ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

アンサンブル・コルディエ

 時々このグループの東京文化会館小ホールの演奏会に呼んでくださる方がおられて、年に2回ほどは聴きに行く。少しずつクラッシックスに触れるチャンスが増えてきて、良さとか旨さとかに反応できるようになってきたような気がする。昔はクラッシクスなんて、頼まれても聴きに行く気にハナ欄なぁと思っていたというのに、今や自分で切符を買って見に行くようになってきたのは驚きだ。まさかこんなことになってくるとは予想もしなかった。人間はどうなるかわからないから自分をハナから決めつけてはならないのだということだ。

 今年はまだそれほどではないが、テレビでもこれまで全く問題なくパスしていたのに、先日夜中にWOWOWがメトロポリタンオペラの「こうもり」の放送を眼を更にしてみてしまった。素晴らしい歌とステージだ。今までこうしたものを喰わず嫌いにしていたのは実に勿体なかったと後悔している。

社会人

 折角のお涙頂戴話に水を差すようで大変に恐縮。

この職場で働くのが嫌なら辞めてもよい。君は特別な体験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。でも、君は社会人として発言していってくれ。労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。君は社会人になりなさい。

 光市殺人事件の被害者の元旦那さんで新日鐵光製鉄所の社員の方が会社を辞めようと悩んでいた時に上司の方がかけられた「会社を辞めるな」の言葉の中の一節だそうだ。
 というわけで私はただの「負け犬」でここで書いていることは「遠吠え」でござる。なんだかまるで明治時代の普選運動以前の選挙権資格の話のようだ。納税者でないと選挙権がなかったあの時代だ。
 それでは社会人とは一体何か。新日鐵という超大企業に雇用されているという形態だけが「社会人」じゃないだろうといいたくなってしまったのであった。

国益の観点

 水戸黄門の印籠ではないけれど、これをかざしてしまうともうそれ以降誰も異論を唱えることができかねるという言葉のひとつだといっても良いだろう。「国益を考えてのことで」といわれた時にそんなものを考える必然などこの私にはないと言い切ってしまうと直ぐさま、「非国民」だとか「この国から出て行け」だというような言葉がいわゆる「愛国者」と自ら宣言するような類の人たちから却ってきそうである。
 じゃ、「愛国」ってなんだよってことになるんだなぁ。この国を愛するとか、この国の利益を考えるということは、他の国なんかはもうこの際どうなっても良い、ということになるわけで、他の国の利益なんてものはずたずたで充分結構だということになる。
 大体、「利益」ってのはなんだろうか。自分が得をすることであり、その得そのもののことであったりするわけだろう。けれど、それはどれほどあったら充分なんだろうか。世界で一二を争うほど、国として金を持っていることが得をしているということなのか。国として持っていても、その国に所属しているこの私はどうなんだろうか。この「私」にとって得になることを追求するとそれは「国益」とはいわないわけで、個人の利益でしかない。その個人の利益を追求するということを実現する時にそれがいわゆる「国益」と異なっていたら、つまり個人の利益が国益と相反していたら、それが初めて非国民ということになるのだろうか。
 覚醒剤密売で財をなしたら、それは国益に反しているというのは概ね共通認識になっても良いだろう。では、被爆しちゃう人が何人かでたとしても、電力が安定的に供給することができればそれは国益に合致しているということなのだろうか。あの戦争で一直線に死を持って報いることがあの人のため、また自分の家族のためなのだという教育を施していたのは「私利」を否定して「国益」に貢献するためだったわけで、その象徴たる歌と旗に恭順を示すというのはやはりそれも「国益」なのだろうか。その結果他の「国」に暮らす人々から農地を収奪し、食料を「徴発」し、「膺懲(ようちょう)」を加えたのも「国益」だったのか。そして今になってそんなことは起きていやしなかったと否定してみせることが「国益」なのか。そうしてみると「国益」というものは相当に独りよがりなことであるらしい。だとしたら「国益」にかなわないことはこの地球上には随分たくさんありそうで、この際だからこの「国益」国家は再び鎖国するしかないだろう。オリンピックを開くだなんてことはとんでもないことで、「貿易国家」を標榜するのも憚らなくてはならない。なにしろそういうことには「他国」がなくては成り立たない。「他国」が全く同様に存在していなかったら発想すらできないことだからだ。
 春先の早朝に富士の白雪が朝日に輝く様をじっと見ていたら、「国益」にこだわって生きる前に人間としての根源を考え直して生きるべきだ、という気持ちになる・・・筈だけれど、彼らはきっと違うんだろうな。

