お城好きな日本人

わたしの城下町

「城下町」に生まれ育つと、いやおうなくその町にある「お城」にさまざまな思い出がまつわりつくことになるのだろう。江戸城のように大きすぎて関わり方が多様になるお城はともかく、地方都市においてお城は町の中心、シンボルであって、公園化されている場合が多いから(それを言うなら江戸城も同じか)、何かと出向く機会も多くなるのだ。
木下直之さんは浜松生まれ。新著わたしの城下町天守閣からみえる戦後の日本』*1筑摩書房)を読むと、こんな「浜松城」に関する思い出が綴られている。

高校生のころ、市内の別の学校に通う女子高生とお城に登り、石垣の上で、X年後にまた同じ場所で会おうと約束したが、うっかりそれが何年後だったのかを忘れてしまい、それっきりになった。浜松城を見るたびにそのことを思い出す。(172頁)
そもそも木下さんの通った中学校が「城内」にあったのだという。わたしにも上に引用した木下さんのような経験に似た甘美な記憶がないではない。わが山形城の二の丸は石垣やお堀などがきれいに残り、城内は「霞城公園」として市民の憩いの場となっていた。県立博物館などの文化施設や、県体育館・市営球場・プールなどのスポーツ施設が設けられていた。
近年山形はこのお城を観光の目玉にしようと、大手門を復元した。さらに二の丸内に本丸をも復元しようと、公園内の諸施設を撤去したはずである。もともと敗戦前はここに陸軍第32連隊の営舎があって、発掘の結果本丸の遺跡はこのときほとんど破壊されたことがわかったと仄聞している。いま計画はどうなっているのだろう。まだ発掘は現在進行形なのだろうか。
大手門を入ったところに、山形を発展させた戦国大名最上義光のカッコいい騎馬像があって、お隣仙台の伊達政宗像と張り合っていた。のちNHK大河ドラマ独眼竜政宗」では、義光を原田芳雄が演じ、陰謀策略好きで陰湿な人物として演じられていることに、山形人として少なからぬショックを受けたことを思い出す。
さて木下さんの本は、江戸城を出発点に、全国(といっても江戸以西)のお城をめぐり、戦後の天守閣復元やお城に建てられた銅像などモニュメントを取り上げ、戦後日本における「お城」の意味合いを探った面白い本だった。
戦後の昭和30年代頃、全国で鉄筋コンクリートによる天守閣建築が相次いだという。木下さんは「昭和の築城ブーム」と呼ぶ。「築城」という言葉は、戦国武将が壮麗な天主を築くという意味でこそ生きるものと信じていたけれど、城を造ることがイコール築城にほかならないのだから、昭和の現代人がコンクリートであれ城を造ればそれも「築城」であるという当たり前の事柄を突きつけられた。
戦国時代と現代が「築城」というキーワードでひとつながりになった瞬間である。「築城」という言葉で日本人とお城との関わりを切れば、戦国時代も現代も同一平面上で論じてしまえるという荒技も可能なのだ。天守閣の存在が裏づけられない城跡に天守閣を造ってしまったり、そればかりか城跡すらないのに「築城」して観光スポットにしてしまう日本人のお城に傾ける情熱。「熱海城」が後者に該当する。
どう考えても、このような戦後の天守閣は「無用の長物」ではない。明らかに有用であり、現役である。むしろ、明治維新という自明の境界線を疑ってかかる必要があるのだろう。(361頁)
木下さんのこれまでのお仕事は、すべてこのような「自明の境界線を疑ってかかる」という発想に収斂される。現役か退役か、有用か無用か。お城というものの固定観念を取り払って見てみれば明治維新という近代と前近代の境界線が無効になったという、きわめて刺激的な体験を本書を通して味わうことができる。
それでは日本人はなぜこれほどまでにお城に執着するのか。木下さんの他の著書にも共通する、おもちゃ箱のようなバラエティに富んだ文章を一度通読してもなかなか答えを見つけることはできなかった。やはりここで紹介されているようなお城を実際訪れてこそ、その歴史的意義が実感されるのかもしれない。

追悼 桂木洋子

「やがて青空」(1955年、東京映画・東宝
監督小田基義/原作北条誠/脚本笠原良三桂木洋子小林桂樹/太刀川洋一/斎藤達雄沢村貞子松島トモ子浪花千栄子/白鳩真弓/清水谷洋子/舟橋元/力道山

