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hiroyukikojimaの日記

2017-10-30

数学の青写真をステキに語った本

01:56

 今回は、いつものように黒川信重先生の本の紹介をエントリーしよう。紹介するのは、絶対数学の世界』青土社である。

この本のセールスポイントを、ざっくりとまとめると、

(1) 縦書きである。

(2) 数論の歴史がわかる

(3) あまり知られていない数学者の伝記がわかる

(4) 数学者がどんなふうに青写真を描くのか、を垣間見れる。

本書は、青土社月刊誌現代思想』に掲載された論考をまとめたものである。だから縦書きなのは当然なのだ。でも、黒川先生にとって、初めての縦書きの本ではないか、と思う。

 横道にそれるが、和書は今でも縦書きが主流だ。これは本当に解せないことである。ウェブ上のホームページでも、メールでも、会社の書類でも、みんな横書きだ。だから、私たちは横書きを読むことに慣れている。なのに、書籍と新聞は頑なに縦書きをやめない。理系の本でなくとも、横書きにしてしかるべきだと思うのだが、編集者はとてもそれを嫌がるのだ。なので、理系の本を縦書きで書かざる得ないことが多く、ぼくは相当に苦労している。数式を導入するのに強い制限がかかるからだ。結局、図版で入れるしかなくなるのである。近著では、拙著『世界は素数でできている』角川新書が縦書きだが、書くのに相当苦労した。

 本筋に戻ろう。

ぼくは、本書に収められた黒川先生の論考を、雑誌掲載時に読んでいた。でも、今だから告白すると、当時はあまり意味がわからなかった。しかし、本書を読んでみると、ぼくはかなり内容がわかるようになっていた。その理由には、第一に、黒川先生との対談本を二冊も刊行したこと、第二に、さきほどの拙著『世界は素数でできている』角川新書を書くために、相当に現代の数論を勉強したこと、が挙げられる。

なので、皆さんも、本書を読む前に、次の三冊に目を通しておくことをお勧めしたい。一冊目は、黒川先生ご自身の本ラマヌジャン探検』(ラマヌジャンの正当な評価がわかる本 - hiroyukikojimaの日記で紹介している)、二冊目はガロアガロア理論のおまけについている辻さんの解説(おまけ目当てで買うべきガロア本 - hiroyukikojimaの日記で紹介している)である。この二冊がおおざっぱに頭に入っているだけで、本書の理解が劇的に変わると思う。三冊目は、販促として拙著『世界は素数でできている』を忍び込ませるが、もちろん嘘偽りではなく、本書の理解の助けになることはなる(素数についての本が刊行されました! - hiroyukikojimaの日記で紹介している)。

本書は、全体としては、黒川先生がリーマン予想解決のための武器として提出した絶対数学」に関する解説の本となっている。リーマン予想とは、リーマンゼータ関数の虚の零点が一直線を成して並ぶ、という予想で、提出されてから150年以上経過した今も未解決の難問だ。

絶対数学は、かなりな分量が構築済みだから、架空の理論ではない。しかし、まだその成果は未知で、特にリーマン予想解決には至っていない。だから、ここに書かれているのは、絶対数学に対する黒川先生の青写真であり、数学者としての夢想である。

こういう数学書って、あるようでない。普通の数学書は、完成されている理論を厳密に提供するものだ。他方、本書は、定番の数学が厳密な形で提示されることは全くない。代わりに、黒川先生の現代の数論に対する評価と、それを踏まえて、未来の数論像に対する青写真が、喩え話を主軸に語られるのである。例えば、次のような感じだ。

たとえば、数学を離れて、植物の研究をしていると想像してみよう。もっと極端に言えば、地球に来訪者が来たとし、巨大木を見たとしよう。すると、そのような大木が「生きて」いることがわかったとしても、どうしてそんな大きなものが立っていられるのか、ましては何故「生きて」いられるのか、と考えてもなかなか本当のところはわからないだろう。それは、地下に隠れて見えない「根」があるからだ。

