ピーター・シンガー『私たちはどう生きるべきか』

私はときどき、近代皇国イデオロギーというのは、本当に存在するのか、と考えることがある。もちろん、当時も今も、神道的に、大変に思い詰めて、宗教的な生活をしている人たちがいるだろうことを疑っているわけではない。
そうではなく、いわゆる、国家中枢において、さまざまにロビー活動をする人たち、つまり、そういった「中枢」において活動している人たちというのは、どこまで、そういったことに「真面目」なのかが疑わしい、ということである。
つまり、そういった人たちにとって、むしろ、もっと違ったところに関心があるのではないだろうか。
例えば、農地改革というのが、戦後のGHQの主導によって行われた。また、戦前の満州の株券などが、二束三文の紙切れになった。つまり、戦前の資本家たちは、多くの財産が実際に失われた。彼らの「怨念」の根源は、そこにあるのではないか。
戦前においては、農民とは、百姓と小作人の間には、非常に大きな力の非対称性があった。つまり、百姓たちは、地平線の彼方までの土地を自分のものとし、小作人から、いくらでも搾取できる構造にあった。
このように考えたとき、彼ら資本家が、なんらかの「自分のモノ」を奪われた、怨念を、なんとかしてはらしたい、という感情を強く持ち続けたことは、考えられるのではないか。
もちろん、彼らだって、世間体のあるところで、そういったドン引きされることを言うことはなかったであろう。しかし、親族が集まり、ついつい本音が言える場所では、こういった財産を奪われた「怨念」を、次々と言葉にして、それを、後の世代が引き継いだ、と考えられるように思われる。
このことは、同様に、アメリカ南部の黒人奴隷の解放に対して、深い怨念を抱えることになった、白人資本家階級と比べることができるかもしれない。
例えば、日本の政治において、なんとしても消費税を増税しようとする政治家たちの執念を見ていると、彼らは、とにかく、「貧乏人から、なにかを<奪う>立場に、自分がいたい」という、たんに、それだけの「欲望」に動かされて、消費税のアップを目指しているのではないか、と思うことがある。言うまでもなく、消費税が上がれば、庶民に何が起きるかと言えば、言うまでもなく「お金を使わなくなる」ということである。つまり、物々交換などを通して、政府の介入の「外」で、自らの生命活動を行おうとするようになる、ということである。もちろん、そのことで庶民は「不便」になる。しかし、たとえそれが庶民に不便だったとしても、庶民は、そういった生活を選ぶようになる。それは、便利であることよりも、自分が持っているものを、政府に奪われることへの、生理的な不快感に強いられて、ということなのかもしれない。
大百姓が考えていることは、どうやって小作人を事実上の「奴隷」にするか、であることが分かるであろう。国家の福祉を「トレードオフ」と言う連中と同じように、安倍首相や麻生元総理のような、戦前からの大富豪の家柄の連中が考えていることは、言うまでもなく、戦前の自らの権力の復権であるが、それだけでなく、戦前と同じように、大衆を、この「トレードオフ」によって、実質的な、奴隷にしたい、ということであろう。借金が山のように膨れた人が、嫌々、風俗で働くのと同じように、軍隊で働かせる。お金がない連中は、軍隊に入ることを避けるための免罪符が買えないから、「トレードオフ」の観点から、彼らが大学に入れないのは「しょうたない」、軍隊に入らなければならなくなるのは「しょうがない」、自由がないのは「しょうがない」というわけである。
竹中平蔵は、ある経済学者の本を紹介する形で、お金持ちから税金を取るのは「盗み」だと言った。つまり、もし人からお金を取ることが正当化されるためには、どんな人からも「同じ金額」でなければ、フェアじゃないじゃないか、と言ったわけである。というか、アメリカのある大富豪の妻は、税金なんて大衆がら奪えばいいじゃない、と言い放った。この意味は、深淵である。むしろ、国家は、奴隷である大衆から、お金をまきあげて、大富豪という、実質、この社会を支配している、「トレードオフ」から言えば、「あらゆるものが買える」くらいの大富豪になった人たちは、実際に、この社会のあらゆることを、この「トレードオフ」によって、実現できるはずなのだから、どうして、そういう社会にならないのかが不思議でならない、というわけである orz。
お金さえあれば、この世界を支配できる。もしも、この世界が「トレードオフ」によって、成り立っているならば、という条件がつくが orz。

