Hatena::ブログ(Diary)

hiroyukikojimaの日記

2016-07-12

この世で観られる最高の音楽〜Tricot

02:00

先月と今月に、Tricotのライブに行ってきた。

先月は赤坂ブリッツのワンマン、今夜は代官山ユニットで対バンライブ。今夜のライブは、イギリスで活動する日本人バンドBo ningenとの対バンだった。どちらも最高の演奏だった。Tricotのライブは、おおよそ、この世で観れる最高の音楽だと思う

Tricotは、女子3人からなるバンド。ドラムはサポートで、おおよそ、女子ドラマーの山口さんが叩いてるけど、ときどき別の人も叩く。彼女たちの音楽のジャンルは、エモに分類されるのかもしれないけど、とにかくこの変態変拍子の音楽は、ぼくは絶対に「プログレ」に分類する。実際、いくつかの曲は、キング・クリムゾンへのリスペクトが感じられる(思い過ごしだと言われると反論できないけど)。このブログでも何回も紹介しているので、今回はわざわざリンクは貼らないことする。

赤坂ブリッツのワンマンは、それこそ、驚天動地の演奏だった。ここ数年で観たすべてのライブの中で一番の鳥肌ものだったと断言できる。実は、ずいぶん前に1Fスタンディングのチケットを手に入れていたんだけど、ソールドアウトしたため、急遽当日に2Fの椅子席を開放したことを知り、1Fのチケットを捨てて、2F当日券を購入した。大人はお金があるからこういうことができるんだね。

んで、2Fで座って、じっくりと観たライブのすごさと言ったら。とにかく、グルーブ感が半端ない。いつ、こんなにかっこいい演奏が完成したんだろう。ドラム、ベース、ギターのスリリングなシンクロの仕方がめちゃめちゃ素晴らしい。

ブリッツでのライブの見所は、ドラマーが5人も登場したこと。最新のEP盤は、4人のドラマーをゲストに迎えて、1曲ずつ叩いている。そのすべてのドラマーが登場して、各自の曲で叩いたのである。みんな、すごくかっこいいドラミングで、「ああ、今回の楽曲は観てもかっこいいドラムを作曲したんだな」とわかった。とりわけ、YUUMIさん(Flipの女性ドラマー)のドラムを観れたのが嬉しかった。

そして、アンコールでは、ドラマー5人全員での演奏という、もうこういうのはクリムゾンでしかやらないよ、ってな演奏が驚いた。(去年のクリムゾンだって、たかがトリプルドラムだったからね。爆)。こんな贅沢なライブは滅多に観れない。

今日の代官山ユニットのライブは、対バンだったので、前半の約1時間の演奏。ドラマーは、若い男子で、EPの中のどれかを叩いている子だと思う。あの若さであの腕前はすげえ。

今日のライブは、これまでに観たTricotのライブでは最も空いていて、とても見やすかった。こんな近くで観たのも初めてだ。とりわけ、モッシュとかダイブとかなかったので、身の危険を感じずに安心して観られた。演奏は、ブリッツに匹敵するすばらしさで、とりわけ木田モティフォさんのギターのソリッドさには痺れた。こんなギタリスト、女性ではかつていなかったと思う。(ナンバーガールの人がその一人だけど、アグレッシブさが異なる)。

今日のライブには、業界人がいっぱいいた感じがする。とりわけ、最前列で観てた女子の集団は、YUUMIさんとBimbamboom(山口さんの別ユニット)の人ではなかろうか(人違いかもしれないけど)。Bimbamboomのギタリストさんには、赤坂ブリッツで手売りしてたCDを買った際に、サインをしてもらったのだ。

とにかく、最前列のYUUMIさんと思われる人は、ひときわ目立つ美人で、(YUUMIさんでなくても美人ならかまわんとばかり)どうしても近くで見たくなって、じりじりと前のほうに行ったら、彼女が少し後退してきたので、隣で並んで観るはめになり、動揺してしまった、その一曲は頭に残っておらん(もったいな)。

 せっかくだから、Tricotのかっこいい一曲にリンクを貼っておこう(PVは、何をやっちょるんだ君ら、という感じだけど)。

https://www.youtube.com/watch?v=h0Q_y54F070 (Tricot ポークジンジャー)

 ついでに、Tricotネタをもう一つ。

Tricotのボーカリストの中嶋イッキュウさんが、ついこないだ、ソロデビューをした。7月8日の夜中に、Ustreamでなんか放送をするというので、仮眠をとってから、夜中の3時半に起きて観てみたのだけど、その動画は、単にイッキュウさんが新宿から中野へ夜の街を徘徊してるだけのもので、「なんじゃこりゃ」。でも、どことなく心地良いので、1時間もある徘徊映像を最後まで観てもうた。ところが、翌日の真夜中に、イッキュウさんのソロPVが公開されたのだ。それは、まさに夜中に観た徘徊動画にソロ曲をのせたものだった。それが、なんだか、めっちゃ泣ける曲。リンクを貼ろう。これはPVも良いよ。

http://www.ikkyunakajima.com/ (ikkyu nakajima〜sweet sweat sweets)