今までの数学も、同じような状況だったと考えられる。「根」にあたる「一元体」を見のがしてきた(存在に気づかないできた)のだ。ゼータの話では、どうしても理解の及ばない根本的難しさを感ずることが多いのであるが、それこそ「根」を忘れてしまったからだ。

次のガロア理論に関する喩え話にも、なるほど、とうならされる。

一本の大木が野原に立っているとする。葉がふさふさと繁って、木の実もたくさんなっているように見える、この木をゆすって木の実を落として取ったりすることがガロア理論である。(中略)

ところで、木をゆすることによって、クリの実が落ちてきたとすれば、木の種類までわかってしまうということにもなる。もちろん、クリを焼いておいしいご馳走にもありつける。

 さて、絶対ガロア理論とは、すると、何を指すのだろうか。それは、木を根こそぎゆらしてみよう、というものだ。いままで見えてこなかったことが見えてくることだろう。ガロア理論は大きな収穫をもたらす理論であったことは確かだが、そうは言っても、木の喩えで言えば、地上の幹をゆらしていたものだった。それには、限界がある。後で述べるように、ゼータ関数の根(零点)を問題にする数学最大の難問リーマン予想解決には、そのような生半可なゆらし方ではまったく不充分なので、根からゆらさねばならないのである。

数学はながいあいだ根を忘れていたのである。

普通の数学書は、そこで説明されている数学そのものを応用することにしか使えない。しかし、本書は、黒川先生という数学者が、未解決問題を解く道筋を見出すための「哲学」のようなものを提示している。だから、数学以外のさまざまな分野にもヒントを与えるものである。例えば、ぼくの専門のミクロ経済学にも、何かの示唆がなされているように感じる。

 本書のもう一つの売りは、珍しい数学者の伝記が書かれていることだ。列挙すると、高木貞治、谷山豊、佐藤幹夫ラングランズだ。高木貞治類体論を確立した人、谷山豊は谷山予想を提出した人で、その解決がフェルマー予想の解決をもたらした。佐藤幹夫は佐藤超関数で有名だが、佐藤テイト予想も重要な予想であり、つい最近テイラーらによって解決されて話題になった。ラングランズは、ラングランズ予想の提出者だ。伝記と言っても、人となりを紹介するのではなく、あくまで論文をベースにして、数学的業績とその歴史的意義について語っているのである。

中でも、ラングランズの紹介は、非常に参考になる。ラングランズ予想というのは、谷山予想を含む壮大な予想だ。黒川先生の記述を引くなら、類体論という可換群拡大の数論を、非可換群拡大の数論に拡張するもの、ということである。絶対ガロア群のn次元表現全体とGL(n)の保型表現の全体を対応させること、とも言える。このラングランズ予想は、現在の数論の最も重要な標的でありながら、ラングランズがどういう人で何をしたかは、一般レベルではほとんど知られていない。本書では、ラングランズの論文を取り上げながら、ラングランズ予想の意義と困難さを詳しく説明している。

本書は、決して「わかりやすい」本ではない。でも、「わかろうとする」のではなく、「感じよう」とするなら、いろいろ得られる本だと思う。「わかる」ことは辛い作業だけど、「感じる」ことは自分のレベルに応じてできるのでそんなに辛さはない。もう一度言うけど、数学の青写真を見せてくれる本なんて、そうそうないよ。

2017-10-15

高校生の倫社・政経や、大学生の演習本にお勧めの本

16:32

今回は、久しぶりに文系の本をお勧めしようと思う。最近は、数学書ばかり紹介してたけど、思い出してみると、ぼくの本業は経済学だからね(笑)。

お勧めするのは、4人の気鋭の学者の共著大人のための社会科有斐閣だ。著者は、井手英策さん、宇野重規さん、坂井豊貴さん、松沢裕作さん。

 序文を読むと、この本のコンセプトは、「日本社会の将来を語り合うための共通の理解、土台のようなものを提案する」ということだそうだ。いわく、

思想的な立場にとらわれず、この魅力的な日本社会、それ自体に関心をもってもらえるよう、日本社会の「いま」と「これから」を見通すための材料、共通の知的プラットホームを提供しようと、私たちが積みあげてきた「知性」をすべてのみなさんにひらこうと考えました。思い切っていえば、経済、政治、社会をめぐるさまざまな出来事を、できるだけわかりやすい言葉で、できるだけ多様な視点で説き明かし、最後に未来への一つの方向性を示したい、そんな想いを込めて、この『大人のための社会科』を書き上げたのでした。

