私の個人主義:後編


私の個人主義(追記:前編) - 地を這う難破船


(承前。分量的な理由から分割に至った同時投稿としての後編です。申し訳ありませんが、上記リンクにおける前記エントリをまずは御覧になってください、死ぬほど長いですが。はてなダイアリーにおける、投稿に際する限界値としての掲示分量です。一括掲示に失敗した当方の不手際については、皆様に対して深くお詫び申し上げます。)


Schwaetzerさんによる、最近のエントリ(掲示に際するミスによって、再度TBを送る形となってしまうこと、申し訳ありません。御容赦ください。重複TBについては削除していただければ幸いです)。


http://d.hatena.ne.jp/Schwaetzer/20070109


私もまた、大変に興味深く拝読させていただきました。発言の文脈を明示するため、あえて当該部については全文転載させていただきますが(問題がありましたら仰ってください。引用転載を分量的に限定します)、コメント欄における、Schwaetzerさんとsunafukin99さんとのやりとりの中において、

# sunafukin99 『天皇も日の丸も個人的にはとくに思いいれも拒否反応もないというか、これについては日本人の多数派の感覚に近いので、その意味では私も「保守的」なのは同じでしょうね。ただそれ以外では「空気の支配」とか「滅私奉公」とかなんとも言えず嫌な部分は多々あるので、個別的にはやはり個人主義というか、見る人から見たら左にしか見えない、そういうところもあるでしょうね。個人主義=勝手気まま=左的という捉え方は日本特有のものなのか、世界的にわりと共通なのかはわかりませんけど。あと世代による違いも大ですね。戦前世代は「小さな政府」的な新保守主義はあまり理解できないみたいで、むしろ政府の役割を重く見ているところもありますし、左右の定義そのものがかなり幅があるのが実情でしょう。(年配世代と若い世代の「NHK」への態度の違いも面白いところです。)』
# Schwaetzer 『「空気の支配」とか嫌いだなあ。そうするとやっぱりあたしは「左より」ってことになりますね。個人主義が左的かどうかは、やっぱり日本独特なのでしょうか?どうなのかな。あるいは単純に労働組合との係わり合いで左右を分けるのが世界的には普通なのでしょうか。そうすると日本もたいした違いはなさそうだし。うーん、分かりません。』


というくだりがあるのですけれども、もし仮に「個人主義が左的」であるとされるのであるなら、私は極左過激派になるのですが。はっきりと記しておきますが、私は私生活においても同様ですが、生粋の筋金入りの個人主義者であって、この世で10番目以内に嫌いなものに、党派的な発想全般というものが入ります。この世で5番目以内に嫌いな単語に「連帯責任」というものがあります。あくまで好き嫌いという趣味の話ですが。確かに、かつていわゆる「死ぬ死ぬ詐欺」の件については、あるいは音羽さんの件については、幾人かのブロガーないし固定ハンドルないし匿名/準匿名の方達と、結果的には、ということですが、整理における明快を企図するためにあえてかかる露悪的な政治用語を用いますが――「野合」しました。とはいえ、他なる問題については、現在の当ブログのコメ欄における閑散振りが証しておりますが、個別的、個々のコミットメントないしは問題関心の為すがまま赴くがままに、です。fw0さんであれmuffdivingさんであれsakimiさんであれ。皆さんもまた同様のことと思います。時には同意、時には非同意、時には無関心。それでまったくノープロブレムです。


あくまで、私個人の趣味として、という話ですが、「党派的」な連帯よりは、問題関心の事例単位の合致ないしは不一致、そして同意と非同意に、時機に即して準拠するという個別的かつ実際的な「野合」をこそ、ブロガーとしての私は選択し志向します。私は科学にも宗教にも半島の問題にも単純に疎い、論理とSEXテーマと2chに対しては継続的な関心が所在しています、とまれ、たまたま、音羽さんについてはいくらかは一致しました。幾度も記しておりますが、私のモットーたる是々非々とは、そうした内実によって示されています。「野合」という、ネガティブにして政治的な印象の付随する表現を、逆説的な「反語」として私があえて使用している旨、明記しておきます。コメント欄は閑散かつ殺伐としているくらいでちょうどよいと、当ブログの管理人たる私は考えています。


