柄谷行人『初期批評集成』











柄谷行人という人は、甲陽学院という、村上春樹のお父さんが国語の先生をやっていた、当の村上春樹は受験して落ちたらしい、そんな高校出身の詰まるところ秀才である。全くもっていい加減な類推だが、私が長らく活動してきた建築界にあっても、この高校出身の建築家ときたら、米田明、南泰裕、勝矢武之とこぞって文人肌であった。また私が浪人中に出会ったとある人物。この人は国語の成績がすこぶる良かったのだけど、全く勉強している素振りをみせなかった。でも、よく見たらさりげなく文庫本をジーンズのポケットに忍ばせているような人だった。そんな彼の姿を不覚にも「カッコいい」と思って真似したのが、私の読書の始まりである。その彼もこの学校出身であったことを思うと、この類推はまんざらでもない。


さて、新人賞応募作品を書き上げた私が今、まずやろうと思ったのが、「文章のメディカルチェック」である。


文章のみがき方 (岩波新書)

文章のみがき方 (岩波新書)

思想はいかに可能か

思想はいかに可能か


前者はいわゆる「文章術」の本で、後者は私にとっての「モノサシ」である。こういった本を読みながら、自分の書いた原稿と突き合わせて、私が今どのレベルにいるかをチェックするのである。だいたい7〜8割達成できていれば合格。6割以下ならやり直しというように。そして今回、特に力を入れてやろうと思ったのが後者との比較である。


柄谷行人『思想はいかに可能か(初期批評集成)』。この本は確か5,6年前、大学を出て働き始めた頃に一度読んでいる。当時は仕事のスピードについていけなかったので、実務を習得することが先決と考え、この手の評論・思想関係の書籍を本棚から締め出し、読むことを自らに禁じていた。そんな最中、罪悪感に駆られながら手に取ったのが本書で、読んだ後に体内の濁った血がサーッと洗われ昇天したような気分になったことを覚えている。ただ内容はほとんど覚えておらず記憶に残っているのは次の一節だけである。

「君の論文を読むとダレルはすごい作家のように見えるね」(※1)


本書に所収されている論文の中でも、とりわけ秀逸な論文「『アレクサンドリア・カルテット』の弁証法」(一九六七年)。この論文は柄谷氏の修士論文で、上記の引用はその審査会で教授から言われた言葉らしい。今の私よりずっと若造であるにも拘わらず、修士論文ごときで、まさにその後の氏の有り様を物語るフレーズを教授の口から語らせるあたり、実に憎々しい。ただ冷静に考えれば、そうも言ってられない。今の私はこの論文のレベルに到達している必要がある。プロとしてやっていくことを考えれば、年齢から判断しても、今このレベルに来てないと正直苦しいだろう。それでは気を取り直して、「メディカルチェック」(本論の分析)を始めよう。


【 1. 主題の立て方 】

近代の文学には三単一(三一致)の法則のようなものがない。そこで僕は科学の助けをかりて、相対性原理にもとづく四重奏小説形式を完成しようとしている。
空間の三面と時間の一面とが、連続体という料理を作りあげる秘訣である。四つの小説はこの処方にしたがっている。(※2)


このようなダレル(※3)の発言の引用から本論はスタートする。まず問題なのは、ここからどのように論を展開していくかである。大半の人はおそらく「相対性原理」という言葉に飛びついてしまうことだろう。この手の先取り感覚いっぱいの言葉についつい興奮して、「新しい」や「現代〜」といった方向へ論を展開してしまうことだろう。しかし柄谷氏はそうはしない。

例えば三一致の法則は、既成の作品から抽出された法則であるのに対して、「相対性原理」は文学形式外から持ちこまれたものでしかない。しかし文学は文学形式において「宇宙論」を表現していくので、外在的な宇宙論の介入する余地はないのだ。二〇世紀の「古典的な作品」はすでに無意識のうちに現代の宇宙論を表出しているはずである。すなわちダレルは「相対性原理」なる現代の宇宙論を形式として要請することによって、決して形式からの自由を獲得したことになっていない。(※4)


実に素っ気ない。かといって「ダレルはダメだ」と切り捨てもしない。柄谷氏は冷静に自分の眼を頼りにダレル作品の本質に迫っていくのである。

『現代詩への鍵』の中で、ダレルは詩の歴史のうちに時代の時間的空間的本質の歴史の啓示を読みとる視座を確立していた。テニスンから『荒地』へ、『荒地』から「四つのカルテット』への過程に彼が見出すのは、「主観性(時間性)のカーヴと客観性(空間性)のカーヴ」が融和統一される過程である。そこで「現代文学は無意識のうちに時空連続体を実現している」と彼はいう。相対性原理はこの「時空連続体」の比喩的な概念であり、それ以上のものではない。『カルテット』において彼が意識的に実現しようとする「時空連続体」は、すでにエリオットの詩に無意識のうちに実現されている。すると問題はかかってダレルのとる散文的言語の問題に集約されるようにみえる(※5)

分析的な言語によって「全体性」をいかに表現しうるか、(中略)。詩においてこのような困難はない、というのも詩(メタファー)自体がこのアポリアをのりこえるべきものだからである。散文家としてのダレルの当面した困難は、散文的言語によって「全体性」を表現することの先験的な不能性であったにちがいない。いかなる「全体小説」作家よりも彼はこのことを自覚していた。(※6)

言葉ではいい表すことのできない状態をいかにして伝えるか。ひとたび名辞によって特徴づけられればもはやそれ自体ではなくなるようなリアリティをどう名づけるか。対立物にもとづく言語において対立物をこえる何ものかをいかにして述べるか。(※7)


以上[※5][※6][※7]が、本論の主題である。このように研究対象の核心を衝いた問題構制をとれるか否かで、勝負はおよそ決まってしまうと言ってもいいだろう。私はできているだろうか?


