* 座りシッコの話
 昔は無かったスタイルに、「洋式便器」での男の「座りオシッコ」がある。 二年ほど前になるが、TVのバラエティーで、
「洋式便器のオシッコの使用時に、周辺に撥ねちらす量が思いのほか多く汚い」ことを、テーマににしていた。
その飛び散るさまを色付きの水で、同じように放水し、周辺に飛び散った水滴先を実証してみせていた。一緒に見ていた
家内が、「今日から、あなたも始めて!」と強く言われて数回、試みたが、何かオカマ?みたいで、数回で止めた。
 でも、注意をしてみると、やはり? 数ヶ月前にみたシネマで、老妻に先立たれ独り暮らしを始めた主人公が、
一度、座ったが、もういいや!と、立ちスタイルで始めた姿が印象的だった。 
 近くのスポーツジムに通い始めて二年半になるが、盆暮れと祭日を除いて週5日間の昼間、ほぼ休まず通っているが、
数ヶ月後に気づいたのが、男子更衣室の洋式トイレで、前の人が使ったあとの下蓋が下りたままが多いこと。 ところが、
日が経つにつれ、その頻度が多くなってきて、今では三分の一。これからすると使用後、上蓋を下げる人もあるから、
半分近くが、座りシッコをしていることになる。 当初は、こんなところで、何?をすることもないのに!と思っていたところに、
例の映画をみて成るほど!と気づいた次第。 で、最近、家では心掛けることにしたが一週間もすると、当初の抵抗感が
なくなるから不思議。 それも中性化の一つか? 
 最近の子供は自宅では殆ど?座りスタイル? で、私は自宅でするが、SJで、しないのは、実際にジムでも実施している
三分の一の人と比べ、私の公共心が劣っていることになる。 でも、あそこで、座る気も起きないが。
   * 二代目・電動アシスト自転車
 ブレーキが前後とも壊れ、来春予定していた電動アシスト自転車を購入してから、一ヶ月足らずになる。
これまではマウンテンバイク(MTB)だったが、今度ものはクロスバイク。値段は4年間で電動アシストの普及もあり、
全体的にみて3〜4割は値下がりをした。MTBはスポーツチェーン店の通販で買った中国製。やはり故障続きであった。
しかし、電動アシストの楽しさは十二分に味わうことができ、既に1万キロは走った。冬期を除いた毎朝、一時間、
年間200日は乗るので、一回百円とすると、償却は済んだことになる。実感としての価値は、300円〜500円はある。
で、新しいクロスバイクは、値段が二倍、一日200円になるが、価値は充分にある。雨の日にスリップをして、転倒したが、
車さえ気をつけ注意をすれば、それほど危険でない。毎朝、10キロ以上は乗って5日に一回の充電で済んでいる。
クラッチを最大の重さにして、電力を使うパワーにして乗っているが、ロードレーサー並みの速さ。少しオーバーに
表現すると、地上を走る車輪付きのグライダーか、水上を走るミニエンジン付きヨットという感覚である。
で、兼用して乗るつもりだったが、一度MTBに乗ったが、もう乗る気がなくなり、昨日、知人に引き取って貰った。
・・・・・・
4224, 閑話小題 ー地軸様 
2012年10月19日(金)
   * 地軸様
 何度か書いたことがあるが、30年来、近くの土手を散歩しているうちに橋の上で呼吸法を取入れた深呼吸をするようになった。
大きく息を吐き出しながらシャガミコム。その時に地球の芯に気を落とすイメージを持つ。そして、そこから大きな息を吸い上げながら
立ち上がり、今度は空に向かって気を吐き出すイメージで息を出す。 それを一回につき7〜8回、続けていたところ、擬人化した
地球軸に話しかけるようになった。「おはよう!」「久しぶり!」とか。 ところが何回かするうちに、逆に地軸の方が、「よう、
昨日は散歩に来なかったな!」「より深く呼吸しろよ!」と思いもよらない切口で呼びかけてくる。 サルトル的にいえば、「対自」と
「即自」の、掛け合いになる。 
 ところが何時もの散歩道のコースに、大規模な道路拡張工事が始まり通行止。 そこで違うコースを迂回して歩いているうち、
電動アシスト自転車を購入した。試しに信濃川の土手を長岡大橋から大手大橋を一周したところ、この景色と空気に魅されてしまった。
三年前のことである。それをキッカケに早朝ウォーキングがミニ・サイクリングへ変わってしまった。ところがチャリだけでは、
