チベット研究の現状とデータベース作成   煎本 孝

 地域研究、人類学研究、さらには人文・社会科学研究としてのチベット研究にとり、現在の研究動向と情報の把握は必須である。本稿では、2009年12月2‐6日、フィラデルフィアにおいて開催されたアメリカ人類学協会年次大会(American Anthropological Association, 108th Annual Meeting)におけるチベット関係の研究発表論文の分析を行い、さらに今後のチベット研究に関するデータベースの作成の必要性について述べる。
 研究大会における3,462件の論文発表、561件の分科会の中で、チベット関係の研究発表は19件、分科会は2件であり、その割合は人類学全体の中で決して大きくはない(この内、1件はポスター発表であり、4件の論文発表は1件の分科会に含まれている)(表1)。チベットに関する一般的関心が必ずしも薄れているわけではないにもかかわらず、チベットと中国との間の政治的状況の膠着状態、さらにはアメリカ人類学の関心がアメリカ社会そのものへと移転していることから、チベット研究はより分散的になってきているという印象を受ける。もっとも、これはアメリカ人類学が現在、社会科学のさまざまなテーマへと関心を広げ分散しているという状況に対応していると解釈することもできよう。
 2つある分科会の1つは「チベット仏教の景観を探査する:今日のチベット仏教における巡礼と聖なる空間」という題目のもとに、「ベーユル クンブの写像シェルパの聖なる景観の認知」、「隠された地への旅:チベットの社会‐宗教的文脈における隠された地、ペマ コーの口頭と文字による物語の分析」、「神聖なクシナガル、再生するクシナガル:ブッダの死の地のチベット仏教徒の生」、「金と陶磁のタイル:巡礼と新しい仏教徒の聖なる建築」など、チベット仏教を「景観」という具体的な空間に結びつけて分析するものである。これは、景観という現在の文化人類学の流行概念に沿った今日のチベット仏教の社会‐文化的考察となっている。
 もう1つの分科会は「チベット:抵抗の時における人類学者」というものである。この分科会は6名の討論者(1名のアメリカ在住チベット人と1名の台湾人を含む5名のアメリカの大学に所属する研究者)による討論形式の意見発表の場となっており、2008年春に中国で起きた大規模なチベット人による抗議活動を中心に、人類学者が現地のチベット人、中国政府、そして他の人類学者たちと対話するための最良の方法は何かということについて検討するものであった。結論は、できる限りの情報を世界と中国国内に向けて発信することという民主主義社会においては当然という印象を与えるものであったが、アメリカの人類学者による社会的義務の実践という姿勢が感じられるものであった。なお、これと関連する1件のポスター発表では「技術的グローバル化と抵抗の帰属性:社会変化のための言語と技術の新しい使用を探査する」という題目のもと、国際的に情報を発信するためのインターネットの有用性が提示されている。
 上記のチベット関係の分科会以外の論文発表は、さまざまな題目のもとでの分科会にそれぞれ分散するものであった。たとえば、「ヒマラヤの移動性」という論文は、「(非)移動性の理論化:新超物語の人類学的解釈」と題する分科会の1つとして、ヒマラヤ地域における従来の(非)移動性という二分法が、両者の間の相互に生産的な関係を曲解する解釈的重要性を想定していたことに対する疑問を提議している。ここでは、人類学的理論検証のためにチベット人を含むヒマラヤ地域の諸民族が取り上げられているということになる。
