『スペクタクル=商品経済の衰退と崩壊』 訳者解題 


 1966年3月発行の『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 第10号の冒頭を飾る論文は、前年8月に合州国ロサンジェルスで起きた「ワッツ暴動」についての分析である。SIは、合州国を揺るがせたこの黒人地区での暴動に対してすぐに反応し、12月にパリで『「スペクタクル的」商品経済の衰退と崩壊』(The Decline and the fall of the "Spectacular" commodity-economy )というタイトルの英語のパンフレット(SIの署名によるものだが、実際の執筆者はギー・ドゥボールである)を作成し、合州国とイギリスでそれを配付した。ここに収められているものは、このパンフレットをフランス語に訳したものである。フランス語版の表題は Le Déclin et la chute de l'économie spectaculaire‐marchande で、「スペクタクル的な」 spectaculaire と「商品的な」 marchande が同資格で「経済」 économie を形容しているため、この用語は「スペクタクル=商品経済」と翻訳しておく。「スペクタクルの社会」においては、「商品」はその使用価値や交換価値と関係なく、それ自体が「スペクタクル」の形態をとり、「スペクタクル」が「商品」を通して姿を表すという両者の互いに入り組んだ関係を表す表現であると考えてもらいたい。この関係についてのSIの理論的考察は、翌67年に出版されるドゥボールの本『スペクタクルの社会』(拙訳、平凡社、1992年)のなかで徹底的に明晰なかたちで明らかにされる──その第1部「完成した分離」はまず、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 次号(本書358ページ)に収められる──が、ここでドゥボールの言う「スペクタクルの社会」について簡単に触れておくのが良いだろう。「スペクタクルの社会」についてのドゥボールの理論的考察は、ワッツ暴動についての実地の分析と不可分であり、後者が前者のいわばプレリュードとなっているからである。
 「スペクタクルの社会」とは、現代の「豊かな社会」と言われる高度資本主義社会や、生産と生活が近代的に組織された社会主義国家において、「生」のすべては「イメージ」に媒介された「スペクタクル」のなかに追いやられ、直接的な「生」の感覚が「表象」を通してしか感じられなくなった社会である。ドゥボールはこれを、マルクスの『資本論』の文章の「商品」という語を「スペクタクル」に置き換えて転用し、『スペクタクルの社会』の冒頭の断章にこう書きつける──「近代的生産条件が支配的な社会では、生活全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに追いやられてしまった」。そこでは「生」の全体性がばらばらな断片に解体され、さまざまな「イメイメージ」によって人間の欲望や生が表象されるが、それらは決して「生の統一性」を回復するものではなく、「一般的な統一性」という疑似的な世界を提示するだけである。生の断片化、あるいは解体を、抽象的に救い上げると同時にさらにいっそうそれを断片化するもの、それこそがドゥボールの言う「スペクタクル」なのである。「スペクタクル」が「現実の社会の非現実性の核心」でありながら、それは「さまざまなイメージの総体ではなく、イメージによって媒介された、諸個人の社会的関係である」(断章4)とか、「スペクタクル」は、「社会そのものとして、同時に社会の一部として、そしてさらには統合の道具として」姿を現す(断章3)とか言われるのはそのためである。「スペクタクル」とは単なる「視覚的世界の濫用や、イメージの大量伝播技術の産物」ではなく、「物質的に翻訳され、実効性を有するようになった1つの世界観(ヴェルトアンシャウウンク)で」あり、「それは客体化されてしまった世界についての1つのヴィジョン」なのである(断章5)。この「スペクタクルの社会」において、「商品」はもちろん「スペクタクル」の一部であり、「商品」を介さぬ「スペクタクル」の発現もありうる(例えば、「社会主義国」のカリスマ的指導者への国民の一体化など)が、「商品」こそが「スペクタクル」を最もよく体現するものであり、「商品」という形態のなかに「スペクタクル」的な関係が集中して現れる。すなわち、人間関係そのものの確認から個人の自己確認まで、この社会では、さまざまな意味を──その使用価値とも交換価値とも無関係に──複雑にまとわされた「商品」を媒介にしてしか行うことはできず、この「社会」は常にそうした「商品」を発明することによって、人々の「欲望」を、常に癒されることのない「欲求」として作り出し、組織するのである。ドゥボールは『スペクタクルの社会』の第2章「スペクタクルとしての商品」のなかにこう書いている。「スペクタクルのなかにおいて絶対的に完遂されるものは、商品の物神化(フェティシズム)の原理であり、『感覚しうるけれども感覚を超えたさまざまなモノ』による社会の支配である。そこでは、感覚しうる世界は、感覚を超えたところに存在すると同時にすぐれて感覚可能なものとして承認されるよう選択されたイメージに置き換えられている」(断章36)。