物足りなくなり、大手大橋を渡る時にヒキチャリをしながら歩くようになった。 暫くすると、その地球軸が再び話しかけてきた。
「久しぶりだね、まあ、下世話なことなど考えてないで、ここを歩いている時は360度のパノラマを味わえよ!」、
「もっと深い呼吸をしなさい!」、「わたしとせっかく出会えたのだから、私からエネルギーを、もっと吸い上げろよ!」、
「何か考える時や、音楽を聞く時には、わたしが同一になったイメージを持つと、感覚が鋭敏になる!」(ワシにも聴かせろ)
とか、なかなか面白い。 スポーツセンターで、ウォーキングマシーン上でiPodの音楽を聞きながら運動している時など
イメージすると、音楽に集中できる。で、この擬人化した地球軸に何か名前をつけてやろうと、この数日で考えた名前が、「地軸様」。 
 知らない人が、これを読んだら、「この男、ついに頭にきたか」と思うだろうが、私にとっては、20年以上の対話の過程がある。 
自分の魂を擬人化した、「真魂様」でもよい。常に話相手として擬人化して対話すれば、それで深い自己対話になる。問題は意識して
やるかどうか。アブラハム、キリスト、釈迦などは、このエネルギーの大元と繋がっていたのでは? 魂とは、内的宇宙=地軸様。
 ・・・・・・・
3859, 釈迦でさえ非難される
2011年10月19日(水)
 釈迦にさえ、非難するものがいた。そのものに、釈迦は「あなたが私に腐ったものを与えたとして、それを私が受け取らなかったら、
それは誰のものになるか考えてみよ。それは、あなた自身のものだろう。それが、私の答えである」と言ったという。
この言葉を知った時、何か内なる拘りの多くが消えた気がした。 要は、自分の受けとめ方で、第三者の非難は、
その人自身の問題を投影しているに過ぎない。 それをマトモに受けとめるから、その辺の輩の言葉に傷を負ってしまう。 
要は、自分の信念となる「絶対言明」を確立してあれば、他人の傷口から出てきた膿の言葉から、自分の傷口に毒が入ってこない。 
釈迦の言葉には、納得できるものが多い。 この時節、釈迦の言葉は心に沁みる。 老年になると、無知は老害となる。
 ーーー
* 思いわずらうな。 なるようにしかならんから、今をせつに生きよ。
* 沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も非難される。つまり、世に非難されない者はいない。
* もし、清らかな心で生きている人がいたとしたら、幸福はその人の後に、かならずついていく事でしょう。
* 思慮のある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流も押し流す事が出来ない島を作りなさい。
* 善をなすのを急ぎなさい。善をなすのにのろのろしていたら、心は悪を楽しむようになります。
* 水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来るのである。
* 他人の過失を見る必要はありません。
* 他人のした事と、しなかった事を見るのではなく、自分がした事としなかった事だけを見るようにしなさい。
* 自分で自分を、励ましてあげなさい。
* まず、自分を正しく整えてから他人に指摘しなさい。そして、他人に指摘したことは、自分も実行しなければなりません。
*「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。逆に「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と呼ぶにふさわしい。
▼ 《 思いわずらうな、なるようにならんから、今をせつに生きよ 》 この言葉は、還暦を過ぎてからの生きる道しるべの言葉。
  《「わたしは愚か」と認められる者こそ、賢者。逆に「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と呼ぶにふさわしい》は、
   上から目線で、教養の無さの目盛りになる。 上記の一つずつが、日々の自分に対する戒めといっていよい。
 ・・・・・・・
3494, 金が高騰
2010年10月19日(火)
 ここにきて金が高騰している。リーマンショック時には1トロオンイシス900ドル代だった金価格が、先日1380ドルをつけた。
