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hiroyukikojimaの日記

2017-01-19

新著『証明と論理に強くなる』は、ぼくの論理学への自問自答なのだ。

01:08

 ぼくの新著『証明と論理に強くなる』技術評論社が刊行されたことは、前回にエントリーした(『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!! - hiroyukikojimaの日記)。竹内薫先生の日経夕刊の書評のおかげで、アマゾンの在庫も楽天の在庫も一気にはけ、幸先良いスタートとなった。おまけに、昨日、大部数の増刷が決まった。刊行後一週間以内の増刷というのは、ぼくにとってはとても久々のことだ。めちゃくちゃ嬉しい。竹内薫大明神さまさまである。アマゾン楽天の在庫が回復したようなので、ここでもう一発、販促の追い打ちをかけようと思う。

前前前世、じゃなかった、前前回(もうすぐ、ぼくの論理学の本が刊行されます! - hiroyukikojimaの日記)では「目次」をエントリーし、前回(『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!! - hiroyukikojimaの日記)では「まえがき」をエントリーしたので、今回は、「序章」の一部を晒そうと思う。

「序章」は、「『証明』と『論理』を学ぶと何の役に立つのか」と題している。この本のテーマについて語っている部分である。まず、見出しだけを列挙する。

(1)「論理学」の論理ってなに?

(2)公務員試験資格試験の論理問題はどう解く?

(3)中高生に論理を教えるにはどうしたら良いか?

(4)数学はなぜいつも正しいのか?

(5)なぜ、三角形の内角の和が180°でない世界がある?

(6)証明法には、何か根拠があるのか?

(7)数理論理の教科書はなぜわかりにくいのか?

(8)ゲーデルの定理とはどう証明されるのか?

*見出し番号は、当ブログでつけたもの

見出しを眺めればわかるように、本書は、ぼくの論理学に対する自問自答を書き綴ったものなのだ。8項目をすべて晒すと、相当な字数になるので、(2)と(6)と(7)だけにしようと思う。

(2)公務員試験資格試験の論理問題はどう解く?

 世の中で、「証明」と「論理」の能力が問われる場面は多くあります。大学入試数学では論理は必須ですが、それだけではありません。公務員試験資格試験・就職の適正試験などで実施される「論理的推論」もそうです。このような試験が課される理由は、数学や理科や歴史などの教科内容を試験すると、修学経験や専門の差が出て公平でないと考えられていることにあるでしょう。「論理的推論」を、教科を超えた普遍的な認識手段だと考え、その能力を見ることで応募者の知的能力を測ろうというわけです。

 これらの「論理的推論」の試験問題は、「日常言語」の形で出題されますが、実は、「日常言語の論理」に見られる曖昧性はほとんどありません。なぜなら、これらの問題は、みかけは日常言語的であっても、数学の論理(数理論理)で解けるように作られているからです。

 見たところ、たいていの学生さんたちは、これら「論理的推論」の問題を勘とかフィーリングで解いています。そうやっていては、正答しても誤答しても、その理由を理解できないでしょう。

 本書では、「論理的推論」の試験を受けなければならない学生さんに向け、勉強の指針を与えるように書いています。本書を読破した後、「論理的推論」の問題集にあたれば、きっと以前よりも理解がよくなっていると思います。

 実はぼくは、とある資格試験予備校経営者と商談をしたことがあり、そこで、(上級)公務員試験のテキスト作りを依頼されたことがある。そのとき、出題されている論理的推論の問題が、(日常論理ではなく)数理論理の問題でありながら、教材ではあまり良い解説(体系的解説)がなされていないことに驚いたのだった。きっと、世の中の受験生は、体系的に勉強することなく、フィーリングで解くか、あるいは、意味不明の暗号操作で解いているのだろうな、と想像した。そういう現状にアプローチした数理論理の教科書は見たことがないので、本書を従来の教科書と差別化するには、うってつけの題材だと思って投入することにしたのである。

(6)証明法には、何か根拠があるのか?

