いま田中フミヤさんの「via」を見ているけれども、さっぱりなにをやっているのか分からない。正確にいえば、出ている音と動きの連関が見えない。のは、こちらにDJの知識がないから。いやー、しかしすごいな、なんか。このまえ試聴したルチア―ノのミックスCDがよかった。D&DEPARTMENT PROJECTのサイトによると「2008年7月末日を持ちましてD&DEPARTMENT PROJECT KAGAWA by 常磐通信社は閉店させていただく運びとなりました。」とのことで、「1ヶ月余りという短い間でしたが、皆様の応援、ご愛顧、ありがとうございました。この後は、香川店の前身であった「ルビー商会」という常磐通信社による独自の家具雑貨店へと戻り、8月上旬より営業を再開する予定です。」とのこと。そういえば、情熱大陸ナガオカケンメイさんの回でも、香川店の立ち上げが取り上げられていて、すでにナガオカさんと常磐通信社さんとの齟齬がすこし(というか大きく?)表れていたし、たしかD&DEPARTMENT PROJECTのブログだったと思うけど「香川店に「跳び箱」入荷しました!」というのをみて(http://web.d-department.jp/shop/blog/archives/2008/07/post_319.html)、跳び箱??と少し違和感を覚えたりした。なぜなら、ナガオカさんがやっていることは「ノスタルジー」を消費することではない、と思っているからで、「飛び箱」がいかに懐かしくノスタルジーを誘うものであったとしても、それを現代的に使い「直す(回す)」ことができなければ、「跳び箱」に「体育で飛んで運動する箱」以外の役割はないような。そして、跳び箱を「体育で飛んで運動する箱」として使う環境ではないところに置いたとしても、そのことで起きるのは「ノスタルジー」の消費しかないような。別にそれでどうというわけでもないし、いまはそういうことに違和感がありつつも、それで消費が循環するのなら否定はできないし、というふうに煮え切らないまま考え続けるしかなくて、あとモノにコトとしての価値を纏わせて不必要なモノを売りつける、なんて商売はくさるほどある、というかほとんどそれだ。コトを消費したあとでもモノは物理的に空間の一部を占めつづけるにも関わらず。だからビックリマンチョコのチョコウエハースはシールを取ったあと捨てられていたのではないですか。というようなことが、このまえ実家で見つけた(ということはつまり父ちゃんが買った)本、大塚英志「物語消費論」に書いてありました。というかこれはボードリヤールがいっていることかもしれませんが、ボードリヤールさんの考えについてはまだ知りません。というか本人から聞いていないというか、また聞きばかりです。とかいろいろ書いてきましたが、常磐通信社さんのやり方がダメだ!と言っているわけではなくて、ナガオカさんのやり方と常磐通信社さんのやり方に歩み寄れないほどの違いがあったんだなあと思っただけです。青山ブックセンターを運営している会社とそのグループ会社(親会社?)が破綻したらしい。ヤフーニュースで知る。あんまりこのこととは関係ないけれど、実家の手伝いとかしたり経済について興味が出てきたりしているなかで、ちょっと分かったのは、ひょっとしたら世の中の商売って、モノ(に限らずモノ的な対象性を持ったコトも含む)を「つくる」か「売る」かしかないんじゃないか、ということで、流通に関していえば、生産→消費、のあいだにどれだけの人間が入れるか、というイス取りゲームなんだなーということ。100円のコストで生産したものが消費されるときには1000円になっている、とかいうのはもはや当たり前のことで、この900円がどこにいっているかというと、生産から消費のあいだを繋ぐ人々のあいだで分配されているわけで。ものすごく単純化しつつ一例でしかないけれど、たとえば、つくる人→運ぶ人→つくる人から買って売る人に売る人(問屋)→運ぶ人→売る人(小売店)→買う(消費する)人、というような流れのなかで、原価と最終売価の差額は、それぞれ非均等に分配されているっぽい。で、モノがたくさん売れるときには、このあいだにたくさんの人が入っていてもみんなで分け分けできていたのだが(もちろん均等なんかではないよ!百貨店などは「売る」力が強い分、流通の流れのなかでも力を持っていたりする)、モノが売れなくなるとみんなそれぞれ分け前が少なくなる。それで、どうなるかというと、この「あいだ」の人数をいかに減らすか、ということになる。イス取りゲームのイス自体を取っ払おうと。だからいちばん儲かるのは、つくる人→買う(消費する)人なのだけれど、つくって、売る、のをひとりでやるのはかなりきつい。