりずらく、何をやっているかイメージが湧かない証明なのである。それに対して、黒川先生の証明は、(有限部分だけだけど)、非常にわかりやすく、本質がよく伝わり、そのうえ2ページ程度で済んでしまう優れものだ。ジョルダン標準形の証明で挫折した経験のある人は読んでみることをお勧めする。

 「ディリクレの算術級数定理」の証明も、非常にわかりやすく書かれている。この定理は、「初項と公差が互いに素な等差数列の中には、素数が無限個ある」というみごとな定理である。例えば、3n+1型素数も3n+2型素数も無限個あるし、4n+1型素数も4n+3型素数も無限個ある、などなどとなる。これらの中の一部(例えば、3n+2型素数とか4n+3型素数とか)は、ユークリッドが「素数は無限にある」を証明した手法を真似れば、簡単に証明できる。しかし、他はそう簡単ではない。しかも、an+b型(a,bは互いに素)すべてとなるといったいどうやればいいのか想像もつかないだろう。ディリクレは、ゼータ関数の仲間であるL関数を使って、それを証明したわけなのだ。本書には、その証明がたった3ページでまとめられている。 

 ここでは、この定理の証明を、4n+1型素数と4n+3型素数を例にして説明しよう。ポイントは、「どちらの型の素数も、逆数にして加え合わせる無限大になる」を示すことである。有限個しか存在しないなら、こうはならない。そのために、まず、次のようなオイラーを考える

[{1−χ(p)(pのs乗の逆数)}の逆数]をすべての奇素数pにわたって掛け合わせたもの ・・・(1)式

ここでχ(p)は、次の2種類を考える。第一は、すべての奇素数pに対して、χ(p)=1とするもの。第二は、4n+1型素数pに対してχ(p)=1、4n+3型素数pに対してχ(p)=−1とするものである。この二つのχはディリクレ指標と呼ばれるものだ。

この(1)式のlogをとって、積を和に変え、さらに対数関数テイラー展開を適用する。

そして、各pについて、1×(−s)乗の部分と、(2以上)×(−s)乗の部分とに分けると、

log(1)式=(1×(−s)乗の部分)+((2以上)×(−s)乗の部分)

と書ける。第2項が有限値に収束することは高校数学の範囲でわかる。したがって、第1項だけに注目し、

log(1)式=(χ(p)(pのs乗の逆数)の奇素数pをわたる和)+(有限値) ・・・(2)式

という風になる。この(2)式のディリクレ指標χ(p)を第一の場合と第二の場合についてそれぞれ作り、その二通りを合計して2で割ると、4n+1型素数の部分だけが取り出される。これは、4n+3型素数pに対しては、(第一のχに対する(2)式)における係数は+1で、(第二のχに対する(2)式)における係数は−1であることから、打ち消しが起きるからである。

(pのs乗の逆数)の4n+1型素数pをわたる和=(1/2)×[(第一のχに対する(2)式)+(第二のχに対する(2)式)] ・・・(3)式

一方、(第一のχに対する(2)式)は、sを小さくしながら1に近づける(s↓1)と無限大に発散する。これは(1)式が通常のオイラー積から素数2を取り除いたものとなっており、s↓1のとき、全奇数の逆数和に近づくからである。それで、「4n+1型素数の逆数和が無限大となる」ことがわかるのである。これは「4n+1型素数を取り出す」計算だったが、(2)式のディリクレ指標χ(p)を第一の場合と第二の場合についてそれぞれ作り、前者から後者を引き算して2で割ると、4n+3型素数のほうが取り出され、同じ評価法が適用できる。

 ざっくりまとめると、「オイラー積を作るときにディリクレ指標χを掛けておくと、型の異なる素数の係数が異なるようにできる」ということと、「それらのディリクレ指標に適切な集計をほどこすと一つの型だけを取り出すことができる」ということがポイントだ。どんなan+b型素数についてもこれが可能なら、この証明を一般化できる。そして、これは可能なのである。

1からaまでの整数で、aと互いに素なものを集合とすると、それらは掛け算についての群(Z/(n))^{×}を作る。この群から複素数への写像で、乗法を保つ(χ(xy)=χ(x)χ(y))ものをディリクレ指標と呼び、これを用いればよいのである。こうして、「初項と公差が互いに素な等差数列の中には、素数が無限個ある」ということがいっぺんに、そして明快に証明される。