 数学が得意な人は、数学の証明法、例えば、「背理法」とか「数学的帰納法」とかを自然に使いこなせるようになったことでしょう。しかし、用心深くものを考える人、何でも根本的なところが気になってしまう人は、「背理法数学的帰納法は、いったい何をやっているのだろう。そして、なぜ正しいのだろう?」という疑問を持ったかもしれません。

実際、筆者はそういう疑問に突き当たりました。自分では、これらの証明法を簡単に会得できましたが、それがどうして正しいのか、明確にはわかりませんでした。そもそも「証明法として正しい」とはどういうことかも疑問となりました。とりわけ、中高生にこれらの証明法を教えているときには、「例え話」で強引に納得させる顛末に陥り、心の中では秘かに「それじゃ、数学じゃない」という罪悪感を持ちました。

もしも読者が、こういう疑問を持ったならば、それはとても鋭い疑問なのです。安心して下さい、答えは論理学の中にあります。本書を読めば、「証明法として正しい」ということの意味が理解できるはずです。

塾の先生をやっていた頃、これが最も懸案事項だった。もちろん、「背理法」とか「数学的帰納法」とかは、スペシューム光線とか、コブラツイスト(ふ、古い)に匹敵する「決め技」、「必殺技」に当たるものだから、生徒に伝授するのは先生の威厳を示すのにもってこいとなる。塾の先生は、そうやって、権威を示し、尊敬を押し売りするのが生業だ。でも、ぼくは心苦しかった。めっちゃ葛藤があった。。それじゃ、インチキ宗教教義の伝授とどっこいだ。ちゃんとした、「科学的な」、あるいは、「哲学的な」、バックボーンを生徒に示したい、と思ってた。ぼくが欲しかったのは、生徒からの「偽りの尊敬」ではなく、生徒たちの「好奇心にみなぎった未来」だったのである(かっこつけすぎかな。笑)。それが、ぼくに数理論理の勉強に走らせた最も大きな活力だったのである。そんなわけで、本書は、「How」を示すだけではなく、できるだけの、(ぼくの度量で可能なだけの)、「Why」を与えたかったのである。

(7)数理論理の教科書はなぜわかりにくいのか?

 以上のような、あるいは他の、さまざまな問題意識から、数理論理学の教科書をひもといた経験を持つ読者もおられるでしょう。そして、そのうちの多くの人はきっと、困惑に陥ったことでしょう。筆者もこれまで述べた疑問を解決しようと、何冊もの数理論理学の教科書に挑戦しましたが、いつも大きな困惑に直面しました。それは、ほとんどすべての数理論理学の教科書が、以上のような素朴な疑問を解決してくれるものではなかったからです。

 その理由は、数理論理学の教科書が、「数理論理学という数学分野」の研究のための本であって、私たち一般人の素朴な疑問に答えるための本ではないからです。

 例えば、「証明」において使うことが許される「推論規則」が提示されるとき、たいていは、全く見たことのない、わけのわからない「規則」となっていて頭を抱えます。それは、「ヒルベルトの体系」または「ゲンツェンのシークエント計算」、あるいはその派生形です。これらは決して、私たちが普段の数学で使う論法ではありません。なぜそんな奇妙な体系を使うのか、というと、「数理論理学」という固有の数学を展開する(数理論理学の定理を証明する)には、それらの体系のほうが便利だからに他なりません。しかし、これらの「推論規則」は、私たちの普段の論理的推論とあまりに見かけが異なるので、理解するのに大きな努力を要するうえ、「論理的推論ってなに?」という、私たちの疑問の出発点には答えてくれないのです。このことが、多くの一般の読者を論理学から遠ざけてしまう原因だと思います。

 筆者は、何冊もの教科書を読んでいく中で、数学で普通に使われる論法に非常に近い体系を見つけました。それが「自然演繹」と呼ばれる体系です。学校で教わる数学の「証明」は、すべて「自然演繹」の規則に対応づけることが可能です。また、そうすることで、数学の「証明」というものを、前よりも明確に捉えることが可能となります。

