ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

(疑似)権威になびかないように

渡辺幹雄(訳)『ハイエク全集 Ⅱ・1 致命的な思いあがりThe Fatal Conceit)』春秋社2009年)を一通り読み終わったのは、先週前半のこと(参照:2011年5月23日・5月24日付「ユーリの部屋」)。いつものように、しばらく寝かせて、先程から、付箋を外しつつ、ノートにまとめています。
専門とは直接無関係のように見える、こういう作業が、一体、自分にとって何の役に立つのかとも思わなくもありませんが、陰ながら、さまざまな場面で判断を支えてくれることに、今回も気づきました。だから、人間、一生勉強し続けなければなりません。
興味深い「解説」(古賀勝次郎氏による)から、印象的な一文をご紹介しましょう。

優れた自由主義者に熱心なキリスト教徒が多いことからハイエクも宗教に対して関心がなかったわけではない。しかしそれまでハイエクはどちらかといえば宗教に関して論じることを意識的に避けてきたといってよい。そのハイエクが本書最終章で、文化的進化との関連ではあるけれども、宗教についてややまとまった考えを表明している。文化の進化は科学的洞察や合理的推論の結果ではなく、あるルールや伝統によってもたらされるのでありそのルールや伝統の維持を可能にしてきたのが、実に宗教だった。だが宗教の中には、所有や家族を否定したものも多く、そうした宗教は消滅し、所有や家族を支持した宗教のみが生き残った。(中略)『宗教的信念の自然選択がいかにして不適応者を処分するか』(本書二〇七頁)ということだ、とハイエクは当時の社会主義諸国を診断していた。」(p.242)

もちろん、社会主義の弊害については、例えば、ショスタコーヴィチの音楽解釈の変遷からも、今や自明のこととなっていますが(参照:2011年5月22日付ツィッターhttp://twitter.com/#!/itunalily65))、何が一番問題かといって、イデオロギーや自分の主張の実現のためには、プロパガンダ手法を用いて、平気で嘘をつくことが、もっとも嫌悪すべき点です。

さて、ここからが今日の本題。昨日、いったんこれで落着にしようと勝手に決めた懸案問題についてです(参照:2011年6月4日付「ユーリの部屋」)。実は、今朝方、南メソディスト大学パーキンス神学部のグローバル神学教育ディレクターを務めるロバート・ハント先生から、お忙しいのに丁重なお返事が届きました。まったくもって、本当に親切な方です(参照:2007年10月20日・2008年3月28日・9月1日・10月28日・11月6日・11月7日・11月8日・12月29日・2009年8月14日・11月6日・12月30日・2010年6月13日・7月29日・8月10日・8月11日・8月15日・8月19日・8月26日・9月15日・9月20日・2011年4月15日付「ユーリの部屋」)。

拙訳によって要点のみ箇条書きに記しますと、次のようになります。(注:あずき色はユーリによる)

アメリカ合衆国では、現時点で‘open communion'に関して、その用語が何を意味するのか、単一の学派はない。
多数の教会は、いまでも洗礼を受けた信者達のみ‘communion'を受けるべきだと信じていると、私は思う。これは、確かに合同メソディスト教会の公式信条である。
・しかしながら、洗礼を受けていない人々へも‘communion table'を開いている教会もある
・これは、アジアでよりも、アメリカ合衆国においては問題となりにくい。なぜなら、会衆のほとんどが、少なくとも幼児期に洗礼を授けられたと、牧師達は想定しているからである。たとえ、信仰を実践していないクリスチャンであったとしても、である。
・監督教会のような教会は、洗礼を受け、信仰告白をしている人々のみに‘communion'を公的に提供している。ローマ・カトリック教会や多くのバプテスト教会は‘closed communion'で、教会員のみである。洗礼を受けているかどうかにかかわりなく、他者は排除されている。これら二つは、合衆国における最大のキリスト教共同体である


マレーシアとシンガポールでは、ほとんどの教会が洗礼を受けた信者のみに‘communion'を提供している。そして、洗礼を受けたクリスチャンのみが招かれていることは明らかである。これが必要なのは、多くのヒンドゥ教徒や仏教徒達が、‘communion'は何か魔術のようなものか、純粋に社会慣習だと思いながら参加しようとしたからである。
・いずれの場合も、彼ら(ヒンドゥ教徒や仏教徒達)の参加は、ユーカリスト(Eucharist)の品格をおとしめるものであり、霊的な事柄への彼らの無知を深めることに貢献する。


