Hatena::ブログ(Diary)

hiroyukikojimaの日記

2016-09-24

数学の未解決問題は、今と昔でどう違うか

01:40

 今回のエントリーは、雑誌現代思想青土社の増刊号『未解決問題集』について。これは、現代における数学界の未解決問題について、特集を組んだものだ。

 ぼくは、この特集に、数論の黒川信重先生と代数幾何の加藤文元先生と一緒に「数学(者)にとって未解決問題とは何か」という鼎談で参加した。

 少し内幕をばらすと、実はこの鼎談の話が来たとき、ぼくは正直断ろうと思ったのだ。だって、古典的な未解決問題ならともかく、現代の未解決問題なんて、ぼくにはさっぱりわからないし、司会役をするだけと言っても、黒川さんや加藤さんから読者にとって有意義な話を引き出せる能力なんてないからだ。でも、黒川先生にはいつもお世話になっているし、編集者の熱意にほだされたのもあって、迷いに迷って引き受けることにした。

 危惧していた通り、ぼくは一般のアマチュア読者に対して有意義な話をうまく引き出すことができなかった感がある。もちろん、黒川さんも加藤さんも、「天空からできるだけ降りてくるように」懇切丁寧に話してくれていた。それはもう、普通の専門家にはできないようなかみ砕きかただと思う。でも、ぼくがもっと、(専門家的に、というのではなく)、非専門家として現代の未解決問題の内容に通じていれば、読者の痒いところに手が届くような話題を引き出すことができたんじゃないか、と思えて仕方なかった。。

 鼎談の予習のために、それなりの努力はした。それでわかったのは、古典的な未解決問題と現代の未解決問題には、位相的な断絶がある、ということ。すなわち、古典的な未解決問題というのが「孤立的・単発的」であるのに対し、現代の未解決問題というのは「普遍的・統一的」だ、ということだ。

 例えば、フェルマー予想(解決された今では、ワイルズの定理)は、「指数nが3以上のとき、aのn乗とbのn乗の和がcのn乗となる、自然数a, b, cは存在しない」というものだった。要するにこれは、ある方程式自然数解があるか、ないか、という単発的な問題だ。また、未解決ゴールドバッハ予想「4以上の偶数素数2個の和で表せる」というのも、単独的で孤立した問題だと言えよう。それに対して、現代の未解決問題というのは、「一般に〜ということが成り立つであろう」という、「普遍性」「統一性」を要求するものとなっている。あるいは、一見異なる対象について、「〜と〜は普遍的に一致するだろう」という形式になっている、と言ってもいい。例えば、バーチ・スィンナートンダイヤー予想は、楕円曲線の有理点に上手に加法を定義すると、(交換法則結合法則を満たす)加法群になるんだけど、1点を無限に加えていって元に戻らない点が本質的に何点あるか(階数)と、楕円曲線から作られるゼータ関数をs=1のところでテーラー展開したときの最初の指数(位数)が一般に一致する、というものだ。また、ラングランズ予想は、「ガロア表現のL関数と保型表現のL関数は等しいだろう」というような、それこそ茫洋とした広大な普遍性の追求になっている。

 黒川さんの話を聞いていると、「古典的未解決問題」から「現代的未解決問題」への仲立ちをしたものが、「リーマン予想」だったように思われてくる。リーマン予想とは、ご存じの通り、「整数のべき乗の逆数和で定義され、複素数全体に解析接続されるゼータ関数の虚の零点は、実部=1/2という直線上に並ぶ」というもの。これだけ見ると「孤立的・単発的」問題に見えるけれど、その後に、ゼータ関数が有限体上や楕円曲線上などに拡張され、そこでもみごとな性質を持つことが発見されたことで、「普遍的・統一的」な未解決問題を生み出すことになって行ったのだ。解決されたヴェイユ予想ラマヌジャン予想や谷山予想、未解決ラングランズ予想はそういう延長線上に位置している、と言える。

 ぼくの感想を言うと、古典的な未解決問題というのは「パズル的でわくわくする問題」で、現代の未解決問題というのは、「人間の数的思考の奥底に横たわる思想的深淵を垣間見せてくれる問題」という感じ。どちらも好きだけど、後者はあまりに抽象的で、味わう資格を取得するのにあまりに険しい道のりが待っているのが辛い。