 この「感覚しうるけれども感覚を超えたさまざまなモノ」と、それを維持するために「選択されたイメージ」に対する反乱こそが、ワッツ暴動の本質としてあったのであり、それは単なる「黒人暴動」ではないというのが、ここでのSIの最も鋭い主張である。このワッツ暴動(ドゥボールは「蜂起」と呼ぶ)の4日間に攻撃対象となったのは、白人一般ではなく、自分たちを搾取する白人商店と、何よりも「商品」秩序の維持のために存在する抑圧装置である白人警官だけであったこと、また暴動への参加者には黒人中産階級は含まれず、もっぱらゲットーの黒人貧困層と、さらには同様の貧困に曝されている白人も含まれていたこと、これらの事実から見ても、ワッツ暴動は人種対立や奴隷制の遺制として残っていた「黒人問題」への反応として現れたものでは決してないことが分かる。さらにそれは、まさにこの暴動が、ジョンソン大統領による7月28日の「公民権法」発布のたった2週間後に突然起きたことでも明らかである。その公民権運動を推進してきたマルティン・ルーサー・キングその人が「これは人種暴動ではなく、階級暴動だ」と認めざるを得なかったほどである。そこからドゥボールは、「ロサンジェルスの反乱は商品に対する反乱である。商品の尺度に位階秩序的に従った労働者−消費者と商品の世界に対する反乱なのである」と、明確に位置づける。そして、ワッツ暴動の中で見られた「商品」の略奪と、その自発的分配のなかに、資本主義経済システムヘの攻撃と同時に「商品」の秩序そのものへの根源的な攻撃を見て取るのである。暴動の参加者たちは、「商品の現実」を拒否し、必要なものを必要な人々に、しかも即座に分配した。それは単なる略奪ではなく、「スペクタクル=商品」の価値をも、交換価値をも拒絶して、事物の使用価値を最も革命的に復権する行為である。だが、それだけではない。彼らは、さらにこの「商品」社会での「必要」というものが、人為的に作られたものであり、「商品」の使用価値でさえもが恣意的であることを見抜いていた。そのことを、ドゥボールは、例えば、彼らが冷蔵庫を盗んで電気の通じていないアパートに置いた行為のなかに見出す。これは、一種の「遊び」であり、「祝祭」である。あるいは、シチュアシオニストの用語を使えば「転用」の実践である。「商品」のこの別の「使用」を見出すことによって、ワッツの蜂起者たちは「スペクタクル=商品」社会の最高度の実践的批判者となった。ドゥボールはこのような美しい言葉でそれを表現している──「真の欲望が、祝祭のなかに、すなわち遊戯的肯定と、破壊のポトラッチのなかに、早くも表現されるのである。商品を破壊する人間は、商品に対する自らの人間的優位性を示している。彼は、自分の欲求のイメージにまといついた抽象的な形態に囚われつづけることはない。消費〔consommation〕から消尽〔consmmation〕への移行が、ワッツの炎のなかで実現されたのである」。
 さらにもう1つ、ドゥボールがワッツ暴動に見て取った鋭い点がある。つまり、「人種主義」に関するその分析である。ドゥボールは、「人種主義」を決して、過去の遺制や人間の意識の問題としてとらえるのではない (それゆえ奴隷制の遺制としての黒人差別を黒人の地位の向上によって解消するのだと主張する「公民権」運動はもちろんのこと、黒人こそが美しいとする「黒人意識運動」の影響を受けたブラック・モスリムの「親アフリカ主義」やブラック・パンサー党などの「分離主義」運動も、この「スペクタクル=商品」社会での黒人差別の新たな再生産の批判に行き着かないという点で、ともに批判されるべきである)。「人種主義」もまた、「商品」と同じく、「スペクタクル=商品」社会が必然的に──構造的に──必要とするものであり、この社会が自己を維持し続けるために常に新たに産み出さねばならない発明品であるという、まったく今日的に当てはまる観点を提出している。ドゥボールはこう書いている──「アメリカ黒人は、電子工学(エレクトロニクス)や広告、サイクロトロンと同じ資格で、現代産業の生産物であり、その矛盾を身にまとっている。彼らは、スペクタクルの楽園が統合すると同時に拒絶しなければならない人間であり、その結果、彼らにおいては、スペクタクルと人間の活動との敵対関係が完全に姿を現している。スペクタクルは商品と同じように普遍的である。だが、商品の世界は階級対立に基づいているために、商品そのものが位階秩序化されているのである。普遍的であると同時に位階秩序化されていなくてはならないという、商品にとっての必要、そしてそれゆえ商品の世界の情報を与えるスペクタクルにとっての必要は、普遍的な位階秩序化に行き着く。しかし、この位階秩序化は口外できないままであり続けなければならないことから、道理なき合理化の世界のなかで、非合理であるがゆえに口に出せないようなさまざまな位階的な価値づけに転化する。いたるところで人種主義を産み出しているのは、この位階秩序化である」。
 この透徹した批判について多言を弄することはやめよう。ただ、このドゥボールの批判は、「共産圏」が「商品」世界の攻勢の中で崩壊した後に激しく噴出してきた今日のヨーロッパと合州国の「人種主義」についても、例えばこの日本の「天皇制」についても当てはまることだけは指摘しておくべきだろう。
 ドゥボールによるワッツ暴動のこの分析は、翌67年、68年とますます拡大するデトロイトニューアーク、シカゴ、ニューヨークなどでの「蜂起」によって、その正しさがいっそう強く確認されることになる。それについては、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』誌 次号の「前号への6つの追加事項」(本書444ページを参照)でSI自身が触れている。