ー 「世間の捨て方」ひろさちや著 ―
   *  死ぬまでは苦しまなくちゃ
 「身内の最期の悶絶を見て、早々の安楽死を望むが、それは現象の問題と
いうことを忘れているのかも」という問いが、内から浮かび上がってきた。
悶絶の末、「もう、いいや」という諦念へのプロセスも最期の最期にはと…
考えさせられる。還暦、古希を過ぎた人には、その覚悟は出来ている?

≪ 森鴎外の次女の小堀杏奴が、こんなことを書いてました。
 鴎外の長女莉莉と次男不律が同時に百日咳にかかったときのことです。
生後半年の次男が死んで、長女も危篤になり高熱が出て、あまりに可哀そうで
見ていられないと言って、医者は「モルヒネを打ちましょうか」と提案をし、
安楽死をさせようとした。すると、医者であった鴎外は「自分もそう思う」と
同意し、奥さんも賛成、まさに注射を打とうとする時、奥さんの御父さんが
やってきて、その場面をみて、こう怒鳴ったという。
「馬鹿もの!何をやってんだ。人間はそんなに苦しかって、死ぬまで苦しまな
ければいけないのだ」 その一言で長女の命が助かりました。
鴎外はお義父さんに完璧なまでにやられました。でも、「俺も医者として
言いたい」と思ったのでしょう。その数年後に、安楽死の問題を取扱った
高瀬舟』を書いてます。…≫

▼ ハッとする問題の提示である。私は常日頃から、<駄目だとしたら、
 早々に「モルヒネ」を打って安楽死をして欲しい>と家内に言っている。
子供のケースとは、前提が全く違う。しかし、「余命3ヶ月・半年」と宣言
され、死ぬまでの間、これまで生きてきたエネルギーを使って悶絶する?
のだろうが、鴎外の義父の言った「人間はどんなに苦したって、死ぬまでは
苦しまなければいけないのだ」の言葉が杖になる? 人生経験を味わった
老人なればこその言葉である。「どんなに苦しくとも生きろ」という人生の
基本である。宗教心を持つ人間にとって当り前のことだが。神様に頂いた
命。苦しいときは苦しいまま生きるものだという真理を忘れて、どうしたら
楽になれるかを追求しがちなのが人間。しかし、「せっかく頂いた命を
面白おかしく生きる」のことも大事である。死んだ瞬間、元もと無かった
のと同じことになるのだから。

・・・・・・
5637, かわいい自分に旅させよ ー?
2016年08月21日(日)
            <『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著>
   * 芸術とは
 ここで著者は、芸術について簡潔に述べている。ツアーの行き帰りの
主要都市(ロンドン、パリ、フィレンチェ、マドリッド)にある、美術館、
博物館で、世界的名画や美術品を見て周って、感動の蓄積が多く残っている。
それが自分を大きく変えていた。大自然の絶景の感動とは別に、美がその
まま表現された芸術作品に同化しているうち、美への感動が、魂そのものを
高めてくれることを実感した。 芸術とは、本来、そういうものである。
≪ 美しいものを美しいままに表現することが芸術。
 それを「言葉」でなそうというのが文学。
さらに、それを「物語」という形式で表そうというものこそ、小説です。
理屈も何もいらない。そこに理屈を持ち込もうとしたから、芸術は退行した。
これは芸術の都に住むパリジャンの罪です。
 医学が肉体の病を癒すように、芸術は心の憂いを除くためのものであると、
僕は信じています。だからこそ芸術は尊い
 芸術家がそうした本来の使命を忘れて芸術なるものを衒い始めたときから、
アニアックな、アカデミズムの一部に成り下がった。たとえば神が作り給う
た天然のように、誰がどう見ても理屈抜きに美しいものの存在を、僕らは
見失おうとしているのではないでしょうか。
 自然は美しい。もちろん、その自然の中の人間の営みも、僕はそれらを
小説として表現するにあたり最も直截的な感情表現である「ユーモア」と
「ペーソス」を用います。それが小説家としての僕の方法だと思うから。
 僕には夢があります。
バチカンで、ルーブルで、フィレンチェで、僕は奇跡を見ました。
ミケランジェロは明らかに、古代芸術家を超えた。文明の進化とともに
衰弱する芸術家の宿命の中の、これは奇跡です。
 彼が一本の鑿で、一個の大理石の塊にうがち出した奇跡を、僕は一本の
筆で、一枚の紙に書き表したい。限りない感動を、かけがえのない美を。≫
 ▼ 美の中で、20歳前半の一瞬咲きほこった女性の美しさもナマモノ
  だからこその美しさがある。ただ、あまり話さない方が良いのが多いが。
 女性だけでない、動物の美しさもある。花の美しさもある。誰が、設計
したのだろうか。美はバランスというが、美そのものを感じ取る感覚が
見る側に必要になる。これは質量を多くコナスことで磨かれ、高めることが
可能である。「人間は何のために生まれてきた?」の答えとは、
大自然と、人間がつくり出した創造物に触れ、感動するため、生まれて
きた!」である。心の憂いで覆われ濁った、「今、ここ、私」の目の汚れを
取り除くため芸術がある。セッカク貰った命、もっともっと、味わなくては!