 本書では、「自然演繹」を丁寧に解説します。自然演繹を理解することは、「証明とは何をしていることか」を理解することであり、また、「証明のハウツー」を会得することになるからです。

いやあ、ほんとにね、数理論理の教科書を素人が読んでもね、ぜんぜんためにならないと思うよ。それらは、数理論理学というジャンルの専門家の免許を取得するためのものであって、決して、我々の広範な疑問や好奇心を満たすためのものじゃない。別にそれが悪いとは言ってない。ぼくが専門とする経済学の多くの教科書もそうだ。それらは、「生々しい経済活動」についての素人の疑問に答えるようには書かれていない。悪口覚悟で言えば、それは経済学というジャンルで飯を食っていくための「超常的教義」を習得するための呪文の本であって、我々の「生の現実」とは、ある意味での断絶があるんだと思う(ある意味の、意味が大事なんだけど、ここでは論じない)。

でも、数理論理の教科書たちのそういう「傷」が、ぼくには「チャンス」だと思った。専門家でないぼくにも、ある種の役割が、つけいる隙が、あるんだと思った。それは、素人の人のニーズを満たしながら、でも、ちゃんと数理論理の線路から脱線しすぎないような本を書くことができるんじゃないか、ということだ。それで本書を執筆した、というわけなのだね。

 ほ〜ら、読みたくなってきたでしょ? そういう人は、明日、書店に走ろう。ネット書店で、ぽちってもいいぞ。

2017-01-12

『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!!

23:47

 ぼくの新著『証明と論理に強くなる〜論理式の読み方から、ゲーデルの門前まで』技術評論社が書店に並んだので、このタイミングで宣伝をしようと思う。前回のエントリーもうすぐ、ぼくの論理学の本が刊行されます! - hiroyukikojimaの日記では、目次をさらしたので、今回は序文をさらしたいと思う。

以下が、序文である。

まえがき   こんな人たちには、本書がお勧め!

 

本書は、数学における証明のやり方と、論理式の扱い方を解説した本です。本書のテーマは、序章に詳しく書きましたから、そちらをご参照ください。ここでは、きっと本書が役立つであろう人々を、タイプ別に列挙することにします。

 

タイプ1  論理式の読解が苦手な方

 数学をはじめとした少なくない数理分野の書籍や講義では、論理式で内容が記述されます。論理式の読解になじんでいないと、「内容がわからない」だけでなく「表記が読めない」という二重苦に陥ります。本書では、論理式の読解法を丁寧に講義します。

 

タイプ2 公務員試験などの論理の問題に苦労している方

 就活資格試験では、論理の問題が出題されます。これらの問題は、日常言語で記述されていますが、実は数学の論理の問題です。この手の問題は、フィーリングで解いている限り、いつまでたっても上達しません。本書で、論理式の真偽を学べばハウツーが身につけられます。

 

タイプ3 数学の証明を勘でやっている方

 多くの人は数学の証明で苦心していることと思います。しかし、証明とは単なる推論規則の適用にすぎず、実は十数個の規則だけでまかなわれています。一度、その規則をわかってしまえば、証明を読んだり実行したりすることが、かなり楽になるでしょう。

 

タイプ4 中高生に証明や論理を教えるのに苦労している先生方

 中高生の数学の授業で証明や論理を教えるのは、非常に難しい仕事です。ともすると、丸暗記の押しつけに陥り、学生たちを数学嫌いにしてしまいます。本書の中には、証明教育や論理教育のヒントが散りちりばめられています。

 

タイプ5 思考とか認識ってどういうこと?という疑問を持つ方

 私たちが「ものを考える」とは、いったい何をしているのか。これはとても難しい問題です。このような「人間の認識とは何か」を解くカギは、証明と論理の中にあると言っても過言ではありません。

 

