谷間の百合

谷間の百合

TITLE:修繕の必要がない時計

この世界は神にせよ人間にせよ誰が作った物でもない、むしろ永遠に生きる火として決まっただけ燃え、決まっただけ消えながら、常に在ったし、またあるだろう

――ヘラクレイトス

世界が終わるまであと一日。

連日連夜ニュースキャスタが【世界の終わり】を叫んでいるという異常な日々が始まってからこの方、強盗強姦殺人と、社会的な犯罪がそこら中を跋扈する一方、マスコミやどこぞの大層なコメンテータどもの予想に反して、大多数の人々は緩やかに終末への僅かな時間を過ごしていた。いつもと変わらない日常を過ごし、半数の人々はそれまで通っていた学校や会社などのコミュニティに普段通り出向き、雑務や遊戯に暮れ、同じ時間に就寝し起床する、そのリズム。

見渡す限り田に畑に山ばかり、という私が住む山奥の僻地でもその傾向は変わらないようで、毎朝律儀に届けられる牛乳瓶も、犬の散歩がてら私にごきげんようと挨拶する貴婦人も、真っ黒に光るランドセルを背負って無邪気に駆け回る小学生たちも、至っていつも通り、嘘偽りなく何一つ変わらず同じ時間同じ場所同じ台詞を以って私の前に現れ、全てが定位置に存在しているのであって、そうこう言う私も喫茶店営業という自らの日常をまっとうするべく店の奥で一人グラスを磨いているのである。

常連客たちもいつも通り決まった時間に現れ、そして去っていく。

店に来るメンバーは概ねいつも同じである。

一人は【ロンググッバイ】。毎朝八時、開店直後に玄関のベルを鳴らしてやって来ては閉店の時間まで片隅でギムレットを飲み続けている老婆だ。大きな目をハンチングの下でぎょろぎょろと動かし、大体に於いて趣きのある調子で壊れかけの椅子に座りながらブツブツと何か芝居めいた台詞で、まだ早過ぎる…まだ早過ぎるんだ…、と唸っている。

一人は【はっぴいえんど】。寝癖を掻きあげながらブランチの時間にひっそりと現れ、ブルーマウンテンを一杯だけ軽く胃の中に収めてから近くの高等学校へと赴く女学生。いつもだらしなくシャツをスカートの外に出し、目やにのべっとりついた眠そうな顔をしている。今時にしては珍しい不思議な女の子である、と思うのだが、今時だからこそなのかもしれないな、と最近では感じている。

一人は【ナポリを見て死ね】。お昼時にカウンター席に一人腰掛け、スパゲッティボロネーゼとホットチョークのピッコロサイズを…、と必ず小指を立ててオーダーする。食後の運動は大切なんだ、と軽い調子でシザーバッグからダーツを取り出し、店の奥に置かれたハードダーツのボードに向かってひたすら投げ込むのが日課で、それが終わると静かに店を出て行く。

一人は【泉】。いつも仕事帰りにおもむろに立ち寄り、豪快に扉を開けうるさいほどベルを鳴らして真っ先にトイレへと駆け込む。そしてトイレから出る時、唖然とする客を余所に便器に唾を吐きかけ去ってゆく。注文などはしたことはなく、ただドアを開けて去っていく、それだけ。だが彼の一日のルーチンワークにその行為は加えられているようだ。

一人は【メメント・モリ】。閉店間際の数十分程の短い時間を私の店で過ごす自称しがないサラリーマンである。適当なカクテルに少しばかりのつまみを注文し、カウンタで私と下らない世間話とちょっとした愚痴に耽る。閉店も近いということで私が看板を下ろしに行くと、そろそろ帰りますね、と私が止めるのも聞かずににこやかな調子で颯爽と帰っていくのである。

少なくともこの五人は【世界の終わり】というニュースが世界中を飛び交っても毎日店に顔を出しにきたし、それもいつもと変わらないように振舞っていた。世界が終ろうとしているのに対して普段通りに過ごすのは可笑しいだろうか。私はそうは思わない。きっと冷静を装いながら何か眼前に突きつけられた圧倒的な闇に向かって対峙しているのだから。それは私にしても同じである。

そして――ニュースキャスタ曰くの――最後の朝日がその日も訪れ、私は店先に掲げられた『CLOSE』の看板を『OPEN』へと裏返す。二十年間続けられた行為だ。そこから一日が始まる。最後の一日が始まる。

勿論一番早く来たのは【ロンググバッバイ】だ。

「あの世界の終わりはなんとかならないのかね、毎日毎日のしのしのしのしと、五月蝿くてオチオチ寝られたものじゃないよ」からんからん、とドアのベルを鳴り響かせて入って早々大声で愚痴を溢す。そうですね、と私はにこやかに返す。日常的なパターン。何がそうですねだハッ、マスタはいつもそうやって笑って誤魔化せばすむと思って云々…、【ロンググッバイ】は酷く歯痒そうな声でたらたらと文句を垂れて、「いつもの」と静かに、それでいて鋭く言った。

カウンタの奥へとシェイカを取りにゆくついで、私は古ぼけた棚からレコードを一枚アットランダムに取り出す、千枚近くの中から今日導かれたレコードは『Procol Halum』の『A Whiter Shade of Pale』、哀愁漂う緩やかなメロディが店内へ響き渡る。

BGM : A Whiter Shade of Pale

ボディーにアイスを放り込み水を加えて少し洗う、ビーフィタドライジンとコーディアルライムジュースを注いでストレーナ、トップ、そのままシェイク、シェイク、氷が砕けないように音と感触、シェイカの動きで全てを感知する、そして自分が正しいと思う絶妙のタイミングでグラスに注ぐ。私が新米のバーテンダであった頃、この材料を使うカクテルの時はこの回数分シェイクしろあの材料の時はあの回数である、と口うるさく言われたものであるが、そんなことは関係ないのだ、問題は感覚だ。