 実際、この本は、このコンセプトに成功していると思う。「大人のため」と銘打っているけど、ぼくはむしろ、高校生の副教材や大学生の輪読の教材として使って欲しい本だと思う。大学の少人数授業では、学生にどんな本を読ませるかに、とりわけ苦労する。良い教材が持つべき特質は、

(1) 平均以下の成績の、学習意欲の乏しい学生にも読みこなせること

(2) 複雑な数式、錯綜したロジック、情緒的な煽りではない、すっきりした議論を展開していること

(3) 古典的な問題意識での、埃のかぶった内容ではなく、現在的な問題意識を備えていること

(4) 著者の個人的な思想・信条を開陳し、押しつけるものではなく、学術的に広く認められたバックボーンを持つこと

であろう。しかし、言うはやすしで、この4つの性質を備えている本は滅多にない。本書は、(まだ、一部しか読んでいないので、読んだ部分については)、この4つの性質を備え持った本なのである。

 以下、この本の一部を紹介するけど、それはすべて坂井豊貴さんの書いた章である。その理由は簡単で、まだ坂井さんの書いた3つの章しか読んでいないのだ(スンマセン)。

 ぼくは、坂井さんを、現在の経済学者の中で最も、専門外の人々へ経済学の成果を伝える力を持っている人だと思っている。専門のことを専門的に芳醇に伝えられる優れた経済学者はたくさんいる。でも、専門のことを、専門的だと思わせない雰囲気で、ほとんど専門知識を持たない人々に伝える力量を持っているのは、坂井さんがぶっちぎりだと思っているのだ。

 坂井さんのプレゼンを初めて目撃したのは、たしか10年くらい前の日本経済学会だったと思う。坂井さんは、ご自身の論文の報告でも、他の研究者論文の討論でも、非常にシャープで、とても魅力的なプレゼンを繰り広げた。あまりに魅力的に語るので、ぼくはその後に、当該の論文ダウンロードしてしまったぐらいだ。一本の論文の内容を15分程度で要約して、オーディエンスに本質を伝えるには、二つの才能が必要だ。第一は、その内容を的確に掌握する才能。第二は、その本質や急所を聴衆がわかる言葉で魅力的に伝える才能だ。坂井さんは、両方の才能を余りあるぐらいに持った逸材なのである。(坂井さんについては、以前にも、古風な経済学の講義から脱出するために - hiroyukikojimaの日記とか、理系の高校生に読んでほしい社会的選択理論 - hiroyukikojimaの日記)とかにエントリーしている)

 以下、坂井さんの書いた1章、4章、7章について、簡単に紹介する。ただし、販売妨害しないように、ネタ的なところだけをちょっとずつ紹介するに留める。

 第1章は、「GDPー「社会のよさ」とは何だろうか」と題された解説である。GDPとは国内総生産のことで、要するに、その国がここ一年に新たに生産した財・サービスを金銭的に集計した値だ。したがって、GDPは、その国の豊かさの指標として使われる。経済学部では、必ず教わる必須アイテムである。

 しかし、GDPは「国の豊かさ」、すなわち、「社会のよさ」を本当に表すのか、という問題は、近年、よく議論にのぼることだ。坂井さんは、この点を、「ネガティブな消費」という概念を軸に、噛んで含めるように丁寧に解説していく。その上で、「GDP代替基準」をいくつか紹介する。もちろん、それは、学術論文での検証を備える基準たちだ。途中で『ドラゴンボール』のエピソードなどが出て来て度肝を抜かれたが、こういうところは若くてお茶目な坂井さんならでは、である。この章の論説は、最後に「数値の目的化」というところに向かう。「GDPの数値を増やすことが、政府の自己目的化してしまう」という問題だ。現在の日本でもこの問題は深刻だと思う。そんな中、非常に面白い研究が紹介されている。ここだけ引用しよう。

