櫓を仰ぎ見る

 講義録ひもとく真昼ねむたさは書庫のにほひを伴ひて来ぬ

 

 一首目を読んだときにあふれ出した記憶に、それが今なお自分の中に確かに残り続けていることに震えた。それは紛れもない、あの「書庫」であり、絶版本や遠い昔の文芸誌のバックナンバーを読み漁りに彼と「潜った」場所である。

 

 濱松哲朗 『翅ある人の音楽』(典々堂)

 

 大学を卒業してからずいぶん疎遠になってしまったものの、それでもこの歌集が刊行されたことを知ってからは、こうしてここに感想を書かなくてはという使命感のようなものが、見えない鎖になって足元にあった。

 自分がこれまで、ここまで本を読むようになったことに、ひいては今この仕事をしていることに、彼の影響なくしては語れないのだけれど、自分のことを書いたら感想ではなくなるので控えておきたい。ただ、彼の書いたものを読むことによって、自分の中にある「書くこと」のことを考えずにはいられなかったのも事実である。

 

 そこに並ぶ歌の一つひとつから、日々を繊細に拾い上げながら、死の影に寄り添い、怒りや憎しみをたぎらせて、書き続ける自分自身と睨み合う(そして時に殴り合う)、そんな姿が浮かぶ。激しい連符がびっしりと刻まれたフルートの譜面を思い出す。

 

 書くこと、創作することは孤独なことである。楽しくはあっても、苦しい時間のほうが長いし、書いても書いても、その苦しみが消えることはない。けれど、書くことをやめることはできない。

 どこまでも真摯に書くこと、詠むことに向き合い、闘い続けること。それを、倦まず弛まず続けてきたことを知っている。自身への厳しい眼差しをもって自らを鞭打ち、それでも倒れることなく書き続けられた言葉が鳴り響き、空気を震わせ、胸を打つ。

 

 ただそれが、どこまでも真面目であることかというとそうではなくて。

 

 バック・トゥ・ザ昭和つていふ顔をして来週もまた観て下さいね

 

 と日曜19時前の風を吹き込んで、読み手にじゃんけんを促したりする。文豪と呼ばれる人間の随想を読んで、「この人たち暇だねぇ」と言い合った時間を思い出す。

 

 貰ひ物の西瓜の肌をなでながら、明日にはこてんぱんにしてやる

 

 なんとなくこの歌からは、川上弘美さんの句集『機嫌のいい犬』(集英社)に収められている「はつきりしない人ね茄子投げるわよ」が思い出され、ともに書店で笑い転げた記憶が甦った。

 

 短歌についての技術的な面で何かを語ることはできないけれど、真面目に感想を書こうとすればするほど、昔のことを思い出すのだった。

 

 氷とはみづとひかりの咎なるを鳥よこの世の冬を率ゐよ

 

 湖面に飛び立つ寒空の一羽。決して溶けない氷のような冷たさを抱きながら、水と光に生かされていることへの償いに、鳥は風の吹きすさぶ言葉の世界を羽ばたく。「率ゐよ」はまるでそれを詠む自身への命令形のようにも思え、書く者としての矜持がそこに息づいている。そんなことを思った。

 

 翻って、書くことから遠ざかってしまった自分自身のことを考える。けれど、こうしてこれを書かずにいられないくらいには、灯火のような意志が残っているのかもしれない。

 

 ぺたぺたと付箋を貼りながら読んだ一冊、付箋の箇所はまたいずれ、直接伝えます。

ごちそうさまでした、と言いたくなって

 「食はひとの生理と文化のはざまでいつも揺れている」というのは、鷲田清一氏の言葉で(※)、人間は食べずには生きていけないし、共食が人とのコミュニケーションの大切な手段とされているのは、歴史的にも明らかなことである。けれど、食に対する好き嫌いやこだわりほど、個人差の大きく面倒なものもない。「おいしい」という言葉が孕む嘘と本当、そこには、人付き合いにおける「いつもありがとうございます」が孕む感謝と皮肉に通ずる、複雑な色合いがある。

 

 高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社

 

 「読みたい」以上に「読まなければならない」という気持ちが強すぎて、心の余裕ができたときに読もうと思っていたら、刊行から1年以上が経ってしまっていたのだけれど、本当に心の余裕ができたので、こうしてようやく読むことができた。一気に通読した。2019年の『犬のかたちをしているもの』を読まずに、本作から読み始めて感想を綴ることに一抹の申し訳なさはあるものの、読んだことをきちんと感想に綴っておきたくてこれを書いている。

 