・・・・・・
5272,「エリック・ホッファー自伝」〜? 『希望より勇気を』
2015年08月21日(金)
            「エリック・ホッファー自伝」中本義彦訳
   * ホッファーが生きた時代背景と、弱者
 ホッファーは、自分の生きた時代背景と、そこに適応出来ない人々の
精神状態が、いかなるものか?を、自身をそこに置くことで詳細に観察した。
当時は、現在の断絶の時代に酷似しているようだ。情報機器を使いこなせない
中高年たちは、情報段差に呆然とするしかない。それでも、タブレット
スマホの普及がフォローをしてはいるが。物理的な金銭に加え、現在は
情報格差の問題が加わっている。  
≪ ホッファーが分析の対象としたのは、何よりも同時代の「気質」であり、
 そこに生きる人々の「精神状態」であった。近代人は、長きにわたって拘束
された神から逃れ、ようやく自由を手に入れたものの、今度は、
「かれ自身の魂の救済を、しかも四六時中、行なわねばならなくなった」。
自らに対して、そして社会に対して、自らの価値を日々証明し、自らの存在を
理由づけなければならなくなった。 これは容易ではないし、絶え間なく変化
する社会に生きる一個の人間にとっては途轍もない重荷である。
われわれは、往々にして、自分自身に満足できず、「自己自身と異なったもの」
になりたいと熱望する。そして、「真に欲していて、それを持つことができない
ものの代用品」を追求して多忙をきわめる。好ましからざる自己から自分を
引ぎ離し、文字通り「心を亡くそう」と試みる。かくて、「人生のあらゆる
部門に熱狂の噴出がある」のであり、「社会組織そのものが、一般に、心の病
に冒されやすい、すぐ燃えやすい体質になってしまった」とホッファーは洞察。
本書に鮮やかに描かれているように、この簡潔で力強い分析の源泉は、
彼自身の浮浪者としての原初的な生活の中にあった。
「金がつきたらまた仕事に戻らなければならない」生活に自殺未遂をするほど
うんざりしながらも、それを克服して「旅としての人生」を生き抜いていく
ホッファー、その彼は、季節労働者キャンプでのささいな出来事から、
自分も他ならぬその一員の「社会に適応しえぬ者たち」に興味を抱き始める。
そして、彼ら固有の自己嫌悪が放出する「生存競争よりもはるかに強い
エネルギー」こそが、人間の運命を形作るうえで支配的な役割を果たしている
のであり、「弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する」ことが、
人間の独自性であるという洞察に到達するのである。
 ここで本書の歴史的な背景に少し目を転じてみると、ホッファーは
路上にあった1930年のカリフォルニアには、浮浪者がかなりたくさんいた。
F・L・アレンの『ジンス・イエズタディ』(1939年)が記している、その原因
のひとつは、テキサス州からカナダ国境から大平原地帯で起きた異常気象。
1933年から二年余りにもわたって無数の嵐が起こり、過度の放牧で荒廃した
広大な地域で大量の砂が吹き上げられた。大恐慌ですでに苦境にあった。
この「黒い大吹雪」と大洪水によって、決定的な打撃を受ける。
 農業の崩壊は、町を衰退させ、住民は、「約束の地」西部へと逃れる。
そして、ホッファーと同年生まれのスタインベックが『怒りのぶどう』
(1939年)で鮮烈に描いたあの苦難を経験したのである。
「普通の安定した地位に留まることができず、社会の下水路へ押し流された人々」、
「居心地のよい家を捨てて荒野に向かった者たち」こうした人々の内面に欝屈する
「こんなはずではない」という不満と「別の人間になりたい」という変身願望を、
ホッファーは折に触れて感じていたのかもしれない。そして、自分の内面を
厳しく見つめ、自分が存在する歴史的世界を認識することによってこそ、
あの近代人の「情熱的な精神状態」を見抜くことができたのであろう。
 人間の抱く"情熱"の現実を見ようとしたホッファーは、常にその両面性を
指摘した思索者でもあった。われわれは、まずもって、情熱的な精神を
「創造の新秩序の発生」として見なければならない。情熱のない人間など、
