オタクと自意識至上主義

シロクマの屑籠(汎適所属) - あのとき僕は「日本のアニメは世界一だよねっ!」と頷いてあげるべきだったのだ

「いや、社会的に認められるのは一部の漫画とかゲームとかだけで、別に俺らじゃないでしょ。」

これは当然の話で私もそう思うが、しかし逆に考えて、社会的に認められるために*1特定の作品を支持する、あるいは趣味を選ぶのであれば、それは単なるポリティクスやファッションの問題になる。コミュニケーションはそれはそれで重要だが、なんでも自意識的政争の具にしてしまうのは発想が貧しい。それでは、社会的成功の単一基準のみがあって、後はどんなジャンルもそれを満たす手段・道具でしかないのだから同じものになってしまう。

このメタ的視点においては、作品の内容は全く関係なくなり、社会的認知の権力・権威だけが、例えばランキングという形で数直線として形骸的に残るだろう。俗世間ではそういう話題だけがワイドショー的に流通するのは仕方ないが、それだけではない。だがそれはどういうことか。

私は、別に特定のジャンル・作品を支持することで社会的に認められるなどとは思っていないが、作品に認められるように鑑賞しようとは思っている。ここで注意すべきは、私が作品を認める、ではないし、作者に認められる、でもないことだ。この考えは分かりにくいかもしれない。

先に自意識的政争の具にするのは貧しいと書いた。つまり、個々の作品を見る意味がないということだったが、作品の固有性を突き詰めていくと、交換不可能性に突き当たるので、今度は価値がなくなってしまう。それはつまり、「日本のアニメは世界一だよねっ!」ではなくて、「このアニメはこのアニメ一だよねっ!」ということになる。そのような作品に出会い、そのような感想を持つことは実際には難しいが、意識的にそれを目指してはいる。

*1:これを社会的に「認められないために」、と裏返しても同じことだ。「アニメが国際的に認められている」と「B級文化だからよい」「オタクは死んだ」という言説は本質的には大差ない

はてなのYouTubeサービス「Rimo」開始直後まとめ

Rimo

Rimoは、テレビのリモコンのような操作画面で、インターネットの人気動画を楽しめる動画サービスです。

http://hatena.g.hatena.ne.jp/hatena/20070216/tv

公式

ブログの生産性とイノベーションのジレンマ

ネットでネタ記事が流通しやすいのは、限界効用の逓減が早いからだと思います。文章の長さを二倍にしたからといって、あるいは二倍の時間推敲したからといって、アクセスも二倍になるわけではありません。

イノベーションのジレンマ」というのがあって、恐竜化した組織・商品の代わりに小回りの効くものが出てくるというサイクルがあります。コンシューマゲームのCGの技術革新が、市場の拡大につながらないので、コスト増で苦しくなっています。これも大雑把に、生産性の向上が収入に直結しない例です。

同様に、ブログで力んだ記事を書いても、手間の割りに受けないので、軽い記事をポンポン量産した方が、アクセス効率が良くなります。ギア比の問題でしょうか。ただもし、はてブが一記事に二つ三つとブクマできたり、ニュースサイトが一つの記事を二回以上紹介することがあれば、記事の濃さが反映されるかもしれません。

言葉のコミュニケーションの世界では、観測の仕方によって対象の価値が全然変わってきます。例えば、はてブのトップページで、「ブックマーク」を「ウンコマーク」に変えたら、ブクマされる記事の傾向が少し変わってしまうでしょう。名は体を表すだけでなく、中身を変えてしまいます。

散漫な話になってきましたが、要はネットのような純粋な人工的な環境では、技術的な前提が変わってしまうと、ガラッと変わってしまうということです。例えば、掲示板にしても、SNSにしても、ブログにしても、それが登場する前にはなかったようなコミュニケーションが出来ました。ある意味では需要の創造だし、価値創造だとも言えます。

ラノベ

「月面兎兵器ミーナ」のキャラクターでケータイカスタマイズ!――Ezwebサイト「けーたい★コスプレ」オープン

けーたい★コスプレ(モバイル)

概要

ドラマ「電車男」で登場し、2007年1月よりTV好評放映中のアニメ「月面兎兵器ミーナ」で活躍するキャラクター達を、au公式サービスの「EZケータイアレンジ」によって、ケータイカスタマイズできるサイト。下の画像は「待受画面アレンジ例」「サイトTOP画面」「Eメール受信画面アレンジ例」。

