ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

新宿

 2週間に一度の新宿の日。昨日夜中に目覚めてしまって、多分寝たのは午前3時頃だと想う。9時近くなってようやく起きだし、コーヒーとパンに目玉焼きを挟んで慌てて食べ、新宿に到着すると開始10分前だった。ばったりと近所の人に出逢い、やぁやぁと旧交を温める。昼飯を一緒にどうだという話が出たけれど、今日はそのままの足で行く予定を決めてしまっているので、再来週に決行することにする。いつまでやっているかわからない映画を早めに見てしまっておかないと見逃す可能性があるからなのだけれど。
 東條英機アドルフ・ヒトラーを評して「ただの伍長、こっちは陸大出身の大将」といった話は有名だ。また、ヒトラー著の「わが闘争」の日本語訳版からはヒトラーが日本人を侮蔑的に表現した部分が削除されているという話も知られている。
 ドイツに駐在した陸軍武官は必ず大のドイツ贔屓になって帰任するというが、その裏にはドイツが手配する現地妻の存在が一部では語られていたともいう。

映画「レオニー(Leonie)」

 伊勢丹の先、ビルの4階にある角川シネマ新宿に直行する。松井久子監督作品、日米合作映画「レオニー」が先週土曜日に封切られた。松井久子監督の作品は知っているだけでは二作あり、一つは戦争花嫁で米国に渡り、高齢となって認知症から第二獲得言語を失ってしまう元日本人を描いた「ユキエ」(原作:吉目木晴彦「寂寥郊野」)とやはり認知症高齢者を描いた「折り梅」(原作:小菅もと子「忘れても、しあわせ」)である。残念ながら私はどちらも見ていないので、これが松井作品としては初めてである。
 この映画は脚本・監督が松井久子だけれど、ドウス昌代の「イサム・ノグチ」にinspireされたというクレジットが入っている。飽くまでも原作なのではなくて、inspireされた作品である。
 ドウスの本を読むと、野口米次郎は自らの原稿の推敲編集者としてLeonie Gilmourを雇う。もう既に作品を発表して知られている。しかし、日露戦争を機に、すでに妊娠したLeonieを置き去りにして日本へ帰国してしまう。彼女のそこからの人生は、孤立の中で、誇りと自らの信念に基づいて送るものである。
 津田梅子役の原田美枝子ラフカディオ・ハーンの未亡人、セツの竹下景子の英語は素晴らしい。竹下景子東京女子大卒だから何となくわかるような気もするが、原田美枝子の旨い発音はどこで身につけたものだろうか。それに引き替えヨネ・野口役の中村獅童の英語はどうだ。たった11年間しか米国に滞在していない設定だからあれでしょうがないのだろうが、どう見てもお粗末。それが気になって仕方がない。獅童はこの種の役をできるだけ受けようとしているのだろうか。しかし、どうしても馴染めない。
 イサム役の3人(4人か)は上手く見付けてきたものだと感心した。しかし、最後のLenieが、イサムが設計した札幌に公園で佇む場面は、多分賛否の分かれるところだろう。あの公園にしても様々なイサムのそれまでの作品の歴史があって初めて感動を呼ぶのではないだろうか。
 ドウスの感想を聴いてみたい。
 ここまで来ると、女性を描き続けている松井久子は手をつけないにしても、誰かがイサム・ノグチを撮らないのだろうか。

眼を疑う

 阪急交通社の宣伝メルマガを取っているのだけれど、この目を疑いますな。なんとソウルフリープラン3日間が9,800円と大書してある。1万円しない!隣に書いてある宮古島3日間が32,900円がなんだか高く見えてしまうという始末。やけになっちまったんだろうか。それとも例の北朝鮮砲撃事件でキャンセル殺到なんだろうか。この値段だったら、撃たれても良いや!という旅人が登場するのだろうか。たったの3日間だけれど。ま、「大変恐れ入りますが、既にこのパックは売り切れてしまいました」というパターンかなぁ。それにしても。

村上春樹

 先日、ここで「海辺のカフカ」を読んだということを書いた。そしてそれにまつわる村上春樹が作ったサイトに乗った読者と村上とのやりとりを採録したものを手に入れたとかいた。それを読み始めて数ページで、実は止まったままだ。
 それはなぜかというと、彼の対応がどうしても私にはあわないのだ。どうあわないのかという論理的解明ができないのだけれど、感じでいうとこうだ。
 余りにも人を傷つけない気の配りというようなものが見えてくる。それはとても大事なことで、無神経という言葉とは全く縁のない世界で、とても真摯に一つずつ対応しているかの如くに見える。
 そこが(不遜なことに)私には鼻につくというのだろうか、なんだか落ち着かない。ひどい形容をすると(しなくても良いのに)、会社の帰りに銀座あたりで何人かで食事をした帰りに本屋で村上小説をお買い求めになった女性たちという雰囲気なんだなぁ。
 こういいながら、自分がそれを嫌いかというと、そうでもない。それなのに、自分が加わっていないそういう世界を見ると、見たくないような気になるという、いや、もう、それはそれは面倒くさいような錯綜した精神世界に入っていっちゃうから、もうよそう。

2010年11月24日のツイート