 さて、黒川先生は、この「ディリクレの算術級数定理」を、今話題の「ラングランズ予想」の入り口として用意しているのである。黒川先生の本によれば、「ラングランズ予想」とは、「ガロア群の表現と保型表現が双対の関係にある」というものらしい。先ほどのディリクレ指標χは、乗法群(Z/(n))^{×}の双対なのである。

 この本を読むと、ガロア表現と、保型形式と、それをゼータ関数で結びつける、ということが現代数論の大きなテーマ、夢なんだな、と理解できる。古典的な数学の未解決問題が、個別具体的なのに対し、現代の未解決問題は、普遍的統一的である、というのがよくわかる。そして、前者がパズル的な興味の範疇のものであるのに対し、後者は哲学的な興味の範疇にある、というように感じる。

 直接は関係しないけど、ガロア理論の簡単な入門書なら、ぼくの次の本が役に立つと思う(宣伝、宣伝)。

天才ガロアの発想力 ?対称性と群が明かす方程式の秘密? (tanQブックス)

天才ガロアの発想力 ?対称性と群が明かす方程式の秘密? (tanQブックス)

2016-04-22

スティグリッツの思想

18:47

 前々回に、スティグリッツの講演を聴いてきた話を書いた(スティグリッツ氏の講演を聴いてきた - hiroyukikojimaの日記参照のこと)。それは、故・宇沢弘文先生のメモリアル・シンポジュウムでの講演だった。ぼくは、以前に、スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』徳間書店を読んで、「スティグリッツ論文に感じるシャープさが全く見られない、ぼけちゃったんじゃあるまいか」と、残念な気持ちと心配な気持ちが勃興し、その後のスティグリッツの著作を追ってこなかった。

 でも、今回のメモリアル・シンポジュウムを聴いて、そんなことはない、と悟った。そればかりではなく、「スティグリッツこそが宇沢先生のアメリカでの生粋の後継者なんだ」と気づかされた。宇沢先生の日本のお弟子さんたちは、新古典派時代の先生の業績を受け継ぐ人と、制度学派としての先生の思想を受け継ぐ人に完全に分断されてしまい、その両方を継承する人はいないように思う。先生は、その両方を、同じ意志とビジョンを持って研究されていたので、これはとても残念なことに思っていた。それに対し、スティグリッツはまさに、新古典派の道具を縦横無尽に使いこなしながら、制度学派的な信条を展開させる、というまことに宇沢先生の生き写しのような学者になっておられ、とても眩しく頼もしい。

 そこで、この機に、スティグリッツの新しい著作を二冊を読んでみた。一冊は、2015年『世界に分断と対立をまき散らす経済の罠』徳間書店で、もう一冊は今年2月に刊行されたばかりの『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』徳間書店だ。

前者は、『ヴァニティ・フェア』誌や『ニューヨーク・タイムズ』紙等に連載したコラムなどで構成されている。後者は、ルーズベルト研究所の報告書を基にして作られた本だ。内容に重複の多い前者より、後者のほうがシャープで読みやすいが、後者には前者が前提になっている部分もあり、両方読むことで相補いあえるようになっていることを付記しておきたい。

 以下、二冊の本をひとまとめにして、スティグリッツの思想を読みといていく。

 1. スティグリッツは、新古典派から制度学派に宗派を変えた。

今回、ぼくが最も驚いたのは、この点だった。新古典派とは、現代の経済学の理論的な土台であり、どの大学でも、経済理論と言えば、基本的に新古典派の方法論を教えている。いわゆる、ミクロ経済学マクロ経済学と言えば、新古典派の理論だと思っていい。これは、経済主体を変数で表し、それらの経済行動の目的を、利潤最大化や効用最大化として関数設定し、それらを実現する状態を均衡として解くものだ。

他方、制度学派というのは、経済社会の営みを、それを統制する「制度」のあり方から捉え、市民のより良い暮らしを実現する「制度」がいかなるものであるかを論じる学派である。主に、社会学的な、文化論的な、あるいはフィールドワーク的な方法論に依拠する。宇沢先生は、ミルやヴェブレンにその創始を見ているようだ。新古典派の方法論でめざましい業績をあげ、ノーベル経済学賞までもらったスティグリッツが、制度学派に宗派変えをした、というのは驚くべきことだ。実際、次のように言っている。

 要するに、従来の経済手法も、制度派の経済手法も、これまでに起こった事態にある程度の説明を与えているが、構造的な要素の焦点をあてた後者の理論が、徐々に説得力を持ちはじめているのである。