その独自性を放棄した存在に等しい。しかし、同時に、それが「退行化」
そして死をも辞さない狂信になることに絶えず警戒を怠ってはならない。
 この世の悪を絶滅しようとする宗教的、民族的・イデオロギー的な熱狂の
罠に陥ってはならない。そもそも「山を動かす技術があるところでは、
山を動かす信仰は要らない」のである。
 情熱を飼いならし、加工し、創造的なカへと変容させること ーそれは、
きわめて困難な作業である。「抵抗しがたい渇望」は突然襲ってくるもの。
 しかし、われわれは、「希望」より「勇気」をもって、それをやり抜かねば
ならないのだとホッファーは訴える。自己欺隔なくして希望はないが、勇気は
理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は
長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それを
やり遂げるには勇気がいる。闘いに勝ち、大陸を耕し、国を建設するには、
勇気が必要だ。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の
存在になるのである。≫
▼ 考えさせられる内容である。時代に合わせ、自分を変えてるリスクと勇気
 こそが激動の世に求められる。それは常に不安定が伴うが、それを観察し、
楽しめる精神の強さが求められる。現在は、「情報革命による断絶の時代」。
『勇気』こそが、時代を切開くキーワード。人生を創造していく勇気!である。
・・・・・・
4907,ホントに大事なお金の話 −5
2014年08月21日(木)
  * 真のお金持ちは紙袋を持つ
 元ネタは、プレジデントオンラインー2010年8月頃の記事
              『なぜお金持ちは紙袋を持つのか?』
  ー面白いと思った部分の要約をするとー
◎ お金持ちはなぜ紙袋を好むのか? 彼らは紙袋で移動してもOKだからだ。
 運転手付きの車、タクシー移動とドアtoドアで雨にも濡れない。
 だから紙袋でも平気。必要なくなれば折りたたむことも、処分することも
 できる紙袋が、一番使い勝手がいい。
◎「海外ではいい時計や靴がセレブの証だ」というが、本当のお金持ちに
 とって、それも無意味。なぜなら予約の際すでに彼らの身分は割れている。
 お金持ちは決して粗雑に扱われないルートで予約するし、定宿は決まっている。
 一流ホテルとなれば、常連の顧客の顔を覚えていないわけがない。安い時計に
 スーパーで買ったシャツでも、彼が歓待されるのはそういうわけがある。
◎ ブランドショップにもいない。ものを買うなら知り合いから少しでも
 安いものを買うのが基本。
◎ さらにお金持ちは「ブラックカード」や「プラチナカード」も持たない。
「ゴールド」ですら必要ない。「年会費がバカ高くてもったいない、普通の
 カードで十分」。必要な局面ではコネがあるので優遇されるし、不必要な
 場所で自分がお金持ちであることを、ことさら触れまわるのはリスクが大きい。
◎ また彼らは絶対に見栄を張らない。元もと、「お金持ち」であることを人に
 知らせる必要がない。ランチは1円まで割り勘。でも慈善事業に多額の寄付を
 している。使い切れないお金を持てる人は、それに振りまわされない独自の
 価値観をしっかり持っている。見栄を張ると無駄な出費も多くなります。
 本当のお金持ちは絶対に見栄を張らない
▼ ここで著者がいう本当の金持ちは、上の上の人たち。百億以上の資産を
持つ人たち。上の中といえば、純資産が10億以上。上の下が1〜2億。 
上の下から上の中ギリギリが、その嫌らしさが現れ出てくる。知識同様、
その辺りの「似非」が金持ちを演じたがる!金持ちのラインは10億の現金か、
純資産である。 47年前の学生時代に、一ヶ月間の大名旅行をした時、
ここでいう大金持ち?の子弟が多くいた。 身なりからして違う人種。しかし
お金には、非常に敏感で細かい。何気ないオシャレでブランド品をさり気なく
着こなしていた。見栄を張るのは一部の人たちのみで、開放的でフレンドリー。
漂う空気からして、それまでの友人とは違っていた。周囲の思惑など気にしない