これらのいずれかのタイプにあてはまる方は、ぜひ、本書を手にとってみてください。

 実は、今日の日経新聞夕刊の「目利きが選ぶ三冊」のコーナーで、竹内薫さんが書評を書いてくださった。しかも、最も大きな扱いで、さらに☆五つ! ありがたやありがたや。内容も、とても本書の特徴を掴んでいて嬉しくなった。さすが竹内さんだ。アマゾンの在庫があっという間にはけた。すげえ。

 本書のタイトルには、「ゲーデル」がついているけど、正直、それは刺身のつま。本書の意図は、それとは全く別のところにあるのだ。数理論理学の通常の教科書とは、かなり脇道に逸れた書き方をしている。なぜなら、数理論理の学徒に読んで欲しい本ではないからだ。(数理論理とか基礎論の学徒は、啓蒙書なんて読んでないで、ちゃんとした教科書を読みたまえ!)。本書の想定読者は、「論理ってソモソモなに?」「証明するって、ソモソモどういうこと?」って疑問を持つ人たち、ソモソモ人たちなのだ。だから、通常の教科書のように、「これが読解できなんなら、どうせこの分野には向いてないから諦めな」という突き放しかたはしない。それこそ、懇切丁寧に、まるで古文のあんちょこのように、すべての論理式に「逐語訳」がついているから、スラスラと読み進める(はず)。そして、ぼくが過去に抱いたような疑問を抱いている人たちには、かなりの程度で、その疑問に答えていると思う。

 それってどんな疑問?ってことについては、次回にエントリーしようと思う。

2017-01-01

もうすぐ、ぼくの論理学の本が刊行されます!

18:56

 明けましておめでとうございます。昨年は、当ブログをご愛読くださりありがとうございました。

今年の初エントリーは、もうすぐ、1月11日に刊行されるぼくの新著の紹介をさせていただきましょう。(一部の書店では既に販売されているようです)。

 本のタイトルは、小島寛之『証明と論理に強くなる〜論理式の読み方から、ゲーデルの門前まで』技術評論社。これは、ぼくの長年の論理学との格闘から生まれた本。ある意味では、宿願とも言える刊行である。

刊行までまだ10日ほどあるので、今回は、目次だけをさらすこととしよう。次のようになっている。

『証明と論理に強くなる〜論理式の読み方から、ゲーデルの門前まで』目次

  

序章 「証明」と「論理」を学ぶと何の役に立つのか?

  

<第1部 論理式に慣れよう>

第1章 論理式を読めるようになる

第2章 論理式の真偽は考える世界で変わる

第3章 大学入試公務員試験を解いてみよう

  

<第2部 証明するとは何をすることか>

第4章 言語と推論

第5章 「等しい」とはどういうことか?

第6章 「かつ」「または」「ならば」「でない」の推論規則

第7章 「証明できる」と「正しい」の関係

第8章 述語論理を読めるようになる

  

<第3部 自然数を舞台に公理系を学ぶ>

第9章 1+1=2を証明しよう

第10章 ∀と∃を操作しよう

第11章 数学的帰納法とはどんな原理か

  

<第4部 ゲーデルの定理の予告編で終わる>

第12章 ゲーデルの定理、その予告編

  

<補足>

A. 「命題論理の自然演繹の完全性定理」の証明

B. 「等号の演繹システムの完全性定理」の証明

C.  ニセ自然数はメカ自然数Qのモデルであることの確認

D. 「ホフスタッターの定理」の証明

少しだけ追加の説明をしよう。

本書は、ぼく自身の数理論理に関する自問自答を執筆した本、ということができる。

詳しくはあとがきを読んで欲しいが、ぼくは人生の中のいくつかの局面で、数理論理を勉強しなければならないはめになった。その中で、最も重要で、最も追い詰められたのが、塾で中高生に数学を教えているときだった。