実は、ぼくは、中嶋さんの「死」とか「別れ」をイメージさせた曲がすごく好きなのだ。とりわけ、デビューアルバムに入ってる「42°C」は、何度聴いても泣いてしまう。

 最後に、Bimbamboomのことの紹介しておこう。

 このバンドは、さっきも書いた通り、Tricotのサポートドラマーの山口さんがリーダーで作った女子だけのファンクバンド赤坂ブリッツの物販で、メンバーが手売りしてたんで、(かわいかったから)思わず買ってもうた。サインもしてもらってほくほくだった。一聴した感想は、「うわ〜、なつかしい。でもかっちょいい」。いまどき、こんな音楽をやろうとする志しは絶賛する。せっかくだからリンクを貼るね。

https://www.youtube.com/watch?v=MjU-i5VdYw8 (Bimbamboom〜HushHush)

これを聴いたとき、大昔、高校生の頃に聴いたハービーハンコックの「カメレオン」を思い出した。っていうか、山口さん、これカバーしてよ(って、読んでるわきゃないか)。

https://www.youtube.com/watch?v=3m3qOD-hhrQ (Head Hunters | Herbie Hancock | 1973)

 とにかくね、Tricotの音楽は、この世で観れる最高の音楽なんだよ。もしも来世がないなら、ゾンビになっても聴きたいのだ

2016-07-09

有名定理にも、短くて、わかりやすい証明が必要なのだ

19:05

 今回は、芳沢光雄さんの名著群論入門』ブルーバックスを紹介しようと思う。

この本は、ずいぶん前に入手したのだけど、読んだ期間が飛び飛びだったので、なかなか紹介のチャンスがこなかった。でも、すばらしい本なので、やっと紹介できて嬉しい。

この本は、タイトルの通り、芳沢先生が「群論」について、非常に初等的な講義をした本である。

群論というのは、19世紀数学者ガロアが「5次以上の方程式には、四則計算とべき根だけで記述できる解の公式がない」ということを証明するときに開発した技法である。基本的には、n個のモノを並べ替える「置換」に、「合成」を演算とする代数計算を導入したものである。ガロアは、n次方程式のn個の解を入れ替える「置換」を代数的に分析することで、前記の定理を証明したわけだ。

群論の発祥は、方程式なんだけど、群という数学的対象があまりに豊かな果実を秘めていたため、20世紀以降は代数方程式に限らず、あらゆる数学の基礎となり、いわば、数学の主役の座を勝ち取った。本書は、そんな群論の初等的な性質を非常にわかりやすく解説した本なのだ。

 この本の特徴を一言で言えば、「群に関する有名定理に対して、とても短く、そしてわかりやすい証明を与えた」ということ。それは、例えば、次の定理たちである。

1. 任意の置換は、いくつかの互換だけの合成で表せる。

2. 置換を一つ決めたとき、その置換を互換の合成で表す方法は複数通りあるが、合成する互換の個数が偶数奇数かは決まっている。

3. 交代群(偶数個の互換からなる置換の成す群)は、置換全体のちょうど半分の要素から成る。

4. n≧5のとき、n次交代群単純群(自分自身と{e}以外に正規部分群を持たない群)である。

これらの定理は、群論では有名定理であり、必ずどの本にも出ている。そればかりではなく、群を利用する数学分野の教科書でも、ほぼ確実に証明が載っている定理たちである。

例えば、1.と2.は、線形代数の教科書にはたいてい載っている。それは、この定理が、行列式を定義するときに必須だからである。行列式は、成分の積に±1を掛けて足し合わせる計算をするのだけど、その際に(+1)を掛けるか、(−1)を掛けるかは、互換の個数の偶奇で決まるのである。また、3.と4.は、さきほど出て来たガロアの定理「5次以上の方程式には、四則計算とべき根だけで記述できる解の公式がない」の本質となる定理である。

でも、多くの教科書や数学書では、これらの定理の証明は、非常にわかりずらく、イメージを掴みづらく、読むのに辟易となってしまう。群論以外の教科書では、それはあまりに深刻だ。本当に知りたいこと(行列式の理論とか、ガロアの定理とか)に早くたどりつきたいのに、これらの群の定理の理解に手間取って、じれったくなってしまうからだ。そうなるのは、多くの教科書や専門書に載ってるこれらの定理の証明が、「古典的でよく知られた証明」であって、決して、エレガントな証明ではないからである。

そのため、ぼくは、拙著『ゼロから学ぶ線形代数講談社を書いたときは、2.の定理の証明を導入することを諦めた。拙著『天才ガロアの発想法』技術評論社では、4.の定理の証明を入れることを諦めた。芳沢さんのこの本での証明を知っていれば、導入のしようがあったかもしれない、と思い、少し努力が足りなかったと後悔している(でも、それらがなくても、良い本なので、未読の人は読んでみてね。笑)。

 多くの数学者は、こういうことに無頓着だ。自分はずいぶん前に既に理解してしまっている定理たちだから、「アタリマエ」の存在になっていて、わざわざ明快に証明しようとする気にならないのであろう。でも、これから学ぶ人のためには、できるだけ理解の労力を引き下げ、できるだけ直観に訴える証明を与えることは大事な貢献であることは言うまでもない。

 芳沢さんの群論入門』には、そういう努力の結晶が盛りだくさんである。それは、芳沢先生が、単なる職業的・数学者の一人である、というだけではなく、これまで数学教育」へもたくさん貢献してきた数学者だからできたことなのだ。

 例えば、1.の証明は、「望むあみだくじを作る方法」を与えることによって証明している。実はぼくは、結果を決めたあみだくじを簡単に作る方法をこの本で初めて知った。作り方も証明もとても簡単である。