私は静かにカウンタへグラスを置いた。お待たせしましたギムレットですいつも通り甘めで、その言葉を待っていたかのように【ロンググッバイ】が俯いていた顔を上げグラスを手に取り口をつける。確かにいつもの甘めだ、と言いゲラゲラと笑った。

「ところでマスタはギムレットの意味を知っているかい」突然【ロンググッバイ】が私に話しかけてきた。多少の戸惑いの後、グラスを拭く手を止め答える。「えぇ、一応何通りかの意味は知っています、仕事ですからね。ただ、どれが正しいのかは私にも判りませんね」「なるほどね!私はこの酒を飲み始めて二十年程になるが未だに意味も知らない、しかしなんだ、突然だよ、別に理由なんてないんだがね、意味が知りたくなったんだ」【ロンググッバイ】は慌てたように身振り手振りで「理由なんてないんだよ」と繰り返した。

「さて何から話したものですかね」私が話しを始めようとすると【ロンググッバイ】は目を輝かせカウンタに身を乗り出してきた。「ギムレット卿というイギリス人の軍医がいたことはご存知でしょうか」「あぁ、その名前なら聞いたことがあるよ、伊達にギムレットばかり二十年も飲んでないからね。確か船員を皆殺しにしてその血をジンライムに混ぜてシェイクしたんだろ」私は思わず溜息を吐いてしまった。「いいですか、【ロンググッバイ】、それは完全に誤解された情報です、いったいどこの吸血鬼伝説と混同しているのですか、むしろギムレット卿は船員の健康を考えてジンにライムジュースを加えて飲むように、と指導したのですよ。つまり、そこからギムレットというカクテルが生まれたという、そういった話です」「ふーむ、なるほどね!意外に至って簡単じゃないか、ギムレット!もう少しばかり面白みはないのかね、例えばそのギムレット卿、実は船員の一人に家族を殺されていてその恨み辛みが絶妙にシェイクされて出来上がったのがギムレットだとかね」「【ロンググッバイ】はどうも猟奇的な話と結び付けたいらしいですね、ただ、ギムレットという言葉が元々英語にあって確か『鋭い大工道具』という意味なんだそうです、ギムレットの味も鋭いからギムレットという名前が付けられた、なんて説もあります、どちらが正しいかは所詮私ごとき弱輩には判りませんよ」「なるほど!今度はその大工道具でギムレット卿が大暴れするわけだね」私は相槌を打つ代わりに肩をすくませた。

私とロンググッバイがギムレットの由来について話し始めてから二時間ほどが経過し、丁度よく時計から愉快な鳩たちがポッポポッポと十時であることを知らせるために勇み出てきた頃、二度目のベルが鳴りセーラー服に身を包んだ【はっぴいえんど】が店に訪れた。

「おや、お嬢ちゃんかい、こんな時間から染みっ垂れたバーに来てないでちっとは真面目に学校でもいったらどうかね」ゲラッゲラッと店内に響く笑い声を上げて【ロンググッバイ】が開口一番に言った。「あら【ロンググッバイ】さん、ギムレットにはまだ早過ぎるんじゃなくて」「かー、これはお嬢ちゃんの毒舌も極まったものだね」「今日は素晴らしい音楽が掛かっているのね、青い影、プロコルハルムかしら」「ハムが食べたいだって?マスタ、お嬢ちゃんに生ハムのバゲット添えを私の奢りで作ってやってくれ」「ハムじゃなくてプロコルハルム」「どっちも似たようなものだろう」

私は二人のやりとりを眺めながらカウンタに生ハムのバゲット添えとブルーマウンテンを置いた。マスタぁ、とうつむきながら甘い声で【はっぴいえんど】が言った。「別に生ハムの話をしていたんじゃなくてプロコルハルムの…」「判っているよ、ただ【ロンググッバイ】の奢りというのだから食べて損はないだろう、ご所望ならメロンもサービスするけど」私がそう笑うと【はっぴいえんど】も顔を赤らめて微笑んだ。「ありがと、マスタぁ」いえいえどういたしまして、小さく呟く。

「ところでマスタぁは今日もいつもの時間まで店を開けてるのかな」生ハムをブルーマウンテンで流し込んでいた【はっぴいえんど】が突然私に向けて質問をぶつけてきた。「えぇ、勿論。別に普段通りだけど、それがどうかしたのかい」「ううん、聞いてみただけ、どうも町ではほとんどの店が開いてないみたいだからさ、もしかしたら、と思ってね」「なるほど、私はどんな時もいつもと変わらないことをしているつもりだよ、例え明日【世界の終わり】がやって来るとしてもね」私がそう言うと【はっぴいえんど】は、安心した、と笑みを浮かべた。

「私、本当はね」そうどこともなく呟きながら【はっぴいえんど】はカウンタを離れレコードラックを漁る。「今日はここに来るのやめようかな、って思ってたんだ」やがて一枚のレコードを取り出しセットする、小気味のよい電子音がスピーカから溢れ出す、クラフトワークだ。「ほら、クラフトワークのかかってる喫茶店ていうのも中々アヴァンギャルドでしょ」彼女の屈託のない笑顔に私も思わず、確かにね、と答えてしまった。確かにアヴァンギャルドじゃないか、無難にカーペンターズやらが延々流れているよりはずっといい。