中学生にユークリッド幾何を教えるとき、ちゃんとわかってもらおうとすれば、公理とか推論規則とかに抵触せざるを得ない。そうなると、「やっていい推論は何か」とか、「証明された定理が正しい、とはどういうことか」とかが問題になる。これらに、胸を張って答えるために数理論理の勉強が不可欠になったのである。

それ以外の単元も、数理論理と無縁ではない。証明問題の解法を教える際、「背理法」とか「数学的帰納法」とかが出てくる。このとき、鋭い生徒からは、「背理法は、どうして正しい論法なのか」とか、「数学的帰納法とはいったい何をやっているのか」とか、いじわるな質問が飛んでくる。教師の良心として、逃げずにごまかさずに、誠実に解答をしたい。そうなると、数理論理に取り組まざるを得ない。

このように、本書は、「数学講師としてのぼくの魂が書かせた本」と言える。だから、本書が最もフィットするのは、中高生に数学を教えていらっしゃる先生がたであろうと思う。

 塾講師時代に、幸運にも、同僚に数理論理の研究者がいた。その人が、ゲンツェンのシークエント計算とか自然演繹とかを高校生に向けてレクチャーしていたので、ぼくも講義にもぐらせてもらい、だいぶ下地ができた。でも、その直後に、経済学大学院入学したので、数理論理から遠のくことになってしまった。大学院でも、実は、松井彰彦先生のゲーム理論セミナーで、論理学の本の輪読に参加したことがあった。今思えば、とても効率的な学習の場だったのだけど、ほんちゃんの経済学の勉強を優先したため、たいして身につかなく、本当にもったいないことをした。

 かなり本格的に数理論理の教科書や専門書と取り組んだのは、拙著『数学的推論が世界を変える』NHK出版新書の企画が持ち上がったときだった(詳しくは、新著『数学的推論が世界を変える〜金融・ゲーム・コンピューター』が出ました! - hiroyukikojimaの日記参照のこと)。この本は、金融、コンピューター、ゲーム理論、数理論理をクロスオーバーさせるエキサイティングな本で、ぼくの経済学上の興味を結晶させたものだった。

本を書くからには、数理論理について、かなりきちんと理解しなければいけない。それこそ、数理論理を組み入れた経済学論文が書けるぐらいまで、ちゃんと吸収したい。そういう思いで勉強を行った。

 今回は、その勉強をまとめる形として、本書を執筆した。本書は、さきほども言ったが、経済学者としてではなく、数学教師として、あるいは、数学エッセイストとして、(数理論理の専門家や学徒以外の)多くの一般の人が証明や論理について疑問に思っているであろうことに答えることを志したのである。刊行日が近くなったら、ごり押しの宣伝をする予定なので、お楽しみに。

2016-12-23

もはや思想書と呼ぶべき数学書

03:46

 今回は、黒川先生の新著である黒川信重リーマンと数論』共立出版をエントリーしよう。

この本は、「リーマンの生きる数学」というシリーズものの第1巻。リーマン歿後150年を記念して刊行が開始されたシリーズだ。第1巻の本書は、リーマンゼータ関数から発展した数論の全貌を鳥瞰し、リーマン予想解決への道筋を模索した内容となっている。

 本当は、来月に刊行されるぼくの新著、小島寛之『証明と論理に強くなる』技術評論社を紹介しようか、と思ったのだけど、刊行がまだだいぶ先(1月11日)なので、来週あたりになったら、エントリーすることにしたのだ。(お楽しみに)。

 実は、本書黒川信重リーマンと数論』共立出版は、目次を見た段階では、「ぼくには読み通せない本かな」という予感を持っていた。かなり高度な数学が展開されていそうで、歯が立たなそうだったからだ。でも、予想は嬉しい方角に裏切られた。なんと、最後まで「目を通せて」しまったのだ。もちろん、「読みこなせた」わけではない。斜め読みしたところはたくさんある。でも、飛ばすことなく、最後のページまで到達したことは間違いない。飽きることなく、諦めることなく、突き放されることなく、最後まで連れていかれてしまったのである。それはなぜか。

