ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

沈思黙考

1.物思うこの頃

パソコン故障の件、まだ完全復旧はしていない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150805)。写真もビデオも音楽も下訳をつくってあったワード文書もかなり壊れてしまい、最初からやり直しである。仮印刷したものもあるので、それを見ながら入力し直すことになる数本もあるが、どうも気が抜ける。
パイプス先生の方も、7月31日時点で突如、ツィッターも止まっていたので(今確かめたところ、中途半端に復帰の模様)、本当に珍しく人生初のゆったりした夏休みなのか、ここで長年のお仕事を一区切りつけるところなのか…。家族のように長年のお付き合いだというエルサレムのレヴィ君に尋ねてみると、「あの人は、書きたい時に書くんだよ」と、あっさり。
念のために尋ねてみたところ、あの大きなウェブサイト(http://www.danielpipes.org/)は、引退してからも残しておくとのこと。そして、拙訳(http://www.danielpipes.org/languages/25)もそのまま残す意向らしい。
このような日が早かれ遅かれ来るだろうと三年半前から予想はついていたので、さして驚きもしないが、それにしても、やはり機を狙って、会える時にお会いしておいてよかったとつくづく思う。
うちの主人などは、「最初から理想化し過ぎだよ。あの気難しい顔を見れば、アメリカ社会の中でどの程度の位置づけか、わかりそうなもんじゃないか。テレビによく出ているって言ったって、アメリカにはたくさんの放送局があるし、それほど珍しいことでもないよ。第一、博士号を持っていたって、大学に就職できない人なんてアメリカにはいっぱいいるから、自分で本を書いてオフィスを立ち上げて、講演か何かをやって生計を立てるなんてこと、よくある話だよ。まぁ、不祥事があったとしても、あそこまでよく頑張って続けてきたってことは、努力は認められているんだよ。そこで納得しないと」「それに、ここまでメールのやりとりが続いたってことは、向こうも一定の評価をこちらにしてくれているんだよ。日本人にしては珍しく自分の意見を持って、いろいろ書いてくるからさ」「僕がこう言うのは、若い頃、アメリカ東部の一流の人達の仕事ぶりを見てきたから。顔でわかるよ、本当の一流の人っていうのは。だから、あまりあれこれ考えないことだな」と言っている。

2.中東旅行の反芻

4月下旬から5月上旬のトランジットも含めた約二週間の中東旅行を通して(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150511)、頭の中を整理するには、私にとって、ある程度以上の時間が必要でもあった。合計1478枚の写真(テル・アヴィヴ、西岸のアリエル、ネゲブ砂漠のベエルシェバ、ベングリオン大学、ガザ国境近くのキブツ二ヶ所、エイラートエルサレム(クネセト、神殿の丘、ヘブライ大学、ホロコースト博物館など)、ヨルダンのペトラ、イスタンブール)と計14冊以上のメモ、新たに出会った35名の旅団の人々(米国、加州、豪州)のお名前とメールアドレスの照合およびご経歴の確認、十日間、ほぼ連日お会いした講師やスピーカーやクネセト議員の背景などを学ぶ作業など、英語漬けの日々だとはいえ、振り返ってみれば、普段の私の暮らしぶりからは非常に貴重で、相当な集中期間であったことは確かだ。
訳者の醍醐味で、旅団の人々からは親切にしていただいたし、道中の会話は問題なくついていけたし、趣旨の方向性としても充分理解できた。また、クネセトでお会いした方や講師の中には、訳文で既知だった方々も何名か含まれていて(http://www.danielpipes.org/12286/)(http://www.danielpipes.org/13242/)(http://www.danielpipes.org/12227/)、それこそ「今回の旅は満足の行くものだと思うよ」と言ってくださったシリンスキー氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150513)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150515)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150516)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150522)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150525)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150530)(この方も、風貌は今でこそ気さくなおじさん風だが、実は国防総省勤務以外にも凄い経歴の方だった)の言葉に、全く偽りはなかったのが実感である。
確かに、パイプス人脈は派手というのか目立つというのか、普段は平凡に暮らしている一介の日本人に過ぎない私にとっては、住む世界も生活様式も専門分野も全く異なるので、とにかく威圧されるというのが正直なところではある。
だからこそ、機を狙って早めに公的な場でお会いして、支援者を参与観察しつつ、パイプス氏とは一体どういう方なのかを自分なりに確認しておかなければ、単にネット上で横のもの(英語)を縦(日本語)に直し、数を量産するだけでは意味がない上、過去のネオコン騒動ではないが、イラクでの戦後処理の問題からも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131212)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140808)、危険だと考えたのだった。勉強がてら、ブログ上で無料のボランティア宣伝をしていたことになるが、決して盲目的に心酔していたのではない(のは、過去のブログ記録からも明らかであろう)。イスラームイスラエルや米国政治の動向以外に、今でも西洋で続いているらしいイデオロギー闘争の勉強にはなったし、文献やニュースなどを通して視野も格段に広がったし、決して無駄ではなかった濃厚な三年半だった。
その意味では、昨年4月のニューヨークでの会合にしても(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140510)、その約一年後の中東旅行にしても、義務感と好奇心が先立っての面会ではあったが、我ながら、タイミングとしては機を捉えたと思うし、参加基準や条件を満たしていたとは思う。
二回とも実に、自分の目的は充分にかなえられたのだ。会合以外に文献リサーチも兼ねての渡米だったことは確かだし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140520)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140524)、旅行にしても、それほど世界の注目を浴びやすいイスラエルを、2007年3月の初訪問から八年ぶりに(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150514)、今度はユダヤ系を中心とした英語圏の人々と共に、あるいはその前後に一人で、自分の目で見ておきたかったからだ。