で、紙袋などを平気で、何処にでも持って行く。その紙袋が実にセンスが良いが。
こういう存在を身近で見る初めての機会だった。 当時、その段差を、さほど
意識はしなかったが、現在、考えると、上記の通り。
時おり海外ツアーで、それらしき人を見かけるが、まずユニクロを着ている
ことを隠さない。アンダーとして割切っている。元もと隠す必要がない。
ブランド品を着ること自体、自分のセンスに自信がないため、ブランドで、
それを覆い隠すしかない。 TVドラマで、セレブ世界のドロドロした社会が
出てくるが、その世界を知らない人が演出したものとしか思えない。実際は、
あんなものではない。それぞれ独自の価値観を持って振り回されない人が殆ど。
この一連の経験から見えたのは、それぞれ独自の価値観の質の格差。 
その視点の質は、隠せないようだ。 
・・・・・・
4540, 「ひとり」には、覚悟から生まれた強さがある ー2
2013年08月21日(水)
  * TVが比較地獄をつくった  「ひとり達人のススメ」山折哲雄
 まずは、ひとりになれない人たち、B層の人たちの比較地獄の話。 
自分の頭で考えることが出来ず、マスコミに流されていること自体、気づかない
人たち。ファッション、化粧、車、スマートフォンなどメーカーの比較戦略の
術中に嵌ってしまう。人間の性としてのコンプレックスこそが狙い目で刺激する。
ファッションのプロと称するオカマが、街頭で女性に声をかけ、服装のセンスを
チェックするお笑いコーナーとか、健康チェック、英会話など番組が続く。
そのTVの弊害の結果、「ひとり」になれない比較、嫉妬地獄の罪人のような
群衆のひとりにされている。 ーその辺りを、抜粋するー
《 戦後の変化といえぽ、テレビ文化の波及もひとつ。家庭の娯楽の主役が
ラジオからテレビへと移り変わり、映像が強大な影響力を持つようになりました。
テレビというのは視覚を重規したメディアです。そして、現代人は視覚を
重要視し、視覚に振りまわされるようになった。もちろん、人は基本的に、
朝起さてから夜寝るまで、目を開けています。たえず視覚を使い眼前にある
何ものかを見て、さまざま判断をしている。もし、ひとりが嫌いで、常に誰かと
一緒にいるとすると、どういうことが起きるのか。視覚は人間を比較に誘います。
この人は(自分より)いい服を着ている、あの人は(自分より)容姿が整っている… 
 視覚で判断すると、要望や才能、環境などの違いが歴然とします。そのことに
耐えられない人が多いはず。人間は平等、平等と教えられてきたにもかかわらず、
現実を見ると、何から何まで違う。だからひとりになれない人間、結局は比較
地獄に陥る。たえず他人と自分を比鮫せずにはいられない。比鮫して、自分が
劣っていても、現実はどうすることもでません。すると恨みがつのって、
「嫉妬地獄」に移行してしまいます。さらに批難や中傷、陰口の井戸端会議で、
自分より優れていると判断した人を引きずり下ろそうとする。このような、
群れの関係がしばしば陥りがちな「嫉妬地献」から身を守るためにも、
ひとりの時間は大切だと思うのです。  》
▼ 私が地元に帰ってきて、まず決めたことは、学校関係以外の人間関係を
 最小にすること。商業界とか、ライオンズとか銀行が主催する「何何会」
とかは、まさに比較地獄の世界。町内、寺の檀家衆、商店会とかには「ひとり」
になれないB層がC層を中心にした輪があって、住みやすい絆がある。
そう、NHK連続TV小説のコメディの東北の、あの街の人たち。実態は、
あれは地獄の針のむしろに座っているようなもの。都会人が思い抱いた地方の
理想郷、妄想である。地方経済は疲労困憊の結果、若者は都会に出ていくしか
なくなっている。絆は、一人一人が確立されて出来るもの。その逆の弊害を
TVが数十年かけて作り上げてしまった。それから逃れるためには、
ライフワークを持つしかない! それがA層とB層の境目の目安である。
それさえ持っていれば、比較とか嫉妬に陥ることが少なく済む。TVも、
シネマも、ネット、面白くなっている。これでは、比較材料の垂れ流しで
「ひとり」になれない人たちの嫉妬地獄の修羅場が、ますます拡大していく! 