次に2.では、まず「恒等置換を互換で表すと、偶数個の合成になる」を証明する。それは、恒等置換であるまま互換の個数を2個ずつ減らす操作から証明する。一般の置換を互換の合成で表す個数の偶奇については、恒等置換のケースに帰着させてしまうのである。

そして4.については、交代群正規部分群Nについて、「Nが長さ3の巡回置換を含めば、交代群になってしまうこと」を証明し、そのあと、「Nが単位元e以外の置換を含めば、必ず長さ3の巡回置換を含む」ことを証明する。場合分けは少し面倒だけど、非常に明快な証明の手順となっている。

 この本は、置換群の初等的な応用もいろいろ書かれていて、ものすごく教育的でものすごく啓蒙的な本となっている。

例えば、偶置換・奇置換の応用として、「15ゲーム」が解説されている。これは、誰もが一度はやったことがあるであろう、正方形のケースに15個の小正方形が配置されており、1から15までの数字が打たれている玩具。一つだけ空いた空白を利用して、小正方形を移動させて並べ替えて、1から15を整列させるゲームである。この「15ゲーム」を紹介した数学書は少し見受けられるけど、「駐車場移動ゲーム」というのは、ぼくは全く知らなかった。これは14台の自動車を、駐車場の空白を利用して移動させて、番号順に整列させるゲームだ。子供や学生にやらせるには適度で楽しいゲームだと思う。どちらも、置換の群論解決することができる。

 さらには、最後の章で解説されている「ラテン方陣問題」は、非常に興味を喚起されるものだった。それは、数学者オイラーが1779年に出した次の問題に由来する。

ここに第1連隊から第6連隊まで6個の連隊がある。各連隊から1級士官、・・・、6級士官それぞれ1人ずつ選出し、合計36人集める。これら36人を配置できる6行6列の正方形の場所に、次の条件(*)を満たすように配置することは不可能ではないか。

(*)出身連隊だけに注目すると、行と列各々の並びには各連隊から1人ずつ出ている。また階級だけに注目しても、行と列各々の並びには1級から6級まで1人ずつ出ている。

これは、「ラテン方陣」についての一つの特殊性質(直交性)を要請するものである。このオイラーの予想が正しいことが証明されたのは、なんと1900年になってやっとであったそうだ。また、n×n方陣についての部分的な解決1960年になって発見されたが、いまだに完全解決には至っていない未解決の問題とのことである。なんか、わくわくするよね。

 数学者の中には、定理の証明は一つ与えれば十分である、と考える人もいるようだ。でも、有名定理に対する、初等的な、あるいは、コストの低い証明の発見は、教育的な意味でも、啓蒙的な意味でも、そして、学問的な意味でさえも、大事なことであると思う。本職の経済学のことになって恐縮だが、経済学で非常に重要な定理に「ワルラス均衡の存在定理」がある。これには、「ブラウワーの不動点定理」が使われる。この不動点定理の代表的な証明法は、本質的にホモロジー群(巻き数)を使うのもの(背理法による)だ。しかし、離散数学の分野で、初等的な証明法が発見されている。それは「スペルナーの補題」というのを利用するもので、ものすごくわかりやすい、コストの低い証明である。そればかりでなく、スカーフという天才的な数理経済学者が、この「スペルナーの補題」を拡張して、ワルラス均衡を具体的に見つけ出すアルゴリズムについての成果を得ている。これは、ホモロジー群(巻き数)を使った「超越的な」証明では不可能なことであろう。

2016-06-25

P≠NP問題がざっくり理解できる本

04:15

 

* 追記(6月27日) 最後の紹介した「約数ゲーム」について、メールで解答を教えてくれた人がいたので、最後に追加しました。

 最近、野崎昭弘『「P≠NP」問題』ブルーバックスを読んだので、レビューをエントリーしようと思う。

そもそも、この本を読もうと思ったのは、ある雑誌の企画で「数学の未解決問題」について、ある数学者と討論をすることになっていたのがきっかけだった。ミレニアム問題のいくつかが話題にのぼりそうなので、P≠NP問題についても少し知識を補充しておこうと思ったのだ。

でも、アマゾンのレビューで酷評されているのを読んで、いくぶん躊躇した。それで、少し時間が空いたけど、本屋で立ち読みしてみて、その場で購入した。少なくともぼくには、アマゾンのレビューはミス・ディレクションにすぎないものだとわかった。買って帰って、速攻で読了したが、ぼくの要求にかなった本であった。アマゾンのレビュー欄は、まあ、フリーミアムを利用してサイトに顧客を誘導するための、単なる「釣り」にすぎないコーナーだろう。あそこに労力をかけてdisりを書く精神が理解できない。正直、ご苦労なこったと思う。でも、そろそろ、せめてwikipedia程度の「信憑性チェック」にあたる何かを導入したほうがいいのではないか、と思う。まあ、多くのまともな読者は、アマゾンのレビューは信用しないと思うけど。レビューがひどいので、今回は、楽天のほうにリンクを貼っておく。

アマゾンレビュアーは、本書がなかなか「P≠NP問題」の本論に入らないことにご不満だったようだ。確かに、「コンピュータとは何ものか」から始まって、全体の半分にあたる100ページぐらいまでコンピュータの歴史とか構造の話をしている。レビュアーは、このことに憤慨している。