オープンネスとセットになったBIなんて気持ち悪い、自分は絶対匿名的なところに行きたいんだという人は、それとは別の市場で金を調達し、プライバシーを買ってもらえばいい。これも、いまだって実際にはそうなっていると思いますけどね。
生存は絶対的に保証するから、生活情報は渡してほしいという、究極のサービスプラットホーム。
東浩紀「情報公開型のベーシックインカムで誰もがチェックできる生存保障を」)

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

多様な生を保障するといったときに、かつてフーコーが「生権力」と呼んだような問題が、さらに深刻になっうぇいくだろうと思うんです。左翼用語でいえば、すべてのプライバシーを丸裸にされて、自分の生活の隅々までグローバルな資本主義の論理が貫徹され、しかもそれが国家によれる管理に結びついてしまう世界。しかし、それを問題にしようとしても、もはやどうしようもないところにまできている。敗北主義とかではなくて、その現実をある程度受けいれないことには、現代社会の生を考えるのは難しいわけです。
東浩紀「情報公開型のベーシックインカムで誰もがチェックできる生存保障を」)
ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

東さんの描く「トレードオフ」社会は、以下のようになる。

  • 国民は、お金がなくなっても、死なせない。それは、奴隷として、その国民の体力が、国家の収入源と考えられているからである。
  • 国民は朝から晩まで、徹底して隅々まで、行動を監視される。これによって、国民の犯罪などの不正行為を発見する。もちろん、それが見つかるたびに、罰金を国家に支払う。これが、国家の手堅い収入源となる。
  • つまり、これはどういうことか? 国民の毎日の一挙手一投足が、国家によって監視されているということの意味は、その国民には「自由」がない、ということを意味する。なぜなら、あらゆる行動を監視されるということは、もしも、犯罪行為を行っていれば、当然、その行為は、国家の暴力によって、制裁されるであろう。しかし、話はこれで終わらないのである。その人の、ある行為が、もしも国家によって気に入らなかったとしよう。すると、どうするか。国家は、この人の「その行為」を変えさせようとするだろう。どんな方法を使ってくるであろう? 言うまでもない。「あらゆる」方法を使ってくることが考えられる。例えば、その人が世間にばらされたくない情報を、国家は必然的に手に入るであろう。それを元手に、彼を「脅す」わけである。つまり、どういうことか。国民は、結局、国家が気に入る行動しか、実質、やらない毎日になる、ということを意味する。私たちは、普通、こういったものを「奴隷」制と呼んでいる。
  • こういった一つのバリエーションとして「アヘン戦争」が考えられるだろう。国民に神風特攻隊をやらせる方法として、ヒロポン中毒にして、もはや、なにも考える思考力をなくさせれば、彼らは従順に、国家に犯行してくることもなくなるだろう。あとは、どうやって「優秀な奴隷労働力」と、それを両立させるのか、といった「技術的」な問題へと収斂していく。
  • では、この奴隷制を抜け出すには、どうしたらいいだろうか。言うまでもない。「トレードオフ」なのだから、プライバシーをお金で買うしかないであろう。しかし、国家はできるだけ、多くの国民を奴隷のままにしておきたい。よって、国家は、1%の大富豪と、99%の貧困層に二極化する(上記の引用で、では、匿名性を「買うお金のない人」はどうしたらいいんでしょうねw 奴隷になるしかないよね、と言っているんでしょうがw 旅行に行くお金のない大衆はどうしたらいいんでしょうねw)。
  • ではこの富裕階級とヒロポン中毒には、どういった関係があるだろうか。競争相手は、なんとかして、相手を没落させたい。その簡単な手段は、相手をヒロポン中毒にして、一切の思考力を奪えばいい。つまり、結局は、地球上のあらゆる人はヒロポン中毒というわけである orz。