覚悟しなくちゃ

ヤマメ100ベクレル超 県内4河川解禁延期要請
 県農政部は21日、渡良瀬川日光市)、箒川(那須塩原市)、粟野川(鹿沼市)の3河川で採取したヤマメから、4月施行予定の食品衛生法における放射性物質の基準値1kg当たり100ベクレルを上回る、106.1〜248.0ベクレルの放射性セシウムを検出、南摩川(鹿沼市)を加えた4河川の渓流魚釣り解禁延期を要請した。
 対象は、足尾町、塩原、小倉川の3漁協。(下野新聞2月21日 17:09)

 川は周囲の山から様々なものを吹くんで流れ込む水が合流して段々流れを太くしていく。これ、即ち「除染」の構図ならん。あの箒川でもこういう具合なのだということはより福島第一に近い地域の川も正にこの通りだろう。
 ウサギ追いしかの山も、小鮒釣りしかの川も、山女魚や虹鱒をフライを振って釣り上げたあの池だって、今はもうみんな死の川になっていっていると云うことを意味している。
 はっきり認識して、強制疎開の範囲を広め、原発近辺の汚染されてしまった村や町の閉鎖を一日も早く決めて、新しい生活へ転換に向かって歩き出すべくたいまつをかざすのが政府のするべきことだろう。
 何が、「収束」だ。怒りを持って野田民主党に抗議する。

ALP

 豪州労働党は前首相で、今は外務大臣を務めているケヴィン・ラッドが出張先の米国ワシントンで、辞任を発表したので、驚いちゃったのだけれど、すると今度は現労働党首で現首相であるジュリアード・ギラードが「それなら党首選挙をやったろうじゃないか」と記者会見したというのである。
 ケヴィン・ラッドが首相となった時、なにしろ彼は中国大使を務めていたくらいだから中国語べらべらで、直ぐさま中国を訪問して豪州と中国の関係は自分あってのものなんだくらいな勢いだった。しかし、なにかと彼は信頼を深めることができにくく、ジュリアード・ギラードに党首選の立場を譲って外務大臣に専念していた。しかし、両者の確執が深まっているといわれてきた。これで、ケヴィン・ラッドが受けて立つというのであれば27日に党首選挙をすることになるのだけれど、ケヴィン・ラッドがこれを受けるかどうか、注目されているというわけだ。
 野田君もやってみるか?いや、党首選挙じゃなくて、総選挙だな、必要なのは。

ビルマ

 今ではしきりにミャンマーと呼んでいるようだけれど、それは軍事政権ができてから軍事政権が国外表記をその様に変えたもので、日本政府は軍事政権に直ぐさま呼応して、はっきりいうと擦り寄って直ぐにそれを取り入れていた。英語では「バァーマ」と発音していた。私はこれが軍事政権によって変えられたということを知らずに、地元の祭に遊びに来ていたビルマ人にどこから来たのかと訊ね、彼が「Berma」と答えた時に「Myanmar!」と知ったかぶりで答えたら、頑なに彼が「Berma」だ、と答えたので、何か大きな理由があるんだとわかった。もう10数年以上昔のことだったと思う。
 軍事政権以前には多くの国民がフィリピンの人たちと同じように良く海外に出稼ぎにでていたので出逢ったことがある。その軍事政権がここに来て驚くような急展開で民主化していこうとしているかの如く見えるようになってきた。これはなにかといったらあからさまに外国からの援助、外国企業からの投資をもとにした経済復興を計ろうとしているということだろう。
 日本の各企業にとってもビルマの半ば鎖国状態が解かれ、進出が可能になれば中国の次の次の生産拠点として魅力があるだろうし、何よりも新しい市場の開放に繋がるわけだから、鵜の目鷹の目である。
 「早くアウンサンスーチーがどうにかなってくれると良いんだけれど」といっていた日本の元外務官僚の言葉を思い出す。その国の立場に立って考えられないことになるのだろうか。