 本作は、包装を手がける会社で働く人たち、それも、一部署における人間関係を、食という断面から描き出したものになっている。空腹が満たされればそれでよく、食は生命維持の手段と考える、それなりに仕事のできる男性、二谷と、その二谷と同じくらい仕事ができ、二谷を興味深く眺める女性、押尾の視点とを切り替えながら小説は展開する。

 

 職場でかわいがられ、厳しく重たい仕事をせずとも許される、料理上手でお菓子作りが得意な芦川という女性の存在を巡り、読む側の人間は、不穏で、痛快とも言い切れないものの、許しがたいとも言えない気持ちにさせられる。どこにだってそういう人間はいるだろうし、そういう人間がどうなっていくのか、そういう人間がいるその場がどうなるのか、という興味のもとで読み進め、その締めくくり方に爽快感がなくて、とても安心した。

 

 『おいしいごはんが食べられますように』というタイトルは、ご飯が別においしくなくてもかまわない二谷の視点からは、強烈な皮肉になっている。そう願う人間が、本気で、純粋にそう願えば願うほど、二谷は理解に苦しむであろう。けれど、自炊することについての嫌悪感が語られる、「おれの、おれが生きている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか」の言葉(共感はできるが)とは裏腹に、彼がそうまでして、仕事とは別に何かに積極的に打ち込む描写はない。人並みに仕事もできて、恋愛らしいこともしていながら、彼の生きることに対する行動原理は何なのだろう、と思わされる(この辺りは意図的に描かれていないというか、本当に彼がそういう人間なのかもしれない、とも思う)。が、やりたいことがわからない、あるいはできないまま、惰性で生きていることを自覚しつつ、人生が自分自身の力で送れていない気がすることを許したくない気持ちは、わからないでもない。彼が最後までそういう人間なのかどうかは、小説が終わった後で、彼がどうするのかによってしか判断ができないけれど、そこが描かれていないのが、読みを多面的にするという意味では素晴らしいと思った。語りうることが多い小説、読んで語りたいと思わせる小説だと思う。

 

 また、二谷と押尾、二人の視点のうち、物語としては二谷の視点から始まるうえ、語られるのは二谷側が多いにもかかわらず、二谷のほうは「二谷」、押尾さんのほうは「わたし」と人称が分けられているのが面白かった。それは作者が、読み手のより共感の大きそうなほうをあえて一人称にしたのか、作者自身が押尾さんに共感して書いているのか、そのどちらでもないのか気になるところである。個人的には、押尾さんには引き続き頑張ってもらいたいと思うけれど、たぶんそんなことを思わなくても、押尾さんは頑張るのだろうとも思う。

 

 そして、芦川の側からは一度も語られないというのが、作品の不穏さに拍車をかけている。この世界には一定数、芦川さんのように振る舞う人間もいるだろうけれど、そういう人が本作を読んでも、おそらく絶対に自分のことだとは思わないのだろうなという気もする。甘ったるくて胃もたれがする感じである。

 

 個人的に、芦川さんに対して書かれた一文がとても好きである。

「洗わないで放置した鍋の中の濁った水みたいな胸の内に、毅然が足りない、という言葉が浮かんできた時、二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた」(p.20)

 二谷のそこからの行動は矛盾にあふれているものの、抱えていても言語化がままならない瞬間を、びしっと一文で表現されたときの快さは、書き手への信頼になる。この人が書く、この人たちがどうなっていくのか、読み進めたい気持ちに駆られるのである。

 

 重たくても読んでいてしんどくない、作品としては絶品だった。

 

(※)鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい? ――臨床哲学講座』(ちくま新書

頂への道しるべ

 書くという行為の追究と、それに対する欲求が、衰えることを知らない。シャーペンやボールペンへの愛着から、書き味を追い求めて万年筆に手を出したのが昨年9月。マルマンのルーズリーフから、山本紙業のWriting Padをはじめとする紙の比較にのめり込み出したのが11月だった。円安による値上げ確定の後押しもあって、増え続けた万年筆だったが、2023年は、節目以外には高額な万年筆(1万円以上)は買わない、という自分のルールを決めた。(「高額な」という条件があるために、比較的安価なものだったり、セール品だったりは3月までに2本購入していたりするが)そうしてすでに10本の万年筆が手元にあるという状況で迎えた4月。35歳の節目となる誕生日には、モンブランの万年筆を買おうと決意していた。

 

 正直なところ、もっと遅くなると思っていた。筆記具の王様とも言われるモンブラン。万年筆を使い続けていると、そのフラッグシップモデルとして、多くの人々に愛され続けるマイスターシュテュック149の存在が気になってくる。パイロット、セーラー、プラチナ万年筆といった日本の企業が作る万年筆も、その形状をリスペクトして作られたと思われるものが多い。そんな、いわゆる万年筆らしい万年筆の形の1本は、古臭さも感じられたり、(何より万年筆を初めて購入してから1年も経っていない)自分にはまだ早いと考えたりしていたのだけれど、3月に初めて店頭で試筆をしてみて、149よりひと回り小さいモデルである、マイスターシュテュック146(ル・グラン)のプラチナラインを、必ず4月に買うと決めたのだった。それは、10本の万年筆をそれぞれ書き味わってきたゆえにわかる良さであり、愛される理由を知った瞬間であった。