3.この三年半の意味

しかし、5月末の故障を機にメール処理やパソコン操作と格闘を続けていくうちに、ハタと気づいたことがある。自分では意識していなかったが、毎度短信ながらも、もの凄い数のメール文通をパイプス先生としていたのだった。多分、メール機能を使い始めて以来、メール交換では一番多いのではないか。
少なくとも私の意図としては、訳文に際しての質問や簡単なコメント、状況に応じた近況報告(関連書籍を読んだ感想など)のつもりだったが、あまりにも活発なメディア出演と海外講演とコラムやブログ書きのおかげで、こちらも知らず知らずのうちにウェブ・ペースに乗せられていたらしい。もちろん、パイプス先生が興味のない内容や専門以外のことには返信がない時があり、必ずしも毎度の文通というわけではないのだが、それにしても驚いた。
旅行を通して知り合いになった人々の間で、私も含めて相互に写真交換をし、我々が訪れた場に関するニュース記事が後に送られてきて旅の考察になったのは、確かによい経験である。中には、ラジオ出演でネゲブのベドウィン問題(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150530)について語ったり、有力紙にムスリム改革女性の活動を投稿したりした人もいる。非常に活発で刺激されっ放しなのだが、何より驚いたのは、帰国したばかりで興奮醒めやらぬ間に、もう次の旅行企画が協議話題になっていたことだった。テンポが速く、元気な人達だ。
その場合、宛名が‘fellow travelers’とあるのには苦笑させられた。恐らくは冗談で使っているのだろうが、元々は、冷戦期に西側に暮らしながらも共産主義に共鳴し賛同している知識人やジャーナリストを皮肉った「道連れ」という意味である。では、我々もパイプス戦略に乗せられている無邪気な旅人なのだろうか。
次はどこに行きたいか、と私も尋ねられたが、「イスラエルならばいいけれど、他はちょっと決められない」と返答しておいた。それ以外に、答えようがない。また、次も行くかどうかさえ、定かではないのだ。
帰国後、訳文を4本は提出した。パイプス先生の方は、6月のトルコ総選挙の見通しが、大見得を切った割には(一時的に表面的に?)大幅に外れたためなのか(http://www.danielpipes.org/15915/turkey-election)、どういうわけか6月5日付でコラムを中断して沈黙されている。

4.実態を見れば...