 本書には、たくさんの数学者がそれぞれに未解決問題(だったもの、も含む)を解説している。列挙すれば、「バーチ・スィンナートンダイヤー予想」「深リーマン予想」「P≠NP予想」「ホッジ予想」「コンセビッチ・ザギエ予想」「連続体仮説」「フェルマー予想」「ポアンカレ予想」など。

 全部をざ〜っと読んでみると、(編集上そうなった、と言えるかもしれないが)、共通キィワードとして「コホモロジー」というのがあると思う。コホモロジーというのは、空間に対して定義される不変量で、まあ、多くの人がわかる言葉で言えば、局所的に対応する線形空間のようなものである。この不変量を開発したことで、現代数学は、(例えば、素数の集合や有限体のような)抽象的な対象を幾何的な空間として扱って、その素性を「計算によって」暴くことが可能となった。

 そういう意味で、コホモロジーは点在する未解決問題を渡り歩くための足場岩になるんだけど、これがまた、きちんと勉強しようとすると、あまりにごつごつしてて、敷居が高いのである(例えば、数学は遠きにありて想うもの - hiroyukikojimaの日記を参照のこと)。だれか、コホモロジーを新書かブルーバックスレベルぐらいで、わかりやすく解説してくれんものか。(誰もしないなら、いずれぼくがやっちゃるわい。何年かかるかわからんが。笑。拙著数学は世界をこう見る』PHP新書を読めば、ちょっとはこのあたりの雰囲気がわかるとは思う。)。

 「数学(者)にとって未解決問題とは何か」は、どの記事も面白いので、ここでは特に一つを紹介することはしない。是非、一家に一冊、職場に二冊。最後に、田口雄一郎氏の記事の中に出てくる「優れた問題の特徴」を引用するにとどめよう。いわく、

優れた問題は美しい。

優れた問題は容易に解けない。

優れた問題は発展を促す。

優れた問題は広い範囲に関わる。

優れた問題は人々を幸せにする(不幸にもする)。

あなたも、是非、本書を読んで、幸せに(不幸に?)なってくらはいな。

2016-09-17

ぼくの統計の本が、オーディオブックになりました!

03:14

 ぼくの書いた統計学の教科書『完全独習 統計学入門』ダイヤモンド社が、オーディオブックになった。

せっかくだから、リンクを貼ろう。

完全独習 統計学入門のオーディオブック情報 - 聴ける本【FeBe(フィービー)】

オーディオブックというのは、本の内容を音声にしたもの。ぼくは、主に視覚障害の方々のためのツールかと思っていたけど、そうでもないらしい。車で移動中に本を読みたい人とか、電車の中で耳から本を聴きたい人とか、さまざまな需要があるとのこと。

でも、パラリンピック開催中でもあるし、視覚障害の方々向けという方向で、書こうと思う。

ぼくの本ではたぶん、二冊目だと思う。

最初にオーディオブックになったのは、90年代のぼくの単行本デビュー作『数学迷宮』(現在は、角川ソフィア文庫から『無限を読みとく数学教室として刊行されている)だったと思う。ただ、商業ベースのものではなく、ボランティア的な音声化だったように記憶している(曖昧なんだけど)。そのときは、なんだかとても嬉しかったことを覚えている。なぜか、というと、この本は、4章を4つの文体で書きわけて、DJスタイルにする、という画期的な試みをしたからだ。だから、「聴いて」もらえるのなら、それにこしたことはなかったからだ(今刊行されている角川文庫バージョンでは、編集者の意向で、そういう小細工はやめることになった)。

それを思うと、今回の『完全独習 統計学入門』ダイヤモンド社オーディオブック化には、少し「ハテナ感」があった。なぜなら、この本は、通常の統計学の教科書だし、図も(普通の教科書より)ふんだんに入っているからだ。

でも、よくよく考えてみると、この本を音声化するのは、なるほどとなった。なぜなら、この本は、ぼくの講義をそのまま「音声のように」書籍に落としたものだからなのだ。思い出してみれば、ぼくは、この本を書いたとき、「極力、リアルな講義を生のままで再現してみたい」という野望を持っていた。なぜなら、この本の内容は、大学で学生の表情を見ながら、彼らがうなずくような繊細な言葉を選んで展開した講義だからだ。それで、グラフも式も極力、言葉に置き換えて、文章の中で二重に表現している。きっと、「音声で聴く」とよりリアルになるんじゃないか、と思うのだ。