GDPの高い国は、夜間の照明が質量ともに増し、ライトアップが強くなる傾向があります。だから人工衛星から地球を観察し、夜間の明るさを計測して、適切な統計処理を施すと、それなりの精確性でGDPを推計できます(Henderson, Storeygard and Weil 2012)

興味深い話だが、ここから坂井さんが何を言おうとしているかは、読んでのお楽しみ。

 4章では、坂井さんは、「多数決ー私たちのことを私たちで決める」と題して、選挙制度のことを解説している。この論点は、坂井さんがここのところ、何冊も本を出してきたものなので、目新しくなはないだろう。でも、高校生・大学生にも十分読みこなせるように、すっきりさわやかに、話題を厳選して書かれているからお勧めだ。とりわけ、日本ではまもなく衆院選が実施される。個人的には、今回の選挙は、錯綜・迷走の度合いが激しく、少なくない国民が暗澹たる気分になっていると思う。そうした中、この章を読むのは、タイムリーなことである。

 中心的な話題は、多数決(一人だけへの投票)が「票割れ」という深刻な問題を抱えていることだ。「票割れ」は、泡沫候補のせいで、勝つべき候補者が敗れる現象をいう。「票割れ」が、どんな形で民意を損なうかについて、アメリカ大統領選だけではなく、日本の過去の選挙での具体例も挙げられており、実に興味深い。

 ぼくが、目から鱗だったのは、「オストロゴルスキーの逆理」という選挙パラドクスだ。これは、政党AとBについて、(原発とか、財政とか、外交とか)個別の政策別に投票すれば、どれでもB党が勝利するのに、全政策をまとめた上で投票するとA党が勝ってしまう、という目も当てられない現象なのだ。非常に簡単な具体例でわかるので、高校生でも普通の大学生でも理解できる。是非、読んでみて欲しい。

 第7章では、坂井さんは、「公正ー等しく扱われること」を論じている。公正の問題は、経済学において、重要でありながら、鬼門でもある。経済学が信奉する「スーパー合理性」には屈服しない概念だからだ。逆に言うと、経済学が単なる陳腐な応用数学に陥らないために大事にしなければならない概念だと思える。坂井さんは、古代バビロニアタルムード問題を導入に選んでいる。「一枚の布に、二人の男が所有権を主張しており、一方はすべて自分のもの、と主張し、もう一方は、半分は自分のもの、と主張している」場合、どのように分配すれば公正か、という問題である。答えはシンプルだが、本書を参照してほしい。

 そして、後半では、「最後通牒ゲーム」の経済実験の結果について解説している。これは、プレーヤーAが10万円の金額のうちいくらをBに渡す、と提案し、Bがその分配額を承諾するか拒否するかを答えるゲームだ。Bが承諾すれば、Bは提案額を受け取り、Aは残り金額を受け取ることができる。Bが拒否すれば、両者とも受け取り額はゼロとなる。この最後通牒ゲームのゲーム理論における「解」は、「Aが微少額、例えば、10円を提案し、Bがそれを受け入れる」というものである(部分ゲーム完全均衡)。しかし、実験してみると、そうはならず、かなり公平に近い額が提案され承諾される。坂井さんは、このことを軸に、公正の問題を論じている。

実は、この実験は「行動経済学」という分野におけるものだ。今月に、行動経済学の業績からノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラ−の本にも書かれている研究である。そういう意味で、この坂井さんの論説は、ノーベル経済学賞予言的な役割も果たしたと言える。

 とにかく、この三章は、非常にわかりやすい具体例を、きちんとした学術論文から引っ張ってきて、それを礎に現状の日本についての問題提起をしている。しかも、読んでいてすごく面白い、という非常によく書けた解説なのである。是非、高校生向けや、大学生向けの副読本として使ってほしい。もちろん、社会人が読んでも十分に勉強になる本であることは言うまでもない。

2017-09-23

マリオ・リヴィオ『神は数学者か?』の解説を書きました!