画像


詳細

サイト名 けーたい★コスプレ
サイト概要 EZケータイアレンジ(サイト)
オープン 2007年2月15日(木)
利用料金 従量課金制 420円
サイトURL http://ezma.kawa-ii.net/mob/index.php
アクセス Ezトップメニュー→画像・キャラクター→EZケータイアレンジ→けーたい★コスプレ


潤・宴rットフォース 潤・INLIGHT
※ドラマ「電車男」及びアニメ「月面兎兵器ミーナ」は株式会社フジテレビジョンの作品です。

関連:ぷるるん美少女(PCサイト)

平均生産性vs限界生産性議論のまとめと大雑把な解説

平均生産性vs限界生産性

賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。

http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20070211/p1

普通の経済学では、賃金は労働の限界生産性と均等化すると教えている。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/cd4e52fd7cca96ac71d0841c5da0cb75

なぜ議論が混迷するか、ものすごく大雑把な説明

(以下、ニュアンスだから経済学的なことはどうでもいい)上のAのように、市場における全ての産業が完全に一つに関連していれば、平均生産性なるものを考える意味があるのかもしれない。しかし実際には下のB・Cのように、ふつうはある程度独立しているものだろう。Cの生産性が上がってもBの生産性が上がる、「他人の生産性が向上すれば自分の給料も増える」とは限らない場合が多々ある。例えば、交通量が増えて燃料が必要になっても、みな石油を使って石炭の生産性は増えないかもしれない。また、音楽の需要が増えてもMP3プレイヤーを買って、CDや更にはレコードが売れるとは限らない。そのような場合に全体の平均を考えても仕様がない。個々の限界生産性で考えればよい。従って、どちらかといえばアルファブロガー連合(山形氏・小飼氏・fromdusktildawn氏)よりも、池田氏の方が妥当であると私は考える。

オマケ・もう少し複雑な解説

もう少し複雑な話をすると、実はこれは、社会主義の計画経済がうまく回らないことを示している。全体の平均的な生産性が上げれば他の産業も成長すると考えて、ひたすら製造業に力を注げば経済が豊かになるかといえば、全然そうはならなかった。だから、全体の平均ではなくて、個々の限界に注目しなければならない。すなわち、計画経済の全体平均の最適化よりも、市場経済の部分的最適化の方が優れている。なぜそうなるかというと、整合的な市場の真の全体像など誰も見渡せないからである。人間には不完全情報しかない。そもそも限界生産性の「限界」とは微分の極限に関連している*1非線形不定形な市場に対しては、平均的な最大ではなく、特定範囲の曲線における極大値を目指すことに意味がある。それが「限界生産性」が持つ近代(経済学)的な意味だろう。

*1:初期は「最終」と呼んだ。また極限=リミットと限界=マージナルでは本当は意味が異なる。前者が決定的な点なのに対して後者は分岐的な点として解釈している。これは微妙な話なのでここでは省略する

生産性が向上して給料が減ることもある!

分裂勘違い君劇場 - 「他人の生産性が向上すると自分の給料も増えるのか?」を中学生でもわかるように図解してみました

平均生産性はウェイトレスの賃金の「重要な決定要因の一つ」です。

分裂勘違い君劇場グループ - 劇場管理人のコメント - 今回の生産性論争の結末

「平均的な生産性が、賃金を決める重要な要因の一つだ。」という説明

いや、だから平均生産性は関係ないんですよ。

限界生産性

池田信夫 blog 限界生産性とPPPについての超簡単な解説

限界原理というのは、ちっともわかりづらいものではない。むしろ、わかりやすすぎることが怪しいぐらいの話だ。前の記事の説明を繰り返すと、喫茶店のウェイトレスをあらたに雇って時給800円を払えば、1時間に売り上げが800円以上増えるとき、店主はウェイトレスを雇うが、売り上げ増がそれ以下なら雇わない。それだけのことだ。

しかし、世間の常識と違うことが一点だけある。それは、問題は平均値ではなく、個別の店の売り上げ増だということである。世間の賃金相場がいかに高くても、あるいは喫茶店の売り上げがいくら多くても、ウェイトレスを増やすことで彼女の賃金以上に売り上げが増えなければ損するから、限界生産性を上回る賃金を払い続けることはできないのである。これが成り立つのに必要な条件は、前にも書いたようにいろいろあるが、重要なのは完全競争だということ。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/470cbdc39360f5b3c77d0372e3ddcb6e