心配だったのは、この本が(通常の統計学の教科書に比べても)大量の図版を投入していることだった。視覚障害者の方々は、オーディオブックで図版があるとき、どうするんだろう、と気になった。そこで、特別支援学校の指導員をしている友人に尋ねてみた。その人は、盲学校の指導員の経験もある。その人がいうには、オーディオブックには図版の音声による説明もついている、そして、生来の視覚障害の方々は、小さい頃から、「図を言葉で理解する」訓練を受けているのだそうだ。だから、図版についてもなんとかなるのだそうだ。「そうなのか」とびっくりした。

そこで、ぼくは、その人に、「点字化のほうが良いのではないか」と尋ねてみた。「音声」というのは、時間経過をリアルタイムで必要とするコンテンツだ。他方、文字情報は、個人の速度で進むことができる。だから、点字のほうがより良いように思えたのだ。その人の説明によると、点字はその性質上、同じ本を翻訳しても、2倍3倍の分量になってしまって、決して効率的とは言えないのだそうだ。「そうだったんだ」とちょっとびっくりした。

 今回は、これで終わってもいいんだけど、これじゃあまりに個人的で、読者を利する点が少なすぎるだろうから、別の本も紹介しよう。前からいつか紹介したい、と思っていた本、新井紀子『ほんとうにいいの?デジタル教科書』岩波ブックレットだ。

この本は、2012年刊行、もうずいぶん経過してしまった。数理論理学者の新井紀子さんが、総務省のデジタル教科書推進について、さまざまな検討をしている本である。デジタル教科書というのは、パソコンやタブレットを基幹とした教材のことである。

新井さんは、この本の中で、多様な方向性から「デジタル教科書」について、その功罪を予測している。その主要な部分には、当然、「障害者に対して」ということが入ってくる。例えば、次のように主張する。

デジタル教科書は、弱視自閉症等の障害のある子どもたちにとっては、大きなメリットはある。一方で、デジタル教科書は新たな学習障害を生む可能性もあることに注意が必要である。「デジタル教科書を必要とする子どもたちにデジタル教科書を」という主張は正しいが、「すべての子どもにデジタル教科書を」という主張は正しいとは言えない。

実際、液晶画面などに適応力が悪く、かえって認識を損なう「障害」が存在するそうなのである。障害は多様であり、どんなコンテンツにも障害は存在すると考えるほうが無難である。

 また、新井さんは、人工知能研究者でありながら、旧態依然としたコンテンツに対しても、むげには否定しない。例えば、デジタルベースと紙ベースのコンテンツを比べて、前者の優位性が多くあることを指摘しながらも、後者にも無視できない効能があることを提示している。例えば、次のよう。

読者の多くは、複数の資料を広げて一覧できる状態で相互参照しつつ学んだ経験があるだろう。もし、机がA4サイズしかなく、教科書と教材を「重ねて」置かなければならなかったとしたら、非常な不便を感じるのではないだろうか。(中略)。

なぜ、上下に重なった状態でバラバラに見るのと、一覧で見ることができるのとで違いが生じるのだろうか。それは、私たちの脳がそもそもそのようにできているからだろう。つまり、「同じ視野の中に同時に入る物事の間にはなんらかの関連性がある」、そう思うことが動物だった時代から、私たちの脳にとって外部世界を解釈する自然な方法なのではないだろうか。

鋭い観察眼を基礎とした実に哲学的な議論だと思う。本書は、こういうみごとな「哲学」の連続なのである。

 とは言え、先ほどの特別支援学校の先生によれば、デジタル機材の発達は、障害のある子どもたちの生活を激変させたのは間違いないことだそうだ。視覚障害のある子どもたちは、ウエブの文章を音声で聴くことができる。弱視子どもたちは、自分たちに適切な大きさにウエブの文字を拡大して読むことができる。聴覚障害子どもは、youtubeの(誰かが勝手に付けた)字幕付きの画面でさまざまな動画を楽しむことができる。自分の言葉をスマホで音声に変換することができる。もちろん、新井さんの指摘するように、デジタル機材は新しい障害を生みだすだろう。でも、それを用心しながら、「すべての人」ではなく、「困っている人」に向けて利用すれば、世界は劇的に変わるだろう。

 他方で、アナログコンテンツも捨てたものではない、と思う。その指導員さんの話では、視覚障害者子どもの多くが、幼少期にそろばんを習って、それで計算を覚えるのだそうだ。ぼくも、小学生のときに長い間そろばんを習い、どうにか暗算2級まで取得した。そのおかげで、50代になった今も、簡単な計算はぼくにとって、指先でのそろばんの玉の感触に変換される。これはとても不思議なことである。そろばんとは、「触覚による計算」に他ならないのである。そろばんには、そんな意義があると初めて認識させられた。