「和して同ぜず」なら良いが、「同じて、和せず」になる。アウトサイダーは、
「和せず同ぜず」になるが、インサイダーとして、何処かの高校の校是に
「和して同ぜず」があるが、「ひとり」が鍵になる。

つれづれに

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  今日のYoutube

 今夜は同級会がある。自宅から歩いて7~8分のところの会場
なので助かる。これで今年に入って3回目になる。泊りこみの同級会の
幹事会だが、本会の方は欠席予定。黙って酒を飲んで帰ってくる予定だが。

 


・・・・・・
・・・・・・

4165, 閑話小題 ー今年の熱さ対策
2012年08月21日(火)

   * 今年の熱さ対策
 今年は当初は熱暑だった。しかし7月末辺りから暑さも収まってきたが再び盆からぶり返してきた。
ひと月前にミニサイズの扇風機二台を買ってきて、居間と書斎に一台ずつ置き、これまでの古い扇風機
と併用して使っている。それにスーパーで売っていた「冷却ジェルパック首もとベルト」を3つを
冷凍庫で冷やし交互に使っている。これは冷たさが一時間しかもたないが、冷却時間が三時間のため
複数必要になる。 ところで今年の電力不足騒ぎ、今のところ起きてない。問題は残暑のこれからになるが。
クーラーは寝室の就寝時間だけ入れて、居間では夕方の一時間ぐらい入れている。
夏場の電気料金が月に三万円、一日千円になる。
   * 大手大橋にて
 先週土曜日の早朝、何時ものようにポタリング(ミニ・サイクリング)の大手大橋で、ヒキチャリを
しながら歩いていると、後ろから声をかけたれた。車椅子に乗った隻手の男性で、恐らく交通事故で右腕を
根元から切断、下半身麻痺で自走式車椅子である。私の電動アシスト自転車に興味を持ち声をかけてきた。
電動アシスト自転車が如何に良いか説明すると、自分の車椅子が電動切替え式で、背後に電動モーターが
ついていて時速6キロという。何度か薄暗い中、かなりのスピードで走っているのを見たことがあった。
人それぞれの運命と人生がある。 ところが昨日の朝、いつものコースの信濃川の土手を走行していると、
屋根つきの休憩所で、30歳前後の男女二人が、その電動の車椅子を畳んでいた。本人は不在で、まさか
聞く訳もいかないし、そのまま遣りすごしたが。その前に何か(熱中症とか?) あったのだろう。
ポタリングを始めて4年目になるが、続けていると色いろある。そういえば、雀が少なくなった。
去年の大雨で河川敷の雑草地に水が使ったせいだろうか。燕も少なくなった。多いのはカラスだけ。   
 ・・・・・・
3800, 人間の五感が認知できる範囲を世界という
2011年08月21日(日)
                「知的余生の方法」渡部昇一著 ~2
  * 人間は世界内存在である
 第二の人生は、その世界内存在の隅に足を入れたことでもある。隅から逆視線で世界内を見直すと、
これまで見えてこなかった、世界内存在の皺と虫が不思議に思えるぐらいに奇妙に見えてくる。
なるほど悲劇と喜劇は裏表とか、善悪の基準のいい加減さとかが。学生時代あたりから、この辺のこと、
「現象に現れていることと、本当のことは、違う」ことをゼミなどで少しだが分かっていた。
だから、「学び続けていないと、大きな転換期に対応できなくなってしまう」危機感が人一倍あったが、
最期は、このザマ。それでも、最悪の事態の備え、家族を事業に入れないとか、家内と私の通帳管理は
全く別にしておくとか、家内にも厚生年金を別口でかけておくとか(退職金や、倒産時の失業保険は
ないため)一般の勤め人とは違ったリスク管理をしてあった。それをもって勤め人の立場からすると、
計画倒産というらしい。
【「人間は世界内存在である」という場合の「世界」というのは、人間の五感が認知できる世界と
いうことになる。縦、横、深さの他に時間をいれてもせいぜい四次元の世界である。五次元、六次元
の世界がどのようなものであるかは想像すらできない。音も光も人間が五感で認識できる周波数の
範囲は限られている。それは、象の皮膚の襞の中の寄生虫には星が存在せず、梅の香が存在しない
ようなものではないか。人間は五官の世界に閉じ込められていて、これから逃れる方法はない。 
この状況を「人間の世界内脱出不可能性」というらしい。人間は象の皮膚の嫉につく寄生虫とは違う。
人間は自分が五官の世界内に存在していることを知りながら、そこから脱出しようという努力をしたり、
脱出することを、祈ったりするからである。そしてそれに成功している人もあると主張する人もいる。
それがオカルトである。オカルトとは、つまり五官と時間の囲い込みを超越しているという意味である。
どの宗教の神様も人間の世界内に閉じ込められてはいない存在だ。だから有難いのである。神様とは
いかないまでも、超能力があるという人もある。ある宗教家には私の前世がわかるという。
私の霊魂は在原業平ベンジャミン・フランクリンのそれだったという。二人とも私が好きな人であり