なお、上記のSchweatzerさんのエントリに則った私の個人的な感慨を少し記しますと、sk-44が「「自分は普通」だと認識してそこで終わったうえに、だから自分は多数派でありかつ「まっとうである(あるいは正しい)」というところで安心している」のかといえば、音羽さんが指摘されている通り、かように、


http://d.hatena.ne.jp/gerling/20061223#c1167073607

「ネタ」が提供されて、人口無能がセンテンスを並べて文章を作っているようなもので。こいつは空っぽだ。なにか言いたいことなどないのです。


人工無能がセンテンスを並べて」「空っぽ」の文章を綿々と綴り得る人間が、少なくとも「普通」であるはずがないと、私は自らを認識しておりますが。自覚していることですが「「普通」と自らを意識において規定している人間」はあのような文章を、書かない。上記引用部、鋭い指摘と思っています。とはいえ私は結果的には、自らを厳然たる事実として凡庸な存在と思っている。意識においては「「普通」であることそれ自身を看板にして自己を正当化させること」なく(というか、本当に「普通」とは思ったことがない)、しかし対外的な結果に際しては、事実として凡庸でしかない、それが一介の「凡人」の社会生活における自意識のバランスとしてベターな妥協点と言えるのではないでしょうか。あくまで私個人の生活における実感に準拠した話でしかありませんけれども。


今更ながらトラックバックを送らせていただきます。Schwaetzerさんは肯定的に、fw0さんは批判的に言及をされている、話題を呼んでいる、記事。


2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ[絵文録ことのは]2007/01/13


私は、あえて記すなら昨年の3月よりも以前から、現在に至るまで、松永英明氏のブログのよい読者ではありません。定期的な巡回先には入っていない、ということです。つまり、いわゆる信仰問題は、あくまで私個人にとっては、ということですが、およそ関係がなく、単なる氏の文章に対する以前からの、(むろん、私の側からの一方的な)ウマの合わなさを理由とするものとは、思います。なぜ、かかる事柄を記すかというと、それゆえに、私は松永氏のことを失礼ながら詳しく存じ上げてはいないため、それこそ当該の記事において「記されている内容自体」すなわち「誰が言ったか」ではなく「何が書かれているか」にのみ準拠して拝読したところ、あくまで私にとっては、ということですが、大変興味深かったのは、2chについての見解や「2ちゃんねらーの定義」をめぐる記述よりもむしろ(とはいえ、内面化/意識化されたコミットメントの有無を峻別の分岐点とする整理は、2chをめぐる議論に際しては極めて肝要な視点と、私は思います)、記事内容からあくまで私が私の内的な文脈から汲み取った、これまで詳しく存じ上げてはいなかった松永氏の、その基底的な価値観ならびに認識自体の方でした。


あくまで私個人の、個人的な文脈に準拠した私的感想としての読解に過ぎないと、記事執筆者の意思にも同意するため再三明記しておきますが、当該の記事において示されている原則的かつ基底的な認識とは、2chや「ねらー」云々以前に、私の言葉と私的な文脈から記すなら、徹底した個人主義に準拠して、事実認識と価値判断とを峻別したうえで、価値判断に際して倫理的な位相を導入すること全般に対して、自身の価値判断において個人的な違和感を表明する、という、ラディカルな価値相対主義の謂いです。あくまで、私の個人的なバイアスに準拠した、あるいは恣意的な読解に過ぎません。ですから以下は、松永氏による当該の記事から離れて、上記の認識それ自体の話として読んでほしいのですが、私個人の、事象に接する際の原則的かつ基底的な認識もまた、上記といくらかは共通している(ですから、あくまで個人的なバイアスに準拠した我田引水としての解釈ないし誤読でしかありません)。