朝日新聞の朝刊を番組欄から眺め、一枚繰って社会面をざっと見て紙面の左下隅にあった黒枠の死亡広告が目に入り驚いた。
「故黛敏郎妻 黛佳惠(桂木洋子)儀 三月に逝去いたしました/ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご通知申し上げます/なお個人の意志により近親者のみにて葬儀を執り行いました/お心遣いはご遠慮申し上げます/平成十九年四月二十五日」とあったからだ(広告主体は有限会社黛敏郎音楽事務所・親族代表黛りんたろう)。朝の寝ぼけまなこが一気に醒めた。
そもそも往年の松竹の美人女優桂木洋子さんが黛敏郎氏の奥様で、黛りんたろう氏の母上にあたることを知ったのは古本で手に入れた『ノーサイド』1994年10月号(特集「戦後が似合う映画女優」、表紙写真は桂木洋子と若山セツ子が抱き合う印象的なものだ)によるから、つい最近のこと。調べてみるといままで見た桂木さん出演作品は下記の7作のみなので、それほど多くはない。このなかに代表作と言われるような作品はたぶん入ってはいまい。
それでもあえてあげるとすれば、「渡り鳥いつ帰る」で演じた薄幸な娼婦の役が印象に残っている。顔が小さく目はぱっちり、チワワのような童顔(褒め言葉)で、それでいながら純情可憐な役柄だけでなく、娼婦などの汚れ役も決して違和感なく受け入れられるような、不思議な魅力を持った女優さんだった。
1930年生まれというから、享年77か。四十九日の喪が明けてから公表されたのだとすれば、三月初旬にはお亡くなりになっていたのだろうか。往年のスターが人生の幕を下ろすにあたり、たとえば船越英二さんのように没後大きく取り上げられたのとは対極にある、静かな静かな幕引きだった。

  • 「真実一路」(1954年、松竹、川島雄三監督)
  • 「晩春」(1949年、松竹、小津安二郎監督)
  • 「泉」(1956年、松竹、小林正樹監督)
  • 「破れ太鼓」(1949年、松竹、木下恵介監督)
  • 「硝子のジョニー 野獣のように見えて」(1962年、日活、蔵原惟繕監督)
  • 「渡り鳥いつ帰る」(1955年、東京映画、久松静児監督)
  • 「やっさもっさ」(1953年、松竹、渋谷実監督)

このほかに何か桂木さん出演作品を観ようと、録りためていたDVDのなかから選んだのは、「やがて青空」という作品である。松竹専属の桂木さんが東京映画(東宝配給)で撮ったもの。どのような経緯が裏にあったのかわからないけれど、サラリーマン俳優として売り出し、この年正式な東宝専属になった直後の小林桂樹さんとの共演が「売り」だったのだろうか。
この映画での桂木の役どころは雑誌記者。祖母(浪花千栄子)の持ち込んだ縁談に見向きもしないバリバリ働く女性記者である。柔道選手権で優勝した選手に取材しようとしたら、行き違いになってしまい、そのとき敗れた準優勝の選手を人違いしてインタビューしようとしてしまう。それが小林桂樹で、彼は柔道の現役選手であると同時に、桂木の雑誌のライバル誌の記者でもあるという関係。
二人の間にはそれだけにとどまらない。小林は、桂木の弟太刀川洋一の大学の先輩であり、祖母が持ち込んだ縁談の相手でもあったという二重三重の縁があった。「強情っ張り」の桂木と小林が反発し合いながら、実はお互い惹かれて…というお決まりのストーリー展開ではあるが、線が細くて可憐で童顔の桂木洋子が、「強情っ張り」な娘で敏腕記者という芯の強い女性を演じても実に似合ってしまう。意外に(?)「大人の女性」役がいいのである。
もともとずいぶん前に力道山特集で流されたとき録画しておいた作品なのだが、力道山は特別出演でちょっとしか出てこない。桂木洋子に取材を受ける本人の役。何せ力道山はいまのわたしと同じ年齢のとき亡くなったのだからなあ。映画は三十代前半の頃だから、若々しい。
このほか、謹厳実直な教育者である桂木・太刀川兄弟の父斎藤達雄がいい味を出している。桂木・太刀川の末妹として、すばらしく芸達者な子役松島トモ子が出ている。家のなかでマンボを唄い踊って陽気に騒ぐので、父の斎藤から苦々しげに注意される。
太刀川が所属する大学ボート部の練習風景に戸田が出てくる。いまも戸田には漕艇場があるけれど、映画では水路のまわりは何もない野原である。