ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

浅野祥雲

 「タモリ倶楽部」のテーマのおかげで、この稀代のコンクリート像作家の名前がネット上に満載になって・・いるのではないかと確信する。今回はゲストが三浦じゅんと安西の二人というのがこの面白さを加速していた。ずいぶんと氏の作品がネット上に取り上げられているのは確かで、こんな世の中にならなかったらこれほど取り上げられてはいなかったであろう事は確実だろう。みんなネタを探しているんだから。
 それにしても笑えるというか、不気味だというか。あんまり好きではない。

季刊清水41号

 今年の10月に発行されていた、清水銀座の戸田書店発行「季刊清水 41号」が到着。こちらで「電脳六義園」というサイトを主宰しておられる石原雅彦氏が表紙のデザインをされ、文を寄稿しておられて、氏のサイトからこの雑誌の存在を知り、この号のことも知った。
 私は合計するとこれまでの人生の中で8年半の間清水市(今は静岡市清水区という行政区分になっている)に暮らした。そのうち3年半が小学校4年の途中から中学一年を終わるまでの間のことで、その後は成人して就職してからのことである。成人してからも結構様々なことがあったのだけれど、やはり懐かしさをもって想い出すのは子どもの頃のことの方が圧倒的なスペースを占める。
 小4の二学期から三保に引っ越して、晴天、西風がお定まりの冬を悪童たちは自転車を駆って三保半島から久能まで走り回っていた。翌年の夏休みは毎日毎日おにぎり二つを抱えて真崎の海水浴場に通い詰め、とうとうどこまででも泳ぐ自信を身につけた代わりに夏休みの終わり頃には体中に湿疹が出て寝込んだ。記念塔近くに引っ越した後は毎朝桜橋の駅まで自転車で坂を上り、静鉄で柚木まで通った。
 先月、ひょんなところから大学の後輩に、私が最後の一年間だけ在籍した小学校の後輩がいるのを知り、先月シドニーでお会いした大学の大先輩が戦時中在籍したのが隣の小学校だと知った。初めてお会いした人々がたったこれだけのことで一気にうち解けてしまうのはいったいどうしたことかと不思議だ。小学校の後輩が「先輩の頃にはあのユーカリの木はあったんですか?」と云ったときには思わず涙が出そうだった。とにかく昔話にはとんと涙腺が弱くなってきているのは否定が出来ない。学生に戻ることは今でもやろうと思えば出来るけれど、あの頃のことはもう繰り返すことが出来ないのが確実だから加速されるのだろうか。
 この雑誌の表3が鈴与の広告なんだけれど、興津の「一碧楼水口屋」の写真が出ていて「あ、あそこは今でも営業しているのか」と思ったら良く読むと1985年に営業を止め、今は鈴与の研修センターになっているという。そして無料で一般に公開しているのだという。これは一度見に行く価値がありそうだ。
 1970年代前半に清水で働いていた頃、大きな顧客がやってくるとこちらの大きなお座敷で、素晴らしい庭園を見ながらの宴を持ったことが数回ある。そういうことが許される時代だった。上司のアイディアで海外からのお客さんに浴衣姿になっていただいたリラックスした宴会のことを想い出す。
 西園寺公望が、今は明治村に保存されているらしい別荘「坐漁荘」を興津に構えたことから多くの要人が彼を訪ね、水口屋に宿を取ったとある。
 水口屋についてはOliver Statlerが書いた「Japanese Inn」という著作がある。1961年の刊行で、Amazon USAでも検索でひっかかる。Amazon USAでみると2007年にKessinger Publishingから再出版されているそうだ。これが日本では齋藤襄治の訳で「東海道の宿 水口やものがたり」というタイトルの現代教養文庫964として社会思想社から1978年に刊行されている。西園寺と水口屋との繋がりについてはこの文庫本の351頁あたりから書かれている。
 Oliver Hadley Statler(1915 - 2002)は本書の他にも「下田物語(Shimoda Story)」、「四国八十八ヶ所遍路(Japanese Pilgrimage)」といった書物を著していて、最後に暮らしていたハワイ・ホノルルで他界している。彼のコレクションはハワイ大が管理しているそうだ。(→ こちら
 齋藤襄治は京都大で言語学を学習し、連合軍総司令部民間情報教育局顧問から米国大使館勤務。茨城キリスト教大教授から学長となり、立正大に移ったという経歴を持つ。1917年生まれ。日本ペンクラブの物故会員リストに掲載されているからすでに他界されているようである。
 「訳者あとがき」を見ると1972年に齋藤はStatlerにシカゴ近郊のハントリーで逢っているのだそうだ。

行政改悪

 渡辺喜美がおやじほどではないものの栃木弁なまりで怒っている。テレビ朝日の朝のワイドショー「スーパー・モーニング」で玉川徹が徹底してレポートし続けている「私のしごと館」とその運営法人「雇用能力開発機構」の去就について最新の報告。

 甘利明行政改革担当相と舛添要一厚生労働相は機能の大部分を維持したうえで厚労省所管の独法「高齢・障害者雇用支援機構」に統合することで合意し、年間15億円に上る赤字が出ていた職業体験施設「私のしごと館」(京都府)については廃止(毎日新聞 2008年12月11日 東京朝刊)

 玉川徹は緑資源機構が統合と称してそのまま看板の掛け替えのままで平然と存在している実態をあからさまに見せて、甘利と舛添とその任命権者である麻生が情けなくも恥ずかしくも圧倒的に「わが内閣にとって敵ではない」霞ヶ関の力の前に屈してしまって、打ちのめされ、国民をあからさまに裏切っていることを指摘した。
 旧緑資源機構は全く事務所も動かず、理事中には以前の緑資源機構から横滑りも複数いて、ただただ看板の文字を替えただけの状態で、図々しくも蛙の面にションベン(失礼、これは玉川でなく私のボキャブラリー)状況だという。
 なるほど、Googleで「緑資源機構」と検索するとそのまま「緑資源機構」が表示されるので、一瞬「あれ?今の名前がこれだっけ?」と誤解してしまうが、それをクリックすると、あれあれ、「独立行政法人森林総合研究所森林農地整備センター」が表示されるというまさにそのまま状況。理事の町田治之は緑資源機構での理事長、山本晶三と角田豊は理事、専務理事工藤正憲は緑資源機構中国四国整備局長であったことも正々堂々と公表されている。田野岡章理事と町田治之理事以外は役員全員が霞ヶ関出身者。これでは緑資源機構が廃止、統合といったって名前を変えて温存したという指摘には反論できないだろうけれど、霞ヶ関で充分訓練されてきた連中は見事なまでに鉄面皮な反論を展開してくるだろう。
 これがそのまま「雇用能力開発機構」にも適用され、温存されるという事になるのは容易に想像が出来る。
 あの、産経ですら「【主張】雇用開発機構 廃止どころか組織温存だ(2008.12.12 02:53)」と指摘している。
 麻生は本当にこれでよいと考えているのだろうか。壮大な無駄遣い集団を本当にこのままにしようとしているのだろうか。