ウェブ上での文筆活動というのは、過去の論考文を調べる検索が楽で、地球上のどこでも連絡が取れ、一刻も早く自己表明ができて便利なのだが、やはり慎重さと背景理解に欠ける嫌いがある。つまり、じっくりと考える時間を奪うのだ。それは、私が最初から警戒していたことではあったので、極力、自分一人の時間を確保し、紙媒体の本を読んで考えるようにはしていたが、結果的に、日々の時間の使い方が大幅に変わってしまったことは事実である。
アメリカは数でランキングをつけることが好きなお国柄のようである。競争に向いている人ならばやりがいがあり、活気が出て、見た目もはっきりしている。そして、個人のイニシアティブを重んじるお国柄でもある。だから、あのような膨大なウェブサイトができあがったのであろう。だが、アクセス数が高いことが、必ずしも真意を汲み取った読解や賛同につながっているという保証はなく、どのように利用されているのかは不明である。
始めた当初、(こんなに大量に書き綴ってきて、ひょっとしたらコンピュータ・ナードなのかしら)と覚悟の上だった。なので、二週間に一度の割合で、次から次へと多彩な内容のコラムの訳文依頼が届くと、私には「締め切りはないし、決して焦ることのないように」と言われていても、内容から判断して、それほどのんびりもできないことが感じられる仕組みにはなっていた。また、コラムならば週に数時間割けば訳せるだろうとは思ったものの、ハイパーリンクなどで過去の論述の路線上にあることがわかると、そこも縦横に遡る必要性があったし、過去と現在の両方を併行して映像を通して見ることで経過を知る作業も大事だと思った。同時に、日本側の解釈はどうなっているのだろうかと、日本語のインターネット情報や各種関連本を読むこともした。なぜ、このようなことが言及されるのかを把握しないと、訳出などできないのだ。
パイプス先生の勤勉さは励みになっていいのだが、こちらに計画があっても、ウェブのやり取りだけでは先の予測がつかない不安定さがあった。ウェブ上の追記や変更は、当座の文章のみならず、過去に遡っても頻繁にあり、気がつくと、どこからか引っ張ってきた画像や写真が挿入されている。しかも、「new」などの印がつくわけでもないし、さりとて修正のお知らせがあるわけでもない。いつの間にか、さり気なく変わっているのである。だから、訳文と原文に相違があることも少なくはない。不安定で、ひっきりなしという印象だった。逐一修正版を提出していた時もあったが、「もっと他のものを訳すようにして、時間を大切に使いなさい」と指示が出た。つまり、訳文の完成度や内容よりも、数の多さで人目を惹こうという考え方なのだろう。読者層を広げるため、邦訳ページがほしいとも言われていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131120)。
しかし、せっかく時間を割いて訳しても、その後の追加変更で主旨が変わってきたら、それこそ意味がないし、訳されていれば読むというものでもない。