ボクハ オンガクカ デンタク カタテニ …

じゃぁ私は学校に行くねほら一応登校日は最後だしそれに友達とかと色々と話すこともあるからね、そう言って【はっぴいえんど】は店を去った。帰り際に、今日は夜にまた来るから、マスタぁとも話したいことがたくさんあるし、だから待っててね、と爽やかな笑顔を私に向けた。その時私は不覚にもドキッとしてしまった、いまどきの若い女の子はどうしてこうパーフェクトな笑顔を他人に向かって投げられるのだろう、と不思議にも思った。それほどの儚さを持っていた。

はっぴいえんど】が学校に行ってしまったとなっては、隅で一人ギムレットを飲み続ける【ロンググッバイ】を除いて店は閉散としたものだった。しかしながらそろそろ【ナポリを見て死ね】が来る時間なので軽くボロネーゼソースの下準備にかかる。彼が来るのはいつも十二時きっかりなので、多少早めに準備しておくことで素早く料理を出すことが出来る。いずれにしても注文は毎日同じなのである。

そこで鳩たちが正午の挨拶を始めた、ポッポポッポと十二回の鳴き声をゆっくりとそれでいて力強く上げ、そしてまた時計の中へと帰ってゆく。私は、そろそろだな、と思った。

しかしいつもは前後五分の差をおかずに現れる【ナポリを見て死ね】は正午を三十分ほど回っても店を訪れることはなかった。時間に五月蝿いあの男にしては珍しい、と思ったが今日は或いは来ないのかもしれない。大体において来る方がおかしいと言えなくもない、なんと言っても最後の日である、いくらヘビーな常連でも殆どの客はここ一週間顔を見せないし、それでも毎日同じ時間にダーツを投げに来ていた【ナポリを見て死ね】も最後の一日くらいは家で慎ましく暮らしたいのかもしれない。

そんなことを考えては目を出来るだけ背けてきた【世界の終わり】というものに対して思いを馳せていると、早速ベルが鳴り【ナポリを見て死ね】の張りのある声が店の中に響いた。「ギャルソン!いつものを頼むよ」威勢よく指を鳴らして叫ぶがこの店にウェイタはいない、注文を取るのも私だけなのである。「かしこまりました、スパゲッティボロネーゼとホットチョークのピッコロサイズですね」「判ってるじゃないか、マスタ、今日も輝いてるね」「いえいえ、ところで今日は大分遅かったですね、時間の五月蝿さに関しては天下一品と名高い【ナポリを見て死ね】にしては珍しい」「なぁに、実はちょっとした野暮用があってね、この俺にしたってたまにはそういうこともあるさ」「そうですね、でわ少々お待ちください」

あらかじ準備していたので作業は簡単だった。パスタを軽く茹でてソースを絡ませ皿に盛る、あとは鍋にチョコレートと牛乳を入れて温めるだけ、楽なものである。お待たせしました、スパゲッティボロネーゼとホットチョークのピッコロサイズです。さすがマスタ、今日も手際がよくて助かる、腹が酷く減っていたところなんだ。嬉しそうな顔で【ナポリを見て死ね】はスプーンとフォーク片手にパスタを頬張り始めた。合間にホットチョコレートを少しづつ飲む。いつも思うのであるが、パスタにホットチョコレートは酷く合わない気がする。それでも彼が美味しそうに二つを交互に胃に流し込んでいるのを見るにつけ、実はベストコラボレーションなのではないだろうか、とも思ったりする。

ひとしきり夢中でパスタの皿に噛り付いていた【ナポリを見て死ね】が持参のダーツケースを取り出しセットを始めた。「ダーツはさ、道具がまず命なんだよ。中には道具とか格好から入るよりもまずは練習をひたすらしろ、って仰るビッチもいるけどよ、道具がよければ細やかな調整も出来るし、練習にも身が入る。弘法は筆を選ばず、なんて言うけどあれはどこまでいっても嘘だね、弘法も筆を選べば更なる高みに昇れるのさ」と誇らしげに言い、軽いアップを始める。「俺も数々のダーツバーを渡り歩いてきたがやっぱりここがベストだ、まずハードなのがいい、最近はソフトダーツが普及しすぎだ、やっぱり男ならハードに限る」そうだろ、と相槌を求める彼に、まぁうちはダーツバーではないですがね、と苦笑した。

「マスタ、せっかくだから勝負しないか、メドレーで」そう言った【ナポリを見て死ね】の言葉に店内を見渡す。いつもなら仕事を理由に断るところなのであるが、今現在客はいない――【ロンググッバイ】を除けばの話だが――と言っていいし、特に断る理由もなかったので了承することにした。「いいですよ、ただしもう私はロートルみたいなものなので、クリケットか701の一本勝負にしましょう。メドレーをワンセットするだけどの集中力はもうないですよ」「またまた何を言い出すかと思えば、マスタも昔はかなりダーツで慣らしそうじゃないか、まぁ、じゃぁせっかくだから701にしようか、久しぶりに投げるようだしクリケットじゃ辛いだろう」「了解しました、でわ、こちらも用意してきますよ」「オーケー」

店の奥に仕舞い込んでいたダーツセットを取り出すのは何年ぶりだろう、昔はよくダーツをしたものだが最近はめっきりしなくなった、それも店が一応の繁盛を見せていたからなのだが、たまにはダーツもいい。トリニティのウラヌス、ソフトチップ仕様ではあるが一番使い勝手がよいのでチップだけをハードに差し替える。それでなくても二十グラムの最重量なのに更にずっしりとした重みを増す。永らく失われていた感覚が蘇ってきた。