尊敬する人でもあるから悪い気はしないので、それを信ずるわけでないが、有難く承っている。
こういう認識の仕方は、人間の世界内存在の状況を完全に超越しているわけである。普通の人間は
解剖学的制限の下にある。これを哲学的に言えば、「世界内存在」の実体である。だから解剖学者は
オカルトの世界を認めない人が多い。霊魂だとか超能力などは、人間をいくら解剖し、いかにすぐれた
顕微鏡や検査法を用いても存在をつきとめられるわけではないからだ。】
― 
▼ ビックバンが起こって宇宙ができたというが、それは世界内というのか、それを人間の知識が
 感知した範囲でしかないから、人間は世界内存在というのか、どうか。インドのカースト制度
それぞれの身分に世界があり、最下位にも、チャンとした目下がいる。世界は、それぞれの視界内の
ことになる。 この情報化、世界中の寄生虫が、他の寄生虫と瞬時に情報交換が可能になってきた。
・・・・・・・
3435, 再び、死について考えてみる ー3
2010年08月21日(土)
 新聞広告に「死ぬときに後悔すること」の幾つかが載っていた。直接、死とは関係ないが
  死際の後悔は事前に準備で少なくできる。 面白そうなのでネットを調べてみた。
  ーアマゾンの「死ぬときに後悔すること25」の紹介文よりー
《 ほとんどの人は死を前にすると後悔するという― では、人生の最期を前に、どのようなことに
 後悔するのか。 本書は、終末期医療の専門家である著者が、千人を越す患者たちの吐露した
「やり残したこと」を25に集約し紹介。この本の著者は1000人の死を見届けた終末期医療の専門家。
 死に直面した時でも充実した生き方をして生ききったら、『この世に未練はない!』の境地に
なれそうである。》
   =「死ぬときに後悔すること25」のうち20に絞って記した。
▲1 健康を大切にしなかったこと ●病気になる前にお金を使うか、なってから使うか 
   ●健康のうちから健康を大切にする
○3 生前の意思を示さなかったこと ●大切なのは遠慮なく話し合うこと ●平素から意思疎通をしておく
◎5 自分のやりたいことをやらなかったこと ●自分の気持ちに嘘をつかない  
   ●自由に生きるか、忍耐に生きるか
○6 夢をかなえられなかったこと       ●一つのことを続けると良いことがある   
○8 感情に振り回された一生を過ごしたこと  ●小事に心を揺るがせないことが大事
?9 他人に優しくなれなかったこと      ●優しさを行う難しさ  心の優しい人は後悔が少ない
?11 遺産をどうするかを決めなかったこと  ●遺産と介護の問題 ●遺産分与の話し合いは元気なうちに
?12 自分の葬儀を考えなかったこと ●自分の望む葬式とはどういうものか●自らの葬儀を準備した女性
◎14 美味しいものを食べておかなかったこと   ●好きなものを楽しく食べる
◎15 仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと ●「仕事命」の人生を後悔しないために
                         ●病気をきっかけに散歩の喜びを知った
◎16 行きたい場所に旅行しなかったこと   ●旅行は出来るうちにしておくほうが良い 
                       ●最期の旅で人生を完結させた人たち
◎17 会いたい人に会っておかなかったこと ●人は終わりまで他者を求めるもの 
                      ●人との出会いは一期一会の精神で
?18 記憶に残る恋愛をしなかったこと ●恋愛の記憶は最後の日々を豊饒にする ●スローラブのすすめ
○19 結婚をしなかったこと ●結婚という「形」がもたらす安心感 ●夫婦の深い結びつきが苦しみを和らげる
○20 子供を育てなかったこと ●多くの家族に囲まれた患者には笑顔が多い ●自由と孤独はいつも隣り合わせ
?21 子供を結婚させなかったこと ●子供が結婚していないという心残り●まず子供を独り立ちさせるところから
◎22 自分の生きた証を残さなかったこと ●人生の総括は早めにしておくほうがいい●生きた証として何を残すか
                     ●手紙に思いの託して
◎23 生と死の問題を乗り越えられなかったこと ●生の意味、死の意味を考える ●「マイ哲学」を確立する
○24 神仏の教えをしらなかったこと  ●世界で一番死を恐れる現代日本人 ●「来世」の持つ癒しの力
                    ●健康なうち宗教について考える
○25 愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと  ●家族愛が問われる時代
 ~~
×▲○◎は、私自身の評価である。第三者の評価は違っているのだろうが、死ぬときの心の問題の自己評価。
×と▲が少ないのに驚いているが、普通に生きていれば?、こんなものか! 唯一の▲は酒の飲みすぎ!