スティグリッツは、制度学派は、「ルールの重要性」「権力の重要性」という、ふたつの単純な観察にもとづいている、と述べている。とは言っても、その根拠は、新古典派手法によって提示された「情報の非対称性と不完全性」や「行動経済学」や「制度分析」などに求めていることで、現代の主流派経済学への一定の敬意を払っており、むしろ、主流派経済学に憎しみとも言えるような感情をあらわにしていた宇沢先生とはかなり違うようにも思える。

 2. スティグリッツは格差を問題にするが、ピケティの議論には与しない。

スティグリッツが、現代の経済社会、とりわけアメリカ経済において問題としているのは、「所得格差」だ。1パーセントの大金持ちが、経済成長の大部分を懐に収め、残る99パーセントの国民の所得がほとんど伸びていないことに怒りを爆発させている。日本でも話題になったピケティ『21世紀の資本』も、格差に関する問題提起だけど、スティグリッツはピケティの説明「r>g、すなわち、資本収益が経済全体の成長より大きい」には与していない。

スティグリッツは、ピケティが証拠して挙げているデータの問題点を次のように指摘している。

富の増加の多くは、生産的な価値上昇の反映ではなく、固定資産の価値上昇に起因する。最もあきらかで広範囲におよぶ例は、不動産価値の大幅な上昇だ。もし不動産価値が、実際的な改良ではなく土地の価格上昇だけのおかげであがるのなら、それは生産性の高い経済にはつながらない。労働者は雇われず、賃金は払われず、投資は行われないからだ。

要するに、資本所有者の取り分が大きく見えるのは、資本の価格評価バブルが含まれるからだということなのだ。

 3. スティグリッツは、格差の真因を金融関係者の不当利益に見ている。

ちなみに、「不当利益」は、ぼくの造語である。スティグリッツは、「レント」と呼んでいる。「レント」についてのスティグリッツ説明を引用しよう。

`地代'(レント)という言葉は、もともと所有地の一部を使用させる対価のことだった(今もその意味は残っている)。それは所有の効能からもたらされる利潤であり、実際の行動や生産が創り出す利潤ではない。たとえば、労働者が労働の対価として受け取る`賃金'とは、正反対の概念だ。やがて`レント'は独占利益−独占状態を管理するだけで転がり込んでくる収入−をも意味するようになり、さらには、所有権から生じる利得にまで定義が拡大された。

スティグリッツは、金融関係者のレントが、格差の源泉である、と説く。それは、金融関係者が、ロビー活動などによって、自分たちに好都合な金融制度に誘導し、それによって膨大な利得を得ている、というわけだ。実際、金融商品が値上がりすればそれらの大部分は自分たちの収益となり、暴落が起これば税金補填してもらえるわけだから、「必勝の賭場」だと言えよう。スティグリッツは、このようなレント・シーキングを、現代アメリカ経済の癌だと批判しているのである。

 4.スティグリッツTPPに反対なのは、「自由市場」が不当利益の温床になると考えるから。

TPPについては、メモリアル・シンポジュウムで、スティグリッツが聴衆の質問に答えて、ちょっとだけ議論をしたが、今ひとつを何を言っているか不明だった(スティグリッツ氏の講演を聴いてきた - hiroyukikojimaの日記参照のこと)。しかし、著作を読んでみて、だいぶ、その言わんとすることがつかめてきた。例えば、次のような言説だ。

このような状況にもかかわらず、経済学者を含め、TPPのような協定を熱心に支持する人は多い。擁護の基盤となっているのは、すでに正体が見破られた`えせ経済学'だ。`えせ'がいまだにはびこる主因は、富裕層の利益に合致するからである。

 経済学は成立した当初、自由貿易は教義の中心を占めていた。理論によれば、経済が勝者と敗者を生み出しても、勝者が敗者に補償を行うため、自由貿易は(自由化が進めな進むほど)`ウィン=ウィン'となる。残念ながら、この結論は、数多くの想定にもとづいており、想定の多くは単純に間違っている。

ようするに、「自由」貿易が全体に利益をもたらす、という理論の背景には、「市場の完全性」がある。しかし、「市場の不完全性」を前提とするスティグリッツは、むしろ、逆さまの見方をしている。「自由」貿易がもたらすのは、激しく抜け目ないレント・シーキングであり、不当利益だということだ。