 

 モンブランの万年筆の何がそこまで素晴らしいのか。それは端的に言えば、「書くという行為に没頭できる」書き味にある。
 万年筆に惹かれ始めた当初は、その書き味の柔らかさだったり、重さによる滑らかな筆記感だったりの味わいが心地よくて、その違いを比べながら書くことに楽しみを見出していた。それは今なお変わらない幸せであり、ペン先がすり減って、自分の書き癖に沿って育っていく実感もある。硬さ、柔らかさ、インクフローの潤沢さ、渋さといった指標から、それぞれのペンにある特徴と向き合い、思い通りの色で自分の字を書く幸せがそこにある。書き味が良いから、ずっと書いていたくなる、そんな幸せである。
 ところが、モンブランではその幸せの次元が一つ違っていた。試筆したときに感じた衝撃で言えば、それは「無」による衝撃だった。書き味という、味覚になぞらえた表現を延長して言えば、モンブランの万年筆は、「めちゃくちゃ美味しい水」あるいは「高級な白米」とでも言うべきかもしれない。明確な「味」というものがないがゆえに、「いくらでもいける」のである。自分の手と紙とを媒介するのが筆記具という道具であるが、その存在感を限りなく透明に近づけた万年筆がモンブランだと言える。自分の身体の延長として、それを「使っている」という感覚さえ感じさせないという、道具の究極形がそこにあった。だから、書き味が心地良いから使う、という表現ではそぐわず、書き味が感じられないほどに書くという行為に没頭できる、という表現になるのである。そして、それほどまでに「無」であるにもかかわらず、その特徴のなさが面白みのなさになることはなく、むしろ書くという行為の楽しさを呼び続け、ずっと書いていたいと思える。(もちろん、最高峰として名高い「モンブランの万年筆」を持っているという所有欲が満たされる部分も大きい)

 

 面白いのが紙との相性で、どの万年筆を使っているときよりも、その紙特有の書き味を、モンブランは教えてくれる。紙そのものの書き味を、書き手に伝えてくれるのである。万年筆への追究がル・グラン購入で一段落したために、4月は複数の紙を追加購入して書き比べることになった。さらに、そんなふうにモンブランの万年筆ばかりを使っているわけにもいかず、これまでに購入した万年筆への愛情もきちんと注がねばと、結果的に書く量が増え続ける一方である。前回の記事で触れたノートは、現在トモエリバーのノートを2代目に決めて、万年筆に特化して書き続けているが、それだけでは飽き足らず、ロディアのメモパッドをもう少し日常的に使えないかとも画策しているところだったりする。もちろん、モンブラン以外にもまだまだ手にしてみたい万年筆はあるので、これが終着点ではない。弊害があるとすれば、手書きすることによる満足感が大きすぎて、逆にこうしてキーボードでブログの記事を書くことが面倒で億劫になる傾向があることぐらいだろうか。

日常に打った点と点をつないで

 2022年の1月24日から使い始めたA5の365デイズノート(STALOGY)が、そろそろ最後のページを迎えようとしている。昨年の1月27日の記事に、その書き始めのことを記したときに、「使い切ることを目標に」と掲げていた。実際のところ、1年と約1か月で、全ページを埋めてきたことになる。面白いのは、ノートを書き始めたときはボールペンの沼に入ったばかりの自分が、終盤では万年筆の沼に沈み切っているところであろう。自分自身で思い返しても、その変遷の早さに意味がよくわからない。

 ノートの使い方として、当初に掲げていたのは以下のルールだった。

 

 ・書き始めるときは必ず日付を書くこと。

 ・思ったことはなるべくそのまま、(箇条書きでなく)文の形で書き込むこと。

 ・同じような内容になってもいい、雑に書いてもいいから、毎日ノートに向き合う時間を作ること。

 ・その日あったことを書く日記としてではなく、(日記になってもいいが)これからのことを書くこと。

 ・ページが埋まらなくても、一つのテーマで書くことがなくなったら、次のページに行ってよい。

 ・読書メモや、ブログ記事の下書きにも使うこと。

 