 世界が豊かになる、ということに、ある何かが決定的な優位性を持つのではなく、それぞれがそれぞれのありかたで意義を発揮するのだと思う。ぼくらはそれを見極め、有効に利用すればいいのだ。

 

2016-09-05

諦めなければ夢はかなう。望んだ形ではないかもしれないけど。

03:01

今回のエントリーは、親しいミュージシャンの売り込みだ。その娘は、ぼくの元ゼミ生。今は、CDデビューをして、プロのミュージシャンとして活動している。ライブハウスを回ったり、路上ライブをしている。

 名前は、卯月沙羅さん。ピアノ弾き語りをしている。youtubeにいくつかあがっているので、リンクを張っておく。

 https://www.youtube.com/watch?v=vv8M1ygLT4A

とか、

 https://www.youtube.com/watch?v=uD2Nhr4o5Ps

とか。女性ヴォーカルとか、ピアノ弾き語りとか好きだったら、是非、このエントリーを読みながら、BGMにかけてあげてほしい。そして、ライブハウスや路上ライブに赴いて、CDを買ってあげてほしい(twitter卯月 沙羅@jackal_neesan )。

 前に、このブログで何度か書いたと思うのだけど、ぼくには、中学生時代に抱いた大きな夢が三つあった。第一は、数学者になること。第二は、小説を刊行すること。第三は、ギターをステージで弾くこと。

ある意味では、どの夢も、一つとしてかなわなかったけど、別の意味では、すべての夢が叶うことになった。

まず、一番最後に叶った夢から書こう。もちろん、卯月沙羅さんと関係するから。それは、ステージでギターを弾く、という夢だった。

これだけはきっと叶わないだろうな、と諦めていた。だって、50歳を通り越したら、バンドでギターを弾くチャンスなんて、原理的にありえないからだ。でも、意外なところからチャンスがやってきた。5年前のことだ。ぼくは、当時のゼミ生と飲むたびに、「ステージでギターを弾くのが夢なんだよね」と酔っ払って戯れ言を言っていた。そうしたら、ゼミ生が突如、バンドを組んで、「先生、ライブをやりましょう」と提案してくれた。その中の一人が、卯月沙羅さんだった。冗談か、と思っていたら、本当にライブハウスを押さえて、どんどん計画が進んでいった。ゼミ生バンドで12曲ぐらいの演奏をした。ヴォーカルは、ゼミ生が一曲ずつ代わる代わる歌った。ぼくはそのうちの三曲で、リズムギターを弾いた。バンプ・オブ・チキンを二曲と、ハイドの「グラマラスディ」。今思えば、そんなに難しい曲じゃなかったけど、ギター初心者のぼくにとっては難関だった。相当な時間をかけて練習した。「先生のリズム、ところどころおかしいから」と呼び出されて、教室で特訓を受けたのもいい思い出となった。だって、教室でエレキを弾くなんて、学生じゃないとできないからね。

ステージでギターを弾いた時間は至福の時だった。でも、無我夢中で、自分が何をしてたのか、ほとんど覚えていない。

翌年から、我がゼミでは、ゼミライブが恒例行事となった。

二年目は、ぼくはギタボを担当した。ピローズやミッシェル・ガン・エレファントの曲を歌った。ギタボは、あまりに負担が大きすぎて、ライブが終わった翌日は、廃人のように眠り続けたものだった。

次の年からは、ぼくがエルレガーデンの曲をギタボするのが恒例となっている。たぶん、今年も一曲はエルレの曲を演奏するだろう。彼らの曲は、そんなに難しくないけど、めちゃくちゃかっこいいのだ。

その5年間のゼミライブ、すべてに出演してくれているのが、卯月沙羅さんなのである。去年は、ぼくのチャレンジングな演奏tricotの「爆裂パニエさん」でヴォーカルをとってくれた。すばらしいボーカルだった。(今年は、彼女はもうプロなので、さすがに誘う勇気はでない。相対性理論をやりたかったんだけどな)。