私としては、還暦を過ぎたパイプス先生の年齢からして、いつまでもこの調子が続くとは思っていなかったが、一方で、あのリズムで次々とウェブ更新がなされていたら、自分の課題が後回しどころか、日々積み上がってしまうことを最も懸念していた。その結果、例えば冒頭のようなメール付随問題も発生してしまう。
内気な性格なのに、ぐいぐいと外交的にどこにでも果敢に出かけて行き、誰とでも大胆に討論をし、自分が勝つまで頑張り続けるという不撓不屈の精神は、訳しながらもうらやましく、別にこちらが応援しなくても充分イスラエルは生きていけるではないか、離散ユダヤ人だって絶対に逞しく生き延びていく人々だろうに、と常々思わされていた。
ただし、主張が正しく、頑張った末にお金も支援も集まって成功しているとしても、人間関係にトラブルが常に生じているようでは疑問符がつく。嫉みやっかみばかりとは言い切れまい。
例えば、イスラームイスラーム主義を巡る識別についても、なぜ、ロバート・スペンサー氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150122)やパメラ・ゲラーさんのような、かつてはお仲間活動家として仲良くやっていたはずの人達が、突然あれほど悪態を付くような事態へと発展してしまうのだろうか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130704)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150525)。他にも、2004年2月に一緒にハーグの会合に出かけて、パネリストとして同席していたはずのお医者さんの著述家とも、2013年5月頃、イスラーム解釈とユダヤ人の位置づけを巡って論争になってしまった。ラビ同席の上で、シナゴーグで討論して決着をつけようじゃないか、と決闘を持ちかけたところ、あっさりパイプス氏からメールで辞退されたという。その一連の出来事も、そのお医者さんのホームページ上で公表されてしまった。その結果、「あいつのことは最初から信用していなかった」などと、悪口がついて回っているのである。
これは、流動性の激しい、競争社会アメリカの断片なのだろうか。それとも、普通ならばもっと穏健に振る舞うのが流儀なのだろうか。
私の見るところでは、現代イスラームを語ることは誰にとっても困難だ、という一言に尽きる。特に9.11は象徴的であった。攻撃を受けたアメリカ側の意識が変化したのも、無理はない。ムスリムが西洋社会に押し寄せて来なければ、対岸の火事のように距離感を持って中東を観察できるが、人口増加中のムスリム移民と共に、西洋でマイノリティとして離散ユダヤ人が共生しなければならないとなれば、心理的にも落ち着かないだろう。ましてや、イスラエル内部のアラブ・ムスリムイスラーム主義運動も心配である。
パイプス氏の戦術として、人より一歩先に何か人目を引くようなことを大胆に公言し、自分の方に注目を集めるという論法がある。イスラーム復興に伴う警鐘、ジハード解釈、ムスリム移民問題などがそうである。専門家ならば当然気づいている現象であっても、あえて外交的に婉曲話法を用いていることでさえ、パイプス氏の手にかかるとこっぴどい批判の対象になってしまう。あるいは、メディアは語らない、アカデミアは無視する、という極端な言論に傾きがちである。
先見の明があり、大胆で勇気がある、と言えばそうなのだが、問題は、最初の頃は少数派の同志として仲良く活動していたお仲間学者や活動家の方が、スピーチ上手だったり、その路線で売れる本を出したりすると、手の平を返したように、その逆をいく発言をして、人間関係に亀裂を生む傾向である。
例えば、元々根底に残っていた西洋社会のイスラーム嫌悪感をあえて表に出して刺激するような発言をして、リベラル派のアカデミアなどから批判を浴びると、過激なムスリムがいかに西洋と合致しないかを言い立てる。その一方で、穏健なムスリムを支援すべきだ、と主張しておきながら、実際には静かで平凡で無害な一般大衆ムスリムではなく、西洋で目立つ背教者やアフリカで処刑された改革ムスリムなどの事例が語られる。イスラーム圏では一定の条件下で自治を認められてきたが、伝統的にユダヤ人は差別されてきた、という話になると、世間一般が無関心だった昔はその説を肯定していた節もあったのに、ムスリムによる反ユダヤ主義という種の話が流行するようになった今では、あたかも否定するかのように受け取れる内容を表明してしまい、お仲間達を憤慨させる。
なぜかこうなるかを考えてみると、一つ一つのテーマについて、オリジナルの現地観察や客観的な第一次資料に基づいているのではなく、自己の限られた経験に基づいて、データを新聞論説や雑誌などの事例から引用しつつ、論評として中東イスラームを語っているからだろうと思われる。つまり、世論を動かして政策形成に影響を及ぼしたいという意図や願望と、あくまで研究者ないしは学者然として現状を直視してあるがままに語ることとが、常に併存しているので、書いたり話したりする目的や対象や時期によって、一見、理路整然としているようでも、結局は論旨にずれが出てしまうのだ。
この論法の危険性と矛盾には、私もかねてから気づいていた。発言は決して間違いではないものの、暗黙の了解という水面下のやり取りを、勝手に無断で人目に晒してしまっているような感がある。事実を誇張化していたり、一方だけを殊更に強調していたりするので、反発を招きやすいのである。淡々と語っているようでいて、実は周囲を挑発しているのである。それも承知の上での戦術ならば大したものだが、予想される労力は並々ならぬものがある。
恐らくは、世界一の学歴だと誇りを持っていたのに、アカデミアで正当に受け入れられなかった恨み辛みが根底にあり、それが意識的か無意識的にか、何となく態度に反映されているのではないか。今の時代、素人でも少し勉強すれば、基本的なイスラーム知識は得られる。特にクリスチャンやユダヤ人ならば、危機感を煽るには有利な分野ではあるだろう。但し、大衆向けの活動家と共に言論を張りつつも、どこかで自分を際立たせようとすれば、どうしても策略を凝らさなければならない。
だから、一緒に活動していても、(自分はあんた方とは違って、大学で正統なイスラーム教育を受けてきたんだぞ)というプライドが何となくちらつき、お仲間達からは鼻につくというところがあるのかもしれない。