ぼくも、このあたりは、斜め読みをしてしまった。知っていることが多く、先を急ぎたかったからだ。でもそれは、単に、ぼくが以前にそういうことを読書した経験があるからにすぎず、「不要だから」ではない。P≠NP問題のキモを理解するのは、やはり、コンピュータの仕組み、例えば、2進法とか計算方式とかチューリングマシンとかを知っているべきだし、また、その歴史を知ることも無駄ではないと思う。本書はそういう派生的な知識を含んでいるが、そうでない本は、息苦しく、素人には楽しみのない苦しいだけの登山道となってしまう。

 野崎さんの名著不完全性定理ちくま学芸文庫も、実は、同じ形式をとっていた。数理論理学におけるゲーデル不完全性定理を解説する本でありながら、全体の半分は、ギリシャ数学の話とか公理系の話とか集合論の話をしている。でも、読了したぼくは、この本で最も重要なのはこの部分なのだ、という感想を持った。ぼくの個人的な感覚にすぎないが、ゲーデル不完全性定理を素人が理解するために大事なのは、ゲーデル数でもメタ化でも対角線論法でもない、それは「証明するとはどういうことか」「証明の形式化とは何のことなのか」ということだと思うのだ。それを曖昧なままにしておいては、いつまでたっても、不完全性定理のキモを掴むことはできないのではないか、と思う。このことは、専門家には到底想像がつかないだろう。専門家にとって、「証明するとはどういうことか」「証明の形式化とは何のことなのか」ということは、空気のような存在になってしまっているからだ。

ぼくは、野崎さんの『不完全性定理』以前に、何冊かのゲーデル本、例えば、ホフスタッター『ゲーデルエッシャーバッハ』などを読んだけれど、不完全性定理のキモがわかった気がしていなかった。だから、何冊も手にすることになったのだ。野崎さんの本を読んで、何がわかっていないのかがわかった。それがまさに、「証明するとはどういうことか」「証明の形式化とは何のことなのか」だった。これがつかめてしまうと、後半になってやっと出てくる、不完全性定理の証明の要約が、あまりにピンときてしまったのだ。もちろん、専門家のようにわかっているわけではない。当たり前だ。数理論理で飯を食っているわけではないので、そんな「完全理解」にさく時間も金も必然性もない。欲しいのは「キモの把握」なのだ。それには、野崎さんの表現で十分だった。この手応えは、その後、数冊の不完全性定理の専門書を読破した現在でも、変わることはない。

 数学の啓蒙書のモットーとすべきは次の四点だと考える。

1.ざっくりとした本質を、誤解を恐れず、日常の言語で示す

2.ベンチマークとなる具体例の投入

3.登山道の道しるべを示す

4.動機付け

だから、ごちゃごちゃといろんな知識を披露する、とか、読者が挫折するような証明を子細に書く、とか、面白くもない最新の専門的結果を入れる、とかは逆効果で、モットーに反することなのだ。

本書は、ちゃんとこの4つのモットーを叶えている。

第一に、P≠NP問題のPとNPの違いを、ざっくりと、そして、日常表現で表してる。Pは「多項式時間で判定できる問題」を表すのだけど、NPのほうは理解がやっかいで、それは以下のように説明している。

(#1)非決定論的な選択を許す

(#2)計算量は最も良い場合で数える

(#3)答えがNOの場合は、無視してよい

この3つのインチキを許すアルゴリズムで、多項式時間で解けるもの

何冊かの解説書でNPのことを読んだけれど、この説明がもっとも膝を打つものだった。

2.における本書での「ベンチマーク」は、ハミルトンだ。ハミルトン路とは、点を線で結んだグラフにおいて、すべての点を1回ずつだけ通って出発点に戻るような経路のこと。どんなグラフではそれが可能で、どんなグラフだと不可能なのかを決定するのが、「ハミルトンの問題」である。未解決問題を身近にするには、このような歴史的に有名な問題をベンチマークにするのが得策だと思う。

本書では、このハミルトン路を、NP問題のベンチマークとして、再三説明している。もちろん、どんな計算理論の本にも登場するが、本書ほど丁寧にハミルトン路を説明している本は、少なくともぼくは読んだことがない。本書を読めば、ハミルトン路を見つけるのがなんでやっかいなのかがよくわかる。オイラー路(一筆書き)との違いもよくわかる。ハミルトン路を徹底的にベンチマークとするので、「NP完全」という概念がすんなりと理解できる。

3.の登山道の道しるべも、本書にはちゃんと導入されている。「道しるべ」とは、登山道そのものではない。「もしも登山をするつもりなら、最初にこの道しるべを探し、次にこの道しるべを目指し、とそういうふうに登ればいいのでは?」という示唆を与えてくれることだ。本書を読んだぼくは、「仮に次に何かに進むとするなら」、何を理解すればいいのかがはっきりわかった。NP完全な問題とは、それを決定すれば、NPに属する問題のクラスを完全に決定できてしまう問題のことである。つまり、クラスを代表する問題で、「それだけを分析すればいい」というものだ。例えば、ハミルトン路がそれにあたる。本書によれば、論理式の充足可能性問題(与えられた論理式を真とするような真偽値の割り当てがあるか?)がNPのクラスに属し、しかもP≠NP問題が「充足可能性問題はPに属すか」に帰着されることをクックという人が示したそうだ。つまり、次につまみ食いすべきは、このクックの定理であろうことがわかった。もちろん、つまむかつままないかは、読者の勝手である。このように、本書には、「もう少し精密にP≠NP問題を理解する」ための道しるべが所々におかれているのである。