だいぶ、私なりにカリカチュアライズしてあるが、実質的に、言っていることは同じであろう。
さて。ドゥルーズガタリが『アンチ・オイディプス』で、近代資本主義社会における近代人を「分裂症」として分析するとき、そこに、私なんかは、「お金儲け」についての、欧米社会の捉え方の、あまりにもの急速な「大転換」があったことに気付かされる。
このことを、マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において分析したことは、あまりにも有名である。

ずっと後になってユダヤ人のあいだにキリスト教が生まれたとき、キリスト教は普遍的な倫理を提唱した。イエスが人々に自分の敵を愛するように教えたのは誰でも知っているが、敵に利子を課してはならないと命じた事実は今日ではそれほど知らふぇていない。

ところで、あなたたちは、敵を愛し、善を行い、返しをまたずに貸せ。そうすれば、大きな報いを受け、いと高き御方の子となることができる。

誰からも利子を取ろうとしてはならないというこの戒めは、金もうけ全般に対するイエスの態度と一致する。その態度の最も有名な例としては、イエスエルサレムの神殿から両替商ばかりでなく「神殿の中で売る人、買う人をみな」追い出した、という事実があげられる。そうしながら、いえすハ追い出した人々に向かって、神殿は祈りの家であるべきなのに「あなたたちは、それを盗人の巣にするのか」と言った。商売で利益を得ることは一種の盗みであると言いたかったのであろうか。
永遠の命を受けるためには何をし なければならないかと尋ねた金持ちの男に対するイエスの答えのおかげで、世俗的に富む者に対する彼の態度も同様によく知られている。その男は若いときからすべての戒律を守ってきた。にもかかわらず、イエスは彼に対してそれだけでは十分ではないと言った。そして、「あなたには一つだけ足りない。帰ってあなたの持ち物をみな売り、貧しい人たちに与えよ。そうすれば、天に宝をつむだろう」と言った。弟子たちがこの言葉に驚いたとき、彼は弟子たちに「子どもたちよ、金をたのみにする人が神の国にはいるのは、実に難しいことだ。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言った。

イエス・キリストは、別に、あなたが気に入ることを言ったのではない。彼は彼で、彼の生きた時代の中で考え行動したにすぎない。そういったものが、今の常識から離れていたとしても、別に不思議でもなんでもない。しかし、ここで問題が発生する。もしもあなたがキリスト教徒として、イエス・キリストをリスペクトするなら、彼が訴えたことを守ろうとしないことには、なんらかの「言い訳」が必要なのではないか。
実際、キリスト教社会は、つい最近まで、利子は法律違反であった。利子をとってはならない。だから、キリスト教徒は金貸しにはなれず、ユダヤ教徒がなっていた。
この事実を前にして、現代の欧米社会の人たちは、まさに「分裂病」のような態度を繰り返す。現代社会を生きるのに、利子がなくて成立するわけがない。いくら、イエスが言ってたって、こんな便利なものをやめられるわけがない。つまり、「これは」、たとえ、イエスの言うことであっても

  • 守らなくていいんだ

と自分を説得することになる。あんなにイエスを尊敬している、と言っておきながら、実は、一番イエスを心の中で馬鹿にしていたのはお前だった、というわけである。

アメリカの宗教指導者は、自分たちが誰にも劣らず金銭倫理の支持者であることを証明し続けた。一八三六年にトマス・P・ハント牧師は、『富の書----金持ちになることは万人にとっての義務であることが聖書から証明される----』という本を出版した。一八五四年に「ハント・マーチャント・ジャーナル」誌上では、原罪とは商売に精を出さないことである、という議論をある作家が展開した。その議論は、「アダムが創造され、エデンの園におかれたのはビジネスのためであり、彼が生まれつき定められた仕事に忠実に精を出していたほうが、人類にとってよかったであろう」というものである。さらにボストン・ユニタリアン派の牧師であるトマス・パーカーは、実業家を「道徳の教育者、ビジネス界に入ったキリスト教の聖職者......」として聖人の列に加えることを提案し、さらに、「実業家をまつる聖堂を銀行、教会、市場、取引所に建てよ。商売の聖人より高みに立つ聖人はいない」と言った。一九世紀お大半を通じてアメリカの学童の少なくとも半数がおそらく読んでいたマガフィー・リーダーズは、「金もうけは神慮によって設けられた道徳義務であることを読者に保証した」。