何と二年で40パーセントの値上がり、年率で2割づつ上がっている。国内価格は円高のため27パーセント、それでも値上り幅は大きい。
ゴールドマン・サックスは一年後には1650ドルまで値上がりを予測する。 二年後に3000ドルの予測もある。
8年前に金の上場投資信託ETF)が出来て、そこを通して機関投資家や個人の投資資金が流入している。
その残高も5年前の5・6倍に膨らんでいる。 リーマンショックによる世界金融危機が一番の値上がり要素。
各国は危機乗り切りのため通貨をばら撒いたため、投資家などに通貨不信がおきて金投資に向かっている。
「実はユダヤ資本が上げるだけ上げておいて、一挙に売りを浴びせられる」という説は、先日ここで書いた。
 (字数の関係でカット2011年10月19日)
・・・・・・・
3119、久々のジョーク ー6
2009年10月19日(月)
 ▼ 少女が女になるにはどれくらいかかる?    ひとつき
 ▼ 長年牧場の仕事をしてきた親方が、弟子を連れてしば刈りに行った。「親方。この木、じゃまだから切ってしまいましょう」
「待て!50年前、わしはこの木の下で、男として初めての体験をしたんじゃ。思い出の木じゃ。残しておいてくれ」
「へえ。そうなんですか。親方も隅におけないなぁ。じゃあ、あっちの木を切りましょうか」
「待て!その初めての体験のとき、あっちの木の下で彼女の母親がじっと立っておった。やはり思い出の木じゃ。残しておいてくれ」
「親方……。もしかして初めての体験のとき、相手のお母さんにずっと見られてたんですか?」 
「そうじゃ」「お母さん、黙ってなかったでしょう。何て言いました?」     「モー」
 ▼ とあるパーティの席でのこと。母親に連れてこられていた三歳の男の子トニーが、突然母親に向かって「おしっこしたい」と
 大声で叫んだ。息子の無作法に母親は思わず顔を赤らめ、彼にそっと言った。「これからはおしっこをしたくなったら『歌を歌いたい』と
 言ってごらん。そうすれば私はお前がおしっこをしたいのだとすぐ分かるからね」「『歌を歌いたい』だね?うん、わかった。
 これからはそう言うよ」   そして、その日の夜――
 父親と母親の間に寝ていたトニーは、おしっこをしたくなって目を覚ました。そこで父親を起こして「歌を歌いたい」と言った。 
 何も知らない父親はびっくりして言った。「夜中は歌を歌う時間じゃないよ。明日まで我慢しなさい」
 しかしおしっこが漏れそうなトニーは、どうしても今じゃないとだめと言う。
 そこで父親は仕方なくこう言った。「じゃあ、布団の中でいいから、お父さんの耳元で静かに歌ってごらん」
 ▼ 友人に裏切られ、全財産を失い、荒れた暮らしで体を壊し、不治の病に冒され、ひとり寂しく死の床についている男がいた。
 突然、目の前に妖精が現れて言った。 「どんな願い事でも構いませんので、あなたがかなえたい事を3つ言ってください」
 男は即答した。「友情と財産と健康が欲しい!」そして、感激して男は続けた。「ありがとう!もう何と言ってよいのか..」
 「いいえ、どういたしまして」妖精は答えて言った。「こちらこそ、アンケートに御協力いただき、ありがとうございました」
・・・・・・・・・
2754, 世間とは、一人ひとりの人間の繋がり
 2008年10月19日(日)
「世間」については何度も「身近な数人の縛り付けられた小さな常識の網でしかないと!」と、否定的な意味で扱ってきた。  
 それでは「世間」とはいったい何か?を、岸田国士が「恐怖なき生活について」で、次のように書いている。
【「社会」という概念とは一致しないが、その道徳と習慣と、特に群集心理によって支配される意志表示とを重くみた考え方で、
 それはまた、自己保存のほかなんらの理想をもたず、非情ともいうべき形式的な掟の上にたち、 すぺての異分子的存在を
 排撃する本能のきわめて目立つ、地域的、時代的に限られた一社会を指すものと思われる。】
 と・・・、 簡潔で分かりやすい。≪世間=非自由≫と割り切って、沈み込まないように意識をしてきた。
 しかし、次の 佐野洋子の「私の猫たち許してほしい」の文章に出会い衝撃を受けた。
【 ある時、通りの下から二人の女の声が聞こえた。一人は相手をたしなめているようだった。 もう一人はその人よりも若いらしく、
