Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『ソーシャルストリップ』

 一時間早く仕事をあがって赤坂から渋谷に向かう。今朝赤坂まで向かう時に自転車の後輪がどうも地面を感じる、つまりは凸凹だとかマンホールだとかの感触がタイヤからダイレクトな感じでサドルのケツに来る感じで、来るって言ってもそれは弱いというのかほどほどなんだけど空気がないのかなって思う程度のそれであって朝はさほど問題は起きずに通勤して、で帰りに後輪触ったらけっこう空気がなくてパンクかなって思ったけどそうでもない程度に空気が減っていて漕ぎながらやっぱパンクかなって感じぐらいに凸凹だとかマンホールが朝の比ではないぐらいに伝わってきてヤベエ〜なんとか外苑前近くの自転車行くしかねえってもう後輪は空気ないままにこいでなんとか自転車の表にあった空気入れに頼る。何度も空気入れで腕を使ってポンプを上下させて空気パンパンにして後輪は膨らんだ。パンクかどうか確かめた方がいいんだがとりあえず吉祥寺に行かねばならぬので渋谷の道玄坂に自転車を置きたい、で用事が終わって渋谷から家に帰る時にパンクしていれば空気は抜けているだろうとそのまま青山通りを突っ切って原宿方面への坂道を下って交差点をタワレコ方面に向かう、いつもの流れで円山町の坂道を抜ける、金曜日だからライブ待ちとかで道が人で埋っていて邪魔だ。ローソン前辺りで女子高生二人組が道の真ん中を歩いている、邪魔すぎる。よけて横を通り向けようとすると左側の女の子の手が急に伸びてくる、避けれないのでそのままその子の手と僕の右手があたる、彼女の左手にはスマフォがあって小さく「あっ」という声が聞こえてスマフォが地面に落ちる音がインナーイヤフォンをしている僕にも聞こえる。音はガラス面が割れたような音はしなかった。ただスマフォが地面に落ちた音だった。停まって謝るのも違うと思ったし危ないだろうと怒るのも違うと思ったからそのまま坂をのぼった。道の真ん中を楽しく歩いていてはいけないし急に手を出してはいけない、当たって謝らないのもいけないと思う。だけど避けられないものは避けられないのでどっちもどっちだろうと思った。ただ、誰かのなにかが大事なものが壊れるような音はあのスマフォが地面に落ちた音を思い出すかもしれないなとなんとなく思った、ただそう思った、理由はとくにはないけど。



 井の頭線に乗って吉祥寺に行く。井の頭線には年に数回しか乗らないからわりと新鮮な気持ちになる。そういえば去年も一昨年も元旦に古川日出男さんの『サマーバケーションEP』ごっこという名の井の頭公園から始まる、神田川の源流がそこにあるからだけど、神田川沿いを歩いて隅田川へそして隅田川を南下して晴美埠頭の東京湾まで歩くことを二年連続したので正月は朝一で井の頭線に乗って井の頭公園で下りていたのだった。だから二年連続朝日というか太陽をがっつり見るのは井の頭線からだったりする。


 電車の中では大塚英志著『メディアミックス化する日本』を読んでた。カドカワドワンゴの合併の話でもあるんだがこの三十年ほど、八十年代に始まったメディアミックスの中にいた大塚さんのこの本は『物語消費論』とも繋がっているし興味深いのはオウム真理教とメディアミックスの件のところでそれはオウムにいた幹部と大塚さんをはじめとする当時出版社にいたひとは誰かをひとりかふたり介せば繋がるような距離にいたということが「ジャンク」なものの積み重ねにしか見えない彼らが狂気に走っていくのに気付くのが恐れるほどに近いところにいたということだった。



「政治の季節にわざわざ政治的でなかった人間もまた、八十年代の「サーガ」のプレイヤーの一つの典型です。」
 ああ、『ノルウェイの森』を書いた村上春樹の初期三部作がサーガなのもねと納得したりね。まあ、ここでは『ガンダム』の富野さんとかジブリの鈴木さんとかも出てくるわけだけど、政治の季節で破れていったものたちがのちにアニメやそういうものに託したものについて。



 時間は早かったからブックス・ルーエに寄ってみる。花本さんはいなかったけど大盛堂の山本さんとかとトークイベントがあったみたい。二階の「仲俣暁生さんが選ぶ今こそ読みたい、橋本治の名著たち」フェアをのぞく。

 フリペをゲットする。前にB&Bでの橋本治著『恋愛論』でのトークイベントの打ち上げで仲俣さんに小説で僕が読むならなにがオススメですかって聞いたら『橋』って言われて買って冒頭を少し読んだけどまだ読めてなくてそれもフェアに入っていた。