「でわ始めましょうか」奥から戻り声をかけると【ナポリを見て死ね】は暇を持て余してひたすらダーツを投げ込んでいた。「俺はいつでもいいぜ」「一応アップに三本だけ投げさせてください」「もちろん、好きなだけ投げてくれ」ありがとう、と一言添え、私は自分の指先とダーツボードに精神を集中させる、そして一投、インブル。おぉ、アップとは思えない正確性だな。【ナポリを見て死ね】が感嘆の声を漏らす。二投目、トリプル5。三投目、トリプル1。まだ多少の誤差はあるが悪くはない、これなら十分戦える。「オーケーですよ【ナポリを見て死ね】、ゲームをスタートしましょう」

ちなみに701というのは01(ゼロワン)というゲームの一種で、持ち点である701点を丁度0にするというゲームである。0を下回ったりした場合はバーストと言い、前回のスコアに戻され次回もう一度0を目指す、いたってシンプルなゲームなのであるが意外に最後のアレンジが難しい。ゲームアウトする時もラストスローをダブルかそれ以上で締めなければならないのでまぐれは中々ないのである。

ここはロートルへのハンデで先攻をプレゼントするよ、その言葉をありがたく頂戴しファーストを貰う。実際いくら私が以前投げ込んでいたとは言ってもそれは昔の話、【ナポリを見て死ね】の今の実力には到底適わない。飄々とした様子ではあるが、彼のダーツにかけるものは本物だ、01での先攻ハンデは大きいが、並大抵のことでは私が勝つことは出来ないだろう。久しぶりにダーツを投げる高揚を抑えてトリプルの20に狙いを定める…、そして一投目、トリプル20。なんとかねじ込んだトリプル20に奢らず落ち着きもう一度同じポイントを見据える、二投目、トリプル20。【ナポリを見て死ね】も溜息を漏らす。おいおい、ハンデなんて必要なかったんじゃないか。小さく毒づく。だがまだ足りない、と私は考える。一投目からトリプル20が入るラウンドは中々ない、そしてそんな時はしっかりと二投目三投目を入れることが重要なのだ。同じフォーム、同じ感覚でそこに投げられるからである。そんなチャンスを落としてはいけない。三投目をしっかり狙う、そしてバレルがゆっくりと指から離れる、

トリプル20。

「ブラボー!」【ナポリを見て死ね】が椅子から立ち上がり手をしきりに叩く。「久しぶりのダーツ、1ラウンド目からトンエイティとは流石マスタとしかいいようがないね、俺が見込んだ男なだけある」「いや、まぐれみたいなものですよ、なんでもそうでしょう、久々にやる時こそラックが付きまとうものです」「何言ってるんだマスタ、ダーツにまぐれはないよ、実力と集中力、あとはコンディション、それだけさ。長年ダーツをやってきたんだったら判るだろ」確かにそうだ、と思った。まぐれがあるように見えてまぐれはない、それがダーツだ。「しかしそうこう言ってるわけにもいかない、俺も気合い入れていくぜ」

それまでにへらにへらと笑っていた【ナポリを見て死ね】がセットポジションに入り真剣な眼差しになる、そこにはさっきまでの顔はない、私が叩き出したトンエイティに動揺することなく堅実にしっかりとしたスローをこなす、シングル20の連続からトリプル20を決める。全く、この男の普段の物腰からは想像もできない冷静さには適わないな、と私は半ば呆れた。さすがですね、と賛辞を送る。いつものことさ、と返ってきた。

ファーストラウンドの調子はどこの風とばかりにそれ以降は全くトリプル20には入らず、私はラウンド数を無意味に重ねていった。【ナポリを見て死ね】はと言えば、順調にトリプルを重ね5ラウンド終了時で61、先攻である有利があっても私は6ラウンド終了したところで149も残っていた。これは勝ち目がないな、心の中で苦笑した。

しかしここでワンチャンスが巡ってきた、61を残す【ナポリを見て死ね】が一投目に1を決めてきたところまではいいのだが、二投目三投目とダブルトリプルを決められずシングル20連続。「やられたね、でもこれがラストチャンスだぜ」自分の詰めの甘さに舌を出して言った。「どうやら今日はシングル20に好かれているらしい」

「一応言っておくがあがり目はあるぜ」「忠告ありがとう、勿論判っていますよ、ただ決められる自信はないですがね」【ナポリを見て死ね】はフンと鼻息を漏らした。「そんな脆弱なものは誰にもないさ、勿論俺にもね、ただあるのは信念だけだ、絶対に決めてやる、っていうね」彼らしいな、と私は微笑んだ。今日は調子がいい、それは言い過ぎかもしれないが決して悪くはない、今なら決められはずだ。私は全身の力を一度抜き、セットポジションに入る。大切なのは力み過ぎないことだ、あとはイメージを持つこと。私はダーツを投げる時にいつも古代の投石器をイメージしている、カタパルトだ。バネを利用し放物線を描いて飛んでいく石のイメージを自分の腕に重ねる。私は今カタパルトになっている、そう軽い暗示をかける。そしてカタパルトになった私はバレルという名の石をターゲットに向かって放つ。

まずなんとかトリプル20を決める。ここは最低限のラインだ。一投目から外したのでは話にならない。これで残り89。やっと勝負を出来るポイントに立つことが出来たという話である。問題は気を抜かずに次に19のトリプルを決めることが出来るかどうか、というところだ。それをきっちりと決めることが出来れば残り32、ダブル16でアウトすることが出来る。唯一私がこの勝負に勝つことが可能なスリーダーツアウトである。やれやれ、なんとも難易度の高いラウンドだ。私はこの人生でも恐らく何番目かに入るであろう長い残り二投を考えて気が遠くなりそうになった。手も若干震えている。特に何かを賭けているわけでもないし、そこまで気張る必要があるのだろうか、とも思うのだがそれは意味のない思考であろう。もし何かを賭けているとすれば自分自身なのだろう。私は気を取り直してもう一度ポジションに入る。最後くらい派手にやろうぜマスタ、【ナポリを見て死ね】の言葉が聞こえた気がした。いつの間にか震えは止まっていた。