 とぎれがちにいいわけをしているようだった。 ずいぶん長い間、ひそひそと立ち話をしているけれど、ことばは聞こえなかった。
 あるいは二十歳の私には、水商売の女の人たちの話に興味がなかったのかもしれない。
「あなたそんなことをしていると、世間が狭くなるよ」ということばだけがはっきり聞こえた。そしてあとは静かになってしまった。
 私は、「世間が狭くなる」ということばを初めて聞いた。「世間」ということばが、私の知っている「世間」ではない様子をして、
 ありありと私に見えてきた。 私には、「世間」というものは、目に見えないものであった。漠然と私をとりまいているものであり、
 少し古めかしい、少し私を束縛するものであり、とりはらいたいものであった。その時はじめて、私は‘世間というものが、
 一人ひとりの生きている人間のつながりである’ということを理解した。】 が具体的で分かりやすい。
  これからすると、世間を否定することは人間を否定することになる。
   (字数の関係でカット2010年10月19日)
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2007年10月19日(金)
2390, インターネット社会の凄み        オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
連日のようにインターネットを介在したサイト犯罪が話題になっている。
自殺サイトの自殺依頼による殺人、見知らずの男がサイトを介在して集まっての殺人事件、円天というネズミ講
応用の詐欺もサイトを巧妙に利用したものである。「フラッシュ・モブ」という新しい現象も起きている。
インターネットを通じて広く呼びかけられた群集が公共の場に終結し、あらかじめ申し合わせた行動を取る即興の集会。 
  (字数の関係でカット2009年10月19日)
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2006年10月19日(木)
 2025, 「私」のための現代思想  −13       オッ(*^○^*)ハ〜
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって《私》となり、最初の「超越確実言明」
を行うということです。簡単に言えばー「私}を認める者の存在ーを通して《私》になる。
その一番最初は、普通は母である。 初めの他者が母である。両親によってタップリ愛情を注がれた子は、
初めの出会いで、その存在基盤が強固になるのである。その基盤の上に「超越確実言明」が成立し、《私》は
強固になっていくのです。両親の愛、特に母親の愛は《私》の基盤を決定する。「ごうの虎」の年に生まれた人は気が強い!
という言葉を聞かされて育った女性が、それが「超越確実言明」になってしまえば、気が強くなってしまうのも当然である。
代々婿取の家系での長女で、A型で、ごうの虎年生まれで、男子高校を卒業で、中途半端な短大卒で、両親にタップリ愛情を
注がれて育った、ときた分には、亭主としてたまったものでない。誰の話??何の話??強固の《私》の基盤の人の実例の話。
 −−−
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味−?
  *「共振」のエネルギー −
私たちにとって<他者>とは、私たちが<出会い>を経験したすべての人たちです。 私たちが出会い、その存在を知りえた相手は、
それがたとえ直接には顔を見たことのない人であっても、既に亡くなっている人であれ、「私」にとっての<他者>であり、
この「私」の存在を引き受ける者となりえます。出会いのあるところ、多かれ少なかれ、必ず共振が発生します。
そして、それによって《私》にエネルギーが与えられます。このエネルギーは、消費されない時は、「私」の内部に滞留し、
消費された時には、「外部への振動」となってあらわれます。人は、生きている限り、共振しつづける存在です。
 *「私」が《私》となる瞬間 −
初めて母親の声を聞いたとき、「私」が個体としてこの世界に生まれてきて初めて「私」=《私》は
「私は私が母の声を聞いたことを知っている」という「超越確実言明」を行います。