 「夢」というのは、どかん、と大きく叶うものではなく、世間的にはささやかに、本人的には舞い上がるように叶うものだ。今年のはじめに、卯月沙羅さんの「夢」が実現した。それはCDを出す、ということ。本人にとっては、大事件だったと思う。だから、ぼくはレコ初ライブには是非行ってあげなければ、と思った。世の中はともかく、彼女にとっては、人生の中で、とてもとても大事なセレモニーだからだ。ぼくは、そういうことを身にしみてわかっていた。だから、いろいろな用事がある中で、とにかく、レコ初ライブにおもむいた。彼女は、ぼくのささやかな(でも大きな)夢を叶えたくれた一人だから、ぼくも彼女にどうにか報いなければならない。

 人にとってはささいなことでも、本人にとっては、とてもとても重要なステップというのは存在する。

ぼくに、まず、それが訪れたのは、最初の単行本数学迷宮』(今は、『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫として刊行されている)を刊行したときだった。当時のぼくは、数学者の道を諦め、塾の先生で生業をたてており、「一生、これで終わるんだろう」と諦念の境地にいた頃だった。そんなときに、何の業績もないぼくに、出版の話が舞い込んだんだから、盛り上がらないわけがない。ぼくは、一年以上の歳月をかけて、何度ものスクラップ・アンド・ビルドを繰り返して、その本を書いた。刊行されたときは、行ける限りの書店を回って、我が本の並ぶ姿を見て回ったものだった。人にとってはささやかなことでも、ぼくにとっては、人生の大事件だったのだ。

 その頃、宇沢先生と出会い、経済学に目覚めた。そして、意を決して、経済学部大学院を受験した。合格発表に自分の番号を見たときは、本当に躍り上がりたいぐらいに嬉しかった。普通の大学生にとっては、たいしたことではないだろう。大学院拡充の始まった頃なので、受験すればどこかには合格しやすい環境にあった。でも、数学者になりたくてなりたくて、その道が閉ざされたぼくには、人生の大事件だったのだ。

 そのあとの大事件と言えば、日本経済学会で、修論を報告したときだたった。ぼくを除く、すべての院生にとっては、当たり前の、普通の通過儀礼に過ぎないだろう。でも、ぼくには全く意味が違っていた。いったん、学者の道を諦め、自分の夢に決別をし、だからと言って、次なる野望も持てないで暮らしていたぼくには、単なる「学会発表」が全く「単なる」じゃなかったのだ。通常では小さなステップかもしれないけど、ぼくには「偉大なる一歩」だったのだ。あのときは、ある著名学者に、カウンターのような質問を受けて、ぼこぼこにされたんだけど、ぼくにとってはそんなことはどうでもいいことだった。ぼくがたくさんの学者たちの前にたって、自分の研究を考えを報告している、それだけで大事件、それだけで十分だった。それで至福だったのだ。

 人生、って、そういう風になっているんじゃないかな、ってこの頃思う。人にとってはどうでも良いこと、金にも名誉にもならないステップが、本人にとっては、この上ない、何にも変えられないステップだということはままあるのだ。人生というのは、そうい微少だけど「偉大なる」ステップの積み上げなのだ。他人の評価なんて二の次、大事なのは自分の心なのだ。何を望み、何が大事で、何を譲りたくないか。それがすべてなんだと思う。

 だから、卯月沙羅さんにはがんばってほしいと思う。他人から見たら小さいけど、自分にとっては「偉大な」ステップを積み重ねて、自分なりの夢に到達してほしいのだ。ぼくは、そういう人を応援する。そういう人がゼミ生にいることを誇りにしている。たとえ、彼女が世間的に成功しようがしまいが。

2016-08-29

シン・ゴジラ観てきた。シン・ゴジラ観るべし

00:45

 先週、映画『シン・ゴジラ観てきますた

みんな、『シン・ゴジラ』、すぐに観たほうがいいと思う。だってさ、君は来週に不慮の事故かなんかで、死んじゃうかもしれないんだよ。そうしたら、『シン・ゴジラ』観ないまま、人生が終わるんだよ。それってめっちゃもったいないことだと思う。

 ここでは、『シン・ゴジラ』については、ほとんどネタバレをしないで書くつもり。でも、何をしてネタバレと言うかは難しい。真のネタバレ・ゼロとは、情報量ゼロということで、それでは書く意味がない。細心の注意を払って書くけど、それでもネタバレになったらごめんなさい。(でも、そんなにネタバレが嫌なら、もっと早く観ろってことでしょ)。