そして私はバレルと一緒に何かしらの自分にまとわりついていたものも投げていた。矢が空を切り、コルクで出来たボードへ静かに突き刺さった。

ナポリを見て死ね、っていう言葉があるわけだけど、それは恐らく俺たちの殆どが考えているような意味とは全く違う意味なのさ、判るかな、つまりだよ、俺たちはこの言葉の意味を大まかに言うなら『ナポリという素晴らしい街を見ないで死ぬなんてありえない』というような解釈として頭で扱っていると思うんだ、だがそれは大いなる間違い、だってそうだろう、ナポリを見て死ねって、全く以ってナンセンスとしか言いようがないじゃないか、あんな下らない街を見たらはいそれまでで終わり死んでくださいナポリのマフィアにマクドナルドを爆破される要領でドカーン俺の人生終結、笑っちまうよ。

ホントはさもっともっと簡単なんだよ、ただの訳し間違いさ、ナポリの近くにはモリっていう小さな町があるんだけど、ナポリの次はモリへ行け、っていうただの言葉を馬鹿で阿呆の日本人が死ねと勘違いしただけ、ほんとそれだけ。

ふと外を見れば真っ赤にそまる夕焼けが窓に映っていた。この町では殆どの仕事が五時に終る、私の店のように夜からが稼ぎ時というバーやレストランを除いた八百屋や肉屋や惣菜屋は勿論のこと、力仕事をする男たち、医者も看護婦も全て五時には店を畳んでしまうのだ。五時を過ぎたら我々は何も買ったり売ったりをすることは出来ない。

つまり、この時間からが普段最も忙しいはずであり、この萎びた喫茶店も小さいなりに賑わっているはずなのである。だが、そんなことはいざ知らずといったように、ただ【ロンググッバイ】だけがひたすらギムレットを飲んでいるだけであった。みな最後の時を迎えるにあたり自らの家で家族と共に過ごしているのかもしれない。こんな日に店を開けている酔狂は自分だけか、と思った。

そこへ一人の客が訪れた、【泉】だ。

町外れの寂れた炭鉱で今ではめっきり需要も減った石炭を掘り続けている【泉】らしく、真っ白なタンクトップにツナギをだらしなくぶら下げたいでたちで、いつも通り、トイレを借りるぜ、と一言だけ添えて奥へと走っていった。少し普段と違うことと言えば、ドアがやけに静かに開けられた気がしたことだけである。ベルは既に鳴り止んでいる。

奥から勢いよく水が流れる音がした。暫くすると【泉】がトイレから現れ、そのまま私の方へ向かってきたかと思うと、ひっそりとカウンタに座った。そしてぶっきら棒に、何かカクテルを作ってくれよオリジナルで、と言った。「なるほど、了解です。ちなみに私はいつも映画のイメージからカクテルを作るんですが何か好きな映画とかないですか、一応ある程度有名なもので」「じゃぁ、大人は判ってくれない、で頼むよ」「了解しました、フランソワ・トリュフォで、大人は判ってくれない

テキーラに少量の砂糖を加えマルティーニロゼ、ホワイトキュラソ、そして新鮮なレモンを絞りシェイクする、例のごとく感覚を研ぎ澄まし手に残る感触を確かめグラスに出来上がったカクテルをグラスに注ぐ。少し黄色がかったリキュールは、店内の淡い照明のオレンジを含んで虹彩を放っていた。悪くない出来映えだ。

お待たせしました、『大人は判ってくれない』です、拘束という名の境界線を施された子どもたちの鋭い感性と甘酸っぱい青春、そしてモノクロームに融けていく人生を表現してみました、お好みに合えば幸いです。私がそう言うと、御託はいいんだよ別に、飲めればな、と呟き不機嫌そうに一息でカクテルを飲み干した。

「なんだよその顔は」【泉】が少し怪訝そうな顔で私を見つめる。「なんだかニヤニヤして嬉しそうじゃねぇか、こっちは何がなんだか判らないでずっとイラついているってのに」カクテルグラスをカウンタに叩きつける。どうやら知らない間に顔がにやけてしまったらしい、反省しなくては。すぐさま普段の冷静な顔に戻すよう意識する。「だいたいおかしいんだよ、あの糞炭鉱のオーナはよ、いったい何を考えてこの世界で生きているんだろうな、現場で働いている人間の苦しみも辛さも理解しないで経営のへったくれもねぇだろが、おい、聞いてるのか」ちっ、だからこんなところで酒なんて飲みたくなかったんだよ、と愚痴をこぼす。そうこうしているうちに決して私と交わろうとしてこなかった【泉】から、ポツポツと言葉の切れ端もこぼれてきた。

丁度二ヶ月くらい前だったかな、突然炭鉱を閉鎖します、ってあの糞オーナの代理人だかなんだかって名乗る若造が屈託もなく事務口調で言い出したわけだ、こちとら何言ってんだって話なわけだよ、いったい俺たちはどうやってこれから生活をしていけばいいんだ、失業後の補償はどうなってるんだ、って皆が口を揃えて言っても聞く耳持たず、ただ閉鎖しますの一点張り、当然俺は憤ったよ、しかし関係ねぇんだよあいつらにとっちまえばよ、俺たちの明日なんて、糞みたいなもの、路傍の犬の糞さ。