 文化をめぐるグローバル化と地方性の問題を扱ったものとして、「集合的景観:西南中国における茶、道、空間的帰属性」と題される論文は、「結びつけられる景観:東および東南アジアにおける場所形成の連絡網と遭遇」分科会に含まれる。ここでは、1990年に中国人研究者チームにより名づけられたチベットと西南中国とを結ぶ歴史的交易路である茶馬古道が、新自由主義市場経済、ポスト社会主義的国家統治、そして地方的民族的少数者の日々の実践の間の複雑なもつれあいを結びつける複合した空間的帰属性を表わすことが、アメリカの大学に所属する漢人により論じられている。また、「地方人と国際人:混成的地方性の産出」分科会において、「コンクリート(具体的)理解:新しいゲストハウスの建築におけるラダッキの建築伝統」と題する発表が見られ、ゲストハウスの建築は観光客向けの材料や形態が用いられながらも、同時に現地の人々にとっての地方的特徴のある居住のための建物であり、生活の実践が保持されるものであることが述べられている。同様に「北アメリカとチベットにおけるグローバル化、認識論的困惑、治療」と題される論文は、「医学の多元性:治療における政治、美学、想像力」分科会において発表され、西洋における医学をめぐる認識論的困惑がチベット仏教医学における心と身体の治療と対照させられながら論じられている。さらに、「西南中国におけるダムと開発:雲南少数民族のための考察」という論文は、「土地固有の人々、環境プロジェクトと人類学的調停」分科会に含まれ、現在、大規模に進められている水力発電用ダム・プロジェクトの少数民族文化への影響が論じられている。同様に、「強奪の軸:南アジアにおける紛争、帰属性、自由主義経済」分科会においては、「インド‐中国‐ネパール国境地帯における強奪、地理的盲点、結合力のための探索」と題する論文において、近年のネパールとチベットを結ぶ高速道路の建設により、地理的盲点となる伝統的な交易路からはずれる町の試練が論じられる。
 チベット社会内部の文化的伝統と変化に焦点を合わせたものとして、「秘密の見せ物:チベット人亡命者における神託的儀礼政治学」と題される論文は、「見せ物の政治学」分科会で発表され、ダライラマのすなわちチベット亡命政府の要請により秘密裡にネチュン神により演じられ、見せ物的政治をもたらす神託的儀礼の分析に関するものである。この論理は、儀礼の演出が集団的チベットのカルマ(業)を増進させ、それが潜在的に幸運の集団的経験、すなわち中国との好結果の話し合いや「本物の自治」などをもたらす、というものである。さらに、この見せ物と政治学の核心は想像的模倣であり、悟りの境地の想像的模倣がこの境地を達成するために必須であり、儀礼的見せ物全体を秩序づけ結びつける概念と実践であると論じられる。また、「インドのチベット人の旅回り交易における媒介の仲介と品物を通した信頼」と題される論文は、「信頼と市場:信頼の社会的、文化的側面を研究する」という分科会において発表され、品物がインドにおけるチベット人によるセーターの旅回り交易の文脈で、人々の間を仲介する媒介として解釈されていることを指摘する。
 さらに、「置き換えられた相互作用:チベット仏教の教育における規模と主観性」と題された論文は、「教育言語人類学におけるマクロとマイクロを越えて」という分科会で発表され、インドにおけるチベット仏教僧院の相互作用儀礼の変化する意味について論じられる。ビラクッペにおける保守的なセラ僧院と、ダラムサラにおける現代的な仏教的弁証法研究所という2つの理念的に対立する機関に焦点をあて、社会化の実践―中庭での討論、公的懲戒、身体的懲罰―が自由主義的科目と結合した理想を重視するチベット人による再考と改革の対象となっていることが指摘される。
 最後に、チベットの政治状況とチベット人の直面する問題に焦点を合わせたものとして、「難民の市民権:政治的亡命とチベット人の北アメリカへの移住」という論文は、「安全な避難所? 難民、避難所の捜索者、法律」という分科会に含まれ、集団的政治的帰属性の構成要素としての難民の市民権について、チベット人の事例に基づき、正式の国家の境界からのがれることを実践する新しい形の市民権、歴史的に空間化された社会状況としての「非合法」、そして、北アメリカへの移住という文化的、政治的、歴史的に特異的な経験、ついて評論する。