そして、4.の動機付けについても、本書は十分であると思う。啓蒙書は、読者を「次の啓蒙書に手を出してみよう」とか「専門書を買うだけ買ってみるか」と思わせれば、それだけで成功だ。動機付けとはそういうことである。ぼくは、実際に、本書で動機付けられた。実は、ずいぶん前に、シプサー『計算理論の基礎 1, 2, 3』共立出版を買って本棚に置いてあったが、手つかずのままだった。今回は、野崎さんの本に動機付けられ、この本の3巻を取り出し眺めてみた。そこにはクックの定理の証明が載っており、それを斜め読みして、証明のキモだけは理解することができた。もちろん、精緻に理解したわけではない。当たり前だ。ぼくは専門家ではないので、そんなことをするのは時間と労力の無駄である。趣味と好奇心で、ざっくりと知りたいだけなのである。大事なのは、野崎さんの本を読まなければ、決して、この本を本棚から取り出すことはなく、そして、クックの定理の証明を目にすることもなかった、ということなのだ。

 野崎昭弘『「P≠NP」問題』には、他にも興味深いことがいろいろ書いてあった。例えば、「素数判定」に関して、ルートnまでの素数で割ってみる、というアルゴリズムは指数時間的になってしまうけれど、2002年にインドの3人の数学者によってAKSアルゴリズムというのが発見され、多項式時間で判定できるとわかり、Pのクラスの属する問題だとわかったことがそれだ。ただし、サイズの11次多項式であり、実用的ではないとのことだ。実はぼくは、このAKSアルゴリズム論文を持っていて、以前にテレビドラマ『相棒』の監修をしたとき、利用した経験がある(この監修については、ドラマ「相棒」シーズン12の第2話「殺人の定理」 - hiroyukikojimaの日記を参照のこと)。利用したときには、「そういう判定法があるんだなあ」と思っただけで、それがP≠NP問題と関係するなどと思っていなかった。

中でも非常に興味深かったのは、最後に「余談」として書いてある、次のゲーム。

1. 最初にある自然数N>1を決める。

2.2人で先手・後手を決め、交互に1つずつ「Nの約数」を言う。

3.どちらかがすでに言った数の約数は、もう言うことができない。

4.他に言う数がなくなり、"N"と言ったほうが負け

このゲームは、先手必勝であることが「それほど難しくなく証明できる」という。しかし、一般的で明快な先手必勝アルゴリズムはまだわかってないとのこと。野崎さんは、これを、「存在する」ことと「具体的に求める」ことのギャップの例として、紹介している。ぼくは、大学の講義でゲーム理論を教えている関係上、こういう面白いゲームの例には非常に興味がある。ちょっと考えてみたけど、今のところ、その「それほど難しくない証明」がわかっていない。「具体的なアルゴリズム」を与えずに「存在」を証明するのだから、きっと「超越的な証明」なのだろう。ウェブで検索してみたんだけど、それらしいものが見つからなかった。誰か知ってたら、教えて欲しい。

 というわけで、P≠NP問題について、前記の4点を備え持った啓蒙書をお探しなら、はい、損はさせません。是非、野崎さんの本を読んでごらんなさい。

 

(追記)上記の最後に紹介した「約数ゲーム」について、「証明」が見られる場所をメールで教えてもらいました。これだから、ネットはすばらしい!

「それほど難しくない」どころか、「すごく簡単な」証明でした。

ここに書いてしまうことも可能だけど、自分で考えたい人もおられるでしょうから、書かないで見られる場所にリンクします。

Conjecture and Proof - Miklós Laczkovich - Google ブックス

の 48 ページです。目次のConstructions Proofs of Existenceをクリックすることで閲覧可能です。

ただし、上記の「どちらかがすでに言った数の約数」を「どちらかがすでに言った数の倍数」に代えたバージョンで説明されています。

2016-06-11

久々に音楽のレビューを書く

23:31

 このところ、数学関係のエントリーが続いたので、閑話休題、久々に音楽のレビューを書くことにする。

先週、ジャズのライブに行った。ギタリストマイク・スターンのバンドに、ゲストとしてギタリスト渡辺香津美が加わったライブだった。

いやあ、めっちゃすごいライブであった。とりわけ、ドラマーのデニス・チェンバースがみごとだった。デニス・チェンバースは、すごい昔から知ってたので、すげ〜年寄りのドラマーだと思い込んでたけど、実はそんなでもなかった。ぼくと同じくらいの年齢だった。

マイク・スターンは、ぼくが大学生の頃、マイルス・ディビスのアルバム『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』でデビューした天才ギタリスト。ぼくは、このアルバムでマイルスが大好きになったけど、ジャズ通の友人は、「マイルスは、ロックに魂を売った。これはもうジャズじゃない」などと批判していた記憶がある。その批判の中心は、スターンのギターを導入したことにあったんだと思う。ぼく自身は、スターンのギタープレイに痺れまくり、「こんなすごいギターを弾ける若者がいるのか」とぶっとんだものだった。

渡辺香津美のギタープレイを初めて観たのは、74年か75年だと思う。高校のブラスバンド同級生が、「すっげ〜才能の若いギタリストが出たから、一緒に聴きに行こう」というので、ついて行った。あてにならない記憶では、銀座ヤマハのイベント・スペースだったと思う。客は10人くらいしかおらず、みんな床に直に座って、クッションに肘をついてごろごろしながら寛いで聴いた。なんと贅沢な経験をしたことか。デビューほどない渡辺香津美は、若造そのものだったけど、すでにものすごい速いリフを弾きまくっていた。

