お笑い芸人がサブカル誌で取り上げられる件について

http://d.hatena.ne.jp/toronei/20050410/B

ここら辺の話題、下の「ヴィレッジヴァンガード」にも通じると思います。まあ具体的にクイックジャパンと限定して書いちゃいますが、私も少し前までは「安田大サーカスは取り上げないだろう」というサブカル感を持ってたんだけど、今では取り上げるんですよね。
「インターネット殺人事件」の「V.V制空圏」を見ると、藤子不二雄ジョジョ山口貴由という従来のサブカルイメージではちょっと思いつかないものが入ってる。
クイックジャパン安田大サーカス」って、その現象と同じことになってると思う。


これは前にも書いたかどうか忘れたけど、今ではM-1の決勝に残るくらいの芸人は、朝日新聞とか週刊文春とかで取り上げられても何らおかしくない時代になってる。逆に言えば、サブカル的なものが世の中に偏在してきたため、本来の「サブカル誌」の存在意義が危うくなっていると思う。


でも、逆に言えばそれは「オシャレとかマッチョのオタク化」ということでもあって、グラビア誌の「sabra」で「萌え」という言葉が使われていたり、一時期は明らかに反オタク的な雰囲気だった週刊プレイボーイも「どんなハリウッド監督が日本のアニメをリメイクしたら面白いか」なんて記事を載せている。


あるいは、よく漫才やコントのネタになっていた「わざとらしいおにいさんの教育番組」なんて、今NHK教育ではやってないですよ。今やNHKでいちばんそういうのって「あばれヌンチャク」だったりする(笑)。
もうNHK教育側に、「さすがにアレはないだろう」っていう雰囲気がみなぎっているから。それで戦隊ものの女の子を起用したりしてる。
要するに、オタクでもサブカルでもいいけど、偏在を始めちゃってる。で、そうなってくるとコレは異議がある人もいるかもしれないけど、「オタク」の方が偏在した中では存在感を主張できるんですよね。
たとえばオタクな芸人やミュージシャンがいて、そのオタク的部分を雑誌で取り上げられたとしても、それで今、何か悪い意味で特別なものが付与されることはまったくないし、そのまま「へえ、この人ってそういう面もあるのか」って打ち出せる。


サブカルはその点むずかしい。もうその「理念」自体が崩れているというか形骸化している気がするし……でもあまりにも若い衆の間で旗色が悪いのでフォローしたくなるというか(笑)。
とくに、テレビのお笑い関係というのは今までテレビに出られそうになかった人をどんどん電波に乗せているというのがブームの本質だと思うので、雑誌でやっても後追いにならざるを得ないのは厳しいんだよなあ。


今ちょっと、南キャンが載ったクイックジャパン買ったけど本に埋もれて出てこなくなっちゃったので、見つけたらなんか書くかもしれないし、書かないかもしれない。

ヴィレッジヴァンガードを嫌え

◆鹿が猟師の手から抜け出すように、鳥が罠から抜け出すように、ヴィレッジヴァンガードを嫌えインターネット殺人事件
何度も書いてますが、「サブカル嫌い」という若い衆の意見をあちこちで読み、別に私がことさらにいわゆる「サブカル」を擁護する義理も何にもないんだが、その時代の変わりように驚いています。
嗚呼、自分は本当にトシをとったんだな、とここ数日、実感してしまいました。


で、またもやショッキングなテキストを発見。
「自分の趣味とヴィレッジヴァンガードの品揃えが重なっていると、逆恨みなんだけどムカつく」という記事ですが、こういう心性って、私の年代にはなかったと思います。
っつーか、ヴィレッジヴァンガード自体がなかったんで。


私は、ヴィレッジヴァンガードは数回しか言ったことはないですが、完全にサブカル寄りというよりは、そこをうまい具合にだいぶゆるめているという印象でした。確か楳図かずおの恐怖マンガとかも置いてあったし。
要するに、まあまあ平均的(若干濃い目)なマンガファンが満足するような感じの品揃えになっていて、「ふ〜ん」と思った記憶がある。
たぶん、本当にそういうシュミの人が品を選んでいるんだろうと思う。
だから、店の生成過程としては、しごく当然という印象があった。