「てめぇは本当に能天気だな、こっちが今にも失業しそうなのにへらへらしやがって、どうせ俺のことなんか憐れな奴だ、くらいにしか思ってないんだろ」溜息混じりに【泉】は言った。私はかぶりを振った。「とんでもない、生涯炭鉱に命を捧げてきた【泉】に対して私は敬意を払っているつもりです、その炭鉱が閉鎖されることは本当に遺憾であるとしかいいようがないですよ、ただ…」「ただ?」「ただ、自然に嬉しさがこみあげてしまうのですよ、なんと言っても初めて【泉】が私の店で酒を飲み、そして私と話してくれている、それだけでこの店をやってきた甲斐があるというものですからね」「はっ、そ、そんなこと言ったって無駄だよ、こんな店二度と来ねぇよ」【泉】はどこか恥ずかしそうにそっぽを向いた。「まぁ、そんなわけで今日は初めて記念日ですからさっきのは私の奢りです」「そんなのは当たり前だ、なんてたって初めてだからな、どこの店でもそれくらいサービスするさ」私と【泉】は目を合わせて少し笑った。

俺は馬鹿だけどよ、と前置きを挟み【泉】は言った。「それでも明日【世界の終わり】がこの町にもどこの街にも平等にやって来る、ってことは知ってる。それは見れば判る。それでも尚俺がこんな小さなこと、つまり仕事を明日にでも首になりそうだ、って言うのはおかしいことかな、生涯ここで働くと決めた場所から追い出されるのを例え明日【世界の終わり】がやって来ようとも見過ごせないのは滑稽なことだろうか、贔屓目に見ても俺はそうは思わない、何故なら【世界の終わり】は人生の中でたった一日の出来事だが、俺にとって炭鉱は人生そのものであり、俺の魂でもあるからだ、比べ物になんかならねぇよ」その気持ち、判ります、と私は応えた。【泉】も満足そうに頷いた。

たまに思うんだよ、俺はよくこの店のトイレを使っていたが、大昔の芸術家には単なる普通のトイレに自分のサインをして『泉』って題名で発表した馬鹿がいるらしいんだ、つまり芸術家が既存の製品に対して何かしらの次なる意味を与えることによってそこに新たな価値を見出すことが出来るって考えらしい、レディメイドとか言うんだっけな。だったらさ、俺たちがあの【世界の終わり】に改めて付加価値を付与するとなるとどうなるんだよ?俺がサインしてやるからさ、【世界の終わり】なんて豚のケツに刺さった電信柱みたいなくだらねぇ名前じゃなくて、もうちょっとましで小粋なタイトルをつけてやってくれよ、な。

最後には泣きそうな顔で【泉】は語った。私は何も言えなかった。何せ私は芸術家ではないし、既にある名前に対して自分の傲慢で新たな付加価値を貼り付けることなど出来ない。【世界の終わり】はそれだけで【世界の終わり】であるし、それ以外の何者でもない。彼は【泉】と同じようにただ職務をまっとうしようとしているだけなのだ。

そういえばさ、最後だから言っておくぜ、結構うまかったぜ、あの『大人は判ってくれない』。多分明日も来るよ、失業してなかったらな。今度は俺の奢りだ、はは。

そう言い残して【泉】は去っていった。

「こんばんわ、いつも閉店間際で申し訳ない」そう言って十一時をだいぶ回ってからベルを鳴らしたのは【メメント・モリ】だった。

「いつも仕事が遅くまで長引いてしまって、明日はあんな日だっていうのに今日も残業です、斜陽族はつらいものです」いかにもといった感じで頭をかきながら【メメント・モリ】は言った。「こんな時でも遅い時間までご苦労様です、この辺の店はいつも五時には仕事を終えてしまうのに、どうも大変な仕事におつきのようですね。もしかして街の方の会社ですか」「ご名答です、街では人を人とも思わない労働条件で働かせるものですからね、私も早め早めに家族の元へと帰りたいのですが、そんなのは愚民のすることだとでも言わんばかりに奴隷のように酷使させられるのですよ」「やはり街は凄い、私にはとてもとても無理な話ですよ」いやいやマスタなら街でもやっていけますよ、と愛想よく笑った。

「おや、そういえば今日は珍しくクラフトワークがかかっていますね」【メメント・モリ】がスピーカの方を見上げる。「えぇ、実は昼間の常連の女の子がかけていったんですよ、テクノはこの寂れた喫茶店には合わないというのに困ったものですが」「いやいや、なかなかそうでもない、意外に雰囲気に合っていますよ、七十年代のクラシカルポップやジャズを並べているよりはずっと心地いい」「それは気が合いますね、実は私もそれは思っていたんです」思いがけず同じことを考えている人間もいるものだ、と思った。もしかしたら私だけがこの店の路線を間違えていたのかもしれない。

すいません取り敢えずハーパーのソーダ割りください、【メメント・モリ】の言葉に私は、了解しました、と短く伝えグラスを用意した。【メメント・モリ】は、ありがとう、と一言発してからしばしの間ハーパーをちびちびと飲んで何か物思いに耽っていた。そして暫くしてぼやくように喋りだした。

実は私、あの会社の社長なんですよ、あの会社のね。【メメント・モリ】は何でもないかのように街に本社がある炭鉱会社の名前を口にした。私は少しその事実に驚いた。日頃から彼は自分のことをしがない会社員と謳っていたので、まさかと思ったのだ。最近この町の炭鉱を閉鎖するように指令を出したんです、それでどうも言いにくくて。閉鎖は出来るだけしたくなかったんですけどね、仕方がなかったんですよ経営的にね。でもまぁこんなことになるならそんな発表しなくてもよかったなぁ、って思ったりもしているんです。そんなことも今となっては意味のないことですけど。