  5. スティグリッツは、格差是正税制度の戦略的利用を提唱している。

このような格差問題と、その真因とを指摘した上で、スティグリッツは、格差是正と、持続可能な環境を提唱する。二酸化炭素削減は、その一つの政策目標となる。このあたりでは、宇沢先生の思想と完全に一致し、そういう意味で、先生の完璧な後継者だと言えると思う。そういう世界を実現するため、スティグリッツは、さまざまな税制度の戦略的利用を提言している。税を、単なる政府の財源と見なすのではなく、経済活動を正しく導くための戦略装置と考えるのである。例えば、炭素税は、二酸化炭素排出を削減させ、環境維持に貢献するだろう。金融取引税(トービン税)は、過剰な金融肥大化とバブルを防ぎ、金融レントを減じる効果があるだろう。さらには、キャピタルゲイン税は、換金化部分ではなく、値上がり部分そのものに課税することを主張する。金融レントを市民に還元することを目的としている。また、相続税格差是正に大きな有効性があるだろう。

  6. 金融緩和についての議論が、ブレまくっていて、よくわからない。

1.から5.までのスティグリッツの主張には、諸手を挙げて賛成できるし、溜飲下がる。ただ、一点だけ、首をかしげる議論がある。それは、「金融緩和の是非」に関するものだ。この二冊の著作の随所で、中央銀行金融政策について論じている。メモリアル・シンポジュウムでも、少し触れた。しかし、論じる場所場所で、言っていることが一貫しておらず、ブレている。ある場所では、金融緩和の有効性を説いている。例えば、「中央銀行は、インフレを過剰に恐れすぎで、そのため緩和を早期に解消し、それで失敗をおかす」というように言う。他方で、「金曜緩和にはあまり効果が期待できない」ともいう。また、あるところでは、「金融緩和バブルを生み出し、金融関係者の巨大なレントの温床になった」とも言う。いったい、評価しているのか否定してるのか、どっちなんだ!

ただ、刊行年の順に読み、メモリアル・シンポジュウムを聞き、先日の政府公聴会での発言を見ると、「徐々に金融緩和否定派に傾きつつある」ようにほのかに感じる。もしそうだとすれば、その原因は、アメリカではある程度成功したように見える金融緩和が、日本では失敗してしまった(というのが言い過ぎなら、あまり成果が出ていない)ように見えるからではないだろうか。

とにかく、いつも何かの数理モデルを念頭に発言しているスティグリッツが、こと金融緩和についてだけは、確たるモデルをもとに議論しているように見えないのは残念だ。何かの数理モデル望遠鏡にして経済の運行を見ない限り、政策が成功しても失敗しても、経済学者がそれから科学的に得るものは何もなく、単なる宗教の信心・不信心の振り分けに終わってしまうからだ。

 以上、スティグリッツの最近の著作から、氏の思想をまとめてみた。とにかく嬉しいのは、スティグリッツのような天才が、宇沢先生の思想の後継者になりつつあることだ。宇沢先生の業績は、単なる古典として回顧的に讃えたり、過去の遺物として葬りさったりするべきものではなく、21世紀の世界を良い方向に変えるかもしれない生きた思想として、発展させていくべきものだと思うからだ。

2016-03-24

テレ東ドラマ『電子の標的2』に協力をしました

22:25

 昨日、テレビ東京系で放映された水曜ミステリー9『電子の標的2』に、数学監修という立場で、協力した。

水曜ミステリー9:テレビ東京

f:id:hiroyukikojima:20160324200610j:image

これは、サスペンススタイルのミステリー物の2時間ドラマ。去年に放映された『電子の標的』の続編にあたる作品。

本当は、事前に告知して、このブログの読者さんたちには是非、観てもらいたかったんだけど、事前にスタッフさんから放映日の連絡がなかったから、それができなかった(いまだにない 実は、スタッフも知らされてなかったらしい)。連絡がないのは、ぼくが関与した部分がカットされたから、という可能性もあったから、テレビのcmで放映日を知ったけど、告知はしなかった。実際には、ぼくが関与した部分はちゃんと撮影されていたし、エンディングのスタッフ・ロールには、ぼくの名前が「数学監修」としてクレジットされていた。テレ朝『相棒』に協力したとき(ぼくが監修した「相棒」は来週放送予定! - hiroyukikojimaの日記とかドラマ「相棒」シーズン12の第2話「殺人の定理」 - hiroyukikojimaの日記参照)では、ちゃんと事前に放映日の連絡をもらえたのにな、全く残念だ。