 もともと厳密すぎるルールで自分を縛るつもりはなかったので、基本的には思ったことを自由に書く場として使いながら、休日の過ごし方や日々の買い物のメモに至るまで、雑多にいろいろなことを書き連ねてきた。いずれ読み返す記録のため、というよりは、その瞬間の自分の頭の中をすっきりさせたり、ただ万年筆で何かを書きたいという欲求を満たすためだったりした。仕事のこともプライベートのことも、特に分け隔てることなく、思ったことをそのつどなんとなく書き留めている。新しく万年筆やインクを買ったときは、その試筆にも使った。

 

 行き当たりばったりな使い方をただひたすらに続けてきた結果として、残そうと思っていなかった(その瞬間限りの思考だった)ものなのに、日常に打たれた小さな点が、緩やかな線になって自分の人生の軌跡を描いていることに気づかされた。曲がりなりにも、読み返せばそこに、約1年分の自分が見える。走り書きであっても、それはその日に自分が確かにそう考えたという痕跡として、ここに刻まれている。山頂から、登ってきた道を振り返るように、ノートの完結をもって、その感慨がじわじわと湧いてきた。

 

 もちろんこのノートは、万年筆で書くことを想定して買ったわけではない。しかしながら、裏抜けもなく書き味も悪くなくて、書かなくなる、ということにはならなかった(ただ、180度開くタイプではないので、ページとページの間が曲がるところが残念ではあったが)。

 

 日々の思考を残そうと思って1ページ目を書いても、まともにノートを使い切ったことがなかった自分が、360ページほどのノートを、1冊、しかも1年で使い切るなんて、と驚く。書くという習慣が、生活に根付いたことが喜ばしい。本当は、このノート以外のところでたくさん手書きをしていて、そのせいでノートへの手書きはむしろ減ってしまっているのだが、それでもこうして、何か思いついたことをそのままの形で書き込めるノートは、もはや生活に欠かせないものとなった。ただ漠然とものを考えてじっとしている時間が、漠然とノートに書き込む時間になった。答えや結論が出なくても、きれいな字でなくても、何月何日に何を考えていたかが、ただそこに残る。誰かに見せることは想定していないし、自分自身ですら、特に読み返そうとは思わない。けれど、ふと思い立って、未来の自分がそれを読み返したとき、そこには日々を確かに生きていた過去の自分がいて、その瞬間の自分と、思わぬ邂逅を果たすことになる。そして、惰性によって緩やかに変化を続けてきた現在の自分の生活を、不意に顧みることになるのかもしれない。よりよい人生を歩むためなどと、高尚な目標を掲げるつもりはさらさらないが、書いたことが生きたことを表すという事実が、少しだけ自分を強くしてくれるような、そんな気がしている。

地上の見えない沼の深みへ

 前回の万年筆(AURORA オプティマ)購入記事から2ヶ月となるが、万年筆はそこから4本増えている。手書きによる幸せが、紙やインクの沼に沈むことによって加速し続けている。自分の気に入ったインクで文字を綴る幸せが、日々の癒やしになった4ヶ月だった。

 

 手書きを書いて、写真を撮って、送り合う。アナログな手段を楽しみながら、本来なら日数を要する部分には、デジタルの力を借りる。入力された文字よりずっと、言葉に込められる気持ちは大きくなる。

 そのやりとりに共感し、喜んでもらえる相手がいることが何よりの幸せで、そこに幸せを見出せるなど、去年の今頃は予想だにしなかった。きっかけを与えてくれたものすら筆記具で、「はまったら人生が変わった」と言って、何ら差し支えないところまでたどり着いたと思っている。

 

 オプティマを購入してから約2週間後、神戸紙フェスに行ったことが、さらなる沼に沈むことを決定づけた(本当は11月の日記に書きたかったのだけれど、まとまった時間がなくて書けていなかった)。

 購入したグラフィーロ(神戸派計画)は、インクがぬらぬらと滑っていく書き心地の虜にさせ、Pallet Paperのダンデレードとサンシルキー(富国紙業)は、書きごたえと滑らかさを堪能できる紙質がたまらない。罫紙A5横書き(廣運舘活版所)の書き味も優秀で、丁寧に文字を書きたくなる。

 

 その後も、山本紙業のWriting Padを3種類(トモエリバー、Bank Paper 高砂プレミアム、New Chiffon Cream)買い揃えた。今はその日の気分に合わせて、どの紙に、どの万年筆で書くかを選ぶ楽しみも味わっている。

 

 円安によって、海外製の万年筆の価格高騰が止まらないことが残念である。今年中に買わねばと、TWSBIのダイヤモンド(ネイビー)と、Watermanのエキスパートエッセンシャルを、11月、12月に購入した。そこに、特別限定生産品である、国内メーカー、SAILORのヴェイリオ(ブルーグリーン)も買ってしまったので、散財はとんでもないことになっている(その分、今年はほとんど本を買っていないのだけれど、それはそれであまりよいことではない気はしている)。