 ぼくは先週まで、『シン・ゴジラ』を映画館で観るつもりはなかった。気が向いたらDVDで、ぐらいのつもりだった。

その理由の第一は、ゴジラ映画は「卒業した」という気分でいたこと。第二は、総監督庵野氏の『エヴァンゲリオン』を、第一話でついていけなくなって挫折したあと、なんとなくそっち方面を避けてきたこと。第三は、ぼくがtwitterでフォローしているある人が、どういうつもりか『シン・ゴジラ』の結末をネタバレ・ツィートし、結末を知ってしまったこと。

 じゃあ、なのに、どうして観たのか。それは、親しい経済学者が、わざわざメールをくれて、(半ば強制とも言える感じで、笑)「観るべし」と勧めてくれたからだった。

 その経済学者さんは、「なぜ観るべきか」をきちんと説明してくれた。それはある意味、ネタバレである。でも、その「なぜ観るべきか」を聞かなければ、決してこの映画を観ることはなかったと思う。つまり、ネタバレには、良いネタバレと悪いネタバレがあり、しかも、それは個人個人で異なる、ということだと思う。観てみて、くだんのフォローの人物が、なぜ結末をネタバレ・ツィートしたのかも推測できた。その人にとっては、結末は重要ではなかったのだろう。そして、結末を知るとみんなが観たくなる、と考えたのだろう。でも、やはり、それは悪いネタバレだと思う。もっとうまい書き方があったはずだ、と思う。

 経済学者さんの強い推奨から、我々は家族で観に行った。みんな連れて行ってよかった。その後、ここ数日、家族でずっと『シン・ゴジラ』の話に花を咲かせている。各人の発見をみんなで共有して、楽しんでいる。できれば、家族で、あるいは、友人みんなで一緒に観るべきだと思う。

 ここで終わってしまうと物足りないので、以下、ぼくの過去のゴジラ映画体験を書こうと思う。こちらには、多少のネタバレが含まれることを前もってお断りしておく。

 たぶん、最初に観たのは、『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年モスラキングギドラ)か、あるいは、『怪獣大戦争』(1965年ラドンキングギドラ)だったと思う。前者は、リバイバルを観たか、テレビで観たのかもしれない。しかし、この二つの作品が、非常に鮮烈な記憶として残っている。

 次に観たのは、忘れもしない、ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の決闘』(1966年)。これは、映画館で観た記憶がはっきりある。確か当時は、小学校の校門前に、映画の割引券を配る人が来て、それをもらった子供たちは、封切り日の朝いちに、映画館前に列をなして並んで映画を観たものだった。この映画については、妹を連れていくように命じられ、幼少の妹が、怖くて途中で泣き出したので、クライマックスのところでロビーに連れ出さなくてならず、フラストレーションが残ったことが苦い記憶で残っている。

 そのあと、ゴジラキングコング』(1962年)を観た。これは、公民館かなんかに子供を集めて、無料で見せてもらった記憶がある。この映画は、アリ対猪木のようなフラストレーションの残る作品だった。まあ、実際、怪獣界のアリと猪木だからしょうがないだろう。

 それから後はよく覚えていないが、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)あたりが、子供として映画館で観たゴジラシリーズの最後だった気がする。この作品を観て、「もういいかな」というお腹いっぱい感が来たのを覚えている。その後は、テレビの「ウルトラ・シリーズ」に興味が移っていった。

 その後、ゴジラヘドラも、ゴジラビオランテも観たけど、正直、何で観たのかさえ思い出せない。

そんな中、最も鮮烈な記憶が残ったのは、『ゴジラ対メカゴジラ』を名画座で観たときだった。記憶は定かではないが、30代のはじめだったように思う。実は、ゴジラ対メカゴジラを観に行ったのではなく、名作の誉れが高かった地球防衛軍』(1957年)を観に行ったのであった。これは、ぼくが生まれる前の作品なのでリアルタイムで観られたわけがない。伝説の名作とされていたので、いつか観たいと思っていたら、名画座で二本立てでかかると聞いて、つれあいと満を持して観に行ったのである。