これは、言明の正しさの基礎となる「超越確実言明」のうちで最初に発生するのが、
「私が存在する」ではなく、「ある他者が存在する」であることを意味しています。
そしてこのとき同時に、《私》の存在の基盤が与えられます。それは、「私」が《私》になる瞬間です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって《私》となり、
最初の「超越確実言明」を行うということです。「超越確実言明」の強度は、論理的な正しさによるものではなく、
「《私》の存在」の強度に支えられています。そして「《私》の存在」の強度は「<他者>による引き受け」によって
その力を増していきます。頑健な「超越確実言明」の上には、堅牢な「論理」を構築することができます。そのようなとき、
その論理によって構築される<言葉><価値><物語><世界>は、頑強な「個別の正しさ」を持つことになります。
 * 弱い「超越確実性言明」−
逆に、<他者>によって「厚く引き受けられない」とき、「《私》の存在」は強度を弱め、
「超越確実言明」も弱いものとなっていきます。そうすると「超越確実言明」を基盤として、
その上に<価値>や物語>をつくり上げることが難しくなってしまいます。
前に書いた、「仮面」を思い出してみてください。仮面と、その下の顔の関係です。
「仮面」が役割であり、「その下の顔」が「私は〜である」という形式の「超越確実言明」です。
芝居を上手く演じるには、ある程度その「舞台」、つまりは<世界>に
没入しないと上手くいきません。「没入できる」ということは「戻ることができる」ということが前提です。
(字数の関係でカット2010年10月19日)
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2005年10月19日(水)
1660, 「人生の実りの言葉」          読書日記
中野孝次」著の「人生の実りの言葉」がよい。その冒頭の「愛」についての言葉が胸に突き刺さる。
愛について、これだけ解りやすくストレートに語っている言葉も珍しい。 
 ーまずは、その一説を書いてみる。
1、愛について
 わたしの誕生を司った天使が言った 喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
 行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも ( ウィリアム・ブレイク )
 わたしがこの詩句を知ったのは、ドイツの作家H・E・ノサックの小説『盗まれたメロディー』を訳しているときだった。
小説の中ではこれは流行歌の歌詞としてさりげなく出されていたのだが、わたしはただちにこの言葉の魅力にとらえられた。
こんなに直戟に愛というものの性質を示した言葉があるだろうか、とおもった。
この詩句の要である”Go Love”という二つの単語を一つにしたところに、この詩のすごさがあるのである。
一方的な、自発的な、無限の無償の行為としての愛の性質が、そのことによってくっきりと描き出された。
ノサックはこの詩句の背後にはこんな思いが潜んでいるのではないかとして、
『絶望のむこう側にだけ、ひょっとすると、他人を助ける可能性があるかもしれぬ。』
という章句を書いているが、たしかにそういう冷えきった荒涼たる背景の中から
このほとばしるような命令「行きて愛せ」が発せられたような気がする。ブレイクは愛の詩人と言っていい。
 ひとの悩みを見て  自分も悲しまずに おれようか?
 ひとの嘆きを見ながら いたわり 慰めずに すまされるか? 「ひとの悲しみを」寿岳文章
そういうブレイクの生涯の思いを圧縮した言葉が、ここに引用した”Go Love”だとわたしはおもう。
こういう言葉は一度心につきささると忘れられないものになる。
そして折々に心のうちに浮かびあがって、われわれの人生をみちびく。それが真なる言葉の力だ。
 ーーーー
以上だが、この「行きて愛せ」という言葉は実に力強い。
ひさびさに素晴らしい言葉に出会った。 いま一度復唱してみようわたしの誕生を司った天使がいった
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも

つれづれに

イメージ 1

他のブログ
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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=rHjFef7Do6o
http://www.youtube.com/watch?v=4Ls4-c4gu3I

 昨日は、シネマの日。 『ゴースト・エージェント』をみる。
ハリウッドのドエライ迫力ある場面がつづくが、慣れてしまっているので、
何かが物足りない。  80点というところ。   http://ghostagent-ripd.com/

 昨日は、これまで使っていた電動アシスト自転車を、思い切って知人にやることにした。 
当初、兼用と考えていたが、数日前に久々に一時間、乗ってみたが、もう物足りないことが分かった。
誰が貰って一番喜ぶか考えたところ、バスで20分ほどのところに住んでいる男を思いついた。
あそこなら、あれば便利のはず。 でも、ボロボロの自転車。 
 家内は、「失礼ではないか」という。そこで、他の用であったおり、どうかというと、欲しいという。 
ママチャリしか乗ったことのない人は、スポーツ自転車、それも、電動アシストだけで驚くはず。 
全く、別物ということは、実際に乗って分かること。一年間、何とか乗れば、新しいのが欲しくなるはず。 
 与えたのは、「電動サイクルのスポーツのある生活」というのが理解できるかどうかだ。

・・・・・・
1660, 「人生の実りの言葉」-1
2005年10月19日(水)
中野孝次」著の「人生の実りの言葉」がよい。
その冒頭の「愛」についての言葉が胸に突き刺さる。
愛について、これだけ解りやすくストレートに語っている言葉も珍しい。
まずは、その一説を書いてみる。
 ーーーー
1、愛について

 わたしの誕生を司った天使が言った
 喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
 行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも
                 ウィリアム・ブレイク (著者訳)
 The Angel that presided o'er my birth
 Said, "Little creature, formd of Joy&Mirth
 "Go love without the help of any Thing on Earth"
 わたしがこの詩句を知ったのは、ドイツの作家H・E・ノサックの小説
『盗まれたメロディー』を訳しているときだった。
小説の中ではこれは流行歌の歌詞としてさりげなく出されていたのだが、
わたしはただちにこの言葉の魅力にとらえられた。
こんなに直戟に愛というものの性質を示した言葉があるだろうか、とおもった。
 この詩句の要である”Go Love”という二つの単語を一つにしたところに、この詩のすごさがある。
一方的な、自発的な、無限の無償の行為としての愛の性質が、そのことによってくっきりと描き出された。
ノサックはこの詩句の背後にはこんな思いが潜んでいるのではないかとして、
『絶望のむこう側にだけ、ひょっとすると、他人を助ける可能性があるかもしれぬ。』
という章句を書いているが、たしかにそういう冷えきった荒涼たる背景の中から
このほとばしるような命令「行きて愛せ」が発せられたような気がする。

 ブレイクは愛の詩人と言っていい。

 ひとの悩みを見て
 自分も悲しまずに おれようか?
 ひとの嘆きを見ながら
 いたわり 慰めずに すまされるか?     「ひとの悲しみを」寿岳文章

そういうブレイクの生涯の思いを圧縮した言葉が、ここに引用した”Go Love”だとわたしはおもう。
こういう言葉は一度心につきささると忘れられないものになる。そして折々に心のうちに浮かびあがって、
われわれの人生をみちびく。それが真なる言葉の力だ。
ーーーー
以上だが、この「行きて愛せ」という言葉は実に力強い。
ひさびさに素晴らしい言葉に出会った。いま一度復唱してみよう