 

 すべて、書き味にはそれぞれの良さがある。所有するだけでなく、使い続けることによる楽しみがある。比べることで良さを再認識したり、インクを入れ替えて、優先度を上げたりしながら、書くということを愉しみ続けたい。

 

 書き味の追求は、来年も続けていきたくはあるけれど、あくまでも、使える範囲での購入にとどめたいと思っている(使わなくなってインクが固まることは避けたい)。だから、誕生日だったり賞与をいただけるタイミングだったり、節目での購入を目指して、いろいろと調べているところである。

 

 月1回の更新を目標としていた2022年だったけれど、2月と11月だけ更新のタイミングを逃してしまったのが悲しいところ。手で書くことも大切にしながら、こうして公開する記事も、おろそかにしないようにしたい。

降り注ぐ極光

 その場所を訪れても、諸々の条件が重ならなければ出会えないオーロラのように、良い筆記具との出会いも、そんな希少性や一回性を秘めているものである。

 

 9月3日にペリカンのスーベレーンを購入して、まだ2ヶ月と経っていないのに、そこからすでに2本の万年筆が、手元に増えている。いかにも勝手に増えたような言い方になるが、記憶が確かであれば自分の意志で購入したはずなので、これまでの経緯をここに振り返っておきたい。

 

 前回の記事に書いた、書き味の追求は、スーベレーンを使い続けていてもとどまることはなく、むしろ、バランスが取れていることに定評のあるスーベレーンを使い慣れたからこそ湧き上がる、突出した書き味を、今度は欲するようになった。

 

 書き味、という言葉は不思議なもので、我々はそれを自然と使っているが、その知覚はあくまでも触覚によるものであり、紙やインクやペン先を口の中に入れるわけではない。けれど、白い紙にインクを介し、ペン先を通して響いた摩擦が、首軸を伝って指先へと至るその瞬間、硬軟や滑らかさ、引っかかりの度合いなど、多様な情報が、一瞬のうちにもたらされる。手の込んだ料理の逸品に舌鼓を打つように、良質な万年筆を握ったその手は、繊細な書き応えの感覚の心地よさに震えるのである。

 

 満腹という欲求の限界が存在する食欲とは異なり、手書きへの欲求は、手の疲労(あるいは体調)による限界のみであり、しかもそれは、手元に紙と万年筆とインクがあれば満たすことのできるものである(しかも、万年筆はその性質上、長時間筆記しても疲れにくい)。

 そのような手軽さによって得られる、極上の書き味に取りつかれ、スーベレーン購入以来、毎日それを手にして机に向かう時間が幸せなものになった。

 

 何度目かのインクの補充を経て、飽きることなくその書き心地を堪能している日々ではあったけれど、さらなる欲望に駆られて、足繁く文具店に通っては、インクや他の万年筆、そして紙やノートを眺めていた。

 

 一説によると白は200色あるらしいが、ブルーブラックのインクの色味にも、メーカーの数だけ、いやそれ以上に広がりと深さがある。

 油性ボールペンを使っていた頃は、シンプルでオーソドックスな黒のリフィルが当たり前であったが、万年筆を使うようになってからは、ブルーブラックを使うようになっていた。前回記事でも言及した、ペリカンのエーデルシュタインインクのタンザナイトに惚れ込んで以来、他社のブルーブラックインクも気になってしまい、ふと文具店でインク売り場を覗いたとき、メーカー欠品中のCROSSのブルーインクを見つけ、衝動買いしてしまった。

 

 スーベレーンにはタンザナイトが入っているため、そのインクを使うには、つけペン以外の方法が手元になく、これを機に、前々から気になっていたPenbbsの透明軸万年筆を購入することにした。インクより安価ながら、癖になる書き味で、使い勝手の良い万年筆であり、これが2本目となったのだった。

 

 CROSSのブルーインクは濃い青で、紺や紫というよりは、藍色という感じの色味である。Penbbsのペン先と合わせて、滑らかではありながら、確かな書き応えと引っかかりが心地よく、細かな文字を書くのに適していると感じる。

 

 そんなふうに、ブルーブラックに加えてブルーにも惹かれたとき、もしかすると、集めたインクの数だけ万年筆が欲しくなるのではないかという、自明ながら恐ろしい真理に気づかされたのであった(パイロットには色彩雫という、3色1セットでお手頃に購入できるインクがあり、さらにお手頃に買える価格帯の万年筆のラインナップが充実している。セーラーの四季織インクも、日本の四季をモチーフにした色味が多数揃えられており、その濃淡の美しさは名状しがたいほどだ。これらに手を出すと、いよいよ後戻りできないであろう。良い意味で)。

 