この問題に対して、掲題の著者は、イエスとカントを並べることによって

  • いい加減、彼らの「信者」であることは、やめないか

とまで言い切る。イエスもカントも、「間違っている」。だから、イエスの信者であることは、間違っているし、それと同じく、カントの信者であることも間違っている。掲題の著者はそこで、

  • 私が「新しい」<倫理>を、道徳を、みなさんに提示しましょう

と息まく。

容易に推測のつくように、自分はカント主義者だと考える現代の思想家の多くは、カントが本来意図したものがこんな冷たい硬直した考えであるということを何とか否定しようとしている。だがここに、そんな解釈の余地を残さない異様にも思える一節がある。

可能な場合には他者を助けるのは義務であるが、この義務とは別に、世間には同情心に富んだ気質の人が多くいて、虚栄心とか私益といった動機もたずに、ただ幸福を人に与えていくことで心中に喜びを感じ、他者の満足に喜びを感じることが自分の仕事だと感じている。おれでも私の考えでは、この人たちの行動はどれほど正しく愛すべきものであっても、そこには真の道徳的価値はないのである。......その行動原理には道徳の要素が欠落している。つまり道徳的価値をもった行動は、個人の性向からではなくて義務からなされる行為でなければならないのである。

カントによれば、「他者の運命へのあらゆる同情心」をなんとかなくし、もはやそうした性向にはつき動かされず、ただ義務感かた行動するようになったとき、「初めてその行動は真の道徳的価値をもつ」のである。

義務を果さなければならないという理由だけで行われる行動にしか道徳的価値が認められないというカントの考えは、これっきり放棄しようではないか(このカント的な考えがかくも長く、かくも深く私たちの道徳観にしみわたっていたからこそ、私は「道徳」ではなく「倫理」という言葉を好んで使うのである)。カントが道徳をおめでたい人のお遊びとみなす懐疑主義者と共有する前提----つまり倫理と私たちの自然な性向は常に衝突する傾向にあるという前提----についても検討し直す必要がある。それがすんだとき、社会的存在としての人間の本性に背を向けた倫理の代わりに、それを基礎とする倫理の説明にとりかかることができるだろう。

しかし、こういったカントの主張は、言ってみれば、そうイエスが言っているから(そのように読めるから)といった色調が強い印象を受ける。つまりは、ピーター・シンガーの言う「実践の倫理」とは、キリスト教もカント哲学も「ダメ」だから、俺が「新しい」教えを提示しよう、と言っているわけであろう。
しかし、普通に考えて、そんなに簡単に信仰というのは止められるようなものなのであろうか。

義務自体のために義務を行うべきだというカントの主張は間違っているが、この主張も、伝統的な賞罰の考え方があまりにも長い間西洋の思想を支配してきたため、多くの人が神や死後の生活を信じなくなった世俗的な時代の到来は大きな衝撃をもたらした。もし神がいなくなるのなら、ほかにどんなものが神とともに失われてしまうだろうか。神の存在をぬきにしては道徳などありえないと考えた人たちもいた。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中で、「神が存在しないなら、どんなことも許されてしまう」書いた。この考えは、この世界の意味は神の計画の一部としてしかありえないと信じる人々の共感を呼んだ。神がいなければ、人をみまもる摂理も、この世のための神聖な計画もありえない。そうなれば、私たちの人生には何の意味もなくなってしまう。もっと個人的な脈絡では、正しいことをする理由が地獄を避け天国に行くことだとすれば、死後の生の信仰が失われることによって、正しいことをする理由も失われてしまうように見える。