 劇場で椅子に座ってから、何か妙な感じ、というか、胸騒ぎを覚えた。通常の映画と観客の雰囲気と様子が違うのである。映画が始まって、すぐに、その予感は正しかったことがわかった。キャストが流れると、いちいち拍手喝采になる。そして、監督名が出ると、あちこちから、「よ、円谷!!」とかけ声がかかる。さながら、歌舞伎である。それからは、映画中、名場面のたびに拍手や、爆笑や、「お〜」という感嘆が一斉に起こる。観客たちは、この作品を秒単位で覚え込んでいるのである。「こ、こういうファンが、たくさんいるのか」とかなり動揺した。間違って異次元空間に紛れ込んでしまった感触であった。でも、そういうノリノリの中では、上手に映画に巻き込まれてしまう。『地球防衛軍』はともかく、『ゴジラ対メカゴジラ』さえも、名作だったような偽の記憶が作られることになった。

2016-08-20

10を聞いても1しかわからない人のためのゼータ関数入門

02:23

 8月がこんなに忙しい年は初めてで、今まで、全くブログを更新する余裕がなかった。

今回は、更新できない間に、ちょこまか読んだ数学書、小山信也『素数ゼータ関数共立出版紹介をしよう。

ぼくが、中学生のための受験雑誌『高校への数学東京出版素数についての連載をしていることは、何度か書いた。その参考のために、本書を読むことにしたのだ。しかし、単なる参考を超えて、この本はとてもすばらしい本であった。

何がすばらしいか、と言えば、本書はゼータ関数のことを、本当に丁寧に、至れり尽くせりで解説していることである。

数学書の多くは、「1を聞いて10を知る」人に向けてかかれている。極力、最短距離で、最短の労力で、しかもエレガントな方法で定理を導いている。こういう本は、専門家や、将来数学者になる数学少年や、めっちゃ頭のいい人にはこの上なく適切な本だろう。しかし、ぼくを含む、凡庸な、頭の良くない人間には、全くもって挫折感を植え付けられるだけの本なのである。本書は、そういう本と真逆で、ぼくや多くの凡庸な数学ファン、「10を聞いても1しかわからない」人々へ向けて、「痒いところに手の届く記述」で書かれた、超親切な本なのだ。

 とは言っても、本書を完全に理解するにはそれなりの数学知識が必要である。大学1、2年程度の解析学知識、それと、複素解析知識が不可欠だろう。でも、読み方次第では、そういう知識がなくてもなんとかなるかもしれない。この本には何段階かの読み方があると思うからだ。

[深さ1の読み方]:数式は斜め読みするだけで、日本語の部分を中心に読む。

[深さ2の読み方]:数式については、それが何を意味する式かだけ読解し、煩わしいところは飛ばし、主に日本語を読む。

[深さ3の読み方]:数式をちくいち検証しながら、じっくり綿密に解読する。

どの段階を選ぶかは、読者のニーズと知識段階に依拠すると思う。どの段階を選んでも、有意義読書となることは請け合いである。ちなみにぼく自身は、[深さ2の読み方]をした。以下、各[深さ]をお勧めするレビューを与える。

 [深さ1の読み方の勧め]

本書は、単に定理を与えるだけではなく、それがどんな含意を持っているか、があちこちに書いてある。それらは、ゼータ関数ファンになるのに十分なほど魅力的である。ゼータ関数は、解析学のたくさんの技術がそれこそ「総合商社的」に利用される。本書は、それをただ場当たり的に出してくるのではなく、「その技術を使う必然性は何か」「その技術がどのように効いてくるか」を言葉で説明してくれる。これらの記述を読むと、ゼータ関数というのは数学者の英知の結晶であるなあ、と強く胸が打たれる。

 [深さ2の読み方の勧め]

本書の売りは、ゼータ関数の基本的性質を、省略せずに、しかもできるだけ初等的に証明していることだ。それはもう、至れり尽くせり、痒いところに手がとどくようである。

ゼータ関数ζ(s)とは、ご存じの通り、「(nのs乗の逆数)をすべての自然数nにわたって足し合わせたもの」(Σ(1/n^s))である。ここで、定義域sは複素数全体だが、あとで解説するように、複素数s全部に対してこの無限和で定義されているわけではない、という点が大事だ。

本書ではまず、実部Re(s)が1より大きいsに対して、前記の無限和が広義一様に絶対収束することを丁寧に証明している。基本的だが押さえておきたいことだ。

次に、この領域(実部Re(s)>1)では、ゼータ関数ζ(s)がオイラー積表示「{1−(pのs乗の逆数)}の逆数をすべての素数pにわたって掛け合わせたもの」(Π1/(1−p^(−s)))と一致することを丁寧に証明する。大事なのは、このことだけで、この領域ではζ(s)が0とならないことが同時にわかってしまう、という指摘である。なぜなら、無限積は収束する場合は0とならないからなのだ。このことは、素人には意外な事実であろう。そして、ζ(s)がこの領域では0とならないことは、ゼータ関数の零点を追求するリーマン予想にとっては、とても重要な事実である。