01:55

 つい最近、文庫化が刊行された、マリオ・リヴィオ『神は数学者か? 数学の不可思議な歴史』ハヤカワ・ノンフィクション文庫の解説を書いた。

本の巻末の解説を書くのって、思いの外難しい。解説から先に読む読者もいるから、ネタバレはできないし、でも、解説を読んで買うかどうか決める人もいるので、この本がいかに面白い本かをアピールしなければならない、という二律背反に直面するからだ。でも、だからこそ、ライターの力量が試される仕事と言える。ネタバレなしに、いかにその口上で本をレジまで持っていかせるか。ここはプロの腕の見せ所である。

 ところで、このエントリーだが、ここで本の内容を紹介しようとすれば、当然、解説文と重複が起きることになる。それは、ぼくの解説文目当てで本を買う人(まあ、そんな人、数えるほどしかいないと思うけど)に水を差すことになってしまう。なので、今回は、本の内容を詳しくは紹介しないことにする。

 この本のタイトル「神は数学者か」は、端的に、この本の内容を表現している。これは、「数学の不条理な有効性」を述べたものだ。要するに、数学という単なる形式的な記号操作が、あまりに宇宙の法則たちにぴったり当てはまり、物質の性質を説明できてしまう、ということだ。これはいったいどういうことなのか、ということについて、いろいろな方角から議論する本なのである。

 この本を読んでいて思い出したのは、以前に、物理学者田崎晴明さん、加藤岳生さんと、雑誌『現代思想』2010年9月号で対談したときのことだ。対談のテーマは、「自然からの出題にいかに答えるかー数学的思考と物理的思考」というものだった。この対談については、水がどうして凍るのかは、まだ物理で解けていない - hiroyukikojimaの日記にエントリーしてあるので、そちらで読んでほしい。そのときのエントリーには引用しなかった部分を今回は本書の関連として紹介しようと思う。次の田崎さんの発言だ。

私が特に面白いと思うのは、回転群のSO(3)とSU(2)の話です。SO(3)というのはわれわれの三次元空間での回転を記述する群です。こういうところにあるものを普通にグルグルと回転させたらどうなるかを記述する数学です。そのSO(3)の数学を一生懸命研究していた人たちが、それを複素表現したほうが計算が便利だと気づいて、SU(2)という新しい計算を発見します。SU(2)はSO(3)にとても似ているのだけど、SO(3)よりだいたい二倍くらい大きい。そして、SU(2)を調べると、360度回しても元に戻らなくて、もう一回転させて720度回すとようやく元に戻るというような変態なものが現れてしまうのです。もちろん、当時の数学者たちは数学的な計算の途中で変態なものが出てきたとしか思わなかっただろうし、それが正常な考えなわけです。ところが20世紀になって、スピン角運動量といういうものが発見されてしまう。そのスピンというものは、驚くべきことに、SU(2)で記述されるような不思議な回転だったのです。つまり、ある種のスピンは360度回転させても微妙に元には戻らなくて、720度回転させるとようやく元に戻るという性質を持っている。これは実験でも確かめられたことです。「神様」は本当に数学が好きなのかと思ってしまうようなエピソードじゃないですか

これは、まさしく、本書のテーマである、「数学の不条理な有効性」の証拠の一つだろうと思える。

 でも、一方で田崎さんはこうも言っている。

ただし、物理学者が使っている数学が全て必然的だというとウソになりますね、特に現在進行中の研究は数学を無理矢理使ってハズレのものも物凄く多いですから。

こういうところは、著者の天体物理学者・リヴィオ氏と田崎さんの感覚の温度差に思える。リヴィオ氏は、「数学は発見か発明か」という問いかけを論じているが、物理学に対して数学が有効性を持ってない場面についてはほとんど記述していない。(生物学などには有効でない場面があることには触れている)。