 そんな中、万年筆の専門店が市内にあることを知り、行ってみることにした。興味本位で、軽い気持ちで訪れたのだが、そこで衝撃の事実を知らされる。

 

 そこにはいつも文具店に行くたびに気になっていた万年筆が、定価より安く売られていたのだけれど、それが11月から大幅に値上げされるのだという。上がった後の税込定価と、今目の前にあるものとの価格差は、実に約3万円。このお店でさえ、11月からは1万円ほど値上げされてしまう、ということだった。いつか買おう、が通じなくなる現実を突きつけられたのである。

 

 約1週間悩んだが、この機会を逃すと、もう一生買わないかもしれない、という予感が購入の決め手になった。そうして今、手元にあるのが、イタリア、Auroraのオプティマ(ブルーGT)である。

 深い青のマーブル模様の軸に、ゴールドのトリムとペン先。その美しさに見惚れるだけでなく、書き味もたまらない。滑らかでありながら適度な引っかかりを感じられ、シャリシャリとした手応えがやみつきになる極上の感覚を、右手にもたらしてくれる。スーベレーンとは個性が違うけれど、こちらもずっと書いていたいと思えるほど癖になる。

 

 筆記具との出会いは一期一会である。値上げの前に、偶然に出会えた幸福を寿ぎながら、軸を愛で、インクを愛で、そして紙を愛でている。万年筆という、趣味性・嗜好性の極致にあるような道具を買い続け、市場を支えるには、持続的な愛が不可欠であろう。タブレットスマートフォンの一般化、情報化、ペーパーレス化の荒波にもまれ、さらには円安の向かい風に吹かれ、今この時代に万年筆など、とほとんどの人が思うかもしれない。しかしながら、自分の身体が道具を介して紙に書きつけるという振る舞いの中には、消えゆく記憶を形に残しておきたいという思いが息づいている。そして、身体性の不可逆的な痕跡が刻まれた筆跡には、記憶以上のものを伝える力がある。紙とインク、その物質的な重さや厚み、色合いが、それを使っていた人間に代わって語り始める。書いたことが、生きたことを物語る。

 

 書くことは生きること、という座右の銘に、万年筆は新たな色合いを与えてくれた。

ペリカンを飼い馴らす

 kawecoのシャープペンシルと、LAMY2000ブラックウッドのボールペンを購入し、筆記具沼に足を踏み入れたのが昨年12月。まだ1年も経っていないというのに、もうここまで来てしまったのかと自分が信じられなくなるが、現実なので仕方ない。そして、たどり着いたからには、道標を立てておかなければならない。というわけで。

 

 9月3日、念願の万年筆、ペリカン スーベレーン M805 ブルーデューン(限定色)が届いた。
 記念すべき1本目の万年筆が、何の記念でもない日に到着したのである。

 

 いったい何が起こったのか(起こったというか自分で購入しているわけではあるけれど)。ここからは、めまぐるしい自分の心の内の推移について、順を追って振り返ってみたい。

 

 7月7日に、ウォーターマン エキスパートエッセンシャル ブラックCTのボールペンを購入したことは以前ここに書いた通りで、そこからも、木軸のペンを差し置いて、主に仕事の相棒として、そして自宅でも、最も高頻度で使い続けていた。使い続けながらずっと頭にあったのは、万年筆ではない。野原工芸のボールペンだった。

 

 5月にあった2022年下半期納品分の販売受付にすべり込み、購入を決めた野原工芸ボールペン(スタンダード) ハカランダの到着を、心待ちにしていたのである。

 8月下旬~9月上旬に到着することは知らされていたが、なかなか待ちきれず、別の筆記具で気を紛らせようと思い、その間は安価なシャープペンシルやボールペンを買って、筆記具欲を満たしていた。愛用する筆記具は、増え続ける。けれど、ボールペンに関して言えば、新しく買っても過去に買ったものが眠ってしまうことにはならなくて、思い出しては使い、時にはペンケースの中身を入れ替えるなどして、まんべんなく使えていた(良いペンは、いくつあっても困らない、と以前記した通りである)。

 そして、たくさん集める中で、追求するのは書き味、書き心地である。それぞれのペンに、それぞれの良さがあることを味わう過程で、本当に自分にぴったりな1本を見つけたい。もっと素敵な書き味はないかと、いろんなペンで書いてみたいという思いは強まる一方だった。

 

 ボールペンに関して言えば、工房楔さんのローズウッドこぶ杢、デザートアイアンウッドのこぶ杢を、3月、6月のイベントで購入させていただくことができ、さらにはそこに、野原工芸さんも加わることが決まっている。木軸はもうこれ以上何も言うことはなく、金属軸だって、真鍮の質感が美しいウォーターマンがいる。