売るのは「売る」だけでひとつの職能になるくらい難しい。つくるのにもコストがかかる以上(材料費とかもろもろ)、安定して売りつづけないといけないし、利益を出すためには、単価の高いモノを売るか、単価の安いモノを大量に売るか、しかなくて、まあどっちも一緒といえば一緒だろうけれど、おそらくいまは後者が盛ん。高いモノを欲しがる人はそれが「高い」からで、「高い」からにはそれなりの伝統や権威がないといけなくて、そういうところに新たに入り込むのはなかなかきつい。いまは地域間の労働力の価格差を利用して、安いモノを大量につくるのが一般的っぽい。中国の安い労働力でモノを生産すればそれだけ安く売れる。イケアで58円とかで売ってるマグカップは原価いくらなんだろうか。これをつくっている中国の工場のみなさんの給料はいくらなのだろうか。そもそも、安いモノを大量につくって大量に売りさばく、というやり方が持つのはどれくらいなのだろうか。「安いからつい買っちゃう」なんてのもそのうちなくなるのではないか。売れ残ってしまえば、そのぶん資源を無駄にしているというわけで、その尻拭いは誰がするのか。気付いた誰かがすればいい、と誰もが思っていれば、そもそも誰も気付こうとしないだろうし(気付くまえに意識から排除するだろう)、気付いても誰も尻拭いなんてしないだろうし、誰にもできないのかもしれない。流通の「あいだ」の人数をいかに減らすか、というはなしに戻ると、かといって、あんまりイスを減らすと、ご飯を食べれない人がたくさん出てくるわけで、さらにかといって、イスを増やすとそれぞれの分け前が減って結局みんなご飯を食べれない。これをどうしたらいいのか。右から左に受け流すだけでお金が発生することに慣れきっている私たちはどうしたらいいのか。さっぱり分からんけど。ものすごく単純に考えれば、経済活動なんて、モノとお金の交換の循環で剰余を生じさせる、という錬金術をみんなでやっているだけだと思うのだけれど、これは果たしてこれからも続くのかどうか、続けられるのかどうか、またはこれに替わる錬金術があるのかどうか、が気になる(だけで、私はいま現在もその錬金術によって生き延びているので、そんなのはダメだ!とか思わない、というか、単純にそうは思えない)。世界の人口が大幅に減ったらそんな心配もないんだけどな・・減らしちゃうか・・とか考えている国レベルのお偉いさんがいそうで怖くもあるけれど、それが思い過ごしだと思いたい。と、書いてきたことと少し関連しつつ、今日は偶然にも宇仁管書店にて、バタイユ「呪われた部分」を発見したので、すこし迷ってから購入。バタイユの説く「消尽」の経済学ってなんぞや。ああ、あと今日思ったことをもうひとつ思い出した。昨日の稲葉振一郎さんの「経済学という教養 増補」「第一章 こういう人は、この本を読んで下さい」からの引用とも関わってくるのだけれど、人文系の知が自然科学系の知に対してもっているコンプレックスのでどころを、稲葉さんは

近代以降に社会における自然科学の権威というのは、何より第一にその「現世利益」から、つまり研究成果の産業技術的な応用のありがたみから来ている。「鰯の頭も信心」どころか、信じない者に対しても確実に効くその現世的な力こそが、近代自然科学の権威の核心である。

というところに求めていて、要するに、目に見えて社会の役に立っている自然科学系の知が羨ましいのだ、人文系の知は、ということらしい。こういうコンプレックスの持ち方で思い出すのは、アートとデザインの関係で、デザインが目に見えて社会の役に立つ、かどうかはさておき、いまやあらゆる経済活動に「デザイン」は欠かせないので、やはり役に立っていて(少なくともニーズはある)、経済活動においてアートがなにか役に立つかというと、たんに商品としての価値しかないわけで(客寄せパンダとしての活動も含む)、そういう違いはある。いま、社会の役に立つことといって思い起こされるのは、産業=経済によって受ける恩恵、だろうし、そこにはどうやっても部分的にしか入り込めないアートがどう自分の価値を主張していくのかが面白いところではある。簡単にいえば、「アートなんて何の役にも立たないじゃん」という疑問に対して、「役に立たないものがあってもいいじゃん」以外の答えを用意しなければならない。で、またもや稲葉さんなのだけれど、イデオロギー批判が陥った袋小路、ということを語っていて、

