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東條英機

社会

東條英機

とうじょうひでき

東條英機大日本帝国陸軍軍人で政治家。第40代内閣総理大臣陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。

略年表

明治17年(1884年)7月30日に東京市麹町区(現在の千代田区)で生誕。

東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を卒業し、

明治38年(1905年)3月 陸軍士官学校卒業(17期)同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。

明治40年(1907年)12月21日に陸軍歩兵中尉に昇進。

明治42年(1909年)伊藤かつ子と結婚。

大正4年(1915年) 陸軍大学校を卒業。陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。

大正8年(1919年)8月、駐在武官としてスイスに赴任。

大正9年1920年)8月10日、陸軍歩兵少佐に昇任。

大正10年(1921年)7月、駐在武官としてドイツに赴任。

大正11年(1922年)11月28日、陸軍大学校の教官に就任

大正12年(1923年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)

大正13年(1924年)に陸軍歩兵中佐に昇任。

大正15年(1926年)には陸軍大学校兵学教官に就任

昭和3年(1928年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任。同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。

昭和4年(1929年)8月1日には歩兵第1連隊長就任

昭和6年(1931年)8月1日には参謀本部編制課長に就任

昭和8年(1933年)3月18日に陸軍少将に昇任、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。

昭和9年(1934年)8月1日には歩兵第24旅団長に就任

昭和10年(1935年)9月21日には、関東憲兵隊司令官関東局警務部長に就任

昭和11年(1936年)12月1日に陸軍中将に昇進。

昭和12年(1937年)3月1日、関東軍参謀長就任

昭和13年(1938年)5月、板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官陸軍航空本部長に就任。6月18日、陸軍航空総監に就任

昭和15年(1940年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣陸軍大臣を務めた

昭和16年(1941年)10月18日に、第40代内閣総理大臣就任内務大臣陸軍大臣も兼務。陸軍大将に昇進。

ちなみに、東條は衆議院本会議や、閣僚の演説を映像として撮影することを、歴史上初めて許可した。

大東亜戦争(太平洋戦争)開戦

昭和16年(1941年)12月8日 アメリカイギリスに対し宣戦を布告。大東亜戦争太平洋戦争)開戦。

昭和19年(1944年)7月18日 東條内閣総辞職陸軍予備役となり、世田谷区用賀の私邸に隠棲し、野菜作りなどして過ごす。

自決未遂

昭和20年1945年)9月11日 アメリカ軍のMPが連行しようとしたが、私邸にて拳銃による自決を図る。しかし未遂。


この日、ロンドン新聞記者に案内を請われて同行していた「科学朝日」の記者長谷川幸雄が瀕死の東條の「一発で死にたかった」に始まる「最後の言葉」を聞き取り、翌朝の朝日新聞スクープとしている。以下が「東條大将の遺言」として掲載された全文。

一発で死にたかった、時間を要したことを遺憾に思う。大東亜戦争は正しき戦いであった。国民と大東亜諸民族にはまさに気の毒である。十分自重して大局の処置を誤らぬことを希望する。責任者の引渡しは全部責任を負うべきである。・・・復興することはさらに困難である。・・・法廷に立ち戦勝者の前に裁判を受けるのは希望する所ではない、むしろ歴史の正当な批判に立つ。・・・切腹は考えたがやもすれば間違いがある、一思いに死にたかった、あとから手をほどこして生きかえるようなことをしないでくれ、陛下の御多幸を行く末までお守りしてどこまでも国家の健全な発展を遂げることが出来れば幸いである。

責任者としてとるべきことは多々あると思うが勝者の裁判にかかりたくない。勝者の勝手な裁判を受けて国民の処置を誤まったら国辱だ・・・家のことは広橋(伯爵)にまかせてある、その通りやればよい、家の事は心配ない。

天皇陛下万歳、身は死しても護国の鬼となって最期を遂げたいのが願望である・・・畠山水をくれ・・・腹を切って死ぬことは知っているが間違って生きたくない。責任は了した。死体は引き渡したらよい、俺の死体はどうなってもよい、遺族には言い渡してある、死体は遺族に引渡さなくともよい。しかし見せ物ではないとマッカーサーに言ってくれ。

 自殺に際して東條が使った拳銃については諸説あり、バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー記念館に東條自殺未遂の銃として展示されているのは32口径のコルトである。しかし戦後日本では「東條は22口径の拳銃で自決の真似事をした。本当に死ぬ気なら22口径など使わない」など*1批判的な見方もある。


昭和23年1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)にて死刑判決を受け、同年12月23日午前零時1分、東京都豊島区にあった巣鴨プリズン絞首刑となった。享年65歳。(満64歳)

辞世の句

「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」

「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」

「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」

「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」

殉国七士廟

東條英機ら、絞首刑になった七人のA級戦犯の遺体は遺族に返還されず、横浜市西区久保町の久保山火葬場で火葬にされた後、遺骨は飛行機で太平洋に投棄されたが、小磯国昭の弁護人となった三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺住職の市川伊雄が遺骨の奪還を試み、火葬場職員の手引きもあって、七人分の遺灰の欠片を回収することに成功。熱海市の興亜観音に運ばれ隠された。

昭和35年1960年)8月には愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂に改葬。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。

子女

長男の東條英隆は、弱視の為兵役免除を受け、鴨緑江発電職員であった。

次男の東條輝雄は、ゼロ戦や戦後初の国産旅客機である日本航空機製造YS-11航空自衛隊のC-1の設計に携わった技師で、三菱重工業副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。

三男東條敏夫は、息子たちの中で唯一軍人の道を進み、陸軍予科士官学校(59期)に進学、士官学校在校中に終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補にまで昇進した。

他には長女東條光枝(やはり陸軍軍人で実業家の杉山茂と結婚)、次女東條満喜枝、三女東條幸枝(映画監督の鷹森立一と結婚)、四女東條君枝(外国人と結婚しキミエ・ギルバートソン)等の子がいた。


その他

ネコ好きで、昭和16年ころに知人から貰ったシャム猫を大層可愛がっていた。



東條英機 天皇を守り通した男

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大東亜戦争の真実―東条英機宣誓供述書

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東條英機と天皇の時代 (ちくま文庫)

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祖父東條英機「一切語るなかれ」 (文春文庫)

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東条英機―大日本帝国に殉じた男 (PHP文庫)

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*1石原慎太郎などの説。