ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

出会いと縁(えにし)

昨日の午後は、雨の中を久しぶりに同志社大学神学部の図書室へ行き、文献と新聞のチェックをしました。青春真っ盛りの匂いと活気が充満していて、やっぱりキャンパスだなぁと、若さに圧倒される思いでした。

キリスト新聞には、「国際聖書フォーラム2007」の前宣伝から広告からコラムから当日の記事まで、いろいろ掲載されていたのでコピーをとってきました。実は、私のメール投稿記事が掲載される予定だと、かなり前に編集部から連絡があったのですけれど、どうもいつの間にかボツにされたのか、数ヶ月待っていても何の形跡もありません。ま、いいか。

知り合いの学生さん達から「ご無沙汰しています」と挨拶があり、うれしく思いました。こういう礼儀正しさは、成績そのものより、もっと大事な基本中の基本ですよね?あ、きちんとした学生は、成績も良いことが多いのですけれど…。

帰ってきたら、スシロ先生からメールが届いていました。「東京のフォーラムの翌日、すぐにコタ・キナバルに飛んで一仕事して、ブリズベンに戻ってきたところです」とのことで、レセプションの時の私の写真二枚も添付されていました。髪型や化粧崩れなどの写りを心配していましたが、思ったよりは良い感じに撮れていて感謝!私のカメラには、自分が一枚も入っていなかったので、ずうずうしくも頼んで送っていただいたのです。また、日本聖書協会スタッフや招待講師との内輪の懇親会のシーンや、聖書協会の主事会議の様子などもたくさん入っていて、興味深く思いました。その他にも、イスラエル、インド、マダガスカルイスタンブール、ネパール、フィラデルフィア、メダン、シンガポール、サバ神学院などの写真がギャラリーとして編集されていて、ご活躍ぶりを拝見する思いでした。

インドネシアの場合、マレーシア以上に社会階層の格差が大き過ぎて、このように国際的に飛び回って仕事をされる方から、目だけギラギラさせて、破れたTシャツに裸足のストリートチルドレンや、自然災害で茫然とたたずんだままの被災者まで、相当多岐にわたります。そのため、1980年代頃の日本人研究者も、一億総中流意識とやらで、何かと不慣れなことがあったようです。途上国だから‘現地人の民度’も恐らく低いだろうし、外国語なんて日本人以上に下手なんだろう、とタカをくくっていたら、応対に出て来た人が若いのにかなりの高官で、欧米諸語を幾つかこなし、家に招待されるととんでもなく豪邸で、かえって恥ずかしかったという話も聞きました。

日本ではどちらかといえば、貧しいながらもたくましく生きている子ども達や災害援助対象の人々が、テレビで放映されたり、書き物の主人公になったり、開発研究の‘標本’になったりすることが多く、つい、そういう目でインドネシアを見てしまいがちですが、優秀な方はとことん優秀で、海外にどんどん羽ばたいていらっしゃるのです。考えてみれば日本でも同じなのですけれども、主人や私や弟の生育環境は、外国に出たければ、大学院修了後に出ればよしとするケースだったので、いまだに戸惑いが絶えません。高等教育を自分の国で受けることで、アイデンティティ形成や根っこをしっかり持つようにと考えた親の教育方針は、間違っていなかったとは思いますが…。

ともかく、お国では大学の理事長までされていたような方が、聖書を媒介に、こうして私のような者とも親しく付き合ってくださることになり、大変ありがたく思っています。戦後生まれのスシロ先生とはいえ、東部ジャワのスラバヤ生まれで、中部ジャワ育ちのインドネシア人としては、日本や日本人に対して、今なお、どこか複雑なお気持ちがあるのでは、とも思うのですが、息子さんの一人を日本の大学に留学させ、インドネシアで働いていた日本人聖書翻訳者とも仲良く業務を遂行するなど、それほど悪い印象はお持ちではなさそうです。でも、それとて相互の寛容と協調の精神あればこそ、です。心して努めていきたいと思います。

と書いたところで、またまたマレーシア華人(福建系)の友人から、メールが届きました。数年前から香港在住なのですが、どうやら今週末から一週間、東京に滞在するのだそうです。「会える?」なんて、ちょっとここは日本なんですよ。せっかく来るなら、もっと早くに連絡してくれなくちゃ、困るじゃないですか。マレーシアだと、簡単に「じゃ、これから都合してそっちに会いに行くわ」なんてよく言うのですが、私はそんなに頻繁には東京へ行きません。用事がある時だけです。東京ってあんまり好きじゃないし…。先々週行ったばかり、それに来月の新渡戸シンポと9月の学会発表とで、また家を空けることになるんですから…。