これは、著しくニーチェニヒリズムの問題だと言えるであろう。ピーター・シンガーのように、もはやイエス・キリストやカントの言うことは、端的に間違っているんだから、こんなものに関係することなく、純粋に、みんなで道徳的に生きようよ、と言われることは、どこかしら異様な印象を与えられる。というのは、私たちは過去からの、さまざまな作法において、キリスト教の文化圏の範囲にあった。カントも、どちらかと言えば、その範囲の中で考えたわけだ。それを、「間違っていた」という一言で、

  • 別の「実践の道徳」

を考えようと言われて、さて、どんなふうに思われるだろうか。一つだけ言えることは、私たちは、その長い間の、キリスト教と深く関係して続いてきた「作法」と関係して生きてきたわけで、そういったものを、簡単に分けて、「道徳」を考えることはできない、ということになるであろう。
つまり、今においても、西欧文明を生きるヨーロッパの人々は、二つの「ダブルバインド」に引き裂かれている。

  • 聖書でイエスが言ったように、利子はダメ、絶対!
  • こんなに便利な利子がダメなわけねえじゃん、イエスが間違えたんだよ。その他にも、聖書にはカントの義務と同じような匂いがするわけで、聖書なんて「これっきり放棄しようではないか」。

さて、では、ピーター・シンガーは、聖書に代わって、どんな「道徳」を人々は生きなければならない、と言っているのか。

倫理的に生きるとは、自分が誤りを犯すという可能性を認めつつ、現実を意識しながら今すぐ、世界をよりよい場所にするために自分にできることをすることである。

このより高い倫理的意識が誰にも共有されるようになるだろうと期待することはできない。いつでも、どんな人のこともどんなもののことも配慮しない、いや自分のことにさえ配慮しない人がいるだろう。

にもかかわらず私たちはこの世界の一部であり、人々が生きてそして死んでゆく条件について今何かをなす必要、社会的そして生態学的災害を回避する必要が差し迫っている。

ピーター・シンガーにとって、なにが「道徳的問題」であるのかを問うことに、彼はそれほどの疑問をもっていない。というのは、それは「理性」をもっている人間なら、だれでも同じ結論に到るだろう、と考えるからである。それは「よりよい」ということを人道的に考えるなら、「まともな常識をもっている文明人」なら、結局は、自分の意見に同意するはず、ということを疑っていない。しかし、他方において、彼は自分が考える「良い生き方」に同意してこない人たちが、この世の中に大量にいることを自明視する。つまり、性根の腐っている連中が世界には多いことも分かっている。しかし、と彼は続けるわけである。

  • 地球が滅びちゃう!

彼は、そういった堕落した連中の思うがままにしておいたら、地球が何個あっても足りない、ヤバい事態が起きても不思議ではない、と言う。つまり、「なんとかしなくちゃいけない」と言う。
しかし、ここまで来れば、彼が何を言いたいのかは分かるであろう。

  • 頭の悪い人間が、地球上にはびこっている事実は変えられない。
  • こういった連中の言うがままに地球を扱わせていたら、地球が滅びる。
  • だったら、なんとかしてピーター・シンガーが「これを受け入れられない連中」は、「よりよい生き方」をしていないといった連中のことなんて無視して、選ばれし「選良」だけででも、この地球を救おう。この地球を救うのに「ふさわしい」立場や役割を、こういった人たちに与えることは、合理的なんだ。

というわけである。
ピーター・シンガーにとって、大事なポイントは、彼の考える「正義のルール」が社会に適用されていない今の社会は、「間違っている」ということは、もはや、問題にすらならない、たんなる「事実」だというわけである。彼はそれを「理性」によって、分析し尽した。ということは、もはや、それが間違っていたかもしないなどと、むしかえすことは、「理性」が理性ではないと言われるのと変わらない事態であって、むしろ問われているのは、こういった「理性によって判明している」世の中にある、たくさんの「正義」が、無視されている現状なんだ、というわけでわある。
ピーター・シンガーは、一方で、カントの義務論を否定するとき、人々の「同情」の感情を動機として、道徳を行うことは「素晴しい」とする。そして、自らが考える、「よりよい生き方」に人々が従うのは、あくまでも、「義務」ではなく、この「同情」の感情からやってもらいたい、という整理を行う。ところが他方において、この「よりよい生き方」に従ってくれない人というのが、この世界には、いくらでも存在するし、その事実は、いつまでも変わらない、ということを認めてしまっている。
ところが、他方において、「このままだと地球が危ない」んだ、とさえ言っている。つまり、この地球の滅亡を避けるためには、