 ただ、そのウォーターマンを知ったきっかけは、万年筆なのである。デザインにはずっと、惹かれ続けていた。

 

 当然、これだけ筆記具の沼に沈んでいるのだから、いつかは万年筆に手を出すだろうとは思っていた。しかし、高額なものが大半の世界、一度でも手を出すと、レンズ沼よりも危険なのではないかという恐れから、あまり見ないようにしていた。買うとしても、何かの節目にしっかり吟味した1本を買って、大事に使おう、と。

 

 なのに、である。いつもは行かない文具店に足を運んだとき、ウォーターマンの万年筆で試筆ができる売場に巡り合ってしまった。興味本位で、ほんの出来心で、少しだけ書いてみた。今思えば、それが始まりだったような気がする。


「そういうことか」と思ったのを、はっきりと覚えている。

 ペン先から伝わってきた、ボールペンにはない、その書き心地。ゲルインクのように滲みそうという先入観も簡単に覆し、滑らかで、かつ、滲まない発色――

 それは深く記憶に刻み込まれてしまい、以来、YouTubeで各ブランドの万年筆のラインナップや特徴、レビューを見始める。それが8月の初旬だったと思う。このブランドならこれだろうか、と品名や価格をメモし始めていた。

 

 そこで知ったのが、ペリカン スーベレーンだった。細くて小さくコンパクトなM200やM400に始まり、ほどよい大きさのM600、M800に、大きく重厚感のあるM1000まで、希望の大きさを選ぶことができ、そのバランスの良さから定番中の定番として、多くの人々に愛されている万年筆である。緑、青、ボルドー、ブラックと、トレードマークの縦縞が美しく、その美しさに惹かれ、一度ウォーターマンとの書き比べをしようと思い、お世話になっている文具店に、試筆に行った。そのときは、軸の素材が真鍮であり、キャップが嵌合式のウォーターマンペリカンは樹脂軸でねじ式)に軍配が上がり、いずれ買うならウォーターマンだろうなと思った。スーベレーンは美しいけれど、ブラックかブルーか、いずれにするにせよ、決め手に欠けるなと思ったのだった。

 

 そんな感想を抱きつつ、もし買うならば、その万年筆に一体どんなインクを入れるのがいいのかと、今度はそちらをペンと並行して調べ出したとき、ペリカンのエーデルシュタインシリーズを知ってしまう。純正のインクの二倍ほどの価格だが、ドイツ語で宝石の名を冠したインクは、ボトルのデザインから気品に溢れ、色味もその濃淡が美しく、いずれ万年筆でブルーブラック系統のインクを使いたいと考えていた自分に、エーデルシュタインのタンザナイトが完全に刺さってしまったのだった。このインクを使いたいから、1本目はペリカンで揃えたいとそこで考え始めることになる。

 ならばと先ほどの逡巡に戻り、ストライプの色はブラックかブルーか、さあどうする、と調べていくうち、見つけてしまう。

 

 それが、限定色のブルーデューンである。

 ストライプがトレードマークのスーベレーンシリーズだが、いくつかの限定色が発売されている。その中で、異色ながらもひと際美しい輝きを放っていたのが、このブルーデューンだった。Blue Dune(青い砂丘)をイメージして彩られた深い青に、黒のマーブル模様。月夜の砂丘を思わせる、細かな砂粒のような加工が軸にあり、光の当たる角度によってそのきらめきが変わる。一気に魅了された。そのフォルムに息を呑み、しばらく見入ったのち、1000本限定の文字と並んで、「在庫あり」が視界に飛び込んできた。しかも価格は、定価よりも20%安かった。

 

 少し冷静になって調べたけれど、店頭で販売している店にはなさそうだった(※後日談として、初めてウォーターマンの万年筆を試筆した文具店で、その実物が販売されていたことを知る。ただし、当然ながら定価だった)。ネットでしか購入できないとはいえ、書き味についてはウォーターマンと比較した際に、通常色のM800で確認済みである。あのとき、どちらかと言えばウォーターマン、と思った心は大きくひっくり返った。その惹かれ方に、運命めいたものがあるときというのは、振り払おうといくら頑張ってみても、頭から離れないものである。

 

 そのときの自分の、購入へのクリックを唯一引き留めていたのは、野原工芸のボールペンが来る前に買うわけにはいかない、という一点だった。本当はこのブログ記事だって、今頃は、届いて使用している野原工芸のボールペンについて、熱量たっぷりに語ろうと思っていたのだけれど、ご覧の通り、完全にスーベレーンの虜になってしまったのだった。

 