 それは、本書が、数学書の領分を超えて、もはや思想書とでも呼ぶべき高みに達している、からなのだ。以下、それがどういうことかを順を追って説明する。

 まず、本書は、各数学者の業績を、緻密に考証し掘り起こしている

多くの数学書は、(ぼくの書いた啓蒙書も例外ではなく)、孫引きがほとんどだったり、また、誰かが整理整頓した記述に頼ったりしている。対して本書は、(黒川先生の本は、本書に限らずいつもそうなのだが)、原論文にアクセスした上で、正しい記述や見逃されている事実を掘り起こしている。例えば、俗にライプニッツやグレゴリーの発見とされる「奇数の逆数の交代和が、π/4となる」(1−1/3+1/5−1/7+・・・=π/4)が、実は、彼らより300年も前にインドのマーダヴァが発見したことを指摘している。どうも、マーダヴァは、三角関数級数展開を得ていたらしい(微積なしで??)。あるいは、メルテンスという数学者1874年論文で示した公式(x以下の素数pに対して、1/pに(−1)^(p−1)/2を掛けて1から引いた数たちを掛け合わしたものの極限がπ/4になる)が、現代ではほとんど忘れ去られているが、実はこれは深リーマン予想第一歩となっていることを掘り起こしている。はたまた、ハッセ予想のきっかけとなったアンベールという数学者が、同姓同名の別人と混同されることが多いことなども指摘している。

 次の点が非常に大事なのだけど、本書は、リーマンの研究に関するかなり踏み込んだ再考証となっている

第二部は、オイラー以前→オイラー→ディリクレ→リーマン、という歴史順に、ゼータ関数の誕生をたどっている。そして、リーマンについては、死後60年以上を経過したあとに、ジーゲルが遺稿を解読して発見されたことを踏まえて検証しているのである。例えば、ハーディをスターにした「リーマン予想が成立する零点の個数の評価」と同等の結果を、リーマンが既に得ていたことなどが指摘されている。この点について、黒川先生は次のように記している。

以上のことは、リーマンの1859年の論文リーマンの研究の真実を伝えていないという教訓となる。リーマンは将来に詳細を書くことを予定していたのだと思われる。

この章がとにかくすごいのは、こんな風に、「黒川先生がリーマンの霊と議論している」かのように読めることだ。なんということか、「リーマンの全数学を合わせれば、リーマン予想の証明に至ったのではないか」という願望までが書かれている。リーマンは、きっと、こんなアプローチを企てていたに違いない、と。こういうところに、数学者の魂のあり方が垣間見られる。

 とは言ってもぼくには、本書での「有限ゼータ関数」と「行列のゼータ関数」の指南がものすごいツボだった。

今まで、何度か黒川先生と対談させていただき、いろいろなことを発見し腑に落ちたのだけど、一つ今までよくわからないことがあった。それが、「ゼータ関数の零点と行列の固有値が関係する」ということだった。本書には、この点が丁寧に解説されている。第2章「行列の整数ゼータ関数」と第3章「行列の実数ゼータ関数」がそれである。これらは、「行列からある計算でゼータ関数が定義され、それが関数等式を持ち、リーマン予想の類似が成立する」というもの。証明は簡単だけど、「行列のトレース(対角成分の和)が基底変換に対して保存される」という法則の見事な応用となっていて驚く。しかも、にわかには信じられないことだが、この方法論が、合同ゼータ関数やセルバーグゼータ関数に対するリーマン予想の証明(第8章で解説)の急所にもなっているのだ。ぼくはこの解説で、今までわからなかったこれらの証明に関して視界が開けた(ざっくり理解に達した)幸福感を味わうことができた。

一方、「有限ゼータ関数」というのは、有限和で作られるゼータ関数のことで、ぼくは全くこれを知らなかった。すごく簡単な関数だけど、関数等式も、オイラー積表示も、リーマン予想も成り立つことは全く驚きであった。高校生に教えるにはちょうど良いと思う。