 りのちゃんの『ソーシャルストリップ』観に。

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ソーシャルストリップ
さく・えんしゅつ・きゃくほん・しゅつえん:大道寺梨乃(FAIFAI)


おなじ色や形のビーズをビンにつめてタグ付して整理していくと部屋がかたづき
さらにネックレスを作るときもかわいいものをつくりやすくなる
それとおなじように自分の体と心にところかまわずつもっていくきおくというものを
整理しタグ付けしならべていくことで
このパフォーマンスはできていく
この場合できあがったパフォーマンスは
ネックレスということになるのだけど
それはみてくれる人の頭のなかにできあがっていくものなので
実際に目でみることはできない
だけど目でみることはできないものを
お客さんはみに来る

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2014年10月横浜の黄金町と東京の吉祥寺にて、大道寺梨乃による初のソロ公演。
みにつけているもの・着ているものが持っている物語をひとつひとつ話しながら脱いでいくという演劇作品。
2016年2月には英語Verでの上演も予定しています。

「ソーシャルストリップ」特設サイトはこちら〜♡
http://social-strip.tumblr.com/
イベントのfacebookより転載
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 世界への旅と服を着たり脱いだり、ああこれって「生きる≒衣着る≒ikill」でソーシャルス・トリップで、人は場所や言葉や思想や相手によって服を着替えるようになにかを纏う。裸では生きていけないから纏う。思い出とか希望とかほろ苦さや断絶をクロスさせて日々を纏いながら旅をする。これからの決意とかあるからさらけ出せた部分は少なからずあったんだろうなあ。
 りのちゃんの台詞の言い回しとか快快のときも思ったけど私小説よりも私小説的なものを感じて。文字で読むよりもたぶん彼女が声を出して台詞にすることで、リズムだとか単語が内面に通じて外に吐き出されてるむきだしなものを感じるあ。


 エクスポ行った時になぜかりのちゃんとこーじに声をかけられてビール飲みながら少し話して今度『My name is I LOVE YOU』やるから観にきてよって言われていくいくって言って五反田の東京ピストルが入ってたとこだったと思うけどそこで観て「おお、すげえポップ!!」って楽しくなって新作とか観に行けるときは観に行くようになってWSで池袋の西口公園でゴリラになってみたりとか演劇をそんなに熱心に観なかった僕はなんだかんだ快快は観に行くような感じになっていた。ゼロ年代の後半に僕は大地震原発の爆発に伴う放射能汚染だとか予測できるはずもなく、ヤンデレだとかツンデレだとかデフレスパイラルだとかリーマンショックだとか911だとかイラク戦争だとかそんな世紀末に世界は滅亡しなかったのに、いやしなかった故に悪夢のオンパレードみたいになっている変な世界の中できっと次の十年はカラフルなものに世界が埋め尽くされる、いやきっと望んでいるだろうと思っていたし待望していた。だからポップでカラフルな散乱銃によって十年代は明るいものに向かっていくのかもって思ったんだ、うん、そうなっていく予感があった。それは快快の演劇でありパフォーマンスの中に観たし大きな流れはせめてそこに行ってほしかったんだけど大地が大きく揺れてしまって人災と言える事故が起きてからどんどんその芽は潰れていくように見えていた。だけどその芽は当然すべてが消えるはずもなくて耐えていた。僕たちは放射能が降る世界でも踊るし笑うし歌っていくしかなかったしそんな時にこそポップだとかアイロニーも含めた未来への展望を語ることは大事だったし友達や恋人や仲間とゆるやかに繋がってなんとかこんな社会だったり世界と対峙するだけではなくなんとかうまくやっていける方法をそれぞれがそれぞれの方法で見つけようとしていたのがあの2011年から今に至る中で起きていたのだと思う。そういう時間だったから僕たちは変わるものと変わらないものなんかを痛感せざえるえなかった部分はあるし、考え方も生き方も変わっていく人やそれは僕もだしいろんな人がそうだったから今までの関係性から変わってしまって終わる付き合いも新しく始めるものも当然あったのだ。そういう時間があって今の僕らはいるって感じ、そういうものだと思う。
 りのちゃんのストリップという単語での服だとか部屋にあるものにある思い出とか買った場所とかその時の誰かの言葉だったりとか脱いだり着たりする行為そのものが僕たちが生きていく中で纏う考えや思想や生き方や思い出みたいなもので、ああなんだかまるでりのちゃんの人生を見せてもらっているんだなって観ながら思って、だからとても私的な物語だったけども同時に他者であるりのちゃんの人生を垣間見るようだから同時に自分のそれらにダイレクトに訴えてくるものがあった。だから観るものの私小説も引き出してしまうそんな舞台だった。