この小さな町も昔は炭鉱町として賑わっていた時期があった。その名残でまだ鉱夫の人口は多いし、何より町の名前もそれだけで知られていると言っても過言ではない。しかし今となっては石炭は人件費のわりに収支の合わない商売で輸入品に押される形であり、更にいえば町のお荷物となっているのも事実であった。閉鎖されるのは時間の問題であることを誰もが知っていた。恐らく【泉】でさえも。

メメント・モリ」ってね、死を忘れるな、って意味合いじゃないですか、古来では将軍の凱旋パレードで後ろにつく使用人が言う言葉だったらしいんですよ、闘いの勝利に酔いしれる将軍の後ろで囁くわけですよ、死を忘れるな、ってね。すなわち、今貴様は勝利という下らないものの上でふんぞり返っているわけだが明日の貴様の手にそれがまだあるかは判らないんだからな、って警鈴を鳴らしているわけですよ。そんな話を聞くたび私は思うわけです、その将軍って私のことなんじゃないだろか、って。すなわち私は社長という椅子にふんぞり返ってお金を稼いできた、時にはこれも多数の従業員の為と偽り下の人間を切ってきた、勿論保身の為です。そうやって会社を護ってきた。それでも結局私は『死を忘れるな』、っていう言葉を忘れてたんです。だからこそこういうことになったんです、そう思うんです。

死ってなんなでしょうね、会社が潰れる事ですか、それとも【世界の終わり】のことですか。そう虚ろな瞳で問いかける【メメント・モリ】に対して、それはきっと人それぞれに答えがあるんでしょうね、としか言うことが出来なかった。彼も職務をまっとうしようとしている単なる一人の人間だった。

メメント・モリ】が去った後はがらんとした空気が店の中に残るばかりであった。そろそろ閉店ですよ、と私は【ロング・グッバイ】に促し、店内の清掃を始めることにした。

「或る種面白いとは思うんだ」

閉店間際、それまで沈黙を守り通していた【ロンググッバイ】が口を切った。そしてギムレットの入ったグラスを名残り惜しそうに飲み干し、続ける。「つまりだよ、私がこの席を立ち店を出る、するとマスタである君は暫くの間グラスを拭いたり、テーブルを片付けたり一服したり、そんなことをした後、店先に出て看板を裏返しにするわけだ。ただ看板を裏返しにするだけ、『OPEN』→『CLOSE』ってな感じでね。それは凄く面白いとは思わないかい、そうやって毎日毎日この店には『終わり』が来ているんだからね」勿論同時に始まりも来ている、と付け加えるのも忘れない。

しかし何にしてもこれでロンググッバイだ、或いはね。【ロンググッバイ】は寂しそうにギムレットのグラスを置いてそう言い、ゆっくりとした歩調で席をたち、そのままよぼよぼと開放されたドアから出ていった。

そして私は店先に置かれた『OPEN』の看板を裏返す。確かに【ロンググッバイ】の言う通りなのかもしれない。毎日私はこの看板をただひっくり返すだけでこの店を終らせていたのかもしれない。私の勝手な理由で店は終らせられる、それと明日やって来る【世界の終わり】とどういう違いがあるのだろう。始まりがあれば終わりもある、それは私も私の店も平等だ。変わりなどないのである。

「ますたぁ!」

『CLOSE』を知らせるのも最後になるであろう看板に二十年間の愛着を込めて綺麗に埃を拭き取っていると、後ろから突然私を呼ぶ声がした。振り返るとそこには【はっぴいえんど】が立っていた。ぎりぎり駆け込みセーフってことでちょっとだけいいかな、と彼女は首を傾げて微笑えんだ。

星が天を覆うほど輝く寒空の下、暫く我々の間に沈黙が流れた。私は煙草に火を灯す。間を持たせる手段として煙草ほど重宝するものはない。すると彼女が、私にも一本頂戴、と言ってきたので「成人していない君にはまだ煙草は早過ぎる」と私は言って紫煙を燻らせた。「けち」「けちで結構、私はそこら辺の無責任な大人よりはずっと吝嗇家さ」どうせ最後なのに、と小さく愚痴を溢して【はっぴいえんど】は頬を膨らませた。私は少し哀しさを覚えた。

「友人たちとは色々話せたのかい」彼女に問う。「うん、それなりにね。と言っても殆どの子は学校になんて来なかったけど、はは。やっぱり最後は家族とか好きな人とひっそりと過ごしたいんだろうね。そういうしがらみが何もない子だけが今日も学校にいつも通り来てたみたい。私もその一人なわけだけど」「そっか、でもそういう子たちとだけでも話せて良かったと思うよ、それだけでね」「うん、私もそう思う」

「ただ最後だからこそマスタ言っておきたいことがあるの」彼女はそこで突然強い口調になった。「こんなことをこんなタイミングで言うと、高校生活の終わりに思い出作りをとかしちゃっていかにも青春してます、みたいな子に思うかもしれないけど、素直な気持ちを何も伝えないで終るなんて私には出来ない。だから言うの、私、マスタぁのことが好き、美味しいブルーマウンテンを入れてくれるマスタぁも、くだらないことでも真剣なってくれるマスタぁも、あんなに怖い明日があるのにしっかりと気丈にしているマスタぁも、全部好きなの。別に答えが欲しいとか、それは最後だしもう要らない、でもそれだけが伝えたかったの」それだけ早口にまくし立てると彼女は地面に座り込み、うわぁと大声を上げて泣き始めた。私は少し驚いていたが予想できなくもなかったので、彼女の気持ちを真摯に受け止めた。