わたしの誕生を司った天使がいった
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも

・・・・・
2004年10月19日(火)
1295, 地球交響曲 第四番 ー1
 先日、BS/TVで、第四番を放映していた。地球交響曲第一~第三番は、知人の紹介で(自主公演を)新潟、
長岡などの公共施設の会場で見ていた。TVでの放映は殆どされてないようだ。
このシリーズで言わんとしていることを要約すると、ー地球は、それ自体が大きな生命体であり、全ての生命、
空気、水、土などが有機的につながって生きている。これをGAIAというが、そのテーマを背景に、
この地球の素晴らしさを紹介していると同時に、環境破壊の実情を提示している。
第四番では、霊性について、以下の4人を通して、地球の賛歌を歌っている。
・ガイア理論の提唱者のジェームズ・ラブロック、
・沖縄の版画家の名嘉 睦稔
タンザニアチンパンジーの研究家の ジェーン・グドール
・そして、ハワイのさーふぁー ジェリー・ロペス である。
第四番(いや、このシリーズで)の内容を要約すると、
ー21世紀は、人類にとって“霊性”(スピリチュアリティ)が求められる時代になる。
霊性”を持たない人類の営みが、我々人類だけでなく、この地球の全生命の未来を
危うくしている。彼ら4人は、霊性に対して謙虚になるべきと説いている。
彼らの言う“霊性”とは、「自分は、母なる星ー地球(ガイア)の大きな生命の一部分として、
今ここに生かされている」力のことである。その内なる“霊性”に目覚めることによって、
人は謙虚になり、日々の出来事に対して、感謝の気持ちを持って対処できるようになる。
見えないものを見る力、聴こえない音を聴く力さえ甦ってくる。霊性は、まず自分自身を幸せにするのだ。
内なる”霊性”に目覚めるのに、旧来の宗教が必要ではない。「全ての人の中に“霊性”の芽が必ずある」
という信念、これこそ、“霊性”に目覚める無限の道が開けるのです。
それと、「この“霊性”の芽は、育まなければ開花しない」“霊性”と“自我”は同じ力の裏と表です。
人間に与えられた最大の特性です。放っておけば「自分さえ幸せであればよい」に向かいます。
だからこそ、“育む”ことが必要である。ただ、その為に簡単なマニュアルはない。
なぜなら、“霊性”は究極的には、ひとりひとりが、自分自身の力で、
自分自身のやり方で開花させてゆくものだからです。
21世紀に生まれ育つ子どもたちのために、今の私たちに何ができるか。
地球交響曲」という映画を通して、世界の何人かの人々の生き方、考え方を提示し続けたい。
彼らの生き様が、子どもたちの“霊性”を育むのに役立つか否かはわかりません。
ただ、「子どもたちの中に必ず存在する、内なる”霊性”を激励する」という強い想いを持って、
この映画を作り続けている。必ずしも、直接子どもたちに語りかける、という手法はとりません。
なぜなら、子どもたちの“霊性”を育むのは、映画そのものではなく、
子どもたちの日常に直接触れている大人たちの中の“霊性”であるからです。
このようなビジョンをもって、21世紀最初の「地球交響曲第4番」をこの4人を通して提案している。
ー以上が、龍村仁監督の主張である。見ていて、ただただ感動の連続の内容であった。
彼らの生き様と言葉が鋭く心に突き刺さってくる。地球という星に対する愛情、これは神への愛である。
次回は、ガイア理論の提唱者のジェームズ・ラブロックについて書いてみる。

・・・・・・
2003年10月19日(日)
928, 介護関係の現状
 介護関係の施設や法律を調べ始めて二ヶ月経つ。一日一日が新鮮な情報が、どんどん入ってくる。
その情報の一つ一つがパズルゲームを解くようだ。開発担当のSさんの母親が現在進行中の介護の状態である。
私も亡くなった母親が軽い老人性痴呆症になり、5年間半の介護経験を持っている。
この分野には事業チャンスがあるが、立ち上げに時間がかかる上に法律関係が各省ごとに絡んでいて躊躇する。
 ホテル業に重なるところが多いので、類推が可能なことが利点である。箱物ー建物と設備とソフトが一体に
なっている。そこを一つずつ解きほぐしていけば、意外と簡単なのだろう。まだまだ全体把握に時間がかかる。
・老齢者専門のアパート・一DKマンション・マンション
・上記の一階に介護業者と食事サービス業者をテナントで入れるもの
・本格的に介護業者を建物の中心に入れて介護を重点にするもの
・3ヶ月までは臨時に介護をするーショートステーのサービスをするもの
・昼だけをみるーデーサービス
・重度の痴呆の老人を収容する特別老人ホーム  などなどである。
 この二ヶ月間、そのタイプの殆どの施設を見てまわってみた。
難しく考えないで簡単に考えないと、頭が混乱してしまう。
ホテルの視点の切口で、参入できるかの見極めがポイントになる。
判断には最低半年から一年近くの情報収集が必要であろう。
 一昨日、柏崎で「結婚式場業者がショートステーに事業転換をする」という新聞記事を読んで、
柏崎の知人の紹介で見てきた。ブライダルの売り上げが数分の一に激減したため、転業せざるを得なかったようだ。
それでも、決断は素晴らしい。社長が付きっ切りで説明してくれた。本格的なもので3億の投資といっていた。
創業社長だから思い切った切り替えが出来たのだろう。
 いろいろ勉強になった。売り上げの激減に驚いてしまった。当方の落ち込みなど可愛いものだ。
いま世の中は私の想像を超えた変化が起っていると、この二ヶ月でつくづく思い知った。
景気の落ち込みと既成の事業の本格的崩壊だ。捨て身で、狂ったようにリストラー事業構造の転換ーをしないと、
即死をしてしまう事態といってよい。本気にならなくては生きていけない時代である。
「今更何をいっているのか!」という声が聞こえてきそうだが。

