マルクスの使いみち

あー、完全に仕事逃避モード。あのいっておきますが,独立法人の大学教員は裁量労働制っていって,週単位で労働時間が決められているのです。昨晩は徹夜だったから,今日はいまあそんでても,怠業じゃないんですよ。

というわけで、このブログは更新頻度の少なさと松尾匡含有率ではてな1、2をあらそうだが、松尾匡その他(藁)のマルクスの使いみちの書評というか、どっちかというと近代の復権あたりの松尾社会理論の批評をしたい。だいたい,松尾オタの間じゃきょうび「マルクスの使いみち」なんてはやんねーだよ。稲葉やるからそこをどけ*1

マルクスの使いみち

マルクスの使いみち

まじめにいうとネット上で書評を読むと吉原さん関係のことが多くて、せっかく、有名になったのにちゃんと松尾さんのこと書いてよという気分なのだ。松尾思想の中心部分があの本ではえぐられている感じなのだ。そのへんについては松尾さんも稲葉先生、吉原先生や太田出版の編集の人に気をつかいつつ,不満たらたらを表明している。だから,「マルクスの使いみち」をよんだひとに松尾思想のコアと私が勝手におもっていることの批評をしてみたいのだ。

あと,引用その他は不正確です。とくに「マルクスの使いみち」は手元においてないので。松尾さんにメールして、へんなところは本人にコメントしてもらおう。

なんでもマルクス

松尾氏によれば、あえて松尾氏じじんの嫌いな廣松チックないい方をすれば、マルクスは主要な20世紀社会理論のこうしである。*2フロイトも,ソシュールも,マックス=ウェーバーもみんな社会理論としてマルクスと同型の構造をしている。

松尾さんはそれを疎外論と呼んでいる。「社会の共同関係をつくるための観念が,個々人の感性から切り離されて外に自立し,逆に個々人の感性を抑圧してくること」うわー、どろどろ。と,私も松尾さんと過ごした大学院時代はそう思っていた。が、あのころどうしてわかんなかったのか不思議なのだが、松尾さんの特殊というか,面白いとこをこれを新古典派的な一般均衡の枠組(とは,松尾さんはいわないかもしれない)にのせてしまって、事実上,マルクス一般均衡の元祖,一般均衡
以降のフロイトソシュール、マックス=ウェーバーマルクスの弟子、つまり一般均衡理論の親戚にしてしまっているのである。(彼らがマルクスに影響されたとはたぶんいっていない。ようするにきちんと完成したかたちで理論をつくったのがマルクスで、あとは独立に理論形成したとしても,マルクスの亜流とか,未完成品とか、理論の別方向への応用でしかないというニュアンスだと思っている。

もしかしたら、ここで松尾さんがマルクス教条主義者と考えるひともいるかもしれない。ある意味ではそうであるが、新古典派的な均衡理論とマルクスのコアの重要な部分が一致している、あるいは、マルクス新古典派を包含していることを積極的に主張するのは,通常のマルクス理解からはかけはなれている。

松尾さんがマルクスヘーゲルからうけつぎ,完成させた図式はこうである.「個別的現実的な現象の背後には,普遍的抽象的な本質が存在し,本質は現象の中においてあらわれる。」これはマーシャル的な均衡理論を考えればこうである。ここでの本質は均衡価格である。しかし、均衡価格は現実のいつの時点においても成立していない。これは現象である。すなわち、「現象は本質と一見矛盾した形であらわれる。」しかしながら,長期的な平均をとれば,均衡すなわち本質はあらわれ、その長期的平均価格、すなわち,本質は究極的には現象つまり,各時点での価格を規制している。ここでおさえておかなければならないのは、現象はかならず,社会の成員によって担われることによって実現するが、そのとき,諸個人は本質を実現しようと意図しているわけではない。にもかかわらず、この「本質と現象の矛盾」すなわち不均衡は、長期的にはならされ、平均として本質があらわれる。

松尾さんは以下のような表を描く。

      本質   その現象形態
ヘーゲル  世界精神  個人
ハイエク  法     法令
ソシュール ラング    パロール
マーシャル 正常価格  短期価格

たしかにこの表の本質は長期的な平均をあらわし、本質の現象形態が短期的,一時的に実現されるものをあらわしている。さらにいえば,たぶん、この図式はデュルケームルーマンなどの社会学の理論にもあてはめられるだろう。

「中期理論は経済学のミッシングリンクや」(松尾匡

上の言葉は確かに松尾さんの口から聞いた言葉である。それも一度や二度ではないようにおもう。これは松尾さんが新古典派マルクスを含めた経済学が未完成であることを率直にみとめたもので松尾さんの学問的真摯さが表れている言葉だとおもう。

しかし、本質と現象の文脈でこれを考えるとどういうことになるか。中期理論というのは,短期(現象)がいかにして長期(本質)を実現するかということである。したがって,経済学において中期理論がミッシングリンクであるということは,経済学は現象がいかにして本質を実現しているのメカニズムを解明していないことをいっていることになる。

そうすると、ほかの社会理論とマルクスの同型性についても考え直す必要はないか。たしかに、これで本質vs現象という図式がひっくりかえるわけではない。しかし、松尾さんもおそらくみとめるだろうことは、マルクスを含めた社会理論において,いかにして長期的平均が実現されるかは根本問題である。

