岡倉覚三の『日本の目覚め』(村岡博訳、岩波書店)には岡倉のいう「江戸三学」についてたしか書いてあったと思い、あらためて見ると「国学」の部分では本居宣長は苗字の「本居」とだけ、それも一度しか登場していない。つまりほとんど言及されていない。ちなみに「三学」とは、古学、陽明学国学であり、岡倉によれば「第一の思想は探求することを教え、第二は行動することを教え、第三は行動の目的を教えてくれた」とされる。古学や陽明学は御用学や御用学者からすればあくまで異端であり、薩摩や長州をはじめ、のちの討幕派/外様において命脈を保っていたとされる。国学はしかし、徳川治世初期において徳川氏自身の名を高める歴史刊行とともに始まったといい、さらには「御門(天皇家)は支那の聖人の後裔であることを証明せんとしていた」という。しかしながら「18世紀の初頃には言語学研究の方面で純然たる新しい見解が現れてきた。契沖阿闍梨によって唱導せられ、本居、春海の名著にいたって隆盛の極に達したこの運動はわが国古来の詩歌と歴史に新生面を開いた。18世紀末には考古学の研究が非常にさかんになって、徳川幕府や富裕な大名は珍本や美術に関する百般の刊行物の蒐集を競ったものである」「歴史的知識の修得の結果は神道の復活となった。この古来の祭式の純清は陸続として押寄せた大陸の影響の氾濫にあって、ついにほとんどその本来の性質を失ってしまっていた。9世紀には単なる秘密仏教の一派となり、神秘的象徴主義を楽しんでいたが、15世紀以降はその精神においてまったく新儒教的となり、道教の宇宙観を受け入れた。しかし考古学の復興とともにこの異国的の要素を失うにいたった。19世紀の初めに明確な形質を与えられた神道は神代から伝わっている往古の純潔を崇める一種の祖先崇拝の宗教である」「神道は日本が支那およびインドの理想に対する盲目的服従から脱して、己を恃むことを要求した」(48-49頁、現代語にしてある)。おもしろいのはほぼ同時代のヨーロッパにおいても考古学が発展し、そこでは古代ギリシアが見出されていったことである。岡倉の古学についての記述はヨーロッパにおけるプロテスタントについての記述を髣髴させることころがあり、あるいは国学についても西洋史を念頭において述べているのかもしれない。
岡倉が国学の部分で大きく述べているのは頼山陽である。後醍醐天皇と楠正成の有名な「七生報国」の話が反仏教的な侍精神として引かれる。さらには「正成の子正行が代々忠勤の御褒美として、正行に深く思いをよせていた宮中第一の美人を賜る旨おおせ出されたときに、わが一生は死のためにあって愛のためになき訳を申上げ、これをご辞退した」云々などは、サムライ・サブライムな戦士共同体の気風ではないかと思える。
岡倉がこの文章を書いていたのは40歳前後のころ、また日本が日露戦争を戦っていたころである。
この章の結語近くは
「夢が行動に移される時期が到来していた。そして剣は静かな鞘を離れて、電光石火のごとく抜きはなたれるようになっていた。
不思議な私語が町から村へと伝わっていった。蓮華は立ち騒ぐ水の面に震え、星は黎明の光その輝きを失いはじめた。そして来たらんとする暴風の前兆を物語るかの粛然たる静寂が国民の上に降りてきた」
と述べられる。

岡倉はやはり面白い。紙芝居のヲイチャンたちより断然面白い。