 いずれにせよ、本書は、「数学が、私たちの宇宙(この世界)に、なぜこうも当てはまりがいいか」を、実例から理解し、そういう哲学的思索をするには抜群に面白い本である。是非とも手にとってみてほしい。

2017-08-31

Aimerのライブは、誠実さと斬新さの同居する奇蹟のライブだった

04:14

一昨日、女性ボーカリストAimer(Aimer Official Web Site)のライブに行ってきた。

Aimerは、ぼくが現在、もっともはまっているアーティストだ。(「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされた - hiroyukikojimaの日記とか、弱いゴールドバッハ予想が解決されていたらしい - hiroyukikojimaの日記とかにエントリーした)。最近では、Aimerのアルバム(と、ときどきTricotのアルバム)しか聴かなくなってる。

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一昨日のライブでは、武道館を1万3千人のファンが埋めていた。これは普通のキャパより多いはず。というのも、ステージをアリーナ中央に作り、360度すべての方角の客席に客を入れたからだ。ぼくは、追加で売り出された最後列の立ち見席で観た。立ち見でステージが見えるのか、みんな立ったらどうなるのか、と心配だったけど、なんということか!アンコール以外は、すべての客が着席のまま聴いていた。きっとこれは彼女のライブの決まりなのだろう。いまどき、珍しいしきたりだと思う。なので、アンコール以外は、完全にステージを肉眼で見ることができ、大満足だった。

 いやあ、とんでもなくすごい、奇蹟のライブだった。こんなすごいライブに当たることは滅多にない。武道館のライブは、YUIの公演を超えるものはもうない(遂に、YUIのライブに行ってきた。 - hiroyukikojimaの日記参照)、と信じていたけど、そんなことはなかった。ぼくの中では、完全に凌駕してしまった。

今回のライブは、最近リリースされたベスト盤、「Blanc」と「Noir」を記念してのものだ。前者は、主にバラード的な静の曲を集めたアルバムで、後者は激し目の動なる曲を集めたアルバム。そして、ライブは、前半はBlancから後半はNoirから選曲された。そればかりではなく、BlancとNoirに合わせて、前半と後半を完全に異なるコンセプトで構成したのだ。例えば、前半のドレスは白、後半のドレスは黒。あるいは、前半はバックバンドは座って演奏、後半は立って演奏、というように。舞台の使い方も、ライティングも切り分けてあった。本当に完璧な演出だと思う。とりわけ、後半の最初の曲の「us」のところの芸術的ライティングには鳥肌がたった。インターバルの効果音とそこからつながる「us」の演奏のみごとさが、ライティングと相まって、観客の頭の中のBlancからNoirへの切り替えが完璧化される。本当によく考えられた構成だと思う。

ぼくは、ライブというのは、「アーティストに会いに行くもの」「アーティストと交友しに行くもの」と思っている。だから、アーティストの気持ちとか息づかいとか人柄とかを感じたい、というのが一番大きい。そういう意味では、Aimerという人の今がどんなで、何を感じ、どこに向かおうとしているのかがわかり、来れてよかったと思った。

 こんな周到な演出にもかかわらず、ぼくがぐっと来てしまったのは、Aimerの歌に対する真摯さとライブに対する誠実さだった。台湾韓国香港を含む20数カ所でパブリック・ビューイングが開催されるほどの人気のライブでありながら、いっさいの奢りも高慢さも感じられない。完璧とも言える、そして、希有な個性の歌唱力を駆使し、懸命に、切々と歌う。どの方角の観客にも気を配り、MCでは誠実に自分の気持ちを話す。舞台演出のアーティスティックと、ギャップと言えばギャップなんだけど、でも、それをコミにして、Aimerという人の人となりを感じさせるステージングだった。

 彼女は、MCの中で、「武道館は通過点の一つと考えるようにしている」というような趣旨のことを言いながら、でも、終わりに近づくに従って、だんだん何かがこみ上げてくる様子になり、アンコール最後の曲「六等星の夜」では感極まってしまったようだった。それを観て、「ああ、やっぱり、武道館は特別な箱なんだなあ」と感慨深く、彼女を心の中で祝福した。

