関係性の確認

知人が「個人サイト開いたよ〜」ってURL教えてくれるので、いくと、日記と掲示板とチャットからなる構成で、日記はちょこっとした日々の自己吐露セカイ、掲示板&チャットは自由につかってという貴方まかせで、結局「みたよ〜」なあたりさわりない挨拶に始終…というカタチ。こんなのって、ネットにゴマンと溢れてるんぢゃあないだろうか。
HNを使ってても差し障りが多いので自己仕事については書けないことが多いし、同人等の特別な趣味&学究等のネタストックや、日ごろから書く習慣のないひとでないと、中々続かない。
そうそう日々のよしなごとで書いて面白い事がある訳ぢゃなし、そうとう記述に長けた人でないと読んで面白いものがあるとは限らない。でも意味不明でも書いた人の日ごろのパーソナリティが解っていると、それなりに感慨深いものがあったりもする。だからこそ、友人知人にとっては充分に意味のあるサイトになったりもする。
そんなサイト運営してる方も、自分周りの友人知人せいぜい数十名が目当てってことが殆どだろう。そして互いにそんなサイト同志リンク張りあって内輪のささやかな近況報告で「関係性の確認」完結してる、ささやかな〈私〉の戯れ。でも、それはそれで運営人達の目的を達しているのだから、とやかくいうことはないであろう。

備忘録として Blog を作成 66.2%
http://japan.internet.com/wmnews/20040610/3.html
インターネット上の人権意識調査
http://www.iajapan.org/hotline/20040611-press.html

ぱど厨

ぱど厨に注目が集まってるが、結局は「日記/掲示板/チャット」の混合体でしかないのではないかな。ケータイMLのネット版か。上記した通り、大人でさえ継続した他者の目に耐えられる「コンテンツ」なんか難しいのに、小中学生にソレを期待し、他者を意識してないと驚愕するほうがどうかしてる。
また、ぱどタウンにたむろしてる「女の子文化」として、そのふるまいをジェンダーカテゴライズするむきがあるが、それは違うであろう。
風野センセは、「はしご」「素通り禁止」を「驚愕の掟」とおおげさに表現なされているが、これも極めて旧来保守的なリアル共同体の掟そのものを持ち込んだにすぎないであろうに、ネット暦が長い者程、理念的ネチケットがモラル自明化してるせいではなかろうか。
しかし既存ネット上でみてもid:bmp:20040617#1087475362さんが指摘されてる「〜経由」リンク(引用)記述、相互リンク/リンク許可制や、www原理主義儀礼的無関心問題等、ネチケットのモラル強化によるネット文化の特殊化に拠る(既得権益)差別階層化ということはありはしないであろうか。
去年、儀礼的無関心ということが話題になった時カキコしたが、共同体の中の何重かの入れ子式の(「隔離」ではない)中において、一方的な外部スルーが出来にくくなる方式というのが、ソーシャル・ネット・ワーキングだったり「素通り禁止」だったりしてるのではないだろうか。
id:svnseeds:20040616では、「はしご」を「貴族/政治家/ヤクザ的」=コネ文化と指摘なされてるが、「情報独占」で差益を生む既得権益が人脈序列の意義で、それがフツーと身体化してるからこそ、「あいさつがナイ」だの「空気読め」だの「オレの意図を無視した」と泡立つコンフリクトって、もうウンザリする程リアル社会で勃発してるものね。
でー、「旧弊リアル仕儀をネットに持ち込むな!」って理想主義、「ネチケットリテラシー啓蒙運動」が正論として声を大にしていわれるのも解りはする、が、しかし。問題の本質はソコでなくって、リアルでもネットでも「囲い込みによる共同体」ってのの持つ排他性を何処迄許容しあうかってこと=多様性の保持になってるのではないだろうか。id:hizzz:20031209#p4 多様性というのは、自分がハブにされる排他も有りの多様、そしてそこから着脱自由なメタ自分であって、自分達と違うふるまいに過度に敏感になり異常視するさまは、実はリアル社会の同質同根理念をもって良しとする、多様を認めない排他、自己承認される関係性をひたすら確認出来ないと不安になるさまと同じなんだよなぁ。違うことが不安のタネという訳か。あぁ、活き苦しいことこの上ない。

13歳になってみた35歳
http://pasoru.under.jp/13.html
15歳以下のネットユーザー、親より詳しい43%
http://www.bizmarketing.ne.jp/trd/040610677.shtml