私が任意の事象ないし言説に接する際に準拠する、いわゆる価値相対主義とは、徹底した個人主義に準拠したうえで、事実認識と価値判断とを(整理的に)峻別したうえで、価値判断において任意の倫理的な位相を単一的な観点から導入することを、個人的な違和とする、私個人の価値判断を文脈的な前提としています。しかしながら私は、認識において、自己の個人主義的な価値相対主義の外部に存在する、自らの個人主義的な価値相対主義それ自体を理念的かつ現実的に規定する他律的な準拠枠ないし外部機構としてのプラットフォームたる、いわゆる社会機構とそれに規定された価値的概念/機構を一切の前提事項として意思的に支持し、自己の見解提示に際しては相互的に準拠し尊重しています。スノッブという野暮天たる私は、いわゆる「市民」概念に対して、前提において全面的に同意する人間です。


つまりは。認識において個人主義的な相対主義を前提したうえで、意識においては普遍を志向するということです。個人から発して普遍へと至る。そのことを志向する。かかる志向に対して同意する。思想的な立場をあえて示すなら、私はいわゆるポストモダニストではありますが、前提において意思的なるモダニスト(=近代主義者)です。つまり、反近代主義者ではない。いわゆる西欧的な反近代主義の系譜に対して、味噌と糞の分別を当然の前提としたうえで、私は前者に対して敬意を払う者ではありますが。なお1点だけ、11月におけるApemanさんとNakanishiBさんとの1件を契機として、私が個人的に反省した事柄は色々とありますが、その第一として「公正」「フェア」という言葉を能う限り自らからは用いない、ということでした。語句の使用自体が自動的に恣意性を構成的に発動する概念的な単語であるためです。「公正」を字義通りに行使し得る人間など、まずいない。安易に使用するべき概念ではない。なお音羽さんとのやりとりにおいて「公正」という語句が頻出したのは、音羽さんが用いていたためです。私は、音羽さんが使用する「公正」概念の正当性/正統性を問うていた。


Apemanさんが、以前に記していたことですが、


http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060128130205/index.html

「自己肯定」のために「敵」をつくりあげて叩く、というのはまさに宮台真司が「ヘタレ右翼」と呼ぶところの、おのれの実存不安を社会に投影して騒ぐ醜悪な振る舞いに過ぎないからだ。そして、自己肯定のために敵をでっち上げて叩くというのは(必ずしも右派の専売特許ではなく)しばしば行なわれることではあるが、それはみっともないことである、というコンセンサスは存在しているのだと思っていたからだ。韓国や中国を叩いている連中にしても「エンコー女子高生」を叩く連中にしても、「いやなにこれは私の実存的不安の反映です」なんてことは認めずに、あくまで表向きの理屈はつける(玉石混淆だが)わけである。もしそうなら、「あなたの憎悪は実存的不安の表出に過ぎませんよ」と指摘することに意味もあるというものだが、「はいはい、自己肯定のために敵をつくって叩いてるんですよ、それがなにか?」と言われてしまうとことばに詰まってしまうわけである。


といった発想ならびに行動様式を貴方が一貫して問題とされているのであるなら、あるいはかかる発想ならびに行動様式自体を貴方が「右派的(「的」です)」と定義したうえで個人的な文脈から検討しておられるのであるなら、貴方が言われるところの「「死ぬ死ぬ詐欺」と騒いでいた面々」による「募金活動への「自らの本音たる素朴な私見に基づく裁断ないし断罪」もまた「右派的」な行動様式となるのかも知れない。「「自己肯定」のために「敵」をつくりあげて叩く」「不適格な論者」としての「真正バカ」がいなかった、あるいは存在したとして、それは言挙げたうえで「問題」として検討するに値しないほどの少数者であった、などとは、事実認識の水準において言えるはずもありません。とはいえ、私個人の「右派」観とはあくまで古典的かつトラディショナルに、