・個人的には、私は‘Communion'(ユーリ注:大文字の‘C’は原文に従った)は洗礼を受けた信者のみのためだと信じている。イエスをキリストだと信じていないなら、イエス・キリストとの交わり(fellowship)を求める人にとって、意味がないからである
・そしてまた、クリスチャン達が無愛想である必要もない。我々の神学院のチャペルでは、全員が会衆と共に、求めに応じて立つよう招かれる。クリスチャン達は、パンとぶどう酒を受ける。クリスチャンでない人達は手を組み、牧師が三位一体の神の名において彼らを祝福する

何だかこれを読んで、ほっと安心したというのか、ストンと腑に落ちる気がしました。ご迷惑ではないか、こんなに単純で馬鹿げた内容なのに、と思いながらも、やっぱり尋ねてよかった、と。
アメリカは多民族・多宗教国家だから、さまざまな考え方が許され、許されて当然であるかのように振る舞い、しかも、こちらがあたかもそのことに無知であるかのように、平然と持論を展開する人々がいます。ちょっとでも現地のしかるべき方に質問すれば、このように簡単に判明することなのに、です。

2011年5月11日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110511)にも記したように、本件について私がここまでこだわった理由は、関西に来てから身近に接したことのある複数の関係者が、はっきりと知る限り、少なくとも2004年以降、何やらヘンな文書や議論を展開していて、そればかりか、こちらに非があるかのように、暗に私を退けるような言動を投げかけたからなのです。
私の専門テーマに関わることで言うならば、その方達の中にはなぜか、日本国内の教会問題について語る場合に、突然、「アジアの教会」の例を引用してくる傾向も見られます。ところが、同じ「アジア」であっても、経済的にかなり発展し安定している、日本人にとっても親しみやすいはずのマレーシアやシンガポールキリスト教会については、どういうわけか、本件を支持する事例としては、引用が抜けているのです。旧英領で、現在でも中上層部に英国支配の影響が陰ながら浸透し、マラヤ共産党ゲリラとも闘った資本主義採用国であることから、恐らくは、自分達の主張にとって、どこか都合が悪いためか、あるいは、形式上はともかくとして、本質的なネットワークが欠如しているからではないでしょうか。
一方、私自身は、1990年初期に、国内の正規ルートでマレーシアに派遣され、マラヤ大学に併設された課程で、マレー・ムスリム学生達に教えること3年間。もちろん、彼らが、抑圧され、疎外され、虐げられた人々だとは思っていません。むしろ、王族や貴族の血を引く学生達も混じっていて、それは名前ですぐ判明できましたし、全員が、政府によって選抜された学生達でしたから、礼儀正しく、反体制であるはずがありませんでした。
そのような経緯から、マラヤ大学に博士論文が受理され、マレーシア神学院でも数年間、教鞭をとり、シンガポールのトリニティ神学院でも何年か教えて本を出版された、上記のロバート・ハント先生の説明の方が、非常に説得力があり、信頼できるのです。経験と事実に基づいて、実証的に語っているからです。
もうこれで充分だとは思いますが、何なら、マレーシア神学院やサバ神学院に勤務する華人やインド系や先住民族の方達にも、質問してみてもいいです。ついでに、聖書協会のスシロ先生にも(参照:2007年7月10日・7月12日・7月13日・7月26日・8月22日・9月28日・2008年9月11日・2010年1月13日・2011年2月23日付「ユーリの部屋」)、インドネシアの事例をお尋ねできます。かつてはキリスト教大学の理事を務めていらした方ですから、資格としても問題なし。
インドの教会事例というならば、これは、キリスト教に改宗する人々のカーストと地域などとの絡みで、最大限、慎重にならなければなりません。手元にインドのキリスト教についての関連書籍がありますが、独特の事情があります。

つまり、「アジアの教会」といっても、日本の教会における、ある一部の主張を裏付けるような事例には、残念ながら、なり得ていないのです。すると、次の検討項目は、「では、何のために、そのような主張や見解が出てきたのか。その淵源と根拠はどこに求められるのか」となります。

くどいようですが、昨日書いたことの繰り返しです。本件に関する私の立場は、極めてシンプル。
「一時的には同調者を増やしたとしても、何らかの形で、不自然で合わないものは淘汰されていくだろうと思います。」「翻訳ミスや誤釈があったとして、指摘を受けて先方が正しいとするなら、即刻、改めるべきではないか、と。そうでなければ、ミスがミスを招き、混乱が増殖しかねません。」
結局のところ、何事も、(おかしい)と思ったら自分でよく確認し、簡単に(疑似)権威や周囲の人間関係になびかないことです。