※追補
児童心理学に於けるエリクソンの発達段階では、第2次性徴前後の思春期〜青年期は、それまでの幼児的全能vs劣等感から進んで、自我同一性獲得vs自我同一性拡散と捉えている。これはどういうことかといえば、自我の芽生えによって、自他の区別をつけようとする能動とそこからの分離不安というストッパーが出てくる。そこで自我同一性を手近な密接な関係によって確認しつつ不安を排除しようという、自律への初動段階としての親密と排他であって、その為に幼児的な大人の承認&保護を得る上下関係から、より水平な「特定のなかま=同質者」という関係性で自己確認をしようとする。「他者性」がナイというより、むしろ他者性を意識しだすからこその、自己客体化意識が芽生えて自他の格差(優越/劣等感)が表面化しコンフクリトしやすくなることかと、推察する。
そうした関係性の確認事項として、なかま内ルール=儀式化の頑なな維持というのは、小学生の「ごっこ遊び」の様々な限定ルールに始まって、体育会系掟、先輩後輩ルール、裏校則、ファンクラブの掟等、性別問わず様々なカタチで自発的に作られている。ぱど等の一見大人が見れば奇異に思えるルール厳守もそういうものの延長線にすぎないのではないだろうか。
また、そうした「仲間内ダケの物語の共有による結束」というのは、稟議&根回しというカタチで大人社会でも公然と営まれているものである。その渦中にいる大人は自分の儀式化された「仲間内ダケの物語の共有による結束」を、マジョリティの公然モラルとしているから、そこからハズれた子供や女性の「仲間内ダケの物語の共有による結束」方法の違いを、特別視してしまいがちなのである。
親密or排除というそゆ極端なやり方を通して、自他の程々の距離というものを、失敗をかさねて実地習得していくのが小〜中〜高校位の青年期というものではないだろうか。もっともソコで止まって自我同一性拡散しまくってる成人DQNはネット上でも、ウンザリする程観察出来るんだけど(苦笑)。
で、その際の優劣戦争に使われるモノサシが、旧来大人社会がもっているジェンダーだったり貧富だったりする差別侮蔑が、大人ぶる優越感と共にロコツに引き継がれることが多々ある。当事者の性別だの表層で安易に「女の子文化」などとラベリングし特殊化すると、かえってその行動の把握を困難にしてしまうと危惧する。
勿論、子供の自生的秩序に期待するといったことも大切ではあるが、やはり行き過ぎを察知して適時カットするのは大人の役目である。中学生の「山形マット死いじめ事件」では、大人と子供が同じ価値観を共有し加害者に共振する地域住民が、事件後、被害者家族をセカンド・バッシングする事例(典型的な第三者の不在)が報告されている。

いじめ・全能感・世間
http://web.archive.org/web/20011222161213/park.itc.u-tokyo.ac.jp/kiss-sr/~naito/newpage5.htm

ジェンダーの囲い込み

当人の意志/学力に充分な大学進学を希望してる10代に、家庭環境/生計からも進学に問題ない筈の父親は「女は高校で充分」という理由で進学に反対した。い、いつのハナシだと思われるだろーが、これはわずか数年前、ワタクシの周辺で起こったことだ。
父親50歳。一口に団塊の世代といっても、68年革命だか世界革命だかしらんが、いまだ封建時代は続いている。こゆひとも歴然としているのである。そうそう、68年革命とやらでウーマンリヴが起こったとして、事後的なベーコン係数id:hizzz:20040312#p4だのみの社会學ネットワーキングするむきもあるが、赤プリで「全共闘同窓会」とか開いて美しい自己肯定にやっきになってないで、ブッてる暇があるならば党派やノスタルジーにまみれない均整のとれた俯瞰的な通史を纏めるのが責務であろう。
ま、それはともかく。前回、調査報告での「刹那的に今を楽しもうとする女子」「女のほうが楽しみが多い」という側面id:hizzz:20040612#p2は、非常にモロい土台の上に展開している。
id:hizzz:20040329#p2みたいなコトをカキコすると、「まだンナこといってんの?もうとっくにアタシは別のステージにいる」的反応を10〜20代初めらしい「腐女子」自称さんから頂だいた。別ステージの高見にあらせられるのはなによりではあるのだが、そうは「世間」は見ない。今回の佐世保小6同級生殺人ケースなんかみてもその封建時代は顔を覗かせる。曰く「女のナントカ」という言説で。「NEVADA萌え」とかで。はたまた、「オタクだから少女を守ります宣言」というカタチで。
そして、北田暁大氏が怒っている荒川区男女共同参画社会条例id:gyodaikt:20040616。id:o-tsuka:20040618でも纏められている。
法律も制定され建前ではジェンダーフリーになったとて、その実際は酷く格差がある。その格差が、先の「女は高校で充分」になったりもする。そーいえば、静岡等幾つかの県の公立高校(共学)の入学基準による著しい女子差別は、解消されたんだろうか?
〈女〉を囲い込もうとするのは、別に男性ばかりではない。ジェンフリ政策に脅威を感じているのは、女性性/弱者ならではの既得権益聖域を強い自己意識を持ったトランスジェンダーに侵食される(=数少ない〈女〉の砦を犯され失う)ように危機を感じる女性の方が、活動実行部隊としてより熱心だったりもする。無論これはジェンフリへの間違ったイメージではある。メディア等も女性問題としてくくりがちだが、これを「男vs女」の戦いと単純図式化するのは、問題そらしにもなりかねない。そういう意味に於いては、o-tsukaさんのおっしゃる通り「女性運動は既に勝利している」のだから。
ここでは、ジェンダーの囲い込みに使われるのが「家族」なのである。