雨宮処凛(著) すごい生き方 公式ページ

一水会木村三浩さんが「俺はネット右翼じゃないよ」と言ってたのが印象的でした。誰もそんなこと思ってないと思います。


といったものです。音羽さんを言行から判断して「レフト」とはことさらに意識していなかったことも、そうした私の価値観に拠ります。なお、疑問に思われている方も多いと思うので記しておきます。わたしが「いわゆる〜をめぐる事態」と注記したうえで、あるいは注記せずに、しかし必ず括弧には括って「死ぬ死ぬ詐欺」と一貫して記してきた、かつ今なお記している理由について。様々な位相が輻輳し混淆した一連の事態としての「それ」を記述において指示する際に、露悪的でキャッチーなフレーズとしての卓抜な名称それ自体が、任意のメタレベルにおけるフレームを構成していたため、かかるフレームを前提したうえで付随的に発生した一連の事態については、フレームとしての枠組の存在を前提したうえ(追記:その旨を)記述に際して明示するために、象徴としての「死ぬ死ぬ詐欺」という名称を使用していた、記述に際する意思的(追記:かつ明示的)な前提事項として、任意のフレームとしての枠組の存在自体を準拠枠としたうえで、一連のエントリを記していたためです。(追記:つまり、私が記述し言及していた対象とは一貫して「一連の事態」そのもののことでした。)


言い換えるなら、それは私が一連の事態について記述する際に、一貫してメタレベルに視座を設定していたことを、対外的には証している事柄ですし、そのことを認めます。おそらくは、私と音羽さんとの「例の件」をめぐる一連の「対話」における徹底した行き違いの結末とは、かかる視座ないし視点の決定的な相違と、そのことが帰結する認識/意識の齟齬にこそ最大に由来していたことでしょう。上記リンクにおける音羽さんの、私に対して言及したエントリには、かかる根本的な視座/視点の相違の様相が、明確に示されています。私は原則的かつ基底的なスタンスにおいて、およそ直接的な関係性の欠如といった意における、非当事者的な任意の事象に対しては、多く意識的かつ意思的に、メタレベルに視座を設定したうえで言及します。音羽さんはそうした「メタレベル」の視座自体を、認めていない。おそらくはApemanさんもまた、かかる「メタレベルに視座を設定したうえで事象について記述するスタンス」自体に対して、批判的ではあるのでしょう。


11日付エントリのコメ欄に記された書き込みの結部において、Apemanさんが「シニシズム」に言及したうえで、私に対して仰ろうとした事柄とは、そうしたことではないのですか。「資質の違い」と私が申し上げたことが不可解であると仰られるのであるなら、言い換えます。認識は、あるいは同様であるのかも知れません。しかし、そのうえで、意識において、つまりは自らの発言に際しての、視座ないし視点の所在に臨む志向性/方向性において、あるいは自らが準拠するフレームワークの意思的な選択に際して、相違ないし分岐しているのでしょう。以前、貴方は明確に否定されましたが、私が「発言に臨む姿勢」云々と貴方のブログのコメ欄において尋ねたのは、そういった事項のことでした。私も説明足らずでしたが。


結論を申し上げます。私は「党派的な発想」全般を、この世で10番以内程度には好みません。「連帯責任」という言葉を、この世で5番以内程度には好みません。私は生来のそして生粋の個人主義者であり、価値相対主義者であり、事実認識と価値判断を(あえて整理的に)峻別したうえで、価値判断において任意の倫理的な位相を単一的な観点から導入すること自体に、原則的かつ基底的な違和感を、個人的には抱いています。とはいえ倫理問題以前に私は「真正バカ」を心底嫌いであり、そうした人間の発言ないし行動を支持した覚えは一切ありません。「党派性」に準拠して行動するよりは、便宜的かつ「機会主義」的かつ個別的かつ実際的な、暫定的野合をこそ私は意思的に選択し志向します。私個人はWebにおいて倫理問題を単一的な位相/観点において言挙げることに、意味を見出し得ません。「利さずに」「我々」「この手の人達」といった言葉を使用する人間の考え方が、そもそも私にはわかりかねます。