彼女は、マレーシア政府当局とキリスト教指導者層の間で、1980年代に取り交わされた秘密交渉文書のマレー語翻訳をした人です。ペラ州の出身なのですが、マレー人地区の近くで育ったので、メソディスト系学校で英語教育を受けたにもかかわらず、マレー語が得意なのです。また、インドネシアで「二番目にいい」学校で神学教育を受けたのだそうです。そのために、政府との重要な交渉時にあたって、マレー語係として抜擢されたのでした。

彼女と知り合ったのは、1994年頃、クアラルンプールにあるウェスレー・メソディスト教会の家庭集会で出会った、福建系の男性リーダーの紹介がきっかけです。若い頃、多国籍企業で働くビジネスマンでもあったので、日本にも時々出張しており、その筋で私にもとても親切にしてくれました。マレーシアでは5代目の華人クリスチャン家系で、母方が教育者(祖母が女子校の初代校長)、父方が法律関係者を輩出しており、地元ではちょっとした‘名士的存在’のようです。それを知ったのは、つい最近のことなのですが(というのは、大変気さくな方で、当たり前ですが自分からは言わないので...)、彼のおかげで、いろいろとキリスト教関係の指導的立場の人々と知り合いになることができ、本当に助かりました。日本ではごく平均的な一般人に過ぎず、不器用で非社交的な私が、外国でこのようにリサーチ目的の人脈を広げられたというのは、ほとんど奇跡的です。

2001年の9.11事件のちょうど一ヶ月前にマレーシアの首都圏に滞在していた時、ご主人まで動員して、ありとあらゆる角度から私の人物調査をしながら、彼女が用心深く文書のコピーを手渡してくれたことによって、1980年代の緊張に満ちたマレー語聖書をめぐる問題の状況が、詳しくわかるようになりました。こういう文書の手渡しは、大学に所属している職位職階付の教員や研究員であればできるとは、必ずしも限らないのではないかと思います。地元の人々の信用を獲得するということは、時間がかかり、かなり神経も遣います。特に彼女の場合は、日本人に対して非常に疑い深く、失礼な人達という印象を根強く持っていたので、こちらも非常に気を遣いました。私にとっては、覚悟を決めて、できる限りの関連諸分野を学びながら、時間をかけてじっくりマレーシアと付き合う以外、他に解決方法がなかったのです。ただし、こんなにのんびりしたリサーチは、研究で食べていこうとする男性ならば、恐らく選ばなかったテーマであろうとも思います。

あれ?またもやスシロ先生から、メールが来ました。「今、チャンギ空港で乗り継ぎを待っているところです。これからカイロに向かい、聖書改訂の会合に出席します」とのことでした。ふぅ!全くお忙しい先生です。これは、丈夫で旅好きじゃないと務まらない仕事ですね。

世界中のあちらこちらで国際的な会合を開くのは、外交儀礼上も、機会均等の意味からも重要なことですが、もう一つのポイントとして、キリスト教の国際的会合がイスラーム圏で開かれるのは、観光を兼ねて土地の事情に触れる、絶好のチャンスでもあります。ムスリムから国の説明を聞くのと、非ムスリム、特にクリスチャンから聞くのとでは、かなり様相が違ってくるからです。

二年ほど前、ある大学の開学40周年記念の会合に招かれた時のことです。ランチで歓談中、講演者のお一人だった池田裕先生が、突然私を呼び出され、こう尋ねられました。「誰の指導の下でマレーシアの研究をしていますか。世界の国々の中には、本当は問題があるのに、ないと言い張る国がありますね。マレーシアはどうですか?」思いがけない問いに驚き、緊張しつつ姿勢を正して申し上げました。「はい、あります」「どんな問題がありますか」「例えば、マレー語の聖書などが時々発禁になったりします。アラビア語の語彙が使われているという理由からです」「なに?アラビア語?ダメだ、そういうことは、ちゃんと公表できる形にまとめないと…」

この件がきっかけで、私の勉強にも急に弾みがついたわけです。専門分野も異なり、元々は大学上のつながりさえなかった私なのに、この記念会合に招待してくださったT教授のおかげだと、今でも心から感謝しています。