 また、「あいまいは美しい:チベット‐台湾‐中国関係における故意の読み違い」という論文は、「読み違いの政治:支配の関係の民族誌的研究」という分科会で発表され、台湾におけるチベット仏教の人気の上昇を背景とした1997年と2001年のダライラマの台湾訪問をめぐり、中国に対するチベットと台湾の政治的地位に関して、多様な読み方や読み違いを許すような解釈がなされたことが論じられ、読み違いというものが操作することのできる貴重な余地をそれぞれの政府に提供し、同じ出来事をそれぞれの政府が彼ら自身の政治的権威にしたがって故意に解釈する余地を残すと結論づけている。さらに、「ダライラマ:亡命時におけるカリスマ、正当性、継承」と題される題文は、「政治的カリスマ」分科会に含まれ、世界的なカリスマであるダライラマチベット人との変化する関係、そして亡命時におけるチベット人の帰属性にとってのこの変化の意味が考察される。
 以上、述べたように、チベット研究はアメリカ人類学の関心が現代社会のさまざまな課題に分散していくことに呼応するかのように多岐にわたっている。もちろん、それぞれの課題については、詳細な文化人類学的記述と分析がなされてはいるが、全体的で統括的な理解という視点は欠除しているように思える。このことは、アメリ文化人類学が終焉を向かえ、社会科学へと移転していく中での必然的動向であり、アメリカ人類学の目標であり、同時に限界でもあると結論づけることができよう。
 今後のチベット研究に関しては、現在のチベット研究のみならず、各研究分野で今までに蓄積され、また蓄積され続けている豊富な情報データベースの作成が必要であろう。ここでは、CiNii(国立情報学研究所論文情報ナビゲーター[サイニィ])を用いたチベット関係論文検索を通して、当該分野の情報データーベースが不十分であることを述べ、今後のチベット関係文献データベース作成の必要性を指摘したい。
 CiNiiは学協会刊行物、大学研究紀要、国立国会図書館雑誌記事索引データベースなど、学術論文情報を検索の対象とする論文データベース(2005-2009 National Institute of Informatics:http://ci.nii.ac.jp/info/ja/cinii_outline.html)である。チベットで検索し、それぞれの論文をデューイ十進分類法(The Dewey Decimal Classification, DDC、もしくはDewey Decimal System)と北海道大学附属図書館におけるカテゴリに準拠し分類したものが表2である。なお、この表には北海道大学附属図書館所属のチベット関係図書を検索システムOPACで検索分類したものを左欄に併記している。図書の中で社会科学分野は38件、全体に占める割合は8.0%(内、文化人類学民俗学関係は10件、2.1%)ときわめて低い数値を示す。チベット関係図書では地理・歴史をはじめ宗教、哲学・心理学が大きな割合を占めており、チベット研究の伝統的傾向を示すものである。CiNii検索論文のうち社会科学分野は740件、全体に占める割合は25.2%(内、文化人類学民俗学関係は100件、3.4%)と比較的高い比率を示しているが、内容はチベットの政治に関するニュースレター等が多くを占めており、実質的な研究論文はほとんど見当たらない。むしろ、自然科学分野における調査報告、論文が最も多く(766件、26.1%)、最新の自然科学分野に重点を置くCiNii検索論文の特徴となっており、図書における自然科学分野が12件、2.5%という低い数値を示していることとは対照的である。
 もちろん、これら論文の件数は各研究分野における登録雑誌と論文数に依拠しているため、自然科学分野に比較して人文・社会科学の論文件数が低くなっているものと考えられよう。それにもかかわらず、社会科学における実質的な文化人類学民族学的研究が見られないのは、今後のチベット研究の進展にとっては問題であろう。したがって、今後の有効なチベット研究のためには、日本における大学、研究機関図書館に蓄積、所蔵されている図書情報の整理、収集と、同時にCiNiiには登録されていない国内、および外国の専門雑誌論文を含む総括的チベットデータベースの作成が必要となると考えられるのである。
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Index研究課題2.チベットの総括的研究チベット研究の現状とデータベース作成


copyright © 2012 Takashi Irimoto