年末年始放浪記・熊野一日目

■年末年始放浪記・熊野一日目
夜行バスは予定通り朝八時前で新宮に到着。
熊野へいくって中川さんに言ったら、「新宮の見所が多い。神倉神社は必見。浮島の森。(『雨月物語』「蛇性の婬」の舞台)。丹鶴城趾。」と進められました。
もっとも、速玉大社に近いので新宮で降りる予定になってるから丁度良い。
バスの降り場のすぐ傍に徐福公園があり、但しまだ開いてませんでした。地図を手に先に速玉大社
か神倉神社かと迷ってて最終的に先に神倉神社へ行きました。


祭神が高倉下の神倉神社は絶景。麓に出雲大社新宮教会があり、「和歌山県朝日夕陽百景」がある。
ちなみに速玉大社の元宮とも言われる。地名は新宮と云うのが元宮と比べた為といいます。
なんといってもその階段が神神しい雰圍氣を醸し出す。頂上の琴引石は『日本書紀』に記載された「天磐楯」と比定されており、古代史ファンとしては行かざるを得ないところだと思います。

 六月乙未朔丁巳,軍至名草邑,則誅名草戶畔者。遂越狹野而到熊野神邑,且登天磐盾,仍引軍漸進。


 [略]


 天皇獨與皇子手研耳命帥軍而進,至熊野荒坂津。【亦名,丹敷浦。】因誅丹敷戶畔者。時神吐毒氣,人物咸瘁,由是皇軍不能復振。時彼處有人,號曰熊野高倉下。忽夜夢:「天照大神謂武甕雷神曰:『夫葦原中國,猶聞喧擾之響焉。宜汝更往而征之。』武甕雷神對曰:『雖予不行,而下予平國之劍,則國將自平矣。』天照大神曰:『諾。』時武甕雷神登謂高倉曰:『予劍號曰韴靈。【韴靈,此云ふつのみたま。】今當置汝庫裏,宜取而獻之天孫。』高倉曰:『唯唯。』」而寤之。明旦,依夢中教,開庫視之,果有落劍,倒立於庫底板,則取以進之。于時,天皇適寐,忽然而寤之曰:「予何長眠若此乎?」尋而中毒士卒悉復醒起。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki03.htm#sk03_02


熊野 神倉神社




神倉神社を後にして速玉大社へ。速玉大社のほうが知名度高いのですが、個人的に神倉神社とセットしなきゃいけないという実感を持ちました。
速玉大社に関して社殿の並びが美しくて、手水舍も印象的な造り、熊野御幸の碑に天皇等の参詣が書かれてます。宝物殿に弁慶像あり、見学させていただきました。


熊野 熊野速玉大社


のち、丹鶴城趾經由し阿須賀神社へ。そこに「神武天皇聖蹟熊野神邑」碑があります。
須賀神社は徐福上陸地という海に接して、後ろに蓬萊山といわれるのが神体といい。
生憎タイミングが惡くて宮司さんが外出中、朱印を求とめるため待ちました。そこで宮司さんと楽しく色々話しました。社務所の本棚にいろんな熊野関係の本があり、三島由紀夫の『三熊野詣』は自分が熊野へ来たがる一因にもなります。ちなみに宮司さんから「FB友にならないか?なんかコメントくれれば誰かと分かれば友たちリクエストを承認します。」との誘いがありましたのですが、結局宮司さんのFBがセキュリティかかてて友人以外はコメントできませんでした。とほほ。


丹鶴城趾


須賀神社 神武天皇聖蹟熊野神


浮島の森は『雨月物語』「蛇性の婬」の舞台といい、オリジナルの伝説は若い子が蛇に食べれた「おい伝説」で「蛇性の婬」とはまた別物、話によると神倉神社はもともと修験者修行の場所で女性が來るのが宜しくないからこういう伝説を作り出したのではないかと云う話があります。生憎浮島は今の所で浮きません、地方が浮島の復原を努めてます。管理者が皆が参観する前に詳しく説明してくれました。そのあと、徐福公園をすらっと回って花之窟神社へ。


浮島の森



徐福公園



花之窟神社は『日本書紀』神代にも書かれた大変由緒のある神社で前から来たかったんですが、実は新宮からのそれなり遠く、バスが時間掛かるし電車もあんまり本数が無かったりします。この日着いたら既に四時過ぎで社務所休みで翌日またくる羽目になりました。但し、何回も來る価値があるところに間違いません。祭神は伊弉冉尊と珂遇突智でした。

一書曰:伊奘冉尊生火神時,被灼而神退去矣。故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。土俗祭此神之魂者,花時亦以花祭。又用鼓、吹、幡旗,歌舞而祭矣。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki01.htm#sk01_05


熊野 花之窟神社 傳伊邪那美命




このひ止まったのは本州最南端串本の民宿

港町風情を吟味したいと思いますが、着くのが夜遅く、翌日立つのが未明ということで正直寝てるだけです。