・・・・・・
554, 人生に目的はあるだろか?-2
2002年10月19日(土)
ある雑誌に、たまたま数日前に書いた[[人生の目的」について書いてあった。
まさに偶然の一致であった。京セラの会長の稲盛和夫氏の[[何のために生きるか」の一文である。
ーー人生の目的とは、心を高めることです。心を純化する。
心を浄化する。人間性を高める。人格を高める。
これが人生の目的です。
波乱万丈の現象に遭遇しながら、その現象に対処しながら、
自分の魂を磨いていくこと。それが人生の目的です。
これを具体的に言い換えると、世のため人のため尽くすことです。
世のため人のため尽くすことが人生の目的と考えてきたが、
心を高めることが、人生の目的であった。

そのために仏教の六波羅蜜の修行をしなくてはならない。
一生懸命に働くことが、利他の心を持つことが、
そのまま人生の目的になるーー

仏教的な人生の目的というところか。
果たしてそうだろうか?奇麗事でしか思えないが。
別に心など磨かなくても、知らずに磨かれているいるものだ。

心の純化などいうことは、汚れているから言いたくなるのではないか。
汚れのない若い乙女に人生の目的など必要ないことになる。
もっとも磨かなければ汚れた小母ちゃんになってしまうか。

今日死ぬ明日死ぬのギリギリの人がこれを読んだら、
そうだそうだといわない筈だ。
戦争で逃げ回っている人もそうだ。
「なにを甘ったるい事を言っていやがる」と思うであろう。

苦しい時に心の修行と思えるのは素晴らしいが。
けっして心の純化だけが目的でないはずだ。

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 [191] 種銭  
 2001/10/19
事業を興そうとした時、まず問題になるのが事業資金である。俗に言う種銭である!
これが硬くないと芯にならない。資金の芯が甘くなると、事業そのものが甘くなる。
二代目とか婿養子が事業で失敗するのが、それが解ってないケースが多い。
松下幸之助しても、中内功も出発点でそれなりに財産があった。
全くなかったのは私がしっている範囲では、山種証券を興した山崎種三と、国際興業を興した小佐野賢治と、
ニュー大谷の大谷某ぐらいだ。そのくらい種銭をつくるのが大変で時間がかかる。20歳の頃読んだ
山崎種三の自伝がおもしろかった。「米屋小僧をしていた時、鼠を捕まえて警察に持っていくと僅かな
報奨金がもらえた。米屋なのでいくらでも鼠がいる、毎日鼠とりで捕まえ警察に持って行った。
親方の許可を得て、その金でヒヨコを買った。落ちている米をヒヨコにやり育て、鶏から卵をとって、
それを金に変えこつこつ貯めた。それを元手で成長しそうな株を買った。
そうしてそれを拡大して株師になり株の取引会社までつくった」
それをよんだ時、ハッとした。父親が恐らくその話を知っていたのではと思ったからだ。