乱暴に言うとマルクス経済学者たちは、「資本主義に荷担することを避ける」という大義名分の下に、政策実践の場でその切れ味が試される本来の「経済学」から逃避し、「経済学批判」という安全圏に立てこもってしまったのだ。<中略>すなわち「経済学批判」を通じてブルジョワイデオロギーによる「洗脳」を解く、というわけである。そしてこの「経済学批判」におけるイデオロギー批判の論理は、面白いことに、経済学を越えて広く人文社会科学全般に輸出されることになった。何しろ、実践的な政策科学としての経済学のみならず、伝統的な人文科学、「虚学」とされてきた文学、芸術のフィールドもまた、イデオロギー批判の観点からすれば、「実」の世界、人々の思考や感性に、ひいては社会の構造にまでも影響を与えうる力の展開する場ということになる。

「虚学」とされ、目に見えて社会の役に立たない(経済に直接貢献できない)芸術は、みずからの存在意義を「イデオロギー批判」に求めてしまった、ということで、この気持ちはなんというか本当によく分かるが、正直なところ、芸術の「イデオロギー批判」、つまり、思い込み批判、誤謬批判、欺瞞批判、によって人々をあるべき方向に導く、というのも、いまひとつピンとこない。いや、気持ちはものすごく分かるんですが。。だいたいどこに導くのか、というか。。思い込み=現実を否定するのなら替わりの思い込み=現実をあてがうしかなくて、それはそれでなんなんだという。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20070712 かといって、「イデオロギー批判」じゃなければ、「(広義の)エンターテインメント」になるしかない、という現状も気持ち悪くはある。前衛=「イデオロギー批判」というイメージもなんだか固まってしまっているし。なんなんだろうか。。とにかく面倒臭いな。。「アートなんて何の役にも立たないじゃん」という疑問に対して、なんて答えたらいいのか。。いや、別にアーティストじゃないんですが、芸術は擁護したいので。ん、じゃあなんで擁護したいのだろうか。そのへんになにかあるのか。お、「アート」と「芸術」というふたつの言い方が混在していますが、特に意味はなくて、たんに「デザイン」と対比するなら(できるかどうかはさておき)、カタカナがいいかなというだけで、あと、いまって、消費者の意思表示は「買う」ことだ、っていうふうになっていて、消費者の方も「買う」ことで意思表示ができる、と思っているふしがあって、そういうときの「買う」って「選ぶ」なのだけれど(そういえば、「あなたはあなたの選んだものでできている」とかいうコピーのCMがあるな)、そのばあい、選びやすくないと選ばれないわけで、つまり、選ぶ理由をも提供してくれるモノでないと選ばれないわけで、役に立つとか、品質がいいとか、の以前にそれがある。だから「売れる(選ばれる)」=「良い・必要」ではないし、「売れない(選ばれない)」=「悪い・不必要」ではないし、当たり前だが、「売れる(選ばれる)」=「悪い・不必要」ではないし、「売れない(選ばれない)」=「良い・必要」でもない。具体的な利用価値以外のところで選ぶ理由=メリットがないと、そのモノ(商品でも作品でもいいけど)は選ばれない。オシャレだ、とか、趣味に合う、とか、物語に浸れる、とか、あとなんだろう、まだあると思うけど、そういうメリットがある、ないしは「ある」と思われないと、選ばれない。なくてもあるように見えればよかったりもする。そう思えたらそれでいいので。なんというか、こういう消費形態に限界を感じてしまうのは、結局のところ、消費によってつくられた自己イメージを守るためにのみ消費する、なんてことになってしまうからで(テクノ好きの人がテクノのCDを買うのは、テクノを聞きたいというのとは別に、「テクノ好き」という自己イメージを再生産するためでもあって)、簡単にいうと、そのことがなぜか差別を生み出してしまうということで。自分の趣味じゃないものを選ぶ、つまり自分の趣味に反する趣味を持つ他人に対して、「なんであんなのを選んでんだ?ダセ―な。」とかついつい思ってしまうというか、そういう経験ありませんか?私はあります。自分で思うからこそ、逆に自分がそう思われていないか心配になったりとか。で、なんかそういう狭い範囲のムラのなかにみんなそれぞれ閉じ篭っていると。それでなんか得したかなとふと思ってみたときに、別になんにも得してないなと思ったわけです。自分を守るために自分以外を攻撃する、というのはとりあえず不毛なわけで、変化に対して柔軟になれば自分を守る必要なんてものもないかなと。そもそも「自分」と「自分の趣味」と「自分のやっていること」は別である、と私は思いました。というか、ある一貫性を持つ物語=意味としての「自分」なるもの=自己がなぜ必要なのか、と。出来事が起こり、変化し続ける「場」としての身体という精神、精神という身体さえあれば、別にそれでいいのではなかろうか。と思いました。