アルゼンチンに「日本人奴隷」は本当にいたのか

 ちょっと興味を持ったので「日本人奴隷」という見出しタグを作ってみました。過去の関連テキストもタグを修正しました。
 関連テキストは、今のところ以下のようなものです。
「キリシタンが日本の娘を奴隷として50万人も買った」という既知外テキストを信じている人がまさかいようとは
「50万人もの日本の若い女性がキリシタンや大名によって売り飛ばされた」という証拠の史料はなかなか見つかりませんでした
「バテレン追放令」の「十条」について
 
 もう、ウィキペディアにも書かれてたり、
奴隷貿易 - Wikipedia

天文11年(1543年)の鉄砲伝来の後、1540年代後半から始まったと考えられている。16世紀後半にはポルトガル南米アルゼンチンなどへ送られていた。

 こんな記述もあったりしたので(多分これが元)、
Shimosan's OpenLab - Slavery in Japanese Society : 日本社会と奴隷制 -

日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。

 ネットであれこれ見てみたんですが、「アルゼンチンの日本人奴隷」に関して確認できたのは一人だけでした。
アルゼンチン 日本 奴隷 - Google 検索
在アルゼンチン日本国大使館

コルドバ市の教会の古文書に、1597年にフランシスコ・ハポンという名の日本人奴隷がいたとの記録が残っており、これが日本人とアルゼンチンの最初の接触であったと思われる。

 おまけにその人は「奴隷」じゃなかった様子。
沖縄タイムス 特集 海外沖縄

一五〇〇年代末、コルドバ不当にも奴隷として売られた日本人の裁判告訴資料を発掘。アルゼンチン日本人移民第一号・牧野金蔵の埋もれた資料の掘り起こしを手掛け、日本人移住者の史実を追い、「日本人発祥の地コルドバ州日本人百十年史」を九七年に刊行した。

(社)ラテン・アメリカ協会 - 各国概況

わが国とアルゼンチンとの最初の接触は古く、1597年1人の日本人青年が奴隷ではないと申し立てたとの記録が古都コルドバ市に残っている。

 興味しんしん。
南米最初の日本人奴隷

その内容を要約するとこうだ。1597年3月4日に一つの告訴がコルドバ市のスペイン為政者のトップに対して告訴があげられた。裁判官(未だ裁判所としての体裁は整ってはいなかったが)に対して「フランシスコ・ハポン」という奴隷が「自分は奴隷ではない。不当に売買されるいわれはない。釈放されるべきだ」という訴えを起こしたというのである。

 ↑このテキスト、とても面白いです。「ハポン」って日本(ジャパン)の古名なのか。(追記:すみません間違ってたみたいです。コメント欄参照)
 果して「16世紀の後半」の南米アルゼンチンに、フランシスコ・ハポン以外の日本人(日本人奴隷)はどれくらいいたのか、興味を持ったことは持ったのですが、それを知るにはポルトガル語の古文書を読めないとどうしようもないようです。
南米最初の日本人奴隷

『当時ポルトガル人は争って日本人奴隷をアジアでかいあさっていたという事実がある。中国人、日本人の女性だけを満載したガレオン船アカプルコへ向かっていたのを記録した記述がブラジルの歴史書に出ています
1997年の末、サンタクルス市の日系ボリヴィア紙の編集部で、ブラジルからきた日本人がそう教えてくれた。

 余談ですが、こんな話も。
奴隷船に乗って

アフリカから運ばれた奴隷の総数はおよそ1200〜1500万人と言われていますが、そのほとんどは南アメリカに上陸しています。したがって、南アメリカにおける黒人の比率が高く、混血がより進んでいるのも当然ということになります。そのうえ、意外なことに北アメリカに運ばれたアフリカ人奴隷の数は40〜75万人程度にすぎないと言われています。ただし、1865年の奴隷解放時、すでに黒人人口は400万人を越えていました。どうやらその多くは自然増だったようですが、奴隷貿易が禁止されて以降、密輸も頻繁に行われていたようです。(その他、奴隷たちを繁殖させる業者すら存在しました)

「北アメリカに運ばれたアフリカ人奴隷の数」と同程度の人数(50万人)がヨーロッパに送られていたとしたら(鬼塚英昭著『天皇のロザリオ』によると「ヨーロッパ各地で50万」だそうです)、ヨーロッパで日本人奴隷が自然増しなかったり「日本人の公民権運動」が起きなかったりしたのはなぜ。
 
 なお、この件に関するぼくの見解は以下の通りです。
「キリシタンが日本の娘を奴隷として50万人も買った」という既知外テキストを信じている人がまさかいようとは

俺の感じとしては、その数字には無理があるにしても、数百〜数千人が「売られた」という可能性は否定できないです

「50万人もの日本の若い女性がキリシタンや大名によって売り飛ばされた」という証拠の史料はなかなか見つかりませんでした

ただやはり「50万人もの日本の若い女性がキリシタンや大名によって売り飛ばされたと言う事」は、いろいろ条件を考えて「大げさな話」と見て問題ないでしょう。
まず、外国の船が戦国時代に日本に初めて来たのは「1543年」(種子島)。
秀吉の鎖国令(バテレン追放令)は「1587年」。
(中略)
で、その40年の間を通して数千、あるいは数万の日本人が「奴隷」としてヨーロッパその他に売られた、という可能性は否定できない(というか、かなり高い)と俺は判断しますが、数十万、というのはあやしすぎます。

 
 また、この件に関して何かコメントをいただけるとするなら、「思う」「思わない」ではなく、以下のものに関する「一次資料・史料」の手がかりになりそうなヒント(○○から出ている××という本の△△ページに記述がある、のようなヒント)をいただけるとありがたいです。
1・「ヨーロッパ各地で50万」という日本人奴隷の数の、鬼塚英昭著『天皇のロザリオ』の記述以外の根拠
2・「火薬一樽で50人の娘が売られていった」という数字の、鬼塚英昭著『天皇のロザリオ』の記述以外の根拠
3・徳富蘇峰『近世日本国民史』における「秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録」、特に「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし」という記述があるテキスト。どの巻の何ページにあるか。「版」も指定していただけるとありがたいです。
4・『日本王国記』(アビラ・ヒロンルイス・フロイス)における、日本の奴隷貿易に関する言及テキスト。どの巻の何ページにあるか。「版」も指定していただけるとありがたいです。
5・「当時の日本人奴隷の境遇が記録されている」という『九州御動座記』が読める図書館
6・豊臣秀吉の朝鮮征伐(侵略)の際に、「多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった」(『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(人文書院、1995年))という記述があるようなのですが、それについてくわしく書かれている一次資料・史料(ひょっとしたら一次資料・史料でも「…という話を聞いた」という、事実確認が不可能な記述だったりする可能性あり)
7・アルゼンチンの「日本人奴隷」に関して、何かヒントになりそうなテキスト(できれば鬼塚英昭著『天皇のロザリオ』の記述以外のもの)