【 2. テーゼの立て方 】

さらに圧巻なのが次のような展開である。

「全体小説」は主観ー客観関係の総体を表現することでなければならないはずだ。客観世界(および対象化された内面世界)を全体的に表現することは、無限次元の小説を要し、しかもなお不十分であるだろう。それは「書く主体」が全体から疎外されたままだからだ。しかし主観ー客観関係の相関的変化がとりうる質的形態はぎりぎりのところで『カルテット』をこえることはないのである。「もし四部作のなかに軸がしっかりと据えつけられているなら、連続体の厳密性と適合さを失うことなく、いかなる方向にも放射することができる」などというダレルは、その根拠を「相対性原理」に求める限りでは正しくないし、その必要もない。要するに私たちはダレルの解説よりも実現された『カルテット』の方を見てゆくより仕方がない。(※8)


作品を研究する場合、作者の考え、コメントのプライオリティは高い。それらは論を裏付ける決め手としてしばしば用いられる。しかし、必ずしも作者が作品の全てを把握してる訳ではない。だから、作者が考えている以上に、核心的で的確な論点を見出したならば、それで切り込んでもよいのである。[※8]のように作者であるダレルの解説に限界を感じたら、見切りをつけてもよいのである。当然この手続きは慎重さを求められるし、自ら論点を見出すセンス、十分な素養が必要になることは言うまでもない。非常に難しい芸当であるが、柄谷氏はそれを見事にやってのけている。

『カルテット』はこのように「視点」(主観ー客観関係)の質的発展によって構成されている。ヘーゲルの『精神現象学』をもじっていえば、『ジュスティーヌ』、『バルタザール』、『マウントオリーヴ』『クレア』は、悟性、自己意識、理性、精神に各々対応しているといえる。またヘーゲルは『精神現象学』を「意識の経験の学」と呼んでいるが、『カルテット』の構成は、主人公である作家ダーリーの「意識の経験の学」といえるはずである。『ジュスティーヌ』の話者ダーリーとは、自分が真であると思いこんでいる知であり、すなわち自然的意識である。ハイデガーは「ヘーゲルの経験概念」の中でこういっている。(※9)

[※10]
精神の現象学が意識の経験であるとしてそれは何であるのか。それは自らを全うする懐疑主義である。経験とは自然的意識と絶対知との間の対話である。自然的意識とは、そのつどその時代に歴史的に現存する諸精神のことである。

[※11]
自然的意識はそのつど未だ真ならざる意識であり、それをそれの真理性の中へ引き立ててゆく強力によって圧迫される意識である。


柄谷氏はこのように、作者であるダレルの解説の代わりに「ハイデガーによるヘーゲル」を主軸に据えて、つまり[※10]と[※11]のテーゼに基づいて、その後の論を展開していく。
私はこのような的確なテーゼを立てることができているだろうか?


【 3. 結論のクオリティ 】

そして、次のような結論が導かれる。

『カルテット』の独創は、小説のもつ背反的な構造(批評性とロマネスク)を中途半端な危ういバランスにおいて成立させるのではなしに、両者を逆立するものとして極化せしめることによって両者をともに生かしめたところにある。(※12)


私はこのように明快にして奥深い結論を導くことができているであろうか?


以上、論述を追いながら逐次的に柄谷論文の特長を述べたが、それ以外に指摘できる特長も述べておこう。


【 4. 論文の開かれ方 】

まず言えるのが、本論の「開かれ方」である。この論文はロレンス・ダレルアレクサンドリア・カルテット』という明確な研究対象について論じられている。しかし、本論は単なる個別の作品分析に留まらない。本論は、その過程で「詩 / 小説」「教養小説 / 全体小説」「書くという行為」「ロマンス(主観) / 批評(客観)」「物語の構造分析」「情熱恋愛」「倫理」といったテーマに触れては説いていくことによって、「文学論」という普遍的テーマへと開かれている。

私はこのような「開かれ」を実現できているであろうか?


【 5. 引用の的確さ 】

また論じる際には、多種多様かつ的確な引用を行い、それらと比較検討することで、論が解決へ向かっていく。ヴァレリージョイス、エリオット、ヘーゲルハイデガー、バルト、丸谷才一サルトルソクラテス、ジッド、etc.

私はこのような「引用」ができているであろうか?


【 6. 的確なキーワード 】

さらに論じる際には、的確なキーワードが用いられ、それが論を展開していく起点になると共に、問題解決の決め手として機能している。「再組織」「形式」「回顧性」「弁証法」「視点」「対象性(受苦性)」「絶対知」「対話」「批評」、etc.

私はこのように「キーワード」を用いることができているであろうか?



嗚呼、私は合格しているだろうか???



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※1 柄谷行人『思想はいかに可能か(初期批評集成)』インスクリプト p.216.
   http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0105455746
※2 同上、p.64.
※3 ロレンス・ダレル
   http://ja.wikipedia.org/wiki/ロレンス・ダレル
※4 柄谷行人『思想はいかに可能か(初期批評集成)』インスクリプト p.65.
※5 同上、pp.68-69.
※6 同上、p.71.
※7 同上、p.72.
※8 同上、p.79.
※9 同上、p.74.
※10 同上、p.75.
※11 同上、p.75.
※12 同上、p.87.