渡辺香津美に次に注目したのは、中学時代の友人でギター野郎だったやつが、デビュー間もないYMOのライブ音源を持ってきたときで、それに渡辺香津美ギタリストとして加わってた。YMOの曲に、彼のギターが加わると、かっこよさが数倍になった。アルバムが出るのを待ち焦がれたけど、YMOのライブ盤が正式に発売されたときには、ギターの部分がカットされていて残念だった。(すごく後になって、アルバム『フェイカー・ホリック』では再収録された。これは、死ぬほどカッコイイ演奏だぜよ)。

 マイク・スターンのライブは、青山のブルー・ノート東京で行われた。ブルー・ノートは、初めて行ったのだけど、すごく環境のいいライブスペースだった。座って観られるし、お酒を飲んだり、おつまみを食べたりできるし、どの席からでも良く見える。音もすごく良い。やっぱり、大人はこういう環境でライブを楽しみたいものだ。最近、よく行っているライブは、若者が中心のバンドのものなので、「立ちっぱなし・見えない・暴れる」で、ほんと落ち着いて曲を楽しめない。

 これだけじゃ、物足りないので、最近購入したCDのレビューも付け加えるとしよう。買った順で。

まず、最初は、赤い公園のニュー・アルバム『純情ランドセル』

赤い公園は、ここ数年で、最も回数多くライブに通ったバンドである(六本木で赤い公園を観てきた。 - hiroyukikojimaの日記とかスタジオコーストで赤い公園のライブを観てきますた - hiroyukikojimaの日記などを参照のこと)。若い女子4人のバンドだけど、ほんとに斬新にして多彩な曲を作るので、すばらしい。それは、作曲の津野さんが、ものすごくイマジネーションの豊富な人で、さらにはたぶん、とてもよく音楽を勉強しているからできることなんだと思う。今回のアルバムも、非常に多様なジャンルの曲から成っていて、とても楽しい。パンクっぽい曲もあるし、ハードロックもあるし、なんと!ディスコサウンドっぽいのまである。とりわけ、「ショート・ホープ」という曲がサプライズ。これはジャズ・ファンクなフレーバーの曲になってる。ここでの津野さんのギターには、「こういう風に弾けるんだ」とびっくり。歌詞では、「14」のものが、瑞々しい。彼女たちは、まだ、中学生の頃の感覚を失ってないんだね。

貶められたくないし

陰口はたたく

怒られたくないし

良い子にもなれやしない

だってさ。もちろん、シングル・カットされた「Canvas」と「KOIKI」は、赤い公園節でありながら、非常に優れたポップスとなっていて、名曲だと思う。佐藤さんの明るいけど切ない声質がよく映える曲だ。

二枚目は、Tricotのニュー・アルバム『KABUKU EP』だ。

KABUKU EP

KABUKU EP

このTricotも、ここ数年、相当回数ライブに通っているバンドだ(赤坂ブリッツで、Tricotのワンマンライブを観てきた。 - hiroyukikojimaの日記とか渋谷でトリコのライブを観てきますた - hiroyukikojimaの日記とか参照のこと)。女子三人から成るユニットで、変態変拍子の曲調を本領としている。本人たちは、売れ線のJポップをやってるつもりなんだろうけど、ぼくはプログレパンクのジャンルに分類してる(すいません、Tricotの皆さん)。

このアルバムは、5曲から成るハーフ版。面白いのは、1曲はアカペラで、残りの4曲はすべてドラマーが異なっているというところ。4人のドラマーは、オーディションで公募したとか。

今回のアルバムは、とにかく、とにかく、すっげ〜、の一言。リズムがとんでもなく格好良くて、なのに、ボーカルラインがエモくて泣ける。よくこんな曲たちを作れたもんだと思う。

前作のアルバム『AND』は、良いことは良いんだけど、なんというか、変拍子にこだわりすぎで、デビュー当時に持っていたエモーショナルな感じが少しだけ薄くなった感があった。対して、今回のアルバムは、初心に回帰した、いや、もっとパワーアップしたエモーションがあって、すばらしい。

このバンドは、日本語の特性をうまく利用して、非常に自然な歌詞で変拍子を実現している。一聴するだけでは、変拍子だと気づかないくらい自然なボーカルラインになっている。ぼくは、ゼミ生とのバンドで、彼らの曲「爆裂パニエさん」のリード・ギターを弾いた経験があるが、この曲のみごとな歌詞の構成には舌を巻いたものだった。(途中で、ギターだけが一定リズムで弾いて、ドラムとベースのリズムがずれていくクリムゾンチックな場面があるんだけど、結局、ベースとドラムに巻き込まれてしまった。クリムゾンマニアとして情けなか)。

このバンドの本領は、リズムの切れ味とボーカルの切なさのトッピングにある。そういう意味で、今回のアルバムでは、3曲目「あ〜あ」と4曲目「プラスティック」にノックアウトされた。とくに、「あ〜あ」の歌詞は、「仕事がくだらなくなって、嘘の寿退社で会社辞めちゃうOL」の話。この突拍子もない歌詞に、すんごい変拍子が乗ってるのは、のけぞるしかない。4曲目「プラスティック」は、とにかく、YUUMIさんのドラムがかっちょいい。