 さて、ぼくがどういう数学監修をやったか、ということについては、実はあまり詳しくは語れない。なぜかというと、物語のプロット上、重要なことに関連している部分があるからだ。(ご覧になったかたは、ああ、あれか、とピンと来ると思う)。録画しておいて、これからご覧になる人もおられるだろうし、再放送を楽しみに待つ人もおられるだろうから、ネタバレをしてその興味をそぐことは忍びない。

なので、当たり障りのない部分だけについてだけ書き留めておく。

今回、ぼくの依頼された仕事は、数学の問題と答えを20題分!、用意することだ。それも、できれば、「素数に関する問題」。そのうち、1題の除く19題は、数学科とは別分野の大学生たちが、自力でなんとかかんとか解けるレベルのもの。そして、1題だけ、簡単には解けない超難問。これらの問題は、研究室の掲示板に貼り付ける形で、全部が映っていた。ぼくはワープロで解答を書いたけど、学生さんたちが解いた、という設定になっているので、手書きの解答になっていた。スタッフさんたちが手分けして書き写したんだと思う。ご苦労様。

いやあ、素数に関する問題と答えを20題も用意するのは、正直、大変な仕事だった。難しくていいならいくらでもあるけど、数学科以外の理系の大学生が解けるとなると、そんなにはストックがない。全部を素数ジャンルにするのは無理だったので、6題は素数じゃない数論の問題で許してもらった。それでも、14題は素数ジャンルにしたので、我ながら、素数マニアだなあ、と思う。笑。

いろいろ、集めているさなか、タイムリーにも、親友の数学者から面白い問題を出題されたので、渡りに船、とばかり投入した。次のような問題である。

nを2以上の整数とする。このとき、nの最小の素因数は、(2のn乗)−1の最小の素因数より小さいことを証明せよ。

アイデアが閃きさえすれば、簡単に証明できるので、強者はチャレンジしてみてほしい(但し、数論の初歩的定理の知識は必要)。実際、ぼくは、10日ほどこねくり回したあげく、無理だ、と諦めようとしたときに、急にとっかかりを掴んで、うまく解決できた。解答は、たぶん、『電子の標的2』の当該のシーンを静止画面にして、よ〜く観れば、映ってるかもしれないので、それを解読していただければ、と思う(まじか)。

最も苦労したのは、もちろん、1題だけの超難問。ドラマの中で、問題[205]と設定されているものだ。これは、監督さんから、「解答の形式」の指定、という無茶な注文があったので、非常に苦労した。あまり多くを語れないので、ワンポイントだけヒントを書き留めておくが、問題[205]の解答は、数学者ラマヌジャンの発見した公式である。

 このドラマの数学監修を引き受けたのは、シナリオに興味を持ったからではない。実は、シナリオは、ほんのわずか数カ所しか見せてもらっていない。それでも引き受けたのは、キャストの中に、面識のある人がいたからだ。それは、手塚とおるさん(写真の後ろ側、一番右)。昔、演劇をよく観ていた頃、偶然、劇作家坂手洋二さん(劇団・燐光群を主催)と知り合いになり、何度か一緒に飲んだ経験がある。とりわけ、坂手さんのお芝居を観たあと、打ち上げに参加させていただいた。そんな中の一回だけ、出演者だった手塚さんとご一緒させていただいたことがあった。坂手さんは、手塚さんにぼくのことを、「数学の人」と紹介してくださった。でも、歓談は、たった10分のことだった。今でも覚えているが、急に手塚さんの携帯電話に呼び出しがあり、それは劇作家野田秀樹さんから呼び出しで、手塚さんはすぐに店を移ってしまったのだ。

でも、10分とはいえ、面識のある手塚さんがキャストだということで、ぼくはこの仕事を引き受けることにした。結果的に、引き受けてよかったと思う。仕上がったドラマは、とても迫力があるスリリングなサスペンスになっており、こういうドラマに数分間とは言え、自分の造形物が映し出され、スタッフロールに自分の名前がクレジットされるのは誇らしいことだからだ。

 転んでもタダでは起きないぼくとしては、今回やった作業を別のところでも活用することにした。それは、連載を持っている受験雑誌『高校への数学東京出版で、今回作成した20問の問題を使い回すことだ。笑。それで、今刊行されている4月号から、「素数の魅力」と題して、一年間の連載を書くことにしたのだ。興味あるかたは、そちらの連載のほうも、ご贔屓にしてくだされ。

高校への数学 2016年 04 月号 [雑誌]

高校への数学 2016年 04 月号 [雑誌]