ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ODA政府開発援助民間モニター、知らんかったぁ・・

 先日なんの気なしに新聞を見ていたら、「ODA政府開発援助民間モニター募集」の広告が出ていた。問い合わせ先は財団法人国際協力推進協会(APIC)気付のODA民間モニター事務局。主催は外務省で、協力は国際協力機構(JICA)と国際協力銀行(JBIC)でなぜか後援の文部科学省は(予定)というかっこ付き。こちらのサイトに詳細がある。
 どういうことなのかと思って読んでみると「国民の皆様からは、日本の援助が援助を受ける国にとって本当に役に立っているのだろうか、援助が感謝されているのか、という声も聞かれます。そうした中、ODAを一層効率的・効果的な質の高いものとするため、ODAの透明性の確保が求められています。そこで平成11年度より、日本のODAを支えている国民の皆様に、ご自身の目で海外のODAの現場を直接視察していただき、その様子をご意見やご感想として報告いただく「ODA民間モニター」事業が発足致しました」というわけで、もう9年目に入る事業なんである。知らなかった。
 今年も6ヶ国に各国10名ずつ全国から合計60名(一般枠35名+教員枠19名+高校生枠6名)の方を「ODA民間モニター」として派遣する予定になっている。なにゆえこの6ヶ国が対象なのかは知らないし、数十ヶ国に上る日本の政府開発援助の中からこの6ヶ国に絞ってその実態を「公開」することに関して何らかの説明はされるべきという気がしないではない。尤も、民間人に危害が及ぶ危険性の少ないところを選定したといってしまえば誰も何も文句は言えないかも知れないけれど。なにしろ2005年度ODA白書に記載されている対イラクODAの詳細を見るととても民間人を連れて行こうとは思わないだろう。今年の6つの対象国には一般枠が7名、教員枠が3名となっているがカンボジアだけはなぜか教員枠が4名で高校生枠が6名となっていてそれ以外の職業の人は応募できない。
 日本のODAは本当に役に立っているのか、効果が出ているのかという声は確かに昔からある。日本の対政府開発援助はハードに偏っていてソフトの供与が足りないから設備を提供してもそれから先のメンテを含めた運営が上手くいかなかった例は枚挙にいとまがないくらいにあからさまとなっていた。例えば発電機を持ち込んで限定地域での電力供給網を作る。しかし、運転要員の育成、メンテナンス要員の育成を援助できずに一度故障したら全部の設備が停まったままだったり、もっと簡単なものでは簡単な風車を用いた井戸からの浄水供給設備を供与したけれど、羽根が壊れてしまって回らなくなった風車の部品のニーズが出たときに、在外公館を通してODAを申請していってもどこまで時間がかかるのか、一体いつになったらその部品が手にはいるのか、皆目見当のつかない状況にあった。設備を供与するのなら、メンテの出来るシステムまで含めて提供しなくては意味をなさない。
 つまり、対政府開発援助は一週間かそこらの期間、現地に放り込まれて一体全体どんな問題が見つかるというのかという疑問がわくと云うことだ。その辺を検証するためにはこれまでの各モニターの報告書を仔細に読んでみる必要があるかも知れない。
 プラント輸出業界では、対政府開発援助というのはおいしい仕事のひとつであるが、プロジェクト・メイキングに時間がかかったとしても間違いのない資金源であった。今はどうなっているのか全然知らないけれど、かつては商社とハードメーカーがタッグを組んで、日本が開発援助をしやすい状況にある途上国に目をつけ、どんなプロジェクトを持ち上げたら対象国もその気になって重い腰を上げてその国にある日本政府の公館にリクエストを出すことが出来るのかというところから動く。そのためにはその公館の担当者がその案件を外務省にあげやすくなるようにお手伝いをする。そうしてようやく本省でまな板に載った案件が業界団体で議題になると、その場でここまでこのプロジェクトを創り上げてきたのは、ほれこのとおり、私たちなんだからこれは私たちが受注するんだといって説得し、無事受注に繋げる。こうした一連をプロジェクト・メイキングと称したものだ。
 このプロジェクト・メイキングという言葉は普遍的に用いられている言葉で、例えば東京湾横断道路プロジェクトだって、重厚長大産業界各社が参画しているJAPICという業界団体が中心になって成功したプロジェクト・メイキングの結果だと云っても良いだろう。あの重厚長大産業の一時的息継ぎプロジェクトとでも表現したら良いようなプロジェクトについてのその後の評価も必要ではないか。今更の干拓事業や、ダム建設事業に対する機械的血税の拠出を防ぐためにも、こうした官製プロジェクトに対してもそれぞれのプロジェクト評価をしていく必要がある。

ゴールデン・ウィークの読書

 プロジェクト運営に参画してみるとよく分かるのだけれども、最も重要なのはどの様な資機材を必要とするかを見積もり、それを調達し、現地に供給し、稼働させ、メンテし、撤収するのか、という点、すなわち兵站であり、mobilizationである。この中には勿論食糧も含まれるし、重機、備品、生活資機材も含まれる。これが上手くいかないとどんなプロジェクトでもいたずらに時が過ぎていき、契約期間内に契約工事が完了しない。となると当然予定していた利益も上がらず、一体全体なんのためにその仕事に取り組んだのかわからないという状況を呈する。赤字となり、責任者の首が飛ばされて終わることもあるだろうが、会社全体が存亡の危機に直面しないとは限らないだろう。
 先の戦争における日本の陸軍、海軍幹部の戦略の決定プロセスなぞを漏れ聞くと、それが確たるデーターに基づいて実施への決断がされているのかといえば、むしろ自己陶酔という言葉によって簡単に置き換えてしまうことが出来そうな、いわゆるその場の情熱、あるいはのっぴきならない自己主張の結果がそうさせ、まわりも「そこまでいうなら」という非常にあいまい且つ責任の所在を明確にしない決定を基に行われてきていたようである。零戦の対空砲火に対する防禦についての技術者からの提案を受けて源田実が「そんなことは必要がない、根性が解決する」という受け答えがどこまでも日本軍の背景に色濃く流れていたと云っても過言じゃない。そんな人間が戦後になって何人も何十人も与党の国会議員になっていたのだからそうした「血」をどろどろと引き継いでいないわけがない。
 そして戦後の日本社会はこうした武士社会の上下関係を全くそのままに置き換えたにすぎないともいえる似非近代化に於ける日本固有の軍隊システムをそのまま受け継いだに過ぎないから、いつまで経ってもこうしたプロジェクトの実施にあたっての必要不可欠な要素を真剣に語ることなく、「必ず貫徹する、必ず儲ける、必ず敵に背中を見せない」を合い言葉に、壮絶な自己犠牲をも強いることによって造り上げることを至上の命題とする。その姿はアジア太平洋戦争のガダルカナルであり、沖縄戦であるといっても良い。もはや今時はそんなプロジェクトのやり方で糊口を凌いでいるわけではないと思うがこの辺の悲壮感に酔うという姿を日本人は得意である。
 こんなことを、保阪正康の「昭和史入門」(文春新書)を読みながら、しきりに「ウン、ウン」と、周りに誰もいないにもかかわらず頷いて思う。
 先週のLOTO6で1000円が当たったことがわかってもうそれだで、今日は充分「しあわせ」だ。

散歩

 陽気に誘われて浅草に出た。ものすごい人出だ。もう祭が始まったのかと思うくらいだ。場外馬券売り場の裏通りもまるで重賞レースのある日と見まごうかと思うが子ども連れが多いのがそんな日と違っている。競馬の日しか開けていない煮込み屋が多い中で、いつでも店を開けている「正チャン」の店先にもたくさんの人が座っている。出来るだけ人の流れの少ないところを選んで吾妻橋まで出ると船着場はそれはもう人、人、人。トイレによると女性用は人の列。船乗り場にはながぁ〜い列が出来ていて一体こりゃいつになったら乗れるのだろうかと誰もが疑心暗鬼になろうかというほど。後ろの方で橋の上で並んでいる人が一番気分が良さそうだ。川を渡る風が頬をなで、波の動きはいつまで見ていても飽きない。そこに近未来的な船がやってくる。いくらなんでもありゃねぇよなぁ。「品」というものが感じられないんだ。橋を渡るとお馴染みのアサヒビールのそりゃぁもの凄いオブジェのあるビル。その後ろにかつては煉瓦造りのビヤホールがあった。あれが残っていたときに呑んだことはあるけれど、写真も撮っちゃいないし、ほとんど覚えていない。銀座のライオン・ビヤホールと比べてどうだっただろうか。今は船のイメージでデザインした4階建てくらいの建物になっていて、それぞれの階でアサヒのビールやここだけで呑める地ビールがある。一番下の階が23 Banchi Cafeとしてあって店の中に大きなカウンターがあっていくつものtapがある。カフェというだけのことがあって外はオープン・カフェになっているのだけれど、そこで友人がディレクションをしてなん組ものアコースティックのグループが3日間に亘ってそれぞれ出演するというので寄った。とても良い天気だから風に吹かれながら暖かくなった石段の上に座って眺めていた。どうやらこの店は話に聞くと犬OKなんだそうで、やたらと高そうな犬を連れた人が通りかかる。そう思ってみていると犬の顔つきというものはやっぱり飼い主の雰囲気をそのまま映し出してしまうような気がする。人の良さそうな人が連れている犬は、その犬の表情も「人が」、じゃなくて「犬が良さそう」だ。なんだか格好をつけている木で鼻を括ったような表情をしている人の連れている犬はやっぱり顔に愛嬌がない。
 見ている間にキャロル・キングを彷彿とさせるようなオリジナルをギター一本で弾きがたる女性、ブルースのギターを弾かせると上手いのに、歌い始めると怒鳴り声になっちゃう自分をつかみ切れていないだろうと思われる男性、ビートルズからフォークソングまでを非常に丁寧にまとめている外房から来た男女のデュオ、最後に友人のお兄さんが渋い声で切々と唄う。彼の唄は前にもロックのスペースで聴いたことがあるのだけれど、あんながちゃがちゃした場所でなくて、この位のしっとりとした雰囲気がぴったりだ。なんだか昔の大学の文化祭中のキャンパスの片隅で唄を聴いているようだった。
 場所を変えてひとしきり楽しく話し、帰りかかるところでばったりと友達夫婦と遭遇。そこからエンドレスの話に突入す。