帰りにアーティストグッズをいくつか購入した。その中の一つに、スマホケースがある。実はぼくは、まだガラケーを使っている。しかし、Aimerスマホケースを買ったのが縁で、スマホに切り替えようと思っている。もちろん、ケースを使うために。。。

 最後に自分のことを付け足すのは気が引けるけど、是非、言わせて欲しい。

拙著『世界は素数でできてる』角川新書が、増刷になった!ぱちぱちぱち。刊行3週間での増刷は、ぼくの本の中で優等生だ。買ってくださった皆さん、角川の編集・営業に感謝します。ありがとう。そして、まだ未読の皆さんには、これからでもよろしくです!

2017-08-25

アニメ映画『打ち上げ花火』を観てきますた

04:57

 今日は、アニメ映画『打ち上げ花火 下から見るか?横から見るか?』を観てきた。

観に行った理由は、昨年からアニメづいてしまっていて、特に今年に入ってから、魔法少女まどか☆マギカに打ちのめされ(「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされた - hiroyukikojimaの日記)、その影響から、製作会社シャフトアニメを次々と観て、「物語シリーズ」にたどりつき(将棋の実況解説のような数学書 - hiroyukikojimaの日記とか、確率・統計は、マーケティングに使えるらしいぞ - hiroyukikojimaの日記とか)、つい先日、(つい最近、放映された「終わり物語」を含めて)全作品を見終えた。ちょうど、「物語シリーズ」のファンになったところで、岩井俊二監督の傑作『打ち上げ花火 下から見るか?横から見るか?』のアニメ版が作られる、と知ったのは、あまりに衝撃だった。なぜなら、この作品は、ぼくが相当に衝撃を受けた物語だからだった。

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? [DVD]

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感想をしたためるが、多少のネタバレを含むので、それを踏まえて読んで欲しい。まあ、「何がネタバレになるのか」というのは、「何を事前に知りたくないのか」に依存するので、人によって違うだろう。たぶん、たいしたネタバレにはならない気がするのだが、用心のため、一応前もって言っておく。

 このアニメ版は、成功作なのか、失敗作なのか。名作か駄作か。

そこかしこで議論されてて、いろいろ言われてるみたいだけど、これについてぼくには何も結論できない。ぼく自身の個人的な意見もない。なぜなら、岩井俊二監督の原作(実写版)をリアルタイムで観てしまっているので、その影響が大きく、公平中立な判断ができないからだ。

原作が衝撃的すぎて、善し悪しとかいう水準にないんだよね。あんな物語をテレビ向けに作ったというだけでもう、とんでもない作品だと思う。

とにかく、このアニメ版を観ている間ずっと、「ああ、ここは原作だとああだったな」「なるほど、こういうふうにしたのか」と、どうしても原作をかぶせてしまう。勝手に頭が原作方向に自動修正してしまう。そういう意味では、映画を二本観たぐらいの充実感となった。

でも、アニメ版を観て、逆に原作について今頃気がついたことがあった。それは、「ああ、この作品は、ある意味でエロを表現していたんだ」ということだ。このことを悟ったぼくは、原作を観て、24年経過した今になって、原作についてのざっくりとした結論に到達した。すなわち、岩井版「打ち上げ花火 下から見るか?横から見るか?」とは、「少女の秘めるほのかなエロス」+「スタンド・バイ・ミー的冒険譚」、だったのだ、ということだ。(「スタンド・バイ・ミー」は、スティーブン・キング原作の名作映画)

宣伝を観ればわかる通り、物語は二つの幹から構成されている。第一は、美少女・なずなと主人公・典道の逃避行。第二は、「花火は横から見ると平たいのか」を検証するために、灯台に向かう同級生の少年たちの冒険譚。美少女・なずなは、他の同級生に比べて成熟しており、ある種の妖艶さを秘めている。他方、同級生の男子たちは、まだまだ子どもで、女の子よりも友達のほうが大事、ばかげた検証のためにとんでもない行動を実行してしまう。その二重性がこの物語の魅力なのだったのだ。

