引越しをdenkenする。 

 私の下宿の蔵書はもう100冊を超えてしまった。祖母がアルツハイマー認知症に罹患してしまったためになんとか哲学を認知行動療法や臨床心理学にむすびつけて考えていこうとあせったために書物だけの世界に没入するとういう主観と客観が逆転するという主客逆転の現象がおこってしまった。書物に囲まれた生活はここちよい人間もいるが、私はそうではないらしく夜中にもそもそと起き上がり書物に書き込みをしながら不眠症や神経衰弱となってしまう。まるで夏目漱石先生のようである。恩師の助言は
「人間は眠らなくても死なない」
という真理であった。これは「よく生きること」と「生きること」と関係があるに違いない。
土屋賢二先生の『純粋ツチヤ批判』によれば
「一日徹夜して一日眠る。48時間体制で生活しているので他人とちがった生命サイクルでいきている」
というモットーで生きているらしい。ソクラテスの生き方に忠実であることは間違いないであろう。
私<もまた>みなならわなくてはなるまい。
異様な雰囲気を古本屋で持ち前の<眼力>でねらった蔵書は異様な雰囲気をはなっている。6畳間の暗く朝だか夜だか解しがたい下宿では腰をおちつけてレポートの執筆をしたり論文をかいたり、ショート・ショートを書くことは困難のきわみである。私の叔父であるリリパット
「学生だから我慢しろ」と言い。
母は
「お前、そこの『場所』が<気>にいっているんだろ、単位とれなかったら大学辞めて沼津にかえってこい。」
<噛み砕きにくい>助言をあたえられねてもさめても落ち着かない。

 私は引越しを考えている。引越しをして机と椅子が存在する『場所』にみずからをおいて魂のレポートと論文および『教育哲学ショート・ショート-魂の千夜一夜おとぎばなし-』の執筆に専念していきたい。引越しの候補としては
第一に滋賀県の琵琶湖のちかくの物件
これは恩師との対話がやりやすくなり、ドイツ語の文献やフランス語の文献やギリシア語の文献の示唆をうけやすく、クラシック・バレエのスタジオもあるという利点がある。

第二に大谷大学の近くの物件
北大路の近くに住めば単位の履修が容易になり大学院に進みやすくなりそうな予感がするが、第一の条件よりもうつい予感がする。

第三に学習院大学のちかくの物件
将来、「臨床哲学」に基づく哲学cafeをこしらえたいという目的のためには善いが、まだその時期にははやすぎる予感がする。

 滋賀県の近くの物件に引っ越すとすると、叔父の力が必要になってくる。車を操縦できる人間はわが一族では叔父のみである。大量の蔵書を運び出すには車を操縦できる人間が必要である。私はまだ車を操縦できる条件を満たしていない。メランコリー親和型躁うつ病木村敏:笠原論文参照)に罹患しているために薬の副作用の<眠気>の手前、車の運転および精密機械の操縦は絶対にできない。
 洛南高等学校の器械体操部においてを床・平行棒・あん馬吊り輪跳馬・鉄棒シュピール(遊戯)することによってそのコンプレックスを克服しようとたくらんでいる。このことはまた金子明友先生や加藤澤男先生の<身体知>を仏教思想のヨーガとシンクロさせることによって加藤澤男先生の<身体知>や感覚からかもし出される理論を体系化し、認知行動療法や臨床心理学におおきな光明をあたえると思われる。
 ヨーガや器械体操からにじみ出た理論は実践をとおさないかぎり、理解すことはきわめてこんなんであり、躁うつ病を罹患しているので書物だけで体系づけるだけでは「窒息」する危険はまぬがれない。しかし、単位履修の問題を考えるとまた問題が浮き彫りになる。器械体操の実践に移行していくと大谷大学における単位習得があやぶまれる。そしてバイオリンの稽古も持続していこうという「意思」もあるのでタイム・マネジメントが極めてこんなんになってくる。
 器械体操の場合、その練習は夜になる。クラシック・バレエの稽古もまた夜型になり汗を流し、基礎代謝があがると<不眠症の克服>にはこれほどすばらしいものはない。しかし、哲学演習の日に筋肉痛で階段の上り下りが困難になる「恐れ」があるが、仕方がないやってみる価値はあるだろう。
 カント哲学の『判断力批判』や『純粋理性批判』、ヘーゲルの『精神の現象学』の「人相術」のなかの「骨蓋論」で<動的身体知>を考察する上で器械体操やクラシック・バレエ(これは観照のみにする)の比較は理論から実践へから実践から理論へのコペルニクス的転回をもたらすことは間違いないであろう。