満州への情熱

 清朝崩壊後、張作霖の北洋軍閥孫文蒋介石の南方革命がクローズアップされますが、連省自治派というもう一つの対立軸がありました。天津の評論家・張弧(ちょう こ)は「東亜永久のために日中露争覇の地である満蒙全域に東亜六族の大同国家を建設し中立を保たせる以外ない」と主張しています。満州では保境安民派、清朝の再建を目指す復僻(復活)派、モンゴル独立を望むモンゴル青年独立派があり、張学良軍閥の打倒を目指していました。
 連省自治派は北京政府と戦い、満州では保境安民派が張軍閥と葛藤を繰り広げます。満州事変が起こり張軍閥が一掃されると各地の実力者が結集して新国家建設に奔走し、満州国となるわけです。その最大の功労者が関東軍作戦参謀石原莞爾です。石原を讃えたのは保境安民派、于冲漢で満州自治を、スイスのような永世中立国を唱えていました。

 満州建国にあたり張景恵、張燕卿、謝介石、邵麟らは溥儀を元首とすることで一致し、国号、年号、国旗、国体、政体についてはさまざまな意見が出されます。満州の在満日本人は当初の目的「日本の権益を死守」から満州とモンゴルの独立を目指す独立国家論者へ変化し、新国家建設に情熱を燃やすようになります。そして溥儀を執政とする民主共和制が決定され、国号を満州国、国旗を五色旗、国都を新京と定めました。

 石原莞爾は建国の年の8月の関東軍人事異動により転出しますが、東京での満州に関する会合で満蒙開拓移民に関して原住民との一体化を助言し既墾地を取り上げてはならない、と述べています。(原住民が蜂起した事件があった)1937年に東條英機関東軍参謀に就任すると石原莞爾は参謀副長に就任。再び満州へ渡ります。建国したばかりの満州ではうまくいかないこと、不満も多々あり、石原のもとには千客万来であったといいます。

 満州は日本の植民地や関東軍の野望のための傀儡国家などと戦後言われてきましたが、他民族の共存共栄の理想郷として多くの日本人、満州人、漢人、モンゴル人、朝鮮人が情熱を傾けた国だったのです。



参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 新人物往来社歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
参考サイト
 WikiPedia「張孤」「石原莞爾


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