 最も胸が熱くなったのは、最後の章に書かれた、黒川先生自身のリーマン予想証明の「提案だ。

普通の数学書には、こんなことが書かれることはないからだ。もちろん、それはまだ、「青写真」でしかなく、「夢」の段階だけど、なぜそういうアウトラインを作るのかについては、本書一冊読んでくれば強い説得力がある。ちなみに、ここでも、「行列のトレース」のアイデアが活かされている。もしも、この方法で将来、リーマン予想解決されたなら、本書は予言の書となる。リーマン自身が自らの研究の中で発想した夢想が、黒川先生の考察を経て、黒川先生か誰か他の数学者の腕力によって実現されたことを、後生に書き残す本となる。そして、読者はその生き証人となるのである。

2016-12-04

スティグリッツさんの宇沢先生を思う気持ちに心が熱くなる

15:47

 宇沢先生の新著が刊行された。タイトルは、宇沢弘文 傑作論文全ファイル』東洋経済新報社だ。

本書は、宇沢先生のパソコンに記憶されていた大量の原稿を、東洋経済の編集者さんが丁寧に整理して、「絶対に世に残すべきだ」と考えた原稿(傑作論文)を編纂して本にしたものである。大事なことは、編集者さんは、宇沢先生が生前のうちにコンタクトし、この企画を開始した、という点だ。すなわち、本書は、宇沢先生のご意志の下に製作されたのである。

残念なことに、編纂の途中で宇沢先生がご逝去されたため、最後の原稿のチェックはご遺族が行われた。ご遺族の依頼を受けて、ぼくも原稿に目を通し、弟子として、経済学者として、いくつかの誤植を指摘し、コメントをし、提案をさせていただいた。本書は、400ページを越える大部である。本書の校閲に、ぼくは今年のゴールデンウィークをまるまる費やすことになった。でも、それはとてもとても楽しい時間だった。どの年のゴールデンウィークよりも充実した連休になった。ぼくは、本書を校閲しながら、宇沢先生から新たなご指導を受けた。本当に怒濤のようなご指導だった。

 本書で最も注目すべき点は、ノーベル経済学賞受賞者であり、宇沢先生の弟子であるスティグリッツさんの宇沢先生への想いが赤裸々に収められていることだ。本書の冒頭に、2016年3月16日の「宇沢弘文教授メモリアル・シンポジウム」におけるスティグリッツ氏の講演の一部が収録されているのだ(この講演については、スティグリッツ氏の講演を聴いてきた - hiroyukikojimaの日記にエントリーした)。

 この講演の中で、スティグリッツさんは、格差問題のこと、環境問題のこと、TPPのことなどを経済学者の立場から論じた。それと同時に、宇沢先生との思い出についても、誠実に、畏敬を込めて、そして何より熱く語ったのである。

すばらしい講演なので、是非、本書でまるごと読んでいただきたいが、少しだけ引用をしよう。

先生は、シカゴ大学で開かれたセミナーに、私たち数人の学生を誘ってくれました。そのなかには、私と共同でノーベル経済学賞を受賞したジョージアアカロフ教授もいました。宇沢先生は、MITスタンフォード、イェールの各大学から若手経済学者を集めて、シカゴを世界の知の集積地にしようと考えたのです。その考えはみごとに実現しました。私たちは、シカゴに集まったわずか一ヶ月ほどの間に、全員、宇沢先生の信奉者になってしまったのです。

なんと、涎の出るような環境だろう。

次の思い出も、ぼくには感慨深い

数学手法を活用する能力に秀でていた宇沢先生は、私たちに最新の手法を紹介してくれました。たとえば先生は当時、微分位相幾何学の研究で知られるレフ・ポントリャーギンの理論に大変傾倒しておられ、それを問題解決に応用することを教えました。しかし、私たちが感銘を受けたのは、先生が数学手法を使いこなすだけでなく、それを重要な社会的意味合いを持つ問題を解決するために応用しようとした点にあります。