・・・・・・
3060,逆説思考 ー4
2009年08月21日(金)
  逆説思考で思い出したことがある。
武澤ゼミの武澤信一先生に中根千恵著「縦社会の人間関係」の読書と、その感想を述べる課題が与えられた。
その前年の昭和42年に出版されて注目された本で、日本社会の特性をズバリついた内容。
現在でも日本社会を知る名著として知られている。 ーその概要をネットで調べてみると
《今では、常識になっている縦社会(日本)、横社会(西欧)という概念を最初に提示した古典的な本。
 初版本は昭和42年であるが、今でも現代の日本社会に当てはまる内容である。逆にいうと、それほど日本
 社会における普遍的な構造を捉えた本と言う事ができる。 本書によると、社会集団の構成の要因を、資格
 (構成員に共通したもの、例えば、氏、素性、学歴:出身大学、地位、職業、資本家、労働者、など)に
 よるものと 場(一定の職業集団、所属機関、地域)によるものに分類し、どちらの要因で社会構造が構成
 されているかで、社会が特徴づけられている。日本は場により構成される社会であり、その中での順序:通常
 は年功序列、が重要な縦社会である。日本のような縦社会は、分業が成り立たない社会(競合メーカーは
 フルセット戦略をとりがち)、能力平等という非現実的な事柄を前提とした悪平等社会、中央集権の政治構造を
 持つ社会、派閥の功罪の生じる社会、である。 一見すると縦社会であるということとの因果関係がわかり
 にくいような現象についても、縦社会という社会構造が原因であると、分かりやすく説明されている。 
 また、契約精神の欠如のために、共通の目的・仕事の達成に責任感が乏しく、往々にして、
 それ以上に感情的な人間関係が重要視される社会である。》
▼ 以上だが、年功序列・終身雇用を前提とした日本社会の人間関係について社会人類学の観点から論じている。
日本社会はタコツボ社会とも喩えられ、現在の中央省庁の官僚機構も、それぞれ独立性が強すぎて国家運営の
障害になっている。 
  (字数の関係でカット11年8月21日)
 ・・・・・・・・・
2695, 「レンタルの思想」-3
2008年08月21日(木)
「レンタルの思想」を、私の理解したレベルで、まとめてみよう。
ー以下は、思いのまま書いた内容で修正を敢えてしなかったー
《地球システムを構成しているのは、大気圏、その中の物質圏、その中の生物圏、そして、更に一万年前に
出来た人間圏である。それまでの生物圏で採取、狩猟で生きてきた人間が、牧畜・農業を始めたことで、爆発的
な人口増加を可能にした。そして5000年前から始る各地の文明は一万年前の牧蓄・農業への転換と、その結果と
しての人口の爆発的増加から始っている。人間が狩猟に留まっていれば、せいぜい5~600万の人口が限度であった。
それが、その1000倍を超えた現在、地球のシステムは、人間圏を支えることが出来ない相転移点の水が氷、
水蒸気に変化すること)に、達っしてしまった。現在の天変地異や、エイズ鳥インフルエンザなどの世界の混乱は、
その一現象である。我々は、人間圏からみた哲学的人間観、生物的人間観だけでなく、宇宙から俯瞰した地球システム
の中の人間圏の中の人間観を改めて作らなければならない。 ここで、一万年前から始った牧蓄・農業のもととなる
所有という欲望を、見直さなければならない。 それは、地球上の自然だけでなく、土地、そして我々人間すら、
地球からの借り物=レンタルという視点である。地球システムは、このまま人間圏が膨張し、地球を汚染、破壊し
続けると、人間圏に対してマイナスのエネルギーを発することになる。いや、既に発している。それがミャンマー
のサイクロンであり、エイズであり、鳥インフルエンザであり、世界各地で起きている大地震である。それを解決
するヒントの一つが江戸時代にある。江戸時代の支配階級の武士社会は、武士階級の土地の所有を認めなかった。
更に江戸時代の消費をするものの大部分が有機物の植物であった。
それは、自然循環するもので、廃棄物そのものが、殆ど出ないもので賄われていた。》 
  ~~
  以上が、私が著者のー地球をすくう「レンタルの思想」ーから理解した概要である。著者は対談の中で、
インターネット社会は、地球外から俯瞰して考えてみると、危ないという。情報が均質化され、個々人が過剰に
主体的になりすぎるからである。それが進むと、ビッグバンの状態に近い、混沌状態が生まれて、何が起きるか
解らない事態になる。これは、実感として解る。 現在の社会問題の多くは、これを起因しているといってよい。
この本を読み返し、そしてネット上で、彼のインタビューや、彼の著書の評論を読みながら、考えているが、
深い大きな示唆が提示されている。人生観や信条が根こそぎ揺らぎだしてさえいる。考え出して僅か一週間で、
根っこが揺らぐのだから、私も知れたものだが、それだけのインパクトがある。この百年の人口増加の比率が、
今後3000年続くと、地球の体積と人間の体積が同じになるという。それだけ20世紀は、人口が爆発的に
増えてしまった。その一部の文明国?先進国が化石燃料を使い込んだため、その汚染で地球システムは崩壊を
始めたのである。僅か100年で、地球が数十億年かけて創りあげてきたシステムを根こそぎ破壊したのである。
この狂った猿は、「一人の人間の生命の重さは、地球より重い」と、のたまっていたのである。隣の国では、