三枚目は、相対性理論のニュー・アルバム『天声ジングル

天声ジングル

天声ジングル

いやあ、タイトルが、毎度のことながら、あまりにすばらしい。こんな語呂合わせ、どうやって考えるんだろう。

まあ、とにかく、このバンドは、やくしまるえつこの声に尽きる。これは神声だよ、ほんと。この声を保てば、おばあちゃんになっても、青春の歌を歌えると思うぞ。

1曲目「天地創造SOS」の第一声からもう、ノックアウトされちゃう。2曲目「ケルベロス」では、やくしまるさんのアニメ声で「ワンワン」とか言われると、もう、胸の奥の方がくすぐられてたまんないっす。その上、この2曲は、演奏が今までになくハード。とりわけ、ベースラインがすごいと思う。

歌詞も、いつもながら、ぐっと来るものが満載だ。例えば、7曲目「夏至」は秀逸。

13才 夢を見る 14才 闇を知る

15才 恋に溺れては 暑く暑く焦らす夏が来る

 

18才 桜散る 19才 向こう見ず

20才 大人になれずに 暑く暑く茹だる夏が来る

こんな歌詞、書けそうで、絶対書けないと思う。

 さて、来週は、赤い公園とTricotのライブに行く。すばらしい、すんごい演奏、聴かせてね、期待してるぞ。でも、よりによって、なんで同じ週にするかなあ、体力的に不安。相対性理論武道館公演は、大学で期末テストの真っ最中で忙しく、どうするか思案中。

2016-05-23

数学は遠きにありて想うもの

15:08

 実は、また、数学者たちと鼎談をすることになり、そのお題のために、リーマン面・層・コホモロジー群・スキームの勉強を再開した。

 リーマン面というのは、ごく小さい部分だけを局所的に見ると「複素平面」と同一視できるような空間のこと。逆に言うと、複素平面の原点付近の円をたくさん貼り合わせて作り出せる空間のことだ。例えば、リーマン球面は、二枚の円をお椀のように丸めて反対向きにはめ込んで球形にしたリーマン面の一種である。ドーナツ型(トーラス)も円を湿布薬のようにぺたぺたと貼っていけば作れるからリーマン面だ。

 リーマン面コホモロジー群は、小木曽啓示『代数曲線論』朝倉書店で勉強している。この本は以前にも、続・続・堀川先生とキングクリムゾンの頃 - hiroyukikojimaの日記のエントリーで紹介したが、もう一度最初から読み直した。ちなみにこの本は、「代数曲線」と題するより、「リーマン面」と題するべき本だということを書き添えておこう。

講座 数学の考え方〈18〉代数曲線論

講座 数学の考え方〈18〉代数曲線論

 実は、前に読んだときは、「知りたいことと関係が希薄そうで、めんどくさそうな部分」をはしょって読んでいた。具体的には、第3章「リーマン面微分形式」をまるまる飛ばし、そのために第4章の「いろいろなリーマン面」が部分的に読めなくなり、そこも飛ばした。でも今回は、前回飛ばしたところを含め、順を追ってきちんと読んだ。そして、最初からそうすべきだったことに気づき、安易なはしょりをしたことを猛省した。

 多くの数学書は、メインディッシュに対する最短経路で書かれているわけではなく、余計なことがいろいろ書いてある。もちろん著者は、「それが重要である」ないし「知っていたほうが良い」という親心から導入しているのだろう。でも、その「刺身のつま」のせいで、たいていの読者が理解の辛さから脱落することになってしまうことに著者は気を遣うべきだと思う。だから、ぼくはいつからか、そういう「刺身のつま」を箸でよけて読むようになった。

 一方、小木曽啓示『代数曲線論』には、そういう「刺身のつま」がほとんどなかった。導入されているすべてのアイテムは、メインディッシュをより良く吸収するために必要不可欠のアイテムだったのだ。

 たとえば、第3章「リーマン面微分形式」は、「」という数学概念を豊かにイメージするために重要だった。「層」というのは、単純に言えば、リーマン面上の複素関数を思い浮かべればいい。リーマン面は局所的には複素平面の小さい円と同じだから、そこで定義された複素関数のことだ。「層」というのは、「局所で0と一致すれば全体で0、局所的な関数族は貼り合わせて全体の関数にできる」という性質を持つ空間のこと。正則な複素関数は、この性質を備えている。

ただ、それだけをイメージしていると「層」ってそれしかないのかなあ、と貧弱な感覚しか得られない。「層」は、複素線形空間だから、他の例も頭の引き出しに入れておかないと、その不変量であるコホモロジーを理解するときに、高すぎる障壁に突き当たることになる。以前にぼくが突き当たって挫折を余儀なくされたのはその障壁だった。

 本書は、少なくとも「リーマン・ロッホの定理」に到達するまでには(まだ、そこまでしか読んでいない)、無駄なことが一切書いていない。すべてが用意周到に準備されている。それはそれはみごとなものだ。抽象的な概念を具体的に理解するために(たぶん)最もわかりやすい具体例や解説が前もって投入されているのである。

 今回は、ほとんど飛ばしなしに読んだので、「層」「コホモロジー群」「リーマン・ロッホの定理」は理解できた(と思う)。とりわけ、コホモロジー群(チェック・コホモロジー)が、いったい何を表現しようとしているのか、とか、完全系列というのがどう使われるのか、とかを、目が覚めるぐらいに納得することができた。完全系列については、数学科に在籍したときに、「いったい、こりゃ何者なんだ、何の役に立つんだ」と悩ましかったものだった。それが克服できたのは、清々しい。

 本書でのリーマン・ロッホの定理の証明には、完全系列の威力がめっちゃ発揮される。リーマン・ロッホの定理とは、簡単に説明するのは難しいが、層のコホモロジー群に関して、オイラー標数(例えば、[点の数]−[線の数]+[面の数])のような交代和の公式が成立することを主張するものだ。