上記で完全に説明されているのですが、分裂劇場の記事に「分かりやすい」「これはすごい」などとブクマでコメントがついて、はてブはなかなか終わっている状況なので、くどく解説しましょう。要するに「限界生産性」の話の肝は、人を雇っても儲けが出ないなら雇わない、というだけの話です。世間の平均がどうだろうと、売上げがなければ給料が払えないでしょう。だから、問題は全体の平均ではなく個別の限界なんです。

これは、平均生産性が上がったから、炭鉱とかレコードとか人力車も儲かるようになって、給料が増えるわけではない、という例を考えれば分かるでしょう。皆が石油を使ったりCDを買ったり自動車に乗ったりすれば、平均なんか関係ないわけだから。他の生産性が上がって、労働力が不足しても、それに伴って価格も上げられないのであれば、単に淘汰されます。

ここで、法律でも最低時給が決まっているし、賃金には下方硬直性がありますが、それは失業率に転化します。あるいは赤字で給料を払ってもいいですが、長期的には淘汰されるでしょう。無い袖は振れません。ただし、公務員の場合は赤字でも給料がでますが、そもそも競争という前提がない。

分裂劇場の記事の工場労働者と清掃業者の例では、工場が清掃に余計にコストを払えば成り立ちますが、それは限界生産性が上がっているということなんですよ。清掃を省けないという前提がなく、工場が今までと同じ対価しか払わないのであれば、平均がいくら上がろうと変わりません。給料が払えないからです。それで人が集まらなければ清掃業者が淘汰されます。それなら平均なんか関係ないんだから、限界生産性で考えればいいでしょう。

生産性と労働力の需給は別の話です。生産性が向上して人手不足になれば賃金は上がるでしょうが、生産性と賃金が直接関係しているわけではありません。生産性が向上しても人手が足りていれば変わらないし、例えば機械化による生産性の向上などで、むしろ人手が要らなくなって、賃金が減ったりリストラされることもあります。生産性が向上して給料が減ることもある! それは全く不思議なことではありません。生産と賃金のメカニズムが別だからです。

関連:萌え理論Blog - 平均生産性vs限界生産性議論のまとめと大雑把な解説

エロゲを買わせる力と同人を買わせる力

魔王14歳の幸福な電波 - 同人商品とフリーゲームの間に横たわる「商品っぽさ」の壁

商品作品には絵の上手さとかユーザビリティとかとはまた別の「商品っぽい雰囲気」というのが多分あって、ほとんどの同人ゲームすらその方向性を帯びているんですけれど、それに無頓着なフリーゲームは生理的に敬遠されてしまってるような印象。

エロゲを買わせる力

日常的な欲求を満たす使用価値が主目的の商品には、「商品っぽい雰囲気」は必須ではない。例えば、食料品など日用品は、あまりパッケージが重要にならない。ディスカウントストアや無人市場などを考えれば分かる。

一方、人間的な欲望を満たすための消費社会の記号的な側面がある商品には、「商品っぽい雰囲気」が必要になる。そこでは、物が欲しいというニーズが先にあるのではなく、売っている物を見て欲しくなるという風に転倒することがある。需要の創造である。

ではエロゲはどうだろうか。エロゲは「商品っぽい雰囲気」が非常に重要である。まず、商業流通に載っていることで同人とは区別される。ショップで売られ、またPCゲーム雑誌に広告や体験版を載せる。また、(中小零細が多いとはいえ)法人が開発・販売している。

もう少し消費者の視点で見ると、エロゲショップで、無意味にでかい箱を平積みされて売られている。デモムービーがモニタで流される。販促にテレカなどがつく。限定版でフィギュアがつく。メーカが有名ブランドだ。制作陣に有名なライターや原画家や声優がいる。CGは何百枚もあって、シナリオは何メガもあって、全編フルボイス。

これらは一般的な同人で満たすのは厳しいものがあるが、中でも分かりやすいのは、エロゲはエロゲ塗りであることが多いということだ。逆に言うと、同人ゲームでもエロゲ塗りをすれば「商品っぽい雰囲気」が出て、販売で利益を狙えるようになる。

グラデーションを多用するエロゲ塗りは、それなりの技術と手間を要求されるので、簡単に実現できない。同人誌の表紙など一部だけならともかく、何百枚も描くのは大変だ。給料を出して何ヶ月か拘束できるだけの基盤が必要になる。

近年NScripter吉里吉里でかなり敷居が下がったが、プログラムも基本的に同じだし、(男性向け同人は男が作ることが多いので)制作者一人ではボイスをまかなえない。OPムービーだとか、他の部分もやはり同様だ。

