写真家イリナ・イオネスコ(Ⅱ)

 映画『ヴィオレッタ』公開に刺激されて、写真家イリナ・イオネスコのわが写真集ミニコレクションを紹介しておいたが、昔個人紙『インテルメッツォ』に載せたエッセイ「仮面について」(1995年掲載:2000年改稿)で、イリナ・イオネスコについて触れていることがわかり、ここに再録したい。


  (『喘ぎさまよう鹿のように』公演パンフレットから)
 かつてある年の7月に栗山昌義の演出で上演された、矢代静一の舞台で、遠藤啄郎制作の白い仮面をかぶったサロメ(山ノ内真理子)の踊りを見た。「七つのヴェールの踊り」をすでに踊り終え、ヨハネの首を手に入れることが叶ったその後の踊りである。
 仮面のサロメはほどんど裸であった。みずからは「超越される」ことなく、小さく空いた両穴から、古代パレスティナの人びとつまり観客の欲望を見つめ、「超越する」まなざしを隠し、激しく身体をくねらせた。豊かな乳房をあらわにした身体は、サロメであり、演ずる女優でもある。
 この仮面には聖性のかけらもなく、〈素顔〉というもうひとつの仮面から切り離された裸体の淫靡さを強調し、あたりに官能を放散させる効果をもった。匿名作者の物語のなかでヌードの『O嬢』のかぶる、レオノール・フィニー作という梟の仮面と同じ変身の仕掛けなのだ。
 この夜以来、仮面をかぶる裸女のイメージに捕われてしまったらい。ドイツの女性写真家カリン・シュツェケシイの『静物画のような少女たち』では、花や果物や魚などとともに仮面のヌードの娘たちが、おそらくははにかみとか娼婦の眼差しとかを隠して、品よく写されていて気に入りの写真集の一つである。文化人類学者によれば、仮面には異界を可視化しコントロールすることと、神霊の憑依というはたらきがあるという(吉田憲司『仮面は生きている』岩波書店)。
 異界の媒介として仮面を使い「さかしま」の世界を撮っているのは、パリ生まれのルーマニア人女性写真家イリナ・イオネスコである。自分の娘などをモデルにして撮ったヌード写真のいくつかには、仮面をかぶらせたものがある。
 サーカスの小屋に生まれ育ったイオネスコは、欲望の視線に身をよじらせ、さらに挑発する被写体たちをこの世ならぬ妖しの空間に捕らえようとしたのだろう。女たちのかぶる仮面や装身具は、まさに異界を媒介していて、いつ見てもゾクゾクッとする作品ばかりである。
 イオネスコは人気があるらしい。アメリカのスーザ・ランドーラと二人の官能的な女性写真家の作品をまとめた写真集を、神田の古本屋で見つけ、後日求めに寄ったところ、それほど安価でもないその本がもう棚から消えていた。
 神憑かりの女といえば巫女のことであり、それは神話のアメノウズメに連なるものたちである。アメノウズメは天の岩戸の閉じこもった天照大神をおびき出す諸神のはかりごとに協力して、「神憑かりして、胸乳を掻き出で裳ひもをほとにおし垂れ」る、かつての「お立ち台ギャル」の踊りを踊った。
 ここでのアメノウズメはたぶん素顔であったろう。開顕された女陰は黄泉の国への通路であり、もう一つの岩戸である(鎌田東二「乳房の森」『is』66号)から、舞台上のアメノウズメは、視線をそこに集中させる神々を見まわし、みずからもやさしく笑ったに違いない。
 天孫降臨の際もう一度アメノウズメが登場するが、ここではアメノウズメは、仮面をかぶっていたのではないかと高橋英夫は推理している(『神話の森のなかで』河出書房新社)。ニニギノミコト一行を道の半ばで阻止しようとする異形の神で醜怪獰猛のサルダヒコに対し、天照大神の特命により彼に立ち向かい、にらみあいの末「面勝」ったアメノウズメの面相はただ事とは考えられず、仮面の力によったものだろうと氏は想像するのである。痛快である。バリ島の仮面舞踊などにも連想がはたらいてしまう。  
 天照大神にあたる地母神デメテルのいたギリシアを舞台に最初の仮面ヌードを撮ったたのが、あべ美玲である(1990年4月・コダックフォトサロン)。白い石膏のようなマスクをつけた豊かな裸身たちは、地中海の陽光の下で健康的なエロティシズムを放っていた。
 仮面ヌードではないが、あべ美玲の昼の世界を夜にしたのが仮面作家正法地美子の『ナハト・ムジーク』(写真/宝田久人・BeeBooks)だろう。メルヘンティックな世界に、ナポリ喜劇の道化のかぶるようなあくの強い仮面もあり、幻想の闇の森や、波に背を向け仮面がこちらをにらむ海辺をさ迷える楽しみを味わえる。
 かつて彼女と仮面の二人展を催した土井典も、人形とともに仮面を創作している(人形展「赤と?」1994年6月・銀座彩林堂画廊)。澁澤龍彦のためにベルメールの人形のレプリカを制作したこともある土井典の人形について、ヨシダヨシエは「ベルメールに男の性としての視線が、人体を解体させるほどの〈暴力〉として凝結されてくるくらいならば、たとえば女性である土井典には、透明な樹脂の皮膚に包みこまれた胎内への執着が、みずからの性を探るような視線とともに包みこまれているようだ」(「等身大の亀裂から」『美術手帖』1981年7月号)と評している。仮面は、オブジェとしてもっと自由に作っているようだ。しかし少女人形の股間の小さなクレヴァスと同じく、マスクの両眼のところの空洞は、彼岸に通じているのである。
 風景画家から写真家に転じたトキナオミははじめは遠慮した表現から、写真集『仮面』(リイド社)を契機に、過激に官能的な作品を発表している。『禁断の部屋』(ブックマン社)、『淫花』(みずき書房)と1年のうちに3冊も作品集を上梓している。いずれも、密室で仮面をかぶり、ガーターストッキングをはいただけの女たちの絡みを、激しい動きの一瞬を捕らえたように写している。自分も常に裸で被写体になっている。仮面はここでは、欲望のとりことなって吼える女のナルシシズムのあらかじめの種明かしとして使われているようだ。

 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20111020/1319125488(「オペラ『サロメ』鑑賞」)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のダリア。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