完全系列というのは、いくつかの線形空間(とか環とか),・・・A, B, C,・・・,と、その間の線形写像(準同型写像),・・・,f, g,・・・の間の関係である 、[・・・→A→(f)→B→(g)→C→・・・]、に関して、(AからBへのfによる像)=(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)という等式(要するに、Im(f)=Ker(g))がすべてに対して成り立っているものを言う。線形代数の基本的な定理として、空間Bを(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)で割った商空間は、(BからCへのgによる像)と同じ空間になると見なせるから、(Bの次元)=(BからCへのgによる像の次元)+(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)である。したがって、さっきの完全系列の定義から、(AからBへのfによる像の次元)=(Cの零元{0}のgによるBへの逆像の次元)が成り立つので、置き換えれば、(Bの次元)=(AからBへのfによる像の次元)+(BからCへのgによる像の次元)という等式(dim B=dimIm(f)+dimIm(g)))が成り立つとわかる。この事実から、[・・・+(Aの次元)−(Bの次元)+(Cの次元)−・・・]という交代和を作ると、打ち消し合いが起きる。だから、系列の最初と最後が空間{ 0 }であれば、交代和は0とわかる。リーマン・ロッホの定理は、この(次元の交代和)=0、を用いてみごとに証明されるのである。

 この定理について、著者の小木曽さんは、次のように書いている。

リーマン・ロッホの定理は次元そのものに関する定理ではなく次元の交代和に関する定理である。オイラー数も交代和だった。日常生活においては和を考えることはあっても交代和を考えることは皆無に近い。それとは対照的に、何故だかよくわからないが、数学では交代和を考えてみると簡明になるということがしばしば起こるようである。

こういう数学者の個人的な数学観のようなものを書いてくれると、本当に楽しくなる。数学者も人間なのだから、定理を見つめた個人的な印象や感慨や感動というのはあるはずで、それを知ることで、読者も数学を人間的で生臭いものとして身近に感じることができるのである。この小木曽さんの言葉を読んだぼくは、「そういえば、行列式の展開定理も交代和だよな」などと記憶が蘇った。ひょっとして、同じアイデアの証明が可能なのだろうか??

 著者の小木曽さんは、昔、ある場所でご一緒したことがあり、何度かお茶を飲んだり、ご飯を食べたりした。そんなある日に、ぼくが、非常に簡単な高校数学レベルの問題を考え出して、それをお見せしたところ、子供のような輝く表情で「それは面白いですねえ、よくできた問題ですねえ」と感嘆してくださった。そのとき、ぼくは、「こんなに優秀な数学者のタマゴが、この程度のことでも、興味津々で楽しい顔をするものなのだ」と感動したことをよく覚えている。そういう小木曽さんの純粋さ、人柄の優れたところ、好奇心溢れるところ、が本書にはよく現れていると思う。

 ただ、やはり、本書を読んでいて、「辛くなかった」と言えば嘘になる。しんどかった。こんなにも工夫して手取り足取り記述してもらってさえ、抽象的な概念を理解するのは「楽しい」より「辛い」のほうが先に立った。こういう抽象物を、何の摩擦もなくイメージ化でき、そうする作業がウハウハと楽しく、真綿のように吸収できる人でないと、数学者にはなれないのだろう、と痛みを持って実感した。そういう意味ではぼくは数学者にはなれない、ということを思い知った。

 その証拠に、「コンパクトリーマン面の正則関数の1次元コホモロジー群の次元が有限である」という基本定理の証明は、読むのをいったんペンディングしている。とんでもなく長い証明で、また、膨大な道具立て(ヒルベルト空間など)が必要だからだ。こういうのを、数学者たちはウハウハと垂涎で読めるのだろうが、ぼくにはため息が出てしまう。こういうところが、数学者に向いているかどうかの踏み絵となるのだろう。

 ぼくは、経済学数学と両方を勉強している。でも、この二つのぼくの中での位置付け・あり方はけっこう異なる。数学は恋い焦がれるほど好きだが、経済学はそうでもない(同業者のみなさん、すいません)。数学には狂おしいほど惹かれるが、経済学はそうでもない(笑い)。それだから、数学にはじれったく短絡的になり、地道な努力が無理で、性急に結果を求めてしまう。一方、経済学のほうでは、冷静で地道な努力ができ、じわじわと距離を狭めることができる。どんな業種であっても、飯を食うプロに自分がなれるかどうかは、「愛のあり方」に依拠するのではないか、と思う。例えば、狂おしいほど音楽が好きな人はむしろプロのミュージシャンには向かないだろう。そうではなく、どんな音楽にもクールに興味を持てて、冷静に分析でき、結果を急がず地道な努力が苦でなく、自分の心と一定程度の距離をおける人がプロ・ミュージシャンになれるのではないだろうか。

さらに言うなら、「プロ」になることが幸せとは限らない。本当に幸せなのは「ファンのほうなのではあるまいか。

 こう考えると、「ぼくが数学者なれなかったのは、必然だったし、むしろ、そのほうが良かったのだ」と今は素直に思える。「数学は遠きにありて思うもの」。心底好きなことは、職業にならないほうがいい。成果もレベルも問われない、そんなに幸せなことはない。それが、今、ぼくの胸中に育つ大きな感慨なのだ。この境地にたどりつくのに、30年もの歳月を費やしてしまったが。。。