しかし、その品揃えに何となく逆恨み的な感覚を覚えるというのは、たとえヴィレッジヴァンガードにそれまで足を踏み入れたことはなくても、共時的にその人が店とともにシュミを形成してきたということであって、それはちょっと私の感覚には無いなあ、という感慨がある。


勝手に解釈すると、ブルマァクの怪獣人形とかで遊んだことがなくて、いきなり海洋堂のスゴイのを見て育った世代というか。チャンバラトリオとかじゃなくて、いきなりダウンタウンから入った世代というか。
そういう細密さが趣向の中にないと、「ムカつく」ってことはないと思う。逆に喜んでしまうくらいで。


だから、「へーっ」って思った。いいとか悪いとかでなしに。
ホントに広義のサブカルチャーって変わりつつあるなあ、と、連日思う。

例の東大生が飲酒強要したとか何とかをブログに書いたという話

確か、リンクしちゃうと自動的にトラックバックになっちゃうのでしませんが。
削除された元テキストを見てないと、何とも言えないんだけども。
とか言いつつ、書くけど。


あびる騒動のときも思ったんだけど、正義というか正しさの「位置」みたいなのが変わってきているなあ、と。
それがいい悪いではなくて、事実として。
で、感触としては、我々も含めた上の世代の人間が寄ってたかっていろんな価値基準をぶっ壊した、その上に現在の、ある種の正義感が成り立っているのではないかと。
10万HITのブログだから、当然やっかみのいやがらせみたいなのもあるんだろうけど、どうもそれだけじゃない気がする。


批判してる人は「嫌飲権」、「アルハラ」、「ある種のコミュニティ内での慣習」など、ある個体としての固さを備えたというか、そんな単語でザクザク書いてる感がある(もちろんそうでない人もいるが)。
これって先行世代が、「セクハラ」や「嫌煙権」といった「単語」で物事に対して問題定義したことが、果たして良かったのか悪かったのかというのがきちんと決着つかないまま、現在そのまんまの状態で放り出されていることの結果だと思う。
繰り返すけど、それが私はいいとか悪いとかはここで断じることはできない。
たとえば、たぶん山本夏彦なんかは否定してたわけでしょそういうのを。よく知らないけど。
でも、私は否定しているわけではないんで。


もっと言ってしまえば、「あるコミュニティ内で、道義的にどうかと思われている慣習に従うか否か」っていう問題は、


ムラ社会的なものや徒弟制度/「都市」的感覚や平等主義と効率のバランスの上に成り立っている学校教育


という対立構造の中で、ちゃんとした結論って出てないですよね。
みんなが、個別具体的に対処してきただけで。


どうすんだろうなー。価値基準を壊した先行世代は。これってブログの管理人や抗議者の問題というより、私には先人の問題という気がする。


ただ、これだけは言えると思うのは、旧来のなあなあ的人間関係を完全否定することは、たぶんぜったいできないということ。いやもしかしたら新新人類みたいな人たちが出てきてそういうのを実現させる可能性もあるけど、どうなのかなあ。
地方の凶悪事件とか見ると、そういうなあなあ主義がいい意味で機能していたのがどんどん無効化している気はするんだけど。
そして、それは今に始まったことじゃなくて、たぶん戦後から継続して起こっていることなんだろうけどね。


それと、このような問題に興味のある人たちっていうのは、教養のある人たち、教養に価値を置く人たちでしょう。
で、「教養」というのは、一見学校教育はあるし、図書館に行けば自由に本が読めるしといったふうにいかにも「自由」という感じがするけど、その「教養」を共通了解として成立させているものは何か、というと、それはやっぱりコミュニティであり、コミュニティである以上、なあなあもあれば理不尽もある、ということはまぬがれないとは思う。
「教養」に、本質的にそういういやらしさがあると思うんだよね。