結局のところ、私は誰の代理人でもないし、任意の「党派」間の緊張関係については、そうしたものが存在するとして、少なくとも本件に関しては、意識においてはあえて意思的に関知しませんし、当ブログにおいてかかる傾向が明確に見出されたなら、明示的に排除しますし、そもそも、いわゆる「死ぬ死ぬ詐欺」と音羽さんをめぐる件については、現実においてもそのようになってはいません、ということです。というか、いわゆる「死ぬ死ぬ詐欺」と音羽さんをめぐる件に関して「党派」「政治的選択」といったフレームによって処理されかかる構図に準拠して判断されることに対しては、それこそ10月の時点から、議論にささやかながら参加してきた当事者のひとりとしては迷惑しています。むろん、個別的かつ相対的な、個々人の視座ないし視点の所在と選択の自由に属する事柄ではありますが、私個人の意思ないし感想については、あえて明記しておきます。


なお「なにをとりあげ何をとりあげないかに関して一貫した基準」を、確かに私は持ち合わせています。何であるか。11日付コメ欄において、記しました。

私は自らの意識に累の及ばない他を問い質す志向は、基本的には持ち合わせない。及ぶのであれば別です。貴方はそうした対象ではあります、敬意を込めて。


13日付エントリの掲示に際して、かかる私の「一貫した基準」を明示的に示すパフォーマティヴな意図が、存在しました。たとえば、MacacaFuscataさんは「そうした対象」です。totさんについては、当方に書き込んでくださるか否か、という事項に拠って判断します。繰り返しますが、私は、言って甲斐ないことは言わないし、言って甲斐ない相手に対しては言わない、Webでも実生活においてもまた。記して甲斐ないことも、記しません。物理的な限界性を前提としたうえでの現実的な最適解の模索の話です。私は、志向において、他を批判するのであるならことさらに、現実の特定個人による具体的な発言に準拠して、発言者に対して、あるいは発言自体への対応的な見解の提示として、なにがしかを記します。事実、「受賞」以降において、音羽さんに対して肯定的な内容を記していた、Schwaetzerさん以外のブログもまた、いくらかは存在しました。私が目を通した限りにおいては、Schwaetzerさん以外のブログエントリに記されている内容に対して言及する要を、あくまで私個人は、ということですが、感じませんでした。


むろん、音羽さんもまた「そうした対象ではあります、敬意を込めて。」。少なくとも、直接当方のコメ欄に書き込んでくる、すなわち独りで私に対して本名を記して直接言ってくる音羽さんは、私は好きです。ですから私も、その限りにおいては対応しますし言葉も記します。言って甲斐ある相手と思っていたし、おそらくは今も思っているということです。「為にする批判」を意図して、あるいはかかる意図に呼応して、音羽さんに対応した意思は、少なくとも私の側には、所在しません。


Apemanさん、貴方は枕詞のエクスキューズとでも思われているのかも知れませんけれども、私が貴方を尊敬申し上げている理由は、最近、貴方のブログのはてな別館のコメント欄においてbat99さんが記されていることに、多く尽くされています。


あえてそのたとえにのっかるなら… - Apeman’s diary

(前略)Apemanさんがしたいことは「ネット上で事実に反する言説が蔓延するのを防ぎ、騙される第三者が現れないようにすること」であると理解しています。無論私の理解なので、Apemanさんの本意とは異なっているかもしれませんが、(後略)


そしてApemanさんは、続く書き込みにおいて返答されています。

bat99さんが解説してくださっている私の意図は、少なくとも表向きのものとしてはその通りです。実際、そのように公言してもいます(もちろん“無意識の”意図を云々すればもっといろいろ言えるでしょうが)。私は文明社会の一員として、「作家」と名乗る人間が「相手は賊なんだから、本来国際法としては極刑が当たり前」などと生半可な知識を元に書いたりするのが許せん、ということですよ。


