自治体法務の備忘録

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「憲法への上書き」「法律への落書き」

 解散と総選挙の日取りが報道を賑わしており、地方分権もその争点として取り上げられることが多いようです。
 自治体が期待される法運営を担えるかについては、意識の問題だけではなく、知識と実績からも評価されることが多くあろうところ。しかしながらそれは、私たち自治体法務担当者において、「政策法務」と「法治主義」のバランスとして常に自戒されるべきでありましょう。
 積極的な分権論に、もちろん水を差すつもりはありませんが、先ごろ刊行されたばかりの「自治体法務NAVI」最新号(Vol.19)で、森幸二氏(北九州市政策法務自主研究会)が一部の自治体条例を取り上げて「憲法への上書き」「法律への落書き」として厳しく指摘されている内容を拝見すると、その思いを新たにします。

自治体における政策法務の「かたち」】
(kei-zu注:自治体における法務研修は)「政策や価値を機械的に条例という箱に入れれば、それで法として機能する。地域の課題が解決する」という、決してあってはならない条例に対する誤解、それにとどまらず「法」そのものに対する誤った認識を自治体職員、特に行政経験の比較的浅い若い職員に植え付け、「憲法への上書き」や「法律への落書き」につながっている。
(12ページ)

 なにより、氏も指摘されていますが、「よそもやっている」という思考停止が許される筈はありません。

政策法務の「神学」

 さて、4年ほど前ですが、市場化議論が盛んな時期において、日経が開催するシンポジウムで、推進する立場から自治体職員の方が

「『公権力の行使の主体とは』という『神学論争』は、この際しないんです」

と発言されるを聞いて戸惑いを覚えたことがあります。
【法学者と行政官の乖離】http://d.hatena.ne.jp/kei-zu/20060416/p1
 その発言の中で否定的に「神学」と呼ばれるものにこだわるべきこそ、私たちの役割ではないのか。
 ここで市場化の是非について意見を述べることは留保しますが、同自治体における市場化の試みについて否定的な論調も目にするところ、そのいわゆる「神学」をないがしろにして、「説得力」のある反論を果たして構成することができるのか、といささか不安に思うところです。
 「神学」といえば、このあいだ、先頃有罪が確定し、失職に至った「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏の新刊を読むことがありました。

神学部とは何か (シリーズ神学への船出)

神学部とは何か (シリーズ神学への船出)

 同志社大学神学科卒という異色のキャリアをお持ちの著者による記述の内容は、なかなか知的好奇心がくすぐられるものであったのですが、それはさておき。

(前略)神学論争は官僚仕事をやる上で非常に役に立つ。官僚はまず最初に結論を決め、そしてあとはそこに向けた議論を組み立てていく。(中略)ディベートは議論をして結論を出す仕組みではない。二つの相反する結論があり、両者のそれに向けての討論過程が重要なのである。
(24頁)

という旨の記述には、政策法務としての「神学」を捉えかねていた私にとって、なかなか興味深いものでありました。*1
 この点、横須賀市職員時代の出石稔先生のご講義による政策法務研修で

政策法務の実施には『確信犯』としての役割が必要だ」

と伺って、なるほどな、と思ったことを思い出したものです。
 なお、ここで「確信犯」とは、「わかってて悪いことをする人」の意図ではなく、「正しいと信じてことに当たる人」である由。
 いずれにせよ、私たちは、期待される「自治」の運営のため「説得力」ある理論構築を行うべく、調査と研究を怠ることは許されません。

*1:もちろん、クリスチャンである氏は、神学を否定的な技術論として記述しません。それどころか、「信仰」のない「神学」はない、と明記します。