  • 他者の強制

を「選良」によって、断固決然として実行しなければならない、と言っているのと変わらないわけである。義務を嘲笑し、同情の「良心」の

  • 並ぶもののない価値

を称揚した後、しかし、その価値を共有しないサイコパスたちによって覆われている、この地球を、一部の「価値」の分かる選良による、プロレタリア独裁によって、「地球を救わなければならない」と言って、愚民監視社会を、あるい意味において、「しょうがない」と許容しているのと変わらない結論になっている。
つまり、ピーター・シンガーの問題点とはなんであろうか。

  • キリスト教やカント哲学を「否定」しておきながら、キリスト教を超えた「西欧地域圏を生きてきた人たちの作法」を考えられる、カント哲学を否定した「理性」なるものを考えられる、と彼が考えたが、その具体的な表象は、どこか表面的な自明性の範囲で語られているにすぎない。
  • なにがこの社会にとって問題なのかの、その「優先順位」を、どうして、ある文化背景を負っている一人が、あらゆる側面において考えうるのか。例えば、キリスト教徒が、イスラム教徒の人たちが、日々、どんなことを考えているのかを、どこまで想像できるだろうか。というか、そもそも知らないのだから、想像もなにも、イメージでしかないわけで、話にならない。
  • 同情をしている人の「道徳」的な「素晴しさ」って、ようするに、こんなことを言っているピーター・シンガー自身が「いい子」だって、自分で言って、自分に酔っているわけであろう。自分のような、「いい子」じゃないと、このエリートの役割は努まらない、というわけであろう。

ピーター・シンガーが、さまざまに日々のニュースから拾い出してくる、実践道徳の練習問題は、確かに興味深い情報ではあっても、だから、その中でどれが一番価値のあることなのか、といった話になってくると、途端に、曖昧になる。
ようするに、イエスもカントも、社会主義的なことを言っているわけである。
極端な貧富の格差がひらいた社会において、そもそも、「その人」の自由を考えられるであろうか。そういう意味で、カントの社会構想は必然的に、社会主義的な福祉を不可欠にする。他者を自由な存在とするためには、ある意味において、定期的な

  • 農地改革

が必要だ、と、イエスもカントも言っている。しかし、逆に聞きたいわけである。なんで、自分の「良心」とか「同情」の感情から、他者を自由に扱え、という「命法」が生まれるのだろうか。だって、そもそも、あなたは「他者」を知らないんですよ? カントは「それでも」相手を自由な存在として扱え、と言っているわけでしょう。ピーター・シンガーは一体、どこから人々が他者を自由な存在として扱おうという「動機」が生まれると考えているのだろうか。自分の「良心」や「同情」って、ようするに

  • 認知的不協和

ですからね。なんの自覚もなく、都会人が田舎者を差別しているのが「良心」であり「同情」ですからね。こう考えるなら、カントの言う「非社交的社交性」の方が、ずっとリアリティがある、とさえ言いたくなる。
私はむしろ、欧米社会は、もう一度「利子の禁止」を認めて、そこから始めたらどうか、と思わなくない。ピーター・シンガーのように、キリスト教の信仰を捨てよう、というより、もう一度、イエスの「意図」がどこにあったのかを考えて、イエスの意図を汲んだ社会の実現を目指す方が、ずっと、資本主義という、欧米の人々の分裂症的な病的な状態から解放されて、ずっと、健康的なように思われますけどね...。

私たちはどう生きるべきか (ちくま学芸文庫)

私たちはどう生きるべきか (ちくま学芸文庫)