そういう視点から見ると、今回のアニメ版は、「少女の秘めるほのかなエロス」に完全な焦点を当て、「スタンド・バイ・ミー的冒険譚」のほうは、かなり縮小させた観がある。ぼくは、原作を観たとき、この両方の側面にノックアウトされたことに、今になって気がついた。だから、アニメ版では、後者の側面が縮小していることに多少のとまどいがあり、しかし、心の片側では、前者の側面が全開となっていることにカタルシスをもらった、という二重性のある感慨を得た顛末となったのである。

 なぜ、「少女の秘めるほのかなエロス」というテーマに急に気がついたのか。

それは、今回のアニメ版で、主人公・なずなの絵に、「物語シリーズ」の戦場ヶ原ひたぎの絵が抜擢されているからだ。CMでこの絵柄を観たとき、ぼくは正直驚いた。戦場ヶ原ひたぎは、キャラとしては、妖艶でエロ全開の女子高生だ。なぜ、戦場ヶ原の絵?、というのが疑問だった。でも、作品を観てはっきりわかった。原作の子役・奧菜恵さんに対抗するには、戦場ヶ原ぐらい持ってこないとダメなのだ。そのくらい、当時の奧菜恵さんは、「神」だったのだよ。当時の奧菜さんは、ぼくの美少女録の中で、いまだにベスト3に入る凄さである。

そう、今、実写版を作っても、奧菜さんを凌駕できる子役は存在しないだろう。なずなの声優をやっている広瀬すずちゃんが、もっと若い頃に抜擢されても、奧菜さんを超えることは不可能だったと思う。それは広瀬すずちゃんの美しさの問題ではなく、なずなという身体性を具現化できるのは、古今含め、奧菜さんだけだからなのだ。それは、岩井俊二さんがきっと、奧菜さんに当て書きした物語に他ならないからだ。そういう意味では、原作を凌駕するには、アニメでやるしかなかった。そして、戦場ヶ原ひたぎぐらいの絵を持ってくるしかなかったのだと思う(書いてて、自分が、とんでもないバカに思えてきてる。笑)。

そういう意味で、このアニメ版には、完全な必然性がある。

なぜ、小学生ではなく、中学生にしたのか。なぜ、なずなの家庭を描写したのか。なぜ、「少女の秘めるほのかなエロス」に完全な焦点を当て、「スタンド・バイ・ミー的冒険譚」のほうは、かなり縮小させたのか。なぜ、単なる「もう一つの時間分岐」ではなく、「時間のやり直し系」にしたのか。

逆に、岩井原作をそのままアニメ化したら、超駄作になっただろう。なぜなら、あれは実写であることに必然性がある。奧菜恵さんの身体性が必要である。そして、実写にしか与えられない感動を備えているからだ。

今回のアニメ版は、そういう意味では、実写では絶対できない、いろんな仕掛けを持っている。そうでなければいけない。そして、それはかなりの程度成功していると思う。そう、戦場ヶ原ひたぎを活かすには、ああいう物語でなければならない必然性があるのだ。

褒めすぎてしまったので、最後にちょっとだけ残念だった点を付け加えておく。それは、あまりに「ヒットさせよう」という下心が強すぎて、盛りすぎになってしまった点。例えば、「君の名は。」を意識しすぎ。また、ジブリっぽい部分なんていらなかった。物語の展開に必然性を持たせるため、原作の最高のシーン(最後のなずなのプールのシーン)を変えてしまった点など。(あのシーンで、同じ曲を使ってくれたのは、もう涙だった。あの曲じゃないとダメなんだよ!)。

ぼくは、シャフトの作品がすごく好きなので、『まど☆マギ』ぐらいに、もっと炸裂した世界観に観客を巻き込む作画をやってもよかったんではないか(というか、そうして欲しかった)と思う。

でも、総合的に言えば、すばらしい作品で、多くの人に観てもらいたい。そして、原作を知らない若者がどういう感想を抱くのかを知りたいので、どんどん感想をアップロードして欲しい。