「なんで最後だって判るんだい」少し泣くのがおさまってから私がそう言うと彼女は俯いたまま不思議そうな声で「だって【世界の終わり】がそこまで近づいてるじゃない、誰がどう見たってもう私たちは終わりなのよ」と呟いた。「或いはね、でもそうとも限らない、我々はただ【世界の終わり】を見るだけであって、それ自体が世界の終わりを指すわけじゃないだろう、すなわちもしかしたら【世界の終わり】がすぐそこにいたって我々そのものは終らないかもしれないし、それに世界が終わるっていったっていったいそれは何を意味するんだい、終わりがあれば始まりもある、そうやって我々は生きてきた、違うかい」彼女はきょとんとして泣きながら笑った。泣きながら笑えるのも彼女の特徴だ。「マスタぁはいつもそうやって人を煙に巻いてばかり、本当にずるいわ」

それで本当に答えはいらないのかな、と私は言った。やっぱりいる、と彼女は言った。でもまた明日聞かせて、と付け加えた。了解しました、私も付け加えた。

「じゃぁまた…明日、うん、また明日ね。そしたら答えを聞かせてちょうだいね、マスタぁ」「うん、また明日、いつもの時間、いつものブルーマウンテンで」「いつもの時間、いつものブルーマウンテンで」

もう冬だな、と思った。冬は寒いし乾燥しているしロクなことがないのだが、夏は夏で逆の苦しみがあるから似たようなものであるし、それに冬に一つ利点があるとすれば空気が透き通っていることだ。だからこんなにも星が綺麗に見える。それだけでも冬の空の下にいる価値はある。そう思った。

そして最後の日。

私はいつも通り店先を掃除し、静かに椅子をカウンタから降ろし、丁寧にグラスの汚れを拭き取る、特にそこに感慨はない、このグラスたちは長年誰かに――例えば【ロンググッバイ】とかに――使われ、どこでついたのか判らない傷や、決して落とすことの出来ない汚れなどでくすんできていた。おそらくこのくすみこそが私の生きてきた証なのである。

からんからん

毎朝聞いたベルが客の来訪を告げた。

【最後の客】だ

「やぁ、開店丁度に来るとはね。【ロンググッバイ】よりも前に来る客はもしかしたら君が初めてかもしれないよ」「あぁ、そうかもしれない。なんと言っても【最後の客】だからね。それが俺の役目と言ったらそうなのかもしれない」【最後の客】は音がしないように扉をゆっくりと閉め、踵に付着した土を軽く落とす。擦れた床から粉塵が巻き起こる。「どうせ店を開けて終わりだろうと思ってね、大したものは用意してないんだ、それでもいいかい?」私がそう聞くと【最後の客】はかぶりを振り「いや、いいんだ、すぐおいとまするつもりだからね。どちらにせよそろそろ時間もない」と答えた。

「【最後の客】を迎えての調子はどうだい」「悪くないよ、いつもと変わらない朝だし、変わるといえば君が最初の客であることくらいだよ、【最後の客】であるにもかかわらずにね」「なるほど、それは確かに一つの矛盾といえば矛盾だ。最初であり最後である、即ちアルファでありオメガであるということか」「君は神様なのかい」「それは誰にも判らない、勿論俺にも判らない」「そうだろうと思った、でもその方がなんだか安心できる、そんな気がするよ」「何か訊きたいことはあるかい」「いや、特に別段あるわけじゃないんだ、私としては君を客として迎えることが出来ただけで嬉しいことなんだ。マスタ冥利に尽きるってね、客がいればそれでいいんだよ、結果的にはね」「そうか、じゃぁ、彼女に倣ってギムレットでも貰おうか、それを飲んで俺は帰るよ」「あぁ判った、今すぐ用意するよ」ただギムレットには早過ぎるけどね、私がそう加えると【最後の客】は、それもそうだな、と言った。

一人で店の椅子に座りギムレットを飲んだ。【最後の客】が飲んでいるのを見て無性に飲みたくなったのだ。こんな仕事をしているが、ギムレットを飲むのは久しぶりだった。そういえばこんな味だったっけ、と感慨に浸った。私は【世界の終わり】と乾杯するように空中でグラスを揺らした。君も少し飲んでみればいいんだ、そうすれば何かが変わるかもしれない。【世界の終わり】は不思議そうに私を見た。

「何故そんなに飲むんだい」【世界の終わり】が私に問いかけた。「忘れるためさ」「何を忘れたいのだ」「……、忘れたよ、そんなことはね」「そろそろ俺がやってくるが貴様は何も準備をしなくていいのかい」「たぶんね、準備なんていつも大したことはしてないよ、グラスを拭いて床を掃除して、それで終わりだ。ただ考えてしまうんだよ、例えば【ロンググッバイ】は今日もこの早い時間に起きて私の店に来ようとしているんじゃないかとか、【はっぴいえんど】はなんで幸せな結末を迎えることができないのかとか、そういうこと。多分今もダーツの練習を自分の家で続けている【ナポリを見て死ね】、明日はもう存在しないのにこれからの仕事について考え一人オブセッションを抱える【泉】、自分の手の平からこぼれ落ちていく何かを見極めようとする【メメント・モリ】、本当にそんなこと。そんなことだけが頭の中で回っているよ」

ライプニッツが『世界は修繕を必要としない時計である』なんて格好のいいことを言ってくれたわけなんだがそんなのは学問を生業にしている人間の吐く戯言でしかない。世界も時計も同じだ、修繕をするとかしないとかの問題ではなく、始まり、そして終るのだ。いつしか時の刻みは止まる。永遠はない。もしどうしても時計に例えるなら、世界は電波時計みたいなものだ。限りなく正確に時を我々に知らせてくれる。それでもたまに電波は届かなくなるし、電池だって切れない保障はない。ただそれだけだ。

窓から外を見ると、【世界の終わり】がそこまで来ていた。

【了】