同人を買わせる(フリゲを買わせる)力

ここまでは、高いエロゲを買わせる希少性はどこから生じるか、という考察だった。しかしでは、それらの要素がなく、有名サークルでもないところが、同人ゲームを買わせる、またはフリゲを遊ばせるには、どうすればよいか。

まず、ふつうは商業と同じものを作るのは無理だろう。それは、ワナビだからできないということではなくて(あるいはあるかもしれないが)、単にインフラが不足しているのである。ではスケールを小さくして縮小再生産するのはどうか。その手はある。ただ、スケール(デ)メリットによってコストパフォーマンスが低くなるので、同じ基準で比較されると厳しい。

ここでは、商業「だから」できないことに注目する。商業的な制約を受けないものを作れば、希少価値を生じさせるのは可能だ。

ここでは、プロとアマというよくある二項対立的発想ではなくて、条件は違うが全く同じ現実だと捉える。それはちょうど、小さいスケールだから昆虫のようなユニークな形態が物理的に可能だというようなことかもしれない。小さいから間違っているということはない。作品の大小と高低は別である。

それでは同人だから可能なものとはどんなものだろうか。まず最初に成人向け二次創作が思い浮かぶ。これは商業ではできない。これは同人市場を見れば分かり切っていることだが、可能性を全部見るために手順を踏んで見ていく。

次に粒度を変えるのはどうか。小さいものとしては、FLASHで三分で遊べるゲームなどは、需要はあるが採算を取るのが難しいので、やはりフリゲが多い(携帯の課金アプリは少し別)。大きいものとしては、極端に例が少なくなるが、何年間も掛かって作るものは、生活のためにやるプロには逆にできない芸当だ。

ニッチなジャンルというのもある。同人誌即売会には、断面図オンリーだとか、たすきがけにかけたバッグの隙間から覗く乳房だとか、極端にニッチなジャンルも、同人ならではだ。

しかし、もっと作品の表現と密接に関係しているような方法はないか。それはある。例えば、日本のリミテッドアニメが独特に洗練されているというような、制限を利点に変える手法だ。あるいは、矩形波三角波を使っていたころのゲームサウンドとか、ドット絵のジャギとか、処理落ちすることで弾幕を避けられるとか、制約が逆に独自の表現を産むことがある。

ひぐらしバイオハザードの意外な共通点

最近の(最近でなくても)同人界最大のヒット作は「ひぐらしのなく頃に」だろう。(月姫もそうだが)ひぐらしは特に絵が商業的に流麗でないことが指摘される。だが、いったんプレイしてみると、むしろ323絵のような洗練された絵ではかえってダメな気がしてくる。本当にそうかは分からないが、少なくともそう感じさせるだけの必然性はある。

例えば、全く対照的な作品として、かなり前の作品だが、「ダブルキャスト」がある。これもなかなか黒いヒロインだが、ひぐらしほどは怖くない。当時としては技術力が高く、キャラデザが後藤圭二で絵柄も洗練されているので、「壊れている恐怖」はない。表現として洗練された、理解可能な恐怖なのだ。

だがひぐらしはそうではない。アルカイックな絵だからこそ、プリミティブな恐怖があるのだ。本当に最後まで破綻なく続くのか、というようなことまで含めて、全てが怪しくなってくる。この自分の足元を掘り崩されるような感覚は、サークルが無名だからできる芸当でもある。

もう少し細かく見てみると、例えば昭和という時代設定によって、絵柄が陳腐ではなくなる。あの当時ではアレ位の絵柄でおかしくない。流麗な323絵は現代の都会(「Piaキャロット」など)に向いているが、昭和の土着的なムラを描くのには向かない。更に、いたる絵泣きゲのセンチメンタルな感情に向いている。

ついでに言うと、バイオハザードは初代が一番怖かった。ポリゴンが荒くて細部が分からないのだが、だからこそ不条理な怖さがある。もう一つ、PSは読み込みが遅くてイライラしがちだが、ホラーというジャンルのために、ドアを開ける間が緊張を高める効果にうまく転化していた。これが例えば、笑いなどのジャンルだと間が抜けてしまったりする。

まとめ

いつのまにか商業ゲームの話に戻ってしまったが、最後にまとめておこう。商業が精密画だとすれば、同人はデザインするという要素が重要になる。インフラも貧弱なので、表現の上でいらない要素は思い切って捨てることが重要になる。そしてまた、遊ぶ方も割り切ることが重要だろう。