狂った独裁者が今だ存在をして、将軍様と名乗り国を乗っ取っている。しかし内向きという点では下手な資本
主義より、地球のシステムにとって良いのかもしれない。オウム教を肯定するのではないが、視点は宇宙から。 
オームとは、宇宙からの音波の音である。地球システムに人間は従うべき?という思想があるかどうかわから
ないが、一度修行で、宇宙に出て、再び現生を見直すことに関しては否定は出来ない。インターネットという、
人類にとって一万年、いや十万年スパンの、とてつもない手段を手に入れた人間は、時を同じくして地球
システムの破壊という大失態をしてしまった。以上だが、なるほどと、改めて納得する。図書館で借りた本
だが、他の著書と同時にアマゾンで発注をした。
  ー次は、印象に残ったの対談の内容を書いてみる。
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2007年08月21日(火)
2331, 「ぼくの血となり肉となった500冊」ー2
                     (*'▽'*)/☆゜'Good☆Morning   -読書日記         
「ハエとハエとり壺」は、哲学の意味の説明に解りやすい喩えである。
道理さえ解れば何とことがないが、知らない当人にとっては道理の存在があることすら解らない。
還暦過ぎたり、死の間際になって気づくことも、若いときに少し考えれば解ることばかり。
それが教養ということなのだろうが、若いときは人生経験が浅いので如何してもディズニーランドの
キャラクターのように頭でっかちになってしまう。しかし、それでもよいから教養を身につけること
こそ必要である。                   
 ーヴェド・メータ著『ハエとハエとり壼』ーの斬新さ
立花隆
 (字数の関係でカット09年8月21日)
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2006年08月21日(月)
1966.事業百訓・・・? 事業百訓ー1987年・1988年(4)
 ーS6201新年をむかえて
(字数の関係でカット2010年8月21日)
ーS6209事業百訓ー
 “宇宙と地球と人類”を大雑握にとらえまとめてみると-
? 我々の宇宙は百二〇~百五〇億年前にラグビーボール大の素粒子がビック・バンにより生じた。
? そのひろがりは(a)二千億の太陽で一つの宇宙(銀河系)を形成
          (b)その銀河が百億存在しているところまで確認され
? 地球誕生は四十五億年前であり、太陽のまわりの細かい隕石がぶつかりあって拡大して生じたも
 (字数の関係でカット12年8月21日)
事業百訓ー1986年(5)
ーS6101新年にあたりー
 (字数の関係でカット08年8月21日)
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事業百訓ー1988年ーS6303 
  魂の色は何色
 5才の時、一年間牧師が毎週家庭に説教に来ていた時の事である。牧師の質問が
“魂の色は何色ですか?”であった。姉兄等は当然答えられず、最後に私のところにきた。一瞬考えた
後の私の答が“魂の色は顔色”であった。牧師と両親のその時の驚きを、今でもはっきり記憶しています。
そこであの時の牧師の用意していた答は何だったのか、T氏と酒をのみながら話し合った事があるのですが、
結論はでずじまいでした。その時のT氏は“白光色”。私はおそらく“虹色”ではないかという意見だった。
もちろんこの話にはオチがつきます。五才の子供にこの言葉の意味がわかる訳がなく、肌色という意味で
顔色という単語がでたのがそのタネあかしです。しかし絶妙のタイミングで、絶妙な答であった事は事実でした。
の私にこれ以上の“答”をだす事は不可能です。せいぜい“目の色”“音色(ねいろ)”“夢色”“十人十色”。
でも本当にすばらしい答は“肌色”かもしれません。
 ーS6305ー 新井石龍禅師に学んだ事 ー1
 学生時代に、父と禅師が親交があり、実家泊りに来ていただいた事等の因縁で、六日町の禅寺“雲頓庵”
に読書を兼ね春・夏休みになると滞在させていただいていた。度々なので自然と禅師と話をさせていただく
機会が多々あった。無知と若さの為平気で生意気な質問をした私にいつも笑顔で答えていただいた事が、
今では懐しい思い出になっています。
 (私) -禅とは一言で言うと何ですか?
 (禅師) -字の通り天地宇宙に己の単(一人)である事を示す(気づく)事。
社会に出て半年あまりで気負いすぎで早くも行き詰まり、五日間の夏休みでの雲頓庵の禅師との対話 
( 私) -世間と理屈は違う。理屈どおりに世の中いかなという事がつくづくわかりました。
(禅師) -あなたの理屈がおかしいだけ、世の中は厳しくも甘くもない。世間も理屈もあるものか!
(厳しく感じたのは自分自身そのものが甘いだけ)。
後者の時は頭を真二ツにわられてしまったというのが実感でした。頭で物事を考えていた私が、“自分が”
前に出ていた私が、その時点でたたきこわされ、社会人の一員にやっと一歩踏み入った瞬間でした。
 ーS6307ー 人生は雷光なり
 二人で二百才になろうという人の対談の中で、過去百年をふりかえり、実感として
“人生は雷光のようなものだ”
               以下字数の関係でカット2008年8月20日