一例をあげよう.ホワイトノイズは長期的平均は安定している。短期にはそれが長期的平均と一致するのは偶然でしかない。また、サインカーブも同様に長期的平均は安定している。個々人の行動の結果として社会のある同一の指数が,一方ではホワイトノイズであり、他方がサインカーブであったとしよう。それらは現象と本質をもっているので,同型の社会理論で説明できる現象だといえるだろうか。それらが平均を実現するメカニズムはあきらかにちがうにもかかわらず。

もちろん、いえるという立場もある。いえないと言う立場であっても,長期的平均が実現されるという情報は社会現象を見るうえで重要な知見をもたらす。しかし、本質が実現するメカニズムを重視する立場からは,同型の社会理論で説明できる現象とはいえないだろう。

たとえば,言語学においてパロールがラングを生成するメカニズムとマルクスにおける生産価格理論が長期的に成立するメカニズムの同等性はいえるのか。たぶん、言語学についての十分な検討がないかぎりいえないと思う。私はその議論を松尾さんが十分にしているとは思えない。

私にとって、非新古典派の経済学に可能性を感じるのは、松尾さんが本質とよぶシステムの長期的な振舞がいかにして成立するか、つまり中期の動学である。「マルクスの使いみち」では、均衡を否定する立場への批判があるが、中期の議論の観点はぬけおちているように感じる。

トイモデルをめぐって

マルクスの使いみち」のなかで松尾さんはトイモデル(極度に単純化)したモデルを拒否する立場を批判している。「労賃・価格・利潤」のトイモデルをとりあげ、それが十分強力なツールとしてやくにたつことを主張している。これにはとくに反対しない。松尾さんのいう本質の構造がわかっていれば、本質を分析するためにトイモデルを利用することはそれほど害はないだろう。

しかし、トイモデルが批判されるのは、ひとつには、トイモデルをいきなり仮定することがそれがあらわす本質の生成メカニズムを説明しないことが問題にされるときであろう。このことが問題であれば,トイモデルが否定されるのは当然のことである。しかし、この種の批判からトイモデルを救う必要性はどこにあるのか。

そもそも、われわれのつくるモデルは現実の多様性にくらべればすべてトイモデルである。モデルは地図にすぎない。地球儀が必要なこともあれば、チラシの裏の落書きのような地図ですむ場合もある。それだけではないか。

たぶん、私もそうだが,我々より下の世代も含めて、冷戦的な思考をひきずっていないだろうか。経済学において冷戦とはようは左の経済学と右の経済学のどちらがリアルかという論争期である。しかし、すべてのモデルはリアルでない。われわれは複雑な世界を旅するために地図が必要なだけである。もちろん、あやまった地図もあるが誤りがわかるのはしばしば使ってみてからだ。ただ、ある場面でやくにたった地図は、どんな立場であっても参照すべきであろう。だが、それがどんな目的の旅にでも役にたつわけではない。冷戦期の経済学とは投射の手法が違う地図を目的を度外視してどっちがリアルかあらそっていた時期のように思う。共産主義の低落以上に地図のできではなく,使いかたの差ではなかったのか。しかし、リアルなモデルなんてない。あるとすれば、地図としては役に立たない、世界の等身大模型のようなものだろう。このことに経済学者は自覚的になるべきではないのか。

ただし、これは直観でしかないが、私は経験への反応としてリアルな態度とリアルでない態度の区別は明確にあるとおもっている。世界を「旅」することで認識が深まる可能性は信じたい。すくなくとも教科書レベルでいえば、明らかに広い範囲を「旅」しているのは、新古典派である。正直に告白すれば、実証畑のことがらについては私はマンキューやブランシャールで紹介されているアメリカの学部生向けの教科書の知識すらあやしい。だから、吉原さんの非新古典派批判は私にとっては地図の出来ばかり気にして、旅をしてこなかった私への批判とも聞こえる。

えーと、だんだん、寝不足気味でよっぱらいモードに入ってきたので、スローガンっぽくしめくくる。

- リアルな理論はない。すべてのモデルはトイモデルだ。だけど、リアルを尊重する態度とリアルを尊重しない態度はある。
- モデルは目的によって、許容される場合とされない場合がある。しかし、経験によって、あるモデルが現実のなんらかの側面と合致することがわかっている場合には、同じ対象を分析する理論は、理論的立場の如何にかかわらず、そのこととの整合性に注意をはらうべきである。
- したがって、ある現実の側面を説明しているモデルがあり、なんらかの根拠から自分がそのモデルの基礎となる理論と違う理論的立場にいるときの現実的な態度はなんらかの意味でどちらも許容することである。

二番めのことはこうである。もし、新古典派の理論で説明できる現象があった場合、たとえ、新古典派の立場でなくても、その現象を自分立場で整合的に説明できなければならない。これは新古典派の理論的説明をうけいれる立場ではないが、ある側面で新古典派の理論を受容することを意味する。

たぶんリアルな社会認識の基礎は、あれかこれかではなく、あれもこれもである。えーと、発散しちゃったが、これが「マルクスのつかいみち」に触発されて考えの当座のまとめである。批判はしたが、松尾さんとも吉原さんともそう遠いところにはいないようにも感じる。

追記:松尾さんから、ミッシングリンではなくミッシングリンであるという御指摘がありました。

*1:稲葉先生すみません

*2:こうしが変換できんかった.世界の共同主観的存立構造でも見てください。