次なる段階として、「(nのs乗の逆数)をすべての自然数nにわたって足し合わせたもの」は、実部Re(s)が1より小さいsに対しては発散することが丁寧に証明される。ゼータ関数ζ(s)はこの領域でも有限値となっているので、多くのアマチュアはここでつまづく。つまり、愚直に無限和を実行すると、発散してしまうわけだから、ゼータ関数ζ(s)はこの領域では「(nのs乗の逆数)をすべての自然数nにわたって足し合わせたもの」ではない、とわかる。こんな大事なことをちゃんと書いている本は少ない。それもそのはず、実部Re(s)<1なる複素数sに対して、くだんの無限和が発散することの証明はそんなに簡単ではないのである。この点について、著者は次のような直感的理由を与えている。

nの増大に伴い絶対値は減少して0に近づき、偏角の絶対値は対数のオーダーで増大していく。したがって、nが自然数全体を動いたときの複素数(1/n^s)の列が、らせん状に原点に向かって収束することは先ほどと同様であり、このような点列の和が収束するかどうかを判定するのは難しい。少なくとも各項が0に収束する上に、らせん状に動くことによってそれらの和には相当な打ち消しあいが起きていると推察されるからである

このような記述は、定理の証明の困難さを示すだけでなく、級数の様子を視覚的に教えてくれる意義を持っている。本書にはこういう記述が満載なのである。実際、この証明は、コーシー列の収束を利用する泥臭いものなのだ。

さらには、細かいことにも、次の提示されるのは、実部Re(s)=1なる複素数sに対してである。sが実部が1で、1とは異なる複素数の場合も発散するのだけど、その証明もそんなに簡単ではない。

そうやって、無限和について丁寧に検討したあと、今度は無限積(Π1/(1−p^(−s)))に対して、丁寧にその収束を検討していく。ここにもさまざまな解析的なテクニックが現れる。

そうした懇切丁寧な検討のあとで、いよいよ、「解析接続」について解説が行われる。すなわち、実部が1より大きい領域で定義された「(nのs乗の逆数)をすべての自然数nにわたって足し合わせたもの」が実部1にもはみだして解析的に拡張でき、実部が1から0の領域にもはみだして拡張でき、という具合に順次拡張できていくのである。このような丁寧な解説を読めば、ゼータ関数というものが、一つの式で素朴に定義されるものではなく、解析的な性質を維持しながら複素平面全体にじわじわとさながら水のように浸透していくものだと直感できるようになる。

 最後に、[深さ3の読み方の勧め]を簡単の書いておく。(まあ、この読み方ができる人がこのブログを読んでると思えないので)。

本書は、おそらく、素数定理「x以下の素数の個数π(x)はx/log xに近づく」をゼータ関数から証明する、最もわかりやすい本ではないか、と思う。しかも、ゼータ関数の零点がどのように素数定理の証明に関わり、そして、それがリーマン予想とどういう関係にあるかも、明快に理解できる。ここまでたどり着けば、自分が素数に関して「進化形ポケモン」になった自覚できるだろう。

深さ3の読み方として、本書は、大学1,2年で教わる解析学の技術のオンパレードであり、その知識のまとめとして利用する、というのがある。ざっと列挙すると、複素数対数、留数、マクローリン展開フーリエ変換オイラーマクローリンの集計法、無限積、ガンマ関数、ウォリスの公式、スターリングの公式、ポワッソン和、アーベルの総和法、などなどだ。これらの基本的な定理や技術が、有機的に結びついて使われるので、スポーツでいうところの「ただただ辛いフットワーク」でない「真剣試合の楽しさ」に匹敵する感覚を得ることができるだろう。

 昔、黒川信重先生と雑談していたとき、黒川先生が「ゼータを中心素材にして、高校数学・大学数学の教科書を再編集したい」ということをおっしゃっていた。そのときは、面白い冗談だな、程度に感じただけだったのだけど、本書を読むにつけ、そういう教科書があったらステキだ、と思うようになった。というか、本書がその先駆けなんじゃないか、とさえ思う。

 ちなみに、ゼータ関数の「入門の入門」には、拙著『世界は2乗でできている』ブルーバックスをどうぞ(笑)。