連帯

凶悪/集団犯罪等の犯罪被害救済問題に取り組む犯罪被害者家族が報道され始めてからこっち、「家族」という関係性の強調が異様にクローズアップされてきた。確かに事件当事者(被害者)が死亡または行方不明である場合、近親者が被害者に成り代わって代弁するということも有りであろうし、ダメージは時には被害当事者以上に辛いものがあるであろう。だがしかし、それを何回もメディア等に記者会見を開き激情ばかりフレーミングされると、また別の問題(=物語)を引き起こす。加害当事者家族へのバッシングである。そして弱い当事者ならば、その関係性の渦の中で埋没する。関係性の連鎖は何処まで人をしばるのであろうか。
北朝鮮拉致家族、田中長女の週刊文春差し止め事件、オウム判決、松本二女の大学入学取消事件、イラク人質家族バッシング。。。
家族なら一蓮托生、共同体のいうことに従うのが筋、一族の罪は連帯責任。イデオロギーの左右はあれども、いずれも世間vs家族≒共同体⊃個人という構図。国家や体制に反撃したとて家族共同体封建社会は、お涙ちょうだいをも使って、かくも〈個〉を囲い込もうとする。うげ〜。
地縁血縁など同質に拠る安心は、果してそんなに確かなものなのであろうか。共感をいいつのりその皮膚感覚/脊髄反射を手掛かりに繋がろうとすればするほどに、その裏かえしの反感があらゆるトコで噴出し断線をこしらえているのではないか。そんなやみくもな怒号に沈黙させられ隷属を強いられる個人。はたしてそれが幸いな状態なのであろうか。〈個〉の自律というのは、ないのであろうか。

出生率1.29

出生率が落ちてタイヘンなんだそーだ。日本の妙齢女性はみんな雅子的責務を果せってことか(苦笑)。北田氏は、「「ダンナが高所得で、介護の必要もない」女の人だけが、かろうじて複数の子どもを産めるんです。」とお書きになってはいる。実際は、そんな単純なコトではない。高学歴&高所得程、自分の生活優先で子供を持たない傾向が多いのではないか。
共働き夫婦が育児をキチンと考えるに考える程、どうしても計画出産になる。一番難問は保育園問題。育児に関わらず行政サービスはホント地域格差が酷い。その為のママさんネットワークはすごい。親子の生活がかかってるモンね。持ち家じゃないんなら、どうしても荒川区に住まなきゃならない理由なんか殆どナイだろうから、都合悪けりゃとっとと引っ越すよ。実際、出産計画というのはそういうことも含んで考慮される。そういうカタチの実力行使も有り。
貧乏人の子沢山って言葉が昔からある通り、出生率の希望の星は、ヤンキー。逞しい彼らは金がなかろーと結婚し子供を作る。いや、結婚できなくても子供を作る。出生率をあげたいのなら、そこに重点的に補助すれはいい。親はなくとも金もなくとも子は育つ。社会さえあれば。両親そろった家族/肉親第一という密着価値観がガンとして支配しているから、シングル家庭への偏見は消えないし、ステップファミリーや里親といった家族の社会的組換えも進まない。
高所得者には沢山産んで欲しいが、補助しなきゃならない底所得者には産んで欲しくナイっていう行政のホンネと、「良い子」の子育てid:hizzz:20030607#p3*1へとプレッシャーをかける「世間」がある限り、出生率は当分あがりっこないや。

男女共同参画白書 平成16年版
http://www.gender.go.jp/whitepaper/h16/danjyo_gaiyou/index.html
平成15年度男女雇用機会均等法の施行状況
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/05/h0528-3d.html

*1:リンク切れ修正しました (m__m)