ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

初めて降りた新百合ヶ丘

 先日自分のブログにも書いた豪州映画「Broken Sun」が上映されるというので、生まれて初めて新百合ヶ丘に行くと心に決めていたけれど、まだ時間があったし、腹が減っていたので大手町ビル地下に久しぶりに入っていった。まさかうなぎの「ての字」じゃないし、そうかといって洋食っぽいのもなぁと思っていると蕎麦屋の「吉田」がまだそのままあったから入る。若い男性が「食券をお願いします」という。そうそう、昔の古い丸ビルにあったあの店とここは食券だったなぁ。ミニ天丼セットを冷たい蕎麦でお願いする。そうそう、ここの蕎麦は更科みたいな蕎麦だった。天丼は丁寧につくってくれた天丼という雰囲気だ。そばつゆに蕎麦をつけてすすると「あっ!」と味を思い出した。これだったんだ。さして「うまいなぁ〜!」と感嘆するほどのものではないのだけれど、このつゆは好きなつゆだったんだなと確認した。
 千代田線に乗ろうとすると新百合ヶ丘までは460円。結構遠いんだねえ。ところが千円を入れたらお釣りがなんと640円転がり出てきた。ラッキーだなぁとやっぱりどんどん外に出なくちゃダメだなと納得する。やって来たのは唐木田行きの急行だけれども、こんな駅名を聞いたことがない。小田急多摩線と書いてある。知らない。それでも新百合ヶ丘までこのままで良いらしい。
 新百合ヶ丘に到着したのは14:45くらい。余裕を持って川崎アートセンターに到着した。ずいぶんとモダンなビルでLAのウォルト・ディズニー・コンサート・ホールの超ミニ版のようなステンレスを使ったデザインだ。
 ところが!中に入っていってびっくりした。次の映画は「石内尋常高等小学校 花は散れども」と書いてあって、なんと「Broken Sun」は今朝10:30からで、もうとっくのとうに終わっているのだ。こちらのページの一番下には「15:30 -」と確かに書いてある。家に帰ってきてからこっちをみると確かに「10:30-」となっている。ちゃんと電話をして確かめなかった私の負けだ。お釣りがたかだか百円多く出てきたと喜んだりした罰が当たったということか。トホホ・・・。帰りの電車の中に乗ってきた若者の突拍子もないハイテンションの声がしゃくに障る。

 なによりもあの映画を見損なったのが悲しい。

あぁ、くたびれた

国際免許

 神田の「神田運転免許更新センター」というところに行って国際運転免許証というものをつくる。
 神田の駅から西口商店街を辿って西に向かう。鮨屋と立ち食い蕎麦屋とラーメン屋がずらずらと並んでいる。昔ほど喫茶店がなくなった。角の鴨料理の「浜よし」はまだそのままある。冬に良く鴨がぶら下がっていたっけなぁ。外堀通りの角まで来ると昔は向こう側の左の角は弁当屋だった。外堀通りに沿って左に曲がり、鎌倉橋で向こう側に渡って右折。どこでも同じ雰囲気のするコープビルの次の次の古いビルの三階が「神田運転免許更新センター」である。
 「申請したらどれくらいの時間でできますか?」とお訊ねすると窓口の女性は「すぐです」と胸を張る。中に写真撮影のできるボックスがあって、600円。国際免許証の手数料は2,620円である。かかった費用全部で3200円ほどということになる。安いんだか高いんだかわからん。
 周りに並んでいる人なんて一人もいない。免許の書き換えに来たらしい人が時折姿を見せるくらいである。
 実は家を探したら1995年につくったもの、2003年につくったものと二つの古い既に期間が過ぎたものを見つけたので持って行った。たしか2003年に江東運転試験場に作りに行ったときに「前に出したものを返納してください」といわれたのを思い出したからである。