 もちろん、野原工芸のボールペン ハカランダも最高である。これは忘れずに書いておきたい。輸出入が禁止された絶滅危惧の樹種、ハカランダ(別名ブラジリアンローズウッド)は、黒の光沢と手触りが美しすぎる素材であり、その重みによる書き味はたまらない。万年筆を仕事で使うことができない以上、現在の仕事でのパートナーはこの1本である。4ヶ月待って上がりまくった期待のハードルを、一切下回らない質感と書き味が素晴らしすぎるうえ、書けば書くほど手に馴染んでくるのも愛着が湧くポイントである。

 

 これが届いたからこそ、もうしばらくボールペンは買わないと決意できたのだ。

 だから、野原工芸のボールペンが届くまで万年筆は待って、それで売り切れてしまったのなら、それは運命だとあきらめよう、とそんな覚悟でいたのだが、在庫はなくならずにあった。そんな経緯で今、スーベレーンM805 ブルーデューンが手元にある(※これも後日談だけれど、本当に限定1000本なのだろうか。2019年の発売から、いまだに購入ができるようである)。

 

 ボールペンとの重要な違いとして、一点触れておきたいのは、ペン先のことである。
ペンの書き味は、軸の太さ、重さ、素材、重心、長さ、インクなど、複数の要素が絡んで決まる。しかし、ボールペンにおいて、そのインクリフィルやペン先は、どれだけ高級なペンを使おうと、G2規格ならジェットストリーム、クインクフロー、イージーフローの三択であり、そこにパイロットのアクロインキ、ウォーターマンの独自リフィルが加わるのみだった。軸を変えても、ジェットストリームが書きやすいのは当然で、安心感と信頼はあるが、そこには慣れや飽きもあった。

 

 一方、万年筆は、各ブランドでこだわり抜いたペン先で、ペンそのもののインクフローがあり、使用するインクも多岐にわたる。そこに対する憧れや羨望は、どんどん大きくなっていった。しかも、ペンポイントと呼ばれる先端部は、書き手の筆記角度に従ってすり減っていくという。俗に言う「ペン先を育てる」というものである。

 

 「おすすめの万年筆」というカテゴリーがボールペンやシャーペンほど評判にならないのは、もちろんその価格帯によるところが大きいだろうけれど、人によって好みの書き味が異なる分だけ、自分に合う万年筆もそれぞれであり、万人に合うものを探すのではなく、自分にぴったりと合うものを選び、こだわって使うところにその魅力があるからではないかと思った。

 

 ここからは、スーベレーンのレビューに入ろうと思う。

 18金製のニブ(ペン先)がもたらす書き味は、初めて書いたとき以来、継続的に自分を惹きつけている。万年筆というもの全般に対して抱いていた、硬そうな書きごたえを、スーベレーンは見事に覆したのだった。ドイツ語で「卓越した」という意味を持つスーベレーン。バランスの良さを評価されるだけあって、非の打ち所がない1本だと思う。

 

 万年筆に、強い筆圧は必要ない。基本的に重さに手を委ねれば、インクは滑らかに紙の上を走る。もともとボールペンを使っているときには、強めの筆圧による書き心地を好んでいたのに、万年筆による、繊細な書き心地がたまらないのである。力まずにペンを走らせたときにのみ指先に伝わってくるその書きごたえは、書き手にリラックスを促すようでもある。繊細な中にも、とめ・はね・はらいのコントロールが利く感覚があり、無駄な力が入っていない状態でこそ、思い通りに文字が書けるという心地よさ。仕事で使える場面が少ないがゆえに、趣味の時間をゆったりと過ごすために、ペンの側が書き手に配慮をしてくれているようにすら思える。

 

 そして、その書き味とともに広がる、エーデルシュタインインクの発色。タンザナイトが放つブルーブラックの色味に、うっとりする。書き始めの光沢と、乾いてからの濃淡の差を眺めているだけで楽しい。好みの色が文字になっていく悦びと、書けば書くほど力みが抜け、極上の書き味を堪能できる幸福感は、ずっと書いていたいという境地に連れていってくれる。

 

 今日の時点で、使い始めてから2週間が経った。毎日のようにルーズリーフにびっしりと文字を書き連ねているけれど、他のペンを使いたいという気持ちにならないくらい、スーベレーンの書き味に取りつかれている。インクをタンザナイトからオニキスに替え、黒の発色も楽しみながら書き味に浸り、ペン先を育てているという期待感に耽る。スーベレーンの天冠には、ブランドの象徴である、子育てするペリカンが描かれている。繰り返しになるけれど、ペン先は「育てる」ものである。ならば、ペリカンの万年筆は、できる限り長い時間、愛情を注ぎ、寄り添っていくことで、自分になついてもらえるのではないか。すでに自分の手に馴染み始めた書き味にうっとりしながら、そんなことを考えている。