映画監督。脚本家。映画プロデューサー。日本大学芸術学部卒。
故人。
1927年(昭和2年)5月31日、生まれ。インドネシア・ボルネオ生まれ。
弟は映画監督・映画プロデューサーの蔵原惟二。
大学在学中より映画監督・山本嘉次郎の家に書生として住み込み、1952年(昭和27年)に松竹へ助監督として入社。
1954年(昭和29年)、日活に移る。
1957年(昭和32年)、石原裕次郎主演作品『俺は待ってるぜ』で監督デビュー。その後は日活アクション作品を撮り続け、小林旭、宍戸錠といった名優たちの作品を演出。日活を代表する監督として知名度を得る。
日活の一般映画撤退をきっかけにフリーに転身。日活時代からの盟友・石原裕次郎が主宰する石原プロで『栄光への5000キロ』などを演出しながら、テレビ作品へと舞台を移していく。
特に、人気時代劇シリーズ『必殺シリーズ』では『必殺仕置人』で初参加。以降、様々な作品に欠かせない監督となり、『必殺シリーズ』独特の演出である、光と影の演出の基礎を築いた人物としても有名。また、『必殺からくり人』の第1話「鼠小僧に死化粧をどうぞ」では、芦田伸介演じる壺屋蘭兵衛が殺害されるシーンの際に、芦田をガラス板の上に立たせ、倒れた瞬間、豪雨に滲む鮮血を大アオリで捉えたショットが何とも印象的であった。
1983年(昭和58年)、『南極物語』では邦画史上空前の観客動員数&配給収入を記録。
当初は映画『必殺!三味線屋勇次』の監督を務めるはずであったが、体調の悪化により降板。その後も持病の心臓病との闘病生活が続いており、入退院を繰り返していた。
2002年(平成14年)12月28日、肺炎のため横浜市内の病院で死去。享年75歳。
1997年(平成9年)、勲四等旭日小綬章を受章。