ポントリャーギンは、動学的最適化法とか、連続群論など、たくさんの業績を持つ数学者。幼いときの事故で視覚障害者となってしまい、視覚がない中で数学を研究した。でも、視覚がない故か、彼の書く数学書は非常にわかりやすい。図の分を文章で補おうとしているため、文章を読むだけで図が頭の中に浮かび上がるように感じるのである。

実は、ポントリャーギンに対する宇沢先生の敬意は、ぼく自身も直接的にお聞きした経験があった。市民講座の打ち上げで少し飲んだあと、先生を最寄りの駅までお送りした際、先生は売店で夕刊をお買いになった。その新聞に、ポントリャーギンの訃報が掲載されていて、先生はそれをショックそうにぼくに伝えた上で、「ポントリャーギンは、本当にすばらしい数学者でね」と仰ったのだ。

次の発言からは、スティグリッツさんが先生を単なる新古典派の理論家と見ていたわけではなく、もっと深く先生の思想を感じ取っていたことがわかる。

多くの人は、先生の「二部門成長モデル」の論文を読んでも、その研究意欲の深さの真価を理解できないと思います。それはその背景にマルクス経済学の概念があることに気づかないからです。マルクス経済学は私たちがアメリカで学んだ経済学の対極にあり、私自身の経済学者としてのキャリアがいずれ向かうであろう方向からも遠く離れたものでした。しかし先生は、終戦直後の日本で熱烈に受け入れられたマルクス経済学の考え方の一部を現代の経済学に取り込もうとしたのです。先生は不平等の研究に数学をどう活用するかということにも強い関心を寄せており、私はその難題に強く惹かれました。それがきっかけとなって、当初考えていた物理学の専攻をやめ、経済学の道に進むことにしたのです。

ぼく自身も、先生から何度も、「マルクス経済学の道に進みたかった」とか「共産党に入党するつもりだった」ということを伺った経験がある。先生には、「二部門成長モデル」の前にも(とりわけミクロ経済学の)優れた論文がいくつもあるけど、ぼくはそれらは先生にとって、単なる「習作」だったのではないか、と思っている。ピカソが自分の画風を確立する前には、普通の(しかし、すごいテクニックの)絵を描いたのと同じことだ。先生は、「二部門成長モデル」を生み出すことで、自分の初心に近づいたのではないか。そして、初心に近づくと同時に、初心までの本当の距離・隔たりも感じ取ったのではないか。この数行のスティグリッツさんの言葉には、宇沢先生の経済学者として生き様に対する尊敬と、親愛と、そして戸惑いがデリケートに表現されていると思う。

次の発言は、スティグリッツさんが、自分の人生と先生の人生を重ねて述べたものであろう。

先生がアメリカを離れた時、私たちの誰一人として、日本で先生のその後の人生がどのように変化していくかを想像できませんでした。日本への帰国後、皆さんもご存じのように、先生は学者としての研究に没頭するするだけでなく、自動車が引き起こす社会問題環境問題に関わっていくようになりました。

 以上は、ほんの一部にすぎないから、是非、本書を読んで、スティグリッツさんの宇沢先生に対する熱い想いを知ってほしい。これを読めば、スティグリッツさんという、単なるノーベル経済学賞受賞者という枠におさまらない偉大な経済学者に大きな影響を与え、方向性を育んだのは、宇沢先生なのだとはっきりわかると思う。理想の師弟関係で、うらやましくなる。

 ぼくは、本書を校閲する中で、いくつもの重要なことに気がついた。宇沢先生の本をほぼすべて読破しているにもかかわらず、新たな発見があった。それは、収録されている原稿に、刊行されているバージョンと異なるものがあることや、構成されている順序によって先生の真意に気づくことなどのおかげだと思う。長くなったので、それらの発見については、別のエントリーで書こうと思う。嬉しいことに、宇沢先生の業績(全ファイル)は膨大であり、その中に先生は今も生きておられ、まだまだいくらでもご指導いただけるのである。