9日付エントリにおいても記したことですが、かかる点こそを最大の理由として、私はApemanというブロガーを尊敬申し上げています。そうした貴方の認識ないし姿勢に対して、私は全面的に同意する者です。そして、縷々記してきた事柄を理由として、私自身は姿勢においては貴方ほどには行動的になれません。ですから、11日付コメ欄においても記しましたけれども、あくまで貴方が、あるいは音羽さんが私に対して、かかる私の「資質」について批判されるのであるなら、私は認めるものですし、かかる指摘については甘んじて受け止めます。私は現行の「文明社会」を、全面的に肯定する世俗的な「文明人」でありスノッブという野暮天でもあるので。明記しますが、私もfw0さんもmuffdivingさんもまた、「党派的」な発想/判断を、あるいは「政治的選択」を動機/意図として、音羽さんの記事に言及したわけでも、またコメ欄に書き込んでこられた音羽さんに対応してきたわけでもありません。記録から判断してもおよそ間違いのないことと思うので、これは私の責において断定的に記します。


私もfw0さんもmuffdivingさんも、そして各々のコメ欄に書き込まれた方達におかれても、音羽さんを「レフト」として批判するような事柄を記した人は、こと「受賞」以前の段階においてはまずいなかった、「受賞」後もまた、私のブログにおいては同様でした。私がそのことをことさらには意識もしなかったためであるのかも知れません。対他的な言論ないし相互的かつ対立的な議論における音羽さんの不適格性とは、「政治的選択」の、まったくはるか以前に存在する不適格性であるからです。音羽さんの問題とは、貴方が言われるところの「党派」「政治的選択」の問題とはまるで関係がないうえに、その方面に対して波及するような事柄ではない。あくまで、個人のパーソナリティーを決定的な要因としている事項であって、そうした事項でしかないから。それは10月以降の事態における「当事者」の、大半に共有されている認識であると、私は考えていますけれど。


これだけ記してもなお、言い落としが無数にあるような気もしますが、きりがないので、とりあえず。Apemanさんによるレスを拝読してから、頭を整理したうえで考えます。なお当エントリの主旨自体が、私の一方的な誤読/誤解に基づくいわゆる「憶測メソッド」であるとApemanさんがされるのであるなら、その旨御指摘ください。私には、書き込みから伺える貴方の「意図」とは、そのようにしか読めませんでした。また、(一括掲示し損ねるほどの)大変な長文、及び掲示の遅延、本当に、失礼いたしました。そして、明記しておきます。今回私は、長文としての包括的な応答によって、対話を終結へと強制的に導く意図は、少なくとも私の側の積極的な意思としては、ありません。Apemanさんとどこまで話が通じるか、通俗的に表現するなら分かり合えるか、やれるところまでやってみようと思っています。『シム宇宙の内側にて』のfw0さんもまた、明確な「宣言」を昨夜、示されました。「いわゆる「死ぬ死ぬ詐欺」をめぐる事態」について、あるいは音羽さんについて、御意見や疑問の類として、sk-44に対して直接質したい事柄のある方は、当方に直接記していただけるなら(あるいはTBでも構いません)、ブログ主として、あるいは私個人のスタンスとして、これに勝る幸甚はありません。


ただし、御覧の通り現在の私は物理的な事情もあって、レスまでに大変に時間のかかる状況にあります。今年に入って、本件に関して大変に丁寧なメールをいただいた方に対してさえ、御返事をしたためることができていないというのが現状です(申し訳ありません、そして有難うございます。必ず御返事させていただきますので、お待ちください)。13日付エントリに書き込んでくださった皆様に対する個別レスについては、近日中に記させていただく予定です。申し訳ありませんが、書き込んでくださる皆様におかれては、その旨、御了承ください。それでは、失礼いたしました。明日は(というか日付においては思いっきり今日ですが)、zaikabouさんも観に行かれたという、東京都写真美術館細江英公展に逝ってくる予定です、たぶん(後記:無理と相成りました……泣)。