 1995年とは豪州に出かけた年で、ニュー・サウス・ウェールズ州はすぐに「パスポートのコピーと日本の運転免許証、そしてそれの公式英文訳を持っていれば車を運転して良い」ということになった。だからそれ以降は国際運転免許証を再発行してもらわなくて良かった。しかも現地免許を取る必然性もなくなった。しかし、問題は他の州へ仕事に行ったときにレンタカーにしろ何にしろ運転しなくてはならなくなったときにこれでは困る。他の州はそんなこと運転して良いとはいっていないからだ。
 そのうち、日本で免許証を持っている人はそのまま四択のパソコン上でやる試験と実技に受かれば現地免許証を出すという。猛勉強である。近所の公営図書館の書架の片隅にパソコンがあってそれで練習できるという話を聞いて練習にいった。あんまり上手い点がでない。またルールブックを繰り返し、繰り返し読みまくる。正答率は半端でなく、非常に高い率を求められる。しかし、四択を終えて、合格すると画面上に「CONGRATULATIONS !!」がきらきら出てくる。
 実技には自分の車を運転していく。なんでも噂によると実技試験に落ちると、一緒についてきてもらった誰かに運転してもらって帰らなくてはならないので、ちゃんと運転できる人についてきてもらわなくてはならないというのである。
 まず方向指示等や前照灯、ブレーキランプの点検から始まる。この時点でランプがつかなくて、そのままもう帰りなさいと帰されてしまった人もいるとか。本当かどうか知らないけれど。私は小さなランダバウトに右後輪をほんのちょっと乗り上げてしまったのだけれど、それでも合格した。優しい試験官のおじさんで良かった。たしかJOHNとでもいったかと思う。
 2003年は調べ物があっていった年で、Hobartでカローラを借りた記憶がある。
 その前の2000年11月にも友人の結婚式に参列するためにSydneyとHobartに行ったのだけれど、その時の国際免許証はどうしたのだろうか。2003年に取ったときに返却したのかも知れない。SydneyではCamryを借りたのは覚えているが、Hobartでどんな車を借りたのか記憶がない。

どんどん変わって

 さて神田橋の交差点のさきに確か煉瓦色したキッコーマンの社屋があった気がするのだけれど、まるで似ても似つかないビルが建っている。よく見ると日清製粉と書いてある。さればとキッコーマンのサイトを見ると1996年に東京本社移転と書いてある。そして今の東京本社は東京都港区西新橋2-1-1 興和西新橋ビルとなっている。ということは私がいなかった間に移ってしまっていたということか。ずっと知らなかった。その隣は三洋貿易と書いてある。三洋貿易という会社名には記憶がある。このあたりのビルにいたような気がする。そのまた隣の安田不動産という会社はこのあたりで見た記憶がない。すっかり疎くなってしまった。

 神田橋を南へ渡ると神田橋の首都高への入り口の脇にあった空き地におどろおどろしいほどのビルが二棟建設中である。それはそれはあたりを睥睨するという雰囲気である。この界隈はいやというほど歩いたものだ。この辺に政府刊行物取扱店と書いた書店があったような気がする。統計資料なんてものを入手しようとやって来た。この界隈には合同庁舎の中に入国管理事務所が入っていた記憶があって、そういわれてみると良く外国人の人たちとすれ違った。この辺の地下道は一体全体これまでに何回通ったことだろう。下手をすれば一日に二往復くらいは平気でしていただろうから何百回通っていたのだろう。まだ私が10代の終わりにこのあたりを歩いていた頃はあっちもこっちも空き地でそこにすくっと建っていたのは三井生命のビルとその隣の、何ともモダンだと思った日本長期信用銀行の黒御影で縁取られたビルだ。何をしに行ったのか、全く思い出せないのだけれども、その長銀に学生服を着て行き、応接に通されてお茶を戴いた記憶がある。まだ大学一年生だったから就職活動をしていたわけではない。一体何をしに行ったのだろうか。全く納得がいかないのである。

このビルは長銀が日比谷にとんでもないくらいに長モダンなビルを建てて引っ越して行ってからしばらく記憶にないが気がついたときにサラ金の「プロミス」が入ったのを知ってえらくびっくりした記憶がある。とうとうサラ金が大手町に出てくる時代になったのかと、時代の支配者が変わりつつあることを恐ろしい気がして感じていたような気がする。

 そういえばKDDIのビルを建て直していた頃は微かに記憶にあるからこの今のビルになってからもう10年以上経つんだろうか。その前は確か古いKDDのビルだったと思う。ビルの前に「国際電電」と書かれていたんだっただろうか。KDDは思いっきり儲けている会社として羨望の眼で見られていた。
 その隣の読売新聞社のビルはかつての長銀のビルの向かいに建っているが、これができてからバタバタっとこの界隈の空き地がビルで埋まっていったような気がする。今はそんなことはないのかも知れないが、野球の読売巨人軍が向かうところ敵なしだった頃、後楽園の巨人戦の切符が売り出されるときはこの前に朝から列ができていたのをよく見た。小学生の団体がバスからぞろぞろ降りて新聞社の見学に吸い込まれていった。それは今でもやっているのだろうか。そして夜中にこの界隈に来ると新聞の運送用の青いトラックが群がっていた。
 そういえば読売新聞の記者と呑んでいると、次に行こう!といいながらタクシーに乗り、ついでにここに立ち寄って朝刊の早刷りをとってきて「畜生!またボツにしやがった!呑もう、呑もう!」とそのまま赤坂か六本木に向かったものだった。夜中を過ぎると朝刊の1発目が出てくるんだそうだ。
 当時、新聞記者をしている人たちと随分遅くまで、というか朝まで呑んだものだったけれど、なんであんなに長い時間話すことがあったんだろうか。そして、ほぼ同年配だった彼らはみんなどうしているのだろうか。O氏は今でも時々テレビで見るから健在を一方的に確認させていただいているものの、K氏やM氏は一体どうしておられるのだろうか。

ぽっかり穴が

 昔の三和銀行、今の東京三菱UFJ銀行と大手センタービルの向こうに元の協和銀行大洋漁業のビルが覗いている。そんな逆光の雰囲気にカメラを向けていると、信号待ちのおばさんが「昔協和銀行があったわよねぇ、私口座を持っていたんだけれど、今なに銀行になっちゃったのかわからないのよねぇ」と何ともこの時期にのんびりした話をしている。思わず「あれが昔の協和銀行ですよ」というと「あ、やっぱり!今はなに銀行?」とお聴きになるので「りそなだと思いますよ」と返してあげた。口座にいくらはいっているのか聞いて一割もらいたい気持ちだ。
 大手町の交差点に来ると、西の角が風穴が開いたようにっぽっかり開いていて、三階建てのプレハブ工事事務所が建っている。1974年にこの角に18階建てのビルが建ち、隣のこれからどうなるか注目のAIGのビルもほぼ一緒に建った。ここだけがそれまで空き地だった。北の角は貿易センタービルだった。今は豊通に吸収されてしまったトーメンが入っていた。大手センタービルになってからは住友金属が入っていたけれど、彼らももう晴海に行ってしまった。東の角は三菱金属だっただろうか、いずれにしろ今は三菱マテリアルじゃなかっただろうか。そうして南の角は今でもそのまま建っている住友銀行だったから今は三井住友銀行になっている。
 AIGのビルの向こうが堀になっている。ここが先日外国人が真っ裸になって泳いでいた堀だ。裏のパレスホテルはとうとう全面的に改築するという話を聞いた。となるとこの界隈で昔のまんまなのは南の角の三井住友銀行だけだ。30年経ったらこれを除いて全ての建物が変わっているということになる。なんとまぁ、短気なことよのぉというか、この国は本当に油断も隙もありゃしないということだ。そういえばこの交差点から永代通りを東に行ったところにいた石川島播磨重工業はもう既に会社の名前もIHIになってしまってとっくに豊洲に行ってしまった。

新銀行東京

 当時の銀行員がイニシアティブをとって画策した不正融資は決算書類を改ざんさせて提出させ、融資後もしばらく返済させてカモフラージュしていたというから、この銀行のいい加減さをものの見事に証明して見せたといっても良いか。役人がやるとこうなるというその典型的な話じゃないのだろうか。書類さえ整っていればなんでも「オッケー牧場」だ。
 なんだか社会保険庁の保険料納付率向上運動と同じようにも見える。とにかくうまくやられてしまった。こんな銀行に都民は一体いくらつぎ込んだら懲りるというのだろうか。これから先、公金まで注入されちゃうんだろうか。「まさか公金注入の対象に新銀行東京は入らないでしょうね」という質問に対して中川昭一は「仮定の質問にはお答えできません」といったよ。
 それでもさすがに一族はそんなに冷たくない。「石原伸晃幹事長代理は26日のNHK討論番組で、金融機能強化法改正案について「(資本注入先の)銀行に区別はない」との認識を示した(毎日新聞 2008年10月27日 東京朝刊)」と報じられている。持つべきものは良い息子だ。
 石原慎太郎は「俺は銀行のことはなにもわからねぇんだから」と逃げる。「いえいえ、大丈夫ですよ、あなたがわからないことは銀行のことだけじゃないのは十分知っていますよ。芸術だってろくにわかっちゃいませんよ」といってやろう。まるで自分は被害者のような口ぶりのこの男にどこまで騙されれば気が済むというのだろうか。全く人が良いんだからねぇ、東京の人は。

  • 「不正融資が立件されたいま、これ以上、税金を無駄に使わないためにも、退路を考える時ではないのか。毎日新聞 2008年10月29日 東京朝刊」
  • 新銀行東京の経営が傾いた原因は金融危機とは別物だ。都民のみならず、国民の税金まで使うべきではない。(2008年10月29日02時00分 読売新聞)」
  • 「銀行を静かに閉店させることが、損失を少しでも抑える唯一の道だろう。そのとき損失が出たなら、政府ではなく都の責任で処理する以外にない。 (2008年10月29日朝日新聞)」

アイスランド

【10月29日 AFP】アイスランドは28日、国家財政の破たんを防ぐため、政策金利を6%引き上げ年18%にするとともに、欧州中央銀行(European Central Bank、ECB)と米連邦準備制度理事会(Federal Reserve Board、FRB)に対し支援を要請した。アイスランドのゲイル・ハーデ(Geir Haarde)首相が、北欧各国の首脳会議が開かれているフィンランドヘルシンキ(Helsinki)で、記者団に語った。

 18%!?

ふと・・・・・

 どんな状況の時でも前後の見境なくがむしゃらに突き進んでいくという姿勢は極上の評価を得るということになっているんではないか。

 その際、例えばそんな行動について冷静に考えたら合理的ではないという判断が下されてもおかしくないとしても、それは無視する。それが「よくやる奴」だという評価を得るんじゃないか。

 何時までにこれだけのものを揃えろ、といわれてそれがいかに不可能に思えたとしても、どんなことをしてもそれをそろえるのが部下として最も役に立つ部下だという評価があるんじゃないのか、たとえそれが他から盗んできて揃えてあったとしても。

 情け容赦を持つものは女々しい奴だ、とする評価があるのではないのか。「すみません、風邪を引いてしまったので、申し訳ないのですが、今日は休ませてください」といったら「張ってでも出てこいっ!」という上司はスパルタだとはいわれたけれど、心の底からバカにしてはいないのではなかっただろうか。

 「質実剛健」という言葉が本来の意味を失って、蛮勇を奮って客観的に見てばかげていることに熱中することを良しとする雰囲気に走ってしまうのではなかったか。ちょっとでも立場の弱い人間に情をかけるのは男子たるものの覚悟に欠けるとする価値観が大好きではないか。「武士の情け」とは必死に生き残ることを助けるのではなくて、このままだったら敵に捕まりそうなものは手にかけてしまうことだと思っていたりする。

TOKYO WAR CRIMES TRIAL CONFERENCE

 来月の上旬にメルボルン大学のAsia Pacific Centre for Military Law (APCML)で極東国際軍事裁判判決60周年を記念してこうしたカンフェレンスが開かれることは前にも書いた。
 あれからウェブ上にあったプログラムをダウンロードしてよく読んでみると大変に興味深い項目が並んでいて、スピーカーの数も多く、表題も多岐にわたっている。むしろ広がりすぎていて、この時間でまとまるのだろうかというきらいはあるかも知れない。
 日本からは立教大学・粟屋憲太郎、広島平和研究所・田中利幸、関西大学・藤田久一、国連大学・二村まどか、神奈川大学常石敬一という名前が見られる。この他、ICU出身のUniversity of Hawaiiの准教授・戸谷由麻、メルボルン大学の院生で国際法と人道研究所のYoriko Otomoが日本人のスピーカーとして予定されているようだ。
 他には主催校であるメルボルン大学APCMLから3名。モナシュ大学、フリンダース大学、ラ・トローブ大学。海外からはカンタベリー大学、バーミンガム大学、ロンドン経済大、ビクトリア大ウェリントン等から集まるそうだ。
 参加申し込み締め切りを過ぎているけれど、まだ大丈夫という話だったし、この際の円高でもあるので、急遽行ってみることにした。どこまで理解できるかわからないが。様々な予定を全部すっ飛ばすことになるけれど、ご容赦を。