Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

Twitterというサービスが始まった最初のころから愛読している人(猫? bot?)

◇ kotori (kotoriko) on Twitter
http://twitter.com/kotoriko


◇ eigokun (eigokun) on Twitter
http://twitter.com/eigokun


津田大介 (tsuda) on Twitter
http://twitter.com/tsuda


◇ farandole (farandole) on Twitter
http://twitter.com/farandole

      • -


>>>「最近Web 2.0の見えざる手に「お前の文章なんかTwitterTumblrで十分だ」と言われているような気がしてならない」
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070816#p2
2年前。


>>>「ほんと早くロッキンオン潰れないかな」
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20071121#p3
by 津田大介さん


>>>FreeBurma (FreeBurma) on Twitter
http://twitter.com/FreeBurma
更新されてませんでした。


>>>Twitterツイッター/トゥイッター)の村上春樹
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080205#p4
更新されてました。


>>>ええと、これは、、、
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20081106#p8
Chim↑Pomネタ。


>>>ミシェル・フーコーTwitter - IA Spectrum
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090620#p11
インフォメーション・アーキテクト浅野紀予さんのブログより。


>>>「tumblr」=「鵜飼の鵜」説 vs 「twitter」=「鏡の中のわたし」説
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090108#p1
タイトルのみ。
そんな時代じゃなくなってきてますが。。。

東浩紀さん(id:hazuma)のTwitterより+1

Twitter / hiroki azuma: 新しいリアリティすぎるな。RT @nzm: 他人の呑 ...

新しいリアリティすぎるな。RT @nzm: 他人の呑み会に妻が参加する現場をust生中継で見ていて原稿が書けない罠。

http://twitter.com/hazuma/status/6724491415


Twitter / hiroki azuma: .@kaichoo フォーマリズムの言葉が荒すぎるの ...

.@kaichoo フォーマリズムの言葉が荒すぎるのが問題ではなく、ほかのジャンルの語彙に反射的に翻訳できない、少なくともその変換に時間がかかることが問題なのだよ。どんなジャンルにも形式的分析は存在していて、ただそれを表現する語彙が違うだけなのだから。

http://twitter.com/hazuma/status/6735308811


東浩紀クォンタム・ファミリーズ 』(新潮社)

批評から小説へ、ゼロ年代のラストに放つ東浩紀の新境地!

2035年から届いたメールがすべての始まりだった。モニタの彼方には、まったく異なる世界の、まったく異なるわたしの人生があるのだ――。高度情報化社会、アリゾナの砂漠、量子脳計算機科学、35歳問題、幼い娘、ショッピングモール、そして世界の終わり。壊れた家族の絆を取り戻すため、並行世界を遡る量子家族の物語。

http://www.shinchosha.co.jp/book/426203/
http://www.amazon.co.jp/dp/410426203X
本日発売。



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再々録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070503#p3)

■oval『ovalprocess』ライナーノーツより

1)デジタルであるということは、つまるところ常に計算可能であるということである。
2)デジタルなテクノロジーに依拠した音楽においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。
3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。

佐々木敦さんによるオヴァルステートメントの要約
http://www.amazon.co.jp/dp/B00004TQNW


◇ 読み替え1
1)デジタルであるということは、つまるところ常に計算可能であるということである。
2)デジタルなテクノロジーに依拠した写真においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。
3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。


◇ 読み替え2
1)ケミカルであるということは、つまるところ常に化学反応であるということである。
2)ケミカルなテクノロジーに依拠した写真においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。
3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。


◇ ovalprocess tutorial
http://www.wecurious.com/work/ovalprocess/process.html


■音楽と制約(oval)論
http://www10.plala.or.jp/so_web/restriction.html


■コンピュータ・グラフィックス 半ば技術的な入門  フリードリッヒ・キットラー
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic028/html/153.html


■「メディア・アートの政治学」植田憲司
http://www.iamas.ac.jp/~ueken02/thesis/


■If This is Media Theory, Then There's Nothing Here but Ignorance and Empty Talk.
なんかえらく古くさいハイパーメディア万歳論なんですけど。 山形浩生

 いちばんつまらないのが、この人にとってネットやコンピュータってのがすべて、空から勝手にふってくる代物でしかないってこと。理論的な位置づけ云々とか。いま、自分たちがその変化にいやおうなく荷担しているという意識(危機意識にせよ幸福感にせよ)は皆無で、第三者ぶった無意味なおしゃべりが得意げに展開されるだけ。自分がメディアや情報のありかたを変えられる可能性、その方法論なんか何も考えてない。

http://cruel.org/other/gutenberg.html


デウス・エクス・マキナ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%8A

再々録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070619#p9)

■真昼のアンタンシテ 「イズミズム」第5回(QJ連載)より

 中原昌也高橋ヨシキの非オタク二名が、海猫沢めろん更科修一郎から「オタク」のメンタリティについて話を聞く、という趣向の『嫌オタク流』は、表向き(?)よりもずっと深い内容の本で、読みながら頷くことしきりだったのだが、引用したい所は多々あるけれど、もっともブンブン首肯したのは、以下の部分だった


中原 (前略)身のまわりを自分の好きなものだけで固めて、それで何とかなってしまう状況は耐えられないし、本当に嫌いですね。単なる感情論でしかないけど、それで世の中が面白くはならないもん。
高橋 今はひとつの映画なり小説なりの中に自分が好きじゃない要素が入ってくるだけで観客や読者に拒まれるから。
更科 作品を「教養」じゃなくて「ツール」として捉えてますね。「泣きたいときはこのアニメ」、「オナニーするときはこのゲーム」みたいな。作品が総合薬ではなくてサプリメント化していると言いますか。
中原 その問題って、結局は今の世の中のダメな部分すべてに影響していて、たとえば『映画秘宝』編集部に届いた読者からの感想で一番笑ったのが、「自分の知っていること以外はつまらなかったです」という批判。
嫌オタク流』、P190


 この「自分の知っていること以外はつまらない」という感覚が暗黙に前提していて、しかし、どうしてだか忘却してしまっているのは、では自分はどうやってそれを知るに至ったのか、ということだ。「知っていること」も「知らないこと」だった時期が当然あるわけで、それをどんどん遡っていけば、やがては「知る」ということの端緒に辿り着く筈なのに、ひとはいつしかそれを忘れてしまう。そして、「知っていることしか好きじゃない」と「好きなことしか知りたくない」は、どっちがどっちか分からなくなり、「知らないこと」がイコール「嫌いなこと」へと短絡してしまうのだ。
 『嫌オタク流』は文字通り「オタク批判」の書なのだが、しかしそこで語られていることは、必ずしもいわゆる「オタク」の方々のみに限定的に妥当するものではない。むしろ問題は、もっとずっと根深い。

 信じていることしか信じたいと思わず、知っていることしか知りたいと思わず、信じられないことと知らないことを意識的無意識的に排除して、そうやって「自分の現実」を拵えることが、極めて能率的に出来てしまう世界に、僕たちは生きている。
 しかし、ほんとうにアタマが痛いのは、たとえば『嫌オタク流』にしても、そこで真の意味で批判されている人々(繰り返すが、それは「オタク」だけではない)は、おそらく最初からこの本を開くことさえないだろうし、仮に偶々読んでしまったとしても、そこには嫌悪と反撥しか生まれないのではないか、と思えてしまうことだ。そしてまた同時に、この本を読んで「そーそーオタクってキモいよな!」とか言って溜飲を下げる人こそが、実は批判されるべき人種と同質であるにもかかわらず、彼らはそのことに気付かないし、気付かなくてもいいようになっている、ということなのだ。
 また救いのないことばかり書いて…という声が聞こえてきそうだが、しかし思うに、このような、いわば価値観のセグメンテーションは、今ではほとんど後戻りが難しいほどに進行していて、だから実際のところは、ここで僕がこんなことを書いていることさえも、どの程度の意味(意義)があるのかよく分からない、というのが正直な感慨で、それがつまりは、実を言えば前号で連載を休ませてもらった、ひとつの理由だったのだ。
 今や誰もが、自分の言葉が通じる相手にだけ話しかけているように、僕には思える。何か重要なことを伝えようとしているように見える場所であればあるほど、そう思えてならない。残された選択はといえば、それでもいいや、分かってくれてる(ように思える)人はまだいるんだし、と、ある意味開き直るか(しかしそれはそのまま「ミイラ取りがミイラになる」ことを意味する)、でなければ、もう単に降りる、しかない。かくして「オタク」すなわち「自分(たち)ビリーヴァー」は勝利する、というわけだ。
 では、どうしたらいいのか?……もっとよく考えてみなくてはならない。

http://unknownmix.exblog.jp/5538581/


エクス・ポ日記
http://expoexpo.exblog.jp/
佐々木敦さんの現在のブログはこちら。


◇ THE NEW CONDENSED MAGAZINE エクス・ポ

エクス・ポは、A4サイズのフルカラー16ページに、膨大なコンテンツを詰め込んだ「濃縮雑誌」です。
本体を表紙&目次を兼ねた専用エンベロープに封入して販売します。
コンセプト、コンテンツ、アート・ディレクションが三位一体となった、これまでになかったカルチャー誌です。

http://ex-po.net/


>>>未だ積読状態
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080328#p6


>>>佐々木敦インタビュー → Life番外編〜佐々木敦さんインタビュー
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070704#p4


>>>90年代以降の世界の中の日本音楽
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070822#p5


>>>oval『ovalprocess』ライナーノーツより
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070503#p3


>>>“「選択」と「認識」がなければ、
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060925#p6


>>>高橋悠治小林秀雄「モオツァルト」読書ノート/コレクション1970年代 (タカハシユウジ/コレクション1970ネンダイ) - 関心空間
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060821#p7
関心空間についてはリンク切れ。
佐々木敦さんの「「モオツァルト」・グラモフォン―小林秀雄試論」は、
 書き下ろしの続編「小林秀雄の/と「耳」―モオツァルト・グラモフォン2」
 とともに、『(H)EAR ポスト・サイレンスの諸相』に収録されています。
 http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A1%CA%A3%C8%A1%CB%A3%C5%A3%C1%A3%D2