ニーチェと大島渚と佐藤真

この暮れには、ずっと岩波文庫の『ツァラトゥストラはこう言った』を読んでいて、これは深田晃司くんの『東京人間喜劇』という映画に、この本(つまり岩波文庫のこの版ということ)が出てくるので、映画の理解を深めるつもりで、本を手に取ったのだが、これはずいぶん面白いもので、私はひきこまれた。


劇詩ということで、私は、ああいつかゲーテファウストも読まねばなあ、などと思いながら、『ツァラ』を読み始めたのだが、そういえば手塚治虫ゲーテファウストはよく漫画化したけれども、ニーチェのこれは漫画にしなかった。読んでいなかったのかもしれないが、手塚の好みに合わなかったという可能性も考えられる。


手塚は孤独をロマンティックに描写するのを好んだが、ニーチェは孤独というものをとても散文的に、無味乾燥なまでに克明に、描写しきってしまっているからである。藤子Fのほうが、ニーチェを漫画化するのに適当な才能だったろう。孤独については、ニーチェ以上に人類は考える必要がなかった。それなのにたとえば漱石のような凡人がへとへとになるまで孤独について考えてしまった。20世紀を要約すれば、あるいはこういうことも言えるのかもしれない。『ツァラ』のすこしあとに書かれた『この人を見よ』など、20世紀人につきつけられた棘であるとしか、思われない。サブカルチャーの領域で『この人を見よ』の真似事をするひとはざらにいるけれども、メインカルチャーの大通りで、『この人を見よ』のような本を出す人は、まあ、めったにいない。


深田くんも『東京人間喜劇』が、なによりもまず孤独についての物語群であるのにもかかわらず、そのことについてたくみなミスティフィケーションを施している。ニーチェを、盾として巧妙に用いている。私たちには、とりあえず話しかける他者がいて、だから真の孤独からも疎外されている。そういう真実をも、鈍重なくらい丁寧に、『東京人間喜劇』は語っている。それにたいして、真の孤独にあこがれて、それを絵としてさらっと描いてしまう、そういう種類の、手塚の、軽み。


しかし、孤独について考えるというのは、じつは他に類を見ないまでに主体的な行為であって、主体といえば主体思想主体思想といえば北朝鮮、と、連想はあらぬほうへ飛んでいくのだが、それはあとで触れるとして、主体といえば大島渚である。


大島渚が作品を世に問わなくなって久しいという状況が、私をして、ニーチェと大島を関連させて考えさせてしまったのである。ニーチェの著作は生前には望んだような評価を得られなかったが、大島の映画は存命中から一定の評価を得ているといった違いはあるが、主体性にこだわって我を通し、晩年は沈黙のなかにあったという経歴を眺めると、このふたりは双子のように似通っている。


つまりは、主体というのは恐ろしいのだ、という話をしたいわけだ。だからさきほど北朝鮮の名前を出しておいたわけ。日本人が大日本帝國の国民という古い主体を脱ぎ捨て、あたらしい新生日本の主体になじんだかに思われたころ、それを旧弊な偽善と読み替えてこれを批判する、という立場から登場した大島は、要するに主体性の魔、主体的思想を完遂することについてのデモーニッシュな永遠の衝迫に囚われてしまった。1960年代に、思想的に成功しすぎてしまった大島は、ニーチェのように孤独についての大著をまとめるような余裕を運命から許されず、流れ着くように性の荒野(『愛のコリーダ』)に至って、戦争(『戦場のメリークリスマス』)や内乱(『御法度』)を同性愛者のメルヘンの舞台へと読み替えるなどしたあとに沈黙する。


なぜ大島について考えていたのかというと、想田和弘の『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』を読んで、想田が頻繁に佐藤真の『ドキュメンタリー映画の地平』を参照していて、参考のために私も佐藤著を追って読んだら、著者が1960年代の大島のテレビドキュメンタリーを絶賛しているのを読んだからである。私は佐藤の最後の様子を聞いているし、それを思い出して、そういう人が大島をたたえることの意味を思ったわけだ。恐怖を感じた、と表現してもいい。


なぜ私が想田著を読んだのかというと、正月に実家に帰省したら家人が積読していた中にこれがあったからで、家人も想田の映画をひとつも見ていないのにこの本を買うなんて無茶な話だと思うが、私は『選挙』も、『精神』も、『Peace』も複数回映写しているから、私こそこの本を読む権利があると家人にのたまって強奪してきたのである。私はなんて主体的なんだろう。


想田が依拠している先行映画人には、佐藤のほかにフレデリック・ワイズマンがいて、仕事をしている私の頭の10数メートル上方で、彼の映画は去年頻繁に上映されていたのだが、機会がなくて私は見られなかった。過去に『チチカット・フォリーズ』だけは映写したことがある。彼の作品の断片を、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』を読む際に、Youtubeで見られるだけ見ておいた。本を読むときに、動画サイトはほとんど必携のものになった感がある。


私は想田さん(面識があるので呼び捨てを続けるのも心苦しい)の作品は、『選挙』にとても衝撃をうけて、『精神』にはあまりピンとこなかった口である。本を読むと、想田さんは『選挙』のころは純粋に和製ワイズマンの線を狙っていたのが、以後多少の軌道修正をされた様子である。『選挙』には、私が知らなかったディティールがいっぱい詰まっていて、ただただ「面白かった」のだが、『精神』のほうは、私がなまじ精神医療の分野に関心があったせいか、なんとなく知っているようなことが並べてあるだけのような気がして乗れなかったのである。想田さんの『精神』におけるチャレンジは、被写体にモザイクを施すことをやめることなどにあったようで、これはちょっとインテリ的な関心の持ち方であるなあと思ったものである。


想田さんにしろ、深田くんにしろ、21世紀の映画作家には、「主体」という主題は「オワコン」になった様子で、というか、作家の主体性がより複雑な形をとって作品の底に沈んでいる感じがある。なんで主体が「サブ」ジェクトなのか、ということをしつこく問うていた種村季弘のことを思い出したりもする。


私は大島渚の作品で好きなのは、『日本の夜と霧』や『新宿泥棒日記』、『儀式』などで、『絞死刑』、『日本春歌考』などはあまりピンとこなかった。見ていないものもいくつかある。それにしても『日本の夜と霧』は『夜と霧』だし、『新宿泥棒日記』は『泥棒日記』だし、『日本春歌考』は同名の評論からだし、けっこう安直というか、ポップなタイトルのつけ方をしていたんだな、と思う。「金鳥の夏、日本の夏」みたいなタイトルの映画もあった。


私は宗教批判というのが嫌いで、しかし私自身は科学主義者で国家社会主義者でもあるから、そういう志向をもつことは矛盾しているようなのだが、要するに国家がすべてではないと思い、それを前提としているのである(省略の多い文章だ)。多くの人は、そう言明することもなく、国家を唯一最大のフィールドであると勝手に想定して、その上で勝手に憤ったり他人を非難したりしていて、私はそれが片腹痛いのである。お前だって、いつか年老いて死ぬ人間に過ぎないだろ。そう思って、他人の言うことに白けちゃう。重要なのは、他人のくりだすディティールを丁寧に見ることである。多くの人は、それをしないで、自分の理解した範囲に他人を押し込めて、その他人、要するに「至らない自己であるような他者」について論評する。


言い換えれば、みんな客観的ではないなあ、と思うのである。客観的ではないとは、要するに語彙に乏しく、言葉を練らない人、ということである。自分の言い回しに依存して、レパートリーを増やさない怠惰な人間。自分が自分であることに安住して、かえってそのことに積極的な意味を見出し、それを他人に納得させようとする人間。私が「客観的でない人間」として想定する人物像というのは、こういうものである。


ここでなんでいきなり「言葉」の話になるのかといぶかる人は、深田くんの『東京人間喜劇』を観るか、深田くんが引用した『ツァラトゥストラはこう言った』の第3部を読んでください、ということになる。言葉があるから人間は孤独になれない。言葉を失ったニーチェ大島渚だけが、真に孤独なのである。孤独に憧れた手塚は饒舌に孤独を語り続けた。


佐藤真(面識があった人には敬称を付さなければならないのだとしたら、この人にもまたさん付けしなければならないのだが)が、小冊子の執筆を頼まれて、しかしその体裁に自分の思いをまとめきれずに『ドキュメンタリー映画の地平』全2巻に膨れ上がらせてしまったことの意味を思うのである。


私たちは、そろそろ、主体性を確立したスターに憧れて自らも主体を確立せんとする今までの方向性を捨て去って、真に冷静に過去をふり返るという作業をしたほうがいいのではないかと